Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第一節 「科学の世紀」から「生命の世紀…  

随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

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21  この“創造”という言葉の実感とは、自己の全存在をかけて生き抜いた、悔いなき自己拡大の生命の勝ちどきであり、汗と涙の結晶作業以外の何物でもない。“創造的生命”とは、そうした人生行動のたゆみなき錬磨のなかに浮かび上がる、生命のダイナミズムであるといえる。
 そこには嵐もあろう、雨も強かろう、一時的な敗北の姿もあるかもしれない。しかし創造する喜びを知る生命は、それで敗退し去ることは決してない。創造はきしむような重い生命の扉を開く、最も峻烈なる戦いそのものであり、最も至難の作業であるかもしれない。極言すれば、宇宙の神秘な扉を開くよりも「汝自身の生命の門戸」を開くことのほうが、より困難な作業、活動である。
 しかし、そこに人間としての証がある。否、生あるものとしての真実の生きがいがあり、生き方がある。“生”を創造する歓喜を知らぬ人生ほど、寂しくはかないものはないと私は思う。ベルクソンは「世界の豊かなものにたえず何かを加える努力によって、人格を大きくする」と言っているが、それは自他ともに境涯を開き、生命をより豊かにしていくことに尽きるといえるだろう。
 仏法の目的もまさに自己変革、人間完成への絶え間ない創造の道を切り開くことにあったといえる。人間としての成長の方途を、仏法は他者と苦楽を共有し、他者の生存の力を強化するという行為のなかにのみあることを、鋭く見抜いていた。
 利他の行為がそのまま自己完成への道であり、その利他という生の創造への根源力を、尽きせぬ泉のように涌きいだす方途を明瞭にしたのが、仏法である。日蓮大聖人の御書には、“喜ぶ”ということについて「喜とは自他共に喜ぶ事なり」(七六一㌻)とある。自他ともに創造しながら、生命の歓喜を呼び起こしていってこそ、真の歓喜であるといえよう。
 生命軽視と生命力衰弱の現代にあって、あらゆる人の生命の内奥からいかにして生きる力、深い生命の歓喜をともに顕現していくことができるかという実践の重要性は、ますますその重みを増していくにちがいない。

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