Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第三節 宇宙と心の世界  

随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

前後
35  仏法ではひとつのとらえ方として、人間があるいは万物が、この現実の世界にそれぞれの姿、形をもって存在しているのは、そうなるべき「因縁」によって仮に和合していると説いている。それは「個と全体」という観点でも大変示唆に富んでいる。個の独立存在を志向する要素主義的な考え方が、物事の最初の一つの原因、要因から成り立つ、はじめに粒子ありきという“一因説”に依拠しているのに対し、仏教では因と縁によって万物が生起してくると説いているのである。つまり全体との関連性のなかから、“因”と“縁”が仮に和合している姿が人間であり、万物であるととらえるのである。
 妙楽大師の『摩訶止観輔行伝弘決』には「親生を因となし、疎助を縁となす」とある。結果を生むのに、直接関係するのが「因」(親生)である。またその因を助けるのが「縁」(疎助)ということになる。その仮に和合した姿を「仮諦」という。「空」という概念の背景には、八万法蔵という膨大な理論体系があるが、原理としては「空」「仮」「中」の「三諦」として示されているのである。
 「諦」とは、「真実にしてあきらか」、また「永遠不変の真理」という意味である。大きくみれば「宇宙」、小さくみれば「生命」の実体を、永遠の法則性のうえから明確に見きわめていくものといえようか。そこで「空」「仮」「中」の三諦の「空諦」とは、簡単に言うと、万法の性格、性分のことである。姿、形あるものには、すべて個としての性質がある。
 例えば、どんな小さな素粒子でも、それぞれ特有の性質が当然ある。
 この性質、性分をはらんで、因縁によって和合した「仮諦」は、永久にそのままの状態ではなく、必ずいつか滅していく。しかし、たとえその姿、形を失ったとしても、「空諦」である性質、性分は存在の属性として永久に残るという意味といえるであろう。
 この「空諦」には、二面性がある。仮諦としての「生」に働きかける場合と、「死」によって、宇宙に冥伏している場合である。死においては、見ることも、とらえることもできないが、「空諦」には永遠不変の核が備わっている。その永遠不変の核が「中諦」である。「空諦」にも、「仮諦」にも、その本源には「中諦」というものが常に実在している。
 この核を成り立たしめている原点であり、発動せしめゆく根源の当体を、「中道一実の妙体」(「一生成仏抄」)として、明快かつ具体的に説き明かされているのである。
 さらに「三諦」の関連について、「仮諦」としての生にも「三諦」があり、「空諦」としての死にも「三諦」がある。常住する「中諦」にも「三諦」がある。
 そうした、それぞれの「三諦」が調和し、秩序ある姿をとっていることを、「円融三諦」と説いている。これが法華経の極説中の極説となっているのである。
 これらは三諦論の一次元の論議であるが、大なる宇宙、小なる宇宙のありのままの姿をあますところなくとらえ、そして人間、社会のよりよき生成発展をとげさせゆく万物万法の調和と秩序と、創造と蘇生への法則を明かしたのが仏教である。
 このように、仏法の透徹した哲理は、現代の科学をはじめとするあらゆる分野に対し、限りない示唆を与えている。そして、その求める方向には必ずといっていいほど仏法のまばゆいばかりの英知が輝いていることに気づくのである。

1
35