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日蓮大聖人・池田大作

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第二節 生老病死の深淵を探る  

随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

前後
1  医学が証明する「生涯青春」――老化と頭脳の活性化
 戦後のわが国の平均寿命は、短期間のうちに世界のトップレベルに肉薄、昭和五十年代後半からは文字通り最長寿国としての地位を保つようになっている。それ自体としては、まことに素晴らしいことである。と同時に、高齢化社会にともなうさまざまな構造変化がこれからの大きな課題となることは言うまでもない。その一つが「健康・医療問題」であろう。
 とくにWHO(世界保健機関)の憲章にも謳われているように、肉体的にはもちろん、精神的にも、社会的にも健康な長寿をかち得ていける社会をいかに築くかである。医学の分野でさかんに行われている「老人医学」の研究や医療制度の充実などもさらに考えねばならないが、その前提として、“生きがいの哲学”“老いの哲学”ともいうべき基本的考え方も、整理しておく必要があるように思えてならない。
 最近「人間の脳の重要な働きのなかには、その人の生き方によって、歳を経るごとに活発になるものがかなりある」との発表が相次いでなされたが、老いということを消極的に受容しがちな今日、きわめて注目すべきことであると思う。
 かつて「朝日新聞」(一九八四年二月二十二日付)で、「ニューヨーク・タイムズ」の科学特集をひいて次のような事例が紹介されていた。アメリカの国立老化研究所の実施した調査によると、二十一歳から八十三歳までの男性の脳を断層撮影してみると、健康な老人の脳は、新陳代謝測定値では若者の脳と同じように活動的であることが発見された。また、デンバー大学のホーン教授によれば、物事の判断・洞察力をつかさどっている「結晶型知能」と呼ばれる機能は、青年・壮年よりも老人のほうが明らかに優秀な場合がある、という。
 さらに、老人医学の権威シェイ博士は「一部の精神能力は六十歳代で衰えをみせ、多くの人は八十歳代までに明白に衰えるが、社会生活に参加している老人の場合、精神能力は変わらないばかりか、進歩する場合もある」と指摘する。その反面、自分の生活に閉じこもる老人は、確実に衰えることにもなる、という。
2  わが国で行われてきた、加齢現象に関する発達心理学の最近の研究成果でも“知的機能などは加齢にともなって徐々に衰えるばかりとはかぎらない。その間に変化もあり、むしろ発達する方面もある”事実が見いだされてきたと聞く。しかも、年齢が高くなるにつれて“個人差”はより拡大していくことも明らかにされてきている。こうした研究はまだ緒についたばかりであるが、「長老」とか「大御所」といわれる年配の方々が、いざという時に、急所、急所に価千金の決断を下すのもうなずけることである。
 もちろん、生理的な老化現象は何人も避けられない。医学的にみると、肉体的な成長のピークは二十五歳前後といわれるし、記憶力や学習能力に関しても四、五十歳の坂を越えれば、その衰えが顕著になってくるとされる。しかし、社会のなかで創造的、意欲的に活動を続けている人の頭脳は、肉体的年齢よりはるかに若々しいこともまた確かな事実である。
 こうしたことからも、「生涯青春」という言葉のもつ重みが新たな光を放ってこよう。
 経済的な保障や環境の整備が、本格的な高齢化社会に向けての大きな社会的課題であることは当然である。しかし人間は、そうした環境的な問題以上に社会における自分自身の存在感がなくなるほど寂しいことはない。これは、かつては理想とされた北欧型の福祉社会においても、老人の自殺者の増加や労働意欲の低下、無気力化などの幾多の社会問題が起きていることからも明瞭であろう。高齢者の方々が、精神的な充実感をいかにすれば持てるのか。いかに意欲を燃やして、なすべき仕事に取り組んでいけるか。こうしたことを考えると、たんに延命だけでなく、生きがいと生命力にあふれた人生を創ることこそが重要なはずである。
 言うなれば“老い”とは人生の完結であり、人生昇華の芸術ともいえようか。そこに、その人なりの人生の軌道というか、社会へ向かって、何らかの貢献をなしゆかんとする情熱とひたむきな向上心がはらまれているべきであることは言うまでもない。
3  私もこれまで数多くの著名な方々と、きわめて貴重な語らいの機会を持つことができた。そのなかには高齢の方も多数おられた。しかし、ほとんどの人が、青年のような若々しい情熱を持ち、悔いなき仕事に走り続ける人生の達人ともいうべき方々であった。ヨーロッパを代表する美術史家であり、またすぐれた哲学者でもあるフランスのルネ・ユイグ氏も、深い理解と尊敬で結ばれたかけがえのない友人の一人であるが、八十歳を超えた氏も、ますますお元気に、精力的な仕事をしておられる。その誠意に満ちた意欲的な姿にはいつも深い感動を覚えている。
 まさに働く意欲に満ちた情熱と向上心の人にとって、老いは“円熟”の異名ともいえよう。
 人生の経験を刻んだ重厚さと若々しい意欲をあわせもつ人――大なり小なり人々から頼られ尊敬される人はそれなりの立派な美しい人生の総仕上げをしている。さらにまた、これからの人が思う存分活躍できるよう「後輩の道」を開こうとする人、意欲を満々とたたえる人は、若い人以上に“青春の心”を持っているのかもしれない。そしてその“青春の心”がどこまでも人生を創造していく。
 人生の真髄は、五十代以降に本当の発光がある。いかに高齢になろうとも「生涯青春」の気概を持ち自分らしくこの一生を「建設」と「創造」の連続作業で飾っていきたいものだ。
4  医療者に求められるもの――耆婆などにみる名医の条件
 西洋近代科学に基礎をおく現代医学が、人類の幸福と繁栄に多大な貢献をしてきたことは間違いない事実といってよい。なかでも、抗生物質の発見、公衆衛生観の確立等によって数多くの伝染病が克服されるようになり、また外科手術も輸血の技術とあいまって心臓や脳にまでもメスを及ぼしうる状況になってきた点は特筆されよう。
 しかし一方では、こうした医学の進展そのものが、幾つもの新たな問題を提起している事実も否定できない。アメリカの優れたジャーナリストであるノーマン・カズンズ氏は、膠原病と重症の心臓病にかかりながら、いずれも信念と意志力によって死の淵から奇跡の生還を遂げた人としても知られているが、氏の次の言葉は意味深い。
 「我々は微生物に対する戦いには大体勝利をおさめたが、精神的安静をかち得るための戦いには敗北をつづけている」(『人間の選択』松田銑訳、角川書店)
 そしてさらに、今日の医学教育のあり方にもふれ「均斉のとれた、人間らしい人、人間の罹っている病気だけでなく、人間そのものに関心を持つ人、病気の徴候だけでなく、病苦の実際を理解できる人、人間味を失わない処方箋を書く人……」を育成することが必要だと述べている。
 たしかに、病気の身体面における診断と治療には目覚ましい進歩がみられる半面、病に苦しむ人間の生命内奥の問題や、病者を取り巻く家族や社会のあり方等の問題は、置き去りにされがちと言わざるをえない。医療のあり方が課題とされるゆえんである。
 アメリカのルネ・デュボス博士は、数々の業績を残した著名な細菌学者である。すでに亡くなられたが、私もかつて東京で会談したことがあり、大変に立派な人格者であったことを、印象深く記憶している。
 デュボス氏とマヤ・パインズ氏の共著である『健康と病気の話』の中では慢性の病気の割合については「どんどんふえつつあり、長生きする人が多くなるにつれて、さらに増大するでしょう。そして家庭にも病院にも療養所にも、回復の見込みのない老人たちがふえてゆくと思われます。医学は、そうした患者の命を取り止めることはできても、元気にさせることはできないからです」(杉靖三郎日本語版監修、タイム ライフ インターナショナル)と述べている。
 まことに医学の本質を突いた鋭い指摘である。たしかに若くして死ぬ人は減ったが、“半健康人の時代”ともいわれているように、何らかの病気で悩む人は増えている。さらに心の病も増加しており、時代とともに病気の様相も変化してきている。
 また現代人の多くが心身のバランスを崩しがちであり、病気の数は数え切れぬほど急増しているといわれる。たしかに現代は、ますます複雑化し、新しい病気が登場してきても不思議ではない状況にある。
5  病気の多様化という状況をみるとき、仏法の病気のとらえ方は、多大なる示唆を与えてくれる。仏法では病の数を「四百四病」とも「八万四千」とも説いている。「四百四病」とは「身の病」の数であり、「八万四千」とは「心の病」を指している。この「八万四千」とは、数値というよりも、大変な数になるということを言っていると考えられる。
 ちなみに『大智度論』などには「貪欲の病二万一千」、「瞋恚の病二万一千」、「愚癡の病二万一千」、それらの「三毒を等しく持つ病が二万一千」で「八万四千」となると説明されている。
 さらに日蓮大聖人の「治病大小権実違目」という御書には「夫れ人に二の病あり一には身の病・所謂地大百一・水大百一・火大百一風大百一・已上四百四病なり」「二には心の病・所謂三毒乃至八万四千の病なり、此の病は二天・三仙・六師等も治し難し何に況や神農・黄帝等の方薬及ぶべしや、又心の病・重重に浅深・勝劣分れたり」(九九五㌻)と説かれている。
 この「地大」「水大」「火大」「風大」を、仏法では「四大」と説くが、これを私どもの身体に即していうと、「地大」の働きは、骨や筋肉や歯、髪、爪、皮膚といったものに、また「水大」は血液や体液、「火大」は生命を維持する体温や消化作用、「風大」は呼吸や新陳代謝の作用としてとらえられよう。
 仏法では、この「四大」に即し、概括的に「病」というものをとらえ、この人間の身体の「四大」が不調和を起こすと病が起こる、と説く。
 そして、こうした身体の病については、大聖人も、「此の病は設い仏に有らざれども・之を治す」(同㌻)と言われている。
 しかし「三毒乃至八万四千」つまり、「貪(むさぼり)」「瞋(いかり)」「癡(おろか)」といった人間内奥の煩悩からくる病というものは、「二天・三仙・六師等」、「神農・黄帝等の方薬」――いわゆる聖者でも大医学者でも治すことができないとされるのである。
 心の病も浅いものであれば、それなりの方薬で治すこともできよう。日蓮大聖人の御書に「人の煩悩と罪業の病軽かりしかば・智者と申す医師たち・つづき出でさせ給いて病に随つて薬をあたえ給いき」(一三〇五㌻)とあるとおりである。しかし、深き心の病はいかなる方薬も治すことができない。この心の病を治すには、生命の根本的な蘇生と新しき発現をもたらしゆく「大良薬」による以外にないとして、この最高の大良薬を仏法では「妙法」ととらえているのである。
 現代は病気が多様化しているだけでなく、人工授精や脳死問題など「人間生命の尊厳」そのものをも直接脅かしかねないさまざまな事態にも直面している。一歩誤れば、医療者と患者の信頼関係は破綻していくことも憂慮される。現代医学は生命の尊厳に立脚した「人間のための医学」としての新たな時代を開いていくことが急務といえるであろう。
6  ところで医師の原点の存在としては、西洋におけるギリシャのヒポクラテスやローマのガレノスなどが有名である。特にヒポクラテスの「誓い」は今なお医学を志す者の心構えとなっている。
 仏典をはじめ東洋の典籍のなかにもこのヒポクラテスらの存在に劣らぬ「名医」が登場する。インドの耆婆、中国の扁鵲、華陀といった人たちがその代表といえよう。なかでも釈尊の時代に生き、釈尊を師として仏教医学の基礎を築いた耆婆の名は、長く東洋民族に受け継がれてきた。
 この耆婆は、釈尊に出会った当時、すでにインドで一流の医療技術を持つ医師として知れわたっていた。とくに、外科手術にかけて肩を並べる者はいなかったという。例えば、世界で初めて脳腫瘍とみられる病気を治すために開頭手術を行ったり、腸閉塞とみられる子どもの開腹手術も実施して完治させたことが仏典には出てくる。
 だが、その耆婆も釈尊と出会うことにより、医術によってたとえ患者の病は治せても、その奥にある煩悩・業を対治し「生老病死」という人生の根源にある苦悩を解決しゆくてだては仏教による以外にないことを知るのである。
 いかに医療技術に優れていようとも、患者の心を深く知り、病める者をどこまでも慈愛する心がなければ「名医」としての資格はないことを、明晰にして賢明な彼の頭脳は即座に悟ったのだろう。このことは、時代を超えて、医療者のあるべき姿勢を示しているといえまいか。
7  『医学概論』で知られる澤瀉久敬博士は、人間と医療にについて人間の身体は物質からなる。人間は生物である。人間は心身結合体である。人間は独立的存在である。人間は社会的存在である。人間は自覚的存在である――と人間の持つ六つの面を示したうえで「医師は人間の六つの面を全部みなければならない」(『医学概論とは』誠信書房)と述べている。
 たしかに近代の医学は、急速な医療技術の進展のなかで、ともすると人間に備わった“心身結合体であり、独立的・社会的・自覚的存在でもある”という面が軽く扱われる傾向にあった事実は否めないであろう。社会の人々が希求している“患者に生きる自信と勇気を与えゆく”という医学本来の使命を果たしゆくためにも、医療者自身にも、より深い人間観を持つことが求められている。その意味からも、医学を中心として人間を見るのではなく、人間を中心にして医学をどうするかという観点を持つことが、今後ますます重要になるのではないだろうか。
8  「延命の医学」と人間の幸福――要請される深き生死観、寿命観
 「毎日新聞」の「余録」(一九八七年十一月四日付)で、京都で開かれた小さな催しにふれていた。「寿命」の意味を考えるという、その会合の席上では、二つの現実に起きた「死」が取り上げられたが、そのエピソードは現代人が直面している「生死」の問題を鋭く突いているように思われてならない。
 「余録」によると、二人はともに八十六歳で亡くなった老婦人で、死因はいずれも老衰。そして家族が異常に気付いた時には、いずれも意識混濁の状態であったという。しかし、医師の態度と肉親の対応には明確な違いがあった。「一方の医師の判断は、生命維持の手段を尽くしても、一カ月。再び意識の戻る望みはない。静かに逝かせてあげるべきだ、と。家族は波立つ胸中を抑え進言を受けいれた。一週間後に息を引き取った」
 「片方の家族は、近代医学で最善の対応を、と要請した。タンがつまる。のどを切開した。その手術の出血に輸血。さらに栄養剤の点滴。不眠不休の子供たちが疲れ果てたなかで、逝った。むなしさが遺族に突き上げてきた」
 その会合で、将来における生命維持技術の進歩などを踏まえつつ、「寿命の限界」について、宗教家と医学者等の意見が交わされたという。その折、延命策をとったほうの息子さんが、次のように発言した。
 「もう今日か明日かに迫った深夜、あえいでいたその母のほおが、きゅっとゆるみ、まぎれもない笑みの浮かんだのを、たしかに見た。うれしい思い出が脳裏を走ったに違いない。あのほほ笑みの瞬間を、母のもったことが、私の救いになった」。この発言に「会場は、静まり返った」という。
 このエピソードは、現代人が直面している「死」をめぐる状況を鮮明に映し出していよう。そしてこれに対する意見は、きっとさまざまだろう。「無理な延命をせず、静かに死なせてあげるべきだ」という意見の人も当然ながら多いだろうし、逆に「医療技術の及ぶかぎり、最善を尽くすべきだ」という心情もうなずける。それぞれの立場や状況、また生命観、寿命観、孝養観によっても意見は分かれてくるし、一概に是非を論ずることはできない。
 ただ、少なくとも自らを産み育ててくれた親の「長寿」と「安らかな臨終」は、子どもにとって最大の願いであり、親孝行であるという事実にはいささかも変わりあるまい。その祈るがごとき心境は、このエピソードからも切々と伝わってくる。たしかに、現代の医療技術は、他の諸科学の成果とあいまって急速な成長を遂げてきた。しかし、どんなに現代医学の粋を尽くしたとしても、それで本当に納得のいく方途が開かれているかといえば、必ずしもそうではない。科学のみでは、子どもとしての、人間としての切なる願望が果たせるわけではない。ここに偽らざる現実がある。
 いかに優秀な器械を使った合理的な治療が行われようとも、病者の周囲から“人間のぬくもり”が消えていくという事態は見過ごせない。医療の器械化が進めば進むほど、そこにはより多くの人間的な援助・看護が要請されてくることを医療者は忘れてはならないだろう。
9  また科学の長足の進歩のなかで、人類は量的には生命を長引かせることはできたが、肝心の質について関心が十分払われていなかったということがいわれている。こうした意見には、心ある識者の現代医学への反省と、生命に対する万感の思いが込められているように思えてならない。
 そんな反省を踏まえてか、「バイオエシックス」(生命倫理)についての論議も一段と盛んに行われるようになっている。この言葉自体は最初、一九六〇年代後半のアメリカで使われ始めたと聞くが、延命が技術的に可能になり、診断・治療が遺伝子レベルの操作にまで及んできた昨今の医療事情のなかで、改めて注目をあびているようである。従来の「医の倫理」では対応しきれない、おびただしい現実の諸問題をどう乗り越えていくか――。しかし、専門家たちは「死」に関して一般的なコンセンサスを得ることはきわめて困難なものとみなしている。その理由についてある人は「死」そのものが、きわめて「個別性」に富んでいるうえ、死の問題を論ずるには、治療者・患者双方の死生観、宗教観にまで立ち入っていかざるをえないことを指摘している。
 医療技術の急速な進展は、逆に「死」の問題が医学のみでは解決しえないという事実を一段とクローズアップすることにもなった。医学は人間の「病」の解決のために偉大な功績を残した。しかし「個別性」に富んだ死の問題を考えるには、さらに一歩進んで生命それ自体を主観視していくことが必要となってくる。医学は、いわば、生命の現象面の近因の探究と治療が目的であるのに対し、仏法はその淵源の原因、結果を追求、そして価値ある生を築くことをめざすといえるかもしれない。ここに、医学の進歩に限りない期待をいだきつつも、それを支え、コントロールしていくより深き「生命観」「寿命観」が要請されるゆえんがあると私は思う。
 医学が人間の延命をも十分可能にするにいたった現代ほど医学・医療を人間の真実の「幸福」と「安穏」へと用いていける哲学、宗教が、切実に求められている時代もあるまい。
 その正しき「生命観」が確立されてこそ、人々が求める真実の「孝養の道」も広々と開けていくにちがいない。私どもの仏法を基調とした運動の重要な意義がここにもあると思っている。
10  「永遠の生命観」こそ文明を開く道――日蓮大聖人の「本有の生死」
 フランスの文豪ビクトル・ユゴーは「人間はみんな、いつ刑が執行されるかわからない、猶予づきの死刑囚なのだ」(『死刑囚最後の日』斎藤正直訳、潮文庫)との言葉を残している。死とは何人たりとも免れえない生あるものの宿命である。この「生と死」の問題は、古今東西の哲人が生涯の命題として探究してきた最大の課題であるといってよい。恩師戸田先生は「日本の一億におよぶ人間も、百年後には一人もいなくなってしまう。その死後の生命はどこへ――こう思えば愕然とする」との心情を吐露されていたことがあるが、生死とはまことに不可思議にして厳しい生命の実相といえよう。
 ずいぶん前になるが、私はかつて「EC(ヨーロッパ共同体)の父」と呼ばれたクーデンホーフ・カレルギー伯と語り合ったことがある。その折に、談たまたま「生と死」に話が及んだ時、カレルギー伯は東洋と西洋における考え方には大きな相違があることを指摘していたことを思い出す。
 「東洋では、生と死は、いわば本の中の一ページです。そのページをめくれば、つぎのページがでてくる、つまり新たな生と死がくりかえされる――こういった考えだと思います。ところがヨーロッパでは、人生とは一冊の本のようなもので、初めと終わりがあると考えられています」(『文明・西と東』サンケイ新聞社)
 つまり、カレルギー伯によれば、東洋では本のページをめくるように新たな「生と死」が繰り返されていくという思考法に立っている。これに対して、ヨーロッパにおいては、人生は「一冊の本」のようなもので、人間としての生は死とともに完全に消滅してしまうという考え方が信じ続けられている、という。したがって、ヨーロッパの人々がいだく死への恐怖心は東洋においてよりはるかに強いと伯は述懐していた。
11  インドでは古来「輪廻転生」が信じられていた。つまり人間は今世で消滅するのではなく、死をとおして新たな生へと蘇ってくると考えられていたのである。仏法ではこのような輪廻説に根ざしながら、さらに深い永遠の生命観の立場から「生死」という根本問題を説き明かしている。
 東洋の「生と死」が本の一ページにたとえられるという背景には、こうした仏法の深い洞察が脈打っており、その死生観が生を安定させ豊かな落ち着きのあるものとしているといえよう。
 生死という問題について法華経の「寿量品」には「方便現涅槃(方便して涅槃を現ず)」と説かれている。一生をわかりやすく人生の一日に譬えてみるならば、朝日が昇り目をさます。つまり「生」であり、その「生」の延長として一日の行動が始まる。そして一日の行動を終えて家路につく。夜、明日の「生」のために休息の床につく。これすなわち一日の「死」である。これと同じように一生の価値ある活動を終え、活力ある生命力を得るために「死」という方便の姿を示すという。
 さらに仏法では「生」と「死」は生命にもともと本然的に備わったものであり、「本有の生死」が生命の実相であると説く。生命は永遠であり、「生」と「死」を無限に繰り返していく。そして人間にかぎらず森羅万象のあらゆるものが「成住壊空」のリズムにのっとって動いていくというのである。
 私の住んでいる東京・信濃町の近くに、外苑のイチョウ並木がある。私はよく車でそこを通るが、春になると木々は青い芽を吹き出す。夏は葉が繁茂し、秋になると美しい黄色になる。そして冬の訪れとともに、一枚の葉もなくなる。この四季折々の景色を何回となく見ながら、私にはいつも何か生命の深淵なドラマが感じられてならない。つまり、イチョウの葉を考えれば、いわゆる春は「成」、夏は「住」、秋は「壊」、冬は「空」といえようか。
 ここで西洋哲学と対比して、仏法の一段深い、実在論の思索をみておきたいと思う。それが「空」という法理であり、ここに大乗仏教の真髄があるといってよい。「有る」といえば無い、「無い」といえば有る。しかし、厳然と実在する存在。それを仏法では「中道一実」とも「我」とも説いている。この「我」という存在が何らかの具体的な一つの生命として発現し、誕生しゆくことが「成」であり、それが「住」「壊」「空」というリズムで流転していくというのである。
12  また日蓮大聖人は「我が心性を糾せば生ず可き始めも無きが故に死す可き終りも無し」(御書五六三㌻)と述べられている。わが心性、すなわち一念の生命は無始無終であり、死によってこの宇宙から消滅するものではない。もともと、生死をこえた永遠にわたる生命の実在がある。その生命は譬えて言えば全世界を焼尽する大火に焼けず、水が災いをして朽ちらせることもできない。剣にも切られるものではなく、弓をもっても射られることもできない。きわめて小さい芥子粒の微塵にいれても、芥子粒が広がることはなく、また広大無辺なる宇宙のなかに遍満しても、宇宙自体が広すぎるということはない。つまり一念の生命、「我」というものは、生死、生滅、大小、広狭の相対性をこえた不変の実在である。これが生命の証であり、さらに生命というものは「時間」「空間」がそこから生じてくる無始無終の実在であるといえる。これを仏法では「我」と論じているわけである。
 結論して言えば、わが生命の本源を悟れば、もはや「生死」は恐れるものではない。死とは決して生の敗北ではなく、むしろ新しき生命の蘇生のための大いなる契機であり、生きて生きぬいたこの人生を総仕上げしゆくかけがえのない時であるというのである。その永遠に崩れざる幸福境涯に立って、無量の「生命の宝」を積みつつ、最高に幸せな生死を繰り返していけるための「大法」が仏法であり、具体的実践が信仰なのである。
 ともあれ、深き生命観の探求なくして心広々とした生き方も、たしかなる幸福観の確立もない。
 一九八七年(昭和六十二年)二月、ノーマン・カズンズ氏と対談した時、氏は「『生命の永遠性』の哲理は『平和』の危機の現代にあって大きな示唆を与える。現代は人類の滅亡が現実に可能になった最初の時代である。この滅亡は肉体的側面についてもしかり。また崇高な人生を営む『精神性』の滅亡という側面もしかりである。肉体・精神双方が破壊される危機――我々はそれを、あらゆる英知と能力を使って打開しなければならない。『生命の不滅性』という仏法の教えは、こうした危機をもたらした現代人の誤った思想を根底から見直させていく力を持っていると思う」と言われていたが、まことに鋭い指摘である。
 仏法は「生老病死」、「成住壊空」の永遠の繰り返しの奥にある常住不変の生命の法則を説き明かし、そのうえに立って厳しき現実社会を凝視し、そこから出発する現実変革の哲理なのである。
 それこそ、行き詰まった時代と文明を根底から転換していく道であり、その時には、生命観はもちろん、宇宙観も変わる。人間観も変わる。社会観、自然観、幸福観等々、一切の文化・思想の根底に大変革をもたらしていくであろう。
13  死は「悲」のみではない――日寛上人の『臨終用心抄』
 「死へとかかわる存在において現存在は、一つの際立った存在しうることとしてのおのれ自身へと態度をとっている」(『存在と時間』原佑・渡辺二郎訳、中央公論社)――ハイデガーのこの言葉は、死が免れえない問題というだけでなく、人間が「死の存在」であることを自覚するところに人間の生の深淵さが開示されることを表している。たとえ死とは無縁のような青年であっても、死の問題は避けえぬ現実であり、またそれを避けていては、深い生き方はできないものだ。
14  仏法の一つの視点として「“死”の問題が深刻でないところに生まれることは、かえって不幸である」という話がある。
 それは、きわめて長い寿命を得ることができるといわれる「長寿天」に生まれると、死の無常を感じることが切実でない。そのため、なかなか無上菩提を求める心を起こそうとせず、真の幸せである成仏の境涯も得られない。そこで、この「長寿天」を、成仏できにくい「八難処」の一つとする有名な説話である。もちろん、これは「長寿」を否定したものではなく、仏法の生き方への一次元の実相を示したものであろう。
 常に「病気」とは無縁の「健康」であり、また「死」を知らぬほどの「長寿」であった場合、どれほど深き「人生観」を確立できるか、たしかに疑問となってくるにちがいない。
 真剣に「生きる」ことも考えなくなる。真剣に「死」という問題も考えなくなる。緊張感がなく、惰性に流されてしまう傾向になるのは、否めないことであろう。そこに「生」「老」「病」「死」という人生のそれぞれの段階を直視し、一切をばねとしながら、永遠の幸福へと質量ともに高めゆく、仏法の法則の偉大さを感じとることができる。
 それゆえに仏法はまた、人生の最終章となる臨終の姿をきわめて重要視していくわけである。私がいつも心に刻んできた言葉に「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」がある。その臨終ということについては、日寛上人が『臨終用心抄』という一書を残されている。日寛上人はその中で「臨終の一念は多年の行功に依ると申して不断の意懸けに依る也」と述べられている。これは正法の実践を貫いた“日常の不断の宿業転換をなしゆく良き生の歩みが良き死を招き寄せていく”との法理を示されている。
15  ところで、こうした生死の問題、また臨終のさいの苦しみについて仏教では「断末魔」の苦ということを詳細に説いている。断末魔の“末魔”とはサンスクリット語のマルマンの音訳で「死節」「死穴」等の意味がある。インド医学では、体内の筋肉・脈管・靭帯・骨・関節が、渾然一体となった小さな「急所」のことを「末魔」と呼び、これを断ずれば死にいたるとする。
 一説には、身体全体に六十四、あるいは百二十の末魔があり、これが臨終のさいには断じ分解されて、激しい苦痛をもたらすという。これが、いわゆる「断末魔の苦しみ」である。
 また仏法では、人間の身体は四大(地水火風)が仮に和合したものとみる。四大のうち、「地」は“堅(かたさ)”の性質を持ち、骨や肉に対応、「水」は“湿(しめりけ)”の性質を持ち水分に、「火」は“煖(あたたかさ)”で体温に、「風」は“動(うごき)”で呼吸に、それぞれ照応している。
 先の『臨終用心抄』には、この四大の結合を「此の四が虚空を囲みまはすが此の身也。板柱等集りて家を作る如く也」(地水火風の四大が、空である心法を囲んでいるのが、人間の身体である。それはあたかも、家が板や柱などの材料が集まって作られているようなものである)と述べられている。そして死ぬ時の苦しみは、家を槌でくずしばらばらにしていくように、身体を形成している四大が別々に切り離されるからであると教えられている。
16  さて、この断末魔の苦に心を乱されず、それを乗り越えていくためには、どうすればよいか。このことに関して、日寛上人は三点を挙げ、ふだんからの用心をうながされている。
 その第一は、他人をそしったり、いじめたり、人の心を傷つける行動を、常日ごろから慎むことである。つまり、そしり等の悪い行為が死苦を強めていくというのである。
 第二には、このわが身が四大(地水火風)の仮に和合したものであるという実相を、よく理解しておくことを教えられている。つまり「死」によって、わが身の「四大」が宇宙法界の「四大」へと帰還し、融合していく時、あらためて驚かないように覚悟しておくことである。その覚悟によって、心を乱すことを防げるからだという。
 そして三番目は、自分の「生命」と仏の「生命」とが、同じ一つの「生命」であると悟れば、臨終の平安をさまたげる悪業も生じない。そのように確信して修行に励むことが再重要であることを示されている。つまり、正しき信仰と実践を貫いていった人は、死に瀕したさいにも、何の憂いも、痛みも、苦しみもない新たな三世への旅立ちができる――ここに仏道修行の重要な目的があると、日寛上人は述べられている。また私たちは、このような死を見事なる勝利の人生の完成となした人を身近に数多く知っている。
17  その『臨終用心抄』を書かれた日寛上人の死はまことに荘厳で安らかであったことが伝えられている。日寛上人は、享保十一年(一七二六年)三月、江戸での布教を終えて大石寺に帰られる。以来、何となく健康がすぐれず日々衰えられていく。
 同年五月二十六日、法灯を日詳上人に付嘱され、後事を一切委ねられる。六月に入ってからは衰弱は日々重くなるが、病の苦しみはまったくなかった。
 御遷化の一両日前に、日寛上人は法衣を着けられ、寝所より駕篭に乗って、お別れの暇乞いに出られる。はじめに本堂に詣で、読経・唱題され、次に御廟所に参詣される。そして御隠居所の日宥上人、学頭寮の日詳上人の所へ寄られ、いずれも輿の中からねんごろに暇乞いをなされたという。
 日寛上人はそのあと、三門前で師・日永上人の妹御にも別れを告げ、門前町を通って大坊まで帰られる。沿道には人々が伏して別れを惜しんだといわれる。
 そして戻られると、番匠(大工)、桶工に命じ、急いで葬式の具を造らせ、その棺桶の蓋に自ら筆を執って一偈一首をしたためられている。
 八月十八日の深夜にいたり、命じていた床の前に大曼荼羅を懸け奉り、香華、灯明を捧げて侍者に「吾れ間もなく死すべし」と告げられる。そして、周囲に知らせるのは必ず死後にすること、臨終の時の付け人は一、二人であること、読経・唱題の注意等、臨終にさいしての指示を細かくされる。
 その後、末期の一偈一首をお書きになって、書き終わるや直ちに、好物のそばを作るように命じられる。侍者が即刻に作ると、七箸これを召し上がって、にっこり笑みを含み、「嗚呼面白や寂光の都は」と述べられたと伝えられる。まさに、三世の生命を通観された御境涯であられる。
 その後、うがいをなして大曼荼羅に向かわれ、一心に合掌して唱えつつ、十九日の辰の刻(午前八時)、半眼半口にして眠るように御遷化されたのである。
 こうした日寛上人のお振る舞いをみると、はたして「死」は、「悲」なのか「喜」なのか、と思えてくる。世間では、「死」は悲しく、つらいものである。しかし、三世の生命観からみれば、妙法に照らされた「死」は「喜」ともなっていくことを日寛上人は教えているように拝される。満足しきった境地で「生命のかちどき」をあげつつ「荘厳なる死」を迎える――そこに最高の人生とその最終章がある。
18  心奥に広がる「九識」の世界――フロイト、ユングと仏法の直観智
 人間の精神に関しての考察は、自我の意識的な部分に限っていうなら、かなり古くから哲学的研究の対象になってきた。だが、人間内面への本格的な探究が西洋において行われるようになってきたのは、十九世紀、かのフロイト以後といわれる。
 以来、深層心理学の探究によって、意識は精神のうちの表層部分に過ぎず、そのさらに奥には、はるかに広大な無意識層が広がっていることが明らかにされてきた。それは“海に浮かぶ氷山”にも譬えられている。つまり、潜在的な無意識層は氷山の海中部分に相当し、海上に現れた目に見える一部が表層の意識層に相当すると解釈できよう。
 となれば、人間の具体的な行動、思考、欲望の内奥にある無意識の領域にメスを入れないかぎり、人間精神ひいては生命の全体像を浮かび上がらせてくることは不可能になる。科学における偉大な発見、偉大な芸術における創造のひらめきが、意識活動より奥の直観によってなされている事実をみても、無意識層の領域への研究が一段と待望されよう。
19  ちなみに、西洋における深層心理学の探究は、今日までに大まかにみて三つの層を見いだしているようだ。
 第一は、先ほど“海中の氷山”に譬えて示した「個人的無意識」の層である。フロイト自身が発見したところの無意識層で、ここには意識から忘れ去られた事柄や、抑圧された心理的な内容が潜んでいるとされる。次に第二の層としてソンディによって提唱された「家族的無意識」の層があり、その奥には第三の層として、ユングの提唱した「集合的無意識」層が広がっている。この「集合的無意識」には、種族や民族、ひいては人類の最古の祖先までのすべての経験が集積されており、究極的には、宇宙それ自体にもつながっていくことが示唆されてきたわけである。
 一方、フロイトに先立つこと一千数百年以前に、仏教(唯識学派)ではすでに、きわめて整足したかたちで深層心理が明かされていた。驚嘆すべき洞察眼というほかない。それによると心すなわち識は、その表層部分から、五識、六識、七識、八識へと深層に向かって深まり広がっていると、説かれる。物事を識別する心の作用をとらえつつ、生命の全体像に迫ったのである。
 いわゆる西洋心理学は、どちらかといえば客観的に心の仕組みや働き方を分析して、人間の感覚、感情、意識、記憶などの心の領域までも探っていったものである。それに対し、仏法は、どこまでも主体的に自己の内奥へ、内奥へと探究の視線を伸ばしていった、といえるかもしれない。
 仏教心理学では、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識という五つの感覚的意識(五識)や、これらの働きをつかさどり統合する識である第六識にあたる「意識」の底に、第七識として「末那識」、第八識として「阿頼耶識」をとらえている。
 デカルトの唱えた“考える自我”は第七識の末那識に根差しているとも考えられよう。しかし、この領域は深い理性の座であるとともに、常に煩悩に汚されていることを仏法の眼は鋭くとらえている。そして煩悩に汚され、本来の自己を狭く限定する自我意識(第七識)のさらに奥に第八識の阿頼耶識を見いだしている。これは「含蔵識」とも呼ばれるように、七識までの行為によって積んだ結果をすべて蔵している。さらに、七識等を生み出す種子となっていく。
 また、六識までは死とともに消滅するが、末那識・阿頼耶識は決して消滅することはなく、無限の過去から未来永遠にわたって続いているとも説かれている。
 ソンディの「家族的無意識」や、ユングの唱える「集合的無意識」は、広大な阿頼耶識の領域を西洋心理学の視座からかいまみたものとも思われる。これら生命の深層への洞察は仏法においてはさらに深められ、中国の天台大師は、第八識の奥に人間の心身を含めて森羅万象を生ぜしめている本源としての宇宙生命へと向かい、第九識「阿摩羅識=根本浄識」を見いだしている。そして日蓮大聖人は、宇宙生命の当体そのものを覚知され「九識心王真如の都」と呼ばれたのである。
 「九識心王真如の都」の「心王」とは、心の作用の根本。「真如」とは、虚妄を離れ、不変、不改という意味である。そして「都」とは、「心王」の住処。つまり、広大にして無辺なる境界世界のことである。
20  日蓮大聖人の御書には「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり」(一二四四㌻)とある。すなわち、いかなる人の生命にも清浄無垢にして常住不滅の当体があること。そして、その生命の内なる宮殿を輝かせていくところに、永遠に崩れることのない幸福、真実に偉大な人生を切り開いていける――との法理を明確に説き示されているわけである。
 言うなれば、生命は、常に外境と因縁和合しながら、「六識」をとおし、それぞれの情報を受けている。そのなかには、種々の苦悩を生むものも少なくない。しかし、「九識」の太陽が胸中に輝きわたれば、それらの苦はすべて霜露のごとく消え去っていく。信仰とは、一日また一日、いかなる時も、胸中の大空に太陽を昇らせ続ける連続作業であるといえるかもしれない。燦として輝く日輪のごとき生命力を全身にみなぎらせ、無量の喜びを心に感受しながら、悠然と生き抜いていく――。
 要するに、人はいくら社会的な地位や名誉があっても満足しない。いくら財産があっても、それだけでは本当の心の充実はない。
 このわが胸中の「宮殿」というか、広々とした境界世界を開ききっていってこそ、真実の人生の価値も、幸福感もあるのではないだろうか。
 また、この第九識とは、自我そのものが無限の宇宙生命と融合している次元であり、生命の身体的、精神的なあらゆる働きが生じる根源であり、創造力の源泉そのものである。
 人間生命の中で、理性の光が届く範囲はあまりにも限られている。理性を超えた、鋭く、正確な働きをなしうる直観智と溢れてやまぬ慈悲を包含した心身内層の世界――現代人は、西洋近代文明の発達のなかで、そうした世界を把握する能力を弱めてきたと推測することもできよう。
 この生命の内に秘められた真の叡智を開発し、自他の幸福のために用いる方途を、心ある人は希求しはじめていることを強く感じてならない。
21  人間苦を乗り越える道――コロンブス、マネらの非業の死
 もう十五年くらい前のことであろうか。トインビー博士との対談のなかで、博士が私に真剣なまなざしで語っていた一言があった。それは、死という問題から逃避した世界の指導者に対する鋭い指摘であった。
 “為政者も、各界の指導者も、この根本命題に挑戦することなく、避けて通ろうとする姿は卑怯であり、最も恥ずべきである”――トインビー博士自身、高齢という現実の苦悩に直面して、いよいよ深刻にこの問題の究明にあたり、東洋の仏法思想にその光を求めておられたように感じる。事実、私との長時間にわたる対談の折にも、仏法で説く生命観に深く驚嘆されていたことを、今日でも、まざまざと思い出す。
 歴史上の人物をみても、不遇のなかにあっても自らの信念、主義、主張に生きぬいて生涯を終えた人はいる。しかし、名声に彩られながらも、みじめな痛ましい晩年のなかで人生の幕を閉じていった人があまりにも多いことに気づくのである。
22  コロンブスは、言うまでもなくヨーロッパ人として初めてアメリカ大陸へ到達したのである。ヨーロッパからアジアにいたる西方航路の発見に生涯を賭けたその名前は永遠に讃えられ、人類史に残っていくことだろう。
 しかし、彼の後半生は数々の栄光とは裏腹に失意のどん底にあった。彼は第一回の航海ではバハマ諸島の一つに到着。キューバ、ハイチなどの島々を探検して大成功でスペインに帰ってきた。大歓声で迎えられ、彼の名声はヨーロッパ中にとどろきわたる。が、二回目の航海では、十七隻、千五百人に上る大船団で出発したにもかかわらず、思ったほどの結果を生まない。その後三回目、四回目の航海でも思うような成果を上げることはできず、かえって彼に対する多くの不満の声が、王室に達し、ついには王室からも世間からも冷たい目を注がれるようになる。
 また、「開拓者」として必要な「先駆性」「行動力」を持っていたコロンブスも、その開拓された土地で「指導力」、「統率力」が発揮できなかった。
 そのため多くの不満や反発があり、それが国王らの耳に達し、王室の冷遇として彼自身にかえってきている。
 同様なことが、いずこの世界でもある。例えば、それまで自分の置かれた立場で存分に活躍してきた人が、それよりも一歩高い立場に立ったとき、指導者として失敗する場合がある。また、ある地域では立派なリーダーとして活躍していた人が、他の地域に移ったとき存分に指導力、統率力が発揮されないで終わってしまうこともある。人材の配置とはそれほど、むずかしいものである。
 晩年の彼は、そんな周囲の冷遇に不平をかこち、関節炎やマラリヤなどに冒された老体に苦しみながら、失意のうちに生涯を終えている。
23  フランスの画家マネは、新鮮な画風で印象主義への道を開いたことで有名である。苦難のなかにも独特のタッチで多くの画家に影響を与えた彼はしだいに深き苦悩の淵に沈んでいく。まず、四十半ばのころ、左足に痛みを感じたが、その原因がよくわからない。しかし、的確な治療も施せないまま、病状だけは進んでいく。「印象派の父」とまで呼ばれ、芸術に一大革命をもたらしたマネだが、壊疽に冒され、左足がきかなくなっていく。名誉あるレジョン・ドヌール勲章を受けたのは、死の二年前であったが、彼自身は栄光というにはあまりにも暗い、激痛との戦いのなかにあった。左足の切断手術を受けたにもかかわらず、あえぎ、ひきつけを起こして苦悶のなかで死んでいったという。
 古今東西の歴史を見ても、暗殺されたり、水死、自殺、ギロチンにかけられたり等々、人生の最期にはさまざまある。
24  仏教では、この人生を「無常」と説く。また、「無常迅速」との言葉もある。
 無常とは、言いかえれば“変化”のことである。「すべては変化する」、これが仏教の根本の認識である。また人生の厳粛な真実といえよう。
 哲学者で作家の倉田百三の小説『出家とその弟子』(岩波文庫)の中に、こんな一節があった。
 「この世は無常迅速というてある。その無常の感じは若くてもわかるが、迅速の感じは老年にならぬとわからぬらしい」
 つまり、すべてが“変化”していくということは、若い人にも観念的には、よく理解できるかもしれない。しかし、“迅速”という、その変化の速さの実感は、ある一定の年齢にならないと、なかなかわからないというのである。
 たしかにだれしも、振り返ってみると、子どもの時代の一年は、比較的ゆったり過ぎていったのに比べ、年配になるにつれて、一年が、また一月、一週間があまりにも早く過ぎ去っていくのに驚くものである。先日も、ある知人が、しみじみと「一週間過ぎるのが、本当に早いですね」と語っておられた。その深い実感をたたえた口調が忘れられない。
 無常迅速――人生は、うっかりしていると、あっというまに過ぎてしまう。青年であってもやがて、そのことが身にしみて感じられる時がくるにちがいない。
 こうしたことから仏教で説く本来の「無常観」がゆがめられて、一般に、何かセンチメンタルな、諦観的なものとして受けとめられていることが多いようだ。
 世界的にも、現実否定的な、また受動的な人生観と結びつけて連想されている傾向がある。日本の文学、芸術においても、無常感は、深くその底流を形成している。この無常感の系譜を日本文学のなかに探った研究も少なくない。しかし、真実の仏法の「無常観」は、決して、そうした感傷的なものではない。むしろ、力強い、ダイナミックな、前向きの人生を教えている。
25  釈尊はたしかに、この世は「無常」であり、「苦」であり、「無我」である等と説いた。しかし、それは、享楽や安易な現状肯定に耽溺し、真実の人生を求めない者に対する、いわば方便の教説であった。
 つまり、釈尊のそれらの教えは、むしろ人々に人生の無常を自覚させることによって、真剣に「常住」の法を求めさせようとするものであった。大乗仏典において一転して「常楽我浄」と説いたのは、このためである。
 多くの日本の文人等が表面的な無常感にとらわれるなかで、仏法の真実に迫ろうと努力した人もいた。高山樗牛や姉崎嘲風らも、法華経の文上の理解までは近づいていたようだ。また文芸評論家の小林秀雄氏も、さすがに一流の哲学を感じさせた一人である。氏のエッセー『無常といふ事』も、他とは、ひと味ことなった深い趣をもっている。
 ともあれ、変化のなかに常住の法があり、永遠の生命がある。絶えまなくうつろう雲の高みに、不変の大空がある。不滅の太陽が輝いている。
 “無常感”にとらわれた人生は、この雄大なる天空の高みを知らず、下ばかり向いて歩んでいるようなものである。また、そうした弱々しい人生観と諦観的な文化からは、もはや二十一世紀に生きゆく国際的人物は生まれないであろう。人格の確かな“芯”を持たない、幼児性の取れぬ人間ばかり、つくってしまう恐れさえある。人生の無常に流されてはならない。感傷に負けてもならない。
26  例えば旅客機が飛行していく。到着までには、気流をはじめ多くの気象状況等の「変化」に、すばやく対応していく必要がある。あらゆる変化を見きわめ、逐一対処しながら、悠々と目的地への進路を進んでいかねばならない。
 それと同じく、人生も変化に次ぐ変化である。無常である。何人も、肉体的、精神的に変化していく。環境も変わる。家族も社会も変化する。時をとどめられるものは何ひとつない。そうした無限の変化にも最も的確に、最も価値的に対処し、最高の幸福の方向へと飛行していく。そのための原動力が信仰である。
 そして、これこそ正しき「常住の法」に基づいた人生の生き方である。すべての変化を、よき方向へ、よき方向へと、リードしていける力が妙法にはある。
 人生は、はやい。逡巡したり、愚痴や他者への批判に、いたずらに時を過ごし、また自らの怠惰に負けてしまったりしているうちに、あっというまに人生は過ぎ去ってしまう。大切な一日一日である。
 フランスの大哲学者パスカルは、人生の真実相から目をそむけることになるすべての営みを、「慰戯」と呼んだ。「慰戯」とは、単なる気晴らし、娯楽の謂であり、人生の構築に何ら資することのない無価値の行為のことである。また、ソクラテスは、人間が、その本来性を開覚するためには「自己に関する無知」から脱出しなければならないと考えた。不幸の根源が「自己に関する無知」から生ずるという人生への卓見である。
 どこまでも現実のまっただなかで、逞しく生きぬきながら、同時に「大宇宙」を仰ぎ、「永遠」に思いをはせる広々とした境涯で、一日が千年にも千劫にも通じるような、悔いなき一生を送っていきたいものである。

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