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日蓮大聖人・池田大作

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胎動  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
2  戸田は、この日、西神田の事務所に、少年を連れて行った。
 戦災で荒廃した東京の中心街の姿を、ひと目、男の子の脳裏に刻み込んでおきたかったのである。そこには、少年が、将来、平和に寄与する人になってもらいたいという、戸田の願いが込められていた。
 少年は、非常な好奇心と興奮を示した。電車の中では、両側の窓から、交互に間断なく、広い焼け野原を見た。そして、そのなかにうごめく蟻のような人間の姿から、目を離さなかった。
 静かで平和な東北の山河と、正反対の世界である。少年の頭脳は、混乱したようであった。
 「お父さん、爆弾が、ずいぶん落ちたんだね。お家も、みんな、なくなったんだね」
 「うん、そうだよ」
 「ぼくの家は、焼けなかったんだね」
 「そうさ」
 「どうして、焼けなかったんかなあ」
 「どうして? 焼けた方が、よかったのかい」
 「ううん……違うけどさ」
 少年は、強く首を振った
 「お父さん、怖かっただべ?」
 「父さんは、その時、家にいなかったよ」
 「あ、そうだ……牢屋だったんだね」
 「うん、そうだよ」
 戸田は、渋い顔をした。少年は、思いめぐらすように、続けて言った。
 「ぼくは、一関にいた。お母さん、一人でかわいそうだつたね」
 「そうだ。かわいそうだった。母さん一人で、家を守っていたんだよ。
 喬一、御本尊様が、ちゃんと御覧になり、お家も、父さんも、母さんも、喬一も、お守りくださったんだよ」
 「ぼくも、お題目を、一関であげたよ」
 少年は、にっとり笑い、得意そうであった。
 「お父さんの、手紙は読んだかい?」
 「ああ、父子おやこ同盟の手紙だね。読んだよ。おばさんが仏壇の引き出しにしまっている」
 西神田の事務所で半日遊んで、喬一は帰宅した。
 荒廃しきった東京の街は、少年の神経には刺激が強すぎた。少年は、グッタリ疲れ、夕食が終わると、さっさと寝てしまった。
 戸田は、夜遅く帰宅すると、また少年の寝顔を、珍しそうにのぞいていた。
 戸田夫妻は、この夜、珍しく喬一のことで議論した。
 戸田は、喬一を、このまま東京に残すことを主張した。妻の幾枝は、食糧事情が好転するまで、東北に預けておきたいと譲らない。学校も、四月の新学期から東京へ移した方が、区切りがいいという理由もあった。
 深夜の結論は、少年の自由意思に任せることに落ち着いた。
 翌朝、目が覚めると、東京か一関か、少年は二者択一の回答を迫られた。
 少年は、しばらく考えてから、はっきりと言った。
 「一関が、いいや」
 「のんきな坊主だな」
 また少年の寝顔を、戸田は、苦笑いしながら、妻の顔を見た。幾枝は、食器を食卓に並べながら、少年を眺めて言った。
 「それがいい、それがいい。東京は、まだ子どもの住む街ではありません」
 喬一は、冬休みが終わると、親戚の人に連れられ、雪の一関に帰って行った。
3  戸田城聖の、熱情と精魂を込めた法華経講義は、続けられていった。週一固ないし二回、夜になると必ず、日本正学館の二階で行われた。
 電力事情の悪化から、停電の夜もしばしばであった。五人の机の上には、太いロウソクがともされた。炎が揺らぎ、壁や天井に、不気味、な明暗の影をつくった。
 戸田の極度の近眼では、ロウソクの火で活字をたどることは無理である。彼は、耳を澄ました。そして、誰かが読むのを聞いていた。その文を、直ちに解釈し、深遠な説明をするのであった。
 自在に、日蓮大聖人の御書を引いて説明した。しばしば、「御義口伝」を引用して、講義は続けられた。
 法華経の一字一句にいたるまで、大聖人の御書の端々まで、ことごとく彼の脳髄に詰まっているようであった。
 岩森はある夜戸田に尋ねた。
 「いったい、いつ、そんなに勉強したんですか。覚えるだけでも大変だ。なんとも不思議に思っているんだよ」
 ほかの三人も、同じことを考えていた。
 戸田は、淡々として言った。
 「さぁ、なんと言ったらいいか……。八万法蔵といっても、わが身のことだ。難に遭って、牢屋で真剣に唱題し、勉強したら、思い出してきたらしい。それ以前は、金儲けに忙しく、思い出す暇もなっかたわけだろう」
 「思い出した?」
 彼らは、一様に首をかしげるだけであった。
 戸田城聖は、ある確信をもっていた。それは、仏法には、民族を復興させ、文化を興隆させる歴史的原動力ともいうべき力があるということであった。
 インドでは、釈尊の教えを根底にして、文化の繁栄をみた時代があった。たとえば、アショーカ大王の時代には、民衆が平和を謳歌する社会が実現されたし、後のカニシカ王の時代もそうであろう。中国においても、天台大師が仏法を正して正法を宣揚して以来、隋、唐などの世界的な文化の花を咲かせていった。
 日本では、仏教を信奉した聖徳太子の時代を中心に飛鳥文化が花開き、伝教大師が比叡山に大乗仏教の基礎を確立した平安時代に、絢爛たる王朝文化の開花をみた。
 しかし、これらの時代は専制政治の時代であり、仏教も支配階級を中心に広まった。すなわち、貴族仏教と言われるゆえんが、ここにある。民衆の大地から燃え上がり、民衆と直結した、仏法流布の形態とは、およそ程遠い。時代として、やむを得なかったとはいえ、ここに大きな限界があったといってよい。
 今は、末法である。釈尊の仏法の真髄である法華経も、過去の教説となった。日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の法華経によって、新時代の文化を築くことができる。
 やっと訪れた平和の春を、断じて悲惨な暗黒の世界にしてはならない。自由主義陣営と社会主義陣営の対立を、日蓮大聖人の生命哲理によって、乗り越えていかねばならない――これが、戸田の確信であった。
 彼の講義は、決然として進められていった。
 本田洋一郎も、戸田の深遠な仏法哲理の講義と確信に、胸を打たれた一人であった。彼は、戸田と、小学校時代の同級生であった。少年時代の戸田、そして今日までの戸田を、誰よりも知っているつもりであった。しかし、今は、彼の想像もしなかった戸田が、出現してきたのである。
 彼は、思いあぐねて言った。
 「城聖先生が、こんなに法華経が説けるようになっているとは、まったく驚いた。論より証拠だ。人間業とは思えなくなったよ。この事実に、私も、戸田君の言うことを認めるよ」
 「いや、ぼくは、凡夫のなかの凡夫だよ。ただ、信心によって、会得したにすぎないよ。君たちも、しっかり頑張りたまえ」
 ロウソクの炎に照らされた、皆の顔を見回しながら、戸田は言った。
 「大聖人様は、末法で南無妙法蓮華経と唱える者は、地涌の菩薩だと、おっしゃっている。『地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり』とご決定になっている。ところが自分では、さっぱり自覚できないものだ。しかし御本尊様を受持し唱題していれば、まぎれもなく地涌の菩薩なんだ。人を救い、法を弘めていくためには、互いに大事な体だ。決して粗末にしてはいけない。
 大聖人様の御金言を、実践していく決意が大事なんだ。大聖人様の御言葉に、間違いがあるわけがない。でたらめを言う仏がおるものか。それなのに、大聖人様の御言葉に、間違いがあるように思って、疑ったり、否定してみたり……。まったくご苦労なことだね、われわれ末法の凡夫は」
 みんな、どっと笑いだしてしまった。
4  法華経講義の面白さは、戸田城聖の魅力にあった。
 四人の受講者たちは、戦前の戸田と、戦後の戸田の急激な変化を知って、驚き、そしてうらやんだ。
 ″既に彼には、なんと偉大な力が具わっていることか!″
 戸田の魅力が、彼らには、日増しに輝いて感じられた。この一人の人間の変化は、不可解でもあったが、事実は事実なのである。
 彼らが、その変化の源泉を尋ねると、戸田は、「仏法の真髄たる日蓮大聖人の生命哲理の実践だよ」と言った。さらに戸田は、「正法を、真実に、勇敢に実践し、宿命打開をしていくことを、人間革命というのだ」と語った。
 そして、一人の人間の根底的な変革は、仏法の法理に則り、それぞれの主体性を確立して、大いなる生命力を涌現させることによって、なされるのであると訴えた。さらに、その人間の変革が、一切の生活や文化、政治、教育、社会の変革につながる最も近い道であること、しかも本源的な革命であることを、彼は強調してやまなかった。
 講義は、はや一カ月半を過ぎた。四人も、時間を厳守するようになってきた。
 世故に長けた彼らの目も、時には純粋な光を、キラキラ放つ時もあった。そして、講義後の会食、酒宴は、何よりの楽しみでもあった。法華経講義の時間は、彼らの事業と生活のなかで、最も嬉しい、大切な時間となっていたのである。
 一歩外に出れば、殺伐たる敗戦後の旋風が、厳しく吹きまくっていた。彼ら経済人には、いつ足をさらわれるかもしれない危機が、常に待っていた。瞬時も油断のならない、一日一日であった。
 当時、取るべき経済的危機が、日本全国を襲いつつあった。それは、行き着くところを知らぬ、インフレーションの進行である。
 一九四六年(昭和二十一年)二月十六日、政府は、突如、金融緊急措置令、日本銀行券預入令などを発表し、翌日から実施した。
 激化するインフレーションの進行を、阻止するためであった。
 政府は、新しい紙幣、いわゆる新円を発行し、それまで流通していた五円以上の紙幣、いわゆる旧円については、一人百円まで新円との交換を認め、それ以外は、すべて金融機関に強制的に預けさせて封鎖した。しかも、三月二日以降は、旧円は無効とするとしたのである。
 そして、金融機関からの新円での引き出しは、世帯主は月額三百円、家族は月額百円までに制限し、勤労者の賃金の現金支給も、月額五百円までとし、それ以上は封鎖預金とされた。
 つまり、俸給生活者は、いくら高給取りであっても、現金としてもらえるのは、一カ月五百円に制限されたのだ。
 国民のこの耐乏生活で、インフレーションを阻止することができたであろうか。いや一カ月で、不可能なことが判然とした。すべての物の値段が、一年もたたないうちに、二倍、三倍とはね上がっていった。
 たとえば、四六年(同二十一年)の三月には十キログラム約二十円であった米が、十一月には四十円近くになり、翌年七月には百円近くになっていた。
 それどころか、主食の遅配から、庶民は、泣く泣く高い闇物資をあさって、食糧を確保したのである。さもなければ、生命の保全すら困難であった。
 生活難は、日ごとに絶望的様相を帯びていった。愚かな政治が、どれほど恐ろしく、不幸をもたらすものであるかを、人びとは身をもって知った。
 結局、この措置令は、金融資本の一時的危機を防いだが、多くの民衆を犠牲にする以外の何ものでもなかった。
 ともかく、食糧をはじめ、一切の物がないのである。この経済的危機は、突如として襲ったものではない。終戦直後、無策な政府は、本土決戦のために蓄えられていた、当時の金額で一千億円を超えるともいわれた膨大な物資を、占領軍の接収を免れるためとして、無責任にも軍需企業などに放出して、隠匿させた。
 まさに国民の財産の横領であった。そのうえ、軍需産業の大企業には、終戦時に残っていた莫大な臨時軍事費を、製品の納入をしていない分まで、代金として支払い、ばらまいたのである。
 何千万の民衆が苦しみ、虚脱状態にあった時である。大会社は、軍需物資を隠匿し、横領し、あまつさえ臨時軍事費まで手に入れた。しかも、大会社は、苦労して生産に力を入れることを避けた。製品を作るより、配給された原材料や、隠匿物資の値上がりを待って、ヤミ売り、投機売りで稼ぐ方が、自らの資本を守るには、はるかに有利な計算となったからである。
 大会社が、意識的に生産活動を停止したり、縮小したため、大量の労働者が解雇され、消費物資の欠乏をもたらし、物資の値上がりを激化させた。
 こうして、政府の無為無策は、混乱した経済の悪循環を加速させていったのである。
 そのうえ、政府の支出は、際限がなかった。軍需補償、占領軍の施設、復員のための費用等、日銀券発行残高は、太平洋戦争直前の、四一年(同十六年)十二月の約五十億が、敗戦の四五年(同二十年)八月には、既に三百億へと膨張していた。さらに、翌年二月には、実に六百億を超えてしまった。
 敗戦後、最も恐れていたインフレが、現実に猛然と進み始めたのである。
 新円が、日々に入る商人はまだよかった。生活費は制限され、預金は封鎖され、貨幣価値はどんどん下落し、そのなかで生きていかなければならぬ俸給生活者は、最も悲惨であった。
 生活防衛のために、労働組合が、急速に結成されていった。
 四四年(同十九年)には、組合数はゼロであったが、労働組合法が新たに公布された四五年(同一一十年)十二月には、約五百組合、三十八万人となり、翌年六月には、約一万七千組合、四百八十万人という激増を示した。そして、激しいストライキの波により、全国各地に争議が展開され始めた。
 資本家の生産活動の縮小に対抗し、組合は、自分たちで生産活動を運営、管理する「生産管理」という非常手段に出た。騒然とした一日一日であった。
 このように、経済社会の危機は、人びとの生活を、根底から、大地震のように揺り動かしていった。人びとは、国家や、社会のためよりも、まず自らの生存のために、歯を食いしばって、戦わなければならなかったのである。
5  戸田城聖の事業は、早くから、一応、軌道に乗りかけていた。だが、インフレの大波は、やはり被らねばならなかった。
 通信教授の申し込みは、膨大な数に達していたし、三カ月、半年という予納金も、順調に入るとはいえ、見る間に騰貴する紙代と、印刷費には、とうてい追いつけなくなってきた。かといって、三カ月の前金を途中から値上げすることもできない。材料費高騰を理由に、追加金を取るわけにもいかない。さりとて、大企業のように、隠し持っている物資があるわけではなかった。
 ただ、幸いなことに、紙のルートと、印刷のルートは確保できていた。彼は、ここで単行本の出版を思いたった。短期で収益を確保できる事業を進展させる企画である。
 戸田は、何よりも大衆小説に着目した。戦時中、彼の事業傘下の出版社は、大衆小説の連続刊行で当たったことがある。それは慰問袋用を目的にしたものであったが、それらの数多い作品のなかから、評判の良い作品を選ぶことは難しくない。著作権の問題もない。彼は、迅速にこの計画に着手した。
 同時に、知恵が湧いた。それは、『民主主義大講座』の刊行であった。戦後、人びとはオウムのように、朝夕のあいさつ代わりに、民主主義、民主主義と言いだしていた。そのくせ、民主主義の由来を何も知らない。それらの風潮を、戸田は苦々しく思っていた。彼は、民主主義の理念を、深く知らせることが、社会のためにも、事業発展のためにも賢明だと直覚したのでである。
 直ちに、室伏高信、今中次麿、加田哲二、堀真琴を、責任編集者として委嘱した。全六巻の企画であった。
 戸田のインフレーション対策は、日本正学館の事業を拡大し、出版社として、本格的に戦おうということにあった。編集陣営を、強固にした。編集長には、三島由造をあてた。その下に、山平忠平ほか数人の青年編集部員を置いた。
 三島は、戦時中、入獄した二十一人の幹部の一人である。
 山平は、戦前、時習学館の講師をしていた大学生である。学業半ばに、学徒出陣となり、航空兵として出征していた。九月に復員すると、真っ先に時習学館の焼け跡を訪ね、戸田の出獄と健在を知ると、飛んで来て、戸田の膝下に馳せ参じた青年であった。彼は、大学に在籍のまま、日本正学館の仕事を手伝っていたのである。
 編集陣は、張り切った。
 当時の人びとは、書物に渇ききっていたといえる。出版された書物は、渇いた大地が水を吸い込むように売れていった。だが、出版社も、次第に乱立した。当時の出版事業の、最大の問題は、紙の入手難であった。紙価は、日増しに暴騰し続けていた。
 戸田も、この難関の克服に、懸命にならざるを得なかった。彼の豪放にして細心な事業手腕が、思い切り発揮されたのも、この時である。
 戸田は、自社の紙の入手に奔走するばかりでなく、同業の弱小出版社に、紙を回してやることも、しばしばあった。弱小出版社は蘇生し、彼らは、心から感謝した。彼の社には、いつか衛星のように、大小の出版社が出入りするようになっていった。
 戸田の信義と包容力は、出版会の一角に、小さな星群をつくっていった。これが、やがて後に、彼を中心とする金融機関の設置にまで、発展するのである。
 ある時、戸田は、必要量の紙を、どうしても手に入れねばならなくなった。だが、万策尽き、計画は座礁した。
 その深夜――彼は、ガパッと寝床の上に起き上がって、「諸天善神、広布の礎のための事業だ。戸田城聖のために、紙を運んで来ないか」と、諸天に叱咤の叫びを放った。翌日、交渉の途切れていた社から、思いがけず必要量の紙が、入荷する手はずになったのだった。
 彼は、一つの困難に直面すると、全力をあげてぶつかっていった。彼の全知、全精魂を集中していく姿には、すさまじい勢いがあった。やがて困難が去ると、ケロリとして、悠然と将棋に夢中になったり、冗談を飛ばして、ご機嫌であった。
 どんなに、深夜まで友人と飲み、用事に追われても、翌朝は真剣に事業に打ち込んだ。誰よりも早く出勤し、全社員を督励した。一日として、仕事を休んだことなどはなかった。
 戸田は、夕方になると、事務所での奮闘の矛を収め、夜は一変して法華経講義に力を注いだ。週三回、月、水、金の三日である。四人のグループのほかに、数人の臨時受講者の姿も見えてきた。なかでも、清原かつや泉田ためなどが、頻繁に通うようになった。
 この講義も三月に入ると、法華経の開結二経に進み、三月二十八日夜、法華経八巻と合わせ全十巻の講義が終了した。一月一日に始まって、三カ月かかったわけである。
6  「さて、これで終わった。寒いさなか、よく通って聴いてくれた。私は、あなた方に感謝するものです。今夜は、修了式をしよう」
 四人は、「感謝する」という、戸田の言葉に戸惑った。感謝しなければならないのは、自分たちである。彼らは、しばらく言うべき言葉を失ってしまった。だが、読了した嬉しさは、隠せなかった。
 岩森喜三が、代表して札を言った。
 「本当に、ありがとう。感謝しなければならないのは、われわれだ。なんとも、お礼の申しようもない」
 あとの三人も、それぞれお辞儀をしながら、礼を言った。
 「まったく、楽しい講義だった」
 「われわれも、及はずながら、広宣流布のために、お役に立ちたいと思う」
 戸田は、何を思ったか、硯箱を聞き、墨をすり始めた。
 そして何度も、嬉しそうに言うのである。
 「いや、よく聴いてくれた」
 彼は、筆を手にすると、机上の巻き紙に、自分から書き始めた。
   「第一期修了者
     開講  昭和二十一年一月一日
     終了    同   三月二十八日
 そして四人に、署名するよう促した。
 「さぁ、これで修了式は終わった。『蛍の光』でも歌わなけりゃならんが、ドラ声ばかりではしようがない。今日は、いずれ記念の日となろう。お祝いといこうよ」
 戸田は、形式が大嫌いである。人間味丸出しの実力、生活、信心を尊んでいた。彼は、突然、席を立ち、戸棚から、ウイスキーを持ってきた。
 「北川君、これを開けてくれたまえ」
 当時は、めったにない高級ウイスキーである。北川は歓声をあげて、栓を抜いた。
 「こりやすごい……」
 ウイスキは五つのコップに、高貴な芳香を放ちながらつがれていった。一本の角瓶は、空になった。
 「さぁ、やりたまえ。諸君のために、今日まで、大事にしまっておいたものだよ」
 五人とも、酒類は大好物である。彼らは、戸田の深い思いやりを知った。藤崎はじめ四人は、さすがに恐縮して、すぐには手が出なかった。
 「これでは、話があべこべだ。三カ月もただで教わり、ご馳走にまでなるなんて、申し訳ないと思う」
 誰彼となく、頭をかきながら言うのであった。
 本来ならば、受講者とそ、師に対して礼を言うべきであった。それが、この法華経講義では、まるで正反対であった。
 戸田の、受講者に対する異常なまでの感謝の念が、どこから発しているのか、誰もその胸中を察することができなかった。
 戸田の心中には、法華経の一句が刻まれていた。
 「我が滅度の後、能く竊かに一人の為めにも、法華経の乃至一句を説かば、当に知るべし、是の人は則ち如来の使にして、如来に遣わされて、如来の事を行ず。何に況んや大衆の中に於いて、広く人の為めに説かんをや」(法華経三五七ページ)
 滅後の法華経とは、末法における南無妙法蓮華経のことである。彼は、身の福運と栄光に感謝した。また、御本尊の使いとして、受講者にも感謝したのである。
 戸田は、一口飲みながら言った。
 「どうした? 今夜は、いやに神妙になってしまって……どうしたんだい」
 「ありがたく、頂戴しようじゃないか」
 藤崎は、こう言って、コップを手にした。三人も手を出した。
 「うまいなぁ」
 一口飲んで、北川が感に堪えないように言うと、どっと哄笑が湧いた。
7  数日後、清原かつは、法華経講義の終わったことを、本田から聞いた。
 ある朝、彼女は清い瞳を輝かせて、戸田のところに現れた。
 「先生、法華経の講義が終了したそうですが、もう一度、新しい弟子たちに、講義を、お願いします」
 二十七歳の彼女の態度は、真剣であった。真実があった。求道心の誠実が、あふれでいた。
 「聴きたい人がいれば、いいだろう」
 「本当ですか、先生。お願いします」
 清原は、ペコンと頭を下げた。屈託のない、清純な顔である。
 「聴きたがっているのは誰だ」
 戸田の言葉に、清原は、はたと困った。
 「先生……私が、これから集めます。いつから講義していただけますか」
 「学校と同じく、四月中旬からにしようか」
 清原は、戸田の承諾を嬉しく思った。だが、集めるといっても、特にこれといった心当たりはない。
 焼け野原の東京である。法華経の講義を聴く余裕など、とても考えられぬ時勢であった。
 しかし彼女は、真剣に題目をあげた。かつての、信心している知り合いを訪ねて駆けずり回った。そして、牧口会長の第一の弟子であった戸田理事長が、再び学会再建の活動を始めたことを訴え続けていった。
 彼女は、ただ嬉しかった。それは、三年ぶりで、やっと信仰活動の事実上の開始をみることができたからである。彼女は、全力をあげて、同志の糾合に奔走した。
 四月十二日、定刻には、十人近くの人びとが集まってきた。戸田には、ほとんど面識のない人たちである。
 彼は、一人ひとりの紹介も受けず、無頓着に講義を始めた。
 「まず、法華経の講義といっても、要するに、大聖人様の南無妙法蓮華経が、いかなるものかということがわかれば、それでいいのです。そこから始めましょう。南無妙法蓮華経、さあ、説明になると、これが非常に面倒であります。南無という意味は、南が無いということではない」
 くすくす笑う人があった。
 「これは、梵語であり、日本語では、帰命と訳します。また、帰命頂礼とも言います。われわれの信心の立場から論ずれば、大宇宙の妙法という大法則と合致せしめることであり、また、南無妙法蓮華経という仏様と、境智冥合するということでもあります。
 つまり、南無妙法蓮華経とは、仏様の名前であり、この仏様を久遠元初自受用報身如来とも申し上げ、それは日蓮大聖人様のことであります。
 それを、特に、南無とはなんだ、妙法とは、蓮華とは、経とはなんだといえば、これは一つ一つ甚深の哲理を含んでおります」
 皆、硬くなって聴いている。
 「このように、いきなりポンと、最高原理を決めてから説く方法は、東洋哲学の特徴で、演繹的と言います。これが、西洋哲学になると、帰納的と言って、だんだん論理をたどり、その組み立てのうえに、最後の結論を下すやり方です。
 今日の日本人は、帰納的な学問で教育されてきたから、法華経の原理というものが、非常に理解しにくい頭の構造になっているんです」
 それから彼は、正法の「行」すなわち、実践ということを説き、科学にまで話を進めた。
 戸田は、宗教と科学との研究対象の相違を明確にし、真の宗教は、決して修養ではないことを述べた。そして、「生命の法理に基づいて、われわれの生命生活を、いかにすれば『幸福』にできるかを、研究し、実践するのが宗教である」と、日常生活を例に引いて、説いていった。
 ――今、七百年前の、日蓮大聖人の仏法の華が、咲かんとしているのだ。これから、生きた仏法を知らしめていくのである。人びとは、これまでの死んだ仏法しか知らず、仏法とは、生活と無関係で、難解なものであるとの先入観念にとらわれている。それを捨てさせなければならない。
 戸田は、そう決意していた。
 この夜、集まった人びとは、戸田の語る仏法は、他の宗教団体で聞くのとは、雰囲気も内容も、全く異質であることに驚いた。みんな、ただ耳を澄ましていた。
 「話は横道にそれてしまったが、できるだけ簡単に、南無妙法蓮華経とは何か、ということに入りましょう。
 南無とは、さっき申した通り、党語、すなわちインド古代の言葉です。妙法蓮華経とは漢語です。
 将来、この仏法が、中国にも、インドにも、流布される深意があるのです。この妙法蓮華経を梵語でいいますと、薩達磨・茶陀梨伽・蘇多覧ということになる」
 みんな、ゲラゲラ笑いだした。戸田は、皆の笑い声をよそに、悠々と説いていくのであった。
 「みんな笑うが、ここが、いちばん大事なところです。
 南無とは、日本の言葉で、帰命という。ですから、南無するといえば、心も身もともに、信じて捧げることを意味します。その帰命する対象を本尊といい、これに″人″と″法″とがある。人とは御本仏・日蓮大聖人に帰命することで、法とは南無妙法蓮華経に帰命することであります。
 また、帰とは色法、すなわち、われわれの肉体であり、命とは心法、すなわち、われわれの心のことであります。大聖人は『色心不二なるを一極と云う』とおっしゃっております。
 われわれの肉体と心は、別々のものでは絶対にない。それが一致しているのが、真実の生命の極致である。体は会社に、心は家にあるとなると、えらく面倒なことになる。人間は、自分の体のあるところ、必ず心が一致していなくてはならない。その一致するところが、本当のわれわれの、生命の状態なのです。とにかく、色心不二なる状態を南無妙法蓮華経というのであります」
 それから、なおも講義は、一時間半も続いた。
 清原は、居眠りした人が、一人もいなかったことに、ほっとした。焼け野原から、自分の足で集めた人たちである。彼女は、心ひそかに誇りをもっていた。
8  ところが、一日、おいて、定刻の夕方には、彼女と泉田ための二人しか来なかった。清原は、身のすくむ思いであった。小柄の体を、さらに小さくして、二人して法華経のテキストに目を落としたまま、恐縮していた。
 戸田は、出席者の激減については、一言も言わなかった。
 二人は、いたたまれぬ思いで、講義が早く終了することを願っていた。
 戸田は、予定のところで講義を終えると、最後に言った。
 「明後日の晩は、商売のことで、ちょっと都合が悪いから、一回抜いて、その次にしよう」
 清原は、外に出ると泉田の手を取って言った。
 「さあ、大変、泉田さん、どうしよう?」
 「探しましょうよ。来週までに……」
 二人の女性は、自信も確信もなくなって、不安が増すだけになってきた。思いつく人びとに、速達を出した。だが速達は、焼け跡や、疎開した人びとに、届くはずはなかった。手紙は、ほとんど戻ってきてしまったのである。
 そんなある日、清原は、東京駅に程近い呉服橋の辺りを歩いていた。交差点にたたずんだ時、パッタリと、小西武雄と会ったのである。
 「よう、清原さんじゃないか。奇遇だな」
 小西は、日に焼けた黒い顔で、元気に笑いかけてきた。
 「まぁ、小西さん」
 彼女は、目をクリクリさせて驚いた。
 路傍で、近況を語り合っているうちに、突然、彼女の頭には、法華経講義のことが浮かんできた。
 ″そうだ、小西さんも、講義に誘おう!″
 清原は、勢いよく尋ねた。
 「小西さん、信心やっている?」
 「やっているさ。相変わらず、罰ばかりで弱っているよ。だが、心配しなさんな。ぼくの家は焼けなかった。原山君や関君も、転がり込んで、一緒にいるんだよ……。
 世間も、面白くないし、金もないし、酒もないし、三人で暇さえあれば、御書の勉強を始めたところだ。信心の方は大いにやっているよ……」
 牧口会長の精神は、ここにも消えずに脈々と流れていたのである。
 清原は喜んだ。
 小西はさらに、話を続けた。
 「座談会も、この間やってみた。今どきの若い者は、生意気に屁理屈ばかりこねて、あきれたものだ。いよいよ五濁悪世ということになってきたね」
 なかなか元気で、精悍である。頼もしい牧口門下生の姿に清原は嬉しくなった。
 「戸田先生に、お目にかかった?」
 「ああ、理事長は出獄されて、えらくお体が悪いと聞いたが……」
 「嘘よ、嘘よ、戸田先生、大変、お元気よ。会社が西神田にあって、法華経の講義までなさっているわ」
 「そりゃ、知らなかった。お会いしたいなぁ」
 信心の紳で結ばれた同志は、一瞬にして心が解け合うのである。
 小西は、蒲田の国民学校の教員であった。戦時中は、学童集団疎開で、東北の山寺にいた。終戦の年の秋半ば、帰京して元の学校に戻っていた。
 仲のいい、同僚の原山幸一も、関久男も、場所は違ったが、同じ東北に、学童を連れて疎開していた。終戦後、東京の家を焼かれた原山と関は、しばらく小西の家の二階に同居していたのである。
 この″蒲田の三勇士″は、戦時中の弾圧の折、当局のいやがらせには遭ったが、学会の上層部でもなかったので、無事であった。空襲下に寄り集まって、「開目抄」を読み合ったりしていたのである。
9  法華経講義は、活気づいてきた。蒲田の三人の同志も来た。日本正学館の編集部の三島、山平、会計主任の奥村まで参加した。第一回の講義とは、がらりと空気が変わった。戸田より若い人たちの集まりである。真面目に求める息吹があった。戸田のまだよく知らぬ、牧口門下生が、集まって来たわけである。
 戸田の机の真ん前には、清原が座っていた。嬉しいのだ。自分が連絡して集めた人たちである。さらに、新しい学会の、広布の師匠ができたのだ。彼女は、弟子らしく振る舞える自分を、誇らしくさえ思えた。
 戸田は、真剣に講義を続けた。新しい、手応えを感じた。新しい、弟子を感じた。
 ″広宣流布への胎動は、始まっている″
 新しい学会の誕生を、戸田は、早くも感じていた。
 受講者もまた、戸田の、ただごとでない情熱を感じた。決意も読み取った。しかし、彼らには、未来の学会の方向は、皆目わからなかった。ただ、戸田理事長につく以外、その方途を知る術もないことを知ったのである。
10  このころ世間では、幾つもの新興の宗教が、それぞれの目標を掲げて、胎動し始めていた。多くの、民主主義を標傍する団体も、活動を開始していた。
 かって、三千人の会員を擁した創価教育学会は、今、散り散りばらばらになっていた。だが、新出発した学会丸は、わずかな人を乗せ、未来に襲い来る波浪や怒濤も覚悟のうえで、崇高な広宣流布の理想に向かって船出したのである。
 戸田は、この時、既に大きな決断を下していた。それは、創価教育学会からの脱皮であった。
 ″仏法による救済と革命は、ひとり教育界のみを対象とするものではない。仏法を、苦悩に沈む一億の民衆のなかに、広く、深く浸透させ、幸福を実現していくことこそ、日蓮大聖人が示された広宣流布の道ではないか。学会は、全民衆を対象とした、広宣流布のための教団であらねばならぬ″
 そう考えた戸田は、その新しき出発のために、「創価教育学会」という名称を、「創価学会」と発展的に改めたのである。
 日本正学館には、新しい「創価学会本部」の看板が掲げられた。その文字は、春の日差しを浴びて、希望の輝きを放っていた。

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