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日蓮大聖人・池田大作

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終戦前夜  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
1  終戦の年の五月七日、日本本土への空襲が熾烈を極めていたころ、ヨーロッパにおいては、ドイツが無条件降伏した。さしもの大戦も、終局を迎えつつあったのである。
 全世界の耳目も、ヨーロッパから、日本の戦局に集中し始めた。日本だけが、世界を相手に戦争を続行することになったからである。
 しかし、対日戦の主役は、依然としてアメリカであることに変わりはなかった。沖縄戦の渦中にあった六月、アメリカ参謀本部では、最終的な本土上陸作戦を着々と進めていた。
 その戦略は、一九四五年(昭和二十年)秋十一月、南九州の沿岸へ上陸し、翌四六年(同二十一年)春には、関東平野に上陸を敢行するというものである。その兵力は、硫黄島や沖縄で味わった日本軍の頑強な抵抗からみて、かつてない大規模なものが必要と考えられていた。しかも、この上陸作戦には、アメリカ軍は二十万近い死傷者を予測していたといわれる。
 ところで、四月十二日に、ルーズベルト大統領が急逝すると、連合軍側、とりわけ米ソ間の協調関係には、次第に影が差し始めていた。新大統領に就任したトルーマンは、対独作戦が終わると、米ソの対立の兆しを早くも読み取っていたのである。
 この年二月、連合軍の三巨頭、ルーズベルト、チャーチル、スターリンは、ヤルタ会談を行っていた。ここで、ルーズベルトの要望により、戦争の早期終結を図るため、ソ連は、ドイツの降伏から二カ月ないし三カ月後に、対日戦に参加することが、ひそかに取り決められた。
 ところが、トルーマンとその幕僚は、終戦間際のソ連の参戦を嫌っていた。単独の力で、対日戦を勝利に終わらせたかった。
 それは、戦後のソ連勢力の拡大を、少しでも抑制するためにほかならない。できるものなら、対日戦を、ソ連参戦前に終わらせることが理想であった。アメリカは、戦争終結を急ぎ始めた。
 今にして思えば、既に米ソの対立は、この時から兆し始めていた。彼らは、戦後の世界に君臨することを考えていたのであろうか。それは、言うまでもなく、大国の横暴というものである。人間は、権力の絶頂に上ると、皆、暴君的な一面をもつのと同じように、大国になればなるほど、いよいよ暴君的な色彩を増す。
 一方、日本は、唯一の和平工作を、ソ連を仲介とするルートによって、連合軍と折衝することを望んでいた。だが、参戦への時機をうかがっていたソ連は、この交渉には、当然、消極的であった。日本政府は、そのような事情を夢にも知らなかった。
 のみならず四月五日には、外交問題の工作に対する閣内の不一致と、小磯首相の陸相兼務の要請が、陸軍の反対で実現不可能に陥ったことから、小磯内閣が総辞職してしまった。
 同日、ソ連は追い討ちをかけるように、日ソ中立条約の不延長を通告してきた。
 次の鈴木内閣は、戦局の絶望状態から、和平工作に積極的となった。五月十一日、十二日、十四日と、三日間の最高戦争指導会議では、ベテラン外交官で元首相の広田弘毅が、対ソ交渉にあたることが決定した。
 しかし、ソ連当局は、話に乗ってこなかった。焦慮のうちに、いたずらに日時が過ぎていった。日本政府は、連合国の動静すら分析できずに、外交交渉をしていたのだ。日露戦争の時と異なり、今度の大戦でわが国の和平工作が、ことごとく失敗を重ねていったのも、当然なことであった。
 むろん、いつの時代でも、最高指導部による外交が大切なことは、言うまでもない。しかし、一切の基盤となるのは、民間人と民間人との交流であり、人間と人間の信頼の絆である。いわば鉄の鎖のように強い、心の結びつきである。この民衆次元の幾重もの交流こそが、平和の大河となるのである。
 戦時には、外交交渉の当事者が戦争の渦中にある。和平工作の糸口を見いだすためにも、民間の自然な結びつきが大事になる。だが、独裁的な軍部政府の圧力は、それさえ封じ込めてしまっていたのである。
 大本営発表は、国民をことごとく愚弄したものであった。「神風」を期待し、「神州不滅」を叫びながら、最末期に至ると、「本土決戦」「一億玉砕」を、ヒステリックに呼号するしか能がなくなっていた。
 その一方で、日本政府は、ソ連を仲介とした和平工作に工作に一纏の望みをかけ、こっそり、不手際な工作をしていたのである。国民を愚弄した政治や指導者が、長続きしたためしはない。国民を欺いての戦争政策は、自縄自縛に陥っていたのである。
 このようないきさつのなかで、七月二十六日、米、英、中の三国の名において、ポツダム宣言が発表された。
 従来の連合国の戦争終結方式は、国民全体に対しての無条件降伏要求であった。だが、ポツダム宣言は、「日本国民」にではなく、「日本国軍隊」に対して無条件降伏を要求するものとなっていた。
 そこに付された諸条件は、日本の軍国主義の駆逐と、日本の民主主義の確立を目的とする理念を根本にしていた。
 それは、軍国主義の除去、日本本土の占領、かつて侵略によって得た領土の返還、戦争犯罪人の処罰、日本国内における言論・宗教・思想の自由、基本的人権の尊重、軍隊の完全な武装解除、再軍備のための産業の破壊等々、具体的な条件を明示していた。そして、これを受諾しない限り、連合軍による迅速、かつ完全な破壊あるのみ、と結んであった。
 この宣言の具体性に、日本政府は面食らった。受諾とも、拒否ともつかず、指導者層は動揺した。対ソ交渉を待っていた首脳部は、意思表示を、しばらく見合わせることに一決した。
 また、政府は、報道機関に対しては、宣言の一部を削除し、抑えた扱いで、二十八日付で発表させた。しかし、国民の動揺は、覆うべくもなかった。
 徹底抗戦を叫ぶ軍部は、政府のあいまいな態度は、軍の士気にかかわるとして、鈴木首相に明確な意思表示を要求した。
 首相は、記者団に向かって、「政府としては、何等重大な価値あるものとは思はない。ただ黙殺するのみである。われわれは断乎戦争完遂に邁進するのみである」と、談話発表を行った。
 三十日の新聞に、この談話は掲載されたが、同時にラジオの電波は全世界に飛んだ。
 軍部政府は、ポツダム宣言を冷静に分析、理解する余裕すら失っていた。彼らは、自らの地位と面子の維持に、ただ汲々としているだけであった。戦争の終結方式に関して、彼らには指導理念などなかった。何もかもが、支離滅裂であった。いや、それよりも国民の実生活が、はるか以前から壊滅状態にあったのである。
 いつの時代にあっても、指導者階層は、常に冷徹な理性をもって、民衆の幸福と、平和への方向の分析を怠つてはなるまい。その決断に臨んでは、大感情を集中し、それぞれ命をかけて事に臨むべきであろう。民衆の利益を根本とした思索であれば、衆議も速やかに決しなければならないはずだ。
 日本が、ポツダム宣言の受諾を拒絶したことによって、アメリカ軍の空襲は、にわかに大規模となってきた。
 七月三十日には、アメリカ機動部隊から、延べ二千機が全国各地に来襲した。三十一日にも空襲は続いた。
 戸田城聖は、いくら空襲警報が鳴っても、防空壕には入らなかった。家族は、そのたびに防空壕に待避するよう彼を促した。しかし、彼は頑として動かなかった。豪胆というのではない。使命に立つ彼には、爆弾で死ぬということは絶対ないとの、強い確信があったからである。家族の待避については、彼は何も言わなかった。
 彼は、戦況については、一見、無関心のごとくに見えた。訪ねる人びととは、沈着に、そして独特のユーモアを交えながら、戦況について、世情について、日常生活について、さまざまに語り合った。しかし、心中には、来るべき時を感じていたのである。
2  八月に入ると、一日夜から二日にかけて、六百機にのぼるB29が、鶴見、川崎の工業地帯、さらに水戸、八王子、立川へも分散攻撃をした。また、遠く富山も、この日、空襲され、市は炎上した。
 五日夜から六日には、B29四百機が、関東では前橋に、関西では西宮と、本土全域にわたり、思うがままに蹂躙した。
 この八月六日、恐るべきことが広島に起きた。この日、この朝、人類史上初めて原子爆弾が実戦使用されたのである。わずかB29三機が、広島上空に飛来し、落下傘が空に浮かび、閃光が走った瞬間、広島は一瞬にして廃雄と化してしまった。
 その惨状は、この世のものとも思えぬ、地獄そのものであった。一発の爆弾が、非戦闘員である市民、二十万の死傷者を生んだのである。戦争を呪う声は、巷に満ちた。
 誰よりも、この事実に驚いたのは大本営であった。寝耳に水である。
 当初は、この強力爆弾が、なんであるかも理解できなかった。「広島へ、敵、新型爆弾」と発表された。数人の原子物理学者は、東京から広島に飛んで、調査の結果、原子核の爆発による最初の原子爆弾であることを証言した。
 この新型爆弾への対策として、防空総本部は十一日、「白衣を着て、横穴へ待避せよ」などと発表しただけであった。
 各新聞社とも、この日あたりから、社説などで、ポツダム宣言に、やっと触れだした。世論が、ポツダム宣言に徐々に耳をそばだててきたからである。
 トルーマン大統領の原子爆弾投下は、戦争の早期終結を狙ったものではあった。しかし、さらに深く考えてみると、必ずしも早期終結のため、ばかりでなかった。
 彼は、日本の敗戦が時間の問題であることを、百も承知であった。ただ、終戦処理にあたって、ソ連の発言権を封じることを考えていたのである。つまり、ソ連の参戦を見ることなく、勝利を収めたかった。そのためには、戦争終結を急ぐ必要に迫られていたのである。
 既にアメリカは、ポツダムで三巨頭会談が開かれた前日、つまり七月十六日に、原爆の実験に成功していた。
 対日戦を早期に終結させるとともに、戦後の国際政治で、ソ連に対して優位に立つ――それには、原子爆弾が一石二鳥であった。
 広島の一弾は、第二次大戦の終幕ではなく、米ソ冷戦の序幕の轟音ともいえた。その犠牲となったのが、日本であったのである。
 七百年前の蒙古襲来の際、日本は、攻撃武器としての火薬の洗礼を受けた。そして今、原爆という人類史を画する破滅的な兵器の惨禍を被ったのは、日本が世界で最初となった。
 この不運な宿命に思いをいたすならば、日本こそが、戦争のない平和な世界を、一日も早く現出しなければなるまい。われわれは、その崇高な使命をもつ一員であることを、強く自覚したいものだ。戦争だけは、今後永久に、断じて起こしてはならないのである。
 ところが、当時の軍部政府は、広島の一発だけでは、自分の国が、いかなる情況にあるかも気付かなかった。
 原爆投下のその日、トルーマンの声明が、ラジオで発表された。
 「われわれは、この科学史上最大の賭けに二十億ドルを投じ――そして、勝った。(中略)今やわれわれは、それがいずれの都市であっても、日本が地上に保有するすべての生産施設を、迅速かつ完全に消滅させる用意が整った。われわれは、彼らのすべての造船所、工場、そして、通信網を破壊するであろう。われわれは、本気である。われわれは、日本の戦争遂行能力を徹底的に壊滅させるであろう。
 七月二十六日に、ポツダムで日本に最後通牒を出したのは、日本国民を完全なる破壊から、救わんがためであった。しかし、日本の首脳部は受諾を即時拒否した。もし、彼らがこの宣言条項を受け入れなければ、かって地球上で経験したことのない滅亡の雨が、彼らの上に降り注ぐことになるであろう」
 原子爆弾があることを表明した、このラジオ放送を、日本の首脳部は、聞いていたはずである。だが政府は、単なる威嚇として、黙殺するほかに知恵はなかった。
 原子爆弾の第二弾は八月九日、長崎に落ちた。ここでも、一瞬に十数万の死傷者をみたのである。
 また、この日の未明に、ソ連は宣戦布告し、満州(現在の中国東北部)に侵入して来た。手薄な関東軍の戦線は、ひとたまりもなく総崩れとなった。
 この九日の午前十一時前、緊急に最高戦争指導会議が開かれた。
 原爆投下、そしてソ連の参戦は、軍部に深刻極まりないショックを与えた。これで、万事休したのである。望みを託していた和平工作の唯一のルートも、消滅してしまった。本土決戦を、あくまで呼号し続けてきた、その作戦も無に帰してしまった。
 というのは、元来、本土決戦の戦略は、ソ連の参戦がないものとして立てられていたからである。すなわち、日ソ中立維持を大前提としての作戦であった。これで、手も足も出ない状態となったわけである。もはや、道は無条件降伏に行き着くほかはなかった。
 この日の最高戦争指導会議で、初めてポツダム宣言の各条項が、真剣に検討された。それをめぐって、軍部と政府は対立した。
 外相案は、天皇の地位の保障だけを条件として、他の各項の一切を、のむべきであるとの主張であった。
 一方、陸相、参謀総長等は、さらに自主的な武装解除、日本人の手による戦争犯罪人の処罰、ならびに連合軍の日本占領に対する制限などを、条件とすべきであると主張した。
 最高戦争指導会議に続き、午後二時半から二回にわたって、臨時閣議が続けられた。そして、深夜十一時五十分に聞かれた御前会議で、外相案、つまり天皇の地位保障を条件とすることに、決定をみたのである。
3  この八月九日は、日本の運命を決する日となった。未明には、ソ連の参戦、午前十一時には、長崎への原爆投下、深夜に至って、わが国最初の、他国への降伏が決定したのである。惨めな敗北の日であった。
 翌八月十日、午前六時四十五分――日本は、中立国を介して、ポツダム宣言受諾を連合国側に伝える公電を打った。また、この日、その発表を、海外放送を通じて行った。そして「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に」という条件を付した。この発表もまた、国民には知らされなかった。
 十一日付の朝日新聞には、情報局総裁の談話として「政府は、固より最善の努力を為しつつあるが、一億国民にありても、国体の護持のためには、あらゆる困難を克服して行くことを期待する」と掲載されていた。
 同じ紙面に「全将兵に告ぐ」として、陸相の激越な布告も載っていた。
 「事ここに至る又何をか言はん、断乎神州護持の聖戦を戦ひ抜かんのみ 仮令たとい草を喰み土を噛り野に伏するとも断じて戦ふととろ死中自ら活あるを信ず」
 国民は、二つの記事を同時に読んで、何がなんだか、わからなかった。ただ、非常事態が迫ったことは、直感せざるを得なかった。事実、史上最大の激動期に入ったのである。まさに国難であった。
 日本国の申し出に対し、連合国の回答は、ラジオで、十二日午前零時四十五分に傍受された。
 「降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる措置を執る連合軍最高司令官の制限の下に置かるるものとす」「最終的の日本国の政府の形態は『ポツダム』宣言にしたがひ日本国国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとす」と、アメリカのバーンズ国務長官の名において通告してきた。結局、留保条件は拒否され、天皇の地位についての回答は、全くなかった。
 この回答をめぐって、十二日の閣議は、激しい論争が続いた。さらに十三日の最高戦争指導会議と閣議でも、その激論は結論が出ないまま、持ち越された。
 激論の主題は、徹頭徹尾「国体の護持」問題に絞られていた。受諾派は、護持できると主張した。抗戦派は、護持できぬと強く反駁した。
 「国体」という意義も、それぞれの主張する内容は、異なっていたにちがいない。ある人は、天皇主権の天皇制を意味していた。ある人は、極端な天皇親政と、とっていた。ある人は、明治憲法のうたった「天皇の神聖」から、天皇神格化を基本観念としていたのである。
 しかし、激しい論争の末、「国体」の観念は実質的な意味を帯びてきて、最後には、国体の護持とは、政治的な意味を離れた、天皇および皇室の存続という一線に落ち着き、かつ、これが彼らの最も大きな悲願であることに一致した。要するに、もはや戦争が終結の段階に入ったことを、認めざるを得なかったのである。
 八月十四日、最後の御前会議で、天皇の裁断というかたちで、無条件降伏は決定した。そして同日、午後十一時、遂にポツダム宣言無条件受諾の詔書が発布された。
 事こことにいたっては、後から何を言っても無意味である。だが、あえて言えば、それまでにも戦争終結の機会はあったが、軍部の暴走を抑え、和平への大英断を下すことができる指導者がいなかったのである。残念なことには、明治の名外相、小村寿太郎のような、命をかけて活躍する人物がいなかったのだ。
 また、陸軍と海軍との葛藤も、はなはだ見苦しかった。陸軍のある将校は、「敵はアメリカと、帝国海軍となり」と、広言して憚らなかったという。最初から、陸海軍に団結もなく、自ら敗因をつくっていたのである。
4  八月十五日朝早く、戸田城聖の家に一人の訪問者があった。栗川といい戸田の事業上の長年の友人である。
 栗川は、戸田の家に近い、目黒駅近くの電車通りに店舗をもっていた。品川区上大崎の一角にあるその店舗は、企業整備のため、長い問、開店休業の状態となっていた。戸田は、そこを、戦前から経営してきた出版事業を再興するための事務所として、借りたのである。かつて彼は、「日本小学館」という出版社をもっていたが、新しい社名を、「日本正学館」とした。
 栗川は、勢いよく玄関の、ドアを開けて、大声で言った。
 「おはよう。いよいよ終わりましたぜ」
 こう叫びながら、彼は茶の聞に飛び込んできた。
 「おはようございます。ずいぶん、お早いですね、栗川さん」
 幾枝は、朝餉の支度をしていた。
 「奥さん、ラジオを聞きましたか」と、彼は縁側に腰を下ろしながら言った。
 「いいえ」
 「まだ知らないんですか。今朝のラジオで言っていましたが、天皇陛下の重大放送が、お昼にあるんですよ」
 「なんでしょう?」
 「いよいよ、お手上げですよ」
 栗川と幾枝の話し声を聞きつけて、戸田は二階から下りてきた。
 「栗川君、また、やけに早いじゃないか」
 「寝ていられませんよ。戦争も、やっと終わりました。お昼に、陛下の放送があるんですよ……」
 彼は、ここで声をひそめて、戸田に言った。
 「……結局、無条件降伏だそうですね。タベ遅く、新聞社の知り合いの記者が寄ってくれたんです」
 「ほう」
 戸田は、栗川の話に、一瞬、緊張した。が、たちまち平静に戻って、笑いながら言った。
 「栗川君、えらく喜んでいるじゃないか」
 「そりゃそうですよ。これで、青天白日ですもの」
 「誰が?」
 「われわれ国民が……」
 この日の昼、国が敗れたことを知って、喜ぶ人、慟哭する人、さまざまであった。しかし、空襲と食糧難を、楽しんでいける人間など皆無のはずだ。人びとは、ともかく自由な、平和で幸福な生活を望んでいた。その願望は、一切に先立つ本能とも見えた。
 「まったく、B29と戸田さんの入獄には、苦労しましたよ」
 栗川は、肩をすくねて言った。
 三人は、どっと笑い声をあげた。
 彼は、しばらくして、考え深そうに、戸田に言った。
 「無条件降伏ということになると、どうなるんですか」
 「負け戦になってしまったんだから、これからが大変だろう」
 「いやだなぁ。これからまた、ひと苦労か」
 「総罰だ。日本一国の総罰だ。いよいよ末法の大白法が興隆する時になったんだ。大聖人様の大仏法が、本当に光り輝く時が到来したんだ」
 「われわれ、救われます?」
 「勝負だよ。信心だよ」
 戸田は、声を押し殺して、力強く言った。
 栗川は、浮かぬ顔をして帰っていった。
 戸田は、勤行と食事を終えると、着物を着替えた。
 「事務所へ行ってくる。人が来たら事務所へ回してくれ。いよいよ、戦闘開始だぞ」
 彼は、妻にそう言って、暑い夏の日差しのなかへ出ていった。
5  終戦のいきさつは、大多数の国民は、知る由もなかった。ただ十五日の正午に、天皇による重大放送があると聞かされていた。この放送で、いよいよ最後の決戦の激励があるものと期待していたのだ。
 ところが、ラジオから流れてくる聴き取りがたい天皇の声を耳にした時、難解な言葉の意味は取りかねたが、それでも「堪え難きを堪え」などの片言隻句を総合して、戦いに敗れたことを直感したのであった。
 開戦も、寝耳に水であった。終戦も、同じく突如として告げられ、惨劇の幕が下ろされた。しかもいずれも天皇の名に、おいて行われたのである。
 この日、日本晴れであった。盛夏の真昼、国中は、一瞬、しんと太古のように静まり返ったのである。
 まさに青天の霹靂へきれきであった。
 初めは、誰も無言のままであった。そして、多くの人は鳴咽し、号泣した。必勝を信じ、あらゆる犠牲を払った、長い耐之生活が、なんの予告もなく、突如、敗戦という現実に遭遇したための、無念の涙ともいえよう。
 そして、静かにラジオの前を離れるのだった。虚脱した、やるせない怒りと、戦争からの解放感が、こもごも彼らの胸中に去来した。悲しみが、すべてをつつんでいるのでもない。喜びが、すべてをつつんでいるのでもなかった。何か、透明な空をつむような思いであった
6  戸田城聖は、夕刻、家に帰ってきた。
 タ閣が迫っても、もはや暗幕を引く必要はなかった。家々の窓は聞かれ、どの部屋も明々と電灯をつけ始めた。何年ぶりのことであろう。人びとは、まぶしい思いで夕餉に向かった。心は重く、辺りだけが明るく華やかだった。
 不気味な空襲のサイレンも、B29の高度飛行独特の爆音も、もはや聞かなくてすんだ。本当に信じられない思いであった。幾年にもわたる、恐怖と不安の持続は、この国土から現実に去ったのである。
 戸田は、夕食を終えると、二階で机に向かっていた。白紙に鉛筆で、何か書き始め、それを消しゴムで消しては、また書いた。それは、近く新聞に掲載する予定の、通信教授の広告の草稿である。彼は、それを丁寧に畳むと、ごろりと横になった。
 彼の頭には、「立正安国論」の御金言が焼き付いていた。
 「世皆正に背き人ことごとく悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所をして還りたまわず、是れを以て魔来り来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず
 〈世の人びとは、皆、正法に背き、ことごとく悪法に帰している。それゆえに、守護すべき善神は国を捨てて去ってしまい、聖人はこの地を去って他の所へ行ったまま帰ってこない。そのために、代わって魔や鬼神がやって来て、災いが起こり、難が起きているのである。実にこのことは、声を大にして言わなければならないことであり、恐れなければならないことである〉
 さらに「弥三郎殿御返事」の一節が浮かんだ。
 彼は起きあがって、手に取りそのぺージを広げた。
 「されば今の日本国の諸僧等は提婆達多・瞿伽梨尊者くぎゃりそんじゃにも過ぎたる大悪人なり、又在家の人人は此等を貴み供養し給う故に此の国眼前に無間地獄と変じて諸人現身に大飢渇・大疫病・先代になき大苦を受くる上他国より責めらるべし、此れはひとえに梵天・帝釈・日月等の御はからひなり、かかる事をば日本国には但日蓮一人計り知つて始は云うべきか云うまじきかとうらおもひけれども・さりとては何にすべき
 〈そうであるから、今の日本国の多くの僧侶たちは、釈尊に反逆した提婆達多ゃ、釈尊を捨てて提婆達多の弟子となった瞿伽利をも超える大悪人である。また在家の人びとは、これらの僧侶を尊び供養しているから、この国は眼前に無間地獄の姿となり、人びとは現在の身に大飢渇、大疫病など、これまでの時代にはなかった大きな苦しみを受け、そのうえ他国から責められるであろう。これは、ひとえに大梵天・帝釈天・日天・月天などの計らいなのである。こうした道理を、日本国ではただ日蓮一人だけが知って、初めは言うべきか否か、あれこれ思いめぐらしたが、そうかといって、どうすればよいのか〉
 七百年前の、日蓮大聖人の金言に示された原理の通り、予言書である。今金言に示されている原理の通り、一分の違いもなく、実証されたのである。
 一国が滅亡してしまった。建設は、貴重な血と汗の結晶を積み重ねて、ようやく出来上がるものだ。しかし破壊は、すべてを一瞬にして灰にしてしまう。日蓮大聖人の予言が、あまりにも厳しく、そのまま的中してしまった。
 戸田は、日本が二度と再び、同じ悲惨を繰り返さないためには、この大聖人の予言書を、断腸の思いで拝すべきであると思った。とりわけ、一国の指導階層は、一切の感情のわだかまりを捨て、その偏狭な、高慢な態度を正すべきであると叫びたかった。
 ″時が来ている! 「大悪をこれば大善きたる」だ!″
 彼は、大白法興隆の時が、遂に来た感を、強く全身で確信していた。
 日本にとって、この事態は有史以来の出来事であった。だが、この最大の不幸の根本要因は、日蓮大聖人の生命哲理に、既に、あまねく説き尽くされていた。
 してみれば、この生命哲学の根本の原理によって、すべての不幸な民衆を、未曾有の幸福の彼岸に運ぶことも、また必然の理としなければなるまい。
 大聖人滅後六百六十数年――その間、誰一人、現実には、その予言の真実を覚知しなかった。あるいは理論として、概念的には説く人があったかもしれない。
 しかし、その生命哲理の偉大さを、如実に知り、悟らざるを得なかったのは、いったい誰か……。
 戸田は、深い思いにふけりながら、感動に身を震わせていた。
 ″まさしく、時は到来した。この時を外して、未来永劫に広宣流布の時はない。この時を外してはならない。絶対に、この時を外してはならない。妙法広布の条件は、ことごとくそろった……″
 彼は、窓から外を見た。家々の窓は、開け放たれ、明るかった。彼は窓辺に立って、大きく呼吸した。
7  終戦のこの時、内地、外地における日本陸海軍の兵力は、総数七百二十万に達していた。除隊者などを含めると、動員された兵力は、実に一千万を超える計算になる。これは、当時の日本人の、男子総数の四分の一以上にあたる。ほとんどの家が出征兵士を送っていたわけである。これは、ドイツの動員比率と、ほぼ同じであった。すなわち、日本の歴史始まって以来の動員数であったわけだ。
 一九四一年(昭和十六年)以降の太平洋戦争による死者は、陸、海、軍属を合計すると、百八十五万四千有余人であった。負傷者、行方不明は、六十七万八千余人である。このほか、空襲や原爆の犠牲者、また沖縄、満州などで戦火を浴びた、非戦闘員等の死者を加えると、軍、民合わせて二百五十万を超える尊い人命が失われたことになる。
 以上が、第二次大戦によって失われた、わが国の人命の総決算であった。からくも生き残った国民は、これからの時代に、この戦争によってもたらされた、深刻な被害を担わなければならなかった。
 また、戦災ならびに強制疎開にあった家は、約三百万戸であった。
 国民一人ひとりは、戦況の推移には、深い関心をもっていた。しかし、長い間、何も本当のことは知らされなかったので、真相は全くわからなかった。そこへ、いきなり、「戦争は終わった。負けた」と聞かされたのである。
 そのショックは深刻であった。と同時に、予想される外国軍隊の占領等の新事態に、前途の不安は大きく募るばかりであった。
 十五日夜、灯火管制は、解除になってはいなかった。だが、家々は、灯火をつけ始めていた。誰も、心からの平和の喜びが、湧くはずもなかった。終戦とはいえ、あまりにも犠牲が大きすぎた。
 この日を境として、国民の一人ひとりの心のなかで、次の戦いが始まったのである。まず、一切の権威に対する不信が宿った。ある人は、宿命論者に早変わりした。ある人は、信念に殉ずることを考えた。
 十五日の未明には、阿南陸相が自決した。二十四日に、田中静壱陸軍大将、海軍では、十六日に軍令部次長の大西滝治郎中将などが自決した。
 なお、技術士官、看護婦などにも自決者が出た。そして、陸海軍関係者のなかで自決した人の数は、六百人を超えたといわれている。
 これらの軍関係者とは別に、民間の極右翼の集団自決があった。彼らは、その信念とした思想の破綻から、自らを自決に追いやったといえる。
 尊攘同志会の八人は、十四日の御前会議で終戦が決定したことを聞くと、翌十五日未明、「尊攘義軍」を名乗って、木戸幸一内大臣の屋敷を襲撃した。木戸内大臣こそ、亡国の元凶とみなしていたからである。
 しかし、この襲撃が失敗に終わると、彼らは、十七日に芝の愛宕山に登り、新たに加わった二人の少年を含め、総勢十人で二十二日まで立てこもった。
 日本の各地で、降伏を認めず、戦争続行を叫ぶ動きが散発しており、彼らは、その情勢を見守っていたのである。
 だが、警官隊に包囲され、二十二日夕刻、警官隊が発砲するや、彼らは素早く手摺弾で自決した。
 さらに翌二十三日の午前、明朗会の会員など十二人が、皇居前で自決した。また大東塾の十四人も、二十五日未明、明治神宮から程近い代々木練兵場の一角で自刃した。
 これらの極右翼の行動は、いずれも国家神道の理念に基づくものであった。軍部は、その国家神道を使って、大東亜共栄圏の野望を達成しようとした。
 哀れにも彼らは、そのような軍部に利用された果てに、国家神道に殉じたのである。
 確かに人間は、自らの主義主張のためには、死ぬことさえできる動物だ。
 人間から思想を取ってしまえば、根無し草のような肉体が、はかなく生存を続けるにすぎない。
 だが、思想ほど恐ろしいものはない。一片の思想が、人びとを死に追いやることもある。思想は、いわば魔力を備えているのかもしれない。
 しかも、さらに恐るべきことは、人びとは、自己の人生をかけた思想の正邪、善悪、浅深について、あまりにも無関心でありすぎた。今、戦争の指導理念に仕立てられた国家神道は、その無力を余すところなく露呈して、遂に悲惨な結末をもたらしてしまったのである。
8  戸田城聖の耳にも、終戦前後の重苦しい情報が、次から次へと入った。彼は、そのような話を聞くにつけ、信じるということの重大さを、あらためて思い返した。
 ″人間の営みのすべては、信じて行ずるということの反復、積み重ねにほかならない。何ものかを信じなければ、人間の行動は始まらないからだ。
 ある特定の思想や宗教を、奉じている人もあろう。あるいは、科学や、医学や、技術を、万能とみる人もいるだろう。さらには、それぞれの勤める会社や、所属する団体や国家の主義に殉ずる人もある。また、そこまでいかなくても、肉親や、親友や、あるいは自己の信念に、忠実に生きようとする人もあるだろう。たとえ無神論者をうそぶいている人でも、無意識のうちに、何ものかを信じ、行動しているはずだ。
 ところで、この世で最も忌むべきことは、誤ったことを正しいと信ずることだ。たとえ、どんなに善意に満ちていたとしても、また、どれほど努力を尽くしたとしても、そんなことには関係ない。信じたものが非合理で、誤っていた場合には、人びとは不幸を招かざるを得ないからである。個人のみならず、それを信じた集団も、社会も、国家も、全く同様である。
 信仰とは、なにも遠くにあるものではない。特殊な人間のすることでもない。要は、信じるということに対する、自覚の浅深によるだけである。
 人びとは、それぞれ信じているものの本質が、あらゆる視点から見て、絶対に誤りのないものであるかどうかについて、おそろしく無関心である。正邪、善悪を不問に付して、いかにも平然としている。ここに、救いがたい不幸の根源があるのだ。
 では、信じて誤たないもの、この世界で、絶対に間違いないと言い切れるもの、それはいったい、なんだろう。いくら信じ込んでも、欺かれることのないもの、なんの悔いも残らぬもの、そのようなものが、いったい、あるのかないのか……″
 戸田は、それをはっきり断言できた。
 ″ある! 私は、それを知っている! それを日蓮大聖人は、明確に、具体的に御教示くださっている。人びとは、それを知ろうともしなかった。そして、七百年が過ぎ去ったのだ。今、さんざんな目に遭って、人類は、いずれそれを知り、信じるにいたるであろう。だが、この未曾有の敗戦の苦悩に遭い、不幸のどん底に沈んだ今、それを私一人だけが知っている。ほかに誰が知っているというのか。誰も知らないのだ″
 戸田城聖には、今、語るべき一人の同志もいなかった。眼前にあるのは、国土の荒廃と、それにも増して恐るべき人心の退廃であった。何を目にしても、何を耳にしても、所詮、すべては彼の孤独感を強めるばかりだったのである。
 彼は、暑さに汗を流したが、思い詰めた時の汗は冷たかった。彼の覚めきった心には、さまざまに繰り広げられる終戦の世相が、ことごとく狂気と映った。
 彼は、広野に向かって、妙法流布の師子吼を放ちたい衝動を、抑えなければならなかった。それは、「時」を待たねばならないことを、知っていたからである。
 ″時を待つのか、時を創るのか……″
 彼は、静かに考えた。
 ″一人の新たなる真の同志をつくる。それから一人、また一人とつくっていく。これが取りも直さず、時を創ることになる。今、一人の真の同志をつくることの困難は、やがて時来り、百万の同志を育てることよりも難しいかもしれない。焦つてはならぬ……″
 彼は、直面している困難が、こんなことろにあることを悟った。
 大聖人は、「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし……」と仰せである。
 大聖人も、一人の真の弟子をおつくりになるという、その困難なことから始められたのだ。戸田には、大聖人が、建長五年(一二五三年)四月二十八日、三十二歳の時、立宗宣言をなされたころの御心が、よく拝察できるのだった。
 ″「未来も又しかるべし」である。七百年前、大聖人は、今日の、この戸田城聖のためにお書き残しにお書き残しになったのであろうか。そして、今や国亡び、広宣流布の条件は熟している。「地涌の義」がまことならば、今こそ、広宣流布の同志が輩出しなければならぬ。「一人、二人、三人……百人」と。
 仏意は、計りがたい。今、広野に叫んだところで、声は風に消えていってしまうであろう。だが、現実に、敗戦という底知れぬ不安と、地獄の苦しみにあえいでいる民衆を目前にして、何をなすべきか……″
 彼は、強く思った。
 ″眼前の一人ひとりを、完全に救いきっていくことだ。たとえ時間が長くかかっても、体当たりして、救っていくことだ。これこそ、「未来も又しかるべし」の御金言の実践である″
 戸田城聖は、終戦の日から忙しくなった。毎日、上大崎の事務所に通い詰めていた。
 数日のうちに、数人の事務員も、どうやら整った。だが、彼の入獄中、長年の社員のなかで、最も勤勉で責任感のあった住田が、どうしてか事務所に顔を出さなかった。才気のある住田は、戸田の健康や、新規の事業の困難に、見切りをつけていたらしい。
 戸田は、平静のなかにも、彼の態度に対し、いささか憤然とした。いうなれば、多くの社員のなかにあって、常に最も信頼し、大事にして、留守を頼んでおいた事業の一番弟子に去られ、裏切られた寂しさであった。
 人の心は移ろいやすいことを、まざまざと目にした思いであった。
 年配の奥村と、若い女性事務員たちが、それぞれ古い机に向かっていた。入獄直前の、彼の事業の規模を知る人にとっては、寂しい事務所であった。
 しかし、彼は一人、元気であった。健康は、いまだ十分に回復しているとはいえなかった。神経痛さえ起き、足を、いささか引きずっていた。さまざまな不都合が重なったが、世間の混乱をよそに、事業は動きだしたのである。
 万端整って、事務所が活動し始めたのは、八月二十日であった。終戦の五日後である。出獄の日から、実に四十九日目のことであった。
 この日には、数年続いた灯火管制も、完全に解除になった。
9  八月二十三日の朝日新聞に、広告が掲載された。当時の新聞は、いずれも、わずか二ページにすぎなかった。「日本正学館」の広告のひとつが、一面の片隅に載った。
 「中学一年用 二年用 三年用」「数学・物象の学び方 考え方 解き方(通信教授)」と、見出しが並んでいた。
 そして、そのあとの説明文は「数学物象の教科書主要問題を月二回に解説し 月一回の試験問題の添削をなす。文これを綴込めば得難き参考書となる。資材関係にて会員数限定 六ヶ月完了 会費各学年共六ヶ月分金廿五円前納……(内容見本規則書なし)」と掲載されていた。
 一見、無愛想な、この広告文は、資材欠之の当時の状態をよく表している。内容見本や規則書を進呈するほどの紙の余裕は、どこにもなかった。紙と、その他の資材の確保が、どれほど困難であったかは、今日では全く想像もできないことだった。
 また、生徒の側からすれば、参考書一冊を手に入れるのも、困難な時節であった。
 「綴込めば得難き参考書となる」――ここには、かつての『指導算術』の確信が秘められていた。
 戸田は、学問に渇ききっている少年少女の心を、よく知っていた。いや、つかんでいたといえる。
 一日、二日、三日とたった。反響は、日を追って、徐々に現れてきた。事務所には、毎朝、為替同封の申込書が、三十通、五十通と届いた。申込書の整理と教材の発送に、活気を呈してきた。部屋には明るさが漂っていた。だが、午後になると、手持ち無沙汰の状態となった。
 戸田は、みんなに言った。
 「どうだろう。一日一万円入ったら、みんなで、すき焼きでもやろうじゃないか」
 事務員たちは、キョトンとして聞いていた。それは嬉しいことにちがいない。しかし、この時勢に、そんな日が来るのは、いつのことか想像もつかないと思った。だが、戸田は事務員を喜ばせたかったのだ。
 「すき焼きは、いいですね」
 気のいい奥村は、さっそく賛意を表した。そして、すき焼きの味を、しきりと思い出しているふうであった。いっともなく忘れ去っていた味である。彼らばかりでなく、大部分の国民が、久しく忘れていた味であった。一日一万円の売り上げよりも、今は味覚の魅力が重大であった。生唾をのむ思いで、奥村は言った。
 「どうです、先生。事務所も、こうして開けたし、事業も、どうやら始まったし、ここで前祝いに、すき焼きということになりませんか」
 戸田は、笑いだした。みんなも笑いだした。
 奥村は、もうひと押しと思った。
 「ね、先生、誘い水ということがありましょう。前祝いをやると、きっと一万円の日が、早く来るような気がするんですがね」
 「奥村君にしては、うまいことを言うじゃないか」
 戸田は、相好を崩して、笑いながら言った。しかし、彼は、決して油断しなかった。その日が来るのを確信はしていたが、気を許してはならないと思った。
 「ちょっと待てよ、そう慌てなさんな」
 奥村は、ちょっとがっかりした。なにしろ、一通の申し込みが二十五円である。十通で二百五十円、百通で二千五百円……そう思うと、すき焼きの味は、すーっと遠のいてしまった。
10  そのころ、アメリカ軍の進駐の日が決定した。そしてまた、変更になったりした。巷は、その騒ぎで、大きく動揺していた。占領軍の正体が、さっぱり想像もつかない。流言は飛び、三百数十万の東京都民は、ただ怯えきっていた。
 数百万の兵士の復員も、全国で始まっていた。戦時物資を兵隊毛布に包み、大きな荷物を背負った丸腰の兵士が、品川や、上野や、新宿の、プラットホームにあふれでいた。鈴なりの機関車、殺人的超満員の電車等々、混乱と無秩序が、あらゆるところで始まっていた。
 上大崎にある日本正学館の事務所は、ささやかではあったが、別世界のように明るく活気を呈していた。戸田が現れると、なんともいえない安心感が、事務所の人びとの顔に表れた。外は嵐である。だが、狭い事務所にいる聞は、彼らは吹きすさぶ風雨を忘れていた。家庭や街頭などより、どこよりも楽しい、居心地のよい職場であった。戸田は、人の心は敏感であると思った。
 ″将の一念が大切である。責任者の一念の心中が、職場や社会に、どれほど大きな波紋を描くかを、常に自省してかから、なければならない″
 このころ、戸田は、ひそかに決心していたことがあった。
 彼は、これまで、「戸田城外」と名乗ってきた。もともと、この名は、牧口常三郎と会う前に、筆名として使い始めたものであった。、しかし、牧口を生涯の師と定めてからは、城の外にあって野武士のごとく戦い、師匠を守り抜く決意を込めて、使い続けてきたのである。
 だが、今は既に、その師はいなかった。牧口の志を受け継いで立ち上がる弟子は、自分しかいないことを、彼は深く、深く、自覚していた。小さなこの職場にあって、壮大な未来を見すえていた。
 悠々と指揮を執る戸田の姿のなかには、彼の学会復興への決意が、みなぎっていた。そして、戸田を「城外」から「城聖」へと改めようと考えていたのである。
 戸田が、すき焼きの話をしてから、驚いたことに、五日とたたないうちに、すき焼きの″夢″が現実となる日が来てしまった。
 その日の朝、郵便配達員は、紐でくくった封書の大束を、ズシンと机の上に置いた。書留の受領印を押すだけでも、大変だった。いつもの日の七、八倍に近い。誰も信じられぬことであった。全国各地から、次々と届き始めたのだった。
 「わぁ、これで四百五十よ。まだ、こんなにあるわ」
 若い事務員が声をあげた。
 一同は唖然として、しばらく声も出なかった。
 「驚いたなぁ」
 奥村は、感慨を込めて言いながら、戸田に話しかけた。
 「先生、今日は一万を超えましたよ」
 「ワハッ、ハハハ……」
 戸田は笑った。
 「奥村君、牛肉を、どっさり探してこなけりゃ、ならんぜ。肉を手に入れる方が難事業だぞ」
 「その難事業は、決死の覚悟であたりますから、私にお任せください」
 六十に近い奥村は、胸を叩いて、元気だった。
 「酒を頼むよ、いい酒をね、二、三本……」
 戸田は、さらに付け加えた
 「今夜は、みんなに家に集まってもらおう。ここの栗川君にも来てもらおう。早く仕事をすませて、祝杯を上げようじゃないか」
 奥村は、買い物に行くために、元気に席を立とうとした。戸田は、追いかけるように、付け加えて言った。
 「そう、そう、菓子や果物を頼む。ご婦人のサイダーも忘れずにな」
 豪放に見える戸田は、細かいことまで、よく気を配る人柄だった。
 夕刻、戸田は、一同を引き連れて家に帰った。事務所の家主・栗川は、所用で不在であったので、言付けを残してきた。
 奥村は、幾枝を手伝って、大活躍の真っ最中だった。宴席は、二階に設けられた。用意が整うと、応接間で雑談していた一同は、二階に上がった。まだ、暑い季節である。だが、牛肉の匂いは、久方ぶりの食欲をそそった。鍋は、グツグツと音をたてて煮えていた。
 戸田は盃を含んだが、幾枝に言った。
 「コップにしよう」
 黄金色の、温かい色が浮かんだ。彼は、それを透かして見て、奥村に言った。
 「これは、いい酒だ。どこにあった?」
 「いいでしょう、極秘です」
 奥村は得意そうに、ニコニコしながら、鍋に箸を突っ込んでいた。
 「人間、おのおの、いろんな才能があるものだなぁ。今夜の奥村君は、最高殊勲賞としておこうか」
 戸田は、優しい目で奥村を見て言った。
 「先生、よかったですね。今度の仕事、本当によかった」
 奥村が、こう言った時、食卓を囲んだ誰もが、同じことを考えていた。
 そこへ玄関の戸が開いて、人声がした。事務所の家主・栗川だった。栗川は、二階に通されるなり、朗らかに叫んだ。
 「先生、すごいですね!」
 「まあ、一杯やってくれたまえ」
 栗川は、促されるままに、正面の席に座った。
 「いろいろ、君にも世話になったが、どうやら滑りだしたよ」
 戸田は、栗川の盃に酒をつぎながら言った。
 「いやあ、驚いたなぁ。すごいですね」
 栗川は、一座の人びとを眺め回し、誰に言うともなく、感に堪えないように言った。
 「こりゃ、奥村食糧決死隊長の戦果さ。人間、おのおの才能があるものだ、と感心していたところだよ」
 戸田の言葉に、栗川は首を振った。
 「いや、ご馳走もすごいけれど、それよりは、今日一日で、一万円入ったそうじゃないですか。わたしゃ、さっき家内に聞いて驚いた。すごいことになってきたもんですね。国がどうなるかわからんという、この時節に!」
 「うらやましいかね、栗川君」
 「まったく、うらやましいですね。材料なんて紙でしょう。安いもんだ。それが一日に一万、棚から、ぼた餅ですわ。誰だって、うらやましいですよ」
 「いくらうらやましがっても、誰にも、まねのできることじゃない」
 戸田は、ゆっくりとコップに酒を注ぎながら、にこやかに笑って言った。
 「そりゃ、そうかもしれないけれども、戸田さんの目のつけどころには敬服しました」
 才能には限りがある。運、不運も重要なカギになってこよう。賢者が、必ずしも成功するとは限らない。愚かそうに見える人が、思いもよらぬ大成をなすことだってある。それが、複雑微妙な世間のことわりだ。
 戸田は、頬から笑いの影を消して言った。
 「君たち、今日のことをどう思う。法華経のために牢屋にぶち込まれて、まる二年問、死ぬ苦しみで戦った、その功徳なんだよ。才能だけのものではないんだよ。功徳、なんだ。御本尊様は、ご存じなんだ。実に、すごい御本尊様なんだ」
 彼の両目は、キラリと光り、結んだ唇は気高かった。

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