Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

歯車  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
2  ここで、牧口常三郎の「価値論」という、哲学的発見について、簡単に述べたい。
 それは、ドイツの哲学者カント(一七二四年〜一八〇四年)の流れを汲む真・善・美の価値体系を、根本から覆し、「真なるもの」すなわち「真理」は、認識の対象であって、決して価値ではないことを明らかにしたものである。そして、牧口の新たに樹立した価値体系は、美・利・善である。なかでも価値の最大・最高なるものを「大善」に置いている。
 牧口は、価値とは、人間の生命と対象との関係性のなかで創造されるものであると説いた。さらに、人間生活の目的は、すべからく幸福の追求であり、すべては価値の創造、獲得にほかならないと述べている。
 そして、人が最高・最大の価値ある生活をするためには、主体である自己の生命の力を最高に発揮してこそ、最高の価値の創造が可能となる。それが、大善生活であり、そのためには、人間生命の力を最高度に引き出す真実の宗教が必要になる――と論じている。
 ここで、牧口の価値論は、日蓮大聖人の生命哲理と結びつかざるを得なくなり、価値論は、信仰という、人間の主体の根本的な問題に帰結していった。
 宗教とは、生活を律する根本であり、もしも誤った宗教を信仰していたならば、その人の生活は、必然的に反価値の生活に陥る。正しい宗教を根本とすれば、価値を創造する人生となる。幸・不幸は、無神論や精神修養も含め、人生の根本となる考え方、すなわち宗教によって重大な影響を受けるとして、宗教の高低、正邪の価値判断とそ、最も大事な問題であると訴えた。
 価値論から入って大聖人の生命哲理に行き着いた牧口は、その宗教活動では、座談会にも、「大善生活実験証明座談会」と名づけた。体験談は、日蓮大聖人の仏法と、それを裏付けとした彼の哲学の実験証明であったわけである。
 牧口常三郎は、死の一カ月前、一九四四年(昭和十九年)十月十三日付で獄中から妻に宛てた、現存する最後のハガキに、次のように書きつづった。
 「……カントノ哲学ヲ精読シテ居ル。百年前、及ビ其後ノ学者共ガ、望ンデ、手ヲ着ケナイ『価値論』ヲ私ガ著ハシ、而カモ上ハ法華経ノ信仰ニ結ビツケ、下、数千人ニ実証シタノヲ見テ、自分ナガラ驚イテ居ル。コレ故、三障四魔ガ紛起スルノハ当然デ、経文通リデス」
 価値論は、究極において、日蓮大聖人の仏法への信仰に帰着したのである。この世に実在する最大・最高の価値を追求して、結局、御本尊を信じ、信仰に励むことが、最高絶対の幸福と知ったのだ。
 価値論の哲学者として、牧口は、最高・最大の価値をもたらす本源は、南無妙法蓮華経にほかならぬと悟ったのである。
 確かに、その通りであったろう。
 美・利・善の価値体系が、人間の考え得る範囲の、最高極善の価値を理解せしめるものであることは、確かである。しかし、御本尊には、人間の思考をはるかに超えた、無量無辺、無限の仏力・法力がある。南無妙法蓮華経は、価値論のいかんにかかわらず、厳然と実在するのである。
 しかるに、これを価値という時、それは、観念的な価値論の範疇に閉じ込められてしまいかねない。
 戸田城聖は、恩師・牧口常三郎の価値論の論理を、こよなく愛していた。現代哲学の最高峰であるとも思っていた。その独創的な立論に、心から脱帽していた。だが、獄中にあって、大聖人の大生命哲理を覚知した今は、価値論という人工的な操作の限界を、知らなければならなかった。
 戸田は、出獄以来、ひとまず価値論を引っ込めた。
 そして、南無妙法蓮華経そのものから出発したのである。それは、幾多の苦難の歳月を経て、身をもって体験した確信からであった。
 今、法華経講義の受講者たちは、戦時中の価値論で武装した人びとである。即座に、戸田の胸中がわかるはずがない。彼らも生命論に面食らい、戸田も彼らを相手に困惑した。この壁を破るために、それからなお数年の努力と苦闘が必要であったのである。
3  第二期の法華経講義は、第一期と違い、酒宴に移ることはなかった。講義終了後は、さまざまな学会再建の話に花が咲いた。
 新しい息吹が満ちていたのである。組織の整備が、話題になることもあった。四散した同志の消息を、互いに確認し合ったりした。ある人は、地方指導の計画を提案した。
 こうして、歯車は回り始めた。三年近く停止していた歯車は、戸田城聖を中核の軸として、回転し始めたのである。
 五月一日には、創価学会として、第一回の幹部会を開催するまでになった。参加者は、三十数人にすぎなかったが、大事な歴史的幹部会となったのである。
 集合した同志は、人数の多少の問題よりも、戦前と同じく、信心の依処ができたことに、顔を輝かせていた。
 また、この日、中核メンバーの打ち合わせ会が開かれ、総務部、教学部以下九部の組織と、その責任者が決定した。そして、都内の四支部で、戸田を中心とする、座談会の日程が組まれた。
 戸田は、幹部会の終わりに、みんなに向かって言った。
 「今日は、ご苦労でした。これで、わが学会も実践の緒についたわけですが、これからが大変です。よほど心して、強盛な信心に立たなければ、いたずらに時代の波に足をさらわれてしまう。今は、日本の国始まって以来の乱世といってもよい。
 今日の、メーデーの様子を聞いてもわかるように、宮城前広場には、五十万の労働者が参加して、食糧問題の解決と、天皇制打倒を叫び、民主政権の樹立を訴えながら、喚声をあげている。
 幣原内閣が倒れて十日もたっているのに、次の内閣が、誰を首班として組閣されるか、それさえ混沌としている」
 彼のあいさつは、時に静かに、時に勇者の雄弁そのものであった。
 敗戦の辛酸は、これからさらに、われわれが、なめなければならないだろう。政局の不安定、生活の不安、経済活動の麻痺状態、本当に恐ろしい社会です。国に華洛のところなしです。
 だが、幸いにして、私たちは御本尊を受持している。経文にも、信心強盛の人のところ、我此土安穏と説かれている。なんで恐ろしいことがあろうか。
 さまざまな世情に、学会幹部は、一喜一憂して紛動されては断じてなりません。そんな心弱い、惰弱なことでは、広宣流布の大業を遂行することは、てできない」
 彼の表情は、次第に厳しくなり、言葉は、人びとの肺腑を突いた。
 「戸田城聖は、広宣流布のためには、一身を御本尊様に捧げる決意をしたのです。同じ決意を分かとうという人は、戸田に、どこまでも、ついて来てほしい。諸君のなかに、私と同じ決意をいだくことを欲しない人がいたら、今、即座に、この席から去ってほしい」
 室内は、異様な緊迫感をはらんで静まり返った。全員、ただ声をのんでいた。沈黙が、重苦しくなってきた。しかし、戸田の視線を避ける者はいなかった。
 「諸君、どうする?」
 戸田は、沈黙を破って叫んだ。人びとは、その声で、緊迫の空気から救われた。そして、一斉に元気な声で、口々に言った。
 「はい、やりますとも……」
 「先生、決して心配しないでください」
 戸田は、にっとり笑った
 「本当か?」
 「本当です、安心してください」
 「ありがとう。では、大いにやろう。何が起きても、びくともしてはいかんぞ」
 戸田は、いきなり上着を脱いだ。
 そして、片手を高くかざして、「同志の歌」を歌いだしたのである。
 目には、何を思うか、涙が光っていた。
 幹部一同も、声をそろえて歌った。
 二度、三度と歌い続けた。繰り返し歌ううちに、誰の胸にも戸田の決心が次第に感じ取れてきた。若い清原は、泣きながら歌っていた。皆の顔は、喜びと決意に紅潮し、尊い使命を自覚した顔になっていた。
 戸田は、歌い終わると、メガネを外し、ハンカチを、そっと目に当てた。
 散会して、戸外に出たが、誰一人、帰る人はいない。暗い歩道で、戸田を囲み、談笑して動かなかった。
 やがて、この一団は、何か朗らかに語りながら、水道橋駅へ向かって行った。この日の、昼間の五十万のメーデー・デモとは、桁違いの行進ではある。
 しかし、陰惨な影など全くない。時には、笑い顔さえ見せての、少数精鋭の行進であった。
 改札口で、戸田は言った。
 「みんな、元気だな。今夜は、デモ行進までやったじゃないか。家へ帰ったら、女房に言ってやれ。今日は、デモをやってきたぞ、とね!」
 わっと歓声が湧いた。明るい笑い声であった。
 人びとは、あいさつを交わすと、初めて上下線に別れた。
 彼らは、この夜から、事実上、歯車の一つ一つとなって動きだしたのである。
 五月二十二日、第二回の幹部会が開催された。実に小さな動きである。巨大な労働者のデモと比較すれば、原子や分子の動きにも似た会合であった。
 だが、出席者は、彼らだけに共通の、一つの気概を胸に秘めていた。それはまだ、世間の誰もが気づかないことではあったが、妙法の「広宣流布」という、崇高な使命をいだいていたのである。
 この夜、早くも新理事が三人、戸田理事長の名において任命された。蒲田の原山幸一、小西武雄、関久男の三人である。経済人グループの四人の先任理事を加えて、理事室は七人となった。
 第一回の幹部会から、二十日そこそこしかたっていない。この時までに、都内十カ所、地方五カ所の支部の布陣が出来上がり、学会の組織は、力強く一歩前進したのであった。
4  この間、世間の情勢も、急激に先鋭化していた。
 五月十二日には、世田谷区民による「米よこせ区民大会」が開かれ、皇居に押しかけた。
 政局は、組閣の困難に直面していた。四月十日の総選挙で、鳩山一郎の自由党が百四十一議席を獲得して第一党となった。幣原喜重郎の進歩党は第二党となり、社会党の進出も著しかった。
 次期政権をめぐって、暗躍と折衝が重ねられていった。
 そして、五月三日、自社両党間の政策協定が成立し、鳩山は、社会党の閣外協力による、自由党単独内閣の意向を固めた。
 幣原は、マッカーサーに書簡を送り、その許可を求めていた。一方、鳩山は、閣僚名簿の用意をしていた。ところが、鳩山に来たものは公職追放の指令であった。政局は、再び混迷し、空前の政治的空白期間が続いたのである。
 鳩山の後継者として、元宮内相の松平恒雄と、老政客・古島一雄が候補にあがってきた。しかし、遂に五月十六日、外相の吉田茂が後継者として登場した。
 組閣は難航した。飢えた民衆は、日に日に暴動化していった。五月十九日には、皇居前広場に労働組合員ら二十五万人が集まり、飯米獲得人民大会、いわゆる「食糧メーデー」が行われた。
 この時に、乱暴なプラカードも見えた。これは後に、裁判沙汰にまでなった。
 「朕はタラフク 食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギヨジ」
 このプラカードの作者は、一躍、労働戦線の英雄となった。
 まさに、異常な事態であった。多くの民衆は、ただ食糧が欲しいのである。生活の安定だけが、第一義の根本問題であった。いずれの党でもよい、自己の欲求を満たしてくれることを望んでいたのである。戦争も悲惨なら、戦後も悲惨であった。
 大会は、スローガンなどを採択後、十二時過ぎからデモ行進に移った。この時、労組の代表など二百人近くが、首相官邸に設けられていた組閣本部に押し寄せた。彼らは、組閣に取り組んでいた吉田茂外相との面会を強要して、組閣本部に居座った。
 この時、吉田は組閣本部にはいなかったが、組閣に苦慮していた。食糧問題のカギを握る農林大臣が、与党の自由党からも反対され、組閣の見通しが立たなかったのである。吉田は、一時、組閣を断念する覚悟もしたが、翌日から、事態は一変した。
 翌二十日、マッカーサーは、前日のデモ隊に、声明文で重大警告を発したのである。
 「もし日本社会の少数分子が現段階および現情勢が要求する自制、自重を行い得ない時は、余はかかる悲しむべき状況を統御しかつ救治するに必要なる手段をとらざるを得なくなるであろう……」
 民主人民戦線を呼号するデモの指導者たちは、占領軍治下にあることを思い知らされ、夢見る革命の曙光は吹き消された。
 GHQ(連合国軍総司令部)は、弱体の政府を追い込もうとする左翼の大衆動員に対し、一撃を加えたのである。実に、政局を最終的に左右する権利は、日本人にはなかったのである。
 日本の政局は、武力を背景にした占領軍の圧力下に、彼らの意図のままに変化した。さらにその翌日、マッカーサーは吉田に、「自分が最高司令官であるあいだは、日本人はひとりも飢死させない」と伝え、食糧危機への援助を確約したといわれる。
 このマッカーサーの後押しを待っていたかのように、デモ騒動から三日後の二十二日、ようやく吉田内閣が成立した。
5  この同じ日の夜に、学会では第二回の幹部会が行われていた。復刊の機関紙「価値創造」の原稿も、この夜にそろった。出来上がった「価値創造」は、謄写版刷りで半紙半載の八ページしかない薄いものであった。
 かつての、創価教育学会の「価値創造」は一九四一年(昭和十六年)七月に、第一号が発刊されている。以来、月刊として、翌年五月までに、第九号を数え、会員は三千人ほどに飛躍したが、軍部政府の思想統制によって廃刊となった。そして、四三年(同十八年)に入って、弾圧の嵐が襲ったのである。
 空白三年、再び広布の言論戦の緒戦は展開されたのだ。紙も悪い、刷りも悪い。だが、復刊の喜びは、筆舌に尽くせぬものがあった。
 ともかく、歯車は回転を開始した。喜々として回り始めた。
 六月二十二日には、十一人の青年部員が集まった。戸田も出席し、一応、かたちだけではあるが、組織結成をみた。七月三日の出獄記念日には、理事会と幹部会が開催された。引き続いて、七月二十日には、婦人部会を兼ねた座談会、七月二十四日には、青年部討論会、七月二十七日には、青年部座談会も開かれた。各支部の座談会も、日に日に活発化してきた。
 数多くの歯車が、目に見えて回転し始めたのである。戸田城聖は、学会が、壊滅状態をようやく脱したことを知った。歯車は、寄ってくる歯を、きちっとかみ合わさなければならぬ。かみ合わぬ歯車を見た時には、彼は容赦しなかった。
 やっと回転しだした一群の歯車――それは、彼の構想の大車輪には程遠かった。戸田の心奥の巨大な歯車の回転の情景から見れば、今の歯車は、あまりにも小さく、回転も微弱である。
 しかし彼は、小さな一つ一つの歯車を、大切にした。丹念に磨き上げることに心を砕いた。いや没頭したのである。そして、派手な動きは、一切しなかった。堅実な、無駄のない活動に努め、満を持していた。
 病んだ歯車が、一つでもあれば、大変である。その歯車のため、全体の回転が重くなるからだ。時には、全体の回転を停止させてしまう。恐ろしいことである。彼は、これに十分留意していた。
6  学会の座談会は、厳正であった。微塵も、不純な濁りがない。邪義との妥協もない。それゆえに、誘われて参加した人も、なかなか入会の決心がつかなかった。
 しかし、戸田城聖は、実に辛抱強く戦った。一回の座談会で、納得しない人には、二度、三度と出席させるようにしていった。大勢の体験談を聞かせては、また仏法を語り、あくまでも本人が納得するのを待った。
 「これから、荒波を乗り越えていく、力強い指針が必要じゃないだろうか。福運を積んでいく、力ある宗教が必要じゃないだろうか。誰でも、それを望んでいる。また、欲しいのだよ。間違った宗教ほど恐ろしいものはない。宿命を打開できる、厳然たる幸福の現象が、生活のうえに証明される信心でなければ、意味がないのだ。
 一人の人間であれ、一軒の家であれ、一国であれ、この妙法という宇宙自体の生命の大鉄則から免れるものは、何一つない。証拠は、先程の体験談の通りだ。ただわれわれは、このことを知らないでいた。いや、気づかずにいた。いや、教えられても、あなたのように、そんなことがあるものかと思っている。どうです、その通りじゃないか……」
 戸田は、にっとり笑って顔をのぞいた。その人は、頷いて、小さな声で言った。
 「その通りです」
 「この信心に、絶対、嘘はない。必ず幸福になれる。確信をもって申し上げる。もし、嘘であったら、おやめなさい」
 戸田は、断言した。その参加者も、彼の顔を、まじまじと見るのであった。
 戦前の学会員たちは、価値論の論争に始まり、罰論に終わる折伏法を常法としていた。戸田の折伏は、価値論をあまり出さず、徹頭徹尾、利益論、功徳論を真っ向から、かざしていった。それでも、折伏は容易にできなかった。入会者の率は、戦前と同じである。
 しかし、戸田の指導により、大小の歯車は、次第に磨きが、かかってきた。ある時は、ネジを締め、ある時は油を差した。こうして、世間の気づかぬところで、人材の整備は出来上がっていった。
7  前年の一九四五年(昭和一一十年)十二月二十八日に、GHQの指令によって、それまでの宗教団体法が廃止され、同時に宗教法人令が公布された。
 以後、一切の宗教団体は、この宗教法人令に従うことになったが、この法令は、新しく宗教団体をつくろうとするものにとって、まことに都合がよかった。
 一定の形式的条件を備え、届け出さえすれば、すぐに宗教活動ができたのである。認証制に変わったのは、五一年(同二十六年)四月に、宗教法人法が施行されてからである。
 一宗の創立が、これほど容易にできた時代もない。約五年間というものは、いくらでも宗教法人を創設し、めちゃくちゃな活動ができた。しかも、一切の収入に対し、無税という特典まであった。
 そこで、根本とする哲理もなく、体系化した教義もない、宗教というには程遠い新宗教が、数多く登場してきたのであった。国破れて、山河には、いまだ雑草しか茂らない日本の社会の、悲しい世相であった。
 「神も仏もあるものか」が、当時の人びとの口癖となっていた。戦後は、宗教不信から始まったともいえる。ところが、実際には、多くの人びとが新宗教に走っていったのだから皮肉である。
 人びとには、宗教の浅深・高低を識別する基準もなく、その気力もなかった。しかも、人びとの苦悩はあまりにも大きかった。生き抜くために、皆、まさに藁にもすがる思いに駆られていたのだ。そこに付け込んで、さまざまな新宗教が、勢力を伸ばしていったのである。
 四三年(同十八年)ごろ、信者百万を呼号した霊友会は、戦時中、皇族にもつながる人物を中心にすえるなどして、弾圧を受けることもなかった。
 四四年(同十九年)、創立者の一人、久保角太郎が死んだが、久保とコンビを組んでいた小谷喜美という強烈な性格の女性会長のもとで勢力は拡大し、四九年(同二十四年)ごろには、会員二百万ともいわれるようになる。
 また、三八年(同十三年)に、霊友会を脱会した庭野日敬と長沼妙佼が結成した立正交成会は、戦時中には千人程度の会員数にすぎなかったが、戦後の世相に乗って、急速に教勢を拡大し始めた。
 そのほか、御木徳一が創始した戦前の「ひとのみち教団」は、教団の後継者であった長男の徳近が、四六年(同二十一年)、教団の名称をPL教団と改めて、佐賀県で立教した。教団名のPLは、英語の「パーフェクト・リバティ」(完全な自由)の頭文字を取ったものである。基本教義はPL処世訓(おおしえ)二十一カ条であった。「人生は芸術である」などを標榜したが、本部を静岡に移した四九年(同二十四年)ごろからは、信者教化に社交ダンスを取り入れるなどして話題となり、会員数も大幅に伸ばしていくことになる。
 PL教団と同じく、戦後、名前を変えた教団に世界救世メシヤ教がある。教祖の岡田茂吉は、戦前、大本教から別れて大日本観音会を設立し、浄霊と呼ぶ手かざしで病気を治すと宣伝して布教したが、医師法違反に問われて、二度ほど検挙されている。
 しかし、宗教活動として、「光」「光明」などと書いた神札を与え、それによって相当の収益を得たといわれている。それを資金として、戦後の四七年(同二十二年)、日本観音教団として再出発し、五〇年(同二十五年)に世界救世教と改称。岡田は、自分の腹中にある「光の玉」から出るエネルギーに、病気を治す力があるとして教勢を拡大し、教団は、「おひかりさま」とも称されるようになる。
 戦後、さまざまな新宗教が登場するが、特異な行動で注目を集めたものに、璽宇じう、天照皇大神宮教、皇道治教などがある。
 璽宇は、真言密教系の行者・長岡良子が、自らを璽光尊と名乗って指導的立場に立ち、世直しを説いた。彼女は、今に天変地異があって、日本は壊滅すると言い、その時に通用するとする、私造紙幣を発行するなどしたため、四七年(同二十二年)、GHQや警察の取り締まりを受ける。
 その際、信者であった元横綱の双葉山が奮戦したことは、よく知られている。逮捕された璽光尊は、精神鑑定を受け、誇大妄想症と診断されて釈放され、双葉山も教団を去った。
 天照皇大神宮教は、教祖の北村サヨが、踊りながら説法し、信者も、思い思いに手足を動かして踊ったため、「踊る宗教」としてジャーナリズムを騒がせた。天照皇大神の神示を受けたと称し、一方では南無妙法蓮華経をもじって、名妙法連結経と唱えた。四九年(同二十四年)ごろには、信者三十万と号するようになっていく。
 皇道治教は、静岡県の木舟某という人物が設立した教団である。陰陽道を名乗っていたが、実態は宗教団体とは程遠かった。この教団は、普通の商店を傘下の教会とし、商店は「皇道治教××教会」の看板を掲げ、営業活動を宗教活動と称した。
 物品の販売は「施し」、その代金は「献金」であるとして、堂々と脱税していくようになる。
 この教団は、一時は広まったが、闇物資の密売などによって、経済事犯として取り締まられ、急速に衰えることになる。そして、認証制の宗教法人法施行とともに、完全に消え去っている。
 このように、戦後の宗教界は、全くの混乱に陥っていた。
 このほかにも、ある有力教団は、脱税や共同募金横領事件を起こしたり、開祖が脱税や収賄容疑で逮捕されることになる教団もあった。
 これらの活動を見聞した常識ある人たちが、新宗教に対して眉をひそめたのも当然であり、宗教は、いかがわしいものであるとみなし、どれもこれも同じであると思い込んだのも、無理からぬことであろう。
 一方、既成宗教は、農地改革で打撃を受けた寺院も多く、経済的に疲弊していた。経済力を失った檀家を相手に冠婚葬祭を行い、かろうじて生き延びている状態だった。このような既成宗教が、人びとに生きる勇気と、希望と、力を与えることなど、できるはずもなかった。
 戸田城聖は、こうした状況を直視して思った。
 ″まことに、邪な宗教ほど狡猾な存在はない。金を吸い上げるだけで終わるなら、詐欺漢か、泥棒として片付けることもできよう。しかし、信仰という名において、誤った教えを弘めることは、人びとの生命をむしぼむ根源の悪である。許すことのできないのは、そうした宗教屋である……″
 マルクスは、「宗教は阿片なり」と言った。キリスト教を指しての言であろう。彼には、三世の生命など思いもよらず、東洋仏法の真髄を知る由もなかった。
 マルクスは、キリスト教を、政治、経済の革命を、むしばむものととらえて、「宗教阿片」論を説き、日蓮大聖人は、宗教を、個人、および政治、経済、教育、文化の恒久繁栄の根本として、教えの誤りを破り、正法を示されたのである。
 信教は自由である。永久に自由であるべきだ。しかし、その自由のなかには、選択の自由、教義論争の自由、布教の自由があることを忘れてはならない。政治は政治の広場で、宗教もまた宗教の広場で論義し合い、教えの内容を検証し、民衆が賢明になって監視し、選択していくことが、民主主義社会の在り方であろう。
 ここに、宗教革命の必然性が存在する。これが、戸田城聖の決意だったのである。
 ドイツのマルチン・ルター(一四八三年〜一五四六年)の宗教改革は、キリスト教内だけでの改革であった。今、戸田の遂行しようとする宗教革命は、日蓮大聖人の仏法によって、全人類の精神を革新し、民衆と社会を根底から蘇生させようとする戦いである。
 師子王のように、戦わねばならぬ。納得のいくように、大哲理を説かねばならない。明確なる実証を示さねばならない。そして、組織の中核に、燃え上がる純粋な学会精神を、大鉄柱として叩き込まなければならない。
 この宗教の混乱期にあっても、戸田城聖は、実に沈着であった。自己のぺースで、確実な前進に懸命であった。彼が出獄した七月三日が来ても、一年前の感慨に、浸る暇もなくなっていたのである。
 彼の前には、未来しかなかった。あるのは、広宣流布の青写真だけである。そして、ただひたすら人材の育成に、全精魂を傾けていた。
8  戸田が、ひと息ついたのは、夏季講習会であった。総本山に登山し、同志と共に雄大な富士を仰ぎ、御本尊に向かって、心から祈りを捧げ、また指導している時であった。
 一九四六年(昭和二十一年)の八月七日から十一日までの五日間、戦後第一回の講習会が開かれた。戦前の講習会は、会長・牧口常三郎を中心として、例年三十人から百五十人の参加であった。だが、四三年(同十八年)の弾圧以来、自然消滅してしまっていたのである。
 再開された、この第一回の講習会には、三十余人が参加した。そのうち、七人が入会早々の人であった。既に、確実な弘教活動の成果が現れていたのである。
9  ここで、総本山大石寺創建までの経緯について、その概略を記そう。
 弘安五年(一二八二年)十月十三日、日蓮大聖人は、武州池上(現在の東京都大田区)の地で御入滅になった。そして、大聖人の正法正義を継承された日興上人が、身延の大聖人の墓所を厳護されることになる。
 身延の地頭・波木井実長は、日興上人の教化により、大聖人に帰依したのであったが、大聖人滅後は、年月の経過とともに、次第に信仰上の誤りを犯していくようになる。その誤りは、実長が法義を深く理解していなかったゆえであることは、言うまでもない。さらに、その迷妄を助長させたのは、六老僧の一人で、大聖人滅後三年目に、上総国藻原(現在の千葉県茂原市)から身延に来た、民部阿闇梨日向にこうであった。
 当初、身延の大聖人の墓所は、高弟をはじめ十八人が、交代で毎月守る輪番制も定められていた。しかし、この輪番制は守られることなく、既に三回忌のとろには、老僧たちが身延を訪れることはなかった。
 そのなかで、突然、日向が、身延に登山してきたのである。日興上人は、このことを喜ばれ、一応の才もあったことから、日向を学頭職に就かしめた。日向は、そのまま身延に住することとなった。しかし、世知に長け、才子肌であった日向は、厳格な日興上人を師と仰ぐことができなかった。そればかりか、やがて地頭の波木井実長に取り入り、その信心を狂わせていったのである。
10  「富士一跡門徒存知の事」に、日興上人は次のように述べられている。
 「一、甲斐の国・波木井郷・身延山の麓に聖人の御廟あり而るに日興彼の御廟に通ぜざる子細は彼の御廟の地頭・南部六道入道法名日円は日興最初発心の弟子なり、此の因縁に依つて聖人御在所・九箇年の間帰依し奉る滅後其の年月義絶する条条の事』とおっしゃっております。
 釈迦如来を造立供養して本尊と為し奉るべし是一』とおっしゃっております。
 次に聖人御在生九箇年の間・停止せらるる神社参詣其の年に之を始む二所・三島に参詣を致せり是二』とおっしゃっております。
 次に一門の勧進と号して南部の郷内のフクシ福士の塔を供養奉加・之有り是三』とおっしゃっております。
 次に一門仏事の助成と号して九品念仏の道場一宇之を造立し荘厳せり、甲斐国其の処なり是四』とおっしゃっております。
 已上四箇条の謗法を教訓するに日向之を許すと云云、此の義に依つて去る其の年月・彼の波木井入道の子孫と永く以て師弟の義絶しおわんぬ、つて御廟に相通ぜざるなり
11  ここに記されているように、地頭の波木井実長の犯した法義違背の数々は、厳格清浄な大聖人の教えに照らし、厳しく戒められていたものばかりである。
 実長は、釈迦像を本尊としたり、神社に参拝したばかりでなく、領内に念仏の石塔(福士の塔)を建て、さらに、念仏の道場を建立し、念仏僧に供養するまでになっていた。
 実長は、幕府の役人であったため、鎌倉にあることが多く、時流や世聞に迎合する風潮に染まっていた結果でもあった。ところが、その実長に対し、身延にあって日向は、地頭の誤りを教戒し、正すどころか、むしろ、それを許し、世俗に、おもねる法義逸脱の行為を勧めさえしていたのである。
 この日向の言語道断の行為に対し、日興上人は、ことあるごとに理を尽くし、訓戒した。だが日向に、その指導を受け入れる心はなかった。
 日向の本質について、日興上人は「原殿御返事」に、後世のために、こう記し残している。
 「彼の民部阿闇梨、世間の欲心深くしてへつらひ詔曲したる僧、聖人の御法門を立つるまでは思いも寄らず大いに破らんずるひとよと、此の二三年見つめ候いて、さりながら折折は法門説法の曲りける事を調れ無き由を申し候いつれども、敢えて用いず候」(編年体御書一七三二ページ)と。
 日向は、大聖人の教えのままに正義を貫き通す日興上人を、逆に非難するようになっていった。そして、実長を籠絡し、結託を強めて、わがもの顔で振る舞うようになる。法要の座で、実長と酒宴を張り、嬌声をあげて顰蹙を買うなど、堕落、破戒の正体をあらわにしていた。
 また実長も、日興上人の再三にわたる諄々たる戒告に対し、自らの非を認めるどころか、「自分の師は民部阿闇梨(日向)である」と語って憚らず、傲岸不遜な態度を見せるにいたった。
 事ことに及んで、もはや身延が、大聖人の御精神を失った謗法不浄の地となるのは、避けがたいものとなっていた。
 「地頭の不法ならん時は我も住むまじき」(「美作房みまさかぼう御返事」編年体御書一七二九ページ)とは、かねての大聖人の御遺誠である。日興上人は、遂に正応二年(一二八九年)春、この御遺命に任せて、一門の門下、有縁の弟子を引き連れ、決然として身延の地を離れたのである。時に、日興上人四十三歳、大聖人滅後七年目のことであった。
 一時、幼い日の養家がある河合の地に身を寄せた日興上人は、富士・上野郷の地頭・南条時光に請われ、下条の南条家に逗留した。そして、正応三年(一二九〇年)十月、南条家の領地である富士山麓の景勝の地・大石が原に、時光の寄進で大坊が造立された。その地名を取って大石寺となったのである。やがて、山内に住坊なども相次ぎ建てられていった。
 かくして二祖日興上人は、大石寺を正法流布の新たな拠点として、大聖人の教えを後世に正しく伝えるべく、その礎を定めたのである。
12  宗門の碩学といわれた五十九世法主・堀日亨は、その著『富士日興上人詳伝』に、「ましら叫ぶ甲峡こうきょうの身延のみ、かならずしも霊山浄土ならんや」と述べている。そして「人清ければ法清し、法清ければ所また清かるべし」と断言している。
 まさしく、その通りである。常寂光土とは、その住する人の一念によって決まるのである。
 日蓮大聖人も、『法華文句』の「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し」との文を引いて指導されている。つまり、最高の法を持ち、実践しているからこそ、その人が貴いのであり、人が貴いから、その人が活躍する場所も尊い――ということである。
 戸田城聖は、御本尊に向かい、唱題しながら思った。
 ″総本山である大石寺には、大聖人、日興上人の清浄な御精神が、常に脈打っていなければならない。戦前の轍を、二度と再び踏んではならない″
 彼の心中には、広宣流布の未来への深き決意が秘められていた。
 戸田は、この夏の講習会の期間中、和服姿で通した。そして、和やかに家族と話すように、参加者と語り合った。生活の問題や家庭の事情について、親身になって、ある時は優しく、ある人には厳しく、指導した。
 この第一回の夏季講習会では、御書講義、質問会、座談会をはじめ、白糸の滝への遠足まで行われた。
 なかでも最大の行事は、唱題であった。戸田を導師として、正座で痺れた足を、もじもじさせながら、朝、晩と繰り返された。戸田城聖の祈りは、ただひたすらに広宣流布を願っていた。真剣勝負の唱題の姿である。
 講習会が終わり、帰路に就く時には、皆の顔は、太陽のように明るくなっていた。どの顔も、清純で元気に輝いていた。それは、異体を同心とする人びとの顔でもあった。
 インフレーションと思想的混乱との、すさまじい末世の様相を呈した社会にあって、この一団の活躍は、いよいよ秋へ向かって、展開されていくのである。それはまた、広漠たる荒れ野に放たれた一点の火であった。その火が、一草また一草と燃え移り、広がっていくことは、自然の勢いでもあったのである。
 この年の七月一日、米国は、太平洋に浮かぶマーシャル諸島のビキニ環礁で原爆公開実験を行った。
 八月十日、中国大陸では、国民党軍と共産党軍との停戦が不可能であると、両勢力の和平、斡旋にあたっていた米・トルーマン大統領特使のマーシャルと、中国に駐在していた米大使のスチュアートが、共同声明を発している。
 (第一巻終了)

1
2