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日蓮大聖人・池田大作

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再 建  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
1  戸田城聖が出獄した一九四五年(昭和二十年)七月三日、政府は、遂に主食配給の一割減を発表した。もはや福運の尽きた国民の窮乏は、覆い隠すべくもなかった。
 配給基準量は、一般成年男子、一日二合一勺(約三〇〇グラム)ということになった。それも、主食の代替物の大豆、ジャガイモ、コーリャンなどを含めてであり、米の配給は、いたって少なかった。そのうえ、副食物の配給も、数日に一度、魚一切れ程度のものである。これだけで摂取できるカロリーは、一〇〇〇キロカロリーそこそこにしかすぎない。もはや、配給だけでは、成人男子の一日の必要カロリーの半分ほどということになる。
 国民は、ただ、じっと動かずにいるより仕方のない栄養価だ。動いたり、働いたりすれば、当然、それだけ栄養失調の症状をきたすわけである。栄養失調は、獄中にだけあったのではない。獄外にあっても同じであった。
 終戦直前から戦後にかけて、何よりもまず、日本には飢餓が迫っていたのである。それは、長引く戦争による生産力の低下と、米軍の海上封鎖などによってもたらされた、食糧の絶対的不足から起こった飢餓であった。
 国民は、体力の急激な消耗を自覚していた。
 どん底の生活は、人びとに極めてわびしい思いをさせた。誰も口に出しはしなかったが、民心は、既に、軍部指導層から離れていた。指導者が賢明でありさえすれば、よもや国民全体を塗炭の苦しみに落としはしないことを、人びとは本能的に直覚していたからである。
 このような情勢になっても、政府は本土決戦を呼号し、「一億玉砕」を国民に説き続けていた。だが、戦意は日に日に失われていった。さりとて、戦局をいかに転換するかという方針も、和平工作の具体的措置も、誰一人、持ち合わせていたわけではない。
 五月、ドイツの無条件降伏以来、敗戦は必至となった。米軍機は、全国の中小都市に、連日、空襲して爆撃を加えていた。だが、わが陸海軍は、ほとんど抵抗すべき戦力を失っていた。都市は爆撃で次々と焼かれ、本土の焦土化は、恐るべきスピードで進んでいた。
 軍部の本土決戦の態勢というのは、全国を兵営化することであった。陸軍は二月から五月にかけて、国内に四十個を超す師団を急設し、本土の防備兵三百万を計画し、全国に配置していった。
 しかし、新編成部隊のほとんどは、小銃はなく、銃剣もなく、丸腰の部隊であった。海軍も、艦隊のない海軍になっていた。そこで陸上兵力を増強し、海岸の防備にあたるしか、打つ手はなくなっていたのである。
 四四年(同十九年)には、既に徴兵適齢者を二十歳から十九歳に引き下げ、その若者たちの七割以上が徴集されており、翌年に入ると、それが九割になろうとしていた。
 成年男子は、障がい者や病人、老人を除いて、次々と動員されていったのである。
 これら武器なき大軍にとっては、壕を掘ったり、横穴を掘ることが軍事行動であった。戦地にあっては、未来を築く青年の多くが、次々と死んでいった。幾百万の家庭の平和も、根こそぎに破壊された。痛ましい荒廃の現実だけが残った。
 人びとは、愚かな指導者に率いられてきたことで、臍をかむ思いがしたにちがいない。しかし、もはや、どうする術もなかった。
 鉄壁の防備を誇った、沖縄も敗れた。物量を誇る米軍の、海陸空からの猛襲の前には、問題ではなかった。その組織的な戦闘は、四五年(同二十年)六月に終わってしまった。
 この戦闘で、全島は全くの焦土と化し、日本軍の死者は約十万人を数え、一般島民九万四千人(推定)も戦火を浴びて死んだ。非戦闘員であるべき老幼婦女子までが、砲火を浴びなければならなかった。徴用の女学生たちの「ひめゆり部隊」のような、数々の悲劇も生んだのである。
 幾多の悲惨残酷な出来事は、やがて来るべき「本土決戦」の暗い運命を、そのまま暗示するものでしかなかった。
2  このころには、日本全体が、国民の肉体も精神も、無力化していた。都市では、家屋財産を焼かれ、住むに家なく、焼け残ったわずかな家財を背負って、家族を引き連れて流転する人びとが、巷にあふれできた。彼らは、あきらめきった顔をしながら、時には驚くべき明朗さで、会話を交わしていたのである。
 「とうとう、私も、夕べやられましたよ」と一人が言えば、同類の、もう一人も答えるのだった。
 「おや、そうですか。私も、つい十日前に、何もかも、きれいさっぱり焼いてしまいました。ハッ、ハッ、ハッ」
 そして、煤けた顔を、汚れた手拭いで拭きながら、他人事のように語り合った。これが、せめてものいたわりであり、慰めであった。戦意喪失どころの騒ぎではない。
 国民生活の底辺には、既に虚脱の無風状態が続いていた。政府の「本土決戦」の叫びが、いかにも空しく響くだけであった。日本民族の総決算の時期は、刻々と近づいていたのである。
 日本の国土が、このような悪魔の運命を急ぎ足にたどっているさなかに、戸田城聖は、わが家で二年ぶりの一夜を明かしたのである。
 彼は、夜明けの空が白むころ、ふと目を覚ました。ガラス戸を開け放ち、夏の朝の冷たい空気を深く吸いながら、なおも床の上に長々と横たわっていた。ひっそり静まり返って、時の流れが、瞬間、止まっているような、ひと時であった。
 彼にとって、朝は大事な時間である。寝床の上で、眠りから覚めた冴えた頭で、誰にも煩わされずに、思索にふけったり、さまざまな構想を、とことんまで練る習慣が、彼にはあった。
 今、彼の頭のなかで、ものすごい速度で回転しているのは、ただ一つ「再建」ということであった。
 言うまでもない、学会の再建である。また、それを、まず可能にする、彼の事業の再建の問題である。
 彼は、獄中で、彼の事業が全く挫折していることを、既に承知していたが、その実態を知る由もなかった。徴兵適齢者の社員のほとんどは出征し、残った従業員の多くも、ほとんどが疎開していた。
 戦災を被った社屋、麻痺押した経済状況――これら数々の悪条件の積み重なった実態――それを彼は、知らねばならぬと思った。
 再建の糸口を握るためには、彼の数多い事業の、生々しい実態を知る必要があった。実態を知らないで、事業の再建は不可能であるからだ。
 戸田は、決めた。彼の事業の残務整理を、すべて委託してある、渋谷の弁護士を、直ちに訪問することにした。万事は、それからである。
 さっそく、彼は勤行をすませ、朝食が終わると、妻に夏服を出すようにと命じた。
 幾枝は、彼の外出を危ぶんで、盛んに反対した。
 確かに、彼の衰弱は、歩行をも困難にしていた。昨夜、豊多摩刑務所から自宅まで、二時間以上も要したのである。
 なんでまた、蒸し暑い日中に、出かけなければならないのか。どうして、それが今日で、なければならないのか。弁護士を自宅に呼んではいけないのか――幾枝は、さまざまな理由をあげて、頑強に反対した。
 しかし、彼の決心は、それ以上に頑強だった。
 「いや、行く。心配するな。大丈夫だとも。たくさんの書類が集まっているはずだから、家に呼んだのでは、埒は明かん。こっちから行って、なにもかも実態を調べてこなければ、どうしょうもないじゃないか。麻の洋服を出しなさい!」
 険悪な雲行きを察知した男の松井清治は、苦笑しながら言った。
 「幾枝、お前も一緒に行きなさい。休み、休み、ゆっくり無理をしないで行けばいいじゃないか」
 「ハッ、ハハハ……」と、戸田は笑った。
 「お父さん、幾枝は強くなりましたなぁ」
 「そりゃ、そうですよ。二年も銃後の女性でしたからね」
 幾枝の言葉に、戸田は、また大笑いをして言った。
 「銃後じゃないよ、牢後の女性だ」
 戸田は、麻の夏服を身につけて、驚いた。まるで他人の衣服のように、ぷかぷかである。
 パナマ帽を被ってみると、これは目までずり落ちた。丸坊主のためもあったが、頭まで痩せたらしい。
 日差しを考えて、幾枝はハンチングを出してきた。ハンチングの内側の鞣し革は、びっしりカビが生えている。幾枝は、それをキュウキュウと拭きとった。
 どうやら支度ができると、戸田は玄関に立って、靴を履きながら言った。
 「こりゃ、いかん」
 靴まで、ぷかぷかであった。だが、靴の代わりはなかった。幾枝は、しゃがんで、靴の紐をきっく締め直した。
 駆け足するわけではないし、これで結構、結構」
 戸田は、足をパタパタさせながら、無頓着に言った。
 久しぶりの外出である。彼には、遠足に行く小学生のような楽しさがあった。
 しかし、ステッキをつき、そろそろと一歩一歩、足を踏みしめて歩む彼の姿は、長期療養患者の歩行練習に似ていた。付き添うもんペ姿の幾枝は、看護婦に見えた。
 ――彼の再建の戦いは、こうして一日の空白もなく、出獄した翌朝から始まったのである。
3  戸田夫妻は、家を出た。街は廃墟である。身は重症であったが、彼には偉大な目的に向かって、たくましく生き抜こうとする、あふれんばかりの生命の躍動があった。
 残務整理の渋谷の弁護士は、十七の会社の実態を、一つ一つ説明し始めた。戦時下のための、開店休業どとろの騒ぎではない。全くの壊滅状態であった。
 弁護士は、難しい顔をして言った。
 「なんとも、お気の毒です。……なんとも、申し上げようもありません。実際、処置なしです。
 いやぁ、どこの会社も、こんな状態ですよ。国自体が、どうしょうもなくなっている。国家の残務整理は、いったい誰がやるんでしょうな」
 「わかりました。すると、全部ひっくるめて、損益は、どういうことになりますか」
 戸田は、結論を急いだ。国家の残務整理が、どうしたというのか。気休めの遁辞とんじは、どうでもよかった。今は、結論だけが必要である。冷静な数字だけを、まず知りたかった。
 弁護士は、束ねた書類を事務員に渡して、その総額を出すように命じた。事務員は、ソロバンをはじいて、一枚の紙に数字を書き込み、それを弁護士の机の上に置いた。弁護士は、しばらく、じっとその紙片を見つめていたが、黙って、それを戸田に回した。戸田は、メガネを外して、紙片を顔に近々と寄せながら読んだ。差し引き残高、二百数十万円である。
 戸田は、なおも数字をにらみながら、弁護士に言った。
 「これは黒ですか、赤ですか」
 「赤です」
 弁護士は、簡単に答えた。
 戸田は、つぶやくように言った。
 「二百五十万余りの借金か」
 巡査の初任給が六十円といわれていた時代の、二百五十万円である。膨大な額の借財である。
 側に付き添っていた幾枝は、それを耳にはさんだ時、思わず身震いした。
 戸田の二年にわたる無実の牢獄生活が、彼の事業に与えた総決算が、これであった。十七の事業のうち、再建に値する内容の会社は皆無であった。
 戸田は、帰る道々、怒りに燃えながら、黙々と歩いた。彼は、再建のためには、全く新規の事業を起こすよりほかに、道がないことを知った。しかし、資力もなければ手づるもない。人もいなかった。どんな事業かも、思い当たらなかった。
 二百数十万という負債に、彼は事業家として、深い致命傷を負っていることを自覚しなければならなかった。
 「心配するな。ぼくがいる限り、決して心配するんじゃないよ」
 戸田は、傍らで、うなだれで足を運んでいる妻に、いたわるように言った。
 絶望的な事態である。彼にはまだ具体案もない。だが、誰にもわからぬ一つの確信だけは、確かに胸中にあった。
 幾枝は、ふと涙ぐみそうになった。だが、彼女には、今は、戸田の目下の健康こそ心配の種だった。
 彼女は言った。
 「あなた、大丈夫? 当分、静養なさらなければ……」
 「体か? 良くなることはあっても、これ以上、悪くなるはずはない。大丈夫だ。これも心配するなよ」
 戸田は、ステッキを振りながら、毅然として言った。
 道行く人びとは多かった。戦災で焼け出され、皆、難民の姿である。彼らもまた、それなりの苦悩を、かかえていたにちがいない。一面の焼け跡の街は、狭く見えた。渋谷駅のプラットホームから見渡すと、代々木の原も、道玄坂も、代官山も、驚くほど近くに見えた。
 帰宅すると、警戒警報が鳴った。B29三機が誘導して、P51百二十余機が、鹿島灘から侵入しつつあり、とラジオは報道した。昼前であった。この日、米軍機は、茨城、千葉の各飛行場を狙って爆撃し、空襲は正午過ぎまで続いた。
 戸田は、翌五日の昼間は、ずっと家にいた。さすがに疲労は深い。彼は、寝床の上で、汗を拭き拭き体を休めたが、頭は、ますます活発な回転を続けていた。
 彼の傘下の社員や、社友とおぼしい年取った人たちが、一人、二人と訪ねてきた。仕事を失った人びとである。頼られでも、戸田が頼りにできる人たちではなかった。話も暗中模索であった。
 戸田は、深夜、一人で枕を抱えて思いあぐねていた。彼の思案の習癖である。彼は、ふと思いついた。
 ″通信教授を、やってみょうか″
 政府は、既に三月十八日、決戦教育措置を決めていた。そして、国民学校初等科を除く、学校授業の一カ年停止を、既に通達していたのである。
 小学児童は、集団疎開や縁故疎開で、東京にいない。ほとんどの中学生は、工場に動員され、学習の機会は奪われていた。しかし、少年少女たちの、若芽のような向学心を、戸田は長い経験から知っていた。
 戦争が、どれほど最悪になろうと、あるいは敗戦という事態にいたったとしても、ひたすら太陽に心を向ける無垢な少年たちの向学心を、彼は信じることができた。学問に渇いている少年たちの心を、彼は思いやった。
 ″渇ききっている心に、学問を送ろう。それには、現状において通信教授以外に方法はない″
 彼の着想は、見る見る固まっていった。
 ″人手も多くはいらぬ。自分で教案をつくることもできる。それにしても、当座の一応の資金と、開始する時期とが問題だ″
 彼の着想は、さらに細かい具体化に進んでいった。
 ″資金の調達を、いかにすべきか……″
 彼は、渋谷の弁護士が、笑いながら、昨日、言ったことを思い出した。
 「ここに、火災保険証が、これだけありますが、関東大震災の時のように、何割かは支払いがあるでしよう。もちろん、今すぐとは言えない。いずれ政府は、手を打つにちがいありません。いくらか希望がつなげるのは、この反古みたいな保険証書だけですね、ハッ、ハハハ」
 その時は、なんの気なしに聞いていた彼の頭に、今、ひょっこり、それが思い浮かんだのである。
 戸田の事業関係の建物で、戦火に焼かれた建物が幾棟かある。その保険金額は、十数万になるわけだ。戦争による火災には、保険会社は支払いの義務を負わないとしている。しかし、日本国中の焼失家屋について、政府は、なんらかの手を打たざるを得ないだろう。
 関東大震災の時も、震災による焼失家屋については、支払いの義務なしと主張し続けた保険会社もあったが、政府は、保険金の一部を支払うように、手を打たざるを得なくなっていったのである。
 戸田は、残った保険証書が、いずれ多少の財源になると思った。彼は、仕事を具体的に一歩進めようと、年来の友人・小沢清弁護士に、このことを相談することに決めた――ここまで思いたどったあと、彼は、昏々と眠りにおちた。
4  事業には、素早い決断と、磨かれた英知と、宝石のように固い信用が大事だ。しかも、熱意なくして成し遂げられた偉業は、いまだかつて一つもない。
 戸田は、学会再建のいしずえづくりを急いだ。そのためにも、まず自身の事業の再建に真剣であった。
 六日の午前、彼は、保険証書を、渋谷の弁護士のところから取り寄せた。そして午後になると、幾枝に付き添われて家を出た。暑い日であった。
 彼は、省線で水道橋に出て、都電の八千代町で降りた。何年ぶりかの訪問である。見覚えのある通りは、焼けていなかった。表通りからそれで、新坂にさしかかった。この坂が、こんなにも急傾斜であったことを、彼は、これまで気づかなかった。
 ″道を間違えたか″とさえ思ったほどである。
 彼の目下の体力には、ひどくこたえた。五、六メートル行ってては立ち止まり、また、そろそろと歩みださねばならなかった。おそろしく長い坂に思える。途中の大きなカーブのところまでたどり着いた時、彼は、そこに、うずくまってしまった。
 夏の日の直射は強かった。体は、汗でびっしょりである。
 幾枝は、途方に暮れて立っていた。
 ″無理なんだ、病人なんだ、無理なんだ。私は、なんと愚かなことをしてしまったのだろう。当分、外出はやめさせなければならない……″
 彼女は、しきりと後悔し、わが身で太陽の光をさえぎって、うずくまった戸田の体に、わずかな日陰をつくった。戸田の顔色は青ざめている。彼女は、心で唱題した。
 軽い脳貧血であったらしい。戸田の頬は、やや赤みを取り戻した。彼女は、戸田の顔から首筋にかけて噴き出ていた汗を拭いた。
 戸田は、やがて、またステッキを頼りに、勢いよく立ち上がった。
 「もうすぐそこだ。暑いなぁ」
 坂は、まだ切れない。幾枝は、戸田を後ろから支えるようにして、上っていく以外に仕方がなかった。
 坂を上りきり、左に曲がると、左側に小沢の家がある。化粧煉瓦の塀を巡らせた、豪壮な邸宅であった。
 電話で連絡してあったので、小沢は待っていた。玄関のベルを鳴らすと、小沢の妻は飛んできた。
 天井の高い客聞に通された。庭を見ると、池は涸れていたが、石庭には打ち水がしであった。二畳敷きぐらいの石が、昔と変わらず縁側に続いている。
 旧友は、互いに、同時に言葉をかけた。
 「おう」
 「よう」
 「ずいぶん、痩せたじゃないか」
 小沢は、戸田の衰弱に目を見張った。
 「うん、痩せた。太って牢から出る奴もないだろう」
 「大丈夫か?」
 「うん、大丈夫だ。今、あの、おそろしく急な坂を上れたからな。ハッ、ハッ、ハツ」
 二人は、共に互いの健在を確かめて、声をあげて笑った。そして、仲のよい少年のように語り始めた。
 戸田は、獄中にあって、政局の動きを、なかなか知ることができなかった。これに反し小沢は、戦況の裏に、いささか通じていた。軍部の一端と結んで、和平工作の企画にもあずかっていたからである。
 むろん、それは、はかない夢であったが、彼は、既に指導階層の心の裏は、よく知っていた。
 戸田は、小沢の話を、いちいち頷いて聞いていた。最後に、単万直入に言った。
 「いつ終わるんだ?」
 「それがわからん。相手のあることだし、こっちも国論をまとめるチャンスがなければだめだろう」
 小沢は、口髭を手で押さえながら、思いあぐねていた。
 「じり貧か? かなわんなぁ」と、戸田が言った。
 小沢は、笑い出した。
 「相変わらず、せっかちだな、君は」
 「そりゃそうさ。こっちの都合もあるからな」
 「もうしばらくの辛抱だろう。半年か一年」
 「そんなに待っていられるか」
 「そう怒られでも、わしは困るよ」
 二人は、大声をたてて笑った。
 「ところで、こっちの都合なんだが……」
 戸田は、自身の事業全体の壊滅の状態を話し、通信教授の新計画を語り始めた。そして、火災保険証書を幾枝から受け取ると、これを担保として、一万円の借用を頼んだのである。
 「あ、いいとも」
 小沢は、軽く承諾した。すぐ小切手帳を書斎から持ってきて、万年筆を手に取り、小切手帳の控えの欄をチラッと見て言った。
 「こりゃいかん」
 彼は首をかしげた。
 「すまんが、半分じゃいけないか」
 戸田は、瞬間、それでは困ると思った。全然、足りなかろう。彼は、思いめぐらし、しばらく沈黙が続いた。しかし、眉毛を下げて案じ顔の小沢を見ると、気が折れた。
 「結構だ。後は、なんとか工夫しよう」
 「すまん、すまん」と、小沢は小切手を書き、捺印した。
 「ありがとう」
 戸田は、とう言いながら、すぐに幾枝に手渡した。
5  二人の終生の友は、この時、既に二十五年の交遊を経ていた。彼らが最初に出会ったのは、一九二〇年(大正九年)、開成中学の夜間部四年のクラスの時であった。
 戸田は、この年の三月、北海道から、小沢は、四月、山形県から上京していたのである。年齢は、戸田の方が、一年三カ月ばかり上であった。
 夜間中学の四年クラスに編入したのは、二人とも、上級学校への進学のためである。
 当時、夜間中学の場合、四年を修了しても、高等学校高等科入学資格試験(高検)に合格しなければ、上級学校を受験することはできなかった。
 彼らは、夜間中学で、それまでの独学の偏頗へんぱを、それぞれ矯正する必要性を感じていたのである。戸田は、この時、初めて英語を正式に学習し始めた。
 戸田と小沢は、多くの級友のなかで、不思議なくらい気が合った。長身の戸田に対し、短軀たんくの小沢が、二人連れ立って仲よく歩く姿は、微笑ましい対照をなしていた。
 戸田の人なつとい開放的な性格は、多くの級友を、彼の身辺に自然と集めた。彼は、世界情勢を論じ、人生を語り、クラスの最も魅力ある人物として、グループの旗頭であった。
 穏健着実な小沢は、グループの世話役であった。
 比較的年を取っていた二人には、他の級友は子どもに見えた。語るに足る友として、二人は互いに相許したのである。
 戸田は、既に北海道で、夕張の真谷地尋常小学校の教員をし、正教員の資格検定試験にも合格して、独立した社会人であった。
 青雲の志が、彼を東京へ向けて旅立たせ、あえて夜間中学の四年に編入する勇気を与えた。彼は、将来、大実業家となる志を秘めていたのである。一方、小沢は、大政治家になることを夢み、まず、その第一歩として、弁護士になることを志していた。
 大志を秘めた勉学は、はなはだ積極的であった。戸田は、クラスでは、数学や国語について抜群であった。彼は、不得手な英語の学習のために、不審な箇所があると、電車の中もかまわず、見知らぬ一高生や慶大生をつかまえて、あえて教えを請うたのである。
 数学の難問に行き詰まると、彼は、高校予備校である研数学館の数学クラスの授業が終わるころを狙って、教室へもぐり込んだりした。そして、授業が終わると、教壇へつかつかと進み、教師にその難問を質した。それは、たび重なったが、彼の学究態度から、最後までモグリ学生の素性はバレず、親切な教師は、彼を熱心な生徒として愛し、遇した。
 これは、戸田の闊達な、独特な処世術であった。
 天才とは努力の異名なり――それが彼の信念でもあった。彼の学問の進歩は、こうして短時日のうちに著しかった。
 小沢は、このような戸田の日常行動に、目を見張っていた。彼の住居を、しばしば訪ねるに及んで、さらに戸田の偉大な風格に打たれた。
6  戸田は、十九歳の冬に初めて上京し、終生の師となる牧口常三郎に会った。その後、一度、北海道に帰り、一九二〇年(大正九年)三月に、生涯の師を求めながら、再び上京した。戸田は二十歳になっていた。
 そして、西町尋常小学校の校長であった牧口の計らいで、同校に就職し、教鞭を執りながら、夜間中学に通学していたのである。
 この若い先生は、神田に部屋を借り、数人の青年と雑居していた。
 小沢は、乱雑な梁山泊に驚いた。同室の青年たちは、いずれも北海道出身の苦学生である。ある人は新聞配達であったり、ある人は人力車を引いていた。また、ある人は失業中でごろごろしていた。要するに、戸田に比べれば、貧しい学生たちであった。
 戸田が、このような仲間と、どうして、わざわざ同居していなければならないのか、それは小沢の理解に苦しむところであった。
 ある時、小沢は、そのことを、戸田に尋ねずにはいられなかった。
 戸田は、自然な態度で語った。
 「ぼくは、今、ここを抜け出すわけにはいかないんだ。抜け出したら、あの連中が路頭に迷うことになる。ぼくは、今、五十五円の月給をもらっているが、五円は自分の小遣いにして、あとの五十円は、みんなの生活費の足しにしているんだ。なかなか、かかるんだよ。
 そのうち、みんな、それぞれ自活できるようになるだろう。それまで、ぼくは抜け出すことができないんだ」
 小沢は、唖然として返す言葉もなかった。戸田は恬淡てんたんとしている。小沢は、かぶとを脱いだ。
 家に帰り、小沢は、つくづくと思ったのである。
 ″俺には、できない。逆立ちしても、とても戸田のまねはできない……″
 戸田が、同郷の苦学生を助けずにはいられなかったのは、彼の生来の性格でもあった。それに、彼の生涯の師となった牧口の感化を、いつしか受けていた。
 人生の最大の幸福は、生涯の師をもつことだともいえる。戸田は師を選び、師をもったことによって、いわば人生の教育者といった風格を、自然に備えるにいたった。しかし小沢は、人生の師をもとうともしなかったし、事実、もたなかった。
 どんなに有名になり、成功しても、師のない人生は寂しい。二人の人生行路は、既に、この時から大きく隔絶してしまっていたのである。
 青雲の志をいだいた戸田と小沢は、それぞれ信じる道を進んでいった。人間の宿命を、誰も予測できないのと同じく、人間の幸・不幸もまた推し量ることはできない。
 二人は、一九二二年(大正十一年)に、旧制中学四年修了の検定試験に、そろって合格した。小沢は日本大学の法科に進み、やがて高等試験司法科に合格し、弁護士となり、しばらくして郷里に帰って、資産家の娘と結婚した。
 戸田は、牧口が、西町尋常小学校長から、特殊小学校である三笠尋常小学校に左遷された時、彼もまた、三笠尋常小学校に転勤した。そして、牧口が白金尋常小学校長に移った時には、彼は退職して、二三年(同十三年)に、時習学館を開いて独立したのである。
 戸田と小沢の人生コースは、次第に遠く離れていった。だが、友情は色あせることなく、長く続いた。
 小沢は、やがて上京して、弁護士としての地歩を堅実に築いていった。しかし、戸田には、波瀾の多い人生が待っていた。時習学館の草創期の苦闘が終わった直後、幼い娘に死なれ、続いて妻も他界したのである。そのうえ彼自身、結核に侵され、多量の喀血をみた。そして、苦悩と失意のどん底に落ちていった。
 当時、戸田は、まだ日蓮大聖人の仏法を知らなかった時で、自己の運命を、いくら思案しても解決できなかったのである。だが、どん底に落ちた彼の人生は、また、たちまちにして豁然と新たな道を開き、その生活は、あれよあれよと思う間に、天空高く舞い上がる。
 そうした幾度もの浮沈を、じっと見ていた小沢をはじめ、彼を知る人びとは、戸田をヒバリに譬えた。一種、爽快な人生であったのである。
 「君はまるで、ヒバリみたいだね。どこか、わけのわからぬ草むらに入るかと思うと、たちまち頭角を現し、遠く常人の届かぬ天まで届いてしまう。あれよあれよと見ていると、またどこかの草むらに隠れてしまう」
 小沢は、幾たびも戸田にそう語った。戸田は豪快に笑って言うのだった。
 「ヒバリの人生か。苦労なことだよ。ハッ、ハハハ……」
7  今、出獄直後の戸田は、極度に健康を害し、死の一歩手前とさえ思えた。さらに、全事業は壊滅そのものである。
 その失意の友を目の前にして、小沢は、この「ヒバリ男」を信じるのに困難を感じた。今度は、時代と諸条件が、まるで違っているからである。国家白体の明日の運命も、計りがたい現況である。かつてない悪条件が、幾重にも重なっていた。
 だいいち、小沢自身、これまで家も焼かれず、戦時下であるにもかかわらず、比較的幸運に恵まれてきた。しかし、明日の運命はわからない。いつ不運な民衆の一人に突き落とされるかもしれぬ。それを恐れ、考えざるを得なかった。
 また、戸田は、治安維持法違反の容疑や不敬罪に問われて起訴されている。その友とのかかわり合いは、できることなら、時節がら、避けたい思いがあったにちがいない。小沢は、「ヒバリ男」について、いささか悲観的に考えざるを得なくなっていた。
 戸田には、そうした小沢の心境が、よく理解できた。
 青年時代の友情は純粋で、清らかではあっても、年を取るにつれて打算的になり、自然に心と心が離れていってしまう。時には、そこに女性や妻が介入してくると、一転して醜い嫉妬にも変わりかねないのが、世間一般に見られる友情の姿であるからだ。
 今、小沢が、戸田の出獄を喜ぶ心中には、単なる懐旧の友としての友情が流れているにすぎなかった。
 しかし戸田は、この時、ぽつんと言った。
 「ぼくは、やっぱり末法の法華経の行者の一人だよ」
 小沢は、戸田のこの言葉を、何げなく聞いていた。″また、信心を性懲りもなく続ける気なんだなぁ″と軽く受け取った。戸田の、この時の決意が、並々ならぬものであったと知るには、十年余の歳月を要したのである。
 戸田は、自身の使命とするところを、生涯の一人の友には語りたかった。しかし、小沢は、彼の胸中を打ち明けて語り合える友ではなかった。
 戸田の獄中での決意は、主義主張に生きる同志にして、初めて理解できることであった。小沢の一切を理解していた戸田は、今後の広宣流布への活動について、彼は無縁の人であることを、わが心に認めなければならなかった。
 ″話したところで、彼は理解しない″
 二十五年の交遊の重さが、逆に戸田の口を、つぐませたのである。彼は、使命に立って、底知れず孤独であった。
 戸田は話を変えた。獄中生活を、面白おかしく豪快に語りだした。
 「牢に入って、得したことといえば、あの法華経が、すらすら読めるようになったことだ。あの漢文が、すっかりわかるんだ。ちょっと不思議だろう」
 「ほう、ずいぶん勉強したもんだね」
 小沢は、感心したように言った。戸田は、手を振って答えた。
 「いや、勉強じゃないんだ。法華経は、勉強では読めんよ。なんと言ったらいいかなぁ。難に遭ったせいかな。法華経の真髄というものが、よくわかった。そうしたら、すらすら読めるようになった。すごいんだぞ……」
 彼は、微笑を浮かべながら、興奮した口調で言った。
 勧発品に「是の経典を受持すること有らば……其の人は若し法華経に於いて、亡失する所の一句一偈有らば、我れは当に之れを教えてに読誦し、還って通利せしむべし」(法華経六六七ページ)云々と。
 戸田は、初め、この経文を不思議に思った。だが後に、これが真実であることを了解した。小沢には、戸田の、その偉大な体験が、想像できようはずもなかった。
 「ぼくは、わかった。やるだけのことは、ちゃんとやってみせる。それから死んでやる。よく見ていてくれ」
 この時、小沢の頭に、ふっとかすめるものがあった。
 ″戸田は、どこか変わったぞ。確かに変わった……″
 小沢は、それを直覚した。しかし、それがどういうことなのか、どういう点なのか、皆目、見当もつかなかった。
 小沢は、終戦後、郷里の山形から衆議院議員に立候補して、当選した。年少のころの志は、ひとまず達し、代議士となった。ところが、次は落選した。そして選挙違反で苦しんだ。彼の人生に、大きなひびが入り始めたのだ。それから不如意の生活が長く続いた。
 福運の尽きた人生は一気に坂道を転がり落ちる車のようで、止めることもできなかった。彼は、人生の福運を積む根本法を、あえて知ろうとしなかったのである。
 そのころ、戸田の事業は、既に苦境を打開し、まさに天空にさえずるヒバリの状態となっていた。失意の小沢は、しばしば戸田に援助を請うた。そのたびに戸田は、「金なんかないぞ」と言いながら、彼の要請するだけは、いつも調えてやった。一遍も拒絶したことはなかった。それは、相当の額に達した。戸田は、小沢のために、自社の社員にすら頭を下げたのである。
 小沢は感動した。戸田の友情は、たとえ彼が、いかなる罪を犯しても、なんら変わることろがなかったにちがいない。一切の財力や権力を超越した、まことの友情が、戸田の友情であった。小沢は、戸田の助力で、苦境を脱することができたのである。彼は、戸田の死にいたるまで、その友情に心から敬意を表し続けた。
8  断末魔に似た七月の日々は、空襲の明け暮れであった。
 米軍は、マリアナ、沖縄の諸島を占領すると、瞬く間に飛行場を構築した。そして。B29その他の、二千機を超える軍用機を常時待機させた。今や制空権は、完全に米軍の掌中にあった。したがって、日本列島のいたるところに、思うがままの攻撃を加えてきた。
 政府は「一億特攻」で戦おうと撤を飛ばしたが、今や軍事力のない日本は、手も足も出、なかった。
 一方、アメリカ艦隊は、日本列島に近接して、沿岸を大胆に巡っていた。
 七月十日には、艦上機延べ八百機が、関東全域にわたって波状攻撃を繰り返した。
 十四日には、三陸地方の釜石付近に艦砲射撃を加えた。また同日、函館、室蘭、帯広、釧路の北海道方面に、艦上機三百機、B29二十機をもって空襲した。
 十八日未明には、アメリカ艦隊は茨城沿岸に艦砲射撃を加え、艦上機五百機が関東方面を空襲した。
 二十四日には、アメリカ軍の基地と艦隊の連合作戦によって、二千機の爆撃機が西日本の各地に大挙来襲した。
 そして、二十五日には、アメリカ巡洋艦五隻が、和歌山県の最南端・潮岬に近接し、艦砲射撃を加えて去った。
 国民は、歯ぎしりして悔しがった。わが軍の微弱な抵抗を眼前にして、帝国海軍も、陸軍も、もはや壊滅してしまっていることを知り始めたのである。
9  戸田城聖は、このような空襲下にあって、早くも新規事業の準備に奔走していた。
 衰弱した栄養失調患者にとって、夏の太陽は、あまりにも暑かった。慢性の下痢は止まらない。腹はミッキーマウスのように膨れ、手足は痩せ細っていた。だが、麻の洋服を着たミッキーマウスは、ステッキを頼りに、焦土のほこりのなかを、東奔西走したのである。
 幾多の曲折はあったが、紙の問題、印刷の問題、事務所の問題と、日に日に不思議にも目鼻がついていった。あとは、事業開始をいつにすべきかにあった。それは、この戦争終結の時期の問題であった。
 ――時を知ることほど大切なことはない。百千万の作戦も、時を得なければ成功することはない。事業も、人間の出処進退も、時を誤れば混乱と敗北を招くだけである。
 彼は、その時期を、ぜひとも、明確に知る必要に迫られていたのである。
 ある日、戸田は、かねて面識のあった老政客・古島一雄の家を訪れた。
 古島一雄は、犬養毅の盟友として、明治・大正・昭和にわたり、政界に活躍した政治家である。隠栖を事としていたが、政変のたびに、必ず彼の名は、政界の黒幕としてジャーナリズムに浮かぶのであった。
 終戦後、一九四六年(昭和二十一年)五月、鳩山一郎自由党総裁が内閣を組織しようとした。その矢先に、鳩山は公職追放令に引っかかるのである。
 その時、結局、後継者は吉田茂に落ち着いたが、実は、真っ先に後継者候補としてあげられたのは古島一雄と、松平恒雄であった。古島一雄が、生涯、いかに隠然たる影響力を政界に保持していたかを物語っているといえよう。
 ――戸田はその日、古島の居聞に通された。
 古島は、碁盤を前に一人、布石の研究に没頭していた。彼は、戸田の姿をチラッと一瞥すると、軽く会釈したが、依然として盤上から目を離さなかった。彼の生活は碁と政治のほかは、なんの興味も示さないものになっていた。
 戸田は、無言で、じっと待っていた。古島は、思いついたように、時折、盤上にパチリと碁石を置き、棋譜と見比べて余念がない。人びとは、この無愛想で気難しい老政客に、いつもてこずっていた。
 戸田もまた、手持ち無沙汰のまま、いらいらと待っていた。何時間かかるか、わかったものではない。やがて戸田の顔に、いたずらっぽい笑いが浮かんだ。彼は一計を案じたのである。
 「古島先生は、あまり碁は強くないと言われていますね」
 「なに?……」
 古島は、初めて口を聞いた。そして即座に向き直った。戸田は、すかさず口をはさんだ。
 「先生は、政界で何番目に強いんですか」
 「そりゃ、決まっているじゃないか」
 「……と申しますと」
 「わしが、最高の方じゃ」
 古島は、鋭い目をキラリと彼に放ってから、うつむいて、くすりと笑った。
 「いや、みんなは、先生は弱いと言っていますよ」
 「いや、そうとは限らん。アッ、ハッ、ハッ、ハッ」
 古島は、とうとう笑いだしてしまった。そして、盤上の碁石を片づけ始めた。
 彼は、戸田が逮捕され、起訴された事件も知っていたにちがいない。だが、何も知らぬふりをしていた。タバコをふかしながら、痩せ細った戸田を、仔細ありげに見ていたが、聞こうともしない。冷たいというのではない。
 彼は、自分の今の力の限界を意識しているのである。狂暴な軍部政府の力は、どうしょうもないことを、彼は骨身に徹して知っていた。
 古島の顔は、時に、くすんだ能面のように見えた。しかし、優れた能面は、場所により、環境によって、その表情を変える。
 明治・大正・昭和にわたる政治社会の権謀術数の風雪が、その能面のような顔を、つくりあげたにちがいない。彼は、己に襲いかかるすさまじい風雪、怒濤を避けなかった。いや、真正面から自分の顔をさらしたにちがいない。
 戸田は、さしもの古島一雄を笑わすことに成功したのだった。
 「先生!」
 戸田は、呼びかけた。彼は、真剣な面持ちで、問題の核心に触れていった。
 「この戦争は、いったいどうなります?」
 「どうなるも、こうなるもない……決まっているじゃないか」
 古島は、平静に、つぶやくように言った。
 「負け戦ですね?」
 戸田の言葉に、古島は無言であった。新しいタバコに火をつけて、煙の行方を追っていた。
 「先生、いったい、いつ終わるんです」
 古島は、ちょっと目を閉じ、どこか親身な調子で口を開いた。
 「なにか、必要なことでもあるのかの?」
 「実は、今度、新規の仕事を始めることになったものですから、その時期が……」
 戸田は、切りだした。
 「仕事というと……商売か?」
 「そうです」
 「そろそろ、よかろう」
 古島は、断定的に短く言った。
 戸田は、計画中の新規事業の要点を、かいつまんで話した。
 「なるほど、時期が問題だなぁ」
 古島は、視線をそらし、口をつぐんでしまった。
 重苦しい沈黙が続いた。
 戸田は、試みに言ってみた。
 「半年?」
 古島は、視線をそらしたまま、軽く首を横に振った。
 「三カ月?」
 重ねて戸田は言った。古島は、また首を振った
 「一カ月?」
 思い切って戸田は言った。
 古島は、戸田の顔をじっと見た。そして、何を思ったか、碁石を一握りつかみ、盤の上にさらさらと投げ出した。投了である。
 「ありがとうございました」
 戸田は、いささか興奮して、古島の屋敷を後にした。
 戦争終結が、極めて間近であると確信した戸田は、一つ一つ、事業計画の実行に取りかかった。紙の確保の見通しもつけた。印刷の手はずも決めた。
 新聞広告取次の会社にも顔を出した。焦らず、着々と駒を進めていったのである。
 それにしても、資金の不足が障害であった。この時節に、成立もしていない新事業に、投資する物好きもいなかった。また、反古同然になっている株券などの有価証券では、金融の道はなかった。
 当時の経済状態は、一種の原始経済に戻っており、物が、すべてを決済したからである。物と物との交換が、最も信頼のおける、確かな経済活動であった。現物にしか価値がないとまでいわれる時代となっていたのである。
 戸田は、有価証券などをしまっておいた押し入れの奥に、一振りの古刀が転がっているのを発見した。戦争の終結が間近ならば、この古刀の価値も、今のうちだと、彼は知ったのである。
 刀好きの彼にとっては、惜しい気もしたが、すぐ古物商を呼んで、それを売り払った。果たして、高い値で引き取った。彼は、″これでよし″と家に引きともって、教案の作成などに取りかかった。
10  戸田の表弱した体は、日を経るにしたがって、ようやく回復に向かっていった。しかし、極度に痛めつけられた体は、そう簡単にはいかなかった。
 彼は、朝夕、歩行練習のため、よく散歩するようになった。
 ある日の夕方、彼は玄関を開けるなり、奥に向かつて大声で言った。
 「おい、お客様だよ」
 幾枝が、急いで出てみると、身なりの貧しい子どもが四、五人、戸田の後ろにいて、家の中をのぞきこんでいる。
 「何かないか。うまいものでもないか」
 戸田は、妻に言いながら、子どもたちを促した。
 「さぁ、お入り、おじさんの家だよ」
 戸田の家の近くの坂上に、かなり大きな寺院があった。家を失った戦災者のある者は、この寺に避難していたのである。避難というより、流れ込んで来たという方が正しいかもしれない。この「お客様」は、その罹災者たちの子どもであった。
 彼は、散歩の道すがら、それらの子どもたちと、いつしか親しくなっていた。さまざまな子どもがいた。また、子どもたちは、彼の散歩のよい相手でもあった。彼の張りつめた心を、和やかにするには、格好の友だちであったからである。
 幾枝は、最初、薄汚れた、時ならぬ「お客様」にあきれていた。戸田の物好きが、また始まったかと、顔をしかめていた。だが、一関に、一人疎開している長男の喬一のことを、瞬間、思わずにはいられなかった。彼女は、茶の間に戻ると、ありったけの菓子を持ち出してきた。
 戸田は、それを、むずむずしている子どもらに、公平に分け、みんなを喜ばせた。そして、笑いを忘れた子どもたちが、明るく微笑むのを、じっと見ていた。
 彼も、喬一のことを思っていたにちがいない。そして、このいたいけな子どもたちの未来を、暗然と考えざるを得なかった。
 この社会は、この世界は、決して大人だけのものではない。次代は、春秋に富む少年や、青年たちの社会であり、世界であることを、大人たちは真摯に自覚すべきであった。いつの時代でも、どこの国でも、指導者が、真実、平等に、子どもたちの成長と幸福を願いさえすれば、間違っても戦争など起こせるはずはなかったからである。
 「さあ、また、明日、遊ぼう」
 戸田が、こう言うと、子どもたちは口々に、「ありがとう」と言いながら散っていった。
 「お客様」の奇襲は、その日から、空襲よりも日増しに多くなってきた。戸田になついて、明るく元気になっていくようであった。菓子の切れている時も、しばしばあった。その時は、小銭を用意して、子どもたちに与えたりした。
 次第に、子どもたちの人数が増えていった。長身の彼が、子どもたちに取り巻かれ、わいわい言いながら街を行く光景は、もはや散歩とはいえなくなっていた。そして、この珍しい交際は、ずいぶん後まで続いたのである。
 この間にも、戸田は、学会の再建を思わぬ日は、一日もなかった。また、心の奥底では、牧口会長の死が、瞬時たりとも忘れられなかった。総本山大石寺の様子も、心にかかって去らなかった。
 深夜、彼は、再建の構想を楽しみさえした。広宣流布の使命を達成すべき、新しい時代への挑戦が、脈々と鼓動するのを、止めようもなかったからである。
 だが、主要な会員の消息は、ほとんどわからなかった。出征中の人の消息も、疎開した教員たちの便りもなかった。また、戸田の出獄を伝え聞いた人びとも、警察をはばかって、彼に近づこうとしなかった。
 会員は、恐るべき退転状態に陥っていた。戸田は、再び御聖訓の厳しさを、しみじみと身で知ったのである。
 しかし、彼は、″焦るな″と心に言い聞かせた。何よりもまず、彼は、目下、保釈の身の上であることを思わなければならなかった。彼は、ひたすら戦争の終結を待つ以外になかった。
 そして、その心を誰人にも語らず、知らさず、ただ自己の身近な再建の固めに終始したのである。

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