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日蓮大聖人・池田大作

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第三節 宇宙と心の世界  

随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

前後
2  アメリカの思想家ソローはエマーソンの友人であり、インドのマハトマ・ガンジーなどにも、多大な影響を与えた人物である。このソローも、自らの「生命」それ自体の探究を志向した一人であり、次のような言葉を残している。「君の眼を内に向けよ、しからば君の心のなかに まだ発見されなかった一千の地域を見出すであろう。そこを旅したまえ、そして自家の宇宙誌の大家となれ」(『森の生活』神吉三郎訳、岩波文庫)
 一流の人の思想は、結局、仏法に通じていくように思われる。それは、物事の表面的な現象と遊びたわむれているような浅はかな人生態度からは決して見いだされない。物事の奥深い世界を真摯に追究していってこそ、永遠にして広大なる世界を知ることができる。
 “生命の世界を旅し、そして自身の宇宙誌の大家となれ”と、ソローは言う。これこそ仏法で説く生命の世界である。めざすべきものは、安易な狭い“人生誌”ではない。生命という広大なる宇宙につづりゆく“幸福への旅路”なのである。
 またソローは「諸君の内なるすべての新大陸と新世界とのためのコロンブスとなり、貿易のではなく思想の新しい航路を拓きたまえ」(同前)と述べている。“内なる新世界の発見者”、“新しき思想の開拓者”になれという。そしてまた、ソローはいみじくも“心の中の一千の地域”と表現している。ソローはその具体的方途は提示しえなかったが、仏法では一念の中に三千の世界、現象を含むという「一念三千」の甚深の法理を説いている。「生命の旅」の最高の羅針盤が仏法であり信仰といえるのである。
3  人間の生命の深奥には、大海よりも大空よりも広大なる、無限の世界がある。苦悩と苦痛の雲を突き抜けた向こうには、無窮の青空がある。大宇宙にも通じる、生命のこの壮大なる実在を説き明かしたのが仏法である。日蓮大聖人は「一心法界の旨とは十界三千の依正色心・非情草木・虚空刹土いづれも除かず・ちりも残らず一念の心に収めて此の一念の心・法界に徧満するを指して万法とは云うなり」(御書三八三㌻)と説かれている。すなわち、宇宙の森羅万象、万法ことごとくが生命の「一心」、「一念」に包含される。
 現代は“天上に輝く星辰”への感動を失いつつある時代といえようか。また生命の内奥に迫りえず、“わが内なる道徳律”への肯定的実感を欠いた時代でもあろう。それは、人生への深き価値を見いだしえず、同時に人生の羅針盤を欠いた時代を意味しよう。しかし価値軸なき荒野がいつまでも続いてよいはずがない。むしろ喧噪の時代であるからこそ、生命や宇宙に対する真摯さと感動が必要だと思えてならない。
 まさに日々刻々と変化しゆく現実の生活にあって、社会へ宇宙へと無限に広がる「一念」を持つことこそ、心豊かな境涯の確立へとつながっていく。その「一念」を持ちうる確固たる人生観があるならば、この荒波のごとき社会を、悠々と乗り切っていけると思う。
 その意味からも宇宙に秘められた神秘をただ考えるだけであってはならないはずだ。人間と社会の泥沼のごとき現実を避けて、ただ神秘的に考えるだけであれば宇宙はたんなる好奇心の舞台になりさがることは必定である。そして宇宙をたんなる利用の具にしてはならないこともまた当然である。どこまでも宇宙に対する敬虔なる姿勢を堅持しつつ、深き生命への探求と思索と行動をなしゆく人生でなくてはならないだろう。
4  自然と生命のリズム――妙楽大師の弘決の文
 朝は太陽がこうこうと昇る。夕方は天空を赤く染めながら夕日が沈む。夜空には無数の星辰が銀色に輝く。この絶妙な自身と宇宙との舞台を思うとき、おのずから人は、深遠なる真理に思いを馳せざるをえない。
 大自然のなかで一体感をもって生活していた昔の人々は忙しい現代人よりも、人間自身の生命体と宇宙の生命体の感応について、理論も理屈も超克して豊かな直観智を持っていたことは、想像にかたくない。科学の知識がなくとも、人々は毎日昇りゆく太陽の恵みの作用と自然の秩序を経験から学びとっていったともいえるであろう。
 宇宙には、まことに絶妙なる本然のリズムというものがある。
 自然のリズム、社会的な時の流れのリズム、人間の肉体の中に潜むバイオリズム、さらにはこの宇宙のリズム――これらあらゆる次元で奏でられるリズムというものは、根底においては、決して人間の才知では逆らえない何かがある。身近な話でいえば音楽のリズムにしても、演奏の最中に、一人それに反対しようとして、心の中で懸命に別のメロディー、リズムを試みようとしてもなかなかできない、逆らえない力があるものだ。
5  宇宙と人間生命の関連性が、密接不可分のものであることは言うまでもない。例えば、人間の血液が、環境の変化と微妙な関係にあることはよく知られている。血圧は、一日のうちでは昼間は高く、夜は低いことが明らかになっているし、季節でいえば、冬は高く、夏は低いといわれる。気温十九度の部屋から、八度の寒い部屋に移動しただけで、健康な三十代の人でも自律神経による血管の収縮によって血圧が十~二十ミリメートルHg上がるという実験結果も報告されている。
 人間の睡眠の内容をみても、太陽と地球の運行に、深い関連性があるようである。よく「十二時前の睡眠は、それ以降の二倍の深さがある」などといわれるが、事実、人間の熟睡度は午後から日没にかけてしだいに高まり、深夜の十二時ごろ最も深い眠りができる状態に達し、それから急激に低下、午前四時、五時という日の出のころには最低となるという。徹夜等をして昼間、急に眠ろうとしても、疲れているわりになかなか熟睡できないことがあるが、それは、習慣とか、騒音や明るいというだけでなく、本来のリズムに反しているからであろう。
 また、ホルモンの分泌についても、成長ホルモンは人間の睡眠中に分泌されるというし、副腎皮質ホルモンの分泌は二十四時間の周期を持つという。
 このような、いわゆるサーカディアン・リズム(概日性リズム)は、動物のみならず植物でもよくみられる。明確なる調和のリズムが、宇宙にも、生命にも奏でられているのである。
 仏法では、「依正不二」と、それらを説いている。簡潔に言えば「正報」は主体、「依報」は環境ということになる。これが「不二」つまり「二にして二ならず」という関係にあるというのである。また、「一生成仏抄」(三八三㌻)という御書には「己心の外に法なし」と説かれている。
 したがって久遠元初より、宇宙には、それ自体の、すべての法則が存在していると同時に、人間自身の内奥にも、同じ法則が存在していると、仏法では明確に、具体的に説いている。
6  妙楽大師の『摩訶止観輔行伝弘決』をひいて日蓮大聖人は「三世諸仏総勘文教相廃立」において次のように述べている。
 「弘決の六に云く『此の身の中に具さに天地に倣うことを知る頭の円かなるは天に象り足の方なるは地に象ると知り・身の内の空種なるは即ち是れ虚空なり腹の温かなるは春夏に法とり背の剛きは秋冬に法とり……』」(御書五六七㌻)
 この文は「我即宇宙」「宇宙即我」という連関性を、わかりやすく古代中国の陰陽五行説に示される比喩を借りながら説いている。大きくみると「頭」が円かなのは「天」であり、「足」は「地」、「身の内」の空間を「虚空」にとらえる。「腹」が常に温かい状態は「春夏」で、「背」が剛いのを「秋冬」と、四季にあてはめている。
 また、それに続いて「『四体は四時に法とり大節の十二は十二月に法とり小節の三百六十は三百六十日に法とり、鼻の息の出入は山沢渓谷の中の風に法とり口の息の出入は虚空の中の風に法とり眼は日月に法とり開閉は昼夜に法とり髪は星辰に法とり眉は北斗に法とり脈は江河に法とり骨は玉石に法とり皮肉は地土に法とり毛は叢林に法とり……』」――これは、頭、手、身、足の「四体」を、春夏秋冬の「四時」にのっとっているととらえている。両手、両足にある各三つの大節(合わせて十二)を「十二カ月」、小さな節の三百六十あるのを「三百六十日」(旧暦の一年は三百六十日)。さらに「鼻」の呼吸は「山沢渓谷の中の風」、「口」で呼吸するのを「虚空の中の風」。さらに「眼」は「日月」、まばたきするのを「昼夜」とみる。「髪」は「星辰」であり、「眉」は北斗七星、「脈」は河の流れ、「骨」は「玉石」になり、「皮肉」は「地土」、毛は樹木が繁茂した「叢林」という。
 さらに心臓、肝臓、脾臓、肺臓、腎臓の「五臓」は、「天に在っては五星」とあり、水星、金星、火星、木星、土星とみていいであろう。このように仏法においては、どこまでも人間と大自然、大宇宙は相互に密接な関連あるものととらえる。
7  いかなる生命も、大自然と不可分に結びつき、宇宙の律動のなかに個々の生を営んでいる。万物すべてが、大宇宙の絶妙なリズムに支えられて、生と死の流転を織りなしている。しかも、小宇宙たる人間生命に、大宇宙の調和はそのまま集約され、凝縮しているといっても過言ではない。
 今までの西洋近代の学問が、ともすれば分析的な方法に走るあまり、総合的見地を見失いがちであるのに対して、大宇宙との関連のうえから人間生命を総合的に解明しようという東洋の思考法は、今後いちだんと注目すべき洞察が含まれていると考えたい。
8  この宇宙と人間との関連について、最近の物理学の世界においてデイヴィッド・ボームが提唱し話題を呼んでいる「ホログラフィー・モデル」も一つの考え方を提示しているように思う。
 ホログラフィーとは元来、レーザー光線を用いた立体映像のことをいう。干渉縞の集まりのホログラムから全体像が出現すること、細かく分割されたホログラムの破片からも全体像が現れることなどの特徴をボームは物質現象の解明に用いている。
 この理論は、現存するあらゆる事物の背後には全体を貫く秩序があり、全体は部分の中に含まれているということをその核としている。
 このユニークな理論を個人の意識と大宇宙との関係として見る時、われわれの頭脳の中にある情報と宇宙全体の情報とはきわめて深い関連性を持っているということになる。現に、現代科学においては、ビッグバンによってつくりだされた宇宙のあらゆる情報が基となって、無数の星が誕生し、地球のような人間が存在する天体も生まれ、われわれのこの身体も頭脳も、精神もすべて源はそこにあり、情報も収められている。一個の微小な人間といっても、広大無辺の大宇宙と根源的に、かつ密接に関連していることがわかってきている。
 このように考えると、リズムとは宇宙と人間生命の連動のなかで奏でる妙なる共鳴といってよい。
 あらゆるものが、根底のところで、他の生物と連なり、自然と連なり、宇宙へと連なっている。文明のそして都市の喧噪のなかにも自然界そのものの持っている生命との相互関連や循環のリズムが厳然とある。人間の肉体的機能や精神的機能それ自体も、本来、自然界のリズムから生じたものであり、社会が複雑になればなるほど、本然のリズムに目を凝らす必要がある。そして自身をそれに合致させていくことを生の基本とすべきであろう。その合致のなかでこそ、本当の安定感と充実が生まれると思う。
9  いわゆる真理を求めていく人間の知性や好奇心が自然と人間の一体感を欠落させ、科学と人間生命の断絶をもたらすとしたら、これほどの不幸はない。どこまでも科学は人間から離陸し、また人間に帰還すべきものである。
 そしてまた、これを繰り返していくところに、正しい科学観、生命観の樹立がなされていくのではないだろうか。医学といい、天文学といい、科学というも、元来、生命の故郷から、無限の、神秘の時空に挑戦していく学問といえよう。「宇宙の科学は、たしかに進歩してきたが、科学で解明できる問題のみを明確にしてきた点と、そして、解明できない分野を無視してきた点を、知らなければならない」と指摘する人も多い。その解明できない分野が、生命内奥の問題といってよい。
 現代社会では、この生命を明快に解明していく高等宗教までもが、数多くの宗教と並列されて、すべてを非合理的なものとして、邪魔もの扱いされてきたむきがある。それは、大きな過ちである。偉大なる知性として人類に貢献してきた多くの学者が、最後に志向しているのは、いわゆる高等宗教への次元になっている。
 その意味から、大乗仏教をはじめとする高等宗教というものに対する真摯な探究が迫られている時代に入ったといえるのではなかろうか。
 この一点に目覚めないかぎり、最も重要な人間性の完全なる覚醒はありえないと私は思う。
10  宇宙に満ちあふれる生命――ドレイク、クラウス博士らの指摘
 生命ほど不思議なものはない。また最高にして最尊の宝は、生命以外に断じてない。そして、生命誕生のドラマほど感動的なものもないであろう。
 二十世紀は人類が宇宙という壮大なフロンティアに偉大なる一歩を印した画期的な時代となった。そして天文学等の進歩により、未知の世界の探究が進み、宇宙には地球と同じような天体が数限りなく存在することもわかってきている。学者によっては、そのなかの一部の天体には人類と同じような生命が誕生し、地球よりも古い天体では、われわれよりも高度な文明社会が築かれているのではないかと想像する人々もいる。
 現に宇宙空間では、生命が発生するための因子が次々と発見されており、地球以外の宇宙の世界にも生命を発生させる可能性のあることが、しだいに明らかにされていると聞く。
 まことに宇宙の謎の解明は、何故この地球上に生命が誕生したのかという問題とも密接不可分の問題のようである。最近の観測の二、三の例にも、こと座のアルファ星ベガの周りに惑星群とみられる物質の集まりがあり、われわれの太陽系と似た発生過程にあるかもしれないとの推測があった。また、オリオン星雲の中に、太陽系がこれからできあがると思われるガス雲が観測されたという報告もある。
 アメリカのジョン・クラウス博士は、「太陽は銀河系を構成する千億個の星の一つにすぎず、また銀河系星雲は宇宙に存在する千億個の星雲の中の一つにすぎない。地球のような惑星を持つ星が存在するチャンスは百万分の一にすぎないと仮定しても、銀河系の中で惑星を持つ星の数は十万個になる。天文学者はこれ以上星があると考えているので、生命が存在する可能性は大きい」(『巨大な耳』鴻巣巳之助訳、CQ出版社)という見解を発表しているというが、きわめて興味深いことである。同じアメリカのドレイク博士も、銀河系内の文明の数を計算する有名な方程式を提示している。多くの学者がこれに基づいて計算をしているようであり、ある学者は銀河系における高度文明の数を十万と予想している。
11  このように、宇宙には生命体が形成される可能性が高いといわれている一方、学者によっては、生命発生の確率をきわめて低くみている人もいる。さらに当然ではあるが、生命発生の条件が整うことと、生命が実際に発生するということを同一視することはできないという事実も見逃すわけにはいかない。
 聞くところによると『偶然と必然』の著作でも名高いジャック・モノー博士によれば、たとえ専門の分子生物学で、材料と部品を全部そろえても生命を作り出すタンパク質一個さえ、超天文学的な数で、順序を組み合わせなければ生まれる確率は少ないという。
 地球上の生物は、タンパク質と核酸からつくられ、そのタンパク質は二十種類のアミノ酸が鎖のようにつながって一つのタンパク質が生まれるが、望みどおりのものをつくる確率は、ほとんどゼロに等しいという。その確率をたとえていえば“宇宙の物質が全部アミノ酸であっても身体を形成している一個のタンパク質も作ることはおぼつかない”ほどになるといわれる。原始生命となると、さらに高次の結合をとげないと出現してこないことになる。
 いわゆる“偶然説”――生命の発生はありえない確率のなかでたまたままったく偶然に起きた一回限りの現象だとする、この説はいまだ根強い。
 その一つとして、タンパク質を構成するアミノ酸には、L型とD型の二つの種類があるが、地球上の生物はすべて、L型のアミノ酸でできているという。ところが、実験室などで、化学的に合成すると、必ず、L型とD型のアミノ酸が半分ずつできてくるという。そこで、確率的に起こりえない現象が一回だけ起き、その原始地球で生まれた原始生命がたまたまL型アミノ酸から誕生、それが優先的に増殖・進化を続けたのではないかと考えるわけである。
 この主張に対して、原始地球上のあちこちに、さまざまな型の生命が発生したが、自然淘汰によって最終的には現在のような安定した型のものが残ったのではないか、とする考え方もある。一部の科学者の間では、D型よりL型のほうが、わずかであるが安定しているという見解があるとも聞いている。こうしたことを考えると、単なる偶然説だけで生命の発生を期待することもきわめてむずかしいように思われる。
12  しかし、いずれにしても、現実に、この地球上に生命が発生し、進化をとげた。これを説明するものとして“自然が生命を作りたがっている”という興味深い説をうかがったことがある。野田春彦博士はあくまで科学者としての立場を堅持しつつも、「有り得べからざることが一度だけ、何の理由もなく起こったというならば、あとは何の議論もできない。それではどうしても気持が悪いとすると、自然界の物質には生命を作りたがるような傾向があると考えざるを得ない」(『生命の起源』NHKブックス)と述べている。
 この、自然が生命を作りたがっているというのは、きわめて意味深い表現であると思う。というのはもう一歩進めて、その自然界に秘められた“生命を作りたがる傾向”の意味するところを熟慮すれば、つまるところ、宇宙存在自体に内包された生命へと向かう根源的な傾向性にいきあたるのではないかと思うからである。さらに言えば、大宇宙生命には、生命的存在を生み出し、はぐくみ、創造の道へとかりたてる本源的な内在力がそなわっていると推察できるように思う。こうした宇宙生命の根源的な力に導かれて、この地球においても、原始生命が産声をあげたのではなかろうか。もちろんこれは高度な哲学的思索を要することであるが、普通、物質とか物体といえば、生命的存在とは何の関連もないもののように考えがちである。しかし、その物質そのものに即して、生命的存在へと向かう傾向性を見いだしているところに、この洞察の鋭さがあると私は思う。
13  仏法では、この宇宙を「三世十方」の仏土としてとらえている。つまり時間的にも過去久遠から未来永劫にわたって、そして空間的にも十方、すなわちあらゆる広がりのなかで、仏、衆生、国土が存在するという着想を持っている。日蓮大聖人の御書の中では「三千大千世界と申すは東西南北・一須弥山・六欲梵天を一四天下となづく、百億の須弥山・四州等を小千と云う、小千の千を中千と云う、中千の千を大千と申す」とある。この三千大千世界という壮大な世界観、宇宙観のうえに、現在のわれわれの住む世界だけが唯一の世界ではなく、宇宙の他の場所でも、人類と同じような生命が発生し、そこでも生命尊厳の法を厳然と説いていると説かれているのである。まさに、仏法は全宇宙的広がりを持った教えであるといえるだけでなく、この思想からすれば、宇宙のあらゆるところに生命発生の契機が存在し、また生命が発生している星が数多くあるといっても、決して不思議ではない。
 不可思議なる生命の神秘をひめ、無限大に広がりゆく宇宙――。その中を、一貫して貫き通している無限なる生命の法、すなわち、宇宙に実在する一礫一塵までも含む世界観を説き明かしているのが大乗仏教そのものである。
 深遠かつ至難な生命誕生のドラマと、広大な仏法哲理に邂逅する時、わが胸中を大宇宙へも連なりゆく世界へと開き、根源的な力に立脚しつつ、力強く生ききるところに真の尊厳と充実があると思わずにいられない。日蓮大聖人は「春の時来りて風雨の縁に値いぬれば無心の草木も皆悉く萌え出生して華敷き栄えて世に値う気色なり秋の時に至りて月光の縁に値いぬれば草木皆悉く実成熟して一切の有情を養育し寿命続き長養し終に成仏の徳用を顕す(中略)無心の草木すら猶以て是くの如し何に況や人倫に於てをや」(御書五七四㌻)と仰せである。
 私はかねてから、二十一世紀は「生命の世紀」であると訴えてきた。そして、その二十一世紀は今や目前となっている。生命は尊い。そして一切の原点は生命にある。今、宇宙の広がりのなかから、そのありがたき生命を得たことを認識するとともに、生命の尊厳を実感しうる確かな生き方こそが大切だと思う。
14  大海のごとき境涯を――“生命の母”海の誕生
 久方ぶりに伊豆に行き、多くの方々と親しく懇談する機会を得た。伊豆は、弘長元年(一二六一年)五月十二日、日蓮大聖人が幕府の弾圧を受けて配流され、苦難の日々を過ごされた王難の地である。とともに、牧口、戸田両会長が、大聖人をお慕い申し上げながら、熾烈な法戦を展開された地でもあり、伊豆は幾重にも、仏法の「師弟」のゆかり深き国土となっている。
 「大海へ衆流入る・されども大海は河の水を返す事ありや、法華大海の行者に諸河の水は大難の如く入れども・かへす事とがむる事なし」(御書一四四八㌻)――伊豆に配流される直前、日蓮大聖人が椎地四郎に送ったお手紙の一節である。そこにはいかに大難があろうとも、何ものをも受け入れて動じない、限りなく広々とした「生命の大海」の世界が脈打っている。私は、ここへ来るたびに、流罪中の大聖人の御心境を思い、厳粛な気持ちにならざるをえない。果てしない海を見ながら、どのようにこの大海を御覧になられたのであろうかと、いつも思う。海には、荘厳さがある。歴史があり、光線がある。表現しえぬ詩がある。無量の人々に、幾多の思い出を紡ぎゆく不思議な海である。
15  海は“生命の母”といわれる。事実のうえで生命をはぐくんできたのが海であるとともに、その豊かなうねりはそのまま人の心に豊かさをもたらし、母のごとき自然のふところの中でのやすらぎを与えていく。地球上には多くの生物が現存しているが、それらの生物を誕生せしめたのは「海」である。
 地球は「水惑星」ともいわれるように、表面に満々と水をたたえている。しかし、同じ太陽系でも、生命は地球にしか宿らなかったことがほとんど決定的になりつつある現在、実にこの海の誕生こそ、地球を特徴づける決定的事件であったといえるのである。
16  ところで、海はどのようにしてできたのだろうか。それにはまず大気の発生にふれなければならない。大気の発生については、いろいろな説がある。
 一説には、およそ五十億年前、原始太陽が生成し、その周りに集まってきた塵やガスが集積して、四十六億年前、地球が誕生。そして現在の大きさになったとき、周囲には水素とヘリウムの厚い大気ができたようだ。これが一次大気といわれるものである。
 そのころ地表は一面、溶けた岩石、マグマに覆われ、その温度は摂氏約三千七百度にも及び、二万気圧もの高圧であったという。その後、活発化した太陽風によって、この一次大気が吹き飛ばされる。それによって、一気に気圧が下がり押さえられていたマグマの中から種々の物質が蒸発、これによって二次大気が形成されたという。
 こうした説のほかに、二次大気の形成にいたるまでの過程を説明するのに、最近注目されだしたものに、微惑星衝突説がある。この説によれば、原始太陽の周りに集まった塵やガスから、まず微惑星(直径十キロ程度)が無数に生成し、この微惑星が、衝突・合体を繰り返して、地球ができたという。この説の場合、すでに述べた一次大気に相当するものは、ほとんどない。二次大気に相当するものは、微惑星の中に含まれていた水、二酸化炭素、窒素等が、原始地球に衝突するさいの、衝突エネルギーによって気体化し、地球表層に集まったとするものである。
 微惑星の衝突・合体のこの説の論拠となるものは、私たちになじみ深い月のクレーターである。クレーターは、微惑星(隕石)の衝突による痕跡といわれる。近年の人工衛星の発達のおかげで太陽系の中でも岩石を主体にした水星・金星・火星は、いずれも月同様、クレーターに覆われていることが明らかになっている。この地球にもカナダのマニコーガン・クレーターや有名なアメリカのアリゾナ隕石孔などクレーターが数多く残っている。なかには直径六十キロ以上もあるものが、スペース・シャトルによる写真撮影で明らかになっており、この説もかなりの説得力を持っているようである。
17  詳細な議論は別にして、いずれの説にしても二次大気がある程度まで冷えると、水は凝縮し、地球には最初の雨が降る。雨が降り始めると地球の冷却化は急速度に進み、雨は一気に地表に降り注ぎ、海が誕生する。
 ここで大気中の塩化水素は、雨や海に溶け込み、酸性のきわめて強い海ができる。この過程で、塩酸とナトリウムが反応して水と塩化ナトリウム(塩)ができるため、現在のように塩分を含んだ海水となったという。
 一方、二次大気中の二酸化炭素は、中和された海にどんどん吸い込まれ、岩石となって海底に固定される。
 この時、残った大気は窒素を主成分とし、いくらかの二酸化炭素と水蒸気によって形づくられている。時を同じくして、生命誕生への準備は、着々と進められていく。雷放電や、隕石の衝突エネルギーを利用して、大気や海水中の炭素・窒素・酸素・水素の元素を使って、生命の材料であるアミノ酸や核酸塩基等が作られ、海はあたかも有機物のスープと化していく。さらに時は進み、その“生命をはぐくむスープ”とでもいうべき“母なる海”の中から最初の生物が発生する条件が整っていく。この過程はきわめて劇的な事件といってよい。これに加えてこのころの太陽からの紫外線は、地表まで通過し、誕生しようとする生命を破壊する可能性があったが、水が紫外線を遮断する防御の役割を果たし、これら諸要因がからみあって生命は海のなかで誕生したと考えられるようである。
 そして長い年月の後、二酸化炭素、水、光を利用して光合成を行う生物が出現し、光合成によってつくられた酸素が、海水と大気中に供給される。今度はここで生じた酸素がオゾンを作り、このオゾンが紫外線を遮断するようになる。こうして生命は、初めて水中から地表へ進出が可能になる。そして地上には植物が生育するようになり、大気中に酸素が急速に増えていく。こうして地球は三十億年ともいわれる長い年月をかけて酸素を蓄積してきたのである。
18  現在、地球上には数百万種の動植物が生息しているが、海の誕生といい、酸素を持った大気の出現といい、結果的にとらえると、それはあたかも人類の誕生を約束するかのごとく、壮大な舞台が形成されてきた。水星、金星、火星等とは違って、雨が降り、海が誕生すること自体のなかに、太陽からの距離をはじめとした絶妙なる地球の存在を実感せざるをえない。まことに大宇宙が演じた深遠なドラマといえよう。不思議なる地球であり、不思議なる海であり、そしてありがたき生命である。このように考えると、宇宙と地球と生命への敬虔なる姿勢を欠き、核戦争のごとき地球の危機を自ら招きよせる人類とはいったい何であろうかと思わずにいられない。
19  日蓮大聖人は、涅槃経や法華経「薬王品」の文を引かれて「海」の持つ徳について述べられている。
 例えば涅槃経の「八つの不思議」について、次のようにある。
 「大海に八の不思議あり、一には漸漸に転深し・二には深くして底を得難し三には同じ一鹹の味なり・四には潮限りを過ぎず・五には種種の宝蔵有り・六には大身の衆生中に在つて居住す・七には死屍を宿めず・八には万流大雨之を収めて不増不減なり」(御書一四四七㌻)
 大海には八の不思議がある。一にはだんだんと非常に深くなる。二には深くして底をきわめ難い。三にはどこの海水も一様に塩辛い味である。四には潮の干満には一定の法則がある。五には種々の宝を蔵している。六には大きな生物が住んでいる。七には死屍をとどめない。八には諸河が流れ込み、大雨が降っても増減がないことである。
 また大聖人は、この海の八つの不思議を通して、法華経の偉大さを譬えられている。
 まず「漸漸に転深しとは法華経は凡夫無解より聖人有解に至るまで皆仏道を成ずるに譬うるなり」(同㌻)とある。海がだんだんと非常に深くなるということは、法華経は無解の凡夫から、有解の聖人にいたるまで、皆仏道を成就できることにたとえている。
 次に「深くして底を得難しとは法華経は唯仏与仏の境界にして等覚已下は極むることなきが故なり」(同㌻)とある。深くて底を極め難いとは、法華経はただ仏と仏とのみが悟っている境界であり、等覚(菩薩の極位をさし、長い間の菩薩の修行を完成してまさに妙覚の仏果を得ようとする位)以下の菩薩には極められない。ただ妙法受持によることに、譬えられる。
 さらに「種種の宝蔵有りとは諸仏菩薩の万行万善・諸波羅蜜の功徳・妙法に納まるに譬ふ」(同㌻)と。海は種々の宝を蔵している。これは諸仏・菩薩のすべての修行・善行・諸の波羅蜜を修行する功徳は妙法に納まっていることをいう。他は省略するが、このようにまことに深き仏法の生命の法理、生命の尊極さについて述べられているのであり、それを海の徳をもって譬えているところに意味深いものを感ずる。
 大宇宙が地球上に生み出した“生命の母”なる海。不思議なる海と劇的ともいえる生命の誕生。そこには、一つの生命を生み出すために何十億年もかけてきた大宇宙の壮大なる営みがある。そこに思いをはせるとき、“生死の大法”に則り、尊厳なる生命を実感しつつ生きることの大切さを思わざるをえない。
20  生命の進化と知性の源――ライアル・ワトソンの「百匹目のサル」
 生命の進化という問題は、人間生命誕生の本来の意義にまでかかわり、科学と宗教の対立など実にさまざまな波紋を呼び起こしてきた。
 一八五九年、『種の起源』をダーウィンが発表して以来、彼の衝撃的主張は種々の批判を受けながらも生き続け、ネオ(新)ダーウィニズムとして、現代の進化論の主流・正統派となっている。現在、彼の進化論を揺さぶる動きも巻き起こってはいるが、その論点は大別して二つの次元に分けられるであろう。一つは、生物進化そのものを認めるか否かという次元の問題である。第二に、生物進化を認めたうえで、種の進化の仕方として、果たしてダーウィン以来の突然変異と自然選択を主要因とする考え方でいいかどうかという対立である。
 第一の次元の問題として代表的なのは、言うまでもなく創造論に立つ人からの進化論批判である。しかし生物進化があったという事実は、いまや否定できない真実である。現に、天地創造の六日間に一切の万物を神が創ったという創造説に立つキリスト教徒の大部分も、信仰そのものは貫いても、こと進化論については、現代科学の理論を受け入れるようになっている。
 しかし、なかにはキリスト教の“創世記”の立場から、進化論それ自体に反対する運動が、今もなお、アメリカなどに残っているようだ。彼らは、例えば、カリフォルニア州で公立校の授業において進化論のみが教えられて、旧約聖書に基づく天地創造説が教えられていないのは宗教の自由に反する、という訴えまで起こしたというが、そうした人はかなり少なくなっている。
 問題はむしろ第二の点である。この問題は、現在、さかんに論争が行われており、学者のなかには、自然選択が本当に進化の主要因なのかという疑問を投げかけている人もいる。つまり、生物の個体が、ランダムに突然変異を起こし、環境に最も適応したもののみが繁殖し、そうでないものは淘汰されるという、適者生存の原理に対する根本的な疑問である。
 このような疑問から、進化には一定の方向があるという説も出てくるように思われる。例えば、日本でも今西錦司博士の理論がこうした方向を示しており、ユニークな進化論として話題を呼んできた。
21  進化の要因については、今後も研究が進むであろうが、生物進化の頂点に出現した人類の誕生について岡村祐一氏は著書『ホモ・サピエンス?』(玉川大学出版部)の中でまことに意味深い説を立てている。それによれば人類が誕生したころは、地球の気温がしだいに寒冷化に向かい、この寒冷化のため、森が縮小しはじめ、食糧も乏しくなった。そのころ、人類の祖先だけが、類人猿と違って森にしがみつくことをやめ、自らの意志によって森を離れ地上に降りたったという。
 森の縮小による食糧危機、一方、地上に降りれば肉食獣のえじきになるというはざまのなかで、人類の始祖はその環境を乗り越えようとして自らの意志による“決断の時”を持ったわけである。
 ライアル・ワトソンは、“百匹目のサル”という例証を用いて類人猿から人類の誕生の一瞬を説明している。ワトソンは、例えば食前にイモを洗って食べるという新しい文化を得たサルが、一匹からしだいに増え、数年後、九十九匹から次の一匹が加わり、百匹になったとする。この一匹が加わったことにより、数がある値を超え、臨界量を超過した瞬間から、一気に新文化が受容されるという例を出しつつ、脳についても言及する。
 「進化の途上で脳はあるとき、臨界規模に達したものと想定できる。そのとき脳物質がわずかに量的増大をとげた結果、機能面で劇的な質的変化が起こった。この人間界におけるルビコン川とも脳細胞の数量上の『一〇〇匹目のサル』とも言うべき分かれ目が、だいたい七〇〇立方センチメートルなのである」(『生命潮流』木幡和枝・村田恵子・中野恵津子訳、工作舎)
 つまり、知性の大きさに関係する脳の大きさが七百立方センチメートルという臨界点を超えた時、人類へのルビコン川を渡ったというのである。
 これについてもさまざまな説と意見が出されているようであるが、たしかに動物性から人間らしさへの決定的な第一歩を、何らかの形で踏み越えたのであろう。しかし、人間の道への生命自体の躍動は、かつて、生物進化の過程で、数限りなく起きたであろう新しい種の形成とは、異なる色彩を帯びていたのではなかろうか。
22  かつての生物進化を推し進めたものは、主に身体的な衝動であり、本能であったと思う。ところが、動物から人類への進化上における生命の飛躍を貫くものは、たんなる動物としての無意識的な本能だけではない。生物進化のなかから姿を現しつつも、それを凌駕した特質を示す、理性の光であり、自由なる意志であったと私には思えてならない。
 言い換えれば、人類の始祖に浮かび上がった“飛躍する魂”が、生物進化を乗り越えて、人類進化の道を切り開いたのだと思う。その魂が、知性、理性、倫理、意志、精神という人間たるべき内的推進力を生み出したといえようか。
 もちろん、この地球上における生物進化の三十億年にも及ぶ長い旅路がなければ、人類進化への扉は開かれなかったであろう。しかし、生物進化のたんなる延長線上に人類進化を位置づけることは、決して当を得てはいないだろう。
23  いったい、人類誕生の時点で輝きを放ち始めた知性、理性、倫理などを、人類の始祖たちはいかに手に入れていったのであろうか。そのかぎを探る一つのヒントとしてネアンデルタール人やクロマニョン人などを考察すると、そこには「死」の問題への対処という重大な点が浮き彫りにされてくる。ソレッキー博士によれば、ネアンデルタール人たちは墓の周りに、野菊やすみれの花を供えていたという。そこには死と宇宙に対する敬虔な姿勢が明確にあった。
 すべての生物が、死を免れえない存在でありながら、ただ、知性、精神の火をともした人間のみが、来るべき死を自覚している。ネアンデルタール人はまさに死に対する意識を持っていたといわれる。そして同時に、その文化を調査すると、病弱者や老人などに対し、集団の力で守っていたことがうかがえるという。
 かの人々の生命には、生死流転を直覚した知性とともに、実践理性としての道徳律が脈打っていったにちがいない。その心の底から、自然のうちに浮かび上がる道徳法則――それは、いかなる実在からわきいだすものであろうか。太古の人々の思索は、死をとおして未来に向かうと同時に、道徳、倫理の眼を求めて、自己の生命の奥深く分け入った。そして、自然の脅威にさらされつつも、その苦難を乗り越える能力を生まれながらにして授けてくれた根源的実在への畏敬の念を忘れることはなかったのであろう。つまりネアンデルタール人は、死への思索をばねとして、直感的な英知を、自己の生命と大自然の流転の内奥にさしこんだのである。もちろん、彼らには、科学的な分析能力などはなかったであろうし、論理的な思考も未熟なものでしかなかったと思われる。しかし、彼らの体当たりともいえる、根源的なものへの肉薄は、時として現代の私たちよりも優れていたとさえいえるのではないだろうか。多くの学者がネアンデルタール人の心には宗教的な衝動がうずいていたと指摘しているが、私自身、さもありなんと思えるのである。
24  クロマニョン人が、アルタミラ洞窟の壁に絵を描いていたことはあまりにも有名である。ここにも、彼らの芸術的才能もさることながら数々の作品に現れた、複雑な精神生活にこそ着目したい。
 私はたとえかすかな光であろうと、また、いかに微弱な胎動であろうと、“知性の火”が姿を現しているところには、死に対する自覚が胸をよぎっていくと思う。また、もし、道徳、倫理の内なる法則が目覚めていたとすれば、その源を求める知恵が動き出す。この生命の厳とした法則にあてはめれば、人は人となるとき、すでに、宗教的な心情がうごめいていなければならない。
 まさに、人間生命の実なる相に思いをめぐらせれば、人の心に“知性の火”が輝くことと本源なるものへの肉薄を求める宗教的な心の胎動とは、まったく同時でなければなるまい。ただ、知性、倫理などの発動は、外界に、道具や言語として表現されるゆえに、後世の人々が、その証拠を発見することができるのに対して、宗教的な衝動はあくまでも内面的な出来事であるために、実証を得ることはきわめてむずかしいだけの相違である。
 人間生命の側からいえば、知性などと宗教的心情の胎動は同時である。万物の底を流れる悠久なる宇宙生命に考察の視点を移すとき、人の生命に現れつつも瞬時にして宇宙生命への帰還を求める宗教心こそが、生命の内奥からの知性の発現を呼び起こす力であり、倫理の法則をわきあがらせる泉であると私は思う。
 それは、人間の生命において、知性、倫理、良心よりも、宗教的な心情のほうが、より深く、そして、より本源的な位置を占めているからにほかならない。言い換えれば、人間が人間としての道を歩むべく、人類への“扉”を開く“かぎ”は、知性でもなく、良心でもなく、実に、宇宙本源の生命からわきおこる宗教的な衝動であり、生みの親への復帰を希求する生命奥底の宗教心といってよい。
 その意味から、人間は宗教心を宇宙生命から強力にくみとることによって、初めて人間となる、ということができるであろう。
25  このことは、宇宙において人間的な生命を探る一つの視点ともいえよう。
 宇宙のいずこにおいても、宇宙本源の生命が息づいているかぎり、地球と同様その生命にふれるところには、宗教的心情の胎動があり、偉大なる進化の飛躍が促されるはずである。地球上における場合には、最も原始的な生命が姿を現してから、三十億年にも及ぶ生物進化の基盤があった。その底には、絶えず、宇宙本源の生命が脈動していたと思うのである。
 そして、人類の誕生において、宇宙生命の波動は、かつてないほどの高まりをみせ、さまざまの外的な条件を受け入れつつ、しかも、それらの条件に触発されながら、生物進化を人類進化へと飛躍させていった。この事実を、人間生命の側からみれば、宇宙本源の生命への、深く強烈な絆を結んだことを意味する。こうした生命飛躍、人間的生命誕生への基本的な原理は、たとえ、人々の探索の手が届かぬような大宇宙の果てであっても、普遍的なものとして通用するのではなかろうか。本因となる宗教的な力と、さまざまの条件との、密接不可分のかかわりあいのなかから、知性、倫理の“人間性の火”をいだいた生命が産声をあげていくのである。
 人間の誕生のドラマに宇宙生命との深き邂逅があり、宗教的心情の胎動があったことは、人間が人間として生きることの根本的な意味と、そのあるべき姿勢を示唆しているように思えてならない。
26  “生命の糸”と有毒物質――生態学とガイア仮説
   おや、誰がこの大した奇蹟を作ったのか、
   私に関する限り、なんでも奇蹟なのだ、
   私がマンハッタンの街を歩くのも、
   家々の屋根の彼方に空を見はるかすのも、
   磯辺の波打際に沿って跣足で徒踄かちわたりするのも、
   森の樹蔭に佇むのも、
   昼間に愛する誰かと話しするのも、夜、愛する誰かと寝床に眠るのも、
   他の人々と晩餐の食卓につくのも、
   馬車の中で向う側に乗ってる見知らぬ人々を眺めるのも、
   夏の午前の蜜蜂を見守るのも
   野原に放牧せる動物も、
   鳥も、空中の昆虫の不思議も、
   日没の不思議も静かに瞬く星辰も、
   春の新月の類なく優美な細い曲線も、
   これ等はその他と共に、一つ残らず私には奇蹟である。
   凡ては関聯し、しかも各自ははっきりと其の位置にある。
 (白鳥省吾訳、『ホイットマン詩集』所収、彌生書房)
27  磨き抜かれた詩人の魂には、人間の生命と動物や星や月の織りなす秩序ある旋律が響きわたっていたのであろう。このホイットマンの詩『奇蹟』はそれを豊かに見事にうたいあげている。彼の偉大な心の眼は、人間と自然との間にも、目には見えないにしても、妙なるつながりのあることを鋭く見抜いている。
28  たしかに、いかなる生命的存在も、孤立して、ひとりで生を営んでいるものはいない。一見、何の関係もないような生き物や自然の間にも、一歩深く追究すれば驚くほどの結びつきがある。
 宇宙万物の間に張りめぐらされたこの微妙にして精緻な結びつきは“生命の糸”とも表現できるのではないかと思う。
 自然への征服欲や支配欲、すなわち人間のエゴイズムの正当化の帰結として生まれた公害・環境破壊問題――これに対して生態学は生物集団におけるこの“生命の糸”を明示することによって対峙した。私たちが森に一歩足を踏み入れると、その足の下には、実に数万匹もの微生物が生を営んでいるということを聞いたことがあるが、これら無数の生き物は、互いに“生命の糸”に結ばれて、助け合って生きている。大自然のふところにいだかれて、無数の生き物が、助け合い、影響し合い、全体として調和と秩序が厳然と維持されているのである。
 近ごろ話題となったイギリスの学者ラヴロックによって提唱された「ガイア仮説」は、生態学とはまったく異なった方向から「ひとつの生命体としての地球」に迫った。地球の大気の特異性に着目したラヴロックは、大気をはじめとする地球のさまざまな無機特性を観察し、地球の生物のみならず、大気や塩分をはじめとする成分にいたるまで、すべての環境も含めて一つの生命とみなしうるとの大胆な視点に立ち、「ガイア仮説」を打ち立てている。
 生態学といい「ガイア仮説」といい、いずれも地球が不可思議なる統一体であり、その調和と連鎖が、いかに奇跡的であるかを示しているといえよう。
29  公害問題で特に問題化された有機水銀やPCBやBHCなどが、食物連鎖によって濃縮され、人間生命に襲いかかることの危険性はこれまで指摘されてきた。さらに、ある研究によれば、それは、有毒物質が濃縮されて人体に害をなすという物理的問題だけでなく、「なぜその物質が人体に有害なのか」を考察すると、そこに“生命誕生および進化と環境”というきわめて根源的な問題が浮き彫りにされてくるという。
 有毒物質――それは人体自体にそれに対する防御機能が欠如しているということに大きな関連がある。基本的には、生物は未知の物質や細菌等に対してはある程度の潜在的な防御機能を持っていることが、明らかになりつつある。しかしそれには限界があるようだ。生物は、進化の過程で出くわした物質にはある程度の防御機能を持つが、そうでないものには防御機能を作りにくいという性向を持つという。人間は結局、いかに時代が進もうとも人類誕生時の環境の制約をひきずってきている、ともいえよう。
 カドミウムや水銀などのように地中深く存在して地表にはあまりなかったものや、PCBのように人為的に作り上げた物質には、人間は適応できず、根源的に有毒なものになりがちである。死の灰もまた本質的に人体はそれに対する防御機能を持たない。自然の放射性物質の段階では対応できても、臨界濃度を超えた場合は、身体は完全に破壊されていく。
 毒性ということ自体が、このような宇宙からそして地球から生じた生命という根源的問題に関連していることはきわめて重要なことといえまいか。つまり人為による新物質は、調和のなかにある“生命の糸”を切っていくことにもなる。“自然”と“生命の糸”への敬虔な姿勢を欠いた時、人間は自然と共生する“生命的存在”であることを忘れさらに他の生物や自然を人間に奉仕させていって当然だとする征服のエゴイズムに自らを翻弄させてしまう。
 公害や環境破壊が一時ほど騒がれないからといって問題がなくなったわけではない。地球的規模の環境破壊や生命破壊を危惧する声はますます高まっているし、処理不能の放射性廃棄物が次々と生み出され、森林破壊による地球の砂漠化あるいは洪水も懸念される。局所的な有毒物質だけでなく、地球的規模で進行するこれら諸問題に人類が無策であってよいはずがない。目先の利害にとらわれ、取り返しのつかない悲惨を未来に残してはならないし、全地球的な一体感に立って環境を守るために英知を結集する時といえよう。
30  この環境と人間のかかわりあいを仏法ではより深い生命観のうえから「不二」ととらえ、生命主体とその環境は、現象世界においては、二つの実在と現れていても、内奥においては渾然一体となり、連関性を持ちながら脈動していると説く。日蓮大聖人の「瑞相御書」には、「夫十方は依報なり・衆生は正報なり譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし・身なくば影なし正報なくば依報なし・又正報をば依報をもつて此れをつくる」(一一四〇㌻)という一節がある。
 ここに、十方というのは、全空間とか、環境のすべてをさす。「依報」とは、そのすべての環境である。「正報」とは、依報に対する言葉であり、衆生の心身、すなわち生命の主体ということができる。すなわち、正報を人間とすれば、私たちを取り巻く一切の環境は、依報としてとらえることができる。
 この正報と依報の関係は、さらに「譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし」と定義されている。つまり依報と正報は、現象面では各別であるが相互に深い関連性を持つのであり、依報は影のごとく、生命主体である正報によって動かされ、変革されていく存在であるとの意である。また逆に、「又正報をば依報をもって此れをつくる」というように生命主体としての正報は、そのよりどころとなる国土・環境によって支えられ、つくられていくものである。この相互の関連を考慮しつつ、総合していくときに初めて、生命と環境の関連を見きわめることができるわけである。
31  その意味から、私たちの住む大宇宙の秩序ある変転のなかにあって、人間がどのような能動性を発現しうるかに、人類と地球の運命がかかっているといえよう。万物の調和のリズムに眼を開き、あらゆる生き物と共存しようとする人間生命の姿勢は、宇宙に張りめぐらされた“生命の糸”の働きを支え、新たな創造へと向かっていくであろう。また、大宇宙の生命的な営みは、“かけがえのない宇宙”の律動を守り、支えようとする人間生命を、今度は逆に、“かけがえのない一個の生命体”として慈しみとおすと考えられる。
 逆に、人間が、醜い貪欲や愚かさやエゴイスチックな自我のままに、行動し、憎しみあい、殺害しあうとき、他の生物と大自然を破壊し、万物を支える“生命の糸”をずたずたに断ち切ってしまうにちがいない。
 このいずれの道を選ぶかは、私たち人間に託されており、また、その能力も本来、人間の生の内奥に備わっている。要は、宇宙と自己とを生の創造へと向かわしめるために、人間生命に内在する発動力と能動性を、いかにして開発し、顕現するかであり、仏法の視点もそこにあるといってよい。
 もし、一個の生命主体に、愛や信頼心がそなわっていたとしても、その発動力が弱ければ、他者を動かし、生命の波動を及ぼすことは、きわめて困難であろう。また、いかに能動性が強くても、疑念、不信、敵愾心などに満たされていれば、人類も自己も滅びる方向へと進むだけである。
 “かけがえのない宇宙と自己”を、生の創造へと導く人間の生き方と、真に、宇宙の律動と協調しつつ生を営む広き境涯を、さまざまな角度から明確にしえたとき、仏法のこの「依正不二論」は、人類救済の実践哲理として、人々の行動のなかに生かされていくにちがいない。
32  科学における個と全体――ハイゼンベルクらの要素主義批判
 現代の天文学によれば、星にも「生」と「死」があり、すべて「生死流転の理」にかなっているという。そして、星の死によってもたらされた物質は、膨大な時間をかけてまた新たな星をつくりだす。つまり星の死は、次代の星の材料を提供することになる。
 ところが天文学者などの研究によると、不思議なことに、宇宙ができたときは、これらの物質も存在しなかったという。つまり宇宙の何もないところから物質が生まれ、星や銀河も生まれていったのである。宇宙そのものが、すべて消滅したゼロの状態であったようにみえても、宇宙が進化し、条件が整えば物質が生成してくる場であるということが、量子力学等の進歩によって解明されてきたというわけである。
 またイギリスの物理学者ディラックは、何も存在しない「真空」と思われてきた宇宙が、実は、物を生み出していく場であったことを理論的に実証したことで知られている。
 この発見は、二十世紀の科学が証明した偉大な成果といえる。仏法には「空」というすぐれた概念がある。これは“うつろな状態”とか、“無”とかいうことではない。仏法では「一切皆空」とも説き、この「空」の状態から万物が生まれ、また万物が滅していくととらえる。少々むずかしい言い方になるが、「空」とは、「有無を超えた実在」ということになるだろうか。この「有無を超えた実在」である「空」とは、端的に言えば、あらゆるものを生み出す可能性を秘めた場である。それは縁にふれることによって、それなりの条件、何らかの作用で、応じ、働き、新たなものが誕生してくるということである。つまり無量の潜在力、無限の創造性を秘めた場であり、“生命空間”ともいえる。この「空」という概念は、西欧の思想、哲学はもとより、宗教のなかにもみられない仏法独自のものである。
 ところで、科学の進歩によって明らかになったさまざまの真理を裏づけるためには、どうしても西欧思想の範疇ではとらえきれないものがある。そこで、この仏法の「空」に着目する人々も出てきた。そうした背景もあってか、ハイゼンベルクや、ボーア、アインシュタインなどの優れた科学者が、仏法に深い関心をいだくようになっていたのであり、またこれらの偉大な科学者のなかには仏法を志向していた人も少なくない。
33  科学はある意味では、物質の根源を求めてやまない探究の旅であったといえようか。
 とくに物理学の分野は、そのシンボル的存在であったといえるであろう。物質を分子から原子、さらに素粒子へと、より基本的な要素へと分析、還元していく。その要素は、基本的であるがゆえに普遍性を持つわけであり、要素の従う基本法則を知り、その組み合わせ、加算によってすべての物質の性質や現象を説明する――こうした近代科学の方法論は、とくに物理学のように、物質を対象にした学問の分野では、絶大なる効力を発揮した。しかし、素粒子の段階までくると要素論的方法だけでは説明できない事態に立ち入っているようである。
 例えば、アインシュタインは相対性理論の中で、質量とエネルギーを同等に関係づける法則を明らかにした。この法則は素粒子物理学の発展とともに実験的に証明され、不滅の質量を持った基本要素としての粒子が存在するという概念を覆すことになった。また、ハイゼンベルクの不確定性原理は、粒子と波動という二重性を持った素粒子においては、その位置と運動量を同時に正確に測定することが不可能であることを説明した。これは、不変的要素に基づく法則ですべての現象を計算しつくすことができるという古典的世界観を、その根源となる粒子の世界で否定したともいえる。もはや、単純な要素主義では説明しきれない世界がそこには実在しているのである。
 現代物理学がこうした素粒子の実態に迫れば迫るほど仏教における「空」の概念が浮かび上がってくるように思われる。
 近代物理学の眼が、素粒子の生成消滅をつかさどる法則性の探究に向けられていることを考えると、仏教理念の卓越性とその直観智は驚嘆すべきものがある。
34  ハイゼンベルクは『部分と全体』と題する回顧録の中で次のように言っている。
 「これまで、われわれは、いつもデモクリトスの古い前提を信じてきた。それは『はじめに粒子ありき』という文章に書き換えることができるものであった。目に見える物質は、それ自身より小さい単位の組み合わされたものであり、そしてどこまでも分割をつづけて行くと、遂にデモクリトスが“原子”と名づけ、そしてそれを今日ではたまたま“素粒子”と呼んでいる最小単位、たとえば“陽子”とか“電子”等にまで到達するものと人々は仮定してきた。しかし、ひょっとするとこの哲学が全部まちがっているのかも知れない。あるいは、それ以上分割不可能な最小の構成要素などというものは全然存在しないのかも知れない。しかしそれでは、初まりは何であったか?」(山崎和夫訳、みすず書房)
 ハイゼンベルクの要素主義への疑念は、現代の科学、なかでも物理学の抱えている課題を浮き彫りにしている。
 もちろん、要素主義からの研究も当然進んでいる。アメリカのマレー・ゲルマンが、素粒子を構成するさらに基本的要素としてクォークの存在を提唱、現代物理学に新しい展開をもたらしたという「クォーク理論」などはそれである。理論的研究はかなり進展し、いくつかのクォークの発見が報じられているようであるが、こうした還元主義的手法ではクォーク自体の根源探しという新たな段階が生じることになり、サブクォークからさらに果てしなき研究が続くであろうことも否定できないだろう。
35  仏法ではひとつのとらえ方として、人間があるいは万物が、この現実の世界にそれぞれの姿、形をもって存在しているのは、そうなるべき「因縁」によって仮に和合していると説いている。それは「個と全体」という観点でも大変示唆に富んでいる。個の独立存在を志向する要素主義的な考え方が、物事の最初の一つの原因、要因から成り立つ、はじめに粒子ありきという“一因説”に依拠しているのに対し、仏教では因と縁によって万物が生起してくると説いているのである。つまり全体との関連性のなかから、“因”と“縁”が仮に和合している姿が人間であり、万物であるととらえるのである。
 妙楽大師の『摩訶止観輔行伝弘決』には「親生を因となし、疎助を縁となす」とある。結果を生むのに、直接関係するのが「因」(親生)である。またその因を助けるのが「縁」(疎助)ということになる。その仮に和合した姿を「仮諦」という。「空」という概念の背景には、八万法蔵という膨大な理論体系があるが、原理としては「空」「仮」「中」の「三諦」として示されているのである。
 「諦」とは、「真実にしてあきらか」、また「永遠不変の真理」という意味である。大きくみれば「宇宙」、小さくみれば「生命」の実体を、永遠の法則性のうえから明確に見きわめていくものといえようか。そこで「空」「仮」「中」の三諦の「空諦」とは、簡単に言うと、万法の性格、性分のことである。姿、形あるものには、すべて個としての性質がある。
 例えば、どんな小さな素粒子でも、それぞれ特有の性質が当然ある。
 この性質、性分をはらんで、因縁によって和合した「仮諦」は、永久にそのままの状態ではなく、必ずいつか滅していく。しかし、たとえその姿、形を失ったとしても、「空諦」である性質、性分は存在の属性として永久に残るという意味といえるであろう。
 この「空諦」には、二面性がある。仮諦としての「生」に働きかける場合と、「死」によって、宇宙に冥伏している場合である。死においては、見ることも、とらえることもできないが、「空諦」には永遠不変の核が備わっている。その永遠不変の核が「中諦」である。「空諦」にも、「仮諦」にも、その本源には「中諦」というものが常に実在している。
 この核を成り立たしめている原点であり、発動せしめゆく根源の当体を、「中道一実の妙体」(「一生成仏抄」)として、明快かつ具体的に説き明かされているのである。
 さらに「三諦」の関連について、「仮諦」としての生にも「三諦」があり、「空諦」としての死にも「三諦」がある。常住する「中諦」にも「三諦」がある。
 そうした、それぞれの「三諦」が調和し、秩序ある姿をとっていることを、「円融三諦」と説いている。これが法華経の極説中の極説となっているのである。
 これらは三諦論の一次元の論議であるが、大なる宇宙、小なる宇宙のありのままの姿をあますところなくとらえ、そして人間、社会のよりよき生成発展をとげさせゆく万物万法の調和と秩序と、創造と蘇生への法則を明かしたのが仏教である。
 このように、仏法の透徹した哲理は、現代の科学をはじめとするあらゆる分野に対し、限りない示唆を与えている。そして、その求める方向には必ずといっていいほど仏法のまばゆいばかりの英知が輝いていることに気づくのである。

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