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日蓮大聖人・池田大作

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幾山河  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
1  一九四六年(昭和二十一年)の九月下旬――。
 北関東の山々は、既に秋たけなわであった。
 農家の庭の柿は色づき始め、路傍には、薄紫色の野菊や、さまざまな秋の草花が咲き薫っていた。風に揺れるススキの穂も、秋の到来を告げていた。
 戸田城聖ら一行七人は、朝早く、栃木県那須郡の黒羽町を発ち、徒歩で両郷村に向かっていた。
 那珂川に沿って北に向かい、途中で、一行は、街道を右にそれて、山道に入った。傾斜は緩やかだが、石ころの多い田舎道であった。
 那須高原に近い、この地方は、右にも左にも、山々の峰が重なっている。北西は、那須火山群の山々である。その中央は、活火山の茶臼岳だ。峰からは、白い煙が、かすかに上っていた。
 空は澄んでいた。山脈の陰影も、濃淡を表している。なかには、既に黄ばみかけた木々もあった。
 山は、急ぎ足で秋の半ばを迎え、今、装いを変えようとしているのであった。
 静かだ。平和だ。
 杜甫の「春望」の詩が、戸田の心に思い浮かんだ。
 「国破れて山河在り
 城春にして草木深し
 時に感じては花にも涙をそそ
 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす……」
 ここは城ではない。春でもない。今は秋だが、「草木深し」とは、確かに実感であった。
 一行は、しきりに空を仰ぎ、山を眺め、喜々として、遠近の風物に目をやりながら歩いていた。
 真っ赤な葉鶏頭、紅紫の小花をつけた萩、丈高く伸びたエゾ菊……。
 焼け野原の東京人の目には、絵よりも美しく感じられた。
 遠い山々の峰は、近くの山に隠れてしまった。柿の実や、イガをつけた栗の実が、目に入ってきた。
 都会育ちのある人は、「栗だ」「柿だ」と、大発見でもしたように、指をさし、子どものように、はしゃいでいた。
 戸田城聖の表情は、国破れた日本の山河に、やがて永遠の楽土を築くために、今、力強く歩いているのだという自負心に輝いていた。
 一行は、小西武雄から、八キロほどの道程と聞いていたが、歩き慣れない田舎道は、単調で長く感じられた。
 「ずいぶん遠いな。まだか?」
 戸田は、小西に呼びかけた。
 「いや、もうすぐです」
 先頭に立つ小西は、振り向きながら言った。
 「さっきから、もうすぐ、もうすぐといって、ちっとも、すぐじゃないじゃないの」
 清原かつは、小西に向かって叫んだ。皆も、「そうだ、そうだ」と口をそろえて攻撃した。
 戸田は、弟子たちの騒ぎを、度の強いメガネ越しに、慈眼を向けて楽しそうに見ていた。
 彼は、笑いながら言った。
 「小西君の『もうすぐ』は、われわれと距離の単位が違うようだな。道を間違えたんじゃないだろうな。おいおい、大丈夫かい」
 小西は、真面目くさって答えた。
 「先生、まさか。ここは一本道ですよ。大丈夫です。本当に、もうすぐです」
 「本当か?」
 一行は、どっと笑った。にぎやかな笑い声は、静寂を破って、透明な秋空に消えていった。
 戸田は、夏服を着ていた。洋服の襟から、真っ白い開襟シャツがのぞいている。そして、鳥打ち帽子を、ちょこんと頭にのせていた。
 長身の彼の周囲には、六人の男女が、先になり後になり、一団となって坂道を上っていった。
 彼らは、それぞれチグハグな服装をしていた。よれよれのスフの国民服の人もいる。ある人は、色あせた不格好な黒の背広に、兵隊用のズボンをはいていた。中年の女性は、もんペに、夫の背広を着て、長い袖の先から指先をのぞかせていた。まるで仮装行列である。戦後の衣料の窮之のため、服装など、全くかまっていられなかったのである。
 地元の人たちは、この一行を買い出し部隊と思って、眺めていた。だが、不思議にも思った。
 彼らは、誰一人としてリュックサックを背負っていない。買い出し部隊特有の、消沈した顔、暗い影、焦りの目も見られない。いや、あまりにも明るい、生き生きとして活気に満ちた動作である。この一団には、近年、戦前戦後を通じて見られぬ明朗な雰囲気があった。時折の哄笑、爆笑に、村人までが楽しくなるほどであった。
 村人たちは、いささか奇異の眼差しで、一行を見送っていた。
 「さぁ、いよいよ村に入った。ほれ、これを見ろ」
 小西武雄は、一本の電柱を指して大声で言った。
 そこには、粗末な紙に、墨で黒々と書かれたビラが張ってあった。
 一行は、すぐに電柱に近づき、顔を寄せた。
 「戸田城聖氏来る
 法華経大講演会
  九月二十二日午後二時 両郷国民学校にて」
 「やってるな、やってるな」
 原山幸一は、じっとビラを見ながら言った。人柄のいい彼は、喜びの表情を隠しきれず、同志の奮闘に、心からの祝福を送ったのである。
 「増田さん一家も、大したものね。戦後、地方で先駆を切って折伏に立ったんだもの。皆、うんと応援してあげようじゃない」
 清原かつの口調も、妙法の使徒に対する激励の情にあふれでいた。
 戸田は、カラカラと笑った。そして、屈託ない声をあげて言った。
 「戸田城聖などといったって、誰も知るまい。いったい、どんな男かと思って、大勢やって来るといいんだがなぁ」
 しばらく行くと、またビラが張ってあった。そのたびに、一行の足の運びは、次第に速く、軽くなっていった。
 「先生、ここです、増田さんの家は……」
 小西は、道に沿った一軒の農家を、指して言った。
 「やれやれ、来たか。小西君の『もうすぐです』には、今日は、まいったな」
 皆は、軽口を叩きながら、裏に回り、南側の中庭に出た。
 人声を聞きつけた増田の一家は、さっと飛び出してきた。待っていたのである。その顔は、喜びを満面にたたえて明るかった。
 増田久一郎は、元警察官であり、牧口門下の学会員で、東京の大森に住んでいた。戦時中に退職して、ある会社に籍を置いていたが、戦況が不利になってきた一九四四年(昭和十九年)五月に、郷里の両郷村へ、家族全員を疎開させたのである。
 妻と娘二人と、姉娘の婿との四人である。娘二人は、東京でも教員をしていたので、この村の国民学校に職を得ていたが、時間を見つけては、家族と農業に励んだ。
 久一郎も、戦後は東京を去り、郷里で一緒に暮らすようになったのである。国破れ、年老いてみれば、故郷で農業に専念する道しかなかった。
 親から受け継いだ田六反(約六〇アール)、畑四反(約四〇アール)、計一町歩(約一ヘクタール)の農地に悪戦苦闘する、未経験の自作農一家である。六十の坂を越えた久一郎を、先頭にしての労働であった。そのうえ、肥料すらない。近所の農家の人びとは、一家を冷ややかに見ていた。
 慣れない農作業は、実に辛かった。勝手も違う。
 しかし、彼らには、御本尊があった。慌ただしく変動する時代に、生活様式も大きく変わる人生行路に立って、ただ一筋に、御本尊に一切を願わずにはいられなかった。
 増田一家は、にわかに那須山中で一粒種の強盛な信仰者になっていたのである。
 彼らは、慣れぬ農作業に懸命に取り組んだ。また、地域への貢献のために力を注いできた。彼ら一家の真剣な仕事ぶりと、純粋に信仰を続ける姿に、村人の好奇の目も、いつか畏敬の目に変わっていった。一家の折伏活動は、歓喜のうちに、自然と始まっていたのである。
 御書に「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」とある。妙法それ自体の偉大さに変わりはないが、それを弘める人の出現を待って、初めて法の尊さが実証されるという原理だ。
 増田一家にしても、那須山中に、妙法の功力を燦然と輝かすためには、道理にかなった実践と、燃えるような信仰の一念が必要であった。この地に、妙法が広まるかどうかは、すべて、一家の信仰の厚薄にかかっていたのである。
 ちょうどそのころ、東京の学会本部では、地方指導の日程を決定した。九月二十一日の土曜日から、「秋季皇霊祭」(後の「秋分の日」)の二十四日までである。場所は、栃木県の両郷村と、群馬県の桐生市に、指導の手を伸ばすことになった。
 桐生にも、数人の疎開した学会員がいた。彼らは、同地の日蓮正宗檀信徒と共に座談会を開催し、折伏活動が活発化していた。
 敗戦ここに一年――一九四六年(昭和二十一年)秋のことである。初代会長・牧口常三郎が、地方指導の途次、静岡県の下田で身柄を拘束された四三年(同十八年)七月から、三年余の月日が経過していた。今、学会の再起も、戦後最初の地方指導を敢行する段階にまで、発展していたのである。
2  この二カ月前、黒羽町の近村に、小西武雄が現れた。彼の生家が、あったからである。
 彼は、ある日、師範学校時代の親友が、両郷国民学校にいることを知り、自転車を飛ばした。校庭から、職員室にいる親友に声をかけた時、そこに、一人の女性がいた。その女性が、彼に向かって叫んだ。
 「まあ、小西先生ではありませんか!」
 小西は、とっさに誰であるか、思い出せなかった。
 「私、増田でございます。直江です。関先生に折伏された、増田直江です」
 久一郎の長女・直江は、この奇遇を喜び、創価教育学会の消息を、しきりに尋ねるのであった。
 彼女は、戸田理事長の健在を知り、学会の活動が、早くも軌道に乗ったことを聞いて驚いた。そして、今年は、夏季講習会も数年ぶりで復活する旨を聞き、山中の自分の遅れを、強く感じたのであった。
 一家は、この出会いを喜んだ。これを契機に、直江は、学校が休暇に入ると、妹の政子と共に東京へ走った。そして、親しかった学会員の家を、訪問したりした。さらに、西神田の学会本部の法華経講義にも出席した。
 戸田城聖の生命論は、彼女たちには、全くの衝撃であった。大きな感動を覚えた二人は、そのまま同志に伴われて、戸田に親しく指導を受けた。
 彼女たちは、村の折伏の困難を訴えた。
 戸田は、優しく、つつみ込むように話を聞いた。終わると、温かい激励の末に、きっぱりと言った。
 「よろしい。行ってあげよう。しっかり下種しておきなさい。約束したよ」
 姉妹は、闘魂を燃え上がらせ、火の玉のようになって、村へ帰って来た。
 ″この地が、広宣流布の最初の地方拠点となる。ここから、妙法の聖火が上がるのだ!″
 姉妹は、真剣であった。その夜から、折伏を開始したのである。
 暇さえあれば、村の一軒一軒を折伏して回った。
 学校の若い二人の先生姉妹の話である。村の人たちも、話には耳を傾けた。
 だが、信心する人はいなかった。要するに、何がなんだか、わからなかったのである。宗教の話かと思うと、そうでもない。哲学の話かと思うと、実に現実的な生活に話が飛んだ。話す方も、聞く方も、話は錯綜してしまった。二人の姉妹の熱情が、聞き入る人びとの胸奥に響いてはいた。
 しばらくして、東京から、「戸田理事長以下、七人の幹部が指導に行く」との通知が届いた。
 増田一家は、戸惑ってしまった。
 「さあ、大変だ!」
 苦労性の直江は、大挙してやって来る学会の幹部の名前を見て、一層、驚いた。明るい政子は、歓声をあげた。しかし、一家の心に去来するものは、″迎える自分たちに力が足りず、せっかくの、この指導を失敗させては大変だ″という心配だった。
 皆、真剣に悩み始めた。
 「政子ちゃん、どうしよう。こんなに大勢、来ていただいて……」
 姉は、妹に呼びかけた。
 「私だって、こんなに大がかりになるとは、思わなかったわ。こんな山の中ですもの…。一人か、二人ぐらいと思っていたわ」
 政子まで、心細くなってきたのである。
 「お母さん、どうしましょう。私、困るわ」
 「そうだね……」
 母のよねは、そう言ったきり、黙り込んでしまった。
 久一郎は、彼女たちの話を聞いていた。それまで、固く口を結んでいたが、皆の顔を見ながら言った。
 「千載一遇じゃないか。ありがたい話だ。何も困ることはない」
 「だって、お父さん、せっかく、こんな遠いところまで来てくださるっていうのに、誰も集まらなかったら、お詫びのしょうもないじゃありませんか」
 直江の言葉を受けて、政子も言うのであった。
 「本当よ。いくら折伏したって、誰一人、信心をしない、ひどい村です。お父さんは、認識不足よ」
 「信心する、しないは別として、村の人たちを、真心込めて集めることに努力しよう。今こそ、そのことを御本尊様に祈りきる時じゃないか。一家で、全力をあげて頑張ろうよ。至誠が通じないわけがなかろう」
 久一郎は、確信を込めて言った。皆、父親の強い一念に動かされたのであろうか、たちまち頷き合った。
 時ならぬ家族会議も、結局のところ、「家中の人ひとりが、会う人ごとに、二十二日、日曜日の会合を知らせ、出席を確約させていく以外に方法はない」ということに、話は落ち着いた。そして、「ビラを張ろう、遠い集落の電柱にも、漏れなく張ろう」ということに一決したのである。
 二人の姉妹は、それでも不安でならなかった。この夜から、二人の唱題は深夜まで続いたのである。
 彼女たちは、父親の確信を通して、いざという時の一人の決意、信心が、どれほど多くの人に影響を及ぼすかを、あらためて知った。この時の父親の一言が、二人の人生の糧となった。
3  一行七人は、前日の正午ごろ、東京を発っていた。
 乗車制限の厳しい最中である。各駅は、一日の乗車券の発売枚数を制限していた。一枚の乗車券を入手するにも、半日以上も、出札口に列をつくって、順番を待たねばならなかったのである。
 日本人の悪癖は、こうした時に現れる。駅員は、つまらぬ特権意識を顔に出して、威張り散らしていた。また、行列の難行苦行を避けるために、乗車券を闇ルートで手に入れて、ことさら偉ぶる者もいた。迷惑するのは、いつも善良な庶民である。
 切符の行列だけではない。当時の俸給生活者が、二、三日の旅費を捻出すことも、容易ではなかった。急激なインフレの皺寄せが、彼らの肩に、かかつてきたのである。月々の給料だけで、満足な生活を送れる人は、どこを探してもいなかった。ほとんどの人が、内職で稼ぎ、衣服を売って、その日、その日をしのいでいた。
 生活の前途は、あまりにも暗かった。朝夕のあいさつ代わりに「民主主義」を口にしても、現実の生活は、ますます絶望の淵に沈むばかりであった。
 旅行者といえば、ほとんどが買い出しであった。彼らの多くは、復員兵たちであった。列車という列車は、すべてこれらの人びとで超満員である。時には、機関車の前部までも、人で鈴なりになっていた。
 土曜日の東北本線も、それこそ車内は立錐の余地もなかった。定員の三倍、いや五倍にも達した乗客は、デッキにまであふれ、乗降口の鉄棒にも、多数の人がしがみついていた。駅々での乗降も、窓から出入りしなければならなかった。秋といっても、車内は、ほこりにまみれ、人いきれと汗の臭いで、むせ返っていた。そして、長い停車時間には、さらに我慢がならなかった。
 戸田城聖も、これらの群衆と共に、立ちながら、汽車に揺られていた。一行の誰かが、戸田の体を案じて話しかけると、彼は、笑いながら大きな声で言った。
 「なかなかの難行苦行だよ」
 彼は、周囲の乗客の心を、ひしひしと感じて、いとおしくさえ思っていた。空しい顔と、殺気だった目の底には、不安と絶望に駆り立てられている心の動揺が、ありありと、うかがえたからである。
 しかし、立ち込めた悪臭と、身動きならない満員列車には、彼も、相当、疲れてきた。
 戸田は、一行の一人ひとりの顔を探した。それぞれ、すし詰めの車内にあって、活力にあふれ、際立って明るい顔をしているのを見て、ひとまず安心した。
 長身の彼は、人びとの肩越しに、頬をほてらせて埋まっている、清原かつの顔を見た。見知らぬ乗客と、何か言い争っている三島由造の横顔も見える。かなり離れて、互いに頷き合っている、小西と関の顔も見た。
 彼と共に、山間の地に行くこれらの弟子を、戸田は、さらにいとおしく思った。おそらく、日々の家計のやりくりに大変であったろう皆の生活状態も、知悉している。いわんや、四日間の旅費の捻出の苦労は、並大抵ではなかったろう。
 ″わが一行は、姿こそ買い出しの人たちと同じだが、今は数少ない仏の軍勢である″と彼は思った。それを、誰一人、気づくはずもない。
 汽車は、さまざまな境涯の人を乗せて、進んで行った。
4  西那須野駅には、日が暮れてから着いた。そして一行は、東野鉄道という私鉄に乗り換えた。乗客は少なかった。この沿線に、小西武雄の生家がある。西那須野駅から十三キロほど走ると、終点の黒羽駅に着き、那珂川の清流を望む旅館に入った。
 窓辺で、清流の瀬音を聞き、戸田は、くつろいだ。
 そこに、小西の兄が、仏立講の信者を連れて、あいさつに来た。程なく、折伏が始まった。戦いの火ぶたが切られたのだ。
 仏立講の信者が帰ると、戸田を囲んで談笑の花が咲いた。
 ややあって、湯気の立つトウモロコシが、山と積まれて出された。
 戸田は、その一本を手に取り、一口食べると、頬をほころばせた。
 「うん、これは実にうまい。みんなも食べないか」
 そのトウモロコシの匂いと味は、北海道のそれに似ている。彼は、故郷の北海道を思い出した。
5  ――戸田の家は、海辺に近かった。少年の日、彼は学校から帰ると、海風を部屋いっぱいに受けた窓際の机に向かって、トウモロコシをかじりながら本を読むのが、何よりの楽しみであった。
 秋の厚田の海は、鉛色である。はるか水平線の彼方まで、さえぎるものは何一つない。ただ、水平線上の左手に、小樽が遠くかすんで見えるだけである。右手は、島影一つない。茫漠として、浜辺の波の音だけが、無限の音律のように聞こえていた。
 少年の夢は、海原のように果てしなく広がっていった。そして、彼のたくましい気性が形成されていったのである。
 浜には、春のニシン漁の賑わいは、跡形もない。さびれた砂浜に、昆布を手にする女たちの姿が、ちらほら見えるだけであった。
 少年は、机に両肘をっき、トウモロコシをかじっては、食い入るように本の文字を追った。
 彼は、こうしてナポレオンを知り、バイロンや福沢諭吉、板垣退助など、古今の英雄、英傑の生涯を知った。彼の青雲の志は、いわばトウモロコシとともに始まったのである。
6  今、川岸の旅館で、みんな、うまそうにトウモロコシをかじっていた。
 戸田は、北海道の故郷を語り、話は自然に彼の育った漁村(厚田)に移った。それはニシン漁の賑わいの模様である。
 ――村は、当時、一万足らずの人口であった。ニシン漁の行われる四月から七月にかけては、内地や北海道各地から働きに来た人たちで、三万の人口に膨れ上がる。そして、村も、浜も、ニシンだらけになる。ニシンの匂いが、この村の匂いである。
 戸田の家は、海産物商であった。戸田少年も忙しかった。学校は、休校になってしまうのである。
 ニシン漁が始まる時には、まるで米のとぎ汁を流したように、見渡す限り、海面が白くなる。
 ニシンの大群が海岸近くに押し寄せて、産卵するためである。漁獲は何日も、昼夜兼行で行われた。
7  皆、驚きながら、この北海の豪快な話に耳を傾けていた。
 戸田は、立ち上がって、身ぶり手ぶりで、ニシンの捕獲の仕草までして見せた。みんなは、思わず拍手をした。そして、戸田は座に戻ると、今度は、獲りたてのニシンの味のうまさを語った。
 「話は、どうも食べ物のことに落ちるな」
 彼の話に、爆笑が深夜まで続いていた。この旅館の一室だけには、秋の夜の寂しさはなく、春の明るさが漂っているようだった。
8  黒羽町の一夜が明けた。
 一行は、両郷村に向かったのである。そして昼近く、増田の家に着いた。ここでも、やはりトウモロコシが待っていた。
 法華経大講演会は、午後二時、開会の予定になっていた。皆、打ち合わせに余念がない。準備が終わると、一行は、少々、早めに会場へ向かった。
 会場には、国民学校の畳敷きの裁縫室が、あてがわれていた。
 ざっと、八十人、ぐらいの聴衆が待っていた。皆、思い思いに座り、ある人はタバコをふかし、ある人は雑談したり、何やら薄い雑誌などを見ていた。裁縫室は、ほぼ満員である。
 この集まり具合に、直江も、政子も、ほっとしていた。
 司会者は、増田久一郎である。彼もまた、いささか得意顔であった。
 体格のいい彼は、体を直立させ、大きな声で開会のあいさつを始めた。
 彼は、まず亡国の悲しみを話した。さらに憂国の真情を、情熱込めて訴えていった。そして、「その根本の解決は、日蓮大聖人の仏法に帰依する以外にはない。そうでなければ、日本の再建も、国民一人ひとりの安定した幸福も、確立することはできない」と結んだ。
 冒頭から熱弁である。集まった村人は驚き、呆気にとられた。
 ″あの爺さんに、あんな力があるとは思ってもみなかった。しかも、あれほど確信に満ちた雄弁で……。これから何が始まるのだろう″
 村人たちは、内心の驚愕を隠すことができなかった。
 久一郎は咳払いをし、最後に、この日の講演者の紹介をしていった。戸田理事長以下の紹介が終わった時、拍手が、パラパラと起こった。
 日曜の校庭では、子どもたちが、思いつきり遊び回り、その戸が騒がしく響いていた。
 最初の登壇者は、小西である。演壇の背後には、「認識と評価、小西武雄」と、第一行に書いてあった。
 「私は、皆さんと同じように、この那須の地に生まれた、農家のせがれであります。農業が、いちばん自分には適していたのですが、どういうはずみか、学校の先生にされてしまいました」
 堅苦しかった会場に、どっと笑いが起こった。
 ニコニコと、拍手を送る青年もいた。
 「さて、人生の目的ということを、よく口にします。だが、その目的が何であるかといえば、学者先生は、真理の探究であるなどと、いかにも立派な、高邁なことを言います。しかし、地球が太陽の周りを回っているという真理が、わかったとしても、われわれの生活に、どうということもない。
 このように、普遍的な真理を認識することが、人生の目的だとすると、日常、悩みに悩んでいる人生というものは、いったい、どうしてくれるんだ――と、少々利口な人であれば、誰でも怒りたくなります。
 われわれの人生というものは、認識することに目的があるのでは決してない。常に、何か価値あるものを追求しているのが、人生のありのままの姿であります」
 真面目同そうな四、五人の中年の人たちが、小西の一言一言に、頷いている姿が印象的であった。
 小西の話は、教鞭を執っている時と、なんら変わりがなかった。
 「したがって、人生の目的は、幸福の追求であります。これを具体的にいうと、価値の追求ということになります。
 ですから、真理の認識そのものは、なんらの価値もない。その、なんの価値もない認識を、さも大変な価値があるように評価して、喜んでいる。
 一切の物事を考える際、まず、この辺に重大な混乱があり、混乱のままに考えている人生が、うまくいくはずがありません」
 聴衆は、″おやっ″という顔をして聞いていた。宗教の話ではないからである。
 いわゆる″ありがたい″話ではなかった。老人たちは、ありありと失望の面持ちを表していた。
 「認識と評価の混同は、真理をそのまま、すぐ価値と錯覚するところに基づいています。この誤りを、最初に気づいて、哲学的に究明した人が、私たちの会長・牧口常三郎先生でありました。
 先生は、一切のものは、私たちの生活感覚に関係する時に、初めて、なんらかの価値を生ずると、『価値論』という論文に、明確にお書きになった。
 ところが、私どもは批判精神が発達しているというのでしょうか、よく知らないことでも、すぐ我見でデタラメな批判をする。つまり、安直な評価をする習性があります。これもまた、大変な誤りであります。これを、無認識の評価といいます。
 先生は、特に、その誤りを厳しく指摘しております。つまり、価値ありと思ったり、あるいは価値なしと判断する前に、正しい認識から出発しなければならない。それを、評価に急で、認識をおろそかにする。これも、認識と評価の一種の混同であります。
 今日は、これから、いろいろなお話があり、耳慣れないことも多いと思いますが、まず正しく認識してください。そして、私どもの信仰が、果たして、どのような価値をもたらすものか、よくお考え願いたいと思います」
 小西は、一札して演台を離れた。
 続いて、関久男が、若々しい声で話し始めた。
 「ただ今、小西さんから、ちょっと、『価値論』という言葉が出ました。私は、その価値論について、かいつまんでお話をしたいと思います。どうか、無認識の評価をなさらぬように、最初にお願いしておきます。
 人間の営みというものは、結論として、価値を創り出すことに尽きます。価値獲得の大小が、幸福の内容の大小であり、カントをはじめドイツ哲学では、それを真・善・美に置き、これまで誰人も疑う人はありませんでした。
 ところで、皆さんは、お米にどのような栄養があるかを知っている。それを知っているということ一つの真理を知っているということであり、認識であります。しかし、いくら詳しく知っていても、それだけでは、満腹という幸福感は味わえない。たとえ成分や栄養価を知らなくても、空腹の時に、飯を腹いっぱい食べれば、誰でもお米のありがたさを知る。つまり、価値を知るわけです。したがって、真理は、そのまま価値の内容ということにはならない。
 また、『猫に小判』という、ことわざが昔からあります。小判は、人間には絶大な価値があっても、猫にとっては、なんらの価値もない。所詮、価値とは、主体と物との関係性にある。すなわち、私たちの生命と、外界との関係から生ずるものであります……」
 彼は、それから価値内容として、美・利・善を説いていった。すなわち、美・利・善を正価値とするなら、その反対の醜・害・悪は反価値である。正価値が人生の幸福内容であり、反価値が不幸ということである――と、牧口の価値論を語った。
 関の頬は紅潮し、目がキラキラ光った。
 「……以上が、牧口先生の独創的な価値論のあらましであります。私たちの人生を豊かにし、幸福にするものは、正価値の創造であり、その獲得以外にありません。
 ところで、価値を生ずる場が、生命と外界との関係性にあるとすると、生命という問題が重大になってきます。
 外界に働きかける生命が、はつらつとした状態にあれば、対象を意のままに変えることもできましょう。その反対に、主体性が乏しく、弱い生命状態にあれば、外界の環境に左右されてしまいます。つまり、正価値か反価値か、あるいは幸か不幸かを決める力は、生命それ自体にあるといっても、過言ではありません。
 このような生命の根本問題を、宗教が説いてまいりました。しかし、それを正しく説き明かした宗教と、誤って説いた宗教があるのです。
 つまり、人生の幸・不幸を根本的に決定するのが、どのような宗教を信ずるかにあることは、必然の帰結であります。
 ゆえに、間違った宗教ほど、世に恐ろしいものはありません。どんなに有名な人であっても、また、人柄がよくても、間違った宗教に惑わされている以上は、不幸な人生をたどらざるを得ないのです。
 逆に、どんな人でも、正しい宗教を信仰して人間革命するならば、必ず最後は、幸福な境涯へ到達することができます。
 日蓮大聖人は、一切の不幸の根源は、誤った宗教、思想にある、と喝破されました。個人にしろ、家庭にしろ、また国家、社会にしても、ことごとく、この原理から逃れることはできません。
 ご承知のように、日本は無謀な戦争に突入し、敗戦を迎えた。そして、今日の混乱と不幸は、国家神道という宗教を、一国の政治理念として利用した結果にほかなりません。それによって、社会を担う人間の生命が濁り、狂いが生じ、国家は進むべき軌道から逸脱したのであります。
 したがって、わが国の再建も、まず、生命の問題を根本的に解決することから、始めねばなりません。さもないと、あらゆる善意の努力も、水泡に帰してしまいます。
 私たちは、どうしたら清くたくましい生命を、わが身に獲得することができるか。それには、正しい宗教を信じて実践することです。では、正しい宗教とは何か、その実践とは何か――。
 その問題は、『生命の浄化』と題して、次の清原かつさんが、お話することになっております」
 鮮やかなバトンタッチであった。
 関久男が、価値論から宗教の話に入った時、場内はしんと静まり返った。しかし、彼が一札すると、一斉に拍手が湧いた。
9  聴衆は、好奇心をもって、次の講師の話に期待を寄せたのである。
 増田久一郎は、清原かつを紹介した。その紹介の終わらぬうちに、彼女は、小柄な体を演壇に運んでいった。
 若い女性の登壇は、農村の人びとの目に、一種奇異な感じに映った。年配の婦人たちは、一瞬、互いに顔を見合わせていた。そして、彼女の動作に視線を向けた。
 「私は、せっかちで、お話は下手でございますから、途中で混乱しないために、まず初めに結論を申し上げます」
 こう言って、彼女はにっこり笑顔を見せた。
 軽い笑い声が、場内のあちこちで起きた。
 清原は、歯切れのいい口調で続けた。
 「私どもが、幸福になれる源泉は、私たちの生命が、まず浄化されることにあります。その生命の浄化は、正しい力ある宗教によらなければ、絶対にできない。
 そして、信心は観念ではなく、実践であります。つまり、正しい宗教を、力強く実践することによって、初めて人間革命ができるのです。
 では、正しい宗教とは、いったい、どんな宗教を指していうのか」
 彼女は、ここで一転して、仏教の歴史に入った。
 釈尊の教えを五時八教に分けて簡単に述べ、法華経とそ釈尊一代の最高の経であることを論証した。さらに、話が末法の仏教である日蓮大聖人の南無妙法蓮華経に及んだ時、聴衆のなかに、首をかしげ始める人が、二人、三人といた。彼女は、それを見逃さなかった。
 清原は、体を乗り出し、自然と声を張り上げた。
 「ここが大事なところです。現代人は、決して、わかろうとしないのです。葬式の時にしか、仏教を思い出さない。また、仏教といえば、釈尊だと思い込んでいる。
 しかし、そのお釈迦様の仏教は、自分の生活とは無縁であると、多くの人が、何となく感じている。そのくせ、現代の人びとを救い得る日蓮大聖人様の、すごい仏法の話をすると、すぐに反発する。
 末法において、現代人の不幸の根本原因は、この仏法の本質の解明が、なされていないところにあるのです。天に二つの太陽がないように、最高無二の正しい宗教が、二つも三つもあるはずがない。その、たった一つの仏法の真髄こそ、日蓮大聖人様の南無妙法蓮華経の御本尊なのです。
 私も、不幸な女でありました。皆さんの誰よりも、不幸であったかもしれません。その私が、今日、幸福街道を、まっしぐらに進んでおります。私は、身をもって知ったのでございます。仏法の究極である南無妙法蓮華経の御本尊に、題目をあげる以外に、生命の根本的浄化は、絶対にあり得ないのであります
 情熱のこもった、真剣そのものの話は、盛んな拍手を呼んで終わった。
 納得した顔、あるいは、内心で反発している顔などもあって、反応は、さまざまである。だが、一つの感動が、会場を貫いていたことは確かだった。
 司会者は、元気な声で言った。
 「それでは、ここで、体験に移ります。『工場における実証』と題して、酒田さんにお願いします」
 中年の酒田たけは、おずおずと演台に向かい、腰を低くして、丁寧に一札した。小太りの主婦である。
 戸田城聖は、この時、真っ先に拍手を送った。会場からも、拍手が響いた。
 彼女は、何か言いかけたが、黙ってしまった。戸田が背後で、「落ち着いて、落ち着いて」と小声で応援している。
 「うちの工場は、小さい鉄工場で、戦時中は軍需工場でした。私が信心を始めた時は、家中が、そろって猛烈な反対をしました。主人は、離縁すると言って、脅かしました。
 小さい時から、孤児として育った私は、本当に不幸の連続でした。この世で、ただ自分の子どもだけが、かわいくて仕方ありませんでした。その子どもたちのためにも、なんと言われでも、辛抱して、信心に励むより方法がありませんでした」
 会場は、静まり返っていた。薄幸な生い立ちを聞いて、人びとは、酒田の半生に同情を禁じ得なかった。
 「ところが、反対し続けた人たちの不幸な現証を、目の当たりにして、まず、お手伝いさんが信心しました。しかし、主人は反対の連続で、生活は乱れ、顔の形相もすさまじいものでした。これを、なんとか明るい、和楽の家庭にさせたくて、私は次第に真剣になりました。
 私が信心を始めて三年目、忘れもしない昭和十七年(一九四二年)の六月三日――主人が、とうとう入会しました。私は、嬉しくて、嬉しくて、御本尊様の前で、声をあげて泣き伏してしまいました。今も、よく覚えております」
 彼女は、平凡な主婦であった。学問もなければ、話も上手ではない。だが、その涙声には、真実の情があふれでいた。
 会場には、聴衆の感動の波が、静かに漂っていた。酒田の真実の叫びが、人びとの深い感動を呼んだのである。
 酒田は、ハンカチで強く目をこすった。
 「私は、話が下手で……」
 聴衆は、笑顔になった。
 「主人が信心するようになってからは、工場は、日の出の勢いに変わりました。すると、間もなく空襲が始まりました。何度も空襲に遭い、それこそ恐ろしい目に遭いました。でも、私の家は、そのたびに助かったのです。空襲のサイレンが鳴ると、家中で御本尊様に題目をあげました。危険になると、御本尊様を抱き締めて、駆け回りました。
 今、考えても不思議ですが、こんな私にも、すごい知恵と勇気が湧いてきて、隣組の人たちを指図し、隣組の人びとも私を頼りにするほどで、団結して、空襲による火事を、片っ端から消し止めました」
 彼女の話は、自己の体験と、現実の生活で得た知恵によるものであった。いわば生命から、にじみ出た話である。聴衆の心を打たずにはおかないものがあった。
 「終戦までには、幾度もの空襲で、蒲田一面、焼け野原となりました。しかし、私の隣組六軒は、全部、助かったのです。蒲田の駅を降りて、家が目に入ったら、それが私の家でした。本当に力ある御本尊様です。
 私の家は、戦時中、こうして守られました。戦後も、世の中はガラリと変わりましたが、工場は、そのまま残って、おかげさまで至極順調です。残った家は、いつも座談会のお役に立っています。
 何が、いつ起きようとも、御本尊様さえあれば、絶対安心だということが、心からわかりました。御本尊様のない方は、何かあった場合、本当に不幸だと思います」
 話は、ここで切れた。まだ、何か言いよどんでいたが、ぺこんと頭を下げると、そそくさと演台を離れた。
 拍手する人もいた。ため息に似た吐息も、あちこちで起こった。
 戸田城聖は、考えた。
 ――それは、今日の講演会を通して、価値論から入らなければ折伏でき、ないといった、戦前からの習性に対する再検討である。
 幸い、聴衆のなかには、青年男女もいた。また、校長をはじめ、学校職員や村役場の人たちなど、理屈好きも多かった。これらの人たちには、価値論も好評であったろう。しかし、聞き入る人びとに、真実の感動を与えたのは、酒田たけの体験が随一であった。
 なるほど、理屈で納得できなければ信仰しないと言う人もいる。それとは逆に、信仰の実証としての体験に、重きを置く人もあろう。だが、煎じ詰めていえば、あらゆる生活は実践であり、体験で訴えることほど強いものはない。リンゴの味を、長々と説明しても、食べてみなければわかるまい。食べたあとで説明を聞いてこそ、誰もが納得できるのである。
 大宇宙の根本法を図顕された御本尊の、偉大な力は、理論や学問では、とうてい理解できるものではない。御本尊の力を知るには、体験が根本であり、実践を通しての話以外にはないであろう。
 しかも、広宣流布は最大の大衆運動であり、生きた庶民の実証を必要とする。庶民は、観念的な理論を敬遠し、生活に即した事実を好むからだ。それが庶民の知恵であり、強さでもあろう。
 戸田は、戦前の狭い殻を脱する必要を、痛切に感じていたのである。
10  次に、「信の確立」と題して原山幸一が、続いて、「私の求めて来た道」と題して三島由造が、登壇した。二人は、自己の人生行路を振り返り、もし妙法に巡り合わなければ、この乱世にあって、苦悩の波浪に押し流されてしまったであろうことを、実感を込めて訴えた。
 二人とも、「絶対」という言葉を、何度も口にした。聴衆は、その絶対の内容を、具体的に聞きたいと心に思い始めた。
 最後に、視界の増田久一郎は「日本に仏法無し」と演題を読み上げ、「戸田城聖先生お願いします」と大声で言った。
 その時、八十人の熱っぽい視線が、一斉に、戸田の長身に集まった。
 開け放たれた窓からは、既に西日が深く差し込んでいた。子どもらの声も消え、周囲は、静寂につつまれていた。
 戸田は、机の両端に軽く手を置いた。そして、十界論から、静かに説き始めたのである。
 彼は、真面目な表情で、時にユーモアを連発しつつ、話を進めた。聴衆に、強い魅力と、なんともいえぬ親しさを感じさせた。そして、十界の、おのおのの生命活動を説明しながら、いつしか、難解な生命論を容易に理解せしめていったのである。
 「このように、地獄界から仏界まで、十種類の生命の状態というものは、それぞれ、必ず何かの縁によって現れ、私どもの心身を、一喜一憂させているわけです。これが、われわれの生命の実態であります。また、宇宙の実相も、一切の現象も、瞬間瞬間、十種のうちの、必ず、どれか一つの状態にあるのです。
 悪い現象や状態でいるのは、誰でも、いやなものであります。望むらくは、良い現象に見舞われ、満足した状態でありたい。すなわち、幸福でありたいとは、誰もが願うところであります。しかし、ただ願っていれば、叶うというものではない。それは、皆さん方も、経験から、よくご存じの通りであろうと思います。
 ここで、真実の生活の根源力ともいうべき、力ある宗教が必要になってくるのです。日蓮大聖人様は、このことを生命を賭して、お教えくださっております。われわれは、自分の意思だけでは、強い、清らかな金剛不壊の幸福境涯に立つことはできません。
 それには、仏の生命を顕現すべき対境が、絶対になければならない。どんな境涯といえども、必ず縁によって生ずるからであります。
 この対境が、結論していえば、御本尊なのです。この妙法の力によって、醜を美に、害を利に、悪を善に変え、永遠に滅びざる仏の生命を、われわれに涌現させてくださるのです。ことに、末法の御本仏たる、日蓮大聖人御出現の意義があることを、私どもは知らねばなりません」
 戸田の話は、確信に満ち、聴衆の肺腑を突く勢いがあった。
 彼は一転して、日本の現状に話を移した。敗戦後の混乱した世相をあげて、修羅界、畜生界、地獄界等を説明した。
 ――この乱脈な様相こそ、日蓮大聖人が教えられた妙法を、無視し続けた結果である。正法を見失って倒れた国は、正法によって立つしか道がない、と力説していったのである。
 「私は、このような日本の現状を深く悲しみ、憂えるものであります。
 民族が復興するには、必ず哲学が必要であります。その哲学は、また実践をともなわなければならない。実践のない哲学は、観念の遊戯にすぎません。
 戦時中、国家神道を強制して、大失敗したわが国は、戦後、いかなる哲学と道徳を基調として、復興すればよいのでしょうか。人びとを迷わす低級な宗教や、暴力的、退廃的な思想がはびこっている現在、わが創価学会は、偉大な日蓮大聖人の哲学を身に体して実践し、祖国の復興に寄与しようとしているのであります」
 彼は、情熱的で雄弁家であった。奔流のように飛び出す一言一句が、無量の重みをもつ、真実の叫びであった。
 「戦い敗れた祖国、この日本が、真に平和を愛好する民族として再起するには、正しい、矛盾のない宗教、思想を根底にする以外にない。そのうえに、政治や経済や文化が打ち立てられねばならないことは、論をまたないところです。
 この要求を満たし得るものが、実は、わが日蓮大聖人の大哲理なのであります。その根本が御本尊様なのであります」
 断定的な言い方である。だが彼には、獄中で得た強い信念と、深い哲学的な裏付けがあった。
 「このようなすごい御本尊様が、厳存しているにもかかわらず、ほとんどの人が、これを知らなかった。いや、知っても無視してまいりました。皆さんも、今日、初めて聞いた人が、大部分だと思います。しかし、知った以上は、わが身のためにも、家のためにも、わが民族のためにも、速やかに御本尊様の大慈悲に浴されんことを、心から願うものであります」
 戸田は、顔を上げた。そして、一人ひとりに話しかけるように、会場を見渡した。
 演壇の傍らに立っていた増田が、大声で言った。
 「では、質疑応答に移ります。今までの話を聞かれて、数々の疑問もあろうかと思います。どなたでも、遠慮には及びません。質問のある方は、手をおあげになってください」
 一人の青年が手をあげ、指名されて立った。そして、朴訥な物腰で尋ねた。
 「法華経と、民主主義との関係を説明してください」
 「ああ、いい質問です」
 「戦後、急に民主主義、民主主義と、誰も彼も言うようになった。この風潮は、日本を誤らしめた戦前の軍部独裁主義に、こりごりしている国民にとっては、当然なことです。戦前とは反対に、主権在民でなければ幸福になれないと、国民が明確に知ったからです」
 戸田は、わが子に言い聞かせるような表情で、話を続けた。
 「民主主義というのは、簡単に言えば、民衆が権力をもち、民衆が権力を行使するということです。要するに主権在民です。皮肉なことだが、わが国は戦争に負けた結果、民衆が自由になり、民衆が中心の社会が、出来上がろうとしている。
 人間の自由と平等を原理として生まれた民主主義には、私も大賛成だが、それで万々歳かというと、そうもいかないところに問題がある。
 人間の幸・不幸を考えた時、社会制度や政治機構が大事であることは言うまでもないが、民主主義というのも、一つの制度にすぎない。心の真の自由の獲得とか、宿命の打破といったことになると、制度や機構を、どれほど整えたとしても、なす術もありません。
 人間関係の悩みや、運・不運、あるいは老いとか、病とか、死といったことは、制度を変えても、どうにもなるものじゃない。そうじゃないかな」
 戸田は、演壇から、青年の目を、じっと見つめて話を続けた。
 「西欧の民主主義は、キリスト教を基盤にしているが、これに対して、共産主義の思想を根幹とした人民民主主義が、現在、喧伝されている。しかし、両方とも根っこは同じです。西欧民主主義は、どちらかといえば自由に重点があり、人民民主主義は平等に力点があるといってよい。
 ところが、これらの民主主義は、ともすれば衆愚政治や独裁政治になってしまう場合もある。したがって、民主主義という制度を、生かすのも殺すのも人間なんです。だから社会変革の根底には、まず人間革命が必要なんです。
 そして、人間を根本的に変革するには、三世の生命を説ききった末法の法華経である、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経しかありません。
 日蓮大聖人が説かれる仏法の、生命哲理を基調とした民主主義による以外、すべての人の幸福を可能にする、人類社会の待望する本当の民主主義の実現は、不可能であるというのが、私の主張です。
 後は、あなた自身が、よく思索してください」
 「……よく、わかりました」
 青年は、実に単純、簡単に答えた。
 すると戸田は、ニコニコ笑いながら言った。
 「いや、そう簡単には、わからんよ」
 場内には、どっと爆笑が渦巻いた。
11  質問の手は、次々とあがった。真面目に仏法の話を聞とうとする人が多かったが、なかには批判的に、ふざけ半分で質問する人もいた。回答者を困らせるために、わざと意地の悪い聞き方をする人間は、どこにでもいるものである。
 しかし戸田は、一人ひとりに明快で、確信に満ちた回答を与えていった。
 質問は、きりがなくなった。時間は、既に五時を回っている。
 戸田は、増田を呼んだ。そして、小声で話した。
 増田は、質問者の手を制しながら言った。
 「司会者としまして、このような活発な講演会を、この村で開催でき、本当に嬉しく思います。皆様に厚く御礼申し上げます。時間も、かなり経過いたしましたので、自然の要求もあろうかと存じ、ひとまず閉会といたします。
 このあと、夜七時より、拙宅において、戸田城聖先生を囲んで、座談会を開催いたすことになっておりますから、心ある方は、奮って、おいでください。本日は、まことにありがとうございました」
 夕焼け雲が真っ赤である。
 熱気に満ちた会場から、一行は外に出た。夕暮れの秋風が、きわやかであった。
 山々の襞は、五色の織物のように、さまざまな明暗を描いていた。それは、さながら天地に描かれた、一幅の名画であった。
 稲穂が、秋風に波打っていた。静かな田園の調べが、無言の音律を奏でているようであった。
 秋である。まさしく村里は、実りの秋であった。
 一行は、増田宅に間もなく着いた。そして、さっそく勤行を始めた。簡単な夕食をすませ、茶を飲みながら、またしても、トウモロコシをかじり始めた。楽しい話に花が咲き、にぎやかで、底抜けに明るかった。
 日が暮れ、夜となった。そのころ、村の人びとが、五、六人、やって来た。増田の姉妹は、心当たりの人びとを連れて来ようと、闇のなかへ出て行った。
 囲炉裏の側や、座敷の隅で、一対一の膝詰めの折伏が始まった。入会が決定すると、戸田の前にやって来た。
 まず二十歳前後の、国民学校の教員が入会を決意した。民主主義の問題を質問した青年である。
 実直な、年配の男性が二人、先祖からの宗教に執着して、信心することをためらっていた。だが、納得したらしく、遂に入会の決意を固めた。さらに十七、八歳の元気な娘が、進んで入会の手続きを聞きに来た。
 四人の入会者である。一行は、意気軒昂となった。
 誰よりも嬉しく、得意だったのは、久一郎であった。頬を紅潮させ、途端に若返って、浮き浮きしていた。
 彼は、台所を片付けている妻の側に寄って、しきりに急き立て始めた。
 「家にあるものは、みんな出せ。食べられるものは、全部、出せ!」
 久一郎は、納屋の奥から、大事そうに瓶を抱えてきた。当時の農村の、米のあるところには必ずあった、濁酒である。元警察官の、手塩にかけた濁酒であった。
 「警官の造った酒を、今夜は初めて飲んだが、うまいですな!」
 戸田は、増田をからかいながら、上機嫌である。
 食卓の上には、カボチャ、ふかしたジャガイモ、焼いた秋ナス、山ブドウ、クリ、白菜の漬物、きんぴらゴボウ、薫製のような川魚の煮付け……が所狭しと並んでいた。山里の珍味である。
 皆、遠慮なくっつき、語り合った。楽しく豊かな、宴である。
 戸田の指名で、一人ずつ元気に歌い始めた。さらに、踊りも出始めた。古い民謡もあった。「リンゴの唄」など、流行歌も飛び出した。
 山奥の一軒家は、時ならぬ賑わいで、楽しい雰囲気につつまれていた。講演会の成功が、皆を生き生きとさせたのである。
 戸田も、自ら歌った。そして踊った。彼の踊りは、舞に近い。豪快でありながら、どこか気品が漂っていた。一瞬、静から動に、動から静に移る間の取り方は絶妙で、長身は、実に美しい線を描き、見事であった。
 拍手が繰り返され、明るい笑い声が波打った。誰もが楽しみ、愉快であった。
 皆が、夜の更けるのも忘れていた。近くには、家はない。深夜の涼気が、すっぽりと、この喜びに満ちた家をつつみ、闇が温かく、いただいていた。周囲の草むらには、秋の虫たちが声をそろえて、盛んな合唱を繰り返していた。
 「明日がある。休ませていただこう」
 戸田が、こう言った時には、既に真夜中になっていた。
 翌朝は、午前四時前には起きなければならない。東野鉄道の黒羽駅発が、午前六時半だからである。
 一行は、正午までに、群馬県桐生市に到着の予定であった。桐生の学会員が、首を長くして待っているのだ。
12  未明の暗い道を、一行は黒羽駅へ向かって急いだ。夜明け前の冷気は、眠気を覚ますには好都合であった。が、いささか寒かった。
 途中で、強度の近視の戸田は、道沿いの小川に、足を滑らせてしまった。そして、片足を腿まで濡らしてしまったのである。
 清原と酒田が駆け寄って、濡れた足を拭いた。
 戸田は、カラカラと笑いだした。
 「肥溜の中でなくて、よかったよ」
 一同は、ぷっと噴き出した。どこで何が起きても、いつもユーモアを忘れぬ戸田であった。見送りに来た増田姉妹は、いつまでも笑い転げていた。
 やがて、空が白んできた。
 妹の政子は、つと戸田の側に寄り、小声で言った。
 「先生!」
 「なんだ」
 彼女は、口をつぐんで、なかなか言わない。
 戸田は、優しく言った
 「言ってごらん。なんでも聞いてあげるよ」
 「先生……私、東京に出たいんです」
 「どうして?……あっ、結婚のことか」
 政子は、思わず顔を赤らめ、頷いた。戸田に見抜かれたのである。胸のなかで、びっくりもした。
 「焦っちゃいかん。幸福は、遠くにあるのでは決してない」
 戸田は、ひとこと言った。
 「でも、先生、私、疎開してもう三年にもなります。話は、幾つもありましたが、みんな駄目なんです。だいいち、こんな山の中で、私にふさわしい人を、探せるはずはないと気づきました。どうしても、東京に出たいんです」
 強く意を決した話し方であった。
 政子にとっては、当時の多くの女性と同じく、戦争が結婚を遅らせていたのである。戦後になっても、彼女は、那須の山奥にいなければならなかった。結婚の機会は、失われていくように思われた。
 彼女は、いつか焦りだしたのである。
 「東京へ出さえすれば、いい相手が見つかると思うんだね?」
 戸田は、振り向いて、政子に言った。
 「そう思うんですけど・::・」
 「見つからん。焦っちゃいかん。不幸になるだけだ」
 彼は、言下に否定した。
 彼女は、失望の色を浮かべ、うなだれた。
 「ちゃんと、信心してごらん。欺されたと思ってもいいから、立派な信心を買いてごらん。山奥にいようと、都会にいようと、貴女にいちばん、ふさわしい立派な人に、必ず巡り合える。どういう順序でそうなるか、それはわからん。が、きっとそうなる。場所ではないよ。信心だ。そうでなかったら、御本尊様は、嘘だよ」
 「………………」
 戸田の指導は、いつでも、場所を選ぶことなく、形式抜きで行われた。人によっては、自分の一生を左右しかねない問題で、指導を受けているのである。その場限りの感情論で、納得のいかない指導をしていては、人生を大きく狂わせてしまう。だから戸田は、絶えず妙法を根幹に、揺るぎない信心の立場から、真剣勝負で臨んだ。
 「心配することなんか、少しもない。信心で、自分の宿命を大きく開いていくんだ。私が、じっと見ていてあげる。決して焦つてはなりませんぞ」
 彼は、厳しい口調で言った。
 政子は、深く頷いて納得した。
 戸田は、政子の手を取って、優しい父のように諭した。
 「元気になるんだよ。卑屈になっては、いかん。那須で、大いに頑張りなさい。信心でね」
 彼女は、いつか涙ぐんでいた。
 夜は、すっかり明けた。
 列車は、定刻六時半に発車した。清原の振るハンカチに応え、増田姉妹が、プラットホームで、いつまでも手を振っていた。
 列車は、のろのろと走っていた。睡眠不足のためか、皆は、たちまち気持ちよく眠り始めた。戸田は、仁丹を、むやみにポリポリとかんでいた。そして、窓外の広い原野を眺めていた。
 彼方には、幾重にも重なる山々の峰がそびえていた。
 彼は、厳しい表情を崩すことなく、窓外の景色に、じっと目を向け、深い思いにふけっていた。
 ″ここに見える現実の山々は、どんなに遠く険しかろうと、歩けば峰を極めることはできる。この足を、一歩一歩、弛まず運びさえするなら、どんなに高い山でも、いつかは必ず越えることができる。これは間違いない。しかし、広宣流布の幾山河は、いったい、どこにあるのか。いつ見えるのか……″
 戸田は、地方指導の第一歩を踏み出した。その道は、謹かなる山河に、続いているように思えた。
 一瞬、空漠の思いに駆られ、外界の山々と己心の山々とが、重なり合っていった。
 ″広布の幾山河。それこそ、十重二十重の山であるにちがいない。ただ、足を運べば、越すことができる、といった山でないことは確かだ。それは、魔との壮絶な戦いであるにちがいない。影も、姿も見せぬ魔との戦い! 所詮、広宣流布の幾山河は、底知れぬ宇宙に広がり、はびこる魔との戦いであろうか……″
 彼は、ここまで思いたどった。そして、日蓮大聖人の御姿を、一人懐かしく思い浮かべていた。静かに唱題しながら、列車の心地よい振動に身を任せた。
13  列車は、西那須野駅構内に入った。そこで東北本線に乗り換え、そして小山駅に着いて、今度は両毛線に乗り換えた。
 桐生駅には、二、三人の顔見知りの同志が出迎えていた。
 一行は、この地方都市の繁華街にある、古くからの信徒の家に案内された。宮田という姓である。疎開した学会員の山田や、野口や、鬼頭たちは、戦時中、灯火管制下にあっても、座談会を、折々、開いていた。なんとか信心の火を絶やさず、守ってきたのである。
 戸田は、宮田宅で、さっそく勤行を始めた。この地には、日蓮正宗の寺院もあったが、驚いたことに、経文の読めない信徒が大部分であった。
 小憩し、座談会場になっている、最近、信心を始めたという水田宅へ赴いた。
 戸田は、道々、しきりと三島由造に話していた。
 「ここの信心は濁っているな。すっきりさせなければ、いずれ大変なことになるだろう。三島君、ひとつ、せっせと通って、厳しく指導してやってくれたまえ」
 「はい!」
 三島は答えた。
 すると戸田は、駄目押しするように、強い口調で言った。
 「しかし、骨が折れるぞ!」
 三島は、この時、何も気づかずにいた。だが、この方面の信心が軌道に乗るまでには、事実、数年の歳月が必要であった。
 座談会には、十人の人が集まっていた。そのうち、未入会の参加者は、一人だけであった。
 戸田は、一人ひとりに、和やかに話しかけた。おのおのの生活状態を聞き、懇切な指導をしていった。そして、日蓮大聖人の仏法の峻厳さと、慈悲の深さを説いた。
 最後に戸田は、広宣流布への並々ならぬ決意を話って、話を結んだ。
 「広宣流布は、戸田がやる。誰にも渡さん。みんな、しっかりついて来なさい。必ず無量の福運を積むことができるんですよ」
 未入会の一人は、信心をすることになった。
 地方指導を終え、桐生を後にした一行の心は、晴れ晴れとしていた。
 帰りの列車は、立錐の余地もないほどの混みようであり、身動きもできなかった。
 戦後第一回の地方指導は、手探りにも似た状態でスタートしたが、広宣流布の新たな突破口を開いたのである。
 戸田の胸は、深い感慨に満たされていた。それは、いかなる山河も、勇気をもって歩みを運ぶならば、必ず踏破することができるという確信であった。弟子たちも、その確信を深めたのである。

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