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日蓮大聖人・池田大作

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終戦前夜  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
10  そのころ、アメリカ軍の進駐の日が決定した。そしてまた、変更になったりした。巷は、その騒ぎで、大きく動揺していた。占領軍の正体が、さっぱり想像もつかない。流言は飛び、三百数十万の東京都民は、ただ怯えきっていた。
 数百万の兵士の復員も、全国で始まっていた。戦時物資を兵隊毛布に包み、大きな荷物を背負った丸腰の兵士が、品川や、上野や、新宿の、プラットホームにあふれでいた。鈴なりの機関車、殺人的超満員の電車等々、混乱と無秩序が、あらゆるところで始まっていた。
 上大崎にある日本正学館の事務所は、ささやかではあったが、別世界のように明るく活気を呈していた。戸田が現れると、なんともいえない安心感が、事務所の人びとの顔に表れた。外は嵐である。だが、狭い事務所にいる聞は、彼らは吹きすさぶ風雨を忘れていた。家庭や街頭などより、どこよりも楽しい、居心地のよい職場であった。戸田は、人の心は敏感であると思った。
 ″将の一念が大切である。責任者の一念の心中が、職場や社会に、どれほど大きな波紋を描くかを、常に自省してかから、なければならない″
 このころ、戸田は、ひそかに決心していたことがあった。
 彼は、これまで、「戸田城外」と名乗ってきた。もともと、この名は、牧口常三郎と会う前に、筆名として使い始めたものであった。、しかし、牧口を生涯の師と定めてからは、城の外にあって野武士のごとく戦い、師匠を守り抜く決意を込めて、使い続けてきたのである。
 だが、今は既に、その師はいなかった。牧口の志を受け継いで立ち上がる弟子は、自分しかいないことを、彼は深く、深く、自覚していた。小さなこの職場にあって、壮大な未来を見すえていた。
 悠々と指揮を執る戸田の姿のなかには、彼の学会復興への決意が、みなぎっていた。そして、戸田を「城外」から「城聖」へと改めようと考えていたのである。
 戸田が、すき焼きの話をしてから、驚いたことに、五日とたたないうちに、すき焼きの″夢″が現実となる日が来てしまった。
 その日の朝、郵便配達員は、紐でくくった封書の大束を、ズシンと机の上に置いた。書留の受領印を押すだけでも、大変だった。いつもの日の七、八倍に近い。誰も信じられぬことであった。全国各地から、次々と届き始めたのだった。
 「わぁ、これで四百五十よ。まだ、こんなにあるわ」
 若い事務員が声をあげた。
 一同は唖然として、しばらく声も出なかった。
 「驚いたなぁ」
 奥村は、感慨を込めて言いながら、戸田に話しかけた。
 「先生、今日は一万を超えましたよ」
 「ワハッ、ハハハ……」
 戸田は笑った。
 「奥村君、牛肉を、どっさり探してこなけりゃ、ならんぜ。肉を手に入れる方が難事業だぞ」
 「その難事業は、決死の覚悟であたりますから、私にお任せください」
 六十に近い奥村は、胸を叩いて、元気だった。
 「酒を頼むよ、いい酒をね、二、三本……」
 戸田は、さらに付け加えた
 「今夜は、みんなに家に集まってもらおう。ここの栗川君にも来てもらおう。早く仕事をすませて、祝杯を上げようじゃないか」
 奥村は、買い物に行くために、元気に席を立とうとした。戸田は、追いかけるように、付け加えて言った。
 「そう、そう、菓子や果物を頼む。ご婦人のサイダーも忘れずにな」
 豪放に見える戸田は、細かいことまで、よく気を配る人柄だった。
 夕刻、戸田は、一同を引き連れて家に帰った。事務所の家主・栗川は、所用で不在であったので、言付けを残してきた。
 奥村は、幾枝を手伝って、大活躍の真っ最中だった。宴席は、二階に設けられた。用意が整うと、応接間で雑談していた一同は、二階に上がった。まだ、暑い季節である。だが、牛肉の匂いは、久方ぶりの食欲をそそった。鍋は、グツグツと音をたてて煮えていた。
 戸田は盃を含んだが、幾枝に言った。
 「コップにしよう」
 黄金色の、温かい色が浮かんだ。彼は、それを透かして見て、奥村に言った。
 「これは、いい酒だ。どこにあった?」
 「いいでしょう、極秘です」
 奥村は得意そうに、ニコニコしながら、鍋に箸を突っ込んでいた。
 「人間、おのおの、いろんな才能があるものだなぁ。今夜の奥村君は、最高殊勲賞としておこうか」
 戸田は、優しい目で奥村を見て言った。
 「先生、よかったですね。今度の仕事、本当によかった」
 奥村が、こう言った時、食卓を囲んだ誰もが、同じことを考えていた。
 そこへ玄関の戸が開いて、人声がした。事務所の家主・栗川だった。栗川は、二階に通されるなり、朗らかに叫んだ。
 「先生、すごいですね!」
 「まあ、一杯やってくれたまえ」
 栗川は、促されるままに、正面の席に座った。
 「いろいろ、君にも世話になったが、どうやら滑りだしたよ」
 戸田は、栗川の盃に酒をつぎながら言った。
 「いやあ、驚いたなぁ。すごいですね」
 栗川は、一座の人びとを眺め回し、誰に言うともなく、感に堪えないように言った。
 「こりゃ、奥村食糧決死隊長の戦果さ。人間、おのおの才能があるものだ、と感心していたところだよ」
 戸田の言葉に、栗川は首を振った。
 「いや、ご馳走もすごいけれど、それよりは、今日一日で、一万円入ったそうじゃないですか。わたしゃ、さっき家内に聞いて驚いた。すごいことになってきたもんですね。国がどうなるかわからんという、この時節に!」
 「うらやましいかね、栗川君」
 「まったく、うらやましいですね。材料なんて紙でしょう。安いもんだ。それが一日に一万、棚から、ぼた餅ですわ。誰だって、うらやましいですよ」
 「いくらうらやましがっても、誰にも、まねのできることじゃない」
 戸田は、ゆっくりとコップに酒を注ぎながら、にこやかに笑って言った。
 「そりゃ、そうかもしれないけれども、戸田さんの目のつけどころには敬服しました」
 才能には限りがある。運、不運も重要なカギになってこよう。賢者が、必ずしも成功するとは限らない。愚かそうに見える人が、思いもよらぬ大成をなすことだってある。それが、複雑微妙な世間のことわりだ。
 戸田は、頬から笑いの影を消して言った。
 「君たち、今日のことをどう思う。法華経のために牢屋にぶち込まれて、まる二年問、死ぬ苦しみで戦った、その功徳なんだよ。才能だけのものではないんだよ。功徳、なんだ。御本尊様は、ご存じなんだ。実に、すごい御本尊様なんだ」
 彼の両目は、キラリと光り、結んだ唇は気高かった。

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