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日蓮大聖人・池田大作

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占領  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
1  一九四五年(昭和二十年)八月三十日午後二時五分、ダグラス・マッカーサーは、早くも日本占領のため、アメリカ軍の輸送機パターン号に乗って、厚木飛行場に降り立った。
 二日前の二十八日には、先遣部隊として、通信・技術兵百五十人と、戦闘部隊の三十八人が、同じ厚木に着いていた。その目的は、マッカーサ一行の受け入れ態勢を整えることにあった。
 アメリカ軍が、厚木を指定してきたのは、この飛行場が、日本占領を開始するうえで、規模、設備、地理的条件などが最適と判断したからである。しかし、この指定のために、日本軍首脳部は、ひと苦労しなければならなかった。
 というのは、厚木の第三〇二海軍航空隊の隊員は、一億総決起を叫び、小園大佐の指揮のもとに、徹底抗戦の覚悟をしていたからである。この航空隊は、精鋭の戦闘機部隊であった。飛行場は、なんらの損害も受けていなかったし、戦闘力は十分に残存していたのだ。
 彼らは、ポツダム宣言受諾の動きを知って、憤激した。八月十五日正午の、天皇の詔勅放送の直後、内部の上級司令部に対して「……自今如何なる命令といえども一切これを拒否することを声明する」と発信した。
 また外部に対しては、十五、十六の両日にわたって、「国民諸子に告ぐ」と題し、「海軍航空隊司令」の名で「……天皇の軍人に絶対に降伏なし……ポツダム声明を承服することは……大逆無道の大不忠を犯す事なり」という内容のビラを、飛行機や自動車で撒き散らした。さらに、他の部隊にも呼びかけていた。いわば厚木航空隊は、反乱軍と化していたのである。
 航空司令部は、厚木航空隊の説得に手こずっていた。
 アメリカの最初の指定では、二十三日には、厚木へ先遣部隊が飛来することになっていたのである。
 したがって、日本の海軍首脳部は、一刻も早く事態を収拾するために、武力行使もやむを得ないと決定した。そして、厚木鎮圧のために、第一連合特別陸戦隊を用意するとともに、説得工作を続けた。
 二十一日になって、上層部の命令に従った隊員らは、厚木の飛行機のガソリンを抜いたり、プロペラを外す作業を始めた。
 ところが、事前にこれを知った飛行隊の三十三機が、厚木を飛び立って、陸軍の狭山、児玉の両飛行場に脱出していった。
 しかし、狭山に着陸した者たちは、勧告に応じて厚木に復帰し、児玉に降りた搭乗員たちも、徹底抗戦を断念し、東京警備隊に収容されたのである。
 厚木の兵士たちの復員は、二十二日から開始された。
 復員する隊員たちは、基地内の物資を持ち出し始めた。
 その混乱に乗じて、外部の民間人も、多数、地基に入り込み、手当たり次第に物資を持ち出していった。だが、誰もそれを制止することはできなかった。
 敗戦による飢餓が、人びとを醜い餓鬼道の行為に追いやったのである。わが国にとって、それは初めての経験であった。
 それでも二十三日には、復員も、どうやら完了して、厚木では、アメリカ軍の受け入れ準備に取りかかり始めた。
 小さな反乱は、厚木基地のほかにも幾つかあった。だが、いずれも説得され、鎮圧されていった。既に戦意は、完全に失われていたのであろう。
2  危険で、物騒だった厚木飛行場も、やっと平穏になった。そして、これらの動きには、全く無関心であったかのように、マッカーサーを乗せたパターン号は、銀色の翼を厚木飛行場につけた。
 百八十センチを超える長身のマッカーサーは、乗降口に姿を現し、タラップに足をかけた。大きな軍帽を目深に被り、カーキ色のシャツとズボンという軽装である。
 なんの武器も、身につけてはいなかった。サングラスをかけ、右手をズボンの後ろのポケットに当て、口にはコーンパイプをくわえていた。彼は、しばらくたたずみ、左右に目を配った。
 カメラマンたちのために、ポーズをつくることも忘れなかった。彼は、右手にパイプを握りながら、タラップを降りて、大地を踏んだ。ここに占領の第一歩をしるしたのである。
 この厚木飛行場には、三十日午前、先着していた第八軍司令官アイケルパーカー中将が、満面に笑みをたたえながら、マッカーサーを迎えた。
 「やぁ、ボブ。これで決着だね」
 マッカーサーは、低く響く声で、親しく中将に呼びかけた。
 スタイリストの将軍は、いささか得意であったにちがいない。終戦と同時に、連合国軍最高司令官に任命されていたのである。日本占領の一切の権限は、今、彼の掌中にあった。
 この新しい権力者は、ほとんど丸腰といってもよかった。だが、一見、大胆と見える彼の態度と行動は、実は、彼らしい計算のうえに成ったものであった。
 戦争は終わっている。彼は、戦争をするために来たのではない。今は、平和をもたらす将軍としての、鮮明なポーズをとる必要があった。
 彼は、記者団に声明した。
 「メルボルンから東京までは、長い道のりだった。長い長い、そして困難な道程だった。しかし、これで万事終ったようだ。……この地区(東京地区か)においては、日本兵多数が武装を解かれ、それぞれ復員をみた。日本側は非常に誠意を以てことに当っているようで、降伏は不必要な流血の惨を見ることなく、無事完了するであろうことを期待する」
 ここには、勝利者の傲慢も、高圧な態度もなかったように思えた。
 一つの戦いには勝った。しかし、また次への戦いにも勝たねばならぬ。勝利のなかに、しばしば次の戦いの敗因が含まれている。
 マッカーサーは、そのことを、経験上、よく知っていたにちがいない。彼には、目下、今後の日本占領の方針、政策の決定、実行が緊急事であった。
 しかし、彼は、少々、面食らっていた。戦争の終結が、予測より早すぎたからだ。
 彼の作戦計画では、二つの本土上陸作戦を敢行することによって、戦争の決着がつくものと考えていたからである。それは早くても、一年以上先の、一九四六年(昭和二十一年)末ごろになると予測していたのだ。
 アメリカは、既に日本占領に備えて、軍事政府要員を、陸・海軍で養成していた。カリフォルニア州のモントレーには、要員の最終的な訓練をする民事問題訓練所などが置かれていた。そこでは、多くの軍人や民間人スタッフに、日本の各県の地理、産業、経済、政治等に関して、精密な学習、研究をさせていた。アメリカは、用意周到に、作戦を進めていたのである。
 マッカーサーは、広島の原爆投下の直前まで、アメリカが原爆を保有していることすら知らされていなかった。戦争が、予想以上に早期に終結した今、彼は、日本に対して、いかなる占領政策を行うか、完全な青写真をもってはいなかったのである。
 彼は、マニラから厚木までの飛行機の中で、思索をめぐらせた。ある時は、機内を行きつ戻りつしながら、コーンパイプを吹かし、構想を口述し、ホイットニー代将に書き取らせていた。
 それは、およそ次のような内容であった。
 「まず軍事力を粉砕する。次いで戦争犯罪者を処罰し、代表制に基づく政治形態を築き上げる。憲法を近代化する。自由選挙を行い、婦人に参政権を与える。政治犯を釈放し、農民を解放する。自由な労働運動を育てあげ、自由経済を促進し、警察による弾圧を廃止する。自由で責任ある新聞を育てる。教育を自由化し、政治的権力の集中排除を進める。そして宗教と国家を分離する」
 この時の構想は、以後六年間の占領政策の基本として、それなりの実現をみたといえよう。この機内での構想には、米国による敗戦日本の近代化促進という傾向が強かった。
 これは日本にとって、まことに幸いしたといえる。占領政策には、さまざまな問題点があったとはいえ、彼は、なかなかの理想主義者であったわけだ。仮に日本が勝ったとして、わが日本の将軍が、アメリカに対する占領政策を行ったとしたら、果たして、どのような事態を引き起こすことになったであろうか……。
 当時の日本の将軍たちと、欧米の将軍たちとは、残念ながら、およそ思考の次元が、はるかに違っていたようである。
 前者は、愛国心の隠れ蓑の中で、コチコチに軍国主義思想に凝り固まっていた。
 後者は、今世紀の二国にわたる大戦で、近代戦争が、勝者にも敗者にも、ともに大きな悲惨と悲哀をもたらすことを、何よりも身に染みて知っていた。
 戦争は絶対にごめんだ――当時、全世界の人びとは、切実にそう叫んでいた。マッカーサー自身も、その例外ではなかったにちがいない。
 大戦は、勝者にも多大な犠牲を強いた。敗れた者は、さらに惨めであった。そのうえ、強大な破壊力をもっ原子爆弾の出現は、戦争が人類文明の滅亡すら、もたらしかねないと、彼は感じ始めていた。
 激烈な大戦の教訓は、軍人マッカーサーにも、少なくともこの時は、今後の人類の繁栄のためには、どうしても戦争放棄しか道はないと促していた。
 戦争の殺伐たる余燼のなかで、この連合国軍最高司令官は、ひとつの野心をいだいていた。それは、ともかく今、彼の掌中にある日本という国を、民主的で平和を希求する模範の国につくり上げてみようということである。
 特に、彼の最初の二年間の占領政策は、理想主義的な色彩が濃く、この時の彼の青写真が、日本に幸いした面は少なくない。
 マッカーサーは、九月二日、東京湾に停泊中の戦艦ミズーリ号上で降伏調印式を終えたあと、次のように声明した。
 「私たちにはいま、新しい時代が訪れている」
 「戦争能力の破壊的な性格は、科学的な発明が着実に重ねられるにつれて、いまや伝統的な戦争の概念を修正しなければならないところまで進んできている。
 人類は創世期以来、常に平和を求めてきた。国家間の紛争を防止し、解決するための国際的機構を作ろうという試みが、各時代を通じていろいろな形で行われてきた。そもそものはじめから、市民各個人の間ではそういった有効な手段が作り出されたが、もっと大きい国際的な規模での機構はまだ一度も成功したことがない。軍事同盟も、勢力均衡も、国際的な連盟組織もすべて失敗に終り、結果はにがい戦争の試練によるほかはなかった。
 この戦争は、そのような試練に訴える最後の機会だった」
 「私たちが肉体を救おうと思うなら、まず精神からはじめなければならないのだ」
 全日本国民は、開闢以来の敗戦という現実に直面したのである。恐怖と、混迷と、不信のなかにあるのは当然であった。
 だが、この数日間のマッカーサーの言動から、戦争中、アメリカ人を鬼畜呼ばわりし、また、そう思い込んでいた気持ちは、たちまちにして薄れていった。敗戦は事実、悲しかった。しかし、戦争が終わったという安堵感は、日に日に増して、生きる歓びが蘇ってくるように思えた。
 ところが、多くの人びとは、物事を沈着に、自分で考えるという習性を、いつの間にか失っていたのである。新しい事態に対しては、まず好奇心が先に立つにすぎなかった。それよりも、大多数の国民は、産業が麻痺し、社会生活が狂いに狂ってしまったなかで、一日一日を、保身のために、おののきながら、食糧の確保という飢餓との戦いに没頭しなければならなかった。
3  戸田城聖は、新しいこの事態に直面して、今、たどっている日本の運命の推移を、じっと目を凝らして見つめていた。そして、日蓮大聖人の御書のなかにある、一つの予言書を思い返した。
 「有る経の中に仏・此の世界と他方の世界との梵釈ぼんしゃく・日月・四天・竜神等を集めて我が正像末の持戒・破戒・無戒等の弟子等を第六天の魔王・悪鬼神等が人王・人民等の身に入りて悩乱せんを見ながら聞きながら治罰せずして須臾もすごすならば必ず梵釈ぼんしゃく等の使をして四天王に仰せつけて治罰を加うべし、若し氏神・治罰を加えずば梵釈ぼんしゃく・四天等も守護神に治罰を加うべし梵釈ぼんしゃく又かくのごとし、梵釈ぼんしゃく等は必ず此の世界の梵釈ぼんしゃく・日月・四天等を治罰すべし
 一国が正法を弾圧し、誤った教えを擁護し、さらにその誤った教えが一国に充満した時、その大罪を責めぬ守護神を、仏は梵天、帝釈等を使わして治罰する、という仏法の法理を、彼は知悉していた。
 ″マッカーサーという人物は、何者であろうか。この法理から見れば、梵天の働きをなす人、これがマッカーサーに当てはまる。それならば、彼は、将来の日本民族にとって、とりわけ正法護持の人びとにとって、マイナスをもたらす人ではない。なんらかのプラスをもたらす人であるはずだ″
 大宇宙の法則である仏法の鏡に照らし戸田は、そう確信しきっていた。
 この時、既に戸田は、ほかの誰よりも、マッカーサーという人物の本質を根本的に見抜いていた。以来、約六年にわたる占領政策には、さまざまな功罪はあった。しかし彼は、多方面にわたって仕事をこなし、一応、成功といってよい実績を残した。それは、韓・朝鮮半島における占領政策と思い合わせてみても、頷けるところである。
 マッカーサーは、厚木に到着した日、すぐに横浜へ向かった。横浜までの約二十五キロの道の両側には、マッカーサー一行の護衛のために、日本兵士が一列に並んで立っていた。天皇のために戦った兵士たちが、今は、異国の最高司令官を護衛しているのである。
 延々と続く完全武装の日本兵士の姿は、アメリカの将兵たちには、不気味な光景に映ったことであろう。だが、マッカーサーは、日本政府が調達した、何年製ともつかぬ古風なアメリカの高級乗用車リンカーンの中で、悠然としていた。
 横浜市は、戦災によって大きな被害を受け、建物の六〇パーセント以上が、灰燼に帰していた。そこにマッカーサーが来るのである。
 神奈川県庁と横浜市は、四日前の二十六日から、不眠不休の作業を続けなければならなかった。マッカーサーの宿舎となったホテルニューグランドや、総司令部にあてられた横浜税関ビル周辺の清掃だけではなく、占領軍の宿舎のための用地の準備も必要であった。
 多くの人が動員されて、その作業に従事したが、罪もないこれらの人びとは、何を考え、何を夢み、何を心に懐きながら、これらの奉仕のために体を動かしていたのであろうか。
 ともあれ、進駐の第日は、平穏無事に終わった。相模湾に集結していた数知れない連合国軍の艦船は、既に東京湾上に移動し、投錨していた。
4  戸田城聖は、これらの状況を、ラジオや新聞で、つぶさに知った。彼は、急激な世相の変化が起きつつあることを感じた。その翌日には、アメリカ兵や軍属が、東京の街角に姿を現したことも耳にした。
 言葉の必要から、空前の英語時代の到来も予測できないことではなかった。
 戸田は、事務所で、女子事務員たちに話しかけた。
 「いよいよ、アメリカの兵隊が、どっとやってくるが、どうだ?」
 彼女たちは、触れたくない話に触れられたように、一種異様な、悲しい表情をした。そして、戸田を見て、黙っていた。
 「道を聞かれたら、どうする?」
 戸田は、微笑しながら、のんきそうに言った。事務員たちは、なんだ、そんな意味かと、表情を崩した。いちばん若い子が、手を振って言った。
 「こうして、指を差して教えます」
 みんな、どっと笑いだした。
 「万国共通語か。便利でいいね。ぼくもそれでいくよ」
 戸田が言うと、年配の奥村が口をはさんだ。
 「それじゃ、日本人は、皆、口がきけないのか、と思うかもしれんよ」
 からかい半分に、戸田は話を進めた。
 「英語を教える人がいたら、どうだ、みんな習いたいか」
 「そりゃ先生、習いたいわ」
 「誰だってならいたいわね」
 彼女たちは、口々に言った。
 一人の若い社員が、元気よく言った。
 「大賛成ですなぁ」
 すると、奥村が重ねて、真剣な顔つきで言い始めた。
 「そうだ、先生、英会話の本を、さっそく出したら、どうでしょう?」
 「そうだ、そうだ、間違いなく当たりますよ。きっと、増刷、また増刷ということに決まっていますな」
 男の社員たちも、異口同音に勢い込んだ。
 「悪いプランじゃない。しかし、出版屋なら、どんなつまらぬ出版屋でも、そんなことぐらい考えているだろう」
 戸田は、世間話でもするように、のんきそうに言った。
 事実、数日とたたぬうちに、東京駅や新宿駅、上野駅の雑踏のなかで、たった一枚の紙に刷った、簡単な日米会話のテキストが、飛ぶように売れ出した。また、それより早く、既に終戦の翌日には、もう英語の会話学校を開いたところさえあった。やがて、何十種という英会話の本が、巷に氾濫したのも当然である。
 「アメリカ人と話が通じなければ、どうにもならぬ世の中になってくる。実際、意思の疎通がうまくいかないと、余計な苦労もしなけりゃならん。起こさなくてもいい、とんでもない悲劇も起きてくる。その必要から、驚くべき英語時代がやって来ることは、当たり前だろう」
 「だから先生、ここで一発、英会話といきましょう。電光石火、機先を制するのが、商売の道じゃありませんか。決定してください……」
 若い社員は、にわかに熱心に主張しだした。一同は、こんなわかりきったことを、何ゆえに戸田がためらっているのか、不思議でならなかった。
 「奥村君、君の意見は?」
 戸田は、奥村を顧みて言った。
 「私は絶対賛成です。通信教授の方も、この調子ならば、英会話の資金の方も十分ですし、紙の手配だって現金をぶつければ、高いといっても、なんとかなるでしょうし、絶好のチャンスだと思いますね」
 奥村は神妙に、会計責任者としての意見を述べた。
 「みんな賛成で、ぼくだけが反対か」
 戸田は、笑いながらとう言ってから、続けた。
 「もう遅いよ。出版屋という出版屋が、考えつくことなんだから、既に企画しているものもあるし、印刷にかかっているところもあるだろう。結局、ひどい競争になる。似たようなものを、二冊、三冊は買わないだろう。後から、同じような本を出すやつは、必ず損をする」
 「そうでしょうか? でも、惜しい企画だと思いますね」
 若い社員は、あきらめ切れぬようであった。
 「だから、もう一歩その先を考えるんだ」
 戸田の目が、メガネのなかでキラリと光った。
 「これから、真面目に、英語をしっかり勉強したいと思う人が、きっと多くなる。だから、誰でも勉強できる、わかりやすい親切な、すっきりしたテキスト風のものがいい。読むことも、話すことも、書くことも、統一し、関連して勉強できる、特色のある本が必要になってくるだろう。
 これだって、ぼっぼつ企画している本屋も、あるにちがいない。そこでだ、まず有能なスタッフを集めることだ。これは即刻、手を打とうじゃないか。今の時点で最高のものをつくろうじゃないか。通信教授による、万人向きの英語講座だ」
 社員たちは、なかなかのみ込めなかった。彼らには、戸田の言っていることが、どうしても遠い話に思えた。
 だいいち、スタッフといったところで、疎開してしまっているかもしれぬ、各大学の英語教師たちを探し出すのは、ひと苦労だ。万人向きの英語講座というと、受講者すなわち読者の対象が、極めて漠然としてとらえどころがない。
 それよりも、英会話の本ならば、手っ取り早い。どうみても、実現可能な、賢明な企画に思えるのだった。彼らの頭のなかには、「講座」実現の困難さが、険しい山のようにのしかかっていた。
 戸田は、黙り込んだ一同を見て、笑いながら言った。
 「みんな、敗戦ぼけしてしまったんじゃないだろうなぁ。そんな逃げ腰では、敗戦のこの世の中を、渡っていけないぞ」
 彼は、一人ひとりの顔を順々に眺め、ながら、厳しい表情になった。そして、さらに続けて言った。
 「困難というものは、自分がつくるものだ。それを乗り越えていくのも、ほかならぬ自分だ。困難を避ける弱虫に、何ができる! そんな弱虫は、この戸田の正学館にはいないはずだ。一切の責任は、私にある。事業がうまくいかなくなって、君たちを責めたことが、一度でもあるか。奥村君、今まで一度でもあったかい」
 土間の事務所は、しんと静まり返ってしまった。みんな下を向いてしまっている。しばらくして、奥村が小さな声でつぶやいた。
 「一度もありません。……先生、わかりました」
 「いや、わかつてなんかいない!」
 戸田は、不機嫌に、固く口をつぐんでしまった。
 白けた空気のなかで、彼は、しきりと電話帳に顔を押し付けていた。そして、あちらこちらとめくっていた。二、三の番号をメモに書き取ると、それを事務員の一人に渡し、電話をかけさせた。
 一、二の私立大学の文学部への電話であった。そして、心当たりの英文学の教授や講師の居所を突き止めた。ある人は、地方に疎開していた。
 ある人は、地方に疎開していた。ある人は、近郊へ移転していたし、ある人は、まだ復員していないことが判明した。
 これだけの動きにすぎなかったが、耳を澄ましていた事務員たちは、にわかに喜色を取り戻した。中心者の先駆を切る動きに、「英語講座」執筆陣への交渉準備の相談は、決まっていったのである。
 戸田は、また微笑をたたえて言った。
 「みんなの心が一つになれば、必ず事は成就する。計画したことが全部はできなかったとしても、必ず思いもかけぬ新しい道が、そこに開かれていくものだ。これが、大聖人様の仏法を信ずる者の強さであり、ありがたさだ。心配ない。断固として、やろうじゃないか」
 翌日、執筆者への交渉が始まった。終戦を迎えても、学校の再開がいつになるかわからない。手持ち無沙汰で、気の抜ける思いをしていた執筆者たちは、いずれも二つ返事で引き受けた。久しぶりに仕事らしい仕事にかかれる喜びを、顔に表して、協力的態度を示した。
 事務員たちは、事にあたってみて、自分たちの発想力の之しさを恥じた。
 事務所は、一段と活気を呈してきた。数学、物象の通信教授の方は、二万円を超す日もやってきた。「英語講座」の準備は勢いづいて、短時日に整った。
 九月二十五日の朝日新聞には、既に、その広告を掲載するまでに運んだのである。終戦の日から、わずか四十日余のことであった。
5  国中は、虚脱の底に沈んでいた。巷には、復員姿の青年たちが、あふれでいた。国民の大部分は、餓死を免れるために、食糧の獲得に狂奔していた。
 この時、戸田城聖は、着々と己の足場を固めてたのである。そして、国の遠い将来に、瞬きもせず目を向けていた。
 ダグラス・マッカーサーの、日本の非軍事化政策は、敏速に実施されていった。日本軍の陸・海軍の武装解除は、速い外地は別として、内地部隊約四百万の復員は、十月から十一月にかけて、ほぼ完了してしまった。こうして、予想以上にスムーズに、無血占領は成功したのである。
 八月十七日、東久邇内閣が発足した。この内閣は、やがて「一億総懺悔」という、全く国民の感情を無視したスローガンを掲げた。こんな無意味な言葉で、荒廃した民心を収拾しようとしたのである。
 多くの国民は憤激した。
 ″何が総懺悔だ。敗戦に導いた指導者たちこそ、国民のまえに懺悔し、謝罪すべきではないか……″
 確かに国民は、初めての敗戦の衝撃で、全く自信を失っていた。人心は動揺し、浮薄で無定見な言動が、華やかにもてはやされては消えていった。
 皇族を首班にした東久邇内閣は、天皇の名において軍隊をなだめ、武装解除を促進するには役立ったかもしれない。だが、国民大衆の困窮した生活再建には、ほとんど手を打つことを忘れていた。いや、忘れていたというより、なす術もなかったのかもしれない。そして、ただひたすらに、天皇制の護持に汲々とし、旧体制の維持に没頭していた。
 餓死線上に浮沈する、数千万人の人びとの日々の生活については、第二義的な考慮を払うにすぎなかった。
 降伏文書の調印は、九月二日、東京湾上で終わった。九月四日には、第八十八回臨時帝国議会が召集され、翌五日に、ポツダム宣言受諾の詔書に従うという、「承詔必謹決議」が満場一致で議決された。
 マッカーサーの占領政策は、間接統治という方式をとっていた。日本の行政、立法、司法の全権を、連合国軍最高司令官のもとに従属させる方式である。そして、政府に対する指令というかたちで、非軍事化政策から民主化政策へと進ませていった。
 占領軍の直接統治を避け得たのは、日本にとって幸運であったが、実は危機一髪のところだったのである。
 アメリカは、ドイツで行ったように、軍政を日本本土全域に施行する布告を、九月三日に発表する予定であった。軍政ばかりでなく、裁判も、一切、軍事裁判所で行う予定であったし、通貨も、日本紙幣と同等のものとして使用できる七種類の軍票が用意されていた。
 前日の夜、これらを知って、日本政府は慌てた。岡崎終戦連絡事務局長や重光外相が奔走し、ようやく直接統治でなく、間接統治とすることに変わったのである。アメリカでも、間接統治を一方式として、考えていたようではあった。
 結局、占領軍のもとに日本政府が存続する、という二重構造になった。そこで支配系統の混乱は避けられ、国民は、ひとまず日本政府の支配下に置かれるかたちとなった。この二重構造のもと、「敗戦」を「終戦」と言い換え、「占領軍」を「進駐軍」と呼んで、国民を刺激することを避けたのである。
 しかし、東久邇内閣の限界は、間もなくやって来た。
 GHQ(連合国軍総司令部)は、九月十日、マッカーサー元帥の名で、日本管理方針を声明した。翌十一日には、東条以下三十九人を、戦争犯罪容疑者として逮捕した。以来、戦犯容疑者の逮捕は、随時続行されていったのである。
 天皇の戦犯問題に関しては、占領軍は不気味なほど沈黙を守っていた。日本政府は、天皇の戦争責任について、焦慮していた。
 政府が、内外の声に不安を感じてきた、まさに、そのころ、天皇とマッカーサーとの会見が行われることになったのである。
 九月二十七日、天皇は、赤坂のアメリカ大使館に、マッカーサーを訪ねた。マッカーサーは、天皇とその通訳だけを迎賓室に招き入れた。彼が天皇と、部屋の中央で並んで立つと、カメラマンが三回、フラッシュをたいた。そしてマッカーサーは、暖炉の前のソファーに、天皇を案内した。
 後年、マッカーサーは、天皇の口から次のような言葉が述べられたのを聞き、少なからず驚いたことを記している。
 「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにおたずねした」
 マッカーサーは、ソ連や英国が提出した戦犯リストには、天皇がその第一号になっていたことを、よく知っていた。そして、戦後統治のうえから、天皇の扱いをどうするかを考えていた。しかし、天皇の、この発言に、マッカーサーは、深い感動を覚えたというのである。
 マッカーサーは言った。
 「いつでも、どんな相談でもしてください」
 当時の日本の国民性を、マッカーサーは知っていた。彼は、英国の強硬な主張、見解に傾きかけていたワシントン首脳部に、軽率な言動をせぬよう、警告していた。
 ″もし、天皇を裁判にかければ、少なくとも百万の軍隊が必要になるだろう″
 マッカーサーと天皇が、並んで写った写真と会見報道の記事は、二十八日付朝刊の一面を飾るはずだった。しかし、情報局が制限を加えたために写真は掲載されず、会見の報道記事は、一面トップではあったが、極めて小さく、当たり障りのない内容にとどまっていた。
 GHQが、この措置について外務省に抗議したため、翌二十九日の一面に写真が掲載された。そこには、軍服姿で腰に手を当てた長身の元帥と並んで、モーニングに身を包んだ直立不動の小柄な天皇が、対照的に写っていた。これを見て慌てた日本政府は、写真を掲載した新聞を発売禁止処分に付した。ところがGHQは、手厳しく処分の撤回を命じてきた。日本政府の面白は、丸つぶれになった。
 日本の間接統治が決まると、東久邇内閣は、何を思ったか、まず近衛師団を皇居を守護する禁衛府として残そうとした。さらに憲兵隊を残して、正規将校を編入して治安を守ろうとした。そして、軍人を警察官に転用しようと考えた。だが、そのたびにGHQから、禁止されてしまったのである。
6  このように政府は、先の写真事件以来、矢継ぎ早に出される「民主化」の指令を、理解するのに戸惑っていた。
 九月二十六日、一人の哲学者が獄死した。それは、自由主義の思想家・三木清である。
 彼は、友人の共産党員をかくまったという理由で、治安維持法により、豊多摩刑務所に投獄されていた。
 疥癬で悶え苦しんだとの一哲学者の死によって、なお多数の思想犯が獄中にあることが知らされた。軍国主義が崩壊したにもかかわらず、依然として、治安維持法が有効であったことに、世間は、あらためて気がついたのである。
 山崎内相は、外国特派員たちに対し、当然のことのように言った。
 「思想取締の秘密警察は、現在なお活動を続けており、反皇室的宣伝を行う共産主義者は、容赦なく逮捕する……政府形体の変革、とくに、天皇制廃止を主張するものは、すべて共産主義者と考え、治安維持法によって逮捕される」
 外国特派員は、唖然とした。
 今日から見ると、まことに奇怪至極な問答が、大真面目に行われたのである。そして、その詳報は、占領軍機関紙「スターズ・アンド・ストライプス」に掲載された。
 武装解除については、全面的に協力した日本政府も、それ以外のことは、すべて旧体制の復活を夢見ていたのである。天皇の戦争責任が、世界的な関心の的になっている時代に、彼らは、天皇制統治機構の維持に全力を注いでいたのだ。
 これほどの見当違いが、政府最高首脳によってなされていたのだった。時代の潮流を知らず、先見の明もない国家的指導者の愚劣な姿が、そこにはあった。
 十月四日、日本政府に対し、政治的自由、市民的自由、宗教的自由に関する制限の撤廃と、十日までに政治犯、思想犯を釈放することを指令した。これで、治安維持法の廃止、共産党の合法化がなされなければならなくなった。
 さらにGHQは、内相以下、全国警察首脳部の罷免と、特別高等警察の廃止を命じてきたのである。
 「総懺悔内閣」といわれた東久邇内閣は、この指令を行えば、国内の治安維持に責任がもてぬという、全く無責任極まる理由をもって、翌五日、総辞職してしまった。組閣以来、五十余日の命であった。
 この政変を契機として、いよいよ戦後の本格的な新しい変革が始まったのである。
 十月九日に、幣原内閣が成立した。十五日に、治安維持法は廃止された。そして、保護観察下の者も含め、政治犯約三千人が釈放されたのである。
 戸田城聖は、治安維持法廃止の十月十五日を境として、本当の意味で青天白日の身に戻ったわけである。しかし、そのことよりも彼を喜ばせたことがあった。それは、4日に発表された総司令部の覚書の一項に、信教の自由を指令してあったことである。
 信教の自由は、宗教がいかなる政治権力の拘束も庇護も受けてはならないと規定されて、初めて完壁なものとなる。宗教そのものの勝劣、浅深は、宗教の広場で決められるべきであって、そこに、いさかも権力が介入してはならない。真に力のある宗教は、信教の自由を欲し、力のない宗教は、権力と結託しようとする
 広宣流布は、信教の完全な自由のもとでなければ、達成は困難である――戸田は、かねてから、そう考えていた。
 今、その自由の日が訪れた。日蓮大聖人が御在世当時以来七百年、このような自由の時代は、ただの一度もなかった。
 しかし、この信教の自由も、日本国民の声が、これを実現する力となったのではなかった。全く、他国の司令官を通しての指令によるものであった。これこそ、梵天、帝釈の御計らいというべきであったろう。
 戸田は、事務所への道々、美しく澄んだ秋空を仰ぎながら、ひそかにつぶやいた。
 「梵天君、なかなかやるじゃないか」
 彼は、大きく息を吸った。これから先の彼の活動を妨げる力を、もはや国家権力は完全に失った
 さわやかな秋の日差しに、舗道を行く彼の足取りは軽やかであった。思いきり大きく手を振り回してみる。あの恐るべき栄養失調症から、健康がめきめき回復してきたことを、彼は感じた。
 「今度こそ、自由なんだ。本当に時が来た。今こそ、なすべきことをなさねばならぬ。必ずや、日本の不幸な民衆は救われるのだ。いな、絶対に救わねばならぬ」
 彼は、心につぶやき続けた。わが身の自由は、そのまま広宣流布への宗教活動の自由に通じる。自身の残された生涯が、そのためにあることを、彼は深く自覚していた。握り締めた手は、いつしか、じっとりと汗ばんでいた。
 この日、解放感を味わった、多数の無実の政治犯、思想犯があった。だが、彼ほど歓喜を深く覚えた者は、なかったにちがいない。
 戸田城聖は、誰よりも信教の自由を希求していた。その意義の大きさを、彼ほど自らの体験によって、よく知っている者はなかった。彼の歓喜は、それが全民衆に、どれほど多くの幸福をもたらすことになるかを、予見していたところから発していた。
 彼は、珍しく口髭を、しきりとなでながら歩いていた。出獄後三カ月余りたって、どうやら口髭は、二年前の状態に戻っていた。この感触は、二年の苦難が、ようやく過去のものとなったことを、文字通り肌で強く感じさせたのである。
 「ひとまず、これでいい……」
 彼は、独り言を言い、大きく胸を膨らませた。だが一方、虚脱し、不安におののいている民衆の心を思う時、自らの使命を強く感じて、いたたまれぬ焦燥に駆られるのであった。
 敗戦という未曾有の困難に処するにあたって、日本政府の指導者たちは、あまりにもだらしなかった。虚脱の度合いは、民衆よりも、むしろ指導者自身の方が大きかった。占領軍でもいなかったら、おそらく全国各所に暴動が起きていたにちがいない。
 今、民衆は、反抗すべき対象すら失ってしまっていた。無力極まる日本政府を相手にしても、米一俵出てくるはずもない。占領軍への反抗は、終わったばかりの戦争の再発にしかならない。はけ口のない不満を、民衆は、いやでも毎日、味わわねばならなかった。
 異常なほどの失意と絶望が、もはや日常的なものになってしまっていた。
 戸田城聖は、このような暗い底流が、八千万の国民の心に流れていることを知っていた。
 彼の鋭敏な心中には、人知れずうずくものがあった。
 道行く人びとの顔を、子細に眺めながら、彼は、心で呼びかけたい衝動に駆られた。
 ″待て、待て、皆さん……あなた方が悪いのでは決してない。……所詮は、誤れる宗教の害毒が、積もり積もって、この結果を招いたにすぎないのですよ。……と言ったところで、今、皆さんには、わかるまい。情けないが、わからない″
 彼は、危うく一人の若者とぶつかりそうになった。大きな包みを抱えた婦人が、彼の脇腹に包みぶつけて行った。
 戸田は、なおも思いに沈みながら、静かに足を運んでいった
 ″これが、一国の謗法の恐ろしさなんです。七百年前、日蓮大聖人が明らかにおっしゃっている。だが、誰も信用しなかった。信仰しなければならない時が、今、やっと来たところです……″
 彼は、誰かと語るように、自らの心に、なおも話しかけた。
 ″……そうなんだ、皆さん、私は知っている。間違いなく知っている。私は皆さんに、それを、今度こそは徹底してわからせるために、どんな苦労をしても生きていきますよ。安心なさい。
 ……差し当たってのことですか。
 ――まったく、どうにもならんが、梵天君が、応急処置くらいはできそうですよ。だって、それが彼の役目というものです……″
7  戸田城聖の心に、梵天として映ったマッカーサーは、極めて仕事熱心な人物であったようだ。
 彼は、職務に関係ない日本人とは会わなかったし、アメリカ人であっても、重要な訪問者か、側近にいる特定の人物以外とは、あまり会おうとしなかった。
 彼は、自分の任務遂行に必要のない場所には、出かけることもなかった。
 マッカーサーは、一九四五年(昭和二十年)八月の厚木到着から、五一年(同二十六年)四月に、朝鮮戦争(韓国戦争)をめぐるホワイトハウスとの対立で、トルーマン大統領から最高司令官を解任されるまでの五年八カ月の間、その任にあった。
 五〇年(同二十五年)六月に、朝鮮戦争が勃発する以前、彼が日本を離れたのは二回しかない。
 一回目は、四六年(同二十一年)七月、フィリピン独記念日の祝典に参加するためマニラを訪れたが、式典が終わると、すぐに日本に戻っている。二回目は、四八年(同二十三年)八月、大韓民国の建国宣言の式典に向かったが、彼は、その日のうちに帰ってきた。
 日本を離れないというより、彼は東京から離れることすらなく、各地で占領政策を実行している占領軍の駐屯地を視察することも、一度としてなかった。
 要するに、彼は、最高司令官としての彼の執務室以外には、どこへも出かけようとはしなかった。マッカーサーは、一日も休むことなく、公邸であるアメリカ大使館とGHQのある第一生命ビルとの間を往復していた。
 彼は、連合国軍最高司令官という、占領国・日本における、すべての権限を与えられた者として、日本を自分の理想とする国家に仕立て上げることを夢見て、そこにすべてを捧げようとしていたといえるだろう。
 もとより、戸田城聖がマッカーサーと会見する機会などは、全くなかった。また、マッカーサーも、当時、戸田城聖の名前など知る由もなかった。
 けれども戸田は、自身の心に影を落としたダグラス・マッカーサーに、不思議な親近感を覚えていた。それは、仏法の法理に照らして、戸田が、マッカーサーの歴史的な役割を、正確に見ていたからであろう。だが、むろん戸田を除いて、そのことは誰一人として気づくべくもなかった。
 戸田は、そのような不思議な人物に占領された、日本の運命に思いをいたした。
 ″ともあれ日本は、占領されてしまった。確かに、民族としてみれば、これ以上の悲劇はない。だが、人間の心も、修羅や畜生の生命に、占領されきっている場合がある。社会や国家が、悪魔の思想に占拠されている場合もある。その方が、より悲劇的なことだ。
 しかし、御書には、「大悪をこれば大善きたる」と仰せである。一国謗法の大悪は、日本に正法が興隆する前兆なのだ。この法理からすれば、やがて日本が、仏界に覆われていく日も、遠くはないだろう……″
 戸田は、一国の変毒為薬を心深く期していたのである。

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