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日蓮大聖人・池田大作

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小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
2  絶え間なく動揺する、激しい変革に時期にあったが、戸田は泰然としていた。
 彼の手がけた事業は、日に日に向上線をたどっていた。
 一九四五年(昭和二十年)九月末になると、西神田の焼け残った一画に、一軒の売り家があることを聞き込んだ。彼は、直ちに調査し、即決して、それを買った。事業開始から一カ月半で、そのような余裕をもつにいたったのである。
 目黒駅に程近い、狭い土間の仮事務所から、十月半ばには、西神田の三階建ての新事務所に移っていた。やはり目黒駅の近くにあった戦前の事業の根城・時習学館が罹災焼失してしまったことは、戸田にとって打撃であった。しかし、西神田に移ってみると、その打撃は取るに足りぬことに思えるのであった。
 神田は、出版業界の一等地である。印刷、製本、その他、出版業務のすべてに便利な中心地であった。いつの間にか、その中心地に近づいたことに、戸田は気がついた。
 彼は、二階の南側の窓を背にして、社員たちに語り始めた。
 「どうだ、目黒から、この中央に進出することができたのも、偶然のように見えるかもしれないが、決して偶然ではないよ。わかるかい?」
 社員たちは、広い家屋に移って、ただ、もう浮き浮きしていた。
 「まったく、うまいところが見つかったものですなあ」
 奥村が、感に堪えないというように言った。
 すると、戸田は答えた。
 「こういうところに移ってこられたのは、日本正学館も、出版界で戦前以上の飛躍ができるという、何よりの証拠じゃないか」
 新事務所は、専修大学に程近い大通り沿いにあった。交通の便も、何かにつけて便利であった。目黒の事務所とは、大変な違いである。これまでの事務所は、電車通りに面していたため、電車の騒音が耳についていた社員たちには、気の抜けた思いがするほどの静けさであった。
 「まったく、功徳ですね」と言いながら、奥村は、新聞紙にくるんだ昼飯のふかしイモを、カバンから取り出した。
 「今日もイモかい。……イモは、あまり功徳とはいえんな……」
 戸田の言葉に、みんな、どっと笑いだした。
 「この事務所は功徳だよ。徒手空拳で始めた仕事が、二カ月たたないうちに、ここまできた。誰だって考えられないことだ。努力だけではない。この事務所も、御本尊様から頂いたものだよ。この建物が、今後どんな働きをするか、きっと、すごいことになるよ。みんな、大事に、きれいに使おうじゃないか」
 「はい……」
 事務員たちも戸田の言葉の表面上だけの意味はわかつて、返事をした。
 日本中は、殺気だっている。暗欝な一日一日であった。落ち着いて仕事のできる、自分たちの環境をもっている人は少ない。この時に、生活の心配もなく、良い環境に恵まれてきた社員たちは、なんとなく、すまないような思いがしていた。
 戸田は、新事務所に座ってみて、大きな展望を描き、思いを将来に馳せていた。事業のことばかりではない。言うまでもなく、学会の再建である。
 だが今、戸田の胸に描かれた学会の姿は、戦前の創価教育学会の最盛期のような規模とは、全く異なっていた。彼は、新時代にふさわしい、大きい、新しい構想、展開を描いていたのである。
 まず戸田は、創価教育学会の名称を、「創価学会」と変えることを考えていた。学会の目的、活動が教育界だけでなく、日蓮大聖人の仏法を根底として、政治、経済、文化等、全社会の階層に、希望と活力とを与えきることであり、その永久不変の大哲理を流布することを、決意していたからである。それには、東京の中心に位置するこの建物も、ひと役買うのは当然なことであった。
 戸田は、二階の畳敷きの三部屋を、しげしげと見渡した。八畳間と、さらに一回り狭い二つの部屋が続いていた。昼は、彼の事業の城であるが、夜は、やがて法を求め、広宣流布の第一線に働く地涌の菩薩が集って来るにちがいない。煤けた壁、手垢のついた柱、多少古びた畳も、広宣流布の産声を、八畳間と増築分の四畳半と三畳二間があり、ほぼ同じ広さであった。
 儒教思想を根底にした指導者・吉田松陰の感化を受けた青年たちは、それなりの大成を遂げた。久坂玄瑞をはじめとして、高杉晋作、伊藤博文等、彼らは、いずれも維新回天の大業に活躍し、今日にも、その名を残している。
 しかし、儒教を理念とする指導者たちのつくり上げた、明治以来の機構制度は崩れ去った。さらに、その精神的支柱も、全く力を失ったことが証明された。新しい時代に、新しい偉大な哲学理念をもって、新しい青年の立つ時が到来したのである。
 妙法の大理念をもった青年たちが、今度は、この部屋から、社会のあらゆる分野に、続々と巣立っていくであろうことを、戸田は強く確信していた。彼は、その様相を、まざまざと心に描いていたのである。
 戸田は、青年に強く期待をかけていた。自分が頼りにしていた壮年たちが、全部、退転したことで、それは、一層、強い確信となった。彼らが、実に利己的な考え方の持ち主であり、頼るに足らぬということを、いやというほど知ったからである。
 事務所にいる社員たちは、彼の深い決意、構想など知る由もなかった。ただ、社員として、それなりに社長につき、自分の仕事の向上に懸命ではあった。
 戸田は、それぞれ小机を前にしている社員たちに呼びかけた。
 「さぁ、これからが、大変な戦いになる。今までのような、子どもの遊びとは違ってくる。みんな、しっかり覚悟して飛躍するんだよ。それには、研究と勉強とを、お互いに怠つてはダメだ。いったい、どこまで自分たちが伸びられるか、精いっぱいやってみるんだな。いいね」
 「はい!」
 元気のよい返事が、煤けた天井に響いた。キラキラと目を輝かして、一人頷いている人もいる。口を固く結んで、頬を痙攣させ、緊張した表情の人もいる。戸田の言葉は、誰の胸にも力強く響いていった。
 彼の、ただならぬ決意が、自然に事業面の指導となり、社員の心にも、新たな息吹があふれた。数日すると、上大崎の事務所にあった、慌ただしい不安定な様子は影をひそめて、根を下ろしたような、着実な、生き生きとした雰囲気に、たちまち変わっていった。
3  西神田に移ってからは、日に日に訪問客が増えた。もちろん、事業関係の人びとも多くなった。しかし、それよりも注目すべきことがあった。今は、組織も崩壊している創価教育学会の会員が、ぽつぽつと姿を現してきたことである。
 それは、地方に疎開中で、まだ鳴りをひそめていた人びとではなく、戦時中も、東京の地で空襲と食糧難の過酷な生活に耐え、終戦を迎えた人びとである。
 そして、前例のない不安と、失望のなかで、その日、その日を、送っている人たちであった。
 終戦時の東京の人口は、三百四十万まで落ちていた。彼らは、そのなかにいた、わずかな学会員であった。ほとんど、会長・牧口常三郎の指導を受けていた人びとである。しかし、戸田とは、ちょっと面識があった程度で、親しく口をきいた人は、わずかしかいなかった。
 彼らは、誰からともなく、牧口会長の死を伝え聞いていた。そして、落胆のなかにあって、なお学会の存在を求めていたのである。牧口会長への信頼が強かっただけに、それに代わり得る指導者を、心の底で求めていたのであった。
 戸田理事長の健在を、風の便りに聞くと、居ても立ってもいられなくなり、戸田を訪ねる気持ちになったのであろう。顔と姿だけしか知らなかった戸田を、訪ね、訪ねて、やっとの思いで、西神田の事務所の入り口に立った人びとが多かった。
 「戸田先生は、おいででしょうか?」
 彼らは、階下の受付で、おずおずと尋ねた。それは、よれよれの軍服姿に、崩れた戦闘帽を頭に乗せている男性であったり、幼い子どもの手を引いた、戦争で夫を亡くしたらしい、もんペ姿の女性であったりした。
 「どなたですか?」
 受付の若い女子事務員は聞いた。
 「田上です。私の名を申し上げても、先生はご存じないでしょう。お目にかかればわかります」
 「…………」
 「もと学会員だった、と申し上げてください。私は、戸田先生の、お顔はよく存じ上げているのですが……」
 「ご用件は?」
 「はぁ、別に、これということもないのですが、ともかく一度、お目にかかりたいと思いまして……」
 「お待ちください」
 会社の忙しい仕事の合間に、戸田は、これらの人を二階に呼んで、話をするのが常であった。
 会って話をしてみれば、「別にこれということもないのですが……」どころの騒ぎではない。底知れぬ悲哀と、果てしない苦悩を、胸いっぱいにもっている人びとであった。迷い抜いた揚げ句、活路を求めてきた訪問者たちであった。
 「うーん……」
 戸田は、腕組みをして、折々、ため息にも似た声をもらした。そして、涙ながらに語る人の顔を、悲しげに見つめた。
 ことに、軍部政府の弾圧を恐れて退転していた人びとは、手のつけようのないほど、ひどい境遇に落ちていた。厳しい因果の実相を、あらためて見せつけられた思いである。
 戦前ならば、指導の通例にならって、罰だと、これらの人びとに厳しく悟らせたにちがいない。だが今、目前にするこれらの訪問者は、それも憚られるほどの悲惨な状態であった。彼らもまた、あいまいながらも、その罰を感じてはいたはずである。戸田は、口の先まで出かかっている罰論を、ぐっとのみ込むのだった。
 そして、笑みをたたえながら、諄々と指導していった。彼は、まず、御本尊の無量の功力を説ていったのである。真の功徳は、どのように偉大な冥益となって現れるか、利益論を真っ向から振りかざして、激励するのだった。
 彼の指導は、いつも確信に満ち満ちていた。罰の生活を、利益に転じようと決意させる力があった。聞いている人の頬は、見る見る赤みを増す。戸田の話を聞くと、暗く沈んだ彼らの心にも、希望の鐘が鳴り響くように思えるのだった。
 ――そうだ、毒を薬に変える力が、御本尊様にはある。信心さえ確かなら、何をくよくよすることがあるものか。
 戸田は、なおも励まし続けた。
 「大聖人様の教えには、絶対に間違いはない。大聖人様は、難に遭われた時、こうおっしゃっている。
 『我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし
 どんな目に遭っても、御本尊様を疑つてはいけない。疑わず、信心さえあれば、そのまま黙っていても、自然に、仏の境涯に到達できるのだ。絶対の幸福生活ができるとの仰せなのだ。みんな、今は辛かろうが、疑わず、ちゃんと信心さえ貫けばいいんだ。それによって、損するか得するか、一生の勝負が決まってしまう。どうだ、忍耐強くやれるかね?」
 戸田の言葉に、ある人は泣いていた。ある人は深く頷き、顔を上げてニツコリと笑うのだった。また、ある人は、「はい、やります!」と力強く応え、瞳を輝かせて、風呂上がりのような、さっぱりした顔をして席を立っていった。
 「また、困ったことが起きたら、いつでも訪ねて来なさい」
 彼は、席を立った人びとを見ながら、後ろ姿に呼びかけた。
 「はい、ありがとうございました」
 彼らは振り返り、丁寧にあいさっして、階段をコトコトと下りていくのだった。
 このような訪問者は、時を選ばずにやって来た。そのなかでも、最も頻繁に出入りするようになった一群があった。それは、戦前の学会幹部の経済人グループであった。戸田と長い年月、公私ともに親しい関係にあった連中である。
 戸田を中心として、かつて経済革新同盟クラブなるものを組織したことがあった。それは、教育者の多かった創価教育学会内における、経済人の一群であった。彼らもまた、戦時中、弾圧を受け投獄された者たちである。遺憾ながら、投獄を機として退転した幹部連であった。
 彼らのなかで、ある者は、御本尊を返却さえした。ある者は、学会と手を切って出征することを条件に、釈放になったりした。幸運にも投獄されなかった者もいた。しかし、彼らもまた、信心活動は牢獄への道と知り、その恐怖から退転していったのである。彼らの全部が、大聖人の仏法を疑い、身を潜めるようにして終戦を迎えた。
 彼ら退転組の理事たちは、七月三日の戸田の保釈出所を伝え聞いたが、終戦より前には姿すら現さなかった。彼らを弾圧した国家権力が崩壊し、占領軍が取って代わると、まず、彼らは、生活の再建に動き始めたのである。
 経済秩序の混乱期である。人びとは、生きることに血眼になっていた。あちらこちらと動き回っているうちに、いわゆるうまい話もないわけではなかった。彼ら経済人グループの理事たちは、戸田の事業の短期間における再建の話を耳にし、驚きを隠せなかった。
4  十月に入ると、いち早く戸田の西神田への進出を知った。自分たちは、いまだ、なんの地盤の安定もできていない。彼らは、いかにも経済人らしく、自己の生活再建の必要から、一人、二人と、西神田の事務所を訪れ始めたのであった。
 彼らは、広宣流布という目的に向かって、戸田と共に、生涯をかけて戦う同志ではなかった。自身の苦しい生活上の利害から、戸田に近づいて来たにすぎない。戦後の、どさくさの混乱期に、襲い来る嵐をやりすごすためには、雨やどりの巨木が必要であった。
 ともかく、戸田のもとに駆け込めば、食うに困らず、何かと守ってもらえると思ったにちがいない。
 彼らが、主義主張のためには、命をも捨てて戦う人物でないことを、戸田はよく知っていた。
 だが彼は、これらの、かつて背いた盟友たちを拒まなかった。獄中にあった時、検事から、同志が一人、二人と退転していくのを聞かされた。そのたびに、無念と憤怒に身を焼かれる思いがした。そして、怒りを胸に畳んでいたが、しかし今、彼の眼前にいる同志を見た時、彼は怒りを忘れていた。むしろ、憐欄の情が先に立つのを、どうしょうもなかった。
 彼らの相貌は、見るからに不幸を刻んでいた。弾圧直前、牧口常三郎の言葉をまね、「今こそ、国家諌暁の秋である」と、意気軒昂に叫んでいた面影など、今は微塵もない。彼らは、力のない、薄い笑顔を浮かべながらも、何かに怯えている表情は、隠しきれなかった。
 戸田は、何事もなかったように、鷹揚に応対した。戸田の激しい気性を知っている事務員たちは、首をかしげ、訪ねてくる経済人たちを白眼視していた。
 たまりかねた一人は、彼らが帰ったあと、戸田に言った。
 「先生は人がいいなあ。あの連中が、先生のお留守中、どんな言葉を口にし、会社を助けるどころか、どんな迷惑をかけたか、先生はご存じないんですか。図々しい連中ですよ。先生、裏切り者じゃありませんか」
 懸命に訴える若い社員に、戸田は、穏やかに笑いながら言った。人なつこい笑いであった。
 「まあ、そう言うな。留置場とか拘置所なんかに、一カ月でも二カ月でも入ってみろ。あんなところにぶち込まれて、じわじわ、いじめられてごらん。退転するのが、当たり前だよ。裏切らない方が不思議なぐらいだよ」
 「そうでしょうか」
 若い事務員は、浮かぬ顔をして考え込んだ。
 「経験した者でなけりゃ、わからんね。……いいじゃないか。どんな人間だって、結局は、御本尊様によって救われる時が来るんだ。背こうが、従おうが、どうしょうもない。最後は、みんな救われていくんだ。これが大聖人様の甚深無量の御慈悲だよ。
 人が人を責めることなんか、知れたものだ。御本尊様に裁かれることほど、この世で恐ろしいことはない。
 人間なんて、始末の悪いものだ。厳しく裁かれて、初めて正気に返ることができるものだよ。御本尊様さえ、生涯、放さなければ、それでいいんだ。
 あの連中だって、御本尊様からは離れられないからな。今、このことだけが、せめて、あの連中には必要なんだ」
 戸田は、諄々と諭すように言うのだった。それは、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
 経済革新同盟クラブのなかで、特に藤崎陽一、北川直作、岩森喜三、本田洋−郎の、四人は、些細な用事にかこつけて、戸田のもとに足しげく通うようになった。
5  秋も深くなってきた。戸田の健康も、かなり回復してきた。
 彼ら経済人グループのなかには、闇酒のルートに通暁している者がいた。たまたま、高価なウイスキーなどを手に入れて、戸田を喜ばすために、連れ立ってやって来たりした。
 十月二十五日ごろには、料理店やバー、待合などの営業の許可が下りた。彼ら一行も、顔見知りの寿司店などへ、いそいそと足を運んだりし始めた。
 戸田は、実に屈託なく、それらの酒をうまそうに飲んだ。盃を手にしながら、話は自然と、未来の広宣流布に進んだ。
 「広宣流布、広宣流布と、オウムのように観念的に言っていても、しょうがない。かえって、広宣流布は、どんどん逃げていくだけだ。今、大事なことは、誰が広宣流布をやるかだ」
 戸田は、突然、厳しい表情になった。皆の顔からは笑いが消えていた。
 一人ひとりの顔を見つめながら、戸田は、さらに続けた。
 「問題は人だ。問題は″誰が″だ。全部、人で決まるんだ。一人の人間で決まるんだよ」
 一座は、沈黙に入ってしまった。しばらくして、印刷会社の主人である北川直作が口を聞いた。
 「第一歩として、学会を、至急、再建すべきだと思うな」
 「誰が!」
 戸田は、間髪を入れずに反問した。
 「誰がだ?」
 「誰がといったって、当然、われわれがやるより仕方がないだろう……」
 光学器械の町工場主の岩森喜三が、ぼそぼそと言いだした。彼は、運よく投獄されずにすんだ幹部であった。
 「岩森君に任せるか。……しかし、広宣流布の道は、実に険しい。望遠鏡でのぞいてわかるような道じゃないぞ」
 みんな、どっと笑い声をたてた。
 「そりゃ、やっぱり理事長が先頭に立つべきだ。戸田君、君がやるべきだ」
 食品会社をつぶした本田洋一郎が、遠慮がちに言った。彼は、戸田と同郷で、小学校以来の友人だった。
 戸田は、無言で、盃を口に運んでいた。
 金融関係に詳しい藤崎陽一が、この時、抜け目なく言った。
 「牧口先生亡き後、戸田君以外に、適任者はいないと私は思う。戸田君がやるなら、及はずながら、私は、どこまでもついていく。その覚悟は、ちゃんとあるんだ」
 戸田は、一瞬、苦い顔をしたまま、黙っていた。彼は、心で思った。
 ″あれほどの大難も、この四人の最高幹部には、なんの影響も与えなかったのであろうか。一本のウイスキーを中心にすれば、いとも簡単に、「われわれがやる」とか、「どこまでもついていく」とか、軽々しく言つてのける人たちにすぎないのだろうか″
 彼は、酔いがさめた。そして、ボツンとつぶやくように言った。
 「同じ轍を踏むことは、ぼくは絶対いやだ。断じていやだ」
 「もう時代は変わりましたよ、百八十度も。同じ轍を踏むはずなんかないじゃないか」
 関西商人出身の北川は、戸田をさえぎって言った。
 「時代も変わったといえば、確かに変わった。だが、時代じゃない。所詮、人だよ。死身弘法の信心の人を指しているのだ」
 彼は、かすれた声で、押し殺すように言い切った。
 「……だって、敵は崩壊してしまったじゃないか。今は、条件が、全然、違っているし、簡単だと思うな」
 北川は、時勢の変化が、すべてを決定すると主張したのである。無責任の言は軽く、小手先の議論にすぎなかった。
 戸田は、北川の顔を、じっと見て言った。
 「そりゃ、軍部は崩壊したさ。だがね、何千、何万とある、誤った宗教は、なくなったかい? 根本的に見れば、条件は、いささかも変わっていない。むしろ、これからが社会混乱の隙に乗じて、いろいろな宗教が、はびこるだろうよ。それは火を見るよりも明らかなことだ」
 彼は、戦後の精神的、物質的混乱に乗じて、雑草のように誤った教えが広まっていくであろうことを、いち早く見抜いていた。
 信教は自由となった。しかも大衆は、宗教の勝劣浅深を知らず、宗教を判断する基準ももたずに、今日まできている。
 信教の自由の時代は、そのまま宗教の戦国時代となるであろう。今とそ、折伏の戦いを勇敢にしなければならぬ時だ、と彼は思った。
 戸田は、続けて言った。
 「根本問題は、誰が、何をなすべきかだ。今までのような惰性でいったら、かたちは違っても、同じ轍を踏むことに、なってしまう……」
 「新規まき直しですか?」
 藤崎陽一が、戸田の意を迎えるように言った。
 「そんなことじゃないんだ。言うのは簡単さ、藤崎君。全部、新しい構想と、決意で進まなければ、広宣流布は実現できない。わからないかな……」
 戸田は、独り言のように言った。最後の言葉を言うと、盃を手に、しばらく黙ったままでいた。誰もが無言であった。
 「今夜は、このぐらいにしておこう」
 戸田は、つと席を立って勘定をしに行った。
 彼の言葉は、学会再建問題を、今夜は、ひとまず打ち切ろうというふうにも聞こえた。また一方、今夜の小宴会を、この辺で切り上げようとも聞き取れた。
 「久しぶりで念願叶って、寿司らしい寿司にありついた。胃のやつ、きっと驚いているだろう」
 北川は、真っ先に外に出ると、本田に話しかけた。
 「うまかった。まったく寿司の味なんか忘れるところだったなあ、北川君」
 本田は、こう北川に言いながら、後から出てきた岩森を振り返って言った。
 「今度は、君の方の新宿に、気のきいた天ぷら屋が開店したそうだから、そのうち、そこへ案内しよう。偵察しておくよ」
 四人の実業家は、満足の様子だった。道路に輪になって、立ち話をしながら戸田を待っていた。
 時節柄、食べ物の話は、人びとの心を何よりも夢中にした。確かに、それが彼らの目下の最大の関心事であった。
 戸田は、折り詰めを下げながら、ふらりと現れた。そして、空を仰いで言った。
 「秋だな……」
 柔らかい、さわやかな風が顔に流れる。廃墟の東京の夜空は、不思議なぐらい澄んでいた。瞬く星の光も、高原の夜空のように鮮やかであった。
 大通りへ出ると、彼らは、それぞれの家路を急いだ。戸田は、北川と目黒の駅まで同行した。
 戸田は、目黒駅を出ると、深夜の電車通りを、一人、白金の自宅の方へ向かった。そして歩きながら、何度も夜空を仰ぎ見るのであった。彼の心は重かった。
 ″あの四人の連中と、なんと隔りができてしまったことか……″
 彼は、彼らが弾圧により、退転したことは責めなかった。ただ、彼らの依然たる無自覚を悲しんだ。語るに足りぬ友であることを、知ったのである。
 時代は一変したが、彼らは変わらない。しかも、しげしげと慕い寄って来るのは、あの四人である。わずかの酒で、ご機嫌になる。そして、苦衷に満ちた自分の心事を、少しも理解しようとはしない。彼は、志を同じくする人のいないことを、心に嘆いた。
6  戸田は、暗然として足を運んでいた。その時、瞬時も脳裏から離れない恩師・牧口常三郎の面影が、心にくっきりと浮かんできた。
 彼は、「先生……」と呼びかけんばかりに、心に切なく思った。あの笑みをたたえた、慈愛そのものの恩師の姿が、胸中いっぱいに広がってくる。と同時に、恩師が常に背後から自分を見守ってくれていることを、ひしひしと感じた。
 彼は、涙を浮かべながら、獄中での、自作の詩を歌い始めた。
  恩師は逝きて 薬王の
  供養ささげて あるものを
  俺は残りて なにものを
  供上ささげまつらん 御仏に
  
  まずしく残るは 只一つ
  清き命の 華なるを
  たおり捧げて 身の誠
  国と友とに むくいなん
  
  吹くや嵐の 時なるか
  東亜の空の うすけむり
  悪鬼はあらぶれ 人嘆く
  救わでおこうか 同胞はらから
  
  如意の宝珠を 我もてり
  これで皆んなを 救おうと
  俺の心が 叫んだら
  恩師はニックリ 微笑んだ
  
 彼は、自宅の近くの石段を下りていった。下りきったところで、そこに立ち止まり、天空を仰ぎ見た。星は、あまりにも美しく瞬いている。一瞬、彼は、果てもない宇宙の一角に、一人、たたずんでいる自分自身を、はっきりと感じた。
 家のドアに手をかけた時、彼の心は、すっきりと洗われていた。そして、出迎えた幾枝に、機嫌よく寿司の折り詰めを渡した。
7  日は、慌ただしく過ぎていった。十一月十八日の夕刻、会長・牧口常三郎の一周忌法要が営まれることになった。場所は、日蓮正宗寺院の歓喜寮である。
 戸田城聖は、早めに社を出た。そして、中野駅から歓喜寮への道を急いだ。秋は、既に深くなっていた。
 道々、彼は思い出した。
 ――この道を、杖をつき、汗を流し、喘ぎ喘ぎ、倒れんばかりに足を運んだ、あの夏の日の夕暮れのことであった。
 彼は、出獄の日の翌々日、一九四五年(昭和二十年)七月五日は、暑い日中は家にいたが、日も傾きかけたころ、脳裏から離れなかった宗門の様子を知ろうと、歓喜寮の堀米泰栄住職を訪ねた。まだ蒸し暑い、午後六時ごろのことであった。閑散とした境内には人影すらない。セミの声だけが、辺りに響いていた。
 戸田は、幾枝を伴い、本堂に、やっとの思いでたどり着いた。そのまま、御本尊の前に端座して、うやうやしく唱題した。その声を聞きつけたか、庫裏の方から静かな足音が、本堂に近づいてきた。
 「やっぱり、戸田さんでしたな」
 落ち着いた声である。堀米が浴衣姿で現れた。戸田の耳に、その声は懐かしく響いた。
 「ご住職……」
 戸田は、数珠を手にしたまま、あとは言葉にならなかった。彼は、堀米の前に手をついて、無言のまま動かなかった。
 堀米は、彼の側に寄って、痩せた手を伸ばし、戸田の手を取った。御本尊の真ん前であった。戸田は、思わず両手でその手を握った。すると堀米は、もう片方の手を、その上に重ねた。二人は、互いに抱擁するような姿で、戦友のように固く握り合った。
 二人の聞には、語るべき多くのことが、あふれていた。だが、あまりの懐かしきに、その感慨は言葉にはならなかった。ただ、無言で固く握っている手が、言葉以上の多くを語っていた。
 堀米は、戦時下、総本山の中枢にあった。
 総本山は、自己保身のため、最終的に軍部政府に屈したが、一方で、戸田城聖は、学会の要として軍部政府と対峙し、あらゆる苦難を一身に浴びてきていた。そして、弾圧の二年の歳月は、二人を全く隔離していた。複雑怪奇ともいうべき時代の激流は、二人を、見る見る遠ざけてしまった。流れのうえには、誤解や曲解が流木のように、浮かんだり消えたりしていた。
 「戸田さん、私は、あなたを待っていた」
 堀米は、ようやく口を聞いた。手を引きながら、戸田の顔をメガネ越しに、しげしげと見つめている。
 「ありがとうございます。ご住職もお変わりなく……ご無事で……」
 戸田も、メガネの奥から、堀米の顔をじっと見た。もともと大きな頭蓋をしていた堀米の顔は、さらに大きく映った。
 ″それにしても、なんとお痩せになってしまったことか″
 二人は、同じことを相手に感じたのだった。しかし、そのことは二人とも口にしなかった。ただ互いに、相手をいたわりたかったのである。
 幾枝は、あいさつも忘れて、ただ二人の姿を目の当たりにし、思わずハンカチを目に当てていた。
 「戸田さん、いつ?……」
 「一昨日の夜、やっと保釈になりました」
 「ご苦労なことでした」
 「いや、ご住職、願ってもない、えらい目に遭いました」
 戸田は、ここで初めて、いつもの調子で豪快に笑った。
 「願ってもない、えらい目……か。なるほど……」
 堀米は、つり込まれて、つぶやき−ながら笑顔になった。そして、ゆっくり立ち上がって言った。
 「さあ、さあ、こちらの方が、いくらか涼しい。今日は、ゆっくりしていただきましょう。奥さんも、どうぞこちらへ」
 堀米は先に立って、庫裏の方へ二人を招じ入れた。和綴の本が、高く積まれた書斎である。
 二人は、さまざまなことを語り合った。まるで二年有余の別離の空白を、一挙に埋めるような調子であった。
 戸田が、獄中の日々を語り、牧口常三郎の死を知った悔しさに及んだ時、堀米の顔は、激昂して赤らんだ。
 堀米が、総本山の極度の荒廃を語り始めた。さらに、境内が蹂躙された模様から、六月十七日には客殿の焼失にいたったことに話が及ぶと、戸田は痛憤やる方なく、思わず落涙してしまった。
 戸田は、いつしか上着をとり、ワイシャツも脱いでいた。痩せきった体に、薄いシャツ一枚がだぶぶしている。しかし、力のこもった語気は、どこから出てくるのか、不思議なほどであった。
 総本山は荒廃し、また創価教育学会も崩壊していた。
 戦争は、まだ終わっていない。白法は隠没せんとしている――二人の心の底には、この一事だけがあった。
 「いい修行を、させていただきました。おかげで御本尊様は、戸田を、どうやら一人前の男にしてくださったようです。もう、今度はしくじりませんぞ。ご住職の方も、よろしくお願いいたします」
 彼は、何げない言葉で、固い決意を披瀝して言った。
 「このように、かつてない大難に遭ったことは、いよいよ正法が、前代未聞の興隆をする瑞相にちがいない。戸田さん、本山側は、私が引き受けた。外護は、あなたに頼みますよ」
 堀米の穏やかな口調にも、緊迫した祈りが込められていた。戸田は、居ずまいを正して言った。
 「この戸田の生きている限り、断じて御本山を安泰にお守り申し上げます。ご心配くださいますな。ただ、出獄後、まだ事業の見通しも得ませんので、しばらくの猶予をお願いいたします」
 この日、この時から、二人は、さらに強固な鎖で結ばれたといってよい。
 戸田は、″広宣流布を必ずするぞ″と心に誓った。そして、まず自身の事業を速やかに再建し、軌道に乗せ、盤石の態勢を固めることを決意していた。
 題目をあげ、座を立った時は、外は、すっかり暗くなっていた。
 こうして、広宣流布の黎明を告げる、ただ二人だけの、三時間以上にわたる会談は終わったのである。
8  あの日、感激と決意に燃えて帰った道――。
 あれから、百日少々しか過ぎていない。その間、戸田の事業は着々と軌道に乗ってきた。そして彼は、今日、十一月十八日こそ、思師の遺業を継ぐ第一歩の日と、並々ならぬ責務を自覚していた。
 戸田城聖は、いそいそと歓喜寮の門をくぐった。本堂で唱題し、庫裏に回った。そして、堀米住職にあいさつし、居合わせた牧口の遺族と雑談したりしていた。やがて、席が整ったとの知らせに、一同は本堂に戻った。
 集まったのは、牧口会長の遺族、親族のほかに、二十数人の門下であった。かつて三千人を数えた創価教育学会員は、今、牧口会長の一周忌法要というのに、これだけしか集まることができなくなっていた。
 なかには、まだ復員していない人、疎開中の人もいた。しかし、それにしても参会者は、かつての会員の一パーセントにも満たなかった。牧口会長の終生にわたる慈愛を思う時、この数字は、まとこに不可解という以外にない。
 三千人の学会員は、退転状態に落ちてしまっていた。この二十数人の数字が、何よりもまず、それを物語っている。学会の再建が、いかに容易ならざる難事であったかは、この姿を見れば、頷けるところである。
 歓喜寮の本堂に、三々五々と集まって来た人たちは、互いに思いがけない再会をした人が多かった。互いに無事であったことを喜び合い、あいさつを交わしたりしていた。そして、相手の痩せ細った姿に驚きながら、戦後の不如意の生活の数々を語り、話に花を咲かせていた。
9  一年前の一九四四年(昭和十九年)十一月十八日――牧口常三郎は、巣鴨の東京拘置所の病監で逝去したのであった。静岡県・下田で拘束された日から、一年四カ月の月日を、獄窓で送ったわけである。七十三歳の高齢であった。
 牧口は、最後の日まで、不当な官憲の弾圧と戦い抜いた。そして、一歩も退くことなく、正法を護持し抜いた。戦時下の過酷な取り調べ、人権無視の屈辱。国家権力のあらゆる暴虐と、真っ向から衝突して戦い切った。彼は、決然として、身に妥協の一筋をも許さなかった。
 老衰と栄養失調が、彼の老体に忍び寄った。彼は病んだ。取締当局は、病監へ移ることを、再三、彼に勧めた。重体であったが、彼は頑としてこれを拒否し続けた。
 やっと死の前日、十七日になって、彼は病監へ行くことを申し出た。彼は、下着を、ことごとく着替えた。さらに衣服を改め、羽織を着し、威儀を正した。髭を剃り、頭髪まで整えた。
 午後三時ごろ、看守がやって来た。しかし彼は、看守の手を借りることを潔しとせず、自らの衰弱した足で、静かに病監へと歩いていった。
 病室のベッドに身を横たえると、医師の診察があった。やがて薬が届けられたが、彼は手を振ってそれを拒んだ。
 やや時が過ぎ、係官は、灯火管制下の、ほの暗い電灯の下で、彼の顔をのぞいて見た。その時、彼は、安らかに深い眠りについているように思われた。
 翌十八日早朝、彼は安祥として逝った。枕頭の医師や係官たちは、彼の死を疑った。桜色の頬の血色は生前のままである。かすかに笑みをたたえた温顔は、ひとしお崇高に冴えていた。医師は、幾度も手首を握ったが、既に脈拍はなかった。
 彼の亡骸は、親戚が営む履物店の従業員に背負われ、二、三の親族に付き添われて、一年四カ月ぶりに、わが家の門をくぐったのである。
10  それから一年――戸田城聖は、今、本堂の一隅で、断腸の思いを、じっとこらえていた。堀米泰栄の脇には、細井精道、千種法輝の二人の僧が座った。場内は、一瞬、静寂に返った。それから唱題に次いで、読経が始まった。
 後に六十五世の法主となった堀米は、戦時中、数々の難局打開に奔走した。
 そのころ、軍部政府は、思想統一政策の必要から、宗教の統制にまで乗り出してきた。彼らは、日蓮大聖人の教義に基づくとされている各宗派を、身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗に合同させ、一宗に取りまとめることを、たくらんだのである。特に、軍国主義者たちの暗躍は活発となってきた。日蓮正宗の僧のなかにも、軍部に迎合し、神本仏迹論などという誑言を唱え、あまつさえ政府当局の言うままに、日蓮宗との合同をたくらんで、師子身中の虫となった者さえあった。
 いきおい、日蓮正宗総本山大石寺も、いやでも国家権力への対応が迫られた。全く、一宗の存続そのものが、危殆に瀕したのである。重大な危機であった。
 創価教育学会会長・牧口常三郎は、厳然として叫んだ。
 「今こそ、国家諌暁の秋である。国家権力などは、恐るべきではない。しかし、大聖人の御金言、御予言は絶対であり、まことに恐ろしき極みだ。仏法の力によって、真に国家の滅亡を救い、人を救うことこそ、大聖人の御精神ではないか」
 牧口会長の決意は、烈々たるものであった。しかし、時勢は恐ろしい事態に入っていた。
 戦局は次第に悪化し、軍部政府は、六百余年前の蒙古襲来の折、神風が天照大神によって吹いたという、歴史的迷信にすがりついていた。そして、国家神道の勝手につくった神話の虜となって、全国民に、無理やり天照大神を拝ませ、その奇跡を期待していた。
 国を挙げての天照大神への信仰は、国家権力を背景にして、日を追って激しくなっていった。戦争遂行のための思想統一であった。天照大神を拝まぬ者は、国賊とされた。また、反戦思想の持ち主と断定されるにいたった。
 ところが、牧口門下の折伏戦は、その戦時下にあっても、なお天照大神の神札を否定し、取り払っていた。
 牧口会長は、大聖人の御聖訓に照らして、戦争遂行の象徴である天照大神は、法華経守護の神にすぎず、法華経に祈ってこそ天照大神の功力が現れるのであって、神自体を拝むのは誤りである、と主張して、はばからなかった。
 時の指導者たちは、この仏法の法理を知る由もなく、牧口会長とその門下を弾圧し、苦しめにかかってきた。総本山は、牧口門下の折伏活動から、どんな迫害が襲いかかってくるかをも察知した。
 一九四三年(昭和十八年)六月二十七日、学会の幹部は、総本山に登山を命ぜられた。そして、当時の法主・鈴木日恭ら立ち会いのもと、宗門の庶務部長から、「神札」を、一応、受けるようにしては、との話があった。
 牧口は、日興上人の遺誠置文の、厳しい一条を思い起こしていた。
 「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事
 彼は、顔を上げると、はっきりと言い切った。
 「神札は、絶対に受けません」
 牧口は、その場を辞すと、沈痛な表情で参道を歩きながら、激した感情を抑えて、戸田に語った。
 「私が嘆くのは、一宗が滅びることではない。一国が眼前でみすみす亡び去ることだ。宗祖大聖人のお悲しみを、私はひたすら恐れるのだ。今こそ、国家諌暁のときではないか。
 いったい、何を恐れているのだろう? 戸田君、君はどう考える?」
 戸田は、即答する術を知らなかった。七十歳を超えた恩師の老躯を思いやったからだ。激昂した恩師の、毅然たる心をいたわりたかった。彼は、優しい弟子であった。
 「戸田君、君、どう思う?」
 牧口は重ねて、戸田に呼びかけた。その声は、いつか優しくなっていた。
 戸田は、空を仰いだ。ギラギラと照りつける午後の太陽があった。眼前には、富士がそびえている。彼は、われに返ったように、静かに、力強く答えた。
 「先生、戸田は命をかけて戦います。何がどうなろうと、戸田は、どこまでも先生のお供をさせていただきます」
 牧口は、一、二度頷いて、初めて、にっとりと笑いかけた。そして首筋の汗を拭いた。足を運べばほこりの立つ、夏の日であった。これが彼の最後の登山であった。
 この日から十日とたたぬうちに、二人は検挙されたのである。
11  堀米を導師として、今、牧口会長の一周忌法要は進んでいる。
 ゆっくりした読経から、唱題に移った。焼香までの長い間、戸田城聖の心には、あの夏の最後の登山から今日まで、二年有余の歳月が、まざまざと、よみがえっては流れていった。彼のメガネは、しばしば曇った。瞑目して唱題に和し、激する感情をじっとこらえるのに懸命であった。
 最後の唱題が終わって、堀米は、くるりと参会者の方に向き直った。
 「本日は、故・牧口常三郎会長の一周忌追善法要に際し、皆様、ご参集になり、師弟の道、まことに麗しく存じます。ただ今、懇ろに追善供養申し上げました。
 在りし日の牧口先生を思う時、万感胸に迫る思いがいたしますが、一言、所懐を述べますならば、法華経の行者として、大法流布のために殉ぜられ、まことにまれな、尊貴など生涯であった、といわなくてはなりませぬ……」
 場内は、寂として声をのんだ。
 遺族席には、老いた牧口夫人と、戦死した子息の未亡人と、その娘の五、六歳になる少女らがいた。牧口家は、女ばかりの三人家族であった。
 戸田は、この家族も、わが家族と思って、生涯、守っていかねばならぬと思った。
 ――牧口夫人は、一九五六年(昭和三十一年)九月十八日に亡くなった。七十九歳であった。その時、戸田は盛大な葬儀を催した。長年、気丈な夫人として、先覚者・牧口会長を守りきった労を讃え、自分の最大の友を失った、と泣いてこれを送ったのである。
 堀米の追悼のあいさつが終わると、一人の男が立った。
 「僭越とは思いますが、牧口門下の不肖の弟子の一人として、牧口先生追悼の辞を一言、述べさせていただきます」
 寺川洋三であった。戸田と並んで、牧口門下の第一人者と称していた最高幹部の一人である。教育家であった牧口会長の直系の弟子として、学会、教育者グループのリーダーと目されていた男であった。
 彼は、検挙され、拘置所送りとなり、やがて節を屈して釈放になった。
 彼は雄弁家であった。弁舌さわやかに、在りし日の思師・牧口の、偉大な教育者としての面影を語った。そして、「軍国主義者は日本の宝を殺した」と痛烈に戦争指導者を弾劾したのである。心ある者には、彼の弾劾は、軍部政府が倒れた今、占領下の安全地帯からの遠吠えに聞こえた。彼は小才子で、政治家であった。スタンドプレーヤーであった。妙法の厳然たる鏡に映し出された今も、それをカバーしようと、懸命になっていた。
 寺川の長々とした雄弁が終わると、続いて、一人の男が立ち上がった。宮島辰司である。
 彼も、寺川と同じく教育者グループの古顔であった。理論家とも称せられていた。同じく投獄され、退転した一人である。
 寺川と同様、心では戸田に一目も二目も置いていたが、外面では、われこそ牧口門下の直系であると自慢して、戸田を軽視していた。そうした人びとにとって、実に戸田の存在は、目の上のこぶに思えてならなかった。
 宮島は、咳払いしながら、思師・牧口の獄死から説き起こし、明治憲法、ならびに天皇制の非を訴えた。さらに、今こそ日本の真の民主主義化の時代が、幾多の尊い犠牲のうえに到来した、と論理的な口調で、追悼の言葉を結んだ。
 教育者グループの話は長く続いた。経済人グループは、いささか顔色がなかった。寺川や宮島の話は、聞こえのよい話で終始したが、恩師を遺志を継ぐ学会再建の方向には、触れようともしなかった。不祥な過去を語り、痛憤するだけであった。
 戸田城聖は、この時までチグハグな雰囲気を感じていた。だが、静かに人びとの話に耳を傾けていた。
12  長身の彼は、最後に立ち上がると、低い声で語り始めた。
 「私は寒い独房の中で、いつも御本尊様に祈っておりました。″私は、まだ若い。先生は七十三歳でいらせられる。どうか、罪は私一身に集まって、先生は一日も早く帰られますように″と。
 ところが、忘れもしない今年一月八日、私は取り調べの判事から、突然、『牧口は死んだよ』と聞かされたのであります。私は独房に帰って、ただ涙にかきくれました。この世に、これほどの悲しみがあろうとは、思いもかけないことでありました。
 先生は、死して獄門を出られた。不肖の弟子の私は、生きて獄門を出た。私が、何をなさねばならぬかは、それは自明の理であります」
 戸田は、ここで話を切った。そして、次の言葉を探すように、しばらく皆の上に目を馳せた。
 うつむいて、涙を拭いている者もいた。何を言だすかと、敵意すら、あらわにした目もあった。ポカンと、虚空を見ているような目もあった。彼は、″なんと話しにくい空気だろう″と思った。瞬間、話を打ち切ろうとさえ考えた。だが、言わねばならぬことが、堰を切ったように口をついて出てきた。
 彼は、一段と声を励まして言った。
 「顧みますに、昭和十八年(一九四三年)の春ごろから、先生は『学会は発迹顕本しなくてはならぬ』と、口ぐせのように仰せになっていました。
 私たちは、『学会が発迹顕本する』とは、いったいどういうことか見当もつかず、戸惑うだけの弟子でありました。先生は、『発迹顕本』の証拠をあげることもできぬ私ども弟子たちが、いかにも意気地なく、悪いように、おっしゃる時もありました。
 しかし、私たちは戸惑うだけで、どうすることも知らずに、今日まで来てしまったのであります。今にして、先生のお心が、少しもわかっていなかったことを知りました。私は、出獄以来、ほぞをかんでまいりました。
 しかしながら本日、私は、牧口先生にも、皆さんにも、はっきり申し上げられる。さすれば、何を悔やむことがありましょう」
 戸田は、きっと顔を上げた。部厚いメガネが、キラリと光った。皆の視線は、一斉に彼の口元に集まった。
 「われわれの生命は、間違いなく永遠であり、無始無終であります。われわれは、末法に七文字の法華経を流布すべき大任を帯びて、出現したことを自覚いたしました。この境地にまかせて、われわれの位を判ずるならば、所詮、われわれこそ、まさしく本化地涌の菩薩であります」
 戸田は、「四信五品抄」の一節を読み上げた。
 「請う国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿れ進んで過去を尋ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩なりあに熈連一恒きれんいちごうの者に非ずや退いて未来を論ずれば八十年の布施に超過して五十の功徳を備う可し天子の襁褓むつきまとわれ大竜の始めて生ずるが如し蔑如べつじょすること勿れ蔑如べつじょすること勿れ
 〈国中の人びとに求めたい。私の弟子たちを軽んじではならない。私の弟子たちは、その過去を探求すれば、八十万億劫という長期間にわたり、仏を供養した大菩薩である。熈連河やガンジス川の砂の数ほどの仏のもとで修行した衆生であることは間違いない。また未来を論じれば、八十年の問、一切衆生に無量の財宝を布施する功徳をはるかに超えて、五十展転の功徳を備えるのである。私の弟子は、たとえば国王の子が、産衣を着けているようなものであり、大竜の子が、初めて生まれてきたようなものである。すげさんではならない。蔑んではならない〉
 戸田は、この御文を通じて、御本尊を受持して広宣流布に励む学会員の境涯が、いかに偉大なものあるかを自覚させていったのである。
 「話に聞いた地涌の菩薩は、どこにいるのでもない、実に、われわれなのであります。
 私は、この自覚に立って、今、はっきりと叫ぶものであります。
 ――広宣流布は、誰がやらなくても、この戸田が必ずいたします。
 地下に眠る先生、申し訳ございませんでした。
 先生――先生の真の弟子として、立派に妙法流布にこの身を捧げ、先生のもとにまいります。今日よりは、安らかにお休みになってください」
 戸田の一言一句は、並みいる人びとの心を、電撃のように打った。みんなは、一瞬、毒気を抜かれたように、われを忘れて聞いていたが、その瞬間が過ぎると、ざわつきだした。ほっと、ため息をつく人もいた。ヒソヒソと隣の人に話しかける人もいた。
 ニヤリと口もとに笑いを浮かべて、戸田の法螺ほらが始まったと言わんばかりに、うつむく人もあった。生意気に何を言うかと、昂然と敵意を示す人もあった。
 皆、一瞬の表情であったが、彼らの心は隠せなかった。
13  秋の日は、既に深く静かに暮れていた。戸外は真っ暗になり、電灯がついていた。
 寺川や宮島のグループは、遺族にあいさっすると、真っ先に玄関へ立った。参会者は、一人ひとり逃げるように去っていった。
 戸田は、最後に丁重に、遺族を送り出した。本堂には、彼と数人の人が残った。
 「戸田さん、くれぐれもお体を大事にしてくださいよ」
 堀米は、彼にこう言って、庫裏へ行った。
 戸田は、ガランとした本堂に立った。自分の真意を汲んだ者の一人としていないことに、気づかねばならなかった。激しい孤独感が、またもや彼を襲った。
 数人の人びとと、彼は連れ立って駅に向かった。彼は、いつになく不機嫌であった。経済人グループの誰彼が話しかけても、返事すらしなかった。そのうえ肌寒い秋の夜気は、彼の心を、ますます引き締めた。
 駅近くになって、戸田は、やっと口を聞いた。
 「どうか諸君も、これから悔いない信心をしていただきたい。後になって、法華経に名を残すか、残さないかは、ここ二、三年の信仰いかんで決まってっしまう。
 信仰は体、事業は影であると大聖人は仰せなのだから、信仰を中心として、学会の発展と事業の成長を、ともに願っていこうじゃないか」
 戸田は、何を思ったか、急にそう言って、経済人グループを激励した。
 彼は歩みながら、未来への決意を秘め、自作の詩を一人、静かに歌い始めた。
  我いま仏の 旨をうけ
    妙法流布の 大願を
  高く掲げて 一人立つ
    味方は少なし 敵多し
  
  誰をか頼りに 戦わん 
    丈夫の心 猛けれど
  広き戦野は 風叫ぶ
    捨つるは己が 命のみ
  
  捨つる命は 惜しまねど
    旗持つ若人 いずこにか
  富士の高嶺を 知らざるか
    競うて来れ すみやかに
14  歌いつつ、彼は、かつてない感動を抑えることができなかった。あふれんばかりの情熱と、確信と、決意とに、身を震わせていた。
 ふと、彼の頭に、ある言葉が浮かんだ。
 ――師子は伴侶を求めず。暗々裏に伴侶は求めていたことからきている。彼の弱い心の仕業であったかもしれぬ。
 師子は伴侶を求めず――伴侶を心待ちにした時、百獣の玉、師子は失格する。
 師子には、絶対、孤独感はない。伴侶は求めずして、ついて来るものだ。広宣流布の実践は、師子の仕事である。自分が師子でなければならぬなら、伴侶は断じて求むべきではない。自分が真の師子ならば、伴侶は自ら求めて、自分の後についてくるにちがいない。
 要は、自分が真の師子であるかどうかにかかっている。まことの地涌の菩薩であるか、否かだ。
 ″俺は、師子でなければならない。師子だ。百獣であってはならない″
 彼は、一瞬にして悟った。
 連れ立った連中に、彼は力強く言った。
 「それでは、今日は、これでお別れしよう。来年十一月十八日の先生の三回忌には、盛大な法要を営もう。一年の辛抱だ。その時、学会の総会もやるんだ……」
 連れの人びとには、今夜の戸田は、どうかしていると思えてならなかった。不思議そうに、ただ、彼の顔をのぞくばかりであった。
 戸田は、生き生きとした表情で、人なつっこい笑顔を浮かべていた。
 今、戸田は、一周忌に集まった人びとの様相から、ただ一人、妙法広布へ、前進の指揮を執らねばならぬと立ち上がったのである。
 こうして、この夜は、戸田城聖が広宣流布の第一声を放った、歴史的一日となった。
 しかし、この時、誰人も、戸田の決意のただならぬものであることを知らなかった。集まった人びとは、法要をすませた心安さで、ただ家路を急ぐばかりであった。
 秋の夜の空気は、戸田の心と同じように澄んでいた。空には、星が美しく瞬き、彼の未来の輝く勝利を、祝福しているかのようであった。
 時折、木枯らしを思わせる風が、木々の葉を揺さぶり、灯火のついた窓を叩いていた。
 シラーは言った。
 ″一人立てる時に強きものは、真正の勇者なり″

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