Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

光と影  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
1  創価学会の、戦後第一回の総会が聞かれた一九四六年(昭和二十一年)十一月十七日の二日前、突然、日蓮正宗総本山大石寺六十三世・日満の退位が発表された。日満は、前年十月二十八日に法主の座に就いたが、春以来の病気も癒えず、任に堪えられないと判断したようだ。
 十一月十四日、宗門では臨時参議会が招集された。そして、翌十五日、正式に日満の退位が決まり、即日、水谷日昇が学頭に任じられ、次の六十四世に就任することに決定したのである。日昇が、正式に六十四世に就任する相承の儀式は、翌年の七月十八日に行われた。
 日昇は、五六年(同三十一年)三月に引退するが、日昇が法主になって以来の宗門は、特筆すべき時期となった。なぜなら、在位の十年間、宗門は、創価学会の発展によって、旭日の昇るがごとき勢いを示し、七百年来、かつてなかった興隆をみることになるのである。
 しかし、当時の総本山は、内外に数々の難問をかかえていた。その後の総本山の威容などは、とうてい想像することもできない状態にあった。客殿の焼亡ばかりではない。戦災による焼失寺院・教会は、東京、大阪をはじめ、全国で二十カ寺に上っていた。
 四六年(同二十一年)三月二十八日には、総本山では「戦災寺院復興助成事務局」を発足させた。
 焼失した寺院を建設する資材は、総本山所有の森林を伐採し、製材、運搬して、充当する計画になっていた。
 客殿の復興よりも、まず地方戦災寺院の復興が急務であったのである。戦災寺院復興のためには、助成寄付金を、全国の寺院や檀徒に呼びかけ、募集しなければならなかった。
 日蓮正宗の再建は、このような状況から始まったのである。だが、それをも挫折させる事態が生じていた。同年二月から実施されることになっていた第一次農地改革である。
 それは、不在地主の貸付地と、五町歩(一町歩は約一ヘクタール)以上の在村地主の貸付地を、小作人の希望により、売り渡すことを強制していた。しかし、GHQ(連合国軍総司令部)は、この程度では、いまだ農民解放、民主化指令に適合しない旨を指摘し、第一次農地改革の実施延期を指示した。
 政府は、GHQの勧告を受け入れ、第二次農地改革法案が国会に提出され、同年十月十一日に通過成立した。
 この改革法によれば、在村不耕作地主の保有地は一町歩に限られ(北海道は四町歩)、それを超える部分は、政府が強制的に買収し、これを小作人に優先的に売り渡すことになった。
 総本山も、不耕作の大地主であった。しかも、法律には「法人その他の団体の所有する小作地」は、買収の対象になると規定されていた。総本山は、この規定に該当したのである。
 当時、総本山が周辺に所有していた田畑は、約六十町歩であった。それが、全面的に強制買収の対象になったのである。総本山は強い衝撃を受けた。
 また、この法律には、農地以外でも「農地の開発に供しようとするもの」も買収の対象にできるという一項があった。そこで、上野村の農地委員会は、総本山が所有する六十町歩の田畑のほかに、山林にも目をつけた。傾斜一五度以内の山林は、開墾すれば農地になり得るとして、該当する総本山周辺の山林約三十町歩を、強制買収の対象としたのである。
 結局、総本山は、実に、約九十町歩の所有地を、低廉な価格で買い上げられてしまった。
 世事に疎い僧侶たちではあったが、強制買収の手が、さらに伸びる危険性を予想し、額を集めて研究し始めた。
 ――本山の残された土地を、守らなければならない。それには、買収対象になりそうな山林を、僧侶自らの手で開墾することだ。
 僧侶たちは、自作農地にする道を知ったのである。それには、僧籍を離脱して、耕作農家になる必要があった。開墾適格証を受け、耕作権を認知させる以外に、これ以上の買収を防止する手はなかったのである。
 ″この本山を守るには、野良仕事でも、なんでもする。土地さえ取り上げられなければ……″という切実な考えから、自ら進んで、自作農の手続きをとる僧侶も出たのであった。
 ただでさえ、食糧難の時代である。総本山の僧侶たちは、確保した二町歩余の土地で開墾に励んだ。彼らは、自分たちの食糧を確保し、総本山を維持するためにも、新しい時代の到来を信じて、慣れない鋤鍬を振るったのである。
 来る日も、来る日も、野良仕事である。いつしか、農耕が日課となっていた。たまたま、参詣の信徒が登山してきた日などは、番僧が各坊を触れ回った。それは、月に多くて数回のことである。その日の午後は、農耕は休みとなり、皆、ほっとして、僧侶であったことを、しみじみと思い出すのであった。
 彼らは「農僧」という言葉を発明した。だが、馬などに引かせる農耕道具は、誰一人、持たなかった。すべて、人力に頼るしかなかったのである。その昔、中世には戦闘に従事した僧兵というものが存在したが、終戦後の農地改革は、農僧を生んだのである。
 そのころ、復員した青年僧侶も、ぽつぽつ総本山に戻ってきた。彼らは、明けても暮れてもの農作業に、うんざりした。日常の食事は、イモを加えたイモ水とんや、カボチャである。大坊よりも、各坊の方が、檀家が多少あるだけに、食糧事情は、ましであった。復員の青年僧のなかには、短気を起こして、僧籍に見切りをつけて離脱し、下山する者もあった。
 このような農僧の生活状態は、以後、五一年(同二十六年)秋ごろまで続いたのであった。
 日昇が法主になったころは、このような困難な状況のなかにあったのである。
2  戦後第一回の創価学会の総会直後から、戸田城聖の月・水・金曜日の法華経と御書の講義は、にわかに活発さを加えてきた。受講者は、回を重ねるごとに激増していった。それは、彼の意気込みの結果にほかならなかった。
 戸田の熱烈たる確信は、これらの受講者を、急速に実践家に育て上げていった。受講者にしてみれば、講義には、建設への希望と情熱があった。彼らは、戸田の講義を受けながら、未来の建設への理念と思想を吸収して確信を深め、活動の舞台を広げていった。
 日曜日を中心とした、各所の座談会も活発化してでいる。それを、どのように理論的に、また文献を裏付けにして説明していくかを、戸田から学び取っきた。そして、火・木・土曜日にも、しばしば臨時の座談会が、華々しく開催されていったのである。
 時には、未入会の人を交え、真剣のあまり、激論になるような折伏の光景も見られた。
 戸田は、これら一切の会合の、先頭に立たなければならなかった。弟子たちは、勇んで行動しているものの、相手を十分に納得させるには、まだ力が弱かったからである。
 「この信心は絶対だ」「この宗教は間違いない」と叫びはしたが、どうして絶対であり、間違いないのかを、相手に納得させる力がなかった。そのためには、まず弟子たちに、実践を通して指導していかねばならなかった。
 彼らは、皆、熱心であった。体験は明確につかんでいる。それを、どのように理論的に、また文献を裏付けにして説明していくかを、戸田から学び取っていった。
 戸田は、夜ごと、寸暇を惜しんで飛び回った。鶴見に、小岩に、蒲田に、また目白や中野など、彼の行動半径は、京浜一帯にまで及んでいた。都内は街灯もなく、街は暗く寒かった。極度の近視の彼は、でこぼこの夜道は苦手だった。転びそうになったことが幾度もある。だが、定刻には、決まって、意気はつらつとした姿を、座談会場に現した。
 会場は、畳がぼろぼろの、四畳半の借間のこともあった。床の傾斜した、屋根裏部屋のこともあった。引力に逆うために、力んで座っていなければならなかった。また、床板が抜けているのであろう。歩くたびに、タンスの引手が、カタカタと鳴る家のこともあった。
 電灯の暗い家が多い。その下に、戸田が姿を現し、「よう!」と元気な声をかけると、人びとは、決まって笑顔になった。
 待ち構えていたように、さまざまな質問が飛び出してくる。その瞬間から、人数は少なくても、座談会は始まった。形式を避け、実質本位であった。
 戸田は、何事にも形式主義を嫌った。生命と生命との、実質のある触れ合いは、形式的な官僚主義からは生まれない。あくまで庶民の味方として立つ彼は、一切の形式的な虚飾を取り去って、庶民の、ありのままの生地を大事にしたのである。
 彼は、いかにも庶民的な指導者であった。仁丹をポリポリかじりながら、質問者たちのくどい話を、じっと聞いては、それを要約し、極めて単純化して応答した。そして、信心の深さと強さを教え、途方に暮れた人たちに、御本尊の功力の偉大さを教え、激励した。
 仕事の都合上、遅れて来る人も多かった。その人たちが来る時刻には、部屋はいっぱいで、座を何度も詰めなければならなかった。会合は決まって、明るく、温かな、高揚した空気が流れていた。
 戸田は、戦後日本における布教形態として、あえて小単位の座談会を各所で開いていった。たいていは、わずか数人から二十人程度の会合である。
 このような地味な会合を、座談会として活発に行ったのには、理由があった。
 そこには、老人も、青年も、婦人も、壮年も、誰もが集うことができる。貧富の差や、学歴の違いは、全く問題ではない。むろん、この会合には、中心者はいるが、あくまで皆が主役である。
 したがって、今日、初めて来た人も、あるいは信仰に疑問をもっている人でも、自由自在に意見や、質問や、体験を語ることができる。
 一切の形式抜きで、全員が納得するまで、語り合うこともできる。
 戸田は、これこそ民主主義の縮図であると考えた。
 ――赤裸々な人間同士の、生命と生命が触れ合って、心と心とが通い合う会合である。いわば仏道修行の、求道の道場でもあろう。また、学会を大船とすれば、座談会は大海原である。大海原の波に乗ってこそ、民衆救済の大船は進むことができる。
 講演会や、大集会を開くのもいいだろう。しかし、それだけでは、指導する側と民衆との聞に、埋めることのできない溝ができてしまう。あくまでも、一人ひとりとの対話こそ根本である。どこまでも、牧口会長以来の、伝統の座談会を、生き生きと推進し続ける限り、広宣流布の水かさは着々と増していくであろう。
3  戸田は、同行していた弟子たちを指名する。そして、仏法の歴史や人生の目的を、さらには幸福論や十界論を、語らせるのであった。その後、参加した友人に対して、おもむろに折伏を始めるのである。
 まず、考える材料を十分に示して、参加者の質問を受けた。
 友人たちのタイプは、さまざまであった。疑い深そうな人もいれば、何かを求めているような人もいた。とぼけた質問をする人もいれば、憤然としている人もいた。なかには、失笑を買うような、的外れな質問をする人もいた。
 戸田は、どの質問にも、穏やかではあるが、厳然と応答した。そして、誰人をも納得させていくことに、努力していた。
 だが、多くの人が、内心、入会を決意しかかるとろ、会場の一隅から、しばしば、それを阻むような、激しい発言が飛び出すことがあった。その多くは、復員服姿の青年たちである。
 彼らは、頬はとけ、目つきの鋭い形相で、暴言を吐き、食ってかかってくる。
 「俺は、騙されないぞ! そんなうまい話に、騙されるかっていうんだ。そんなインチキは、ごめんだよ!」
 青年を連れてきた人は驚いて、その青年のズボンや上衣を引っ張ったりして、黙らせようとする。
 戸田は、それを制し、変わらぬ口調で言った。
 「しゃべらせなさい。言いたいだけのことを、しゃべらせなさい」
 そして戸田は、青年に向かって、沈着に呼びかけた。
 「騙すとか、騙されないとか、言っているが、いったい、何のことかね。それを聞こうじゃないか」
 青年は、一瞬たじろいで、われに返った。だが、堰を切った憤怒を、今さら抑えることもできなくなっていた。敗戦によって、希望を喪失したとの青年たちは、理性も消滅し、残った感情だけの叫びしかなかった。
 「そうじゃないか。俺は、騎されないぞ!
 仏国土の建設――そんなお説教には、もう騙されないぞ。俺たちは、考えてみれば、もの心ついてから、ずっと、編され続けてきたようなもんだ。
 『天皇の軍隊』『無敵海軍』『八紘二子』『聖戦』『欲しがりません勝つまでは』……いじらしいじゃないか。俺は感激して予科練に入り、最後に特攻隊となった。『神州不滅』『悠久の大義に生きる』――ここまできた時、ちょっと寂しかったねえ。だが、俺たちの死が、日本民族の永遠の繁栄のためになるなら、喜んで死んでいけると、心から思っていた。
 ところが、どうだ。めちゃくちゃじゃなか。目が覚めて、自分が何をやってきたかを、冷静に振り返ってみたら、とんでもない。みんな、嘘っぱちだったよ。若い俺たちは、いい調子に踊らされていただけだ。
 俺は、そこで、トコトンまで考えたね。踊らしたやつは、大悪党だが、騙され続けてきた俺たちも、大間抜けの、お人好しだと悟ったね。人を恨んだって、始まらない。ただ、この先、いったい何年、生きるものかは知らないが、もう絶対に、二度と騙されまいと、俺は固く決心したんだ」
 だぶだぶのズボンが印象的である。特攻隊時代のものであろう。青白い顔である。
 青年は、顔を少し痙攣させ、空をにらむようにして、口を結んだ。捨てばちのようにも見えるが、単純ともいえる。強がりを見せているのであろう。
 戸田は、聞き終わると同時に、青年に呼びかけた。
 「君の言うことは、おそらく間違っていまい。君自身が経験したことなんだから、事実といえば、事実だろう。騙されたと知ったことは、今の君にとって、かけがえのない真実だとも思う。しかし、今の君の不幸は……」
 ここまで戸田が語ると、青年は、素早く機先を制し、手を振ってさえぎった。
 「冗談じゃない。そう簡単に、俺が、今、不幸だなどと、決められてはかなわない。正直いって、俺は、不幸でもなければ、さりとて幸福でもない」
 「では、なんだ」
 「なんでもないのさ。それだけの話よ」
 青年は、明けるように笑った。だが、その笑いの虚無的な寂しさを、戸田は見逃さなかった。この青年を、哀れに思わずには、いられなかったのである。
 戸田は、この青年をかわいいと思った。
 「君は、今、真剣に考えているようだ。ぼくも、真剣に話そう。まあ、こっちへ来て、座りなさい」
 ″特攻隊″は、やっと前に進み出てきた。小机を挟んで、戸田の前に正座した。青年の殺気は、やや消えていた。
 戸田は、笑いながら言った。
 「君は、騙された、騙されたと、一年半も腹を立ててきたわけだね。深く考えてごらん、つまらないことだ。もう今夜限り、腹を立てるのは、やめたまえよ」
 周囲の人びとは、くすくす笑いだした。だが青年は、笑わなかった。また、腹を立てたようである。
 「君は、騙されたといったが、そう悟る前は、騙されたものを本当に信じていたんだね」
 「信じていましたよ。心から信じ切っていましたとも。だから、腹が立つんだ」
 戸田は、頷きながら、だだっ子をあやすように言った。
 「信じた君が、悪いわけではない。信じたものが、あまりにも悪かっただけだ。それを君は、気がつかなかった。気がついたら、腹ばかり立つでしょうがない。そうだろう」
 「そうです」
 「君の経験でわかるように、無批判に信じるということは、恐ろしいことなんだ。世の中に、こんな恐ろしいことはない。間違ったものを信じると、人は不幸のどん底に落ちる。どんなに正直で、どんなに立派な人であっても、この法則に逆らうことはできない。君は、こういうことを、ちょっとでも考えたことがあるかね」
 「…………」
 青年は、返事をしなかった。いや、うつむいてしまったのである。
 「これは、ぼくが勝手に言っているのではない。七百年も前に、日蓮大聖人という方が、鏡に映したように、はっきりと、おっしゃっていることだ。何を信じるかによって、人生の幸・不幸は決まってしまう。これは、宗教という面に、最も強く、鋭く現れるものだ。人生百般、ことごとく同じだと思う。
 君は、誤った思想、一口に軍国主義といってもよい――要するに間違った思想を、少年時代から正しいと信じて、行動してきた。その帰結が、今日の君の人生という結果を生んだにすぎない。
 少年の君に、信じ込ませた者が悪い。″憎むべきやつらだ″と君は思うだろう。しかし、彼らも正しいと信じて、君に教えたにすぎない。彼らもまた、大部分の人は、君と同じように、本質的には不幸でもない、幸福でもない、なんだかわからないといったような道に、落ち込んでいる。それは当然のことだ。
 このことは、どうしょうもない必然であるし、厳然たる事実だ。だが人は、信じなければ、なんの行動も取れないから、いろいろなものを簡単に信じてしまう。君は、今、信じるということの恐ろしさを知ったはずだ。だから、もう騙されまいと、張りつめている。その君の心の動きは、ぼくには、よくわかる」
 青年は、″おやっ″という顔をして、戸田を見つめた。自身の頭のなかが、幾分、整頓されてきたのであろうか。虚無的に見えた表情が、はにかんだ表情に変わってきた。
 戸田は、しばらく青年の顔を見つめていた。
 全員の耳は、戸田の次の言葉を待っていた。
 「しかし、君が、ここで考えねばならないことは、心から信じるに足るものが、果たしてこの世にあるか、ないかということだ。
 キケロという哲学者も、病気にかかった思想は、病気にかかった肉体よりも始末に負えないし、その数も多い――と言っているくらいだ。
 結論的に言って、日蓮大聖人は、一切の不幸の根本は、誤った宗教・思想にあると断言していらっしゃる。そして、究極のところ、正しい宗教・思想は、何であるかをご存じだったから、あらゆる迫害に屈せず、命をかけ、大確信をもって、お説きになったのだ。その大聖人様が、君を騙して、いったい何になる……。
 間違った宗教・思想が、不幸の原因だとしたら、正しい宗教・思想が、人びとを幸福にするのは当然じゃないか。少しも不思議なことなんかあるものか。
 その正しい宗教の根本法を、南無妙法蓮華経という。大聖人様は、末法の不幸な民衆を憐れんで、その根本法を、御本尊という形にして残された。それが、ここの家にもある、あの御本尊様です。観念論でも、空論でもない。偶像崇拝でも絶対ない。この御本尊を対境として、自身の仏の生命を涌現していく宗教だ。自分自身の仏界を涌現して、自己の最大最高の主体性を確立し、人間革命していく宗教です。
 ずいぶん飛躍した言い方をすると、君は思うかもしれない。それは君が、まだ仏法の真髄を、全然、知らないからだ、ともいえると思う。
4  天文学の基礎知識がなければ、天文学の真髄は、ちょっとわからない。数学も、経済学も、同じことだ。この仏法のことも、教学的に理解できれば、理論的にも当然の帰結として、正しい宗教であることがわかる。
 だが、それは、少々、面倒なことだし、今、君に話しても、外国の話みたいになってしまうかもしれない。しかし、これからいくらでも、自分で究明できることだ。
 全宇宙現象の鏡に照らして、正しい生命の法がある。人が知ろうが知るまいが、厳然と存在しているのだ。これを真実の仏法というのです。この根本を知らないでは、何をしようが、本源的に誤ってしまう。
 ところが君は、その仏法について、これまで知らずにきた。無知ほど怖いものはない。ぼくは、今、君に会って、君を、このような無知のままに捨てておくことはできない。
 ぼくが、何か欲得で言っているとは、君も、まさか思うまい。どうだね」
 「……思いません」
 青年は、思わず素直になって、頷いた。
 戸田は、微笑をたたえて言った。
 「君は、まだ気づかないが、君の前途は、実に明るいのだよ。それは間違いない。ただ、それには新しい思想、新しい正しい信仰で、人生を生き切っていくことだ。その当体たる御本尊を、抱きしめていくか否かによって、決まってしまう。
 自由と思いながら、狭い、暗い鉄管の中を歩むか、それとも大宇宙の法則に合致した、明るい自由な新天地、人生行路を、自信と希望をいだいて乱舞していくか――それによって、君の長い未来図は、決定されてしまう。それは、どうしょうもない」
 「あなたの、おっしゃることは、おそらく正しいと思います。しかし、今の私は頭が混乱してしまった。あとで整理して、よく考え直したいと思います」
 青年は、こう言って戸田の顔を、ひたと見た。言葉には、どこか訛がある。
 「そうか。君は考えるのが好きなようだから、よく思索したまえ。ただし、一世一代のつもりで考えなさいよ」
 座にいる人びとは、どっと明るく笑った。真面目に聞くようになった青年を、温かく祝福するような笑顔であった。
 青年は、顔を赤らめて言った。
 「考えます。そして、必ず結論を出して、伺います。これだけは、あなたの誠意に応えるために、お約束します。ありがとうございました」
 彼は、戸田の温かい心には、逆らえなかった。
 一週間後、その青年が入会したという知らせが、戸田のもとに届いた。
 それから間もなく、戸田のところに現れたが、すさんだ面影は、きれいに消えていた。彼は、落ち着いた口調で、家庭の事情を述べ、郷里である九州に帰る決心ができたことを、喜んで戸田に告げた。
5  戦後日本の荒廃と虚脱が生んだ、このような青年は、巷にあふれていた。
 空虚感に、さいなまれていた青年たちは、民主主義の世の中になって、社会主義思想が台頭すると、たちまち、それに、飛びついていった。
 座談会にも、そのような青年が、しばしば現れた。熱に浮かされ、やっと覚えたばかりの社会主義的言辞を、おぼつかなく弄して、わめき散らした。
 戸田は、苦笑しながら、大聖人の生命哲理の深遠なることを説いたが、彼らの鼓膜は、いたずらにそれを拒んだ。
 当時、勤労大衆の最大の問題は、その日、その日の、生活のやりくりにあった。いや、その他のことに、耳を貸す暇がなかったのである。彼らにとって、ただ、その解決の道は、賃金の値上げにあった。すさまじいインフレーションの嵐――その、暗い、深い洞穴に、彼らは怯え、苦しむだけであった。
 労働組合の結成は、燎原の火のように全国に広がっていき、さらに各所には、ストライキが頻発していた。林立する赤旗は、まるで各所に火の燃えている感じであった。この賃上げ闘争が、労働者の唯一の生命線となっていたのである。
 彼ら勤労大衆は、一九四六年(昭和二十一年)秋ごろから、この労働戦線に、怒濤のごとく押し寄せた。それは、いかなる障害物をも押し倒しながら、激流となって流れ出した。そして経済闘争は、いつか政治闘争となり、翌年二月一日の、全国的なゼネストへと発展していくのである。
 戦時中、投獄されていた共産主義者たちは、四五年(同二十年)十月、治安維持法がGHQ指令によって廃止され、釈放された直後、GHQの前で、「マッカーサー万歳」を叫んだ。彼らは、占領軍を「解放軍」と思い込んでいた。
 そして、戦後、労働戦線が飛躍的に拡大していくと、彼らは、それが自らの力によるものと過信し、政治革命を夢見た。
 社会は、急激に変化し、政治革命の潮流が、新しく押し寄せて来るかのように思えた。世の中は騒然としていた。
 そのなかで戸田城聖は、そうした社会の動きとは、はなはだ隔絶しているように見えた。
 彼は、情熱の一切を、法華経と御書の講義に傾けていた。そして、各所の座談会に臨んでは、のんきそうに冗談を飛ばして、指導していた。これは、一見、時代離れのした挙動にさえ見えた。
 だが、彼は、決して時代の潮流を避けていたのではない。このような社会情勢のなかで、誰人も夢想だにしない広宣流布をめざし、日蓮大聖人の仏法の真髄を、いかにして人びとに納得させるかに、心を砕いていたのである。しかも、飽くことなく、連日、説き続けることが、彼にとっての、時代変革の戦いであった
 一切の活動の根底にこの大宗教を置く以外に、本源的な解決はできないことを知悉していたからである。
 ちなみに、四六年(同二十一年)十二月十四日付の朝日新聞には、マッカーサーが、アトランタ在住の南部パプテイスト教会会議議長、ルイス・D・ニュートン博士に送った書簡が載っている。
 「日本人の精神生活は、戦争で空白となっているから、キリスト教を日本人に布教するのは、今が絶好の機会である。もし、この機会が、アメリカのキリスト教指導者たちによって、十分に利用されたならば、これまで歴史上どんな経済的、または政治的革命が達成したよりも、はるかに文明の進路に多幸な変化をもたらすような精神革命が成就されよう。
 日本の占領行政は、その当初から、なるべく連合軍の兵力を行使しないようにして行われた。占領行政の方向は、もちろん連合軍の政治目標の達成に、しっかり向けられていたが、その一歩一歩は、力によるとか、連合軍の銃剣の脅威によるとかよりも、正義、連合軍の寛容自戒というキリスト教の指導的教義によって達成された。
 実に、これらの教義こそは、確固たる態度を失うことなく、われわれが実施して来た、全占領政策の基礎をなすものである」
 なお、後にマッカーサーは、「日本民衆の、いかに宗教心のないかを嘆いた」と、もらしている。占領政策に利用するのが目的であったとはいえ、民衆の思考の基盤に、宗教が必要であると、彼が考えていたことは、間違いない。
 戦後、さまざまな宗教団体が雨後の笥のよう現れた。しかし、それらの教団に人びとが求めていたものは、本来の宗教心とは、程遠いものであった。その教団の多くは、なんの哲学的理念もなく、まやかしの装いをはぎ取られると、やがて消えていくことになる。
 また、伝統的な宗教も、未曾有の激動の時代を迎えて、夕日の沈むように精彩を失っていったのである。
 時代の動きに左右されず、国境、民族を超えて広まる、普遍妥当性がなければ、真実に正しい宗教とはいえないであろう。
 戸田は、今、生きた宗教が、日本に実在することを知っていた。そして、人びとを覚醒させるためには、仏教の真髄である、日蓮大聖人の生命哲理による以外にないと確信していた。それが、一切の生活の原動力になるべきであると考えていたのである。
 それは、道理のうえからも、また、さまざまな文献によっても、さらには自身の体験からしても、絶対に誤りのないことを、彼は固く信じていた。
 釈尊の仏法が力を失ぃ、既成仏教が無力と化した姿を目の当たりにした戸田は、大聖人の仰せ通り、南無妙法蓮華経こそが、民衆を根底から救い得る宗教であると、いよいよ確信を深めていった。彼の胸には、正法広布の決意が、強く脈打っていたのである。
 彼は、何ものにも動じず、泰然自若としていた。だが、激しい潮流のなかで、足を踏み締めていくには、強い勇気と信念を必要としていたのである。
 潮流は、彼の身に当たっては砕け、飛沫を飛ばして、また流れていった。しかし、彼の大信力は、一人で時代の潮流に逆らい、それに完全に耐えていたのである。
6  一九四七年(昭和二十二年)の正月――戸田と、彼の弟子たちは、総本山大石寺に登山した。総勢は、三十九人である。一年前の正月、彼は、わずか六人の弟子を相手に法華経の初講義をした。その時に比べると、にぎやかな初登山だった。
 新年とはいえ、日本の勤労大衆の生活は、満足に食べることも、ままならぬ状況であり、その有望な突破口が、労働組合運動であった。
 敗戦一年余を経て、日本経済は、いまだ低迷を続け、混乱の極にあった。そのうえ、とどまるところを知らぬ、急激なインフレである。物価は、戦前の二十倍、三十倍とはね上がり、庶民の生活を直撃していた。困ったのは、労働者であり、サラリーマンたちであった。日を追って進むインフレで、どんなに汗水たらして働いても、たちまち貨幣価値は下落し、すべてが無意味なものとなっていた。
 労働運動は、生きるため、食うための、生活闘争そのものであった。
 当初、大資本は、膨大な資材等を抱えながら、生産活動には消極的であった。″カネよりモノ″の時代である。一夜明ければ、手持ちの資材は、居ながらにして高騰していく。資材を生産に向けるより、値上がりを待って、そのまま売る方が、はるかに儲かる計算である。いわゆる生産サボタージュである。
 それが、生産の縮小、人員整理というかたちで、労働者にのしかかっていた。さらに、多くの経営者は、急激な時代の激流の前に、生産計画どころか、経営方針すら立たず、茫然自失の状態であった。
 四五年(同二十年)秋、読売新聞の社員による、新聞の自主発行が引き金となって、生産管理、経営管理といわれる労働運動が、全国に波及していったのは、自然の成り行きでもあったといえる。資本家、経営者を棚上げし、勤労者、従業員が、自分たちで、工場、職場を動かし、物を作り、売るということが、たちまちにして広がっていったのでる。それは、生産サボタージュへの対抗手段でもあった。
 たとえば、東京の京成電鉄労組は、同年十二月、賃上げ五倍の要求で会社首脳部と交渉し、決裂した。当然、ストライキ決行である。
 だが、彼らは、乗客の不便を考えて、十二月十日から三日間、無賃輸送という、新戦術に出たのである。さらに、十四日からは有料輸送に切り替え、増発に次ぐ増発で、乗客輸送にあたった。
 二千三百人の従業員たちは、結束し、車両修理に、乗客輸送に、奮然として働いた。車両工場の二百八十九人の修理工全員は、徹夜作業で、無賃輸送の三日間に、たちまち二十両の修理を完了するという、快記録をあげた。平常は、食糧難その他で欠勤も多く、一日に一、二両の修理が、やっとであったというから、二十両とは驚くべき数字であったわけである。
 「自分たちの手で、経営している」という励みは、休日さえも返上させたのである。
 売上金は、争議本部の集計によると、五日間で、二十二万九千余円になった。当時、会社の毎月の本給総額は、十二万円であった。したがって、半月の生産管理で、その三倍の六十万円以上が見込まれ、闘争本部は、「五倍」の賃上げに自信をもったのである。
 結局、会社側は、十二月十九日に、労働者側の要求をのみ、争議は幕を閉じている。
 こうして、生産管理という名の労働運動は、四五年(同二十年)十二月に四カ所であったものが、四六年(同二十一年)一月には、日本鋼管鶴見製鉄所など十三件、二月には三菱美唄炭鉱など二十件、三月に三十九件、五月に五十六件と数を増した。実に、労働争議の半数近くを占める勢いであった。
 政府首脳や、大資本家たちは、資本主義経済の基盤を揺るがしかねない生産管理は、社会主義的変革への道を開くものだと気づき、そのすさまじい波及に慌てだしたのである。
 この年の二月一日、政府は、日本鋼管鶴見製鉄所の生産管理を機として、内務、司法、商工、厚生の四相声明を出し、「近時労働争議などに際して、時に暴行、脅迫または所有権侵害等の事実の発生を見つつあることは、真に遺憾に堪えない」と、警告を発した。
 これに対し、労働者側は猛反発し、生産管理は、生産サボタージュに対抗し、飢饉とインフレの危機を打開する唯一の方法であるとして、政府を非難し、四相声明は撤回を余儀なくされた。
 このころから、労働争議は、一段と深刻化していった。労働組合が続々と組織され、一大勢力となっていった。全国組織化への動きも、活発化していった。
 初め、GHQは、生産管理の方式も、占領政策を脅かさない限り、労働組合運動を育成するという民主化方針から、干渉しないでいた。
 しかし、五月二十日、マッカーサーは、前日の食糧メーデー・デモに不快感を表し、「暴民デモ許さず」との声明を発表する。労働運動に対しても、GHQは、占領政策に好ましくない動きとして、強硬的な姿勢を見せ始めた。
 日本政府も、五月二十一日、内務省が違法な生産管理争議の取り締まりを全国の警察に指令したのに続き、六月十三日には、吉田内閣は、「社会秩序保持に関する声明」を発表し、政治的なデモ、生産管理への圧力を強めていた。
 だが、労働運動は、いよいよ燃え盛っていった。
 この年七月、運輸省は、吉田内閣の方針に従って、国鉄に全従業員五十五万人のうち、七万五千人を人員整理することを通告する。船舶運営会も、戦時中の徴用船員四万三千人の解雇を、海員組合に申し入れた。
 この大量馘首に、国鉄の労働組合(国鉄総連)と、海員組合は、「共同ゼネスト」で、猛然と立ち向かうこととなったのである。
 時あたかも、全国組織化へ準備を進めていた、日本労働組合総同盟(総同盟)が八月一日に、全日本産業別労働組合会議(産別会議)が八月十九日に、相次いで結成された。産別会議は、国鉄労組、海員組合への支援を決定し、全国的に、国鉄、海員「ゼネスト」の共闘態勢が打ち出された。
 政府が大量解雇案を撤回しなければ、全国的なストライキは必至となった。輸送の基幹となる国鉄の機能停止は、社会的な混乱を招くことになる。
 政府は、スト決行と決定していた九月十五日寸前の十四日に、人員整理案を撤回して、ひとまず組合の勝利に終わった。海員組合は、九月十日から十一日間のストを決行して、こちらも解雇を撤回させたのである。
 これを受けて産別会議は、この一斉にストを打つというゼネスト戦術を、他の民間企業にも拡大し、大規模に展開することを決定した。いわゆる「十月攻勢」である。
 まず、十月一目、東芝労組の六十三工場四万六千人が首切り反対、最低賃金制などを要求し、ストに入った。石炭産業、新聞・放送、映画・演劇、印刷・出版、電産(日本宮駅産業労猷組合)と、次々にストは呼応して、全国に広がった。日本社会は、いよいよ騒然とした、労使対決の様相につつまれていた。
7  戸田城聖は、このような社会情勢を、無言で、じっと見ていた。
 彼の弟子のなかにも、労組の闘争委員になり、学会の会合に足が遠くなった人もいた。彼は、それらの弟子たちの身の上を案じた。彼と、常日ごろ接する弟子たちのなかにも、現在は生活闘争に基づく社会改革を、第一義的に置くべきであると考え始めた人がいた。
 ――民主主義社会の直接的な建設が、当面の重大問題である。学会の信心活動は捨てないまでも、今は第二義的に考えるべきではないか。
 このような質問を受けた時、戸田城聖は、おそろしく深刻な、真面目な表情になった。
 「君たちの心が、わからない、ぼくと思うのか」
 彼は、激しい口調で言うのであった。
 そして、深く息を吸ったあと、諄々と諭した。
 「かわいい弟子たちが、生活のために、一生懸命に戦っている。愛する君たちのために、ぼくが必要だというなら、ぼくは、デモの先頭に立って、赤旗でもなんでも振るよ。しっかり、自由にやりたまえ。
 しかし、それで一切が解決するように思い込んでいるが、それは錯覚だ。妙法による本源的な解決からみれば、何分の一の解決でしかない。どうなろうとも、題目をしっかりあげ、御本尊様に願い切ることが、一切に花を咲かせていく究極の力であることだけは、瞬時も忘れてはならない。そうでなければ、信心している価値がない」
 激励とも聞こえる。訓戒とも思える。戸田のこの言葉に、弟子たちは、理解しかねるという顔をした。だが、「君たちが必要とするならば、先頭に立って、赤旗でもなんでも振るよ」という彼の愛情だけは、胸にこたえた。
 彼らは、今さらのように、戸田の顔を、まじまじと見つめた。
 戸田は、思いめぐらすように、唇を固く結び、続いて独白するように言った。
 「経済の闘争にしろ、政治の戦いにしろ、結局は妥協で片がつく。もちろん、これらが当面の生活問題として、大事なことは当然だ。だが、それだけでは、大波の上の小船のようなものとなってしまう。
 われわれの広宣流布への戦いは、大波を静穏にし、船舶を安心して航行させる戦いなのだ。したがって、宗教革命という、妥協のない、厳しい、次元の異なった、根本的な戦いをしていくのだ。
 いずれ、みんなも、それがはっきり、わかる時がくる」
8  一九四六年(昭和二十一年)秋、およそ五十万人の労働者を動員した「十月闘争」は、十月から十一月にかけて、全国各地で、ストライキなどの圧力をかけながら、労使交渉を繰り返した。そして、労働者側は要求を通し、勝利を収めていった。
 このストライキの波が、今度は、官公庁労働者に移っていったのも、自然の流れであった。賃金が二割上がった民間に対して、官公庁の給与水準は、民間の五割以下と、格差が大きく開いていたからである。
 ここにきて、官公庁関係の労働組合が、共同闘争に立ち上がったのも、無理からぬことであった。彼らも、破滅に瀕した生活を、必死に守らなければ、ならない、ギリギリのところまで追い詰められていた。
 彼らの交渉相手は、政府である。いな、政府の経済政策、労働政策そのものとの闘い、ということになった。そして、経済闘争として出発したはずの闘争は、いつしか政治闘争へと転化せざるを得なくなっていったのである。
 十一月二十六日、官公庁労働者の書く組合は「全官公庁労組共同闘争委員会」(共闘)を結成した。
 これに加わったのは、国鉄労働組合(五十三万人)、全逓信従業員組合(三十八万人)、全日本教職員組合協議会(三十三万人)、全国官庁職員労働組合議会(八万人)、全国公共団体職員労働組合連合会(二十三万人)である。その他の官公庁関係の組合も、相次ぎ、これに参画していった。
 十二月初旬、同委員会は、越年資金、最低基本給の獲得など、十項目の共同要求を掲げ、政府に提出した。
 十二月十日、政府は回答を発表した。
 ――要求通りの賃上げは、全産業の賃金体系にも大きな影響を与え、経済政策の舵取りを阻害しかねない。また、左翼運動を勢いづかせることになりかねない。
 その回答は、組合側の要求を全く拒否するものであった。その同じ日、「共闘」は、生活権確保全国官公庁労働者大会を開催し、あくまで、闘争によって要求を勝ち取ることを確認し、内閣糾弾、全面対決の姿勢を強めていった。
 一方、十一月二十九日には、労働組合の全国組織である、日本労働組合総同盟(総同盟=社会党系)、全日本産業別労働組合会議(産別会議=共産党系)、日本労働組合会議(日労会議=中立系)が合同で、初の全国労働組合懇談会を開いた。そして、十二月二日の第二回懇談会で、十二月十七日に、官公庁の闘争に全労働者が共闘する、吉田内閣打倒国民大会の開催を決定した。それは、労働運動の政治闘争化を、意味するものであった。
 「生活権確保・吉田内閣打倒国民大会」は、予定通り、十二月十七日、皇居前広場で聞かれた。大会本部では、参加者総数約五十万人と発表した。
 この集会を呼びかけたのは、全国労働組合懇談会、日本農民組合(日農)、社会党で、参加団体には、産別会議、総同盟、日労会議、国鉄、全逓、全国官庁職員労働組合協議会(全官労)、都労連、さらに、市民団体、引揚者団体、その他、全日本造船など、各独立単位組合が、名を連ねた。同じ日、大阪、横浜でも、大会が開催された。
 皇居前広場の会場には、赤い組合旗、プラカードが林立し、五月に行われた食糧メーデーの再現を思わせた。かつて天皇の軍隊が行進した、その同じ広場でのことである。
 マイクの準備が間に合わず、大会は、定刻になっでも始まらなかった。しかし、参加者からせかされて、ようやく、午前十一時に、日農の野溝勝の開会あいさつでスタートした。
 続いて、大会の議長、副議長二人が壇上に立った。このあとも、なんとか準備できたマイクの調子は悪く、登壇した総同盟、産別会議、日労、野党の代表らは、声を張り上げ、声をからして、次から次へと、政府の経済政策を批判し、内閣退陣、内閣打倒を叫んだ。
 最後に、都労連の代表が内閣に対する大会決議を、協同組合の代表が各野党に対する決議を読み上げ、それぞれ可決された。そして、参加者たちは、この両決議をもって、国会議事堂に向かっていったのである。
 午後零時半、産別会議系組合を先頭に、総同盟系組合が最後列となって、デモ行進に移った。行列は延々と続き、皇居前広場を出て、馬場先門から京橋、昭和通り、新橋、虎ノ門を経て国会議事堂に着いた。そのあと、デモは桜田門の警視庁前を通って、再び会場に戻り、午後四時過ぎに解散した。
 国会では、大会の実行委員三十余人が、吉田首相に会見を求めたが、首相は多忙を理由に面会を断り、代わって国務相の植原悦二郎が形ばかりの応対をした。
 こうした院外の動きと呼応し、国会の院内では、社会党、協民党、国民党の野党三派の共同提案による議会解散要求決議案が、この日、午後一時二十二分から聞かれた衆議院本会議に上程された。国会の外に内閣打倒のデモ隊が行進している、まさにその時刻、議場では、賛成、反対の演説が行われていたのである。議場には怒号が飛び交い、休憩をはさんで夜まで、与野党の応酬が繰り広げられた。採決の結果は、二百三十六対百六十で、決議案は否決された。
9  その後も、政府と官公庁労組との対立は続き、中労委(中央労働委員会)の斡旋にも、労使交渉は平行線をたどるばかりであった。国労は、十二月三十一日、政府に対して、一月十日までの回答を要求し、ストの構えを見せた。
 全逓も、ゼネストの準備をしていた。左翼政党間の路線の違いから、主導権をめぐる組合員同士の内紛も起こっていた。まさに、仏典に説く自界叛逆の様相が強まるなか、政局は混迷し、労使対立のまま年は暮れていった。
 年が明けて一九四七年(昭和二十二年)の元日、この混乱した事態を、さらに紛糾させるような出来事が起きた。吉田首相が、ラジオで放送した念頭のあいさつのなかで、労働組合の指導者を「不逞の輩」と非難したのである。
 吉田首相は、経済危機を叫んで社会不安をあおるような「不逗の輩」が、国民のなかに多数いるとは信じないが、日本の経済再建のためには、彼らの行動は排撃せざるを得ない――と強い表現で語っていた。
 「不運の輩」という一言は、大きな波紋を広げた。国労は、即座に、首相は、「われわれ労働者を″不逞の輩″と宣言した」と抗議し、他の労働組合も、相次いで非難の声をあげた。
 一方、この元日、産別会議では、極東委員会でソ連代表の提議に基づき決定し、前年十二月二十四日に、GHQが公表した、「日本労働組合に関する組織原則」十六原則を持ち出し、吉田首相を糾弾する撤文を発表した。
 その十六原則には、「警察その他いかなる政府機関も、労働者にたいする尾行、スト破壊または労働組合の合法活動の弾圧を行うことは許されない」などと、労働者の権利を擁護する原則がうたわれていた。それを、自分たちの運動方針を支持するものとして、闘争拡大を呼びかけたのである。彼らは、圧倒的な攻勢によって内閣を追い詰め、左翼勢力による政権誕生を、期待していた。
 政府の回答期限が過ぎた一月十一日、官公庁関係の「共闘」は、皇居前広場で「ゼネスト態勢確立大会」を聞き、四万人が、雨のなか、デモ行進した。彼らは政府に、重ねて最低基本給確立、労働協約の即時締結などとともに、吉田発言の取り消しと謝罪を求める、第二回要求書を提出した。
 しかし、これに対しても政府は、十五日、吉田発言には「誤解を招いたのは遺憾である」との回答を寄せたものの、第二回要求内容には、前年の十二月と同じく、拒否の態度を変えることはなかった。
 この日、「全国労働組合共同闘争委員会」(全闘)が発足した。これには、全官公庁労組共同闘争委員会(共闘)、産別会議、総同盟、日労会議等、五十四組合、約四百五十万の労働者が参加した。実に、この当時の労働組合の九〇パーセントという大勢力である。
 遂に十八日、「共闘」は、拡大執行委員会で、二週間後の二月一日までに、政府がすべての要求をのむ回答をしない場合は、無期限ゼネストに入ること、また、それ以前に弾圧してくる場合、自動的にゼネストに入ると、宣言したのである。吉田首相が、事態の打開へ、水面下で社会党との連立工作を策していた話し合いも、暗礁に乗り上げ、決裂してしまった。
 もはや、対決は決定的な情勢となった。「共闘」への支援態勢を組む「全闘」は、二十五日に、″倒閣メーデー″と銘打った闘争の実施を決め、産別会議傘下の全組合も、「共闘」と歩調を合わせて、二月一日にストに突入することを決定した。未曾有のゼネラルストライキが、現実のものとして迫ってきたのである。
 二十日には、産別会議議長の聴濤克巳が刺されるという事件があったが、既に、ゼネストへの勢いを押しとどめるものは、存在しないかに思えた。政府は、労働勢力の分断を策し、あるいは強権発動をにおわすなど、躍起になってスト防止に取り組んでいたが、ほとんど効果は見られなかった。
10  こうして、「共闘」を中心として、労働界が、「二・一ゼネスト」に向けて大きく動きだした。その渦中の二十二日、「共闘」の伊井弥四郎議長らが、GHQに呼び出されたのである。待っていたのは、マーカット経済科学局長であった。
 マーカットは、この日の会見の内容を公表することを禁じたうえで、ゼネスト中止を要求した。彼は、ゼネストは、通信、輸送などを混乱させるものであり、占領目的に反する行為であると指摘した。
 そして、ゼネストを強行するなら、GHQとしても相応の対応を取ることになると通告し、二十五日までの回答を求めた。
 しかし「共闘」は、協議の結果、スト中止はできないと回答したのである。
 一月二十八日には、再び皇居前広場で、「吉田内閣打倒危機突破国民大会」が、さらに大阪、名古屋、横浜でも、それぞれ集会が開かれ、デモの波がうねった。日に日に、革命前夜を思わせるような緊張と高揚が、労働者を駆り立てていた。
 無期限ゼネストの決行は、多くの産業のマヒと、社会活動の停止を意味した。国民のなかには、大混乱が予想される非常事態に備えて、食糧やロウソクの買い置きに奔走し、交通の途絶に備えるという自衛手段を講じ始める人も少なくなかった。
 二十九日になっても、中労委の仲介による政府と組合の交渉の折り合いはつかず、政府の譲歩案を拒否した「共闘」は、いよいよ二月一日のゼネスト突入の態勢を固めていた。民間の労組も、次々、支援のゼネスト参加を決議した。
 だが、GHQの介入はないことを前提に、共産党が主導して進めてきたゼネストは、ここにきて、あえなく打ち砕かれるものとなったのである。
 スト突入まで十時間と迫った三十一日午後二時半、マッカーサーは、スト中止指令を発した。
 彼は、こう宣告した。
 「現下の困窮かつ衰弱せる日本の状態において、かくのごとき致命的な社会的武器を行使することは許容しない」
 この日、マーカットは、GHQに伊井議長らを呼び出し、マッカーサーのスト中止指令の書面に、同意の署名をするよう迫った。
 議長は、「みんなに相談したうえでなければ、署名はできない」と抵抗した。彼の肩には、四百五十万労働者の重みがかかっていたのである。だが、司令部は、それを許さなかった。マーカットは、中止のラジオ放送をするよう命令してきた。長い時間、激しいやりとりの末、マーカットは、国鉄労働組合委員長を呼んで伊井に会わせた。委員長が、スト中止放送に同意し、ようやく議長は、放送原稿を書き始めたのである。そして、愛宕山のNHKに連れて行かれた。
 この時、伊井議長は、共産党書記長の徳田球一からも、「ストライキはやめるんだよ。わかったな」と告げられたことを、後に語っている。
 GHQの出方を、読み誤った彼らの矛盾が、ここに露呈されたといえよう。
 ともあれ、スト決行まで三時間を切った午後九時十五分、NHKのスタジオから、伊井議長の悲痛な声は電波に乗り、全国各地の職場で、明日のスト準備中の左翼労働者の耳に届いた。
 「……私はマッカーサー連合軍最高司令官の命により、ラジオをもって親愛なる全国の官公吏・教員の皆様に明日のゼネスト中止をお伝え致します。実に断腸の思いで組合員諸君に語ることを御諒解願います。
 私は今、一歩退却二歩前進という言葉を思い出します。私は声を大にして、日本の働く労働者、農民のためバンザイを唱えて放送を終わることにします。
 ……われわれは団結せねばならない」
 「共闘」は、放送直後、解散した。「全闘」も解散していった。
 占領軍の態度は、前年、一九四六年(昭和二十一年)の食糧メーデーのころから、微妙な変化を見せ始めていた。既に、この年の五月十五日、対日理事会の米代表ジョージ・アチソンは、マッカーサーの意を受けて、「共産主義を歓迎しない」とのGHQの声明を発表していた。
 アメリカ本国においては、ルーズベルトのニューディール政策が後退し、トルーマン大統領による冷戦の対策が進められていた。この変化は、当然、GHQ内の人事や、占領方針にも現れてきていた。
 既に、この四六年(同二十一年)三月、英国のチャーチル前首相は、「鉄のカーテン」と呼んで、東西冷戦の対立構造の表面化を警告しているが、政治闘争化した労働運動にも、その対立図式が、微妙に影を落とし始めたのである。
11  戸田城聖は、二月二日、夜の法華経講義のあと、質問に答えて言った。
 「要するに、医者で治るような病気は、医者で治せばいいのだ。しかし、医者で治らない病気、これが人生の難問です。だが、いくら難問でも、これを解決できる法がある。絶対に治すことができる、と言ったらどうだろう。
 それと同じように、ストライキで解決のつく問題は、ストライキで解決すればよい。経済闘争といい、政治闘争といい、みんな一生懸命だが、それで解決するような問題は、どしどし解決するがいい。
 だが、それはまだ簡単な問題といえる」
 受講者たちは、固唾をのみ、真剣な表情である。
 戸田の話は続いた。
 「ところが、どうしても解決できない、重大問題がある。そういう問題を人は諦めてしまう。だが、よく考えてみると、人間の性格や宿業をはじめとして、一家の家庭の問題や生老病死など、解決できない問題の方が、意外に多いものだ。
 社会といっても、また大衆といっても、あるいは労使と分けても、所詮は一個の人間から始まって、その集団にすぎない。ゆえに、この一個の人間の問題を根本的に解決し、さらに全体を解決できる法が大事になってくる。それは、真実の大宗教による以外にないんです。
 今度のゼネストのようなことも、今後、いろいろ形を変えて起こってくるだろう。そして、そのたびに一喜一憂してみるがいい。どうやっても、こうやっても、だめだとわかった時、やっと、大聖人様の仏法のすごさというものが、しみじみと、わかつてくるにちがいない。深刻なる理解をしないでは、いられなくなる。その時が、広宣流布です。
 われわれの戦いは、今、こうしてコツコツやっているが、すごい時代が必ず来るんだよ。ゼネストなんか、今、諸君は大闘争だと思っているかもしれないが、われわれの広宣流布の戦いから見れば、小さな小さな戦いであったと、わかる時が、きっと来る。私は断言しておく。皆、しっかりやろうじゃないか」
 西神田の日本正学館の二階は、薄暗かった。厳冬の電力不足が原因である。
 そのなかで戸田城聖の声は、生き生きとしていた。みんなは、手に汗を握って聞いている。そこには、暗い必死の面影はなく、明るい希望の表情があった。
 日本国中の人びとが、労働者のゼネストの危機に頭を悩まし、憂いに沈んでいた時、戸田の心は微動だにしなかった。それは、戦時中、国中が軍国思想に狂奔していた時、彼の心の重心は、いささかの微動もなかったことと同じであった。
 かくて、敗戦の暗影が、いまだ色濃い時代のなかで、一条の光明にも似た広宣流布への指標が、一つ一つ示されていった。彼には、民族の柱としての不抜の確信が、心中深く秘められていたのである。

1
1