Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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黎 明  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
8  今、彼は、遂に自由を獲得したのだ。出獄の時から、この晩餐に至るまで、彼は饒舌なまでにしゃべり続けた。二年余りの、権力による拘束から逃れた自由を、確かめでもするような調子であった。
 話は尽きなかったが、夜はかなり更けていた。幾枝は、彼の疲労を思い、はらはらしていた。一雄は、別室で寝てしまった。松井清治も姉も、いつか沈黙してしまった。
 平穏な夜に思えた。
 突如、警戒警報のサイレンが不気味に響き、静寂を破った。零時を、ちょっと回った時刻である。窓の暗幕が引かれた。
 家族たちは、習慣のように、防空壕に待避したが、戸田は一人、二階へ上がっていった。
 幾枝は、今夜のサイレンに、かつてない異様な恐怖を感じた。そして、防空壕の中で、いつまでも身震いが、止まらなかった。
 彼女は、これまで、数十回の空襲下にあっても、ついぞ恐怖を感じなかった。彼女には、戦争はどうでもよかった。食糧難も生活の不自由さも、さして痛痒を感じなかった。身に迫る危険のなかにあっても、幾枝には、ただ一つのことしかなかった。寝ても覚めても、奪われた夫の安否だけが、彼女の全世界であったのだ。
 一日も早く無事に帰宅すること――二年の歳月、この一点に彼女の生活の一切がかかっていた。
 しかし、今夜は違った。戸田の保釈出所は、彼女の全世界を満たした。
 さっき、サイレンが鳴る直前に、栄養失調の重症患者は、いたわるように彼女に言った。
 「もう心配するな。こうして、ぼくが帰ってきたんだから、もう大丈夫だ。生活のことも、何もかも心配することはない」
 幾枝は、長年にわたる戦いが、勝利のうちに終わったことを知った。彼女の世界は、一瞬にして、がらりと転換したのである。それによって、常人の平静と感覚が、戻ってきたのであろうか。彼女は、今、初めてサイレンの音に胸は騒ぎ、空襲の恐怖に、おののいたのである。
 一方、戸田城聖は、暗幕に遮蔽された二階の一室で、仏壇の前に端座していた。空襲下の不気味な静けさが、辺りをつつんでいた。彼は、しきみを口にくわえ、御本尊をそろそろと外した。そして、かけていたメガネを取った。
 彼は、御本尊に顔をすりつけるようにして、一字一字、たどっていった。
 ″確かに、この通りだ。間違いない。全く、あの時の通りだ……″
 彼が、獄中で体得した、不可思議な虚空会の儀式は、御本尊に、そのままの姿で厳然として認められていた。
 彼の心は歓喜にあふれ、涙は滂沱として頬を伝わっていった。彼の手は、震えていた。心に、彼は、はっきりと叫んだのである。
 ″御本尊様! 大聖人様! 戸田が、必ず広宣流布をいたします″
 彼は、胸のなかに白熱の光を放って、赤々と燃え上がる炎を感じた。それは、何ものも消すことのできない、灯であった。いうなれば、彼の意志を超えていた。広宣流布達成への、永遠に消えざる黎明の灯は、まさにこの時、戸田城聖の心中にともされたのである。
 彼は、やがて御本尊を仏壇にお掛けして、室内を見渡した。だが、今、この胸中を、誰に伝える術もないことを知ったのである。底知れぬ孤独感が、彼を、ひしひしと襲った。彼は、また、わが心に言い聞かせた。
 ″慌てるな、焦るな。じっくりやるんだ。どうしてもやるんだ……″
 この深夜、彼の心のなかで、黎明を告げる鐘は殷々と鳴り渡ったが、それを誰一人、気づくはずはない。その音波が、人びとの耳に、かすかに轟き始めるには、数年の歳月が必要であった。
 だが、日本の、まことの黎明は、この時に始まったのである。それは後世の歴史が、やがて、はっきりと証明することであろう。
 前途は、あまりにも暗かった。国家の行く手は闇で、彼の身辺も底知れず暗かった。だが、彼の心のなかだけが、黎明を呼んでいたのである。彼は思った。
 ″閣が深ければ深いほど、暁は近いはずだ″
 警戒警報は、やがて解除になった。

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