Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

地涌  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
1  アメリカ占領軍の日本民主化政策は、次々と断行されていた。一九四七年(昭和二十二年)春には、教育制度の改革が、具体的なかたちとなって現れた。
 いわゆる六・三制の実施である。それまでの義務教育は、国民学校初等科の六年であったが、新たに小学校六年に加えて、新制中学校=一年までを義務教育としたのである。この新制度は、四月一日から実施された。これは教育の機会均等をめざす、民主化の一環でもあった。
 敗戦直後の教育制度の改革の第一歩は、四五年(同二十年)十月二十三日に、GHQ(連合国軍総司令部)が出した、「日本の教育制度の管理についての指令」から始まった。それはまず、教科内容から、軍国主義や天皇制を賛美する部分を排除することであった。
 各学校では、教科書の改訂が追いつかず、児童・生徒自らが、教師の指導で、教科書の不都合な部分を墨を塗って消すという、作業が行われたのである。
 新生日本の教育制度の改革は、翌四六年(同二十一年)三月に来日した、アメリカの教育使節団の報告書を受けて、この年八月、日本側が内閣に設置した教育刷新委員会を中心に、逐次、具体的な検討が進められていた。
 教育使節団の報告書には、教育の地方分権化、文部省の権限縮小など、国家主義的な教育を排除する方向とともに、男女共学による小学校六年、中学校三年、高等学校三年、大学四年という、「六・三・三・四制」の教育制度が提案されていた。
 もとより、六・三制の改革案は、米使節団の提言というより、日本でも長年に及ぶ教育研究の蓄積があり、同使節団に協力した日本側の委員会からの要望に、応じたものでもあった。
 六・三制の実施は、四七年(同二十二年)二月の閣議を経て、四月からの実施が決まった。しかし、予算も十分でなく、中学が義務教育化されたため、全国で教室が不足し、当初は、小学校の教室を借りての二部制、三部制授業や、青空教室まで現れた。教員の不足も深刻であった。
 多くの難問をかかえてのスタートであったが、時を同じく制定された教育基本法とともに、戦後民主主義の教育制度が、一応、ここに、かたちを見たのである。それは戦前の、国家のための教育から、個人の人権を尊重する教育への、大きな転換であったといえよう。
 ともあれ、人をつくることを忘れて、社会の確かな未来はない。教育は、その根幹となるものであるはずだ。
 教育者であった初代会長・牧口常三郎は、未来の宝である「子どもの幸福」こそ、教育の第一義の目的とすべきであると、力説してやまなかった。
 「人間」が「人間」として、自らをつくり上げていく――そのためにこそ、教育はあるはずである。その教育に、社会を挙げて取り組むことこそ肝要であろう。
2  時代は、目まぐるしく移り変わっていた。四月五日には、第一回の知事選挙、および市・区・町・村長の選挙が行われた。七日には労働基準法が、そして、十四日には独占禁止法、十七日には地方自治法が公布されるという、矢継ぎ早な民主化改革が具体化されていった
 人びとの生活は苦しく、物価の上昇は、とどまる気配もなかった。新憲法の施行を前に、四月二十日には、第一回の参議院議員選挙、続いて二十五日には、第二十三回衆議院議員選挙が行われた。
 その結果、衆議院では、社会党百四十三、自由党百三十一、民主党百二十一、国民協同党二十九、共産党四、諸派二十五、無所属十三議席の勢力分野となった。参議院では、社会四十七、自由三十七、民主二十八、国協九、共産四、諸派十三、無所属百十三となり、期せずして社会党が衆参両院で第一党となったのである。生活苦にあえぐ国民は、旧来の保守政治に代わる、新しい政権の誕生に、一種の望みを託したともいえよう。
 しかし、社会党は、第一党とはいうものの、議席数は衆議院の三分の一にも届かず、連立する以外に政権を取ることはできなかった。社会党は、自由、民主、国民協同の各党と連立を組む、政権工作に動いた。だが、自由党は、社会党との連立には加わらず、下野する道を選び、五月三十日、吉田内閣は総辞職した。
 かくして、社・民・国協の三党が連立した社会党首班内閣は、片山哲を総理大臣として、六月一日に成立した。わが国の憲政史上、初めて社会党が政権を担当したのである。
 片山内閣は、深刻化していく経済危機を目前にして、その打開をめざした。まずインフレ対策として、物価は戦前の六十五倍まで、平均賃金は戦前の三十倍以下の月千八百円に抑えるという、庶民にとっては乱暴ともいえる「物価体系」を立てた。そして、吉田内閣の「傾斜生産方式」を踏襲した。
 石炭、鉄鋼などの重要産業に、政府資金と資源を傾斜的に投入し、そこから、生産力の向上を優先的に図ろうというものである。
 だが、石炭の生産量の増加は見られたものの、工業生産全体は伸びず、消費財の生産は、むしろ減少するという、不均衡を生じていったのである。多くの国民の生活は、ますます悪化しかねない状況であった。内閣発足から半年もたたない秋ごろから、再び、労働攻勢は激化していった。
 多党の寄り合い所帯のような片山政権が、激流のなかで必死に舵取りを試みていたものの、各党各派の対立が、その足もとを揺さぶった。
 社会党内閣の目玉ともいえる、炭鉱の国営化問題では、妥協案に対する左派の反目と、民主党の分裂を招いた。さらに、農相の罷免問題をめぐって、それを不服とする社会党の右派が袂を分かった。
 そして、決定的となったのは、公務員臨時給与の財源をめぐる問題であった。党内左派が、鉄道、郵便の公共料金値上げで充当するという政府の方針に反対し、予算案が否決されたのである。
 党内不一致という異常事態に直面して、片山内閣は暗礁に乗り上げ、四八年(同二十三年)二月、発足八ヶ月で、早くも総辞職するにいたったのである。
 片山内閣のあと、三月十日には、民主党の芦田均総裁を首班とする、三党連立内閣が成立した。芦田内閣は、片山内閣の経済政策を踏襲しつつ、一方で、アメリカの対日援助による、日本経済の再建を図ろうとしていくのである。
 政権は交代し、さまざまな政治的変革が重なったが、国民の生活は楽になるどころか、依然、厳しい状況が続いた。「生きる」ということが、言語に絶する苦悩なしにはすまされないことを、誰もが、これほど深刻に考えた時代はなかった。最も切実な食糧事情にも、なかなか改善の兆しは見えなかった。
 食糧の配給も、四七年(同二十三年)には、前年にも増して遅配が慢性化し、全国的に極めてひどくなってきた。たとえば、三月末の遅配日数は、東京十六・六日、神奈川九・三日、大阪六・三日、福岡十一・八日であった。
 それが七月に入ると、東京二十五・八日、北海道九十日と、ますます悪化し、全国平均で二十日の遅れとなった。なかでも、東日本の遅配は深刻であった。
 GHQは、この年の食糧不足分を、米に換算して百五十五万六千トンと予測していた。一億民衆が飢餓線上をさまようなかで、危機を打開しようと、占領軍は食糧を次々と放出した。その放出した総量は、一年で百六十万トンを超えたが、それでも、遅配を取り返すことはできなかった。
3  このような生活を、戸田城聖も、その弟子たちも、免れるわけにはいかなかった。しかし、彼らは、少しもくじけなかったのである。
 彼らは、夜ごと西神田の本部に集まってきた。戸田の講義と、指導を求めて来る人びとのなかには、空腹の人も多かった。服装は、さまざまにチグハグであったし、余裕のある生活をしている人は少なかった。だが、ともかく彼らは、生き生きとしていた。
 彼らは、まず宗教革命によって、この大悪を大善に変えていくのだという、希望に燃えていた。互いに、革命児としての使命を教わり、社会建設の指導者として訓育されたことを、何よりの誇りとして、生き抜いてきたのである。
 人びとが、愚痴と利己主義に落ちている最中に、自分たちは、崇高な使命に生きて活躍しているという、強い自覚によって輝いていた。
 各所の座談会も、徐々に活発になっていった。入会者の新しい顔も、座談会や講義会場に、多く見受けられるようになった。西神田の本部の会合も、時には階段にまであふれることもあった。
 しかし、毎月の入会者数は、十世帯から二十数世帯程度である。
 一九四六年(昭和二十一年)秋に始まった地方指導は、その後も引き続き、一歩も引かず進められていった。折伏の手は、着実に伸びていったのである。群馬、栃木はもちろん、長野県の諏訪、静岡県の伊豆方面、遠く九州の八女辺りまで、幹部が派遣されるようになった。
 派遣幹部には、広布推進への強い使命感があった。彼らが、もし使命に目覚めていなかったならば、苦しい生活の圧力に耐えられなかったかもしれない。だが彼らには、民衆救済のための主義主張があり、崇高な目的観があった。
 戸田城聖に鍛えられた門下生も、その若い力と情熱で、食糧難や物価騰貴に雄々しく打ち勝っていった。彼らは、何よりも折伏の楽しみを知ったのである。これ以上の幸福感はなかった。折伏こそ、人のため、世のため、法のための戦いであり、自己の人間革命への根本的実践であることを、胸中深く体得していったのである。
 彼らは、顔を合わせれば、折伏の話に花を咲かせ、底抜けに明るかった。
4  酒田義一や三川英子は、東京・蒲田に住んでいて、小学校時代の同級生であった。年は、いずれも二十歳前である。戦前に、原山や関から折伏されて、両家とも入会していた。
 他教団の本部へ乗り込んで、英雄気取りで論争したことを、戸田に厳しくたしなめられて以来、二人は、かつての同級生を探し出し、着実に折伏を始めた。大部分の同級生は、家を焼かれて移転したり、あるいは各地に疎開して、まだ東京に戻っていなかった。そこで、たまたま地元に残っていた同級生の家に、足しげく通っていた。
 そのような同級生の一人に、山本伸一という青年がいた。
 彼らは、同級生のよしみから、伸一をしばしば訪ねたが、宗教の話、信仰のことを真正面から切り出すことができなかった。当時の青年にとって、文化や政治の話ならともかく、宗教の話ほど縁遠いものはなかったからである。
 それに、部屋に通されてみると、書棚には、ぎっしりと、さまざまな書物が並んでいた。文学書が大部分であったが、古今東西にわたるもので、彼らは、書名や著者名だけは知っていても、その内容は、さっぱり知らない書籍が多かった。
 山本伸一は、彼ら同年配の仲間から見れば、たいそうな読書家であった。
 国木田独歩があるかと思うと、ニーチェがあったり、西田幾多郎、三木清らの本の隣に、モンテーニュがあったりした。さらにバイロンの隣に、『唐宋八家文読本』があったかと思うと、『言志四録』があり、カーライルや、ギリシャの古代詩なども並んでいた。彼は貧しい生活のなかで、本だけは何よりの財産として、大切にしてきたのである。
 そして机の上には、読みかけの本と、大学ノートが開かれていた。そこには読書余録のような感想が、細かい字で書き込まれていた。
 酒田も三川も、伸一の思想傾向をつかむことは、思案にあまることだった。
 彼らは、書棚の広範囲な背文字に気後れして、思想的な話を切り出すチャンスに困っていた。そこで、まず、当たり障りのない同級生たちの消息や、空襲の生々しい思い出やら、幼い日の同級生のころを懐かしんで、話し興じていたのである。
 しかし、伸一の話を総合してみると、彼は、どうやら哲学に最も関心を払っていることが、わかつてきた。
 蒸し暑い真夏のある夜、三川は帰り際に、立ちながら言った。
 「十四日の夜、私の家で、哲学の話があるのよ。いらっしゃらない?」
 「哲学?」
 彼は、怪訝な顔をして、聞き返した。
 酒田は、それを受けて、伸一に言った。
 「そう、生命哲学の話ですよ」
 「ベルクソンですか」
 伸一は、二十世紀のフランスの哲学者であるベルクソンの″生の哲学″を、反射的に思い出したのである。一九二七年(昭和二年)のノーベル文学賞受賞者でもある彼に、魅力を感じていたのであろう。
 機械的唯物論に反対し、生命の内的自発性を強調した哲学に、伸一は、難解ながら共鳴していたのである。
 しかし、彼もまた、一つの確立した哲学はもてず、観念の遊戯をしていた平凡な青年であったことには、間違いなかった。
 酒田は、何がベルクソンか見当もつかず、困惑して黙ってしまった。
 伸一は、ベルクソンの哲学の話なら、ぜひ聞いてみたいと思って言葉をついだ。
 「どういう先生が来るの?」
 「戸田城聖という先生。すごいから、ぜひ来ませんか」
 「戸田城聖? 哲学者?」
 伸一は、ちょっと首をかしげた。
 三川が、酒田に代わって言った。
 「生命というものを、根本的に解明した哲学よ。私、迎えに来るから、ぜひ行きましょうよ」
 「行こうか……友だちも連れて行ってもいい?」
 酒田は喜んだ。
 「ああ、何人連れて来たっていいよ。ぼくも迎えに来るよ」
 二人は、伸一の家を辞した。
 伸一が、「友だちも」と言ったのは、彼の仲間でつくっている、協友会というグループのメンバーを思い出したからであった。
5  そのころ、「○○会」とか、「××の集い」とか、任意の名称をもっ青年たちのグループが、全国的に生まれていた。戦後の「文化国家建設」というスローガンが、ただ一つ青年たちにアピールしていたのである。
 誰人にとっても、敗戦は大激変にちがいなかった。しかし、大人たちが途方に暮れ、長く虚脱状態を続けていたのに反して、青年たちの息吹は、冬の凍った大地にも、早くから草が萌え出づるのに似ていた。自発的に活動を始めていった若者が多かったのである。それは、いつの時代でも見られる若人の特権であった。
 こうした青年たちを、思いのままに伸び伸びと勉学させ、向上させようとはせずに、利用し、犠牲にして憚らない指導者は悪人である。それは、次代の社会の建設の芽を、摘み取ってしまうことに、ほかならないからである。
 青年たちは、必ずしも高い理念や、深い文化観に基づいているわけではなかった。文化国家といっても、それがどのような文化であるかということについては、多分、ほとんどの人が、極めて漠然としたイメージしか、もっていなかったであろう。
 戦時中、勤労動員に明け暮れ、学窓から遠ざけられてきた彼らは、その頭脳のブランクを、急速に埋めなければならなかった。
 彼らはまず、新しい知識を求めた。空腹時の欲求のように、求めずにはいられなかった。乏しい書物を、貸したり、借りたりした。集まっては討論し、難解な本を読み合ったり、レコードをかけて聴いたりした。
 彼らの近くに、学者やジャーナリストがいるとわかると、門を叩き、時事問題の意見を聞いた。ある時は、彼らの集会に、その学者やジャーナリストを招いて、解説的な講義を聞いた。
 有志によって、英会話の勉強をすることもあった。
 これらの幾つかのグループも、やがて、その主導的な役割をする青年の関心によって、それぞれ特色をもつにいたった。あるグループは、音楽レコード鑑賞会になったり、マンドリンの演奏団になったり、果ては占領軍のキャバレーに出演するバンドになったりしていった。あるいは、ダンスパーティー専門のグループになったり、単なる男女交際の場となってしまうものもあった。なにしろ、若い青年たちの集団である。気ままに、くるくると変貌してしまうのである。
 彼らは、ただ集まることが楽しかった。そして、自分の意見を、気兼ねなく述べられることが嬉しかったのである。
 これらのグループは、当時の青年たちの唯一の憩いの場であり、また知力の研績や、人間形成の場でもあった。どこの家庭でも、生活の困窮は似たり寄ったりであったし、青年たちは、社会の暗い憂欝な空気に、息が詰まりそうであった。耐えられなかったともいえる。それが、ひとたび同年配の青年たちが顔を合わせると、時代のよどんだ空気を忘れることができた。そして、いつか建設的な面を互いに引き出していたのである。
6  山本伸一の協友会というグループも、このような青年の集団であった。付近に住む、東大出の優れた人格者である経済学者の肝いりでもあったせいか、わりあい多くの人びととも接する機会があり、文化、芸術、政治、経済、哲学など、人文科学に関する広範な知識の吸収に忙しかったグループである。
 メンバーの職業は、さまざまであった。学生、技術者、工員、官庁の職員等々で、皆、二十歳から三十歳ぐらいまでの、二十人ほどの集団であった。
 女性は一人もいなかった。
 ――ある夜、一人がダンテの『神曲』を通して、イタリア・ルネサンスの精神を研究し、解説したかと思うと、次の会合には、別の一人が第一次大戦後のドイツのインフレの様相を、二、三の書籍から抜粋して、解説したりした。そして、現今の日本のインフレーションの恐ろしさについて、警鐘を鳴らした。ある時は、民主政治や共産主義を論じたり、またある時は、天皇の在り方を――といった具合であった。
 振幅の大きいこれらの知識も、青年たちの渇いた頭脳には、ほとんど抵抗らしいものもなく、極めて自然に吸収されていった。
 山本伸一が、酒田らから、″生命の哲学″の話と聞いて、即座に、ベルクソンやショーぺンハウアーの難解な哲学の話だと思ったのも、このような知的風土のなかに住んでいたからである。
 伸一は、グループのなかで、哲学的傾向の強い二、三の仲間に、さっそく、十四日夜の会合について話した。
 彼らは、毎夜、集まっては、高い知識を求めているようであったが、その積み重ねが、単なる遊戯であっては、自身の人生問題を、何一つ具体的に解決できないことにも気づき始めていた。山本自身も、人生に対する強い確信をもち、人生観を深く確立したいという心が動いてきていたのである。
 彼らが、心から知りたかったのは、″いったい真実の正しい人生とは何か″ということであった。彼らの周辺には、めちゃくちゃな人生が、あまりにも多かった。彼らは、そのような生き方を、平凡ではあったが、精いっぱいの抵抗で拒否していたのである。だが、ではどんな人生が、いちばん良いのかと自らに問うた時、明確な答えをもっていないことに焦慮していた。
 さらに処世の態度として、大きな疑問をかかえていた。それは、″愛国者とはいったい何か″そして、″善悪の基準とは何か″ということであった。戦中派ともいうべき彼らは、自身の体や心情を愛するうに、敗戦国といえども、母国を愛せずにはいられなかった。
 彼らの住居の周辺の工場地帯には、赤旗が翻り、革命歌がストライキの景気をつけ、敗戦国日本を罵倒していた。
 そして、ソビエト連邦こそ労働者の故国である、と叫んでいるのを耳にしたりした。何もできない自分らより、確かに強そうでもあり、勇ましかった。いや、それを信念として進んでいる正義感は偉いとも思った。しかし、その言葉に作為的な臭味があるのを、鋭く嗅ぎつけてもいた。
 協友会の青年たちには、少年時代の白紙のような脳髄に、軍国主義思想による愛国心が、黒く刻印されていた。だが、今となっては、大人たちが語っていた″愛国心″なるものも、仮面にすぎなかったことを、知らねばならなかった。
 ある自由主義者が言っていた。
 ――戦時中、天皇を利用して、自己の名聞名利のため、天皇に忠義を尽くした高官連こそ最も不忠であった、と。
 戦時下を生きた青年たちの愛国心は、そのようなものではなかった。彼らは、時代を超越した純粋な愛国心を欲していた。敗戦を迎えても、なんとなく、それが体内に燃えていることを自覚していた。
 要するに、彼らの精神の世界では、いかにして″終戦処理″するかを、求めていたのである。
 彼らは、真面目な青年であった。それゆえにこそ、善悪の基準と愛国心の二つの疑問を軸として、苦しんでいたともいえる。″もしも、この疑問に完全な回答を与えることのできる人がいたら、その人こそ自分たちの師父である。その時は、一切をなげうって、その人にどこまでも、ついていこうではないか″と、彼らは、時に夢見るような思いで相談し合っていた。
7  八月十四日の夜が来た。
 酒田と三川が、意気込んで迎えに来たが、伸一は、同行するはずの二人の友を待っていた。グループの一一人は、なかなか来なかった。
 酒田たちは、伸一だけでも誘い出そうとしたが、彼は頑強に動かなかった。二人の友人が姿を見せないことよりも、夕刻から始まった胸部疾患による発熱で、体が疲れてならなかったからである。伸一は、軽い咳をしながら、だるい体に耐えていた。彼は、律義に二人の友人を待っていたが、その心のなかでは、今日は中止にしたいとも望んでいた。
 ことろが、一時間も遅れて二人の友人が来てしまうと、彼は、熱っぽい体を立ち上がらせた。
 五人の青年たちは、街灯もない暗い道を、三川の家へと歩いていった。
 三川の家は、蒲田の北糀谷の、運よく焼け残った一角にあった。彼女の家の前の狭い道路一つを挟んで、向こう側は、すべて空襲で焼け出されていた。京浜蒲田駅を越え、さらに国鉄の東海道本線を越し、周囲数キロにわたって、焼夷弾による焼け野原となっていたのである。
 蒲田方面は、普通、城南とも言われ、工場地帯の中心であったことから、激しい空襲に見舞われた。
 その熾烈さは、言語に絶したともいえる。このようななかで、酒田の家と三川の家は、不思議にも類焼を免れていた。
 三川の父親は、海軍技術士官で、ほとんど外地の戦線に出ていたが、母親が熱心に信心していた。両家とも、どちらかといえば当時の中流家庭であり、焼け残った家も、わりあい大きかった。そして、その焼け残った家が、創価学会の座談会場として、今や使命を果たしていたのである。
 三川と酒田の案内で、山本伸一らが三川の家に着いたのは、夜の八時近くであった。
 玄関を入ると、しわがれてはいるが、元気な中年の男の声が耳に入った。
 五人の青年は、物音をたてずに、静かに部屋に入った。二十人ばかりの人が、襖を取り払った二部屋に座っている。奥の部屋の正面には、額の秀でた、度の強いメガネをかけた年配の男が、落ち着いた口調で話をしていた。
 青年ばかりではない。主婦も、老人も、そして壮年も、身じろぎもせず耳を傾けていた。意外な雰囲気である。静かななかに、何か力強い真剣味が漂っていた。
 山本たちは、青年の会合とばかり思っていたのである。いったい、なんの会合なのだろうと、不審に思って、耳を澄ました。話していることは、さっぱりわからない。しかし、一種の気迫だけは、すぐに感じ取れた。
 戸田城聖は、今、日蓮大聖人の「立正安国論」の講義をしている真っ最中であった。それは、一人の若い女性が原文を読み、その部分について、戸田が講義を進めていく方法を取っていた。
 「……悲いかな数十年の間百千万の人魔縁に蕩かされて多く仏教に迷えり
 「これは、法然の念仏宗、当時、新しく興った宗教であります。
 この魔縁にだまされて、仏法に無知な当時の人びとは、不幸な境涯へ落ちていった。これほど、悲惨なことはありません。いくら純真に信仰していても、その教えが間違っていれば、結果は不幸であります。昔のことではない。この原理は、今だって同じです。
 大聖人様は、これを『多く仏教に迷えり』とおっしゃっている。今日の社会の、一切の不幸の根本原因も、正法を知らず『多く仏教に迷えり』という本質からきているのです。次……」
 「傍を好んで正を忘る善神怒を為さざらんや円を捨てて偏を好む悪鬼便りを得ざらんや
 「この御聖訓は、日蓮大聖人の鉄壁のごとき大確信であります。
 今の人は、この言葉を聞くと、何か妙な迷信めいたものとしか受け取らない。それは、仏法哲学を知らないからです。だが知らないから、この世にないと断ずることができましょうか。そんなことは決して言えない。実は、人間というものは、知らないでいることの方が多いのです。
 仏法哲学における生命論を知れば、今の御金言は、はっきり理解されるのです。しかし、悲しいかな、現代人は正統の仏法哲学を知らないために、このことに迷うのであります。釈尊の永遠の生命論、天台の理の一念三千、日蓮大聖人の永遠即瞬間、宇宙即我、事の一念三千の大哲理に立脚すれば、明々白々に理解できるのです。
 本当にわかってしまえば、こんな簡単なことはない。この理法をもって論ずれば、日本の国に、国家守護、一家守護の善神がいないということです。
 仏法の真髄の裏付けのない、お守りや、本尊や、神札等は、悪鬼の働きをするだけで、なんら幸福への手段ではない。むしろ、不幸への直道となっている」
 山本伸一たちは、聞いているうちに、仏教の話だとわかった。
 しかし、いわゆる″ありがたい話″ではない。伸一は、妙な気持ちになった。
 ″話は、身近なことのようであり、また、遠く深いことのようでもある……″
 伸一は、戸田の顔を、じっと見ていた。戸田の視線が、彼の顔に注がれる時があった。いや、しばらくすると、自分の方に、折々、注がれるのを意識した。そして、戸田の視線と、彼の視線がぶつかると、彼は、わけもなく、少年のようにはにかんで、視線をそらさずにはいられなかった。
 戸田は、時々、ガブガブと、無造作に水を飲んだりして、講義を続けていた。その表情には、緊迫感を与えずにはおかない気迫があった。
 「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには
 「この一言こそ、偉大な勇猛心がなくては言えない一言です。
 当時のあらゆる階級、幕府の執権から庶民にいたるまで、すべての人が尊重し、信仰していた浄土宗を、『一凶』と論断したのです。世人の怒りはもちろん、国家権力からの追及があることは、火を見るよりも明らかであります。
 そうであるのに、大聖人様は上下貴賎の隔てなく、全民衆をわが子と思うがゆえに、恨みも怒りも恐れず、迷える人びとを、ただ救わんがために、『一凶』と断ぜられたのです。末法の御本仏なればこその、御振る舞いといえましょう。
 私もまた、日蓮大聖人の弟子として、地涌の菩薩として、折伏の棟梁として、現今の日本民衆の塗炭の苦しみを救わんがために、誤った教えを捨てで正法を立てよ、と叫ぶ以外にはありません。
 正法とは、日蓮大聖人の大仏法であります」
 確信に満ち満ちた音声である。皆、熱心に聞き入っていた。会場は、水を打ったように静かである。伸一も友だちも、その雰囲気に、いささかも、ふざけた気分ではいられなかった。
 「ことに色を作して曰く……」
 若い女性が、次の章を読み始めた。その時、戸田はさえぎって言った
 「今日は、ことまでにしておこう。今日、講義した『立正安国論』の、わずか数行を拝しても、大聖人の偉大な御確信が伝わってきます。大聖人は、仏法哲理の真髄を、ただ御一人、ご存じであるがゆえに、すごいのです。
 七百年前に、お書きになったものが、まるで敗戦後のわれわれのために、お書き残しくださったかのようだといってよい。個人であれ、一家であれ、国であれ、この仏法哲理をもって、根本から解決しない限り、一切のことは始まらないのです。
 御本尊様を、ひとたび受持した以上、個人としての成仏の問題は必ず解決する。しかし、一家のことを、一国のことを、さらに動乱の二十世紀の世界を考えた時、私は、この世から一切の不幸と悲惨をなくしたいのです。
 これを広宣流布という。どうだ、一緒にやるか!」
 飾り気のない態度である。戸田の言葉には、民衆の幸福を願い、一人立たんとする情熱と、広宣流布の陣頭に法旗を持って進む、死身弘法の決意が満ちあふれでいた。
 彼の偉大な決意を聞いて、青年たちは元気よく応えた。
 「やります!」
 壮年や、婦人の人びとは、深く頷いていた。
 山本伸一は、生真面目で、あまり、はったりを好まない性質であった。その彼にも、この光景は、深い感動を与えずにおかなかった。
 その後、「立正安国論」の語句について、二、三の人から質問が続いた。
 戸田は、仁丹を噛みかみ、質問を聞いている。そして、時として伸一たちの方に視線を注ぎながら、質問者に明快な回答を与えていた。
8  一通り質疑応答が終わったところで、三川英子が立ち上がり、戸田に紹介した。
 「先生、山本伸一さんをお連れしました。私の小学校の同窓です。あとのお二人は、山本さんの友人の方です」
 伸一は、機敏にぺこんと頭を下げた。
 「ほう」
 戸田は、にっとり笑った。まるで、友人の息子にでも話しかけるような口調である。
 「山本君は、幾つになったね?」
 戸田は、「幾つだ」とは聞かなかった。「幾つになったね」と聞いたのである。初対面であったが、旧知に対しての言葉であった。
 「十九歳です」
 「そうか、もうすぐ二十歳だね。ぼくは、十九歳の時に、北海道から初めて東京に出て来たのだ。まるっきり、お上りさんでね。知った人はいないし、金はないし、心細かったよ。さすがの、ぼくも閉口したな」
 戸田の笑いながらの述懐に、一座の人たちの顔にも笑いが浮かんだ。彼は、さらに、何か言いかけたが、急に口をつぐんでしまった。
 人びとは、彼の言葉を待っていた。彼は、回想にふけっているように見えた。沈黙が続いた。
 一座の親しい空気も、温かさにつつまれて、そのまま続いていた。
 「先生!」
 突然、山本伸一が、元気な声で沈黙を破った。
 一同の視線は、一斉に伸一に集まった。
 「教えていただきたいことが、あるのですが……」
 戸田は、メガネの奥で、目を細めながら伸一を見た。
 「何かね……なんでも聞いてあげるよ」
 「先生、正しい人生とは、いったい、どういう人生をいうのでしょうか。考えれば、考えるほど、わからなくなるのです」
 伸一は、真剣な表情で、目を大きく見開いて言った。やや長い捷毛が、影を落とし、涼やかな目元には、まだ少年の面影が残っていた。表情は、ほのかな憂いを帯びていた。
 「さぁ、これは難問中の難問だな」
 戸田は、顔をほころばせて言った。
 「この質問に正しく答えられる人は、今の時代には一人もいないと思う。しかし、ぼくには答えることができる。なぜならば、ぼくは福運あって、日蓮大聖人の仏法の大生命哲理を、いささかでも、身で読むことができたからです」
 戸田の静かな声のなかには、自信があふれでいた。
 「人間の長い一生には、いろいろな難問題が起きてくる。戦争もそうでしょう。現下の食糧難、住宅難もそうでしょう。また、生活苦、経済苦、あるいは恋愛問題、病気、家庭問題など、何が起きてくるか、わからんのが人生です。
 そのたびに、人は命を削るような思いをして、苦しむ。それは、なんとか解決したいからだ。しかし、これらの悩みは、水面の波のようなもので、まだまだ、やさしいともいえる。どう解決しょうもない、根本的な悩みというものがある。
 人間、生きるためには、生死の問題を、どう解決したらいいか――これだ。
 仏法では生老病死と言っているが、これが正しく解決されなければ、真の正しい人生なんか、わかるはずはありません。
 生まれて悪うございました、と言ったって、厳然と生まれてきた自分をどうしょうもない」
 戸田のユーモラスな話しぶりに、みんな思わず笑い声をあげそうになった。だが、内容があまりにも重大問題のせいか、それをとらえて、次の話を待った。
 真面目な会話のなかにも、ウイットとユーモアをはさむことによって、それが潤滑油となり、人びとの心に親しみをいだかせることがある。戸田は、話のなかに、常にウイットとユーモアをはさむことを忘れなかった。
 「いつまでも、十九の娘でいたい、年は絶対に取りたくないと、いくら思ったって、四、五十年たてば、お婆さんになってしまう。
 私は、病気は絶対にごめんだと言ったって、生身の体だもの、年を取れば、ガタガタになってしまう。これも避けるわけにはいかない。それから最後に、死ぬということ――これは厳しい。
 みんな、いつまでも生きられると思っているが、今、ここにいる誰だって、せいぜい六、七十年たてば、誰もこの世にいなくなる。″死ぬのは、いやだ″と言ったって、だめだ。どんなに地位があろうが、財産があろうが、どうすることもできない。
 こうした人生の根本にある問題は、いくら信念が強固だといったって、どうにもならない悲しい事実です。人生にとって重大な、こうした問題を、正しく、見事に、さらに具体的に解決した哲学は、これまでになかったといっていい。
 だから、正しい人生を送りたいと願っても、実際には、誰もどうしょうもなかった。突き詰めて考えてもわからないから、『人生不可解なり』などと、自殺する者も出てくる。厭世的になるか、刹那的になるか、あるいは、あきらめて人生を送るしかない。
 ところが、日蓮大聖人は、この人生の難問題、すなわち生命の本質を解決してくださっているんです。しかも、どんな凡夫でも、必ずそのような解決の境涯にいけるように、具体的に指南してくださっている。これほどの大哲学が、いったいどこにありますか」
 伸一は、直感した。
 ″この会は、同じ日蓮宗の一派に見えるが、教えを説いている人は、僧侶ではない。また、少年のころよく見た、あの白装束を着て、太鼓を叩いている壮年たちとは、あまりにも異質である……″
 戸田は、さらに続けた。
 「正しい人生とは何ぞや、と考えるのもよい。しかし、考える暇に、大聖人の仏法を実践してごらんなさい。青年じゃありませんか。必ずいつか、自然に、自分が正しい人生を歩んでいることを、いやでも発見するでしょう。
 私は、これだけは間違いないと言えます」
 彼は、こう言って一口、コップの水を飲んだ。
9  伸一は、目をキラキラと輝かせていた。
 「もう一つ、お願いします。本当の愛国者というのは、どういう人をいいますか」
 戸田は、コップを置きながら、軽く言った。
 「これは簡単だ。楠木正成も愛国者でしょう。吉田松陰も愛国者でしょう。乃木大将も愛国者でしょう。確かにそうですね。しかし、これからもわかるように、愛国者という概念は、時代によって変わってしまう。
 国家や、民族に忠実である人が愛国者ですが、その国家、民族自体、時代の流れでずいぶん変化するものです。したがって、愛国者という人間像も変わる。
 時代を超越した、真の愛国者があるとするならば、それは、この妙法の実践者という結論になります。その理由は、妙法の実践者こそが、一人の尊い人間を永遠に救いきり、さらに、今の不幸な国家を救う源泉となり、崩れない真の幸福社会を築く基礎となるからです。
 世界最高の正法を信じ、行ずる者が、最高の愛国者たる資格をもつのは当然です。これは観念論では決してない。妙法を根底にした国家社会が、必ず現出するのです。歴史、思想、民族の流れから見ても、それ以外に絶対にない。いや、なくなってくるだろう。
 それまで、多くの人は信じないかもしれない。現出してきた姿を見て、初めて″あっ″と驚くのです。それだけの力が、大聖人様の仏法、南無妙法蓮華経には、確かにある。後世、百年、二百年たった時、歴史家は必ず認めることと思う」
 戸田は、遠い将来に、思いを馳せるように語った。
 無造作な話し方であったが、明快な回答になっていた。もっと深く、教学を通して語りたかったのかもしれない。だが、伸一たちに、これ以上、話してもわからないと思って、概略的な話で終わったともとれた。
 「その南無妙法蓮華経というのは、どういうことなんでしょうか」
 「これは、詳しく言えば、いくらでも詳しく言える。釈尊が一代に説いた八万法蔵といわれる膨大な教えも、煎じ詰めれば、この南無妙法蓮華経の説明とも言える。
 一言にして言えば、一切の諸の法の根本です。宇宙はもちろん、人間や草木にいたるまでの、一切の宇宙現象は、皆、妙法蓮華経の活動なんです。だから、あらゆる人間の宿命さえも、転換し得る力を備えている。つまり、宇宙の根源力をいうんです。
 別の立場からこれを拝せば、無作三身如来、すなわち根本の仏様のことであり、永遠に変わらない本仏の生命の名前です。釈尊滅後二千年以後、すなわち末法という時代に入つては、その仏様は日蓮大聖人であり、その大聖人様は、御自身所具の久遠元初の生命を、御本尊様として顕されたのです」
 難解な仏法用語が飛び出してきた。
 伸一は、深遠な世界に、少々、戸惑わざるを得なくなってきた。
 戸田は、なおも無造作に語り続けた。
 「難しく言えば、法本尊即人本尊で、人法一箇のこの御本尊こそ、南無妙法蓮華経の実体といえるのです。
 釈尊は、法華経の序分にあたる無量義経で、『無量義とは、一法より生ず』(法華経二五ページ)と説いている。その一法が南無妙法蓮華経であり、一切の思想、哲学の根本ということです。
 こう言ったからといって、ああそうですか、とわかるものではないでしょう。だが、この根本法たる妙法を知らなくては、どんな人生であっても、どうもがいても、結局、流されてしまう。
 この根本を、間違って説いた宗教、思想は、人びとを不幸にするだけなんです。ですから、ここに、正しい法と誤った法との根本的な差が生じてくる。恐ろしいことに、人間の不幸の根本的原因は、間違ったものを、正しいと信ずるところにあるんです。
 ……話せといえば、一晩でも、二晩でも、話してあげたい。だが、山本君も、少し勉強してからにしょうじゃないか」
 戸田は、一人の青年に対して、なんの隔でもなく、一対一で話していた。ざっくばらんな話し方のなかにも、温かい人間性を感じさせるものがあった。伸一は、それを肌で感じていた。そして、仏法の話はわからなかったが、戸田城聖という誠実な人物に、心で好感をいだいた。
 批判のための批判を好む青年がいる。この場でも、物事を認識する以前に、最初から批判的な態度で臨んでいれば、少しばかり評価の立場を変えて、批判の矢は出せたであろう。
 だが、伸一は、なぜか複雑な心の動きの奥に、満ち足りた思いを味わっていた。
10  「わかりました。全部が理解できたという意味ではなく、私も勉強してみます。もう一つだけ、お聞きしたいことがあるのですが」
 「なんだね……」
 「先生は、天皇をどうお考えですか
 天皇のことが、大きな問題になっていた時である。
 戸田は、極めて平静に話し始めた。
 「仏法から見て、天皇や、天皇制の問題は、特に規定すべきことはない。代々、続いてきた日本の天皇家としての存在を、破壊する必要もないし、だからといって、特別に扱う必要もない。どちらの立場も気の毒だと思う。
 天皇も、仏様から見るならば、同じ人間です。凡夫です。どこか違うところでもあるだろうか。そんなこともないだろう。
 具体的に言うなら、今日、天皇の存在は、日本民族の幸・不幸にとって、それほど重大な要因ではない。時代は、大きく転換してしまっている。今度の新憲法を見てもわかるように、主権在民となって、天皇は象徴という立場になっているが、私はそれでよいと思っている。
 今、問題なのは、天皇をも含めて、わが日本民族が、この敗戦の苦悩から、一日も早く立ち上がり、いかにして安穏な、平和な文化国家を建設するかということではなかろうか。姑息な考えでは、日本民族の興隆はできない。世界人類のために貢献する国には、なれなくなってしまう。どうだろう!」
 簡明直載な回答である。呆気ないともいえる。彼の所論には、理論をもてあそぶような影は、さらさらなかった。
 山本伸一は、戸田の顔をじっと見つめていた。彼に、決定的瞬間がやってきたのは、この時である。
 ″なんと、話の早い人であろう。しかも、少しの迷いもない。この人の指導なら、自分は信じられそうだ″
 彼は、世間に人格者ぶった偽君子が、どれほど多いかを知っていた。また、理論や、思想や哲学を振り回し、大学者ぶったり、知識人ぶったりして、慢心している人の姿も数多く見てきた。
 彼は、ふと、それらの人びとのことを考え、ある記者の言葉を思い出した。
 ″理論家ぶったり、大政治家ぶっても、家に帰れば、女房の理論家にはかなわなかったり、また、女房、子どもに背かれ、一家の統治もできない人が、なんと多いことか――確か、記者は、そんな慨嘆をしていた。
 しかし、今夜のこの人は、無駄なく、懇切丁寧に、しかも誠実に答えてくれた。いったい、自分にとって、どういう人なのであろうか″
 伸一は、とっさに、自分だけの質問では悪いと思い、今度は、二人の友だちにも質問を促した。
 「伊藤君も、正木君も、何か聞きたまえよ。せっかく、おじゃましたんだから……」
 「いや、別にないよ」
 残念ながら、彼ら二人は、簡単にそう言ったきり、黙ってしまい、なんの反応も示さなかった。
 この夜の座談会には、学会の首脳幹部のほとんどが、参加していた。原山、小西、関の蒲田の三羽烏をはじめ、三島、山平、滝本、吉川なども、そろって出席していた。そして、戸田が、どのようにして山本伸一に入会の決意を固めさせるか、祈るような気持ちで見守っていた。
 戸田は、何も言わない。伸一は、顔を紅潮させ、瞳を凝らしていた。再び、何か発言したそうな面持ちで、落ち着かなかった。
11  やがて彼は、意を決したように、突然立ち上がって、あいさつしたのである。
 「先生、ありがとうございました。先人の言葉に『同感できても、もう一度よく考えるがいい。同感できなくても、もう一度考えるがいい』とありますが、先生が、青年らしく勉強し、実践してごらんと、おっしゃったことを信じて、先生について、勉強させていただきます。
 今、感謝の微意を詩に託して、所懐とさせていただきたいと思います。下手な、即興詩ですが……」
 戸田は、無言で頷いた。
 一座の人びとは、呆気にとられていた。
 伸一は、軽く目を閉じ、朗々と誦し始めた。
  旅びとよ
  いずこより来り
  いずこへ往かんとするか
  月は 沈みぬ
  日 いまだ昇らず
  夜明け前の混沌カオス
  光 もとめて
  われ 進みゆく
  心の 暗雲をはらわんと
  嵐に動かぬ大樹求めて
  われ 地より涌き出でんとするか
12  同行した、二人の文学青年は、拍手を送っていた。
 一座の人びとも、それにつられたように、ちょっと拍手を送った。だが、なんと変わった青年だろうと、いささか度肝を抜かれた思いであった。座談会で、詩をうたった青年など、これまで一度も見たことがなかったからである。詩の内容は、彼らの頭には、とどまらなかった。
 戸田は、この詩の最後の一行を聞いた時、にこやかになっていた。
 伸一は、仏法の「地涌の菩薩」という言葉など、知るはずもなかった。ただ、最後の一行は、戦後の焼け野原の大地のなかから、時が来ると、雄々しく、たくましく、名も知れぬ草木が生い茂り、緑の葉が萌えるのを見て、その生命力と大自然の不思議さを、なんとなく心に感じ、胸にいだいていたのをうたったのであった。
 二、三日前から、それを一詩に作ろうと願っていたが、たまたま、この席上でその詩を発表する格好になってしまったものだ。
 伸一が、照れたように腰を下ろすと、戸田は、彼に呼びかけた。
 「山本君、なかなか意気軒昂なようだが、体はどうかね」
 伸一は、ドキンとした。
 「少し悪いんです。胸が少しやられているんです」
 「肺病か。心配はないよ。ぼくも、ひどかったんだ。片肺は、全く駄目だったんだが、いつか治ってしまっていた。焼鳥でも、どんどん食べて、飯をうんと食って、疲れている時には、のんきに寝ているんだね。大丈夫だ。まあ、体は大事にしなさいよ」
 彼は、こう言ったあと、一人つぶやくように言った。
 「十九か、大丈夫、十九か……」
 戸田城聖にとって、この夜、現れた山本伸一が、なぜか、いとしかった。
 人びとは、伸一たちの入会決定か否かに、こだわっていた。しかし、戸田は、そのような問題には、少しも触れようとしなかったのである。
 「また来るよ。今度は、来月になるな」
 戸田は、席を立った。
 時計は、既に十時を指そうとしている。
 戸田は、玄関口で、三川の家族に、丁寧にあいさつすると、同じ方角に帰る幹部たちと、暗い道に姿を消していた。
 伸一は、ふと寂しい顔をした。
 居った三島や山平が、いろいろ説明を加えながら、入会手続きを取ろうと、三人の青年に話しかけてきた。
 二人の友は、決心がつかないと、拒否した。
 伸一は、友人に言った。
 「咋日、一緒に読んだゲーテの言葉に、『いつかは終局に達するというような歩き方では駄目だ。その一歩一歩が終局であり、一歩が一歩としての価値を持たなくてはならない』とあったが、ぼくは、今、それを強く感じる。初めて、仏法という世界を、目の当たりに見たようだ。どんなものか求めてみる。こう決意せざるを得なくなってきた」
 だが、二人の青年は、なぜか黙ってしまった。
 伸一にとっても、入会とは、何かに束縛されるような、いまだ見たこともない別世界に行くような感じであった。お先真っ暗な、不安の入り交じった複雑な気持ちでもあった。しかし、今夜の衝撃は、どうしようもなかったのである。
 もう、入会の手続きなど、どっちでもよかった。ベルクソンのことも、遠い淡い観念の世界になっていった。戸田城聖という人――それが彼にとって、実に不思議に、懐かしく思えてならなかったのである。
 それから十日後の八月二十四日、日曜日、山本伸一は、三島由造、山平忠平に付き添われて、「中野の歓喜寮」と呼ばれていた日蓮正宗寺院へ向かった。住職は堀米泰栄であった。後の第六十五世日淳である。
 長い読経・唱題のあと、御本尊を受けた。伸一は、複雑な表情を隠すことができなかった。
 物事を、真面目に、真剣に考える彼にとって、自分の体のことが気がかりであった。彼の体は、決て強靭とはいえない。むしろ、病と闘わねばならない日常であった。彼が、一生涯、宗教革命に、仏法の実践に活躍しきっていけるかどうかは、自分でもわからなかったにちがいない。
13  座談会の行われた、三川の家を出た戸田は、京浜急行に乗り、品川で山手線に乗り換えた。
 同行の幹部は、途中で、さまざまな指導が受けられることを期待していたが、戸田は、なぜか、この夜は黙り込んでいた。
 彼は、十九歳の時、冬休みを利用して、初めて東京に出て来たころのことを、しきりに思い出していた。
 青雲の志に燃えていた彼は、友人と未来を熱く語りながら、いつかは東京に出て学ぼうと決意していた。ともかく、一度、東京を見ておこうと考えた彼は、上京の計画を立てた。
 そこで、札幌に住む友人のつてで、札幌師範学校の卒業生に会い、東京で訪ねるべき人物を紹介してもらおうとした。その卒業生が、師範学校の先輩である牧口常三郎を推薦し、紹介状を書いてくれたのである。
 上京した戸田は、牧口を訪ねた。戸田が、やがて生涯の師と仰ぐ牧口常三郎と初めて会ったのは、この時のことである。
 その出会いから、彼の今日までの運命というものが、大きく滑り出したことを、戸田は、珍しく思いめぐらしていた。
 ――その時、戸田城聖は十九歳で、牧口常三郎は四十八歳であった。
 戸田は、四十七歳になっている。そして、今夜の山本伸一は、十九歳だと言った。彼は、若き日から牧口に師事し、牧口を守りきって、戦い続けてきたことを思い起こした。時代は移り変わり、自分にも、黎明を告げるような真実の青年の弟子が現れることを、心ひそかに期待していたのであろうか。
 戸田は、自分が座っている前の、吊り革につかまっている一人の幹部に、呼びかけようとしたが、また黙り込んでしまった。その幹部は、″今夜の先生は、どうかしている″と思いながら、彼も黙り込んでいた。
14  戸田城聖は、牧口に会ったあと、一度、北海道に戻り、東京での生活の準備を整えて、再度、上京した。
 北海道での戸田は、夕張炭鉱の一区である真谷地というところで、尋常小学校に奉職していた。
 彼は一九一七年(大正六年)、札幌の、ある問屋で働きながら、尋常小学校準教員の資格を取った。翌年の六月、戸田は代用教員として勤め始めたのである。
 真谷地は、夕張炭鉱地帯でも不便な山奥にあった。そのころは、夕張駅から十三キロ程のところにある沼ノ沢駅から真谷地駅まで、約四キロの距離は、炭鉱専用の鉄道が走っていて、乗客の輸送も行っていた。
 真谷地炭山というのは、当時、既に相当な規模であったらしい。それは、この山奥に約四百人の児童・生徒がいたことからもうかがえる。
 若い先生、戸田城聖は、海浜はま育ちであっただけに、炭鉱地の単調な風物には、さぞかし、がっかりしたにちがいない。
 十代の若い先生は、少年少女たちには、いい遊び相手であった。学校が終わると、児童たちは、彼のところに押しかけて、遊んだり勉強したりした。
 猛烈な勉強家であった山奥の代用教員は、その年の暮れには、尋常小学校本科正教員の資格試験に合格し、翌年四月には筆頭訓導となって、六年生を担任した。そして、その年の暮れには、高等小学校本科正教員の免許も取ったのである。
 このような彼を、児童たちは、心から慕っていた。純粋な心をもつ少年少女は、戸田の人格を敏感に感じ取ったのであろう。
 夜は、彼のところで勉強する子どもも多かった。彼の狭い住居は、さながら私塾の観を呈していた。
 子どもたちが、勉強したり、ふざけたり、喧嘩したりするのを、戸田はニコニコ笑いながら、勝手気ままにさせていた。彼らは、調子に乗って、時に先生の戸田と争うこともあった。一人のすばしっこい女の子は、形勢非なりと見ると、さっと彼のメガネを取った。すると、彼は急に戦闘力を失った。
 「かんべん、かんべん」
 彼は、メガネを壊されるのを恐れたのである。山奥のことであり、メガネを失つては、明日から字も読めなくなる。
 児童たちは、凱歌をあげ、先生に勝つ、ただ一つの戦略を自慢した。
 戸田は、めったに怒ることはなかった。しかし、子どもたちが横着して宿題をやってこなかったり、嘘を平気で言った場合、容赦なく叱った。実に厳しかった。時には、涙を流しながら叱る場面もあった。
 彼の在職期間は、わずか一年九カ月である。したがって、教え子の数も少なかったが、児童たちの印象は、どの先生よりも強かった。最初に東京に出た時、戸田は、子どもたちに凧を送っている。皆は、その凧を高々と揚げて、遊んだ。
 それから半世紀近く過ぎたあとも、″老いた児童たち″は、この若い先生のことを、鮮明に記憶していた。そして、異口同音に言うのである。
 「いい先生でした。厳しいところもあったが、あんないい先生は、いなかった」
15  戸田は、担任していた六年生の卒業を間近に控えた二月の下旬、真谷地の尋常小学校を去ったのである。
 彼は、子どもたちにも、よく言っていた。
 「ここは、長居するところではない。早く大きくなって、外に出た方がいい」
 二月下旬、冬の朝、始業直前の教室で、子どもたちは、ワイワイ騒いでいた。すると、ドアが、さっと開いた。子どもたちは、騒ぎをやめた。戸田は、ドアから顔をのぞかせ、教室内を見渡し、何を思ったたか、そのまま首を引っ込めて、静かにドアを閉めて立ち去った。一言の言葉もなかったのである。
 以来、戸田は、二度と教室に姿を現さなかった。教えるべき授業の課程は、すべて終わっていたが、受け持ちの男女の六年生たちの卒業式は、一カ月先に控えていた。
 しかし、三月の卒業式にも、戸田は、姿を見せなかったのである。子どもたちにとって、その時の寂しさは、後々まで心から消えることはなかった。
 ――戸田の退職事情は、詳しいことは不明であり、ただ、一九二〇年(大正九年)三月三十日付で、退職が記録されているだけである。
 だが、その事情を推測する、わずかな手がかりはある。彼を採用した天野校長は、既に退職し、後任の遠藤校長の時代になっていた。しかし、この遠藤校長は、辞令が出てから一度も真谷地に来ることなく、戸田と同じく、三月三十日に退職しているのである。その間、半年近くも、校長の席は、事実上、空席であった。
 戸田の退職の背景には、教員間の何かの軋轢にからんだ事情があったのかもしれない。あるいは、遠藤校長が退職に追い込まれた何らかの事情があって、純情で正義派だった年少の戸田城聖は、それを黙視できずに、退職という行動をとったと想像することもできる。
 彼は、子どもたちに、退職の事情を一言、言おうと、教室に向かったのであろう。しかし、元気で騒いでいる無心な子どもたちの顔を見た瞬間、彼の考えは変わったのではなかろうか。
 人一倍、子どもたちを愛した彼のことである。万感胸に迫り、無言のままドアを閉めざるを得なかったのであろう。
 彼は、その日のうちに雪道を下りていった。荷物をまとめ、一人、決然と銀世界の真谷地を後にした。
 沼ノ沢への馬橇の中で、子どもたちへの愛情から断腸の思いに駆られていた。沼ノ沢からは鉄道で夕張に出、札幌に荷物を預けて、故郷の厚田村の実家に着いた時には、夜も遅くなっていた。
 極寒の二月――着物は雪に濡れ、吐く息は白く凍えた。だが、彼の意志は酷寒に負けず、強固であった。彼はむしろ、希望に燃え、元気に奮い立っていた。
 青雲の志が、彼を急き立てたのであろう。
 翌日、彼は厚田村を後にした。札幌の友人宅で、慌ただしく荷物を受け取ると、汽車に乗った。
 次兄が、宮城県の塩釜で雑貨商を営んでいた。そこにしばらく滞在した彼は、善後策を練ったらい。
 彼が上京し、同郷の友人を頼って、その下宿に落ち着いた時は、既に三月になっていた。だが、彼を待っていたのは、苦闘に次ぐ苦闘であった。
 もし、上京早々、一切が順調であったなら、すなわち就職も、勉学の手段も、難なく進んでしまったとしたら、その後、再び牧口に会うこともなく終わったかもしれない。
 そうであれば、戸田城聖の生涯も運命も、全く別の行路を歩んだことであろう。してみると、彼のこの苦闘は、牧口常三郎と師弟の道を歩むための苦闘であったにちがいない
 戸田は、ある医院に書生として住み込んだり、今日でいうアルバイトを続けながら、転々として落ち着かなかった。しかし、彼の大志は、くじけなかった。
 苦難に降服し、堕落の人生に陥る青年もいるが、戸田は、苦難に向かって雄々しく邁進していった。彼は、「波浪は障害にあうごとに、その頑固の度を増す」という箴言のように、一切の苦難を、自身の大成への試練とし、生涯の財産に変えていったのである。「難難に勝る教育なし」との西洋の箴言があるが、それは、当時の戸田に、最もふさわしい言葉であった。
 このころ、彼は日記にこう書いている。
 「大正九年四月一日
 出京此処に一月、一月の光陰は人生五十年に比すれば短小なれども、其の精神的変化に於ては、過去二十年も遠く之れに及ばざるなり……深思せよ、我は男子なり(中略)大任を授かる可く、身心を練らざる可らず、大任を果す可く身心を磨かざるべからず、即ち国家の材、世界の指導者としての大任を授る可く練り、果す可く磨かざるべからず……小なる我が身、其の質たるや如何……知らず、我れには奮闘あるのみ。一切を捨てて修養あるのみ、今日の人のそしり、笑い、眼中になし、最後の目的を達せんのみ、只信仰の力に生きんと心掛けんのみ。
 修養。一、勉学せしか。一、父母の幸福を祈りしか。一、世界民族、日本民族の我なりと思い、小なる自己の欲望を抑えしか。一、大度量たりしか。一、時間を空費せざりしか。一、誠なりしか」
 二十歳の戸田城聖は、見知らぬ東京で、下宿の暗い電灯のもと、このような日記を書いていた。彼はただ、未来に力強く生きていたのである。そして、何よりも自己の鍛錬を、一切に優先させていた。
 日記のなかに、「信仰の力に生きん」とあるが、いまだ特定の信仰があったわけではない。彼は、苦闘のなかにあって、人生の師を求め抜いていたのである。
 この十日後の四月十一日の日記は、それを語っている。
 「未だ、余は余の師人を見ず、余の主を見ず。しかし、自己の思想の帰依、未だ意を得ず。余は、自己の心中に師を求め、主を求めざる可らざるを知る。大学そもなんぞ。高等学校そも何ぞ。自己の心中に、求む所ありて、始めて社会に奮闘す可きなり、奮闘し得べきなり。
 日に日に向上して、心に笑む可きのみ、俗人の言に耳を傾けるの要あらんや。
 頼り難きは人心。独立なれ。自尊なれ。運命も自己自ら開拓せざれば、鍵開きて来る可き筈は非るなり。大きく見よ、局部のみに非ず、大局を、汝奮闘の土地を、場面を。
 人の嘲笑、世の罵倒そもなんぞ。自己に信ずる所あれば可なり。恐るるな、人の嘲笑、世の罵倒……一度立つ時は、天下を席捲す可き腕を持て……腕と自信をもって立て。知己を百世に求めよ、現世に知らるるを心掛るな。己れに授れる責任を求めて、これを果たせ」
 烈々たる気迫である。この精神が、彼の一生を貫いたといってもよい。ただ、当然のことながら、彼の使命がなんであるかは、自身もまだ知らなかった。
 さまざまな先輩知人にも、面会した。そして、「頼り難きは人心。独立なれ」うんぬんとも書いている。彼の苦闘を物語る一節と、うかがわれてならない。しかし、彼には愚痴は一切なかった。
 なお、この日の日記の最後に、四首の歌が書き添えられている。その一首は、真谷地を偲んでうたっていた。
  竜として
    臥せし真谷地を
      偲ぶ時
    我れを励ます
      子等の顔見ゆ
 彼は、北海道にも、真谷地にも執着はなかった。だが、純情な子どもたちとの別離が、彼の心をさいなんだ。
 彼は、四月のある日、真谷地の教え子たちに、詫び状を書いた。
 「先生は東京にいる。
 みんなの卒業式に行けなくて、さぞかし残念に思ったろうが、どうか勘弁して欲しい。急にいなくなって、びっくりしただろうが、事情やむを得なかった。先生は、決してみんなのことを忘れてはいません。
 なんでも今まで通り、因ったことがあったら言ってきなさい……」
 その後、彼と教え子との聞には、十五、六年にわたって、文通が続いたのである。
 彼は、ある教え子を東京に呼んで、就職の世話までしている。また、ある優秀な教え子から、貧乏のため上級学校への進学ができない嘆きを聞くと、国語の小辞典を贈って激励した。
 この小辞典をもらった少年は、老いてからも、ボロボロになった小辞典をなでさすり、戸田の思愛の深さを思い返すのであった。
 「戸田先生が、真谷地にいたのは、ほんのわずかな期間で、私たちが教わったのも一年足らずでした。だが、同級の者が集まれば、何年たっても、戸田先生のことで話に花が咲きます。大変、有名になられましたが、あんなに情の深い先生はおりませんでした」
 無垢な少年の心は、恐ろしいものである。一人の人間の映像を、いつか自然に、的確につかんでしまっていた。
16  東京は、既に桜の花が散り、春風が心地よい季節を迎えていた。
 向学心に燃えて上京した戸田であったが、経済的基盤が整わず、一日たりとも、苦闘のない日はなかった。
 戸田は、ある日、思いあまって、初めて母方の知人である、海軍中将の屋敷を訪れたのである。
 その家では、遠来の客を座敷に通しはしてくれたが、権門の悲しさは、一青年の大志を理解し得なかった。よれよれの袴をはいた、貧しい身なりの青年である。戸田は、初めは都会人の、人当たりのいい応対に、心を許して話し込んでいた。だが、心では軽蔑しながら、表面だけ相槌を打っていることに、すぐ気づいた。親身に話を聞くよりも、かかわり合いになることを、ひたすら避けていたのである。
 相手の対応が虚礼にすぎないとわかると、彼は、早く帰ることが正しいと直覚し、座を立った。
 彼が帰りかけた時、その家の妻女は、机の上にあった菓子を白紙に包んで、彼に渡そうとして愛想笑いをした。彼は、この時、憤然と拒絶した。
 「私は、こんなものを頂きに来たのではありません」
 彼は、振り返りもせず、立ち去った。以後、二度と、その家の敷居をまたぐことはなかった。
 この時の屈辱を、彼は、生涯、忘れることができなかった。そして、思い出しては、妻の幾枝に繰り返し訓戒するのであった。
 「人を身なりで判断しては、決してならない。その人が、将来どうなるか、どんな使命をもった人か、身なりなんかで、絶対に判断がつくはずがない。わが家では、身なりで人を判断することだけは、してはいけない」
 自ら味わった屈辱の思い出に照らして、彼は、他人には、同じ思いをさせたくなかったのであろう。
 ともあれ、上京当時の失意と挫折のなかで、いかに彼が苦闘していたかを物語るエピソードの一つといえる。
 困り果てた戸田は、真谷地での経験を生かし、教職に就こうと考え、牧口の自宅を訪れたのである。
 牧口は、当時、東京市の教育界では、一風変わった存在であった。一家言をなした彼の教育理論の実践は、識者の注目を集めていたのである。
 しかし、彼の教育観は、戦前、教育の金科玉条とされた教育勅語を、「道徳の最低基準」と喝破するほど、進みすぎていた。そのため、頑迷な俗吏は、彼を白眼視していたのである。
 牧口もまた、先駆者の悲哀を感じていたにちがいない。彼の卓越した理論は、時の教育官僚の用いるところとはならなかった。それどころか、愚かな為政者たちは、この市井の先覚者を冷遇し、迫害し続けたのである。
 牧口は、久し振りに会う戸田を温かく迎えた。そして、戸田が語る上京以来の苦闘と、未来への抱負を、静かに聞いていた。そのなかから、戸田の純粋な性格と、その意気を、あらためて感じ取ったにちがいない。
 「履歴書をお持ちになったかな?」
 牧口の目元には、優しい笑いが浮かんでいた。
 「はい、持ってきました」
 詰襟服のボタンを外した彼は、内ポケットから、封筒に入れた履歴書を取り出した。そして、この時、戸田は思わず口走った。
 「先生、私を、ぜひ採用してください」
 彼は、不思議に牧口に甘えることができた。
 戸田は、真剣な表情で、重ねて言った。
 「私は、どんな子どもでも、必ず優等生にしてみせます。先生、私を採用してくだされば、あとできっと、いいやつを採用してよかった、とお考えになるでしょう」
 「そうか、そうか」
 牧口は頷きながら、笑顔になっていた。
 戸田は、ちょっと照れたが、ここが大事とばかり、再び牧口に言った。
 「先生、ぜひともお願いします」
 「わかった、わかったよ。尽力しよう」
 この日、それからの二人の話は、教育の実践と研究について、長時間にわたって熱心に続けられた。
 この時、牧口は四十八歳であった。
 戸田は、牧口校長という信頼すべき人物に会えたことを、誰人に会った時よりも、心で嬉しく感じていた。
 やがて彼は、西町尋常小学校の臨時代用教員に採用された。そして、牧口と仕事の苦楽を共にするにしたがって、自分の終生の「師」であることを悟ったのである。厳しい「師」であった。生涯、褒められたことは一度もなかった。
 戸田は、いつか、牧口という一人の不世出の教育者に、人生にあっての「師」を見いだし、終生、献身をもって、純真に仕えたのである。
 彼は牧口に対して「弟子の道」を貫いた。この宿縁の深さを、仏法では「師弟不二」として説いている。
 その後、牧口と戸田が、日蓮仏法の門を叩いたのは、一九二八年(昭和三年)のことであった。入信前の二人は、「師弟不二」という言葉は、もとより知らなかったが、その心の奥底では鮮やかに知っていた。
17  今――戸田は、この「師」を失って、三年近くになっていた。そして、一人残された彼にとっては、「師」の遺業を継いで、孤軍奮闘してきた三年間である。
 今の戸田は、牧口に彼が仕えたように、彼と心を同じくする弟子の出現を、心待ちに待っていたのであろうか。
 電車は人びとのさまざまな思いにはかかわりなく、轟々と走っていた。
 夜の十一時近くになると、あの昼間の超混雑の客も少なくなり、夏の夜風が、涼しく感じられる。
 駅々では、疲れた人びとが降りていき、また新しい乗客が車内に入ってきた。
 電車は大崎を過ぎ、五反田に停車した。次は目黒である
 戸田は、まだ何かを思索しているようであった。
 彼は、いつか、彼自身が四十七歳になっていることに気づいた。この夜、山本伸一が十九歳と言った時、戸田は、牧口と初めて会った十九歳の時を思い出したが、現在の彼自身の年齢は、念頭に浮かばなかったのである。
 電車に乗って、自分の青春時代に、さまざまな思いをめぐらした時、牧口常三郎の面影が、ありありと蘇ってきた。そして、その時、牧口が四十八歳であったことに思いいたって、彼は愕然とした。
 ″俺は今、四十七歳だ。山本伸一は十九歳と言った。ともに、ほぼ同じ年の聞きである……″
 彼は、電車に揺られながら、窓外の闇を見つめていた。
 ″十九歳の青年は、いくらでもいる。しかし、牧口先生との出会いの時を、まざまざと思い蘇らせたのは、今日の、一人の青年ではなかったか……″
 彼は、今日の日を考えた。明日は八月十五日である。敗戦の日から満二年の月日が、夢のように流れたことを思い返した。
 この日を、国民は、終生、忘れることはないであろう。屈辱の日とする人もいよう。また、反省の日として、新生日本の、出発の日とする人もいよう。人びとは、それぞれの人生から、この日を年ごとに思い起こすにちがいない。
 戸田城聖にとっては、敗戦のこの日こそ、日本の広宣流布達成への、最大の瑞相であることを、目の当たりに見た日であった。それは悲しく、沈痛な思いをともなってはいたが、敗戦は、まぎれもなく、過去七百年来、日蓮大聖人の教えに背いた歴史の厳然たる帰結であったのだ。
 大聖人の慈悲は、実に逆縁の現証を通して、日本の広宣流布成就の悲願を、まず戸田城聖一人に自覚せしめたのである。彼の自覚の源は、牧口の真の弟子であったこと、そして師弟ともに、敢然と難に赴いたことにあったといえよう。
 今、牧口の遺業を彼と分かつ一人の青年が、四十七歳の彼の前に、出現したのである。仏法が真実であるならば、人類史上、未曾有の宗教革命を断行する人と人との聞に、必ず師弟の宿縁が、存在するはずである。
 ″あの青年は、まだ何も知らない。今は、それでよいのだ″
 戸田は、心にそれを言い聞かせながら、微笑みを含んで目黒駅のプラットホームに降り立った。

1
1