Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

千里の道  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
2  折も折、一九四五年(昭和一一十年)十二月十五日、GHQ(連合国軍総司令部)は「神道を国家より分離する」との指令を発した。これで、伊勢神宮も、靖国神社も、国家の保護を断たれ、私的な一宗教団体にすぎなくなった。日本国民の大半が考えもしなかったことに、GHQは手を打ったのである。
 GHQは、この神道の問題、すなわち国家神道が、明治以来、日本の政治体制の根本原理となっていた事実を突き止めていたからである。これが、今後の日本の民主化にとって、最大の障害になると見ていたのだ。物事は、常にその本質を論じ、見極めることが大事である。
 神道を国家から分離する指令が発表されるや、神官や神道の信奉者たちは、大きなショックを受けた。だが、一般の民衆は、それほどの衝撃は受けなかった。ただ、戸田城聖一人が、敗戦の悲哀を超えて、なおかつ、わが意を得た快事であると喜んだ。
 彼は、日本の国が敗戦の道を突き進んでいった足跡を、一つ一つたどってみた。そして神道が、明治初年の王政復古の礎石として利用されたことを、はっきりと再確認した。
 明治政権は、天皇の名のもとに国家統治を進めるうえで、国家統治を勧めるうえで、「神」をもち出した。天皇を神格化することが、最良の方法と考えたわけである。そのために、千年以上も昔に編纂された『古事記』『日本書紀』等の神話が、その権威づけの根拠として使われた。
 「葦原の千五百秋ちいほあきの瑞穂の国は、是、吾が子孫うみのこきみたるべき地なり。爾皇孫いましすめみまでましてしらせ。行矣さきくませ宝祚あまのひつぎさかえまさむこと、当に天壌あめつちと窮り無けむ」
 『日本書紀』に記された天照大神の神勅の一つである。後に学校教科書などでも、多く引用された一節である。
 天皇は、神の子孫だというのだ。日本は、天照大神の子孫が王となって、永遠に治めるべき地だとしているのである。天皇による国家統治の原理として、これ以上の武器はない。
 これらの神話には、もともとは、古代国家のはつらつたる息吹が込められていたかもしれない。しかし、それが、そのまま近代国家で天皇を絶対とする、国家統治の根拠として使われた時に、既に挫折への第一歩は始まったといってよい。
 政府は、神道と称するわが国古来の原始宗教を、祭政一致の古代社会にならって、新国家のなかに取り入れていった。
 全国の神社は、天照大神を頂点として、そこに祭られた神が、天皇に近いか遠いかで、それぞれ格付けされ、国家管理のもとに置かれた。先祖を神として祭る神道を使って、天照大神の子孫ということになっている天皇を、国民が崇めていくようにしたのである。
 一方、一八八九年(明治二十二年)に発布された明治憲法では、天照大神の神勅を根拠にして、天皇の宗教的権威を、「天皇ハ神聖ニシテ侵スへカラス」と、第三条で明確に条文化した。天皇を絶対化し、国家統治の権力の一切を天皇に帰することによって、国家の統一、安泰を図ろうとしたのである。
 こうして、天皇という一人の人格において、政治と宗教は完全に一致してしまった。この天皇崇拝は、やがて、天皇そのものを現人神あらひとがみとする「宗教」になっていくのである。
 ところが、近代国家として列強に伍するために、先進国の憲法にならって、明治憲法には、信教の自由を明瞭にうたわなければならなかった。
 それは第二十八条に、「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と規定された。
 この結果、徳川時代以来のキリスト教禁圧や、封建的な数々の宗教政策は撤廃された。
 しかし、政府は、天皇の権威と一体の関係にあった神道に対してだけは、特別な政策を一貫して取り続けた。神社の格に応じて、国家子算をつけ、公費を支出、あるいは神宮・神職に、官位を与えて官吏とするなど、他の宗教と明らかに異なる扱いをしていた。また、皇室や国の式典は、天皇の威信を示すものとして、神道式の儀式が次々と定められ、これに参列するこっとは、一般官吏の義務とした。
 一九〇〇年(同三十三年)には、宗教一般を統括していた社寺局から神社を切り離して、新設の内務省神社局の管轄とした。
 こうして神道は、明治以来、他の宗教と区別され、国教的性格を強めていった。後に、国家神道といわれるものを、国家がつくりだしていったのである。
 これら神道を特別扱いする国家方針によって、程度の差こそあれ、やがて教育現場などでは、神社参拝が強制的な色合いを増していった。しかし、特定の宗教への礼拝を強要することは、憲法に照らし、矛盾をきたすことは明らかであった。
 なぜ、神道だけが特別扱いされなければならないのか。他宗教の信者にとって、神社参持の強制や義務化は、合憲か、否か――。
 「神道の国教的地位」と「信教の自由」をめぐって、仏教やキリスト教関係者などから、しばしば疑問が呈された。政府は、問題が起きるたびに、「神社は宗教にあらず」を建前にして、苦しい答弁を繰り返していた。
 「神社が宗教でないとしたら、いったいなんだ?」
 「神社は普通の宗教と違った性格をもっておりますので……なんと申しましょうか……、まあ、宗教以上のものと考えておりますような次第です」
 国会では、こんな珍妙な答弁が、政府側からなされていた。
 しかし、昭和に入り、軍部が政権に介入し、政治を左右する時代になると、この問題は日本国民のタブーとなった。国家神道に触れること自体、そのまま天皇への不敬として、治安警察に厳しく取り締まられ、軍部からにらまれ、過激な国粋主義者から狙われることとなっていった。少しでも疑問を差し挟む学者や言論人たちは、国賊のように非道な弾圧を被らなければならなかった。
 宗教各界もまた、弾圧を恐れて、国家神道に同調し、迎合するしかなかった。仏教界も、明治維新の王政復古の際に吹き荒れた、廃仏致釈運動の打撃からようやく立ち直ってはいたものの、信教の自由を賭して国家神道を糾弾するほどの勇気をもってはいなかった。
 それどころか、明治、大正、昭和と、天皇が絶対化されていく時流に乗ろうとした宗教家も少なくなかった。
 なかでも日蓮主義を標傍する田中智学ら国柱会は、進んで国家神道を宣揚する役回りを演じた。田中智学は、法華経、日蓮大聖人の法義を、皇室神話に結びつけて解釈し、唯一絶対の天皇が統治する神国日本こそ、世界統一の根本国であると喧伝していた。
 軍国主義者らがアジア侵略のスローガンとした、「八紘一宇」なる言葉を唱えだしたのも彼らである。
 彼らは、結果として、国家神道の巨大な影に、ひれ伏したのである。他の宗教団体の多くも、これと大同小異であった。
 やがて、中国大陸での戦火が拡大するにつれ、国を挙げての戦時体制が強化されていった。一九三九年(昭和十四年)、政府は、宗教団体法を制定し、すべての宗教を国家統制のもとに置き、強制的に各宗派を合同させるという暴挙に出た。宗教界はこぞって、天照大神を祭り、天皇を絶対とする挙国一致の報国運動に同調していった。もはや、そこには、宗教者としての信念の片鱗すらもうかがわれなかった。また、民衆も、それになんの疑問も差し挟まなかった。否、差し挟むことは許されなかったのである。
3  世界大戦に突入すると、国家神道を中心とした政治形態は、祭政一致の古代社会そのままに、神がかり的な全体主義の権力を、容赦なく国民のうえに振るい始めた。
 しかも、こうした権力が、戦争遂行のための思想統一を進め、無謀な侵略戦争に、一国を駆り立てていったのだ。それがやがて、破綻をきたしたのは、当然のことであった。
 権力が、宗教を手段として国民を支配する時、どのような悲劇を招いていくのか――戦前の歴史は、それを何よりも物語るものであろう。
 戦後の新憲法で、「信教の自由」を守るために、国家権力の宗教への不介入、中立性を定める「政教分離の原則」が明文化されたのも、その深刻な反省に立ったものであることは言うまでもない。
 戸田は、思った。
 ″「神国王御書」に「王法の曲るは小波・小風のごとし・大国と大人をば失いがたし、仏法の失あるは大風・大波の小船をやぶるがごとし国のやぶるる事疑いなし」とあるように、宗教の無知による誤りが、国家を死滅に追いやった。国民は、敗戦という冷厳な現実に、直面せざるを得なかったのだ。
 国は、もはや滅び去った。この最悪の事態に陥った不幸な時に、妙法が広宣流布できないなら、真の宗教とはいえない。仏語が真実ならば、必ず広宣流布は成就し、祖国を、民衆を救うことができるはずだ……。
 彼の体には、獄中で得た、あの不可思議な悟達の感動が脈打っていた。彼は、それをそのまま、なんとしても伝えねばならぬ使命を感じていた。
 ″それには、末法の御本仏・日蓮大聖人の教えに従って、人びとが妙法の五字七字を読み切れば、それでいいのだ。一切の未来への活動の源泉は、ここに、こんこんと湧いている。
 何よりも、生命の尊厳を、仏法によって本源的に知らしめねばならぬ。人間の生命ほど尊いものはない。その一人ひとりの生命を、事実の活動のうえに尊貴たらしめるためには、妙法の力によって、偉大な生命力を涌現させる以外にない。
 それには、仏法によって、大我の生命を開覚し、真実の人間復興をもたらす人間革命を、人びとになさしめなければなるまい。政治や教育、科学、文化等の華は、そのうえに、おのずから、咲いていくものだ。
 すべての基盤を人間に置き、最も人間性を尊重し、平和で幸福な新社会の建設を実現するのだ″
 これが、彼の信念であった。
 真実の民主主義は、単なる政治機構や社会体制の変革だけで、出来上がるものではない。何よりも、個人の生命の内側からの確立が出発点であり、土台となる。それが、次の時代の幸福生活への第一歩でなければならぬことも、戸田は鋭く見抜いていた。
 彼はまた、宗教に対する無知が、人類最大の敵であることを、胸中に深く確信していた。この無知の壁は厚く、高く、牢固として抜きがたく立ちふさがっていた。彼が、五カ月前までいた牢獄の壁など、この無知の壁からすれば、およそ取るに足りぬものであった。
 この無知の帰着するところ、国は滅びたのだった。国が滅びても、この無知から誰一人、目覚めようとしなかった。
 彼は、凛然と決意した。
 ″末法の仏法の真髄、日蓮大聖人の生命哲理を、この頑固な壁に、叩きつける以外ない。そして、広宣流布への第一歩の実践を、今こそ踏み出さなくてはならぬ。
 広宣流布達成まで、それが千里の道のように見えようとも、一歩一歩の前進を、決して忘れてはならない。この一歩の前進なくして、千里の道が達せられることはないはずだ″
 彼は、神道の国家的保護が消滅したこの時、前進の一歩を、力強く踏み出したのである。
4  戸田は、第一の壁を破るため、いかなる難事をも、乗り越えていかねばならなかった。その力強い第一歩として、彼は、法華経講義を始めることを決意した。
 しかし、誰に向かって説けばよいのか。彼は、心のなかで、数々の耳を思い浮かべてみた。どの耳も、何も聞こえていぬかのように思えた。今、人びとの頭は、闇物資と食糧のことでいっぱいである。ひとたび金の問題になると、誰もが、それに心が移ってしまう。同様に、衣服、住居を求める耳はあっても、法華経に耳を研ぎ澄ましている者が、いったいどこにいようか。
 ″石の壁に向かって、説かねばならないのか。求めている耳はない。しかし、説かねばならない″と彼は迷った。
 その時、彼の脳裏に、しげしげと通って来る四人の実業家グループが浮かんだ。どのようなつもりであろうと、ともかく、彼らは八つの耳をもって、自分のところにやって来る。
 ある夜、戸田は、この八つの耳に言った。
 「こうやって飲んでばかりいても、しょうがない。どうだ、法華経の勉強でも始めようじゃないか」
 「なに? ホケキョウ」
 本田洋一郎は、酔眼を見開いて、ポカンとした面持ちで言った。
 「法華経だよ、妙法蓮華経二十八品だよ。みんな久しくお目にかからないんじゃないか。法華経の意義も知らないで、いくら広宣流布、広宣流布と言っても、話にならない。
 なんと言ったらよいかなあ、まったく、すごい教えだぞ、法華経というのは……」
 戸田は、もどかしそうに、勢い込んで話しだした。獄中で、法華三部経を収めた『日蓮宗聖典』が、戻しても戻しても、不思議にも、また彼の手に返ってきたこと。同じことが繰り返された時、彼は、初めて法華経を、しみじみと読んだ事実。そして、身を震わすような、生涯に初めての歓喜を知った体験…等々。
 彼は、その時の情景を明確に語った。
 戸田の目は、メガネの奥でらんらんと輝いていた。四人は、その話に釣り込まれたように、いつか姿勢を硬くして、耳をそはだて始めた。
 「そうだろう、そうだろうとも。……戸田さんの法華経を聞かせてもらおうじゃないか……なあ、北川君」
 岩森喜三は、傍らの北川直作を見て、促すように言った。
 「賛成ですなあ。ぼくも、一度は法華経を、とことんまで読んでみたい、と思ったことがある。しかし、そう思うだけで、漢文は手ごわくて、どうにもならなかった。だが、戸田君が教えてくれるなら、本当に、それはありがたい。渡りに舟というもんだ……」
 北川は、調子に乗っていた。そして、いかに法華経が難解であるかを、くどくどと、まくしたてた。
 本田が、口をはさんだ。
 「そんな難しいものを、戸田君は、牢屋で、すらすら読めるようになったのかね……。それは不思議だなぁ」
 「…………」
 戸田は、顔をそむけて、しばらく無言でいた。やがて彼は、誰に言うともなく静かに言った。
 「でたらめを教えたら、罰を受けることぐらいは知っているよ」
 「いや、いや、戸田君の学識を疑っているんじゃない。われわれも発迹顕本する時だ。戸田君、私も弟子入りしますよ。お願いします」
 藤崎陽一は、例によって、人の意を迎えることがうまかった。
 戸田は、かつての盟友の言葉の反応に、がっかりした。
 ″一片の世辞にすぎないのか……。いったい、どこまで本心なのか……。果たして、真剣に求める心が少しでもあるのか……″
 彼は、内心、暗然とした。
 ″待て待て、四人の旧友と思わず、八つの耳に説いていこうと思えばよい″
 彼は、身近にあるとの八つの耳を、大切にしようと思った。忍耐が、大成の礎であることを、戸田は胸に深く刻んでいたのである。
 夜更けの事務所は、寒くなっていた。彼は、机の上の五つのコップに、残った焼酎をつぎ、瓶を空にした。
 「今夜は、これで終わりにしよう。法華経講義のために、乾杯しようじゃないか」
 五つのコップは、薄暗い電灯の下で、勢いよく上がった。藤崎は、コップを下に置くと、音頭をとって言った。
 「衆議一決したわけだが、講義はいつから始めることにしますか」
 「いつだっていいよ。明日からでも……」
 北川は、いささか酩酊して、出まかせを言った。
 「そりゃ困る。ぼくは、『法華経』を持っていないんだ」
 本田がこう言うと、岩森も言った。
 「ぼくも、ないなあ。これから探さにゃならん」
 理事たちの衆議一決は、実行となると、たちまち怪しくなった。戸田は、なだめすかすように、笑いながら言った。
 「法華経は逃げはしない。これから年の暮れにかかるし、来年の元日、本山へそろって初登山して、講義は、お山でスタートしようじゃないか。それまでには、本も手に入るだろうから」
 「そうだ、そうだ」
 「それがいい、グッドアイデアだ」
 彼らは、口々に賛成の叫びをあげながら、街路に出た。師走の木枯らしが、暗い街を吹き抜けていった。彼らは外套の襟を深く立て、両手をポケットに突っ込んで、足早に駅に向かった。
 彼らは、幸いにもオーバーに身を包んでいた。だが、多くの道行く人、駅のプラットホームにいる人たちは、ほとんどオーバーを着ていなかった。罹災者は、冬物の衣類を失っていた。また、疎開荷物の中にあったオーバーも、いつか食糧と交換されていた。
 敗戦後、初めての、恐ろしい年の瀬であった。
5  巷には、失業者があふれでいた。そして、ある者は闇米の行商などをして、険しいその日、その日を送っていた。大部分の都会生活者の家庭は、正月を前にして、餅をつくこともできなかった。配給された、わずかな量の粳米うるちまいでは、せいぜい強飯こわめしをふかす程度がやっとであった。罪もない子どもたちが、餅のない新年を前にして、意気消沈していた。
 一方、戦後経済の特徴であるインフレーションは、じわじわと不気味な進行を続けていた。寒空の日本列島を覆っていたものは、飢餓一歩手前の空腹感であった。
6  こうした社会生活のなかで、いわゆる「敗戦革命」は、GHQの手によって、強引に、駆け足で進んでいた。人びとは利己主義の殻に閉じともり、ただ保身に懸命であった。時代の激流に、ただ唖然としていた。
 十二月九日、GHQは、「農地改革」を指令してきた。この農地所有制度の大改革は、日本経済の民主化という、大きな方針の一つであった。これは、大地主を消滅させ、地主に従属していた多くの小作農民を、封建的拘束から解放し、自作農家にしようとするものであった。GHQは、従来の地主制度が、日本の軍国主義を支えた基盤の一つであると分析していたのである。
 十五日には、「国家と神道の分離」に関する指令である。
 十七日には、衆議院議員選挙法の改正があって、婦人の参政権が認められ、大選挙区制が公布された。翌十八日には、戦前から引き続いていた翼賛議会の解散である。
 さらに、三十日以内に総選挙が行われることになったが、GHQは、政治機構の徹底的な改革を望んで、選挙期日を、翌年の四月まで延期せよと、指令してきた。新憲法の制定も準備中であった。
 占領政策は、虚脱した国民の政治的無関心のうちに、短期間に、どしどし実行されていった。
 十二月二十一日になって、GHQは、日本民主化に関する基本的指令が、一段落したと発表した。
 また二十八日には、天皇制を形成する支配網を除去したと発表した。
 「国家神道の廃止に伴って、天皇制度の支柱となっていたものの最後の邪悪の根が引出され、それが破棄されたことになった……」
 この生命で、いちばん、ほっとしたのは、時の政府の指導者たちであった。ともかく、天皇の皇室制度の存続が、安全地帯に入ったと思われたからである。
 八月十五日以来、日本国民にとって、未経験なことばかりが重なった。右に動き、左に揺れ、混迷のなかで戸惑い、疲労と暗澹のうちに、一九四六年(昭和二十一年)の新年を迎えたのである。
 戸田城聖は、紛動されなかった。この急激な大変動の波のなかにあって、常に仏智を信じていた。彼は、波の上を、誤たずに舵を取っていた。事業の着実な進展が、それを示している。
 現下の救国の理念として、民主主義思想が皮相的に、全国民を風靡して、「民主化」「民主主義」という言葉が、いたるところで交わされ始めていた。もちろん、これらの民主化を、戸田は一歩前進ととらえていたが、彼の不動の重心は、そんな形式的な流行のなかにはなかった。その民主主義を支える、もっと根本に置かれていたのである。
 広宣流布への情熱、日蓮大聖人の生命哲理への盤石な確信が、戸田の心に深く根を下ろしていた。
 彼は、この生命哲理のみが、真の民主日本の礎になることを確信しきっていた。
 制度、機構は建物である。その建築物の基礎が強固でなくて、なんで長続きするものか――戸田は、そう見破っていた。
7  一九四六年(昭和二十一年)元日――。
 午後三時近く、戸田城聖は、東海道線富士駅に降りた。同行者は、藤崎陽一、北川直作、岩森喜三の三人であった。身延線に乗り換えるには、しばらく待たねばならぬことがわかった。東京からの満員列車である。立ち通しで、みんな、うんざりして駅前に出た。
 晴天であったが、風は寒かった。元日というのに、寒々とした家並みには、ろくに松飾りもない。
 ただ巨大な富士山だけが、真っ白い雪を深々と着て、晴れがましく、高く空にそびえていた。
 「富士は、実にいいなあ。いつも新しい」
 戸田は、目を細めて言った。
 皆、その方角に、一斉に目を向け、しばらく、たたずんだままだった。
 戸田の一行にとっては、何年ぶりかで目近に見る富士であった。
 富士は、日本の象徴であり、日本一の名山である。この山は、古書には大日蓮華山とも記されている。日蓮大聖人の名号と符合していることも、不思議といわなければならない。山頂は、八葉の姿となっている。八葉の蓮華は、法華経八巻にも通ずる。
 戸田は、思った。
 ″もし、日蓮大聖人の御人格を、非情の世界になぞらえてみるならば、ちょうど秀峰富士の山と考えることができるかもしれない……″
 その富士の麓にある大石寺までは、二十キロほどの道程である。彼らは、車中の疲労も忘れて、口々にはしゃぎながら、「歩いて行こうか」と言いだす者さえあった。
 駅前に、彼らが、かつてしばしば利用したタクシー会社があった。ほこりっぽいガレージに、古ぼけた車が二台納まっている。
 北川は、つかつかと事務室に入って行った。
 「大石寺まで、行ってもらえませんか」
 「大石寺?」
 奥の部屋から姿を見せた主人は、珍しい客が現れたといった表情だった。怪訝な顔で、北川を見て、ニヤッと笑った。
 「大石寺ね……。お客さん、勘弁してくださいよ」
 にべもない返事だった。
 北川は、ほこりだらけの自動車を見て言った。
 「いや、故障ではありませんがね。大石寺じゃ、エンジンの具合も、よくないしね。正月ぐらい休ませてくださいよ」
 主人は渋っていた。そとこ藤崎が入ってくるなり言った。
 「病人が一人いるんでね。ぜひひとつ、お願いします」
 「料金は奮発するよ。なんとか頼みますよ」
 北川も重ねて頼んだ。主人は煤けた顔をうつむけて、なかなか返事をしなかった。そして、時折、二人を上目づかいにチラリと見ていた。
 北川は、脈がある、と見てとった。
 「恩に着るよ」
 彼は、さっと財布を取り出した。
 主人の言い値は法外であったが、満員列車で来て、しかも富士宮から歩くことを考えれば、助かったと思った。
 「途中でエンコしたら、それまでと、あきらめてくださいよ」
 年配の主人は、こう言いながら、仕事着に着替えた。
 なにしろ木炭自動車である。それからが大変であった。運転手も兼ねている主人は、木炭の小片を筒型の釜にザーッと入れて、送風器をギイギイ回し始めた。
 やがて細い煙突から、白い煙が上がった。
 見るからに異様な、こうした自動車は、占領軍将兵が、上陸の最初に目を見張った風物であった。
 彼らは、世にも不思議な怪物を発見したように、好奇の目でカメラのレンズを向けた。
 「必要は発明の母」とは、よく言ったもので、海上封鎖によって石油の輸入が途絶した時、発明家たちは、薪や木炭による燃料ガスで、車を動かす考案をしたのである。
 軍関係以外の車は、国を挙げて、薪や木炭を自動車の燃料にあてなければならなかった。そのため、トラックも、乗用車も、バスにいたるまで、木炭の車に改造されていった。馬力は小さく、故障は多かった。
 運転手が、おっくうがるのも無理はない。大石寺までの二十キロほどの道は、ゆるい上り坂であった。彼は、自分の車に自信がなかったのだ。
 「さあ、お乗りください」
 四十分もたつて、彼は、そう無愛想に言った。その顔の鼻の穴の周辺は、真っ黒になり、さながら炭焼きをしたかのようである。
 車は市街地を過ぎ、荒れたデコボコ道をあえぎながら走った。富士宮の街を過ぎると、道の荒れ方は特にひどくなった。車の中は、にぎやかだった。天井に頭をぶつけることも、たびたびだった。しかし四人は、大声で笑いながら、はしゃいでいた。
 「難行苦行ですな」
 岩森喜三は、とう言いながら、持ってきた二本の一升瓶を、大事そうに抱え込んでいた。
 冬枯れの原野は、寒々としていた。暮色につつまれた富士は、西日に映えて、つややかに雪の肌を見せている。道路の傍らには、ところどころに、伐採された木々が山と積まれていた。
 車は、坂にかかると、おそろしく徐行をしなければならない。あえぎにあえいで、乗り越えて行かねばならなかった。
 「どうやら無事に来たじゃないか」
 黒々とした杉の大きな森が、視野に入った時、戸田は、嬉しそうに笑い声をたてて、皆に言った。
 総本山の表門である三門で車を降りた。
 樹齢数百年の杉木立が、すっぽりと巨大な朱色の三門を囲んでいた。
 三門前で唱題をすますと、四人は胸を弾ませながら、せかせかと石畳を踏んだ。
 人影はなかった。辺りは、しんとした冬景色である。境内に漂う荒廃した気配を、彼らは感じた。だが、誰も口には出さなかった。
 総本山は、三門から御影堂に至るまで、一直線の参道となっている。
 それに沿って、左右に六坊ずつ、合計十二の坊が並んでいる。その左側の坊のいちばん奥に、理境坊がある。牧口会長以来、この坊を学会専用の坊として、常に使用してきた。
 理境坊の本堂に荷物を下ろし、久しぶりに対面した住職にあいさっした。住職は、人懐かしい様子で、熱い茶を入れながら、さまざまな話を始めた。
 住職の話が、客殿焼亡に及んだ時、戸田は、すっくと立ち上がった。四人は、理境坊の傍らの、せせらぐ小川にかかった板を踏んで、裏に出てみた。
 そこには、もはや客殿の姿は、なかった。広々とした焼け跡だけが残っていた。四人とも、その一角に立ちすくみ、しばらく茫然としていた。
 総本山は、日本の敗北とともに、すたれきってしまっている。戸田は、今、総本山を再建することの必要性を胸中深く痛感していた。
8  ここで、一九三九年(昭和十四年)末現在の文部省宗教局調査による、日蓮正宗と日蓮宗各派との勢力の対比を記してみたい。
 寺院数
   日蓮正宗          七五寺
   日蓮宗各派合計    四、九六二寺
 住職
   日蓮正宗          五二人
   各派合計       四、四五一人
 檀徒
   日蓮正宗      四六,八三二人
   各派合計   二,〇七四,五三〇人
 信徒
   日蓮正宗      四〇,二〇九人
   各派合計   一,三一八,五二一人
 檀徒は、(1)当該宗派の教義を信奉し、(2)所属寺院に葬祭を委託し、(3)宗派、寺院の外護に任ずる者。
 信徒は、上記の(2)を除く、とある。
 なお、政府は、檀家制のうえに成り立っていた仏教寺院の建立・創立について、徳川幕府以来の方針を踏襲して、厳しい制約を科し、一般には禁止していた。この政策は、戦後に至るまで続行されてきた。
 一方、神道、仏教以外の諸宗教については、明治憲法に信教の自由をうたった建前上、キリスト教の教会など、欧米など諸外国からの圧力もあり、宗教宣布の施設として、一定の要件のもとに許可してきた。
 これは、仏教と他宗教の格差を生じさせるものとなった。政府は、その是正措置として、一九二三年(大正十二年)、仏教各宗派あるいは寺院に所属する下部機関として、宗教設備の設立を許可する法規(神仏道教会所規則)を定めた。各宗派が、布教などのために、既に設けていた法務所、教務所、事務所などを、正式に宗教施設として認めるものであった。
 これによって、各宗派は、教会所建設の許可を得て、施設を増やしていったのである。
 日蓮正宗も、明治末年から太平洋戦争開戦までに、計三十有余の教会名目の寺院を造った。年鑑に記された寺院数、七十五カ寺には、この教会数は含まれていない。実際の全勢力は、なんとか百カ寺を超えていた勘定になる。
 しかし、いずれにしても、まことに小さな教団であったことには変わりはない。
9  戸田は、悲痛な思いを胸に歩きだした。そして宝蔵の前で、深く頭を垂れた。そのあと、三人と連れ立って、暮色につつまれた御影堂の方へ回っていつた。
 御影堂の参拝をすませると、四人して階段を下りていった。この伽藍も、雨漏りするのではないかと、立ち止まって屋根を仰いだりした。鐘楼堂も傾いていた。
 戸田の強度な近視では、よくわからなかったが、境内を一巡して、寒々としたものを、身にひしひしと感じた。それは夕暮れの寒さのためなどではなかった。彼は、歓喜寮の堀米住職から聞いた総本山の荒廃が、これほどまでに、ひどいとは思っていなかった。
 戸田の受けた衝撃は大きかった。
 ″まさしく、闘諍堅固、そして白法隠没せんとしる姿である……″
 戸田は、口には出さなかったが、胸中には、それだけ悔しさが、いっぱいだったのである。
 悪夢のような戦争は終わった。だが、まだ悪夢が続いているとしか思えなかった。
 ″この閑散とした、元日の初登山の風景は、いったい、どうしたというのだろうか……″
 理境坊には、彼ら四人以外の信者は誰一人いなかった。
 一九四二年(昭和十七年)の元日の初登山には、牧口会長を筆頭に、創価教育学会だけでも、百数十人の登山者でにぎわっていた。そして、互いに新年のあいさつを交わし、それぞれ希望に燃えて、新しい年を迎えたものだった。
 試みに、終戦当時の理境坊登山者芳名録を繰ってみる。
 敗戦の年、四五年(同二十年)の一月から十二月までの一年間の登山者は、わずか百六人となっている。こおのうち、八月十五日以降、年末までの登山者は、数人にしかすぎない。
 創価学会による月例の登山会が始まったのは、それから八年後の五三年(同二十八年)十月のことである。以後、三十八年間で、述べ七千万人もの会員が登山することになるのだが、四五年当時には、想像すらできないことであった。
 そこにも、戸田城聖をはじめ創価学会が、どれほど宗門発展に貢献したかの一端をうかがうことができよう。
 戸田の胸に湧いた闘諍堅固、白法隠没という言葉には、少しの誇張もなかった。
 ″闘諍堅固――太平洋戦争もそうだ。これから、広宣流布まで、日本人同士も、人類も、つまらぬ悲惨な闘諍を繰り返していくかもしれない。
 白法隠没――正法の消えんとしていく実相である。広宣流布は大地を的とするなるべし、との御予言の末法流布の大白法が、今、まさに滅亡寸前の危機にさらされていたのだ″
 総本山の窮之は、終戦後も、さらにその激しさを増していった。戦後の農地改革によって、広大な土地を没収された。その苦しみは、極めて大きかった。農地調整法で、第一次、第二次の適用を受けたのは、約九〇ヘクタールであった。田畑、山林までも、ただのように買収され、それらを失ったのである。
 加えて客殿焼亡の時には、米蔵をも同時に焼いてしまっていた。そこには、三百俵(約一八トン)以上の備蓄米があった。このために、総本山は、食糧難と、深刻な財政難の二つに、見舞われていたのである。
 戸田城聖が、千里の道を一人行くと強く決意したのも、宗門の、このような状態を見極めたうえの思案であった。
 千里の道は、決して単なる形容詞ではなかった。厳しい事実であった。
 戸田の偉大さは、この千里の道の第一歩を、最悪の時点において、誤たず凛然と、力強く踏み出したという独創性にあった。
 四人が理境坊に戻ると、住職は、夜の勤行を待っていてくれた。総本山での勤行は、二年ぶりであった。
10  これが終わると、簡素だが、心温まる食事が整えられていた。みんなは、大きい火鉢を囲んで膳についた。その時、岩森が一升瓶を開けようとした。
 戸田は、それを見ると、苦笑して言った。
 「岩森君、お預けだよ。後でゆっくり飲もうじゃないか。法華経があるよ」
 「お預けか。わしは、いっこうにかまわんが……」
 岩森は、こう言って、酒を部屋の隅に戻した。
 「我慢している、ぼくの身にも、なってもらいたいなぁ。講師も辛いよ」
 戸田の言葉に、北川は、さもおかしそうに笑いながら言った。
 「わかる、わかる。食事が終わったら、さっそく勉強を頼みますよ」
 皆、冗談を言い合いながら、にぎやかなうちに食事が終わった。
 一服すると、藤崎は、庫裏から小机を二つ借りてきて、本堂に並べながら言った。
 「いよいよ寺子屋だな」
 戸田を囲んで、それぞれ机の上に、御書と、法華経の本を載せた。
 電灯は暗かった。戸田は、メガネを外し、本を顔につけるようにして、ページを繰っていた。
 「さぁ、序品第一というところから始めよう。ぼくは、よく見えないから、順番に読んでもらおうか」
 彼は、そう言って本を置いた。
 藤崎陽一が、読みだした。
 「妙法蓮華経序品第一
 如是我聞。一時仏住王舎城耆闍崛山中、与大比丘衆万二千人倶。皆是阿羅漢」(法華経七〇ページ)
 藤崎は、一段を、たどたどしく通読した。そして、困ったように、ため息交じりに言った。
 「何がなんだか、わからんな。チンプンカンプンだ」
 みんな、どっと笑った。
 「ご苦労さん。訳読となっている方を読めば、わからんこともない」と、戸田は微笑しながら、促した。
 すると、北川直作が、抑揚をつけて訳読を読みだした。
 「是の如きを我れ聞きき。一時、仏は王舎城の耆闍崛山の中に住したまい、大比丘衆、万二千人と倶なりき。皆な是れ阿羅漢なり……」(同ページ)
 「なるほど、少しは意味もわかる」
 岩森喜三は、安心したように言った。藤崎は、ケラケラと笑いだした。北川は、続けて第一段を一通り読んだ。
 本堂は、森閑と静まり返っていた。薄暗い電灯の下に寄り集まった四人の周囲には、真冬の寒気が、ひしひしと迫っていた。だが、相対した四人の顔には、明るい熱っぽさが流れていた。
 戸田は、静かに口を聞いた。
 「釈尊は、一説では十九歳で出家、三十歳で成道した、と伝えられている。三十にして成道の後、釈尊一代五十年間に説いた教えを、天台大師は五時八教に分類した。五時とは、教えが五つの時代に区切られており、八教とは、教えの内容を分けたものです。
 このように、釈尊一代の仏法を通観して、五時八教を比較していくと、妙法蓮華経の教えは、釈尊の仏法の最高位であり、骨髄であり、大綱である。だから、妙法蓮華経を理解せずに、釈尊の仏法の真髄を見ることは、決してできない。そして、釈尊の仏法と、末法の日蓮大聖人の仏法との相違を認識するには、また妙法蓮華経を基礎としなければならんのです」
 皆、わかったように頷いていた。戸田は講義を続けた。
 「今日、仏法が雑乱してしまっているのは、五時八教という、勝劣判定の基準を知らないからです。また、釈尊の妙法蓮華経に幻惑されている輩が、大聖人の南無妙法蓮華経の仏法と混同しているからです。
 法華経二十八品は、釈尊の仏法であり、南無妙法蓮華経の仏法は、大聖人の仏法であるということを、深く、はっきりと留意しなければならない。ここが、最も大事なところです」
 戸田は、人びとが、宗教、とりわけ仏法について、全く認識していないことを知っていた。宗教の正邪、浅深について、明確にわかっている人など、全くいないといってよいであろう。宗教と聞けば、頭から批判してかかる人は多いが、それらの人びとも、釈尊と阿弥陀仏との相違すら知らない。まして、五重の相対、四重の興廃、三重秘伝などを、知っているはずがない。
 戸田は、まず、宗教に対するこのような無知を、打ち破らなければならないと思った。そうしなけば、思想の混乱を正し、不幸の根源を除去することはできないからである。彼の講義は、人びとの宗教に対する無知との戦いでもあった。
 彼はまた、経文には明らかに説かれているのに、最高唯一の宗教を顕揚しなかった、過去、現在の無能な宗教家、悪侶たちに対して、憤りを覚えずにはいられなかった。
 彼らは、知らないで言わなかったのか、それとも知ってはいたが、自宗の教義に縛られて言わなかったのか、いずれかであろう。
 しかし、求道心もなく、人びとを救う気力すらなく、ただ利養に執着していたことには変わりない。
 これほどに非生産的な存在はない、と彼は思った。
11  「さて、そこで……」と、戸田は言って、机の上のコップの水を飲んだ。
 「お山の水はうまいなぁ。……では、妙法蓮華経の実体とは、何であるのか、というに、大聖人様は『御義口伝』で、こうおっしゃっている。
 「妙とは法性なり法とは無明なり無明法性一体なるを妙法と云うなり蓮華とは因果の二法なり是又因果一体なり経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり、釈に云く声仏事を為す之を名けて経と為すと、或は三世常恒なるを経と云うなり、法界は妙法なり法界は蓮華なり法界は経なり蓮華とは八葉九尊の仏体なり能く能く之を思う可し
 〈妙法を、無明と法性という次元から解釈すれば、妙は法性であり、悟りである。法は無明であり、迷を示す。したがって妙法とは無明と法性とは一体であることを表している。蓮華とは因果の二法を示しており、これもまた、因と果とは一体、因果倶時であることを表している。経とは、一切衆生の言語音声のことである。経について章安大師は、『声が衆生を救う仏の振る舞いなのであり、これを経というのである』と解釈している。また別次元から言えば、過去・現在・未来と三世にわたって永遠であることを経というのである。つまり、全宇宙が妙法であり、蓮華であり、経である。また、蓮華とは、仏の生命である。八葉九尊は、その仏の生命を表している。よくよく以上のことを考えるべきである〉
 彼は、御書に、顔をつけるようにして、読んで聞かせた。
 「なんだか、わかったようで、わからんだろうと思うが、要するに、こういうことだよ。
 大聖人様がおっしゃるには、妙法蓮華経というのは、宇宙の万法それ自体であり、宇宙万法の本体が、妙法蓮華経なのである。宇宙の時々刻々に変化する森羅万象こそ、妙法蓮華経そのものの姿なんです。今の言葉でいえば、宇宙生命ということになるでしょう」
 戸田が、ここまで言った時、北川がさえぎった。
 「そうすると……われわれ人間は、どういう存在になる? 宇宙の万法に支配されるというわけですか」
 「そうじゃない。われわれの生命が、妙法蓮華経そのものだということだよ。そのことも大聖人様は、ちゃんと次のように、『当体義抄』でおっしゃっている」
 戸田は、またも御書に目をじっと近づけて読み上げた。
 「『問う妙法蓮華経とは其の体何物ぞや、答う十界の依正即ち妙法蓮華の当体なり、問う若爾れば我等が如き一切衆生も妙法の全体なりと云わる可きか、答う勿論なり
 これも、わかるようで、わからんだろうが、つまり、十界とは例の地獄界から仏界までの十種類の生命境涯のことです。この十種類は、宇宙のありとあらゆる生命を、境涯という観点から分類したものだ。
 また、依正というのは、依報、正報のことであって、正報とは生命自体をいい、依報とは生命の活動する環境を指すのです」
 彼は、御書に説かれている生命論を、なんとか、現代的に砕いて、わからせようと努力した。この完壁な生命哲理を世界に流布するならば、人類は完全に、また永遠に救われていくことを、彼は確信していた。
 戸田は、さらに生命論を説いていった。そして、その裏付けとして、文証を引用し、講義を続けた。我見を恐れ、また我見でないことを証明するためにも、彼は、丹念に文証を引用したのである。
 「今の御文のあとにこうなっている。
 ――南岳大師云く「云何いかなるを名けて妙法蓮華経と為すや答う妙とは衆生妙なるが故に法とは即ち是れ衆生法なるが故に」云云、又天台釈して云く「衆生法妙」と云云――と。
 つまり、衆生であるわれわれ自身が、妙法蓮華経の当体であるということです。
 衆生妙――この生命の不可思議な様相を言っているのです。たとえば、皮肉骨の調和、細胞分裂、神経作用等々、妙としか言いようのない不可思議な働きをしている。
 また、衆生法――この不可思議な生命の働きは、しかしながら厳然とした法に則っている。たとえば、人体は必要なタンパク質をつくり、糖分をエネルギー源として使っている。また、ホルモン等を分泌するのも体内の臓器の働きである。まるで製薬工場ではないか。
 結局、妙法とは、われらの生命の本源力ということになる。なんだか、こじつけみたいに思うかもしれんが、決してそうではない。このことを、大聖人様は、また、『御義口伝』で明確におっしゃっている。そこが、大聖人様のすごいところです」
 戸田は、また御書を手にした。
 「そう、ここだ……」
 顔に近づけ、ぺージを繰って見せた。
 そして、電灯の光を気にして、中腰になった。
 「私が読みましょう。どこですか」
 藤崎が立ち上がった。戸田が開いた御書を受け取り、電灯の下で、立ったまま読み下した。
 「ここですね。『如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり』」
 「あっ、そこで!」と、戸田の声がかかった。
 彼の語調は強く、熱を帯びてきた。受講者は、たった三人である。だが、無量の大衆の前で講義しているような激しさに変わっていた。
 「今の『御義口伝』を拝して、大聖人様の意に準じて言うならば、総じては一切衆生が如来である。すなわち、妙法蓮華経の当体である、ということです。
 さっき拝読した、『当体義抄』と一つも変わりない。このわれわれも如来である、妙法蓮華経の当体である、との仰せなのです。これは間違いはない。
 われわれが、自分のことをどう考えようが、それは勝手です。だが、その勝手さが間違っているだけだ。どう考えようが、どう思おうが、大聖人様は、一切衆生が如来である、と断言していらっしゃる。
 これが信じられないのだ。したがって、六道輪廻で、壊れない幸福を築くことができない。まったく愚かな話です。
 この御文に続いて、末法の法華経の行者の宝号を、南無妙法蓮華経というと仰せになっている。これは、日蓮大聖人こそ、南無妙法蓮華経、とお呼び申し上げる仏であるとの御心です。
 ですから、人に約すれば、妙法蓮華経の当体は、総じては末法の凡夫である。別しては、日蓮大聖人であられる。法に約すれば、宇宙生命それ自体が、妙法蓮華経の当体であるというのです。ゆえに、われわれの生命も、妙法の当体であり、宇宙生命と同一のものということができる。
 だから、仏とは、総じてはこの生命のことといえるわけです!」
 三人は、戸田の顔を、じっと見つめた。驚嘆の表情が、はっきりと現れている。
 「今夜は、これまでにしよう。あまり最初から、いっぺんに詰め込むと、入れ物が小さいので、頭が壊れるといかんからね」
 戸田は、笑いながら本を閉じた。
12  三人は、われに返った。そして、三人とも、それぞれ共通の疑問をいだいた。それは、法華経についてではない。戸田個人に関しての疑問であった。
 ″すごい……いったい、いつ、彼は、こんなに勉強してしまったのか″
 この夜の三人には、解けぬ謎であった。彼らは、ちょうど、鹿野苑ろくやおんで釈尊の説法に感激した、阿若憍陳如あにゃきょうじんにょ等の五人のようであった。北川直作らの三人も、講義を通して、戸田の偉大な境涯に触れ、言うべき言葉を知らなかったのである。
 戸田の様子は、いつもと変わりなかった。度の強いメガネ、秀でた額、機嫌のいい笑顔……。
 「さあ、初講義も終わった。正月だ。今夜は、屠蘇を頂こうじゃないか。岩森君、頼むよ」
 岩森は、さっきの酒を取ってきた。そして、急いで包装紙を破りながら言った。
 「お屠蘇じゃない。こりや、いい酒だ。今夜は特別ですな」
 彼らは、静まり返った本堂の隣室で、燗をし、盃を酌み交わした。遅くまで、時折、笑いを交えた楽しそうな話し声が、続いていた。
 「さっきの講義だが、われわれ衆生も如来だというが、本当かな? ぼくには、とてもそうは思えないのだが……」
 酒に弱い岩森がつぶやいた。
 「なるほど、岩森君が仏だとすると、ずいぶん、おかしな仏がいることになる。ハッハッハッ」
 北川が岩森をからかう。
 今度は、藤崎が北川に言った。
 「そういう北川君だって、あんまり感心した仏じゃないぜ、道楽仏というのかな」
 みんなどっと笑いだした。
 戸田も笑った。
 「今夜は、ひどい仏が集まったものだ」
 笑いながらの戸田の言葉に、岩森は真面目くさって、付け加えた。
 「しかし、ぼくには、仏だとはどうしても思えんな」
 また爆笑が湧いた。
 戸田は、岩森に言った。
 「岩森君、心配するなよ。大聖人様のおっしゃることが、心から信じられないから、われわれを凡夫というんだ。しかし、凡夫といえども、信心を一生懸命して、それがわかれば、一人残らず仏になれるわけだ。
 御本尊様を受持し、強盛に信行学に励めば、いつまでも、悩める凡夫でいるわけがない。それが、大聖人様の御力なんだ。
 たとえば、大して科学の実験も、研究もせずに、アインシュタインの学説が、わかる道理がないのと同じだよ」
 話は法華経に戻った。火鉢の火は乏しくなっていて、寒い。彼らは、身を震わせながらも、夜の更けるのも気づかず、語り明かしたのであった。
13  翌二日の午前、彼ら四人は、第六十三世日満に対面した。そして、宝蔵で勤行をした。
 戸田は、勤行の問、身じろぎもしなかった。宝蔵にいることさえ、忘れ果てた様子であった。
 彼は、宝蔵にあって力強く唱題し、大御本尊に、苦難の歳月を乗り越えることのできたお礼を申し上げた。さらに、広宣流布の新たな決意を、ひときわ強く訴え、唱題するのであった。
 一瞬、過去も、未来も、遠く消えていくように感じた。あるのは、御本尊に向かう、一個の戸田城聖だけであった。その間に流れるものは、永劫ともいうべき、生命感だけである。
 彼は、この時、思った。
 ″永遠とは、瞬間、瞬間の連続である。瞬間の連続が、永劫である。その瞬間の本源、本体こそ、南無妙法蓮華経である……″
 厨子の扉が閉じた瞬間、彼は、われに返った。五体には、言いようのない歓喜が満ちあふれできた。
 この日も、快晴である戸田は、午後になると、再び法華経の講義を続けた。
 夕刻、本田洋一郎が姿を現した。用事のため、一日遅れて登山したのである。二人の女性が一緒であった。清原かつと泉田ためであった。彼らは、寒いなかを、バスもなく、富士宮から歩いてきたのだった。「疲れた、疲れた」と言いながら、汗を拭いていた。
 清原は国民学校の教員であった。泉田の夫は軍人であり、南方に行ったまま、いまだに復員していない。生死も不明であった。
 にわかに、理境坊は、にぎやかになった。
 夕食は、七人に増えた。自然に話も弾んできた。
 「法華経講義は、いいよ。実に食べ物がうまくなる。君は、まだこの味を知らないだろう」
 北川が、とぼけけて言った。
 岩森が、また真面目くさった顔で付け加えた。
 「ああ、そうか。昨夜の酒も、本当にうまかった。それは、講義のせいだったのか」
 「法華経、酒の味を変える……ということか。気がつかなんだ」
 藤崎の言葉にも、実感があった。
 翌三日は、雨である。
 新顔を交えて、午前と午後の二回、法華経講義は続けられた。
 北川たちは、講義が面白くなってきた。必ずしも、法華経難解難入にあらず、などと言いだすにいたった。翌四日、午後の講義で、法華経方便品を終了し、さらに譬喩品に入った。
 この日は、快晴であった。暖かである。障子を開け、机に向かう求道者の顔も、輝いていた。
 戸田は、彼らを見て思った。
 ″彼らが、少しでも理解してくれれば、実にありがたいことだ。彼らに理解できなくても、かまわない。彼らがどうあろうとも、この講義は、最後まで続けよう。彼らのうち、落後する者が出てもいい。また、新たに参加する者も出てくるだろう。最も大事なことは、ともかく今の講義を、続けきっていくことだ″
 彼は、千里の道を、一歩踏み出せたことを喜んだ。
 ″師子は、千里の道を一人征く。伴侶を求めず、だ。俺も征く。俺は、広宣流布をめざし、障魔の嵐を打ち破り、逆巻く怒濡も乗り越えて、断じて進む。征く、戦う″
 彼は、心に強く誓った。
 翌五日も快晴であった。真冬の富士は、純白な雪を頂き、すがすがしく、絶妙の山容であった。
 午後は下山である。一同は、境内を散策した。そして、焼亡によって今はない客殿の跡にたたずんだ。
 戸田は、思わず傍らの石に腰を下ろした。彼は、無言で深く思索したまま動かなかった。
 客殿の焼け跡は、高い杉木立に固まれ、薄暗いが、きれいに清掃されていた。四角い礎石が、一定の間隔で、整然と地面に残っていた。太い柱を支えていた証拠である。ところどころには枯れ草の跡さえ見えた。
14  ――一九四五年(昭和二十年)六月十七日午後十時三十分ごろ、突如として、対面所の裏から出火し、大奥、書院、六壺、米蔵を類焼。翌朝四時ごろまで燃え続けた大火で客殿が焼失した。敗戦二ヶ月前のことである。
 この客殿は、一八七一年(明治四年)に再興され、一九三二年(昭和六年)には、日蓮大聖人の六百五十遠忌を記念して、大修理を加えられた建物であった。大広間は約二百七十畳で、丑寅勤行をはじめ、総本山の行事は、ほとんどこの建物が使用されていた。
 折しも戦時下の軍部政府は、人員収容のために便利な大石寺の建物に目をつけた。国家神道に追従した宗門は、大石寺を軍部政府の国家総動員の拠点として、積極的に提供した。四三年(同十八年)六月二十日には、勤労訓練生の宿泊所として、大坊・大書院(二百四十畳)を提供した。
 この勤労訓練所は、徴用工を訓練しては、一カ月ごとに、次々と軍需工場に送り込み、そのつど、新しく徴用工を連れて来ては、慌ただしく収容していった。
 しかも、境内の坊には、東京の学童が集団疎開していた。参詣人の絶えた参道の石畳の上を、徴用された人びとと、疎開した児童が行き交う――それが、戦時下の総本山の光景であった。
 その後、韓・朝鮮半島から、日本軍の命令により、労働力として強制的に徴兵された朝鮮兵の農耕隊がやって来た。二百数十人の駐屯所・宿舎として、大坊・客殿等が提供された。
 農耕隊の幹部は、すべて日本人の将校・下士官であった。彼らは横暴であった。大坊の対面所に起居し、軍部権力を笠に着た彼らは、まるで、大名か殿様のように振る舞った。また、周辺の農民をも見下し、祖国の民を守るどころか、ここでも民を苦しめる行動を、あえてしていたのである。
 彼らの数々の非行が重なっていった。総本山の境内は、悲惨にも、日に日に荒らされていくばかりであった。大坊の大書院には神棚がつくられ、天照大神の神札が祭られた。
 客殿の大火は、この大坊の対面所裏から出火した。所化の火の不始末か、農耕隊幹部の失火か、戦時中のことで、原因不明のまま、うやむやに葬られてしまっている。
 火災が発見された時には、火は既に天井に迫っていた。
 僧たちは、二手に分かれ、一組は真っ先に、客殿に飛び込んでいった。ほかの一組は、宝蔵に集合した。大御本尊を守るためである。
 当時、総本山在勤の僧侶は、ほとんど徴兵され、残っているのは、中学生、小学生の所化か、兵役年齢をはるかに過ぎた老僧たちばかりであった。境内にある十二坊の老僧を合わせて、わずか三十人そこそこである。これらの僧にとって、空を焦がす紅蓮の炎は、あまりにも高く、大きすぎた。
 上野村の警防団も、消防車を、石畳の上をガラガラ響かせてやってきた。しかし、これも初老の人たちばかりで、若者は一人もいなかった。総本山にいた疎開学童も、バケツリレーをして消火にあたったが、火を吐く建物は、広大で手にあまった。
 農耕隊の兵士は、一人も消火を手伝わなかった。これは幹部の者が、兵士の逃亡を恐れて、火災中、一カ所に集めて手伝わせなかったからである。
 僧侶たちは、客殿安置の御開山日興上人のお認めの御本尊を、どうやら事なく裏の杉林に移すことができた。そこで、初めて安堵の息を吐いた。
 火勢は、火が火を呼んで、ますます盛んになっている。
 僧たちは、一、二人を残して、御影像の搬出に駆け戻った。
 夜空を焦がす火炎、その火炎の反射、燃える木材のはぜる不気味な音――僧は、小声で唱題していた。やがて、重宝は、ことごとく、次々と杉林に運ばれてきた。
 「御本尊様は御無事だぞ!」
 彼らの胸中に、安堵の喜びが湧いた。しかし、火勢は、まだ、なかなか衰えを見せない。そのうち、空が、かすかに白んできた。炎の色も、薄らぎ始めた。人びとの顔も、ぼんやり、互いに見分けがついてきた。
 その時、一人の僧が、人びとの顔をのぞきながら、大きな声で叫んだ。
 「御前様は?」
 僧たちは、互いに顔を確かめ合った。そして、驚愕した表情で口々に叫んだ。
 「御前様がいない……」
 「……御前様がいないぞ」
 「誰か知らないか」
 僧たちは、転がるように、一斉に走りだした。ある僧は、杉林を出て、坊が並ぶ参道に向かった。ある僧は、再び客殿の方へ引き返した。ある僧は、裏の杉林の方へ飛び込んでいった。
 一団の僧は、客殿の周囲を慌ただしく駆け回った。そこにも、法主の姿は、なかった。誰に聞いても、知る者がなかった。
 「どこかの坊に、いらっしゃるにちがいない」
 「御影堂かもしれない」
 火勢がが衰えるにつれ、不安は、いよいよ募ってきた。皆、蒼白である。僧たちは、再三、境内のあちこちに散り、集まり、また散っていった。
 境内の十二坊を、ことごとく探し回った。御影堂も見た。杉林にも、人影はなかった。
 時は刻々と過ぎ、空は明るくなった。しかし、法主の姿を見た者はなかった。くまなく探索した僧侶たちは、自然とまた、客殿の焼け跡に戻ってきた。
 誰の顔も、煤けて、目ばかりギョロリとしていた。皆、顔を見合わせると、言い知れぬ不安を、互いの顔に読み取った。
 火は、大奥、書院、客殿、六壺などを焼いて、ようやく消えた。火事場の、異様な臭気が漂っている。白い煙が、くすぶり続けている。
 僧たちの目は、期せずして大奥二階の管長室に注がれた。
 学童たちは、境内の宿舎に引き揚げていた。農耕隊の兵士たちや、警防団の人たちは、焼け跡のことろどころに固まり、がやがや話し合っていた。
 一人の僧が、大奥の焼け跡の中に入っていった。
 「おい、危ないぞ」
 「気をつけろ!」
 焼け跡の周囲から、鋭い叫び声が響いた。人びとの目は、一斉に、その僧の背に注がれた。その僧は、棒切れで叩きながら、足もとの安全を確かめ、進み始めた。
 彼の姿が消えた。
 しばらくすると、激越な、悲痛な声が聞こえてきた。
 「御前様! 御前様!……」
 一瞬、人びとは息をのんだ。
 その一瞬が過ぎると、二、三人の僧も、焼け跡に飛び込んでいった。そこには、第六十二世の法主・日恭の遺体があった。
15  戸田城聖は、焼け跡の一隅に腰を下ろして、ありし日の客殿のたたずまいを思い返していた。すると、ふと思師・牧口常三郎の面影が、頭をかすめた。
 彼は、思った。
 ″学会は壊滅させられ、恩師は獄死された。これほどの弾圧が、過去にあっただろうか、断じてない。日蓮大聖人の御聖訓に照らして考えるなら、日本の国が焦土となり、滅亡したのも、まさしく、この弾圧の結果ではないのか……″
 彼は、そこに厳然たる因果の法則を見る思いがした。
 彼は、杉木立の梢を見上げた。広々とした大空に目を放った。大聖人の御書の一節を、彼は、われ知らず、かみしめていた。
 「大悪をこれば大善きたる
 御金言は、間違いない。それならば、未曾有の興隆の時は、今をおいて絶対にない。今、この道は、千里の道に見えようとも、それは、凡夫の肉眼の距離にすぎない。死身弘法の精神があるならば、広宣流布は必ず成就できる。
 彼は、閑散とした境内を眺めつつ、腰を上げた。
 「さぁ、いよいよ始まるぞ」
 彼は、静かに力強く言った。皆も一緒に立ち上がった。だが、いったい何が始まるのか、誰にもわからなかった。
 この日の午後、一同は、そろって下山した。富士宮駅でも富士駅でも、長い間、列車を待たなければならなかった。
 寒い、暗い、東京に着いた。
 戸田が帰宅してみると、時計は午前零時を回っていた。

1
2