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日蓮大聖人・池田大作

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車軸  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

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1  一九四七年(昭和二十二年)――。
 この年は、国民にとって、敗戦の惨めさが一段と身に染みた年である。当時を生き抜いた人なら、誰の胸にも、恥も外聞もない最悪の生活に追いまくられた記憶が、まざまざと、よみがえってくるであろう。
 東京・上野の地下道にたむろしている多数の戦災孤児、あちこちの闇市の喧噪、道ゆく人の骨ばった青い顔、うつろな眼――人びとは、皆、利那主義、利己主義に陥り、雄々しい再建の息吹などは、見いだすことはできなかった。
 日本国中どこにも、楽土といえるところはなかった。ただ、闇成金だけが、幅をきかしていた。いかに人心が変わりやすいものであるかを、この時代ほど見せつけられたことはなかったのである。
 食糧の絶対量の不足のために、人びとは動物と変わりない本能を発揮して、その日、その日の食生活を切り抜けるために、血眼になっていた。
 食糧不足の原因には、農産物の不作、引き揚げ者による国内人口の急増、海外からの輸入の途絶などが重なっていた。
 米の作柄もよくなかったが、闇米の流通によって、農家からの供出米を十分に確保できず、麦やジャガイモなどの収穫も、良好ではなかったのである。食糧の配給は、全国的に遅れて、国民は日常的に飢餓状態にあった。
 政府は、食糧不足の打開に苦慮し、三月には供米促進対策要綱を、六月には食糧緊急対策を決定して、食糧の確保に努めた。
 しかし、結局は、占領軍に頼る以外になく、アメリカから、小麦粉、トウモロコシ粉などの援助を受けた。これらが配給されると、誰が考案したのか、手製の電気パン焼き器が流行し、多くの家庭で活用された。
 不足する米の配給を補うために、サツマイモやジャガイモ、果てはサツマイモの茎を粉末にしたものまで、配給量に入れられた。野菜や魚などの配給も、わずかなもので、そうしたものを入れても、一人当たり一日、せいぜい一二〇〇キロカロリー程度である。民衆は、空腹にさいなまれながら生活するしかなかった。
 人びとの間では、今回の太平洋戦争の時、フィリピンで飢餓地獄に陥った人が、人肉を食した話などが、実感をもって思い浮かべられるありさまであった。
 まさしく戦争は、極悪中の極悪である。罪のない国民までを道連れにし、犠牲にしていく戦争を、断じて、この地球上から除かなければならない。
 特に言えることは、戦争を勃発させた指導者は、大人たちであったということである。子どもには罪はない。食べたい盛りの子どもたちのことを思う時、大人は、この悲惨を阻止する責務があると痛感する。
 衣料も同じであった。戦時中に配給されたスフは、すぐ、よれよれになり、下着一枚が、実に貴重であった。フロックコートの上衣にカーキ色の兵隊ズボンの男性、セーターにもんペをはいた下駄履きの女性……。そんな姿で、丸の内の会社に出勤している人もいたのである。
 だが、誰もおかしく思う人はない。思い思いに工夫した服装は、極めて独創的な組み合わせになっていた。この時代くらい、服装というものが、皮肉にも画一化を免れ、気兼ねせずに自由であったことはないであろう。
 しかし、美しいものを着たい、良いものを着たいというのは、若い女性の本能である。また、親たちが、短い青春時代の娘に、せめて美しく着飾らせたいと思うのも、親の情からいって当然であろう。しかし、何一つとして満足させられなかった。
 戦争は、より多く女性が苦しみ、より多く女性が悲しむのである。女性を守るためにも、絶対に戦争は避けなければならぬ。このことは、平和な時にこそ、声を大にして叫ぶべきであった。
 住宅難も、言語に絶した。当時の都会は、戦災や強制疎開で家を失った人や、復員兵、引き揚げ者など、住居のない人で、ひしめき合っていたのである。
 やむなく防空壕の住居や、焼けトタンで作った雨漏りのする家に住み、およそ文明とは懸け離れた暮らしをしている人たちが数多くいた。
 彼らの家では、六畳に老若男女が十人も雑居したり、四畳半に六人もの人が住んでいることも珍しくなかった。
 政府の住宅施策は、これまた、ほとんど皆無であった。増加する人口には、とうてい追いつけず、わずかばかりの応急住宅なども焼け石に水であった。
 人びとは戦争を欲せず、否、戦争を憎んでいたのに、生涯をかけ、尊い汗で築いた家も財産も、灰燼に帰してしまったのである。これほどの落胆も、悲劇もあるまい。この人たちのためにも、断じて戦争はあってはならない。
 交通難にいたっては、まさに地獄そのものであった。通勤電車や列車の満員は、むしろ当たり前のことである。それでも乗れれば、まだよい方だった。真冬になっても、窓にガラスが入らず、板を打ちつけた暗い車両もあった。遠距離の交通には、乗車制限も行われ、会いたい人にも自由に会えず、用事もすべて不便をきたしていた。
 一枚の切符を手に入れるのに、長時間、各駅の窓口に列をつくった。切符を手に入れるまでの時間の方が、乗車時間より、はるかに長い場合もあったのである。
 都会の闇市に行くと、金さえあれば、どんな食糧でも手に入った。地獄の沙汰も金次第ということが、この時代ほど、人びとの心に焼き付いたことはない。しかし、大多数の人びとは、その金そのものがなかったのである。インフレの高進は、貨幣価値を見る見る下落させていった。
 少数の闇成金を除いて、全国の家庭は、毎月、おそるべき赤字を出していた。たとえば、全国消費者米価を見ると、終戦の一九四五年(昭和二十年)を一とすると、わずか二年後の四七年(同二十二年)には、二十五倍以上となっている。さらに一年たつと、六十倍以上にはね上がっている。賃金の値上げがあったといっても、この上昇比率には、とても追いつくものではない。
 各家庭の赤字補填には、やっとの思いで保存してきた衣類や、物品があてられた。つまり、もっぱら売り食いするしか方法がなかった。闇物資を入手しないことには、生命の維持は困難だったからである。社会生活の不安は、募るばかりであった。
 食糧の確保が、日々の生活の最大の問題となり、闇米を、たとえ非合法手段によってでも買わなければ、死ぬよりほかはない。まさに一億総闇屋という時代であった。
 このような時代にあって、法治国として法律を遵奉するのは、国民の義務であるとして、ある真っ正直な教授と裁判官は、自ら闇買いを一切拒否した。その結果、遂に餓死するという事件も起こった。
 その裁判官は、日記にこう書き残している。
 「食糧統制法は悪法だ。しかし法律としてある以上、国民は絶対にこれに服従せねばならない……自分は平常、ソクラテスが悪法だとは知りつつも、その法律のためにいさぎよく刑に服した精神に敬服している……敢然ヤミと闘って飢死するのだ。自分の日々の生活は全く死の行進であった」
 死の行進は、弾丸の飛ぶ戦場にだけあるのではない。日常の平和であるべき平凡で正直な生活まで、法律を守れば、死の行進となっていたのである。当時の国民生活が、いかに異常なものであったか、その一面を鋭く物語っているといえよう。かろうじて餓死を免れたのは、闇買いという流通機構が、法律の目を掠めて、公然と存在していたからである。
 このような状態のなかで、戸田城聖とその門下生は、講義に通い、各所で座談会を開催し、折伏に飛び歩き、さらには地方指導にも参加した。こうした実践は、極めて至難なことであったにちがいない。どんなに勇気と努力と、はたまた強い信念とを必要としたことであろうか。おそらく今日の時点では、誰も想像できないほどの困難なことであったろう。
2  戸田城聖は、こうした乱世の様相を「立正安国論」を通して、深く洞察していた。そして、大聖人の論じられた七難が、今は逆次に起きていると考えた。
 その七難の最後の二つの大難は、「自界叛逆の難」である。そのうち、最悪の「他国侵逼の難」は、一九四五年(昭和二十年)の八月十五日、未曾有の敗戦と連合軍の進駐とによって、その極点に達したといえよう。そして今、その難は逆次に進んで、「自界叛逆の難」の様相を帯びてきた。自界叛逆とは、内部抗争のことであり、仲間同士の対立である。大きくいえば、国民のなかの絶え間ない争いである。
 ある家庭では、食べ物の恨みから、殺人事件さえ起こしていた。電車の中では、必ず乗客同士が大声でわめき合っている。
 経済界を見ても、各会社は、労資の争いから生産を忘れてストライキで対峙し、互いに骨身を削っていた。
 各政党は、内部紛争を繰り返し、混迷の様相を呈していた。この困難に直面しても、政治家たちは、国民の窮乏をよそに、派閥争いに明け暮れ、政権の座は揺れに揺れ動いていた。
 結局のところ、人びとは互いに信頼を失い、裏切り合うことによってしか、己の生活を確保することができなかったのである。
 さまざまな集団も、例外ではなかった。程度の差とそあれ、自界叛逆の様相が現れ始めていた。既成宗教も、新宗教も、それぞれ内部の紛争が続き、特に新宗教にいたっては、それが分裂して、別の新しい宗教法人を結成していくことになるのである。
 戸田城聖は、思索を重ねていた。
 ″創価学会の前進と建設は、日増しに大事になり、かつ責任を増していく。創価学会の組織は、いかにあるべきか……″
 いろいろな団体の分裂の現象を目撃するごとに、これを周囲の幹部たちに語り始めたのも、このころであった。
 「今の世の中で、いかなる集団でも、『自界叛逆の難』は免れがたい。それには、いろいろ原因もあろう。だが、その根本原因は、正法誹謗にあるのだ。
 この難を免れることのできるのは、おそらく創価学会しかないだろう。理由は簡単だ。正法を奉持している、唯一の団体だからです。正法護持ということが、根幹の車軸となっているからだ。
 したがって、学会という車輪が、いかに巨大になり、遠心力や加速度が加わって、どんなに大きく回転しようと、車軸が堅固であれば、何も心配はない。
 今、ぼくは、この車軸を、ダイヤモンドのように硬く、絶対に壊れない車軸にしようと、一生懸命なんだよ。それには、所詮、強盛な信心しかない。
 さまざまな団体や教団が、派手に動き始めているが、そんなものに目をくれではなりませんぞ。いずれ、みんな行き詰まるか、分裂するかの宿命にある。自界叛逆の難が、避けられる道理がないからだ。分裂は、避けることのできない必然的な宿命だよ。
 学会も、将来、大発展すると、多数の力ある指導者が活躍するようになる。それを見て、外部の連中は、妬みや策略から、『必ず分裂するだろう』『派閥ができた』などと言うだろう。だが、そんなことに紛動される必要は、全くない。あくまでも正法根本、信心第一でいくならば、広宣流布のその日まで、人びとには、とうてい考えられない強い団結と、潤いのある同志愛で進んでいけるんです。
 なんといっても大事なのは、幹部であり、信心だよ。大聖人様から叱られないように、お互いに常に自覚して、ひたすら広宣流布達成に邁進していくことだ」
 幹部たちには、戸田の、あらたまって言う、こうした話が、なぜか不審に思えた。彼らは、″今の創価学会に、分裂などあるはずがない。だいいち、それほど膨大な組織でも決してない。戦時中、壊減状態になったのは、軍部政府の弾圧のためであり、学会の責任でもなければ、内部分裂によるものでもなかったはずだ″と考えていた。
 戸田は、不可解そうな顔をしている、みんなを見ながら、苛立ってきた。
 「君たちは、ぼくが、今、言っていることが、わからんかもしれない。しかし、よく覚えておきなさい。
 もし仮に、創価学会が、根本の使命を忘れ、分裂するような気配が生じたら、即座に解散します。
 毛筋ほどでも、ひびが入ったとしたら、ダイヤモンドの車軸はどうなる。既に車軸としての働きは、全くなくなってしまう。われわれの学会は、車軸そのものが、全然、他の団体とは違うのだ。
 仏法では、団結を破る者を破和合僧といって、五逆罪の一つに数えている。学会は、正法を持った純正唯一の教団であるがゆえに、御金言通りの団結が、必ずできるのです。
 名聞名利を願う幹部や会員が、出てくることもあるかもしれない。しかし、考えがあまりにも低いために、学会の崇高なる大使命がわからず、いつかは行き詰まる。
 また、団結、団結といくら叫んだからといって、それで団結が固くなるものではない。それには、車軸が金剛不壊でなければならぬ。純粋にして強い信心だ。幹部の自覚と、使命感だ。一人ひとりが、自分の力を最大に発揮して、目的のために、強く伸び伸びと前進していけば、おのずから固い団結がなされていくものです。
 そうすれば、この世で恐れるものは何もない。『異体同心なれば万事を成し』だよ。異体とは、各自の境遇であって、自己の個性を最大限に生かす生活。同心とは、信心、そして広宣流布という目的への自覚!――これだ。ぼくをはじめ、全員が、大聖人の御聖訓のままにいくんだよ。これが学会精神だ」
 戸田は、ここで言葉を切って、何かを仰ぎ見るように、顔を上げた。血色のよい頬ではあったが、表情は意外に厳しい。
 「ぼくは、重ねて言っておく。将来の発展のためと、発展してから、その先のことまでを考えてだ。諸君は、幹部として、あくまでも学会の車軸であることを自覚してもらいたい。みんな、一生懸命に信心していると思っているだろうし、事実、そうだと思うが、重大な使命をもっ学会のなかで、自分の使命というものが、何かということを忘れてはなりませんぞ。
 つまり、わかりやすく言えば、ぼくと諸君との間に、毛筋一本でも挟まって、余計な摩擦があれば、学会の車軸は金剛不壊ではなくなるのだ。……ここのところがわかるかな。学会の車軸を堅固にしていくには、皆が、一生涯、今までよりも、さらに堅固な、強い信心を貫いていかなければならない。
 真の団結というものは、人の意志や心がけだけで、できるものではない。御本尊に対する、純粋で強盛な信心を貫き通す時に、その信心の絆で、自然と固い団結ができるのだ。ここが、利害を基にしたほかの団体とは、根本的に違うところだ。
 利害で結ばれた団結は、必ず分裂する。利害以外に、何ものもないのだから。だが、ぼくらの団結には、断じて分裂はない。もし、団結が不可能になったら、それは即壊滅を意味する。
 創価学会というのは、仏意仏勅によって生じた団体なるがゆえに、君たちの想像以上に、すごい団体なのだ。これを見事に回転させ、発展させるのは、車軸である。したがって、金剛不壊の車軸を、どうしても、つくらねばならない時が来ている。諸君は、この立派な車軸の役割を担ってもらいたい。……いいかい、いくらかわかったかな。……わかってくれよ」
3  戸田が異体同心の団結の重要性を語ったのは、西神田の本部で、幹部会が行われたあとのことであった。そして、皆が解散したあと、幹部数人が残って、この話を聞いていたのである。
 語気鋭く語る戸田城聖の声を、幹部たちは、深刻な思いで聞いていた。しかし、考えてもいなかった話なので、戸田の言葉を、心から理解するには、いたらなかった。
 戸田は、「根ふかければ枝しげし」の道理にしたがい、立派な大樹の根をつくることに懸命であった。根が弱く小さければ、決して枝も花も盛んになるわけもなく、永続性のないことを知っていたからである。
 彼はまた、こう考えていた。
 ――誤れる宗教は、教祖だけが悟りを得たように装い、他の信者は、いつまでも無知暗愚として取り扱われているのが常である。信者は、教祖の奴隷に似ている。
 正法は、真実の師弟不二を説き、弟子が師と共に進み、かつ師以上に成長し、社会に貢献していくことを指導する。
 前者は、不合理であり、俗にいう宗教のための宗教、そして企業化した宗教である。後者は、生きるための源泉であり、生活法である。矛盾のない哲学が裏付けとなっている。
 仏教といえば、往々にして高遠で霧に包まれたような、難解なものとされてきた。しかし、正法である妙法の眼を開いて見れば、最も身近な、絶対の幸福確立法であることが、はっきりとわかる。
4  戸田は、弟子たちに、未来へ向かって、正法を根底として、あらゆる指南を開始したのであった。一本の枝から、大輪の菊の花が咲き、小さな一塊の球根から、美しい水仙の花が開くように、学会は、妙法の信心の一念によって発展し、さらに社会にあって、近代的な新社会建設の花を、爛漫と咲かせていくであろうことを、彼は確信していたのである。
 「わかってくれよ」と戸田に言われた時、幹部たちは、自分たちが、いまだ不甲斐ない、未熟な弟子であることを、しみじみと知った。ある人は、それを恥じ、ある人は、戸田の心中を察して、緊張した顔になった。
 「今夜、諸君に語ったことは、今にわかる。諸君が、それぞれ責任ある地位について、大勢の学会員のために、身を挺して戦わなければならない時が来る。その時に、いやでもわかるようになる。
 これが、創価学会の組織論の根本だ。……今夜は、やかましい話をしたようだが、大聖人の弟子として、勇敢に前進していくならば、その人は、まさに金剛石だ。だが、金剛石は磨かなければ、それが金剛石であることすら、わからんのだ。
 真剣勝負で、信心を磨くことだ。そうすれば、無量の福運を積むことは、間違いないよ」
 静まり返っていた人びとは、ここで初めて口を開いた。
 「はい」
 「はい、わかりました」
 戸田の顔にも、やっと微笑が浮かんだ。
 「どうだ。今夜は焼鳥で一杯やるか。みんな来たまえ」
 初秋のさわやかな夜の街に、彼らは足を向けていった。
 恩師・牧口常三郎の亡き後、戸田城聖一人が、車軸であったことは言うまでもない。しかも、それは敗戦後に残った、たった一つの車軸なのであった。
 この孤独な車軸は、広宣流布への偉大なる活動を推進するために、その組織が、軍隊や労働組合や、その他あらゆる組織と、本源的に全く異質でなければならないことを知っていた。前代未聞の組織でなければならないと、考えていたのである。
 戸田は、あるべき組織について、さまざまに思いをめぐらせていた。
 組織といえば、人体こそ、最高に完壁な組織体である。また、およそ社会機構というものは、すべて組織によって成り立っている。組織は、時代の要請であり、必然でもある。ゆえに、組織は、その団体の目的、使命達成のために、より価値的に、より効果的に、指導・伝達の徹底がなされ、共に全員が、その恩恵に浴し、幸福になるためのものでなくてはならない。
 今夜、初めて、彼は未来への思索の過程から、その一部分をもらしたのであった。しかし、幹部たちの理解の仕方は、あまりにも遅い。彼は、自己の孤独を、また自覚せざるを得なかった。
5  この一九四七年(昭和二十二年)の夏、総本山での夏季講習会には、約百人が参加し、前年の三十余人に比べて、三倍以上の躍進をみていた。九月の法華経講義は、第五期となり、受講者は、かなり増加していた。これらは皆、弘教の成果が、上昇のカーブを描いていったことの表れといえよう。
 しかし、このように躍進をすればするほど、それにふさわしいだけの車軸の堅固さが要求され、それが学会の最も重要な鍵となってくる。戸田は、現在まだ、未熟で脆弱な車軸について、考えていかねばならなかった。
 十月十九日に、神田の教育会館で開催された第二回総会にも、その傾向は表れていた。参加人員は、前年の第一回総会をはるかに上回り、盛大ではあったが、なぜか手応えは、期待したほどではなかったのである。
 午前九時から午後四時まで、二部に分かれての総会は、時間が長かったせいもあってか、会場には疲労感が漂っていた。それは、第一回の時の、あの牧口会長追悼法要がなく、やや緊張感が薄らいでいたためかもしれない。
 しかし、組織の糸は、この一年間に、全国的に伸びていたはずである。それは、三島由造理事の、冒頭の経過報告によっても、明らかに知ることができた。
 「本創価学会は、現在、本部においては、総務部、教学部、情報部、青年部、婦人部、財務部の六部に分かれて、おのおのその役割を遂行しております。
 支部としましては、東京都内に十二支部、地方に十一支部、それぞれ月一回以上の座談会を開催して、信心の強化を図るとともに、折伏に邁進しております。
 それでは、ただ今から、昨年十一月十七日、再建第一回総会以後、行われました、主たる行事の経過報告をいたします。
 まず、法華経講義でありますが、この講義は、咋年元日より開始され、本年九月には、第五期が新規に開講されました。毎週月、水、金の午後六時から八時までのこの講義は、受講者は目下五十人内外に及んでいる現況であります。
 遠くは神奈川県の茅ケ崎、平塚より通ってくる青年男女、あるいは相模原より道を求めてくる青年、また埼玉県の志木方面より通ってくる青年たち、熱意あふれる求道の同志は、日本正学館の階上の本部を埋めております。戸田先生の、心の底よりほとばしる師子吼に、青年たちは、広宣流布の礎石たらんと、続々と集い、優秀なる幹部が養成されつつあります」
 三島は、このあと、地方支部の活動状況を語り始めた。
 ――諏訪支部は、戦時中疎開した松崎英三から連絡があり、昨年十一月から二回、本部から数人の幹部が派遣された。なお本年八月末、戸田理事長の指導の結果、二十人ほどの同志を擁する支部となり、明るい発展の兆しが見えている。
 伊豆下田方面の伊豆支部は、本年一月、戸田理事長をはじめ、六、七人の幹部の派遣によって、現在では、数十人の新しい会員が、真剣に信仰に励んでいる。
 伊東支部は、四月以来、本部から、毎月、幹部が派遣され、座談会が常に盛大に開かれた結果、数カ月を経ずして、三十人以上の新入会員を見るにいたっている。
 九州方面は、福岡、大分両県に、本年一月、本部から三人が指導に向かったが、久しく低迷を続けてきた地方であり、その指導は困難を極めていた。しかし、これを契機として、最近は活発な活動に入り、今後、大きく発展することが予想されるにいたっている。
 那須支部は、昨年九月、戦後最初の地方指導が行われた地でもある。中心者・増田一家の真剣な信心は、地域に仏法対話の輪を大きく広げていた。
 桐生支部でも、戸田理事長以下数人の幹部が訪れて以来、講演会や座談会を盛大に催し、その結果、有能な闘士を輩出するような動きとなってきた。
 このような地方支部の状況に対し、都内の現況は、どうであったか。
 城南の蒲田支部は、戦前の学会の最盛期より、はるかに活発の度合いを増し、千葉県・浦安、埼玉県・志木に、二つの新しい支部を生むにいたった。
 足立支部も、新幹部の輩出によって、埼玉方面、青森方面にも、折伏活動を拡大しつつある。
 本所支部は、一面の焼け跡のなかでの弛まざる努力の結果、支部創立の運びとなったものであり、純真な新会員によって、発展の機運をみなぎらせている。
 経過報告は、各支部の名をあげて詳細に行われた。まだ支部としては微弱なものであるが、幹部の陣頭指揮による開拓によって、広宣流布への布石が、少しずつ打たれていたのである。
 この報告は、創価学会の一九四七年(昭和二十二年)当時の姿を、まざまざと想起させるが、戦前の創価教育学会の最盛時に、どうやら戻ったと思われるのは、わずかに蒲田支部だけであった。
 経過報告は、一通り立派なものであったが、力ある人材のいないことは、戸田自身が知悉していた。
 確かに規模は全国的になったとはいえ、事実は、力強い、はつらつたる萌芽の力が、なぜか之しい感があったといえる。
 戸田城聖は、このような一般の状況を、誰よりも明らかに見ていたが、それとともに、学会組織の根本である車軸を、自ら厳しく点検していたのである。
 彼は沈痛な思いで、三島の報告を聞いていた。
 多くの幹部は、全国に及んだ発展の経過報告に、自分たちの努力が大きな成果となって実を結んだと喜んだ。確かに、彼らの努力の賜物である。だが、各地方の会員による自発的な活動も、見過ごすことはできなかった。
 経過報告は、最後に、この夏の五日間にわたる夏季講習会が、学会の前進に大きな意義を刻んだことを述べて終わった。
 次に体験談は、十数人にものぼった。
6  この日、水谷日昇が、法主となって初めて総会に出席したほか、堀日亨、堀米泰栄、細井精道らも壇上に席を連ねた。そして、それぞれ講演をしたのである。
 総会で日昇は、広宣流布の時代がいよいよ到来したことを訴えるとともに、話は総本山の現況にも及んだ。
 「既に、皆様もご承知の通り、一昨年は総本山未曾有の災厄に遭遇し、これが復興の大業に迫られつつある折柄、今回は、さらに農地法の実施に伴い、過去数百年築き上げた総本山の田畑等は、ことごとく、皆、その対象として、買収せられることとなり、今や、文字通り丸裸とならざるをえない時艱じかんに直面いたしました。
 これしかしながら、宗祖大聖人様の往時を回顧すれば、むしろ、当然すぎるほど当然とも言えましょう。一切は無でありますが、独り宗祖大聖人様の教法だけは、厳然として、この濁悪なる世相の変転を熟視せられておられます。
 私ども宗徒は、今こそ平素の信条を最高度に発揮し、宗門再興と国家再建のため、最善の奮闘と努力を傾けられんことを切に希望いたします」
 戸田は、日昇の講演に心を痛めた。日昇の心痛を、何から何まで手に取るように察することができたからである。
 七百年来、かつてない総本山の困窮の事実を、彼はことごとく知っていた。戸田は、再建すべき最高の責任を自覚していたのである。
 日昇は、最後にこう言って話を結んだ。
 「この秋に際し、宗徒諸氏には相倚あいより、相励まし、常に教学の研績と仏教の振興を計られ、仏祖三宝の御冥助の下に、一天広布の日の速やかならんことと、あわせて本学会の発揚を衷心より念願、熱祈してやまざる次第であります。
 終わりに、会員諸氏のご健康を祈ります」
 戸田は、席から立ち、日昇に深く頭を下げた。彼は、心の奥で、総本山の再建を誓っていた。
 次いで、堀日亨は、松尾芭蕉の俳詣運動から話を始めた。
 ――芭蕉は、生涯をかけ、当時、天下を風靡していた談林派の愚俳を掃蕩して、蕉風(正風)を起こし、先駆者として目的を達成し、以来二百年にわたる俳道を樹立している。しかるに、わが宗門は、宗祖大聖人より七百年を経過し、法灯は続いて現代に至っているが、正しい方法で、正しい道を説いているためか、時が来ぬのか、いっこうに広まらず、したがって宗門も振るわない、と嘆いた。
 そして日亨は、「今とそ折伏行に蓮進されんことを望む」と話を結んだ。
 戸田の胸には、日亨の言葉も、深く強く響いた。彼は、広宣流布の前途は、彼一人の双肩にかかっていることを、あらためて自覚せざるを得なかった。
 この総会で、戸田は、午前と午後に、講演をしている。午前の講演は、三世にわたる永遠の生命観が、正法の大前提であるという意味のものであった。戸田の話は、仏法の真髄に触れ、人びとに多大な感銘を与えた。
 「日本国再建の根底に、私は三世の生命観を説き明かした仏法の真髄を置かねばならないと、強く主張してやみません。
 それは、正法により、因果の理法の厳然たる存在を知ることができるからであります。この原理によらずして、もはや日本民族の興隆も、未来の平和への方途も、決まらないのであります。
 仏法哲学の基礎にあるのは、生命の因果律であります。釈尊は、これを悟って仏となったのです。したがって、われら仏法を信ずる者は、この生命の因果律を信じなければならないのであります。
 しかし、釈尊が法華経以外の経典において説いた因果律は、大聖人が『常の因果の定れる法なり』と仰せのように、いわば人間道徳の基本とすべき、当たり前の因果の教えであり、仏法の極理から見れば、まだまだ低い因果律です。
 この因果の法理すら信じられない人びとが、なんで久遠の生命を信ずることができましょうか。また、地涌の菩薩の自覚が、どうして生まれてまいりましょうか」
 彼はさらに、釈尊の法華経が、経文中、最高の理念を説いたものであり、低い因果の理法を破り、さらに深い本源の法ともいうべき、本因本果の妙理を現していることを述べた。だがそれも、所詮、釈尊の立場からの近因近果の法にすぎず、末法の凡夫にとっては、単なる理念にすぎないと説明し、大聖人の仏法の真髄は、次のようなものであると述ベた。
 「われわれ末法の凡夫にとっては、釈尊が説いた近因近果の理法を叩き破って、久遠の仏身を開覚する法が必要となってくるわけであります。この必要に応えて、実際生活において、過去世からの因果を叩き破って、久遠の命に立ち返り、よき運命へ転換することのできる法を確立されたのが、日蓮大聖人様であります。
 すなわち、大聖人様が、『日蓮がたましひすみにそめながして・かきて候ぞ』と仰せになって、お認めの御本尊に帰依し、南無妙法蓮華経と唱えることによって、大聖人様と信心の血脈が相通じていくのであります。
 そこにおいて、過去世の因果が、皆、消え去って、久遠の凡夫が出現するのです。すなわち、自身の生命に、久遠の仏を覚知することができて、よりよき運命への転換ができるのであります」
 戸田は、コップの水を一口、ぐっと飲むと、さらに話を進めた。
 「久遠の仏というと、えらく難しい言葉に聞とえますが、久遠というのは、″もとのまま、何も立派でない、ありのまま″ということです。仏とは、命でありますから、自身の命を、″もとのままの命″と悟る時に、途中の因果が、一切、消え去って、因果倶時の仏が胸中に涌現してくるのです。
 釈尊の仏法であれば、過去世の正法誹謗という最も重い宿業は、来世まで永劫の時間を費やして、少しずつ消していく以外にないのでありますが、御本尊を拝して、胸中に久遠の仏を涌現していく凡夫は、すべての宿業を、この一生のうちに軽く受けて、生命を浄化し、人生を輝かしていくことができるのです。
 したがって、いかなる難がありましょうとも、この難は、久遠の仏を開覚するための修行であると心得て、決して信仰の道に迷ってはなりません。
 一切が御本尊様の仰せと、喜び勇んで難に赴かなくてはなりませんぞ」
 当時の戸田城聖の思索の深さを、まざまざと思わせる講演である。
 彼は、現代における正しい信心の道が、どのようでなければならないかを、荒廃した人びとの心に教えたのである。
 信仰とは、俗にいう諦観ではない。修養や気休めのものでもない。空漠としたものへの求道心でもなく、ましてや現実からの逃避の道でもない。正しい教えを根本とした、正しい実践による信心によってのみ、宿命を打開することができる――そう戸田は説いていった。
 彼は、人びとに真の所願満足の境涯を与え、生活の価値創造を指導したかったのである。それには、一生涯、強盛な信心を貫く以外にないことを訴えたのであった。
7  戸田城聖の午後の講演は、「学会の使命について」と題するものであった。
 彼は、殺伐たる社会世相の推移を説き、そのなかで苦悩に沈む民衆を救うためには、ただ一つ、大聖人の仏法を教えていかねばならないと力説。それによって個人を救済し、日本民族、いな全世界の衆生をも救おうと講演した。
 そして、彼が獄中において、凡身に仏を感応し得た大果報を喜ぶとともに、この喜びを悩める人びとに分かち与えることは、当然のことであると話した。
 「……この当然の行為は、すなわち、われわれをして仏の使いたらしめるのであります。さればまた、仏から遣わされた者として、慈悲の袋に救いの源泉を包んで人びとに与えること、これを折伏というのであります。
 折伏こそ、学会の使命であり、信条なのであります。されば、われわれは仏を感得しうる大果報の人であるとともに、世の中にその大確信を伝えなくてはなりません。
 仏に貧之があってなるものですか。仏が、三世の仏菩薩、諸天善神に守られなくて、なんとしましょう。現世は、必ず安穏であることが疑いないのであります。
 されば、仏の使いの集まりが学会人である、と悟らなくてはなりません。迷える人びとを、仏の御もと、すなわち御本尊の御もとに、案内する者の集まりであることを知らなくてはなりません。
 このためには、決して、信仰や折伏を、自分の金儲けや、都合のために利用してはならないのであります。仏罰の恐ろしさを知るならば、そんなことは決してできないのであって、世にいう悪事などより、はるかに悪いのであります」
 戸田の話は、いつか叱時するような調子になっていた。そして、厳格であった牧口を思い出したのか、生前のことに話は移っていった。
 「宗教革命に立ち上がられてからの牧口先生は、悪口罵詈、誹謗にさらされ、それが、あたかも先生の人生のすべてでありました。そのなかに、なんら恐るるなく、正法流布のために、平穏な日など、一日としてなかったのであります。
 しかも、軍国主義の横暴と、時の警視庁の小役人の無知蒙昧から、遂に牢死までなされて、御仏に命を捧げた方であります。
 されば、その後を継ぐわれわれも、三障四魔紛然として起こるとも、恐るるなく、三類の強敵、雲のごとく集まるも、大聖人の御言葉を信じ、霊鷲山会に参ずる時は、三世常恒の御本尊に、胸を張って御目通りのかなうよう、互いに努めようではありませんか!」
 まさに師子吼である。聴衆は深い感動を受けた。
 最後は、学会歌の合唱である。「同志の歌」が歌われた時、戸田は、ひそかに涙をぬぐっていた。そして彼は、今日の総会が、予期に反し、非常に重い空気の総会であったことに、心を痛めていたのである。何か得体の知れない惰性のようなものが忍び寄って、この総会の回転を重くしているようであった。
 彼が、車軸のことに思いをいたして、身近にいた幹部に語ったのは、一カ月余り前のことであった。彼の予感は、総会に的中して現れてしまったのである。
 彼は、現在の車軸を構成する一人ひとりについて、考察せざるを得なくなってきた。そして、総会に罪はなく、車軸に問題のあることを悟ったのであった。
 かつての創価教育学会は、現在の創価学会へと見事に脱皮したと、彼は思っていた。確かに彼自身は、既に戦前の戸田ではなかったが、彼を取り巻く最高幹部は、皆、牧口会長を取り巻いていたのと、同じ幹部であった。敗戦という一大転換期を迎えても、彼らの信心、目標は、往年の惰性を打破することができなかった。その根底にあるのは、仏法でいう元品の無明である。
 経済人グループの四人の理事たちは、学会が、かっての最盛期に近くなるにつれ、戦前の経験と惰性で、一切が処理できるものと高をくくっていたようであった。惰性は既に保守であり、保守は人を腐らせていく。そこには既に使命感もなく、たくましい建設と開拓の精神は薄れていた。
 原山、小西、清原などの新進の幹部も成長し、活躍し始めてはいたが、学会組織が新陳代謝するまでには、いたっていなかった。
 戦前からの理事たちは、なんといっても弾圧の折、獄中で退転状態に陥った前歴をもっている。戸田の思いやりが、彼らを再起せしめて、理事に復活させたのであるが、再建が、ひとまず軌道に乗ると、ようやく彼らの信心は限界を露呈するようになってきた。しかも、これらの人びとが、最高首脳部を構成していた。
 これらが、今度の総会の姿となって現れたのである。戸田の悩みは深かった。新進幹部の成長を、彼は辛抱強く待たねばならなかった。
8  戦前の創価教育学会の活動と、戦後の学会の実践活動の相違点の第一は、法華経講義と、青年部の他宗破折であった。
 法華経講義は、後年は御書講義に移り、学会精神の骨髄となっていった。
 戸田は、教学、理念のない教団が、いかにもろく、はかないものであるかを、戦前の経験によって、よくわかっていた
 そこで彼は、日蓮大聖人の仏法には確固たる理論体系があり、信心の裏付けには教学が絶対に必要であって、理論は、また信心を深めていく、という道理を力説していた。
 「信仰は理性の延長である」という箴言もある。
 戸田はまた、勉強しない者は戸田の弟子にあらず、と常に指導していた。そして、創価学会と、仏法哲理の片鱗も知らない、誤った教えの宗教とを同一視することは、獅子とネズミを対等に考えるようなもので、全く的外れも、はなはだしいと語っていた。
 「創価学会は、日蓮大聖人の御書を根幹とし、それに基づく教学の体系がある。学会を批判する学者は、それらを勉強して、しかる後に批判すべきである」と言って、毅然としていた。
 次には、青年たちの訓練である。
 戦前の学会は、特に壮年たちが中核であり、次代の青年に対する指導がなかったとさえいえる。
 戸田は、青年たちの育成に力を注ぎ、教学を若い生命に打ち込んできた。すると、心はやる青年たちは、勇んで他宗破折を始めたのである。
 それは、他宗教の実態、そして大聖人の仏法の正しさを、実践を通して体得し、確信をつかむのに役立ったことは確かであった。
 また、若い彼らにとって、あちこちの教団の本部などに出向き、得々と説法する教祖たちを破折し、答えに窮する姿を見ることは、痛快事であったようだ。だが、その後、それらの教団がつぶれたという話は、いっこうに聞かなかった。
 ある夜、青年たちの有志は、戸田に質問した。
 「先生、今年は、ずいぶん、いろいろな教団と法論をやりましたが、さっぱり他宗の勢力は衰えません。衰えるどころか、ますます大勢の信者を獲得している教団さえあります。これは、いったいどういうことなのでしょうか?」
 戸田は、カラカラと笑いだした。
 彼らの純真さが、たまらなくかわいかったのであ
 「みんな不景気な顔をしているじゃないか。法論で連戦連勝して不景気な顔をしていては、しようがないな。
 君たちは、現代の法論というものが、どういう性質のものに変わってきているか、そろそろ悟ってもいいころだ。
 昔は、法論というと、互いに一切をかけてやったものだ。つまり、法論して負けた方は、勝った方の宗旨に改宗する。そして、その弟子になる。そういう約束のもとに、法論というものが成立していた。だから命がけであったし、それだけに自信をもっていたし、真剣であった。
 たとえば、御書には、伝教大師が桓武天皇の前で、善議や勤操など、南都七大寺・六宗の碩学十四人を相手に、公場対決したとある。『安国論御勘由来』によれば、十四人は伝教大師にコテンコテンにやられて、『自宗を破らるるのみに非ず皆謗法ほうぼうの者為ることを知る』ということになった。
 そこで桓武天皇から勅宣が下されて、六宗の最高権威者たちが責められたわけだ。『撰時抄』には、責められた彼ら高僧たちは、『帰伏の状』を書いて提出したと仰せになっている。
 帰伏状には、″天台大師の教えには甚深の妙理が説かれており、南都七大寺・六宗の者は、未だ見聞したことがなかった教えである。伝教大師が講義した最高、完壁な教えを聴いて、六宗の学者は初めて仏法の極理を知ることができた。今後、世の人びとは、この妙法によって速やかに成仏することができるであろう″と、伝教大師の教えを絶讃する言葉が連ねられている。これは有名な話だ。
 この時を契機に、伝教大師の比叡山が、日本仏教の中心になっていった。これをもって大聖人は、″法華経が広宣流布したといえるのではないか″と仰せになっている。
 平安時代は、約三百五十年聞にわたって、死刑が行われなかったことで世界的に有名だが、我が国の歴史のなかで、大変に平和な、しかも文化的な繁栄した時代が現出したんです。これは、過去における法華経が流布した時代の繁栄という、類例の一つと言っていいと思う。
 当時の社会は、貴族社会であり、さらに法も像法の迹門の時代であったから、天皇はじめ、社会の指導階層だけを指導することによって、個人も自由で幸福になり、全社会にも繁栄の指針をもたらしていた。
 青年たちは瞳を輝かせて、真剣な表情で聞いていた。
 「だから、今われわれが考える、全民衆を対象にした末法の広宣流布から見れば、根の浅いものであったことは、やむを得ない。また、何よりも重要なことは、伝教大師の精神、教えが、正しく弟子たちに受け継がれなかったことだ。それゆえに、三代の慈覚の時には、もう真言宗などを取り入れて、めちゃくちゃなものにしてしまった。
 これを大聖人様は、お嘆きになって、『三大秘法抄』に、こうおっしゃっている。
 『叡山に座主始まつて第三・第四の慈覚・智証・存の外に本師伝教・義真に背きて理同事勝の狂言を本として我が山の戒法をあなづり戯論とわらいし故に、存の外に延暦寺の戒・清浄無染の中道の妙戒なりしがいたずらに土泥となりぬる事云うても余りあり歎きても何かはせん』と。
 比叡山延暦寺に座主が置かれ始めてから第三代座主・慈覚、第四代座主・智証が、思いの外に本師の伝教大師、第一代座主・義真に背いた。そして『法華経と大日経とを比較すると、一念三千の理はどちらにも説かれているから同じであるが、大日経には印相と真言(呪)が説かれているから事において勝っている』という誤った言説を根本として、自分の比叡山延暦寺の大乗戒の道理を侮って、戯れの論と笑った。そのために、延暦寺の戒は、清浄で汚れのない中道の妙戒であったのに、思いの外に、いたずらに土泥となってしまったことは、言っても言い尽くせず、歎いても何ともすることができない――。
 だから、迹門の広宣流布の純然たる期間は、ほんの三十年そこそこであったが、その余光で、なお数百年の比較的平和な時代が続いたと考えられる。そのもとはといえば、伝教大師が六宗の碩学と公場対決して、法論に勝ったことにある。結局、法論のルールが、ちゃんと守られた時代であったわけだ。
 大聖人様も、公場対決を何度も幕府に迫った。『立正安国論』を、時の最高権力者であった北条時頼に提出したのも、″もし、この安国論が嘘だと思うなら、他宗の僧と公場対決させてみろ。はっきり正邪がわかるから″という熱烈な気迫で迫っているんです。
 ところが、当時の極楽寺良寛にしろ、その他の僧たちにしろ、法論をしたら、とても大聖人にかなわないことを知っていた。
 鎌倉時代といえば、もう末法に入っているから、人間もずるくなって、性質が悪くなっている。なんとか理屈をつけて、体よく法論を逃げていただけではなく、逆にいろいろな讒訴をして、幕府という国家権力を動かし、大聖人様を弾圧させた。実に陰険な、卑怯な連中だった。
 しかし、大聖人様は、良観らがどれほど策謀をめぐらそうと、あくまで公場対決を迫られたのです。
 公場対決というのは、いわば、世間に正邪の判定を問う言論戦です。正義は、武力では勝ち取れない。言論でしか、正義を天下に示すことはできないし、言論でこそ、人の心も動くからです。だから、蒙古が国書をもって日本を脅した時にも、あの痛烈な『十一通御書』を認められ、時の指導者、権力者に送られたんです。
 大聖人の『身の為に之を申さず……国の為・一切衆生の為に言上せしむる所なり』との叫びが、私の胸に響くんです。大聖人は、日本の人びとを守るために、また戦争を回避させるために、わが身の安全など、なげうって叫ばれた。すぐに武力を用いようとする今の革命家など、足もとにも及ばぬ、堂々たる御振る舞いをなされた。
 大聖人様が、法論を挑まれなかったならば、伊豆の流罪、佐渡の流罪といった、あのような御災難はなかったといってよい。結局、大聖人様の御一生は、常に公場対決を迫られたという御一生であったわけだ。
 しかも、その機会は、遂に一回もなく終わったのです。人間というものが、どんなに卑怯になり下がったかが、わかるだろう。それでも、まだ鎌倉時代は、法論のルールというものの厳しさを知っていたから、他宗の僧たちも逃げ回っていたといえる。そして、裏で陰険な好策を凝らしていたのだろう。
 ところが、現代の宗教界は、法論のルールもへちまも全くない。めちゃくちゃだ。いや、金儲けが大切で、だいたい信仰それ自体がない。人間も、ずいぶん性質が悪くなってしまったものだ。
 法論して負けたら、潔く相手の宗旨に改宗し、その弟子になるということなんか、遠い昔のお伽話になってしまっている。まさしく末法濁悪の様相だね」
9  戸田は微笑し、なおも青年たちに話し続けた。
 「君たちが、真剣にあちこちで法論をやり、相手はグウの音も出なくなって、明らかに君たちが勝ったと思っても、相手は決して『まいった』とは言わない。そういう恐ろしい時代なんだよ。
 こういう悪辣な時代に、本式の広宣流布をやろうとするんだから、容易なことではない。しかも、一部の指導者階級の意思で、世の中が動く時代でもない。主権在民だ。民衆の心からの声として実現する広宣流布でなければならない。だから、単純な運動ではない。われわれの宗教革命は、よほどの信心と勇気がなければ、とうてい遂行できない大偉業なのだ。
 昔流の法論形式や、その効果を期待したって、なんにもならない。人も、時代も、国も、濁りきっているのだから、仕方ない。法論ばかりじゃない。外交上の国家と国家との国際条約だって、そうじゃないか。不可侵条約なんて、反古のように破ってきたのが現代の歴史だよ。
 君たちが、他宗の連中は卑怯だ、けしからんと、いくら憤慨しても、広宣流布にはならないし、いくら連戦連勝が続いても、それだけでは、今の他宗は教えを改めようとはしないのだ。始末が悪いといえば、これほど始末の悪いものはない。結局は、一対一の折伏ということが、広宣流布達成の鉄則となるのだよ。これがまた、立派な民主主義のルールにかなった方程式ともいえるのだ。
 地道に見える進み方だが、最も堅実であり、この一波が二波になり、やがては千波、万波になっていって、初めて達成されるのだ。どうだね?」
 戸田城聖は、いつになく楽しそうに長い話をした。
 「まったく、ひどいものです」
 一人の青年が、ある教団の情況を語れば、他の青年たちも、ほかの教団の言語道断な実態を語った。そして話は、ひとしきり彼らの破折した教団本部の様子に移っていった。
 この時、また一人の青年が、学会本部となっていた日本正学館の二階の天井を見ながら、口をはさんだ。
 「しかし、どの教団も、建物だけは、結構、立派ですね。先生、創価学会も、せめて二、三百人は入る建物が欲しいですね」
 戸田は、その何げない一言に、急にあらたまった語調で言った。
 「大事なのは、建物より信心だよ。あちこちの教団の建物を見て、うらやんだり、卑屈になっているようでは、真の学会精神が理解できていないんです。特に今は、建物より人材が大事だ。広宣流布の途上、人のため、また社会を救うために、ぜひとも必要に、なれば、建物は、いくらでも同志の真心の結晶としてできていくだろう。また、広宣流布にぜひとも必要なものなら、御本尊様がくださらないはずはない」
 戸田は青年たちの顔を見渡し、壁から天井へと視線を注いだ。壁は古く、いたるところが、はげ落ちている。天井も煤けて、染みも目立つ。これ以上、質素な本部はないともいえる。だが、不思議に雰囲気は、いつも明るく、たくましかった。
 「今は、これで、結構、事足りているではないか。今の日本の姿は、この部屋より、もっと、もの寂しいはずだ。われわれは、日本の柱となって、日本の運命を背負っていくんだ。そして、この日本の運命を見事に転換させていくのが、学会の使命だ。
 まぁ、しばらく見ていたまえ。君たちは、建物などを、うんぬんすべきではない。自分自身を磨いていくんだ。大聖人様の哲理を夢にも疑わず、″広宣流布は俺がやる″という気概に溢れて、前進していくべきじゃないか。
 君らは、将来の学会の中枢じゃないか。金剛不壊の車軸となるんだ。末法では、いちばん尊貴なのは、妙法を持った人だと、御書にも説かれている。それなのに、本部が貧弱だから、入会者に体裁が悪いなどと考えるのは、若き革命児とはいえないよ」
 青年たちは、気恥ずかしそうに、戸田から視線を外さずにはいられなかった。
 人には、外見によって、その内容の優劣までを決定しようとする習性がある。会社なども、日本では、建物の大小や、従業員数の多寡によって、その内容を判断しようとする傾向がある。戸田は、外形や形式にはこだわらなかった。
 彼は、青年たちを見ながら笑いだした。そして、言葉をついで言った。
 「そんなことより、考えなければならないことがある。それは、総本山の客殿のことだ。終戦直前に焼亡したまま、二年半もそのままになっている。
 この聞の総会でも、現下のお話から、客殿を、なんとかしなければならないと、痛感した。
 本部は、今のところ、これでたくさんだ。戸田のいるところが本部なんだ。総本山の復興が完成したら、それから本部の建物に手をつければよい。その時までには、君たちも福運を積み、力をつけて、その穴の開いた臭い靴下で、畳を汚さないようにするんだな。近代的な、スカッとした建物ができた時には、それなりのパリッとした姿で、出入りしようじゃないか」
 彼は、愉快そうに笑った。
 青年たちも、どっと笑い声をあげたが、頭をかく者もあり、靴下を隠す者もいた。
10  一九四七年(昭和二十二年)の暮れ、日本列島を吹き抜ける風は、一段と寒さを増していた。そして、来る日も来る日も、厳しい生活の連続であった。
 戦後二年を経過したが、再建の曙光は、いまだ、その兆しさえも見えなかった。経済の危機は慢性化している。一億の国民は、生活難にあえいでいた。
 さらに不幸のうえに、不幸が重なった。
 九月十四日から十五日にかけて、本土を襲ったキャスリーン台風は、関東地方に未曾有の大水害をもたらした。だが、その応急策も立たず、寸断された山間の道路は放置されたままだった。政府はあっても、危機管理能力は、皆無に等しかったのである。
 激動する世界は、アメリカとソ連を軸とする両陣営の苛酷な対立、つまり冷戦という見えざる戦争に翻弄され始めていた。それは、まさしく暗闇へ世界を動かし始めた軸であった。明るい世界に導いていく軸は、どこにもなかった。
 そのなかで、この年八月十五日に、インドがイギリスの植民地支配から脱し、独立したことが、アジアの人びとにとっては、ほのかな希望となった。
 中国大陸では、日本の敗戦と同時に、国民党軍と共産党軍との内戦が始まっていた。そして、アメリカは、大量の兵器と軍事顧問団と、二十億ドルに上る軍事援助を、蒋介石(チアン・チエシー)の国民党軍に与えた。
 前年六月ごろから、国民党軍は共産党軍に対する総攻撃を展開し、年末までには掃蕩できる計画であった。当時、共産党軍兵力は百二十万、国民党軍は四百三十万といわれていた。しかも国民党軍はアメリカの多大な援助を受け、格段に優勢のはずであった。ところが、大衆は、長い戦乱にうんざりしていた。
 彼らは、内戦に反対し、国民党の腐敗と独裁とを非難したのである。結局、民意は自然と共産党に移っていった。
 戦いは、軍事力や財力、あるいは権威や伝統で決まるものではない。最後は、民衆の心をつかんだ勢力が勝利を収めるのである。
 四七年(同二十二年)九月十二日には、遂に共産党軍は、国民党軍に対して総反撃を宣言するにいたった。この時から満二年の後、四九年(同二十四年)十月一目、中華人民共和国が正式に発足するまで、六億の民は、なおも戦乱に巻き込まれていったのである。
 このころから、アメリカを主力とする自由陣営、ソ連を主力とする共産陣営の相克は、世界の各地で激突を始めていた。
 アメリカは、世界唯一の核兵器保有国として、共産陣営に威圧を与え、ソ連にとっては、アメリカの原子爆弾が、無言の脅威となって、のしかかっていた。押されぎみのソ連は、苦慮していたにちがいない。
 ところが、四七年(同二十二年)十一月六日、ソ連外相V・M・モロトフは、「原子爆弾は、もはや秘密兵器ではなくなった」と声明し、ソ連もまた、遠からず核兵器の保有国になることを、全世界に暗示したのである。その余波は、いやがうえにも人びとの心を、不安に駆り立てていった。
 生活は暗く、日本も、世界も暗かった。太陽は、いつも明るく昇っているのに、人びとの心は、悪魔の芸術のように、暗黒に塗りつぶされていた。
 戸田城聖は、油断も隙もない時勢を、ひしひしと感じていた。いつ足をさらわれるかわからない奔流のなかで、一人、仁王立ちになって、広宣流布の旗をかざして、踏ん張っていた。そして、世界を平和へと導く、新しい軸としての学会の前進に、これからまだ、苛烈な辛い戦いが待ち構えていることを、いやでも知らねばならなかったのである。
 (第二巻終了)

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