Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第一節 「科学の世紀」から「生命の世紀…  

随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

前後
1  健康不安時代を考える――“生命の濁り”と真の“安楽”
 私が青春時代から大好きであった言葉に、健康とは「行動への意欲をもち、環境に柔軟に適合しながらさらに的確な判断力と不屈なる精神、最上の良識をあわせもつ」というベルクソンの一言がある。
 “生の哲学者”ベルクソンの思索が、生命の躍動感に及んでいたことを如実に示す言葉である。また、何度かお会いし、お話ししたことのある澤瀉久敬博士は「健康であるというのは、(中略)朝目が覚めたとき、からだに異常を感ぜず、すぐに起きられるというだけではなく、また、ただ気持がさわやかであるというだけではなく、目が覚めるやいなやその日の仕事に対する熱意が涌いてじっとしておれないという状態、それがほんとうの健康ではないか」(『健康を考える その他』第三文明社)と言っている。平易な言葉のなかにも、健康のあるべき一点を見事に示している。
 しかし現実は、こうした健康観とはほど遠いようだ。健康書がよく読まれ、自然食品、漢方医療薬をはじめとして、ダイエットやジョギングのブームにいたるまで、健康への関心の高さを物語る事例には事欠かないが、裏を返せばそれは健康に対する不安が増大し、健康保持への切なる願いの表れともいえるだろう。たしかに“健康ブーム”という言葉でくくられる、これらの諸現象の一つ一つは決して深いものではないかもしれない。しかしその奥には、健康でありたい、価値ある人生を生きたいという願いやガンや循環器系の疾患をはじめとする成人病、難病に打ち勝ちたいとの現代人の切実な姿がある。そしてまた、ストレスの日常化がもたらす心身にわたる疲労やさまざまな現代病への対応策、平均余命の延長にともなって起きている「豊かで健やかな老い」をどう得るかという問題が横たわっているといえる。現代は真に健康に生きるということがますますむずかしい時代であり、真の健康観の確立はきわめて重要な課題といってよい。
2  一言で「健康」といっても、いわゆる「身体的健康」「心の健康」「社会的健康」といった観点がある。しかも、この三つの問題は、それぞれが密接にかかわり合っていくのが現実である。
 法華経では人間の「病」を「五濁」という多重なる次元の連関性と全体観のうえからとらえている。五濁とは「命濁」(生命自体の濁り)、「見濁」(思考の濁り)、「煩悩濁」(本能的な迷い)、「衆生濁」(人間社会の濁り)、「劫濁」(時代の濁り)をいう。
 天台大師が『法華文句』という著作で“劫濁”の相について述べている中に次のような趣旨の一文がある。
 すなわち「濁った時代には、人々の心に怒りや憎しみが増し、その結果、争いごとが起こる。また貪欲(欲望に支配される生命の傾向性)が盛んになって常に満たされることがなく、理非を弁える精神作用が鈍化して疾病、病人が増える。こうして争いごと、飢餓、疾病(合わせて三災という)が起こるゆえに、煩悩がますます盛んになるという悪循環が固定化して、価値観が混乱し、時代の乱れに拍車をかける結果となる」というのである。
 言うなれば、劫濁とは文明全体の歪み、狂いともいえようか。その狂いの中身は結局、人間をはじめとするもろもろの濁りに帰着せざるをえない。“心の病”が“身の病”“社会の混乱”の引き金になり、それがまた“心の病”に拍車をかけるという悪循環をもたらすという深き洞察である。つまり反転していうならば、仏法は人間生命の持つ不幸の根源を冥伏させ、断ち切ることによって、人生と社会の抜本的な蘇生への道を開いていく実践の哲理といえようか。
 元来、「健康」を意味する”health”という英語の語源には「全体」、また「完全」という意味もあるようである。一人の人間にとってみれば、まず「身体」と「心」がともに健康でなければならない。そして、社会のなかで活躍、貢献していくことに本来の健康という意義もあるといえるだろう。
 また、「病気」ということは、専門的にはいろいろ定義があると思うが、「病気」を意味する英語の「disease」とは、「安楽の欠如」という、古代フランス語に由来しているようである。
 この「安楽」ということについても、法華経の「安楽行品」という経典にその意味が示されているが、日蓮大聖人はこれをさらに深く教えられている。
 人生、生活の一次元でいえば、「安楽」とはたんに何も「悩み」がない、「病」がないということではなく、また、そのような苦難を避けていくことでもない。さまざまな苦難の連続をも悠々と乗り越えていく達観した境涯のなかに、実は人生の真実の「安楽」があると説かれているのである。
3  心身の健康は当然、尊い。しかし、人生に病気や苦難は避けられないものでもある。ある意味で「健康」と「病気」は渾然一体化しているのが「生命」の実相ともいえよう。また、たとえ健康な人でも、ある程度の年齢に達すれば多少の疲れも出る。ときには身体の調子がおかしくなることもある。しかし病気であっても、偉大な仕事をした人はたくさんいる。逆に健康であっても、無為に人生を過ごしてしまう場合もある。
 スイスの哲学者ヒルティは『同情と信仰』の中で、「河の氾濫が土を掘って田畑を耕すように、病気はすべて人の心を掘って耕してくれます。病気を正しく理解してこれに耐える人は、深く、強く、大きくなり、それまで理解できなかった識見や信念を体得するにいたります」(『ヒルティ著作集』7〈岸田晩節訳〉所収、白水社)と言っている。さらにまた「たとえ病気であっても、健康といえる人もいるし、死にも健康的な死があると思う」という大変に含蓄ある医学者の言葉もあった。
 まさに「病」に負けないということだけでなく、「病」を通じて、人生の深さと他人の痛みを知り、人生観、目的観の昇華へと連なっていくことが大切といえるのではないだろうか。結局、心身ともに生きいきと生きゆくために、自分自身の根本的な生命力を、いかに発現しゆくかということこそ究極の一点であり、そこに、仏法の一つの意義があると、私は思う。
 強き生命力が人生と社会に奔流のごとく日々の行動を形づくっていく――そこに「全体」、「完成」の意味にも通ずる確かな「健康観」も見えてくるといえるだろう。そうした意味からも、「健康不安時代」というのは、一人一人の生きることの“質”が問われる時代ともいえるのではないだろうか。
4  人間の詩、生命の詩を――アレクサンドル博士との対話
 ビクトル・ユゴーは言う。「海よりも大きなながめがある。それは空である、空より大きなながめがある、それは魂の内部である」(『レ・ミゼラブル』佐藤朔訳、新潮文庫)と。
 たしかに、現代は科学も発達し、物質的にも豊かになった。だが、その華やかさに目を奪われ、心の広さ、無限の深さに思いを馳せることを忘れてきたところに現代の大きな誤謬があったと私は思う。「生きる」ことの真実の意味も、人生の真の価値も、「心の内奥」への探求なくしては得られない。本来、社会のあらゆる営みは、人間の「心」を豊かにし、輝かせていく手段でなくてはならない。その意味でこそ、科学も経済も、政治も、大事な人間の営みとなるのである。
 しかし、現代はあまりにも物質至上主義に走りすぎてしまった観がある。今こそ壮大なる「人間」の復権、「心」の復興が待ち望まれているといってよい。そして、科学者や経済人、政界人の活躍だけでなく、詩人、哲学者、宗教者などの大いなる活躍の舞台と時代とを開いていくことが急務である。そうでなければ、未来への使者である青少年たちの心はしだいに萎縮し、時代は、心の豊かさ、安らぎを失った暗い舞台へと入ってしまうにちがいない。
5  一九八七年(昭和六十二年)の秋、私はルーマニアの詩人でありブカレスト大学教授でもあるイオン・アレクサンドル博士と親しく語り合うひとときをもった。博士とは、一九八三年、私がルーマニアを訪問したさい、ブカレスト大学で、「文明の十字路に立って」と題する記念講演を行って以来の友人である。久方ぶりの再会を喜び合い、話は自然、詩の心、詩の真実の力、そして人間の「心」について、広がっていった。
 私は、もちろん詩作を生業とするものではない。しかし、人生の労苦と戦いながら黙々と道を開き、明日への希望を信じ生きゆく青年の瞳に出あうたびに、何かの励ましになればとの祈りにも似た気持ちで詩をよみおくってきた。
 若き日に、私もよく詩の朗読を聞きにいった。暗く閉ざされがちな終戦直後の時代状況のなかで、それらの詩がどれほど若い心の滋養となったか、計り知れない深い思い出となっている。
 また、一日の活動を終えて家路に向かいながら、満天に輝く星を仰ぎ、詩を朗読したことも懐かしい。今も、青年たちと会えばともに詩を朗読したいとの思いがやみがたい。
 しかし今、「人間」と「社会」を蘇生させゆく、深い生命の脈動に満ちた詩は少ないようだし、また、各界で活躍する人々に「詩心」を持つ人が少なくなっていることを私は心から残念に思う一人である。
 人間生命の内奥に広がりゆく、無限の可能性の光に満ちた「心」を、大宇宙、大自然のリズムと、平和的に、そして感動的に、すべてを幸福の方向へと、和合させつつ、素晴らしき人間の生を歌い、人生の誠を語っていく――それが「詩心」であると常々私は考えている。その意味で「詩」には、人間復興への啓発と薫育の重要な使命があると思う。
 博士によればドイツの哲学者ハイデガーはその遺言として、ヘルダーリンの詩を墓前で朗読するよう望んだという。その詩は『ドイツ人に寄す』『宥和する者』『パンと葡萄酒』などであった。この遺言どおり、子息は父の墓前でヘルダーリンの詩を朗読したが、特に結びの『パンと葡萄酒』は感動的であったという。大哲学者の心を物語る美しい話である。
 詩はいわゆる感傷でもない。気休めでもない。単なる心情の吐露でもない。批判でもなければ、論でもない。大宇宙の目に見えない法則、社会という変転の現実世界を貫く法則、そして人間の心のリズム――悠久なる時空のなかで、互いに融合し、また律動し合いながら脈動するこの「人間」と「社会」と「宇宙」。この三つを結ぶ心こそ詩であると私は思いたい。そして、詩はそれらのすべてを高め、開いていく力ともなるのである。まさに、世界の大詩人といわれる人たちの詩はそうであった。またそうであってこそ、詩は「人類の宝石の輝き」となる。
6  アレクサンドル博士は、各地を回り、青年たちに詩を朗読してきたと語っていた。博士の詩の朗読に、心を満たしゆく青年たちの姿が目に浮かび、私まで心のときめきを覚える思いであった。そして博士はその朗読会をとおして、聴き入る青年の目の奥に点滅する「人間の苦」をかいまみて心を痛めたという。鋭い詩人の感性である。「苦」のない人生はない。その「苦」をどう打開するか――これこそ人類の永遠のテーマといってよい。古今東西の哲人たちが、いかにこの問題に呻吟し、思索の歩みを運び、説いてきたことか。
 人間の「苦」をなくし「幸」をもたらすために、哲学が生まれ、思想、宗教があった。政治、経済、科学などの社会的営為の一次元的な目的も、またそこにあったはずである。そして詩も文学も芸術もみな、幸を求め美を追求する人間の本然的な自己自身の表現といえるだろう。真摯に「幸」を追求するとき、人は結局、「心」とは何か、「生」とは何かという人間の内面への探究にいきつかざるをえない。
7  仏法は「慈悲」を根本としている。「慈悲」とは「抜苦与楽(他者の苦しみを抜いて、楽しみを与える)」をいう。今、他人の痛みをわが事と感ずる人間としての感性の鈍化が問題となり、同苦、共感の情の欠如が指摘されているが、「慈悲」は、たんなる慰めではない。“同苦”“共感”をもはるかに超えて、苦を抜くという人間としての最も尊い積極的行為であるといえよう。
 「苦」は人間とともに存在する。決してなくなるものではない。しかし「苦」を転換し、「歓喜」へと跳躍させることは可能であり、そこに仏法がたんなる観念的な理想論に終わらなかった大きな思想上の転換があった。これを「煩悩即菩提」という。わかりやすくいえば、「煩悩」とは「苦しみ」「悩み」であり、「菩提」とは「悟りの歓喜」である。例えば薪を焼いて、火を得るように、「苦」をなくすのではなく、むしろ「煩悩」の薪を焼いて「菩提」の慧火を生み出す。「苦」を「歓喜」へと質的転換をしていくのである。例えば、飛行機も空気の流れを受けるからこそ上昇の力を得られるように、「苦」も「歓喜」への糧となる。ゆえに「苦」が大きければ大きいほど、「歓喜」も大きくなるというのが仏法の教えである。
 しかしあくまでも、「煩悩」を即「菩提」と転ずる基軸は「人間」である。「苦」に呻吟するのも人間。その「苦」を媒介として「歓喜」へと開くのも人間。仏法の眼は常に人間を凝視してやまない。だからこそ一切の主体である人間をいかに変革していくか、そこに仏法の英知があったといってよい。そしてその「人間」をつきつめていけば、それは「心」であり、「生命奥底の一念」に究極する。ゆえに、人間の「心」を、どう鍛え、強靭にしていくか、そこに「苦」の解決のかぎがある。
 詩もまた「心」を豊かに、強くする一つの方途だと私は思う。
 元来、人間は煩悩・業・苦という雲に覆われた存在、と仏法では説いている。ゆえにその雲を見おろしながら、悠々とその上を飛びゆく境涯を志向していくことが大事となる。つまり「雲」や「風」に左右されない高い境涯への上昇が要請される。それらによって初めて苦界に沈むことはなくなるであろう。
 その高次元の空に行くために、信仰がある。祈りがある。正しき仏法がある。さらに詩の「心」も、その力を推進しゆくものであってほしいと私は願っている。悠久なる大空と、人間の生きる深き意味を胸中にとらえつつ、朝霧のごときさわやかな詩心を持って生きることが、大切なのではないか。
8  ストレスに打ち克つ――セリエ博士の説と菩薩的生命
 人は何人も「安楽」な人生、平穏な一生を願う。「安楽」といえば、ただ目前の楽しみにふけったり、波風のない平穏な人生を思うかもしれない。しかし、今は幸福であっても、世界も自分も、刻々と変化していってしまうものである。何もしない安楽の境涯というものはありえないのが人生の実相ではないだろうか。
 仏法は、そうした浅い現象面の「安楽」ではなく、より深く、より永続的な「安楽」を志向している。
9  現代は、肉体的ストレス・精神的ストレス・社会的ストレスというように、あらゆるストレスに襲われ、人間が汲々としている時代といわれる。
 カナダの著名な医学者であり、ストレス研究の権威であるセリエ博士は次のように言っている。
 「たとえば、二、三百年前には核戦争の脅威こそありませんでしたが、文字どおり全国民を滅ぼしかねない、恐るべきペストの危険がありました。また、人生のすべては不確実で、偶発的なものです。今日は金持でも、明日は貧乏になるかもしれない。または、今日は健康でも、明日はわからない――といった具合で、歴史の全時代を通じて、ずっとこんなふうだったのです。しかし、私たちの時代に特に増えたと思われる社会生活上のストレスが一つあります。モチベーション(動機づけ)の喪失が、それです」(「リーダーズダイジェスト」一九八二年十一月号)
 そして、博士は、最良の解決策の処方として次の三点を挙げている。
 第一に、自分のストレスに対する耐性をよく知り、それにしたがって生きる。
 第二に、自分の目標を定め、それが真に自分自身のものであって、他人から強いられたものでないことを確認する。
 第三に、利他主義的利己主義、つまり、他人にとって必要な存在となることによって、自分の利益を計るという生きかたをすること。
 この結論は、「生命の最も原始的なレベルにおいてでさえ、利他主義と利己主義とのバランスがとられている」という、博士の科学者としての研究と経験から導かれたものであるという。
10  生きていれば必ずストレスはある。しかし、ストレスのない環境では、生命は十全には生きられないともいわれる。この点についてもセリエ博士はすべてのストレスからの解放は死であるとして、“ストレスを人生のスパイスに”とも述べている。これは広い意味で、適度な刺激、ストレスがあって始めて、生の躍動が築かれるということにもなろう。
 私が興味深く思うのは、いっそう人の役に立ち、必要な存在となるよう努力することは、危険を冒すことなく生涯かけて追求することのできる目標であり、それが目標の喪失という現代社会の最悪のストレスから身を守るものとなるだろう、と結んでいることである。
 これは仏法で説く菩薩の生き方に通じるともいえよう。
 周知のように仏法は、人間の心身を煩わし、悩ませる諸々の精神作用の総称を「煩悩」ととらえる。現代語でいう“ストレス”が与える心身の苦痛も、この「煩悩」の範疇といえる。
 瞬間、瞬間と流れゆく生命のもつ「姿」また「境界」には、大きくみると十種の範疇がある。それを仏法は「十界」ととらえている。
 簡潔に言えば、いかなる人にも「六道輪廻」という言葉で知られている「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人」「天」という境界がある。さらに「四聖」という「声聞」「縁覚」さらには「菩薩」「仏」という、より高次元の境界がある。
 日蓮大聖人の「観心本尊抄」という御書には「数ば他面を見るに或時は喜び或時は瞋り或時は平に或時は貪り現じ或時は癡現じ或時は諂曲なり、瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・諂曲なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり」(二四一㌻)とある。
 この六道より先の「声聞」「縁覚」「菩薩」は反省的自我ともいうべきものである。
 この「九界」はさまざまな外境に対応して、それぞれ顕現したり、冥伏したりする。しかし、九界の範疇はいまだ煩悩の域を出ていないといえる。仏法の眼目は、尊厳にして無限の力を持つ「仏界」という生命の実在を、いかにして顕現しゆくか、というところにあったのである。経典では、仏のことを「自在王」とも「世雄」とも「能忍」とも「如来」とも「正遍知」などとも表現している。簡単にいえば仏とは三世を通観し、万法に通会する、完成された円満の境地ともいえる。
 この十界論によってみればこれまでの人類の歴史は、まだまだ六道輪廻の流転を乗り越えてはいないといえる。「地獄」の地とは、最低を意味し、獄とは縛られているという意味とされる。
 いかなる時代になろうと、この「縛」を切り、人間自身が上昇していかないかぎり、人間と社会の抜本的蘇生への道はない。仏法は、いわばストレスが充満するこの泥沼のごとき社会にあって、なおかつ仏界という、最極にして尊厳なる生命を開く可能性を見いだし、その顕現のための具体的な「法」と道とを提示している。
 同じ人間でありながら、あるときは悲しみ、あるときは喜ぶというように、瞬間に現れる十界のいずれかの生命は、固定されたものではない。次の瞬間にはまた縁にふれて十界のいずれかを顕現し、移りゆく。この生命のダイナミズムを、仏法の直観智は「十界互具論」として見事にとらえている。
11  セリエ博士が提唱するストレス対処法は、仏法の大乗の生き方を志向しているように思われる。九界のなかでも、菩薩とは「無上菩提(仏果)を求める人」であるとともに、「利他を根本とした大乗の衆生」をさす。無上菩提とは仏が得た最高の悟りであり、それを覚知していくために修行していくのが菩薩である。その修行の核心が「大法」を根本として有限かつ無常の世界で人を救うという利他の実践にあり、それを通じて自身もまた仏果が心に観ぜられる。そしてまた、感得された仏果は現実世界においては、菩薩としての振る舞いとして現れるのである。
 菩薩は、衆生を救おうとすれば、ストレス充満の世界に身をさらさなければならない。そればかりか、一切衆生救済の大誓願は、自己の生命の中に煩悩の嵐を抱え込むことになる。
 現実のさまざまな障害に積極的に立ち向かうところに菩薩の菩薩たるゆえんがあり、またそれゆえに限りなき悩みに遭遇する。塵沙惑といわれるほど現実の悩みは無数であり、また各人の悩みも千差万別である。それゆえに、それに対処するうえで生ずる悩みも限りないということができる。すなわち菩薩は、空に逃避することを嫌い、ストレスの充満する社会の動向に積極的にかかわりつつ、菩提を求める過程において塵沙惑を打ち破り、仏果をめざしてどこまでも進む。
 菩薩行とは、塵沙惑等のあらゆる煩悩の猛威を、仏性の強きエネルギーで鎮静化させるのみならず、その強き生命を他へ波及させるなかで充実した生を謳歌する知恵と力へと質的に転換せしめるのである。
 そうした現実の荒波のなかで、知恵と慈悲力を現していく実践が、自身の仏果感得へとさらに進んでいく。セリエ博士の学説は、ともすると自己中心主義的な生き方に走り、かえって自己をせばめてしまう現代人への警鐘ともいえるだろう。
 コップの水にインクをたらせば水は青く色づくが、大海に少々のインクを混ぜても、大海の中では色は消え去ってしまう。と同じように、大事なことは、自分自身がどれだけ深い境涯を築き、困難があっても悠々と乗り越えていけるかである。現実の苦悩は、決してなくなるものではない。それに流されて不幸の大海に沈むのでなく、それを乗り越えて楽しんでいけるようになることが大事なのである。
12  知衆化の時代に必要な知恵――知識の個別性と知恵の全体性
 一九九〇年代は「知衆化の時代」ともいわれる。この情報化社会のなかで、民衆は、かつてないほど高度な情報と知識を備えた「知衆」となっていくというのである。また、人間の「知」がますます重要となる時代が到来するということから「知価革命」ということがいわれ、話題を呼んだこともある。
 物質的な価値偏重の時代から、「知」に価値をおく時代へ移行するとの指摘に異論はない。しかし、銘記すべきは、「知」の意味するものが何かという内容にあると私は思う。いかに「知識」を持ち、情報を収集していても、膨大な情報に流され、かえってそこに自身が埋没してしまっては、何のための情報かわからない。つまり、「知識」即「知恵」ではない。「知識」を、自在に使いこなしていくのが「知恵」であり、「知識」は「知恵」に入る門といえよう。人間の知恵こそ、これからの時代において最も大切であるということである。この情報化社会が、知識氾濫の社会へと陥り、それを使い、構成し、状況を切り拓いていく人間の力たる「知恵」がますます摩滅していくとしたら、これほど恐ろしいことはない。そして実に、科学文明は、人間の豊かな内在的価値を切り裂いていくベクトルを持っていることを見逃してはならないと思う。
 近代科学の方法論の特徴は、多様な諸現象を要素をもって説明する「要素還元主義」と、計量的に計る「分析加算主義」といわれる。そこからは、常に全体性が消えていく。しかし、現実にわれわれの周囲に生じてくる出来事や物事は、一つとして孤立して生ずるものはない。すべては何らかの形でつながりを持ち、一個の全体像を形づくっている。
 またわれわれの身体一つ取り上げてみても、頭、手、胴、足、五臓六腑、さらには個々の細胞へ……と、次から次へ細かな部分に分けられるが、それらは一つの身体として密接につながり合っている。身体と心のつながりも無視できない。さらに、最近の深層心理学や生態学の成果が明らかにしているように、人間と人間、人間と自然・宇宙との関係を追っていけば、つながりは無限に広がっていくであろう。小宇宙(ミクロ・コスモス)と大宇宙(マクロ・コスモス)とは、不可分の関係にあり、絶妙な調和のうえに成り立っているといってよい。その見えざる調和の“糸”によって結ばれた生命体としての全体像を感じることこそ、古来、人間の知恵であった。
13  ところが近代文明は、全体を絶えず部分へ部分へと分割する道をひた走ってきた。人知の発達という点からいえば、それはある意味では必然の流れであったかもしれない。しかし、その反面、物質面での多大な成果にもかかわらず、人間は、自然はもとより人間同士のつながりをも断ち切られ、狭く閉ざされ、自分だけの孤独な空間のなかで呻吟せざるをえない状況に追い込まれてしまっている。
 これは、学問や教育の分野においても、「知恵の全体性」をなおざりにした「知識の個別性」の独走、と位置づけられると思う。人間の“幸福”や、よりよく生きるための“知恵”や“価値”とは無関係に知識のみが独り歩きし、肥大化した姿といえよう。
 明治の日本が近代化の緒についていたころ、福沢諭吉は、早くもこのことに気づいていたようである。
 「彼の物知りと云ふ人物は、物を知るのみにして物と物との縁を知らず、一に限りたる物事を知るのみにして其物事の此と彼と互に関り合ひあるの道理を知らざる者なり。学問の要は唯物事の互に関り合ふ縁を知るに在るのみ。此物事の縁を知らざれば学問は何の役にも立たぬものなり」(『福澤諭吉全集』4、岩波書店)
 さらに彼は、こうした「物知りにして物の縁知らず」は「字引に異ならざる者なり。強ひて其異なる所を云はんとならば、紙の字引は飯を喰はず、人の字引は飯を喰ふの相違あるのみ」――つまり、無為徒食の存在であると痛烈に攻撃しているのである。
 言うまでもなく福沢諭吉は『学問のすゝめ』を著し、広く学の研鑽をうながし、自らも実行した人である。彼が排撃したのは、学問や知識それ自体ではなく、学問のための学問、知識のための知識であった。
 福沢諭吉のこうした言葉を、たんに効用主義、実用主義の観点からとらえてはならないだろう。
14  周知のごとく「縁起」や「因縁」などの語源に明らかなように、「縁」とは、本来、仏教用語である。その深義はさておき、彼が「縁」と言っているのは「つながり」ということである。それは物と物との「縁」であると同時に、物事と自分との「縁」ということであろう。学問や知識が自分自身にどうつながり、いかなる意味を持つのかという、「全体性」への志向である。
 たしかに近代科学の発展の経緯を振り返ってみれば、知識の追求を大きなばねにしてきたことは事実である。しかしその結果、核兵器が出現し、幾多の有毒物質が公害をまき散らすとなれば、いやおうなく科学者の社会的責任が問われることになる。知識が、人類や自分の運命とどう「縁」や「つながり」を持つかを問い直さざるをえないことは当然であろう。まさに、知識体系を「自己」もしくは「自己の生き方」に即して、主体的に問うものこそ知恵の力である。そして、その「つながり」を問い、全体観を把握し、価値創造に向かわしめるものこそ知恵であり、それこそ真の意味での人間の力といえよう。
15  近代科学は、西洋独特の、ある意味では宿命的ともいえる方法論をもって、人間に外的な構造、外的な拘束力をもって迫り、最も大切な人間の内在的価値そのものの豊饒化にあまりにも無力であったといえまいか。その責任はむろん近代科学にあるのではない。その科学的方法論の限界を凝視しえず、過信した人間の側にある。近代科学の発達は、今後も決してとどまることはない。とするならば、「知識から知恵へ」、そして「真理から価値へ」という人間の側からの不断の志向の回路を築き上げていかねばならないと思う。
 人間は自己の知識ゆえに傲慢になったとき、実は何も見えなくなるものだ。「知衆化の時代」をそうした角度でとらえることにこそ大きな意味があると思えてならない。問題は知識を得ることにのみあるのではなく、どのように知恵を開発するか――その方法を提示し、具体的に磨き上げていくことにこそ時代の要請があるといえるのではなかろうか。
16  コンピューターと人間――人工知能の開発と生命の尊厳
 人類が初めて月に降り立ったとき、人々は月面から送られてくる画像に驚嘆の声を上げたが、それから約二十年――。そのとき、月面に人類を運んだコンピューターの性能は今、超LSI(超大規模集積回路)という人間の指一本に乗る“小石”のような部品に集約されているという。科学・技術の進歩は、“日進月歩”どころか“秒進”の時代に入ったともいえようか。この素晴らしい人間の英知を、平和のため、人類のためにもっと発揮できればと私はいつも思う。
 コンピューターは、日常生活のなかに急速度に浸透し、情報化社会の進展はとどまるところがない。その進歩は人類に多大な恩恵をもたらしている。しかし、果たして、科学・技術の進むに任せ、また商業ベースに乗り、人々の生活が、このまま合理化と高度化と簡便化の一途をたどってよいものであろうか。情報化社会と人間の問題はきわめて緊急を要する課題といえるであろう。
 コンピューターは現在、人間の知能にまで挑戦している。数年前から話題にのぼった“人工知能”の開発は、まさにコンピューターの究極の理想をめざしたものといえる。この“人工知能”が発達していけば、現在、人間しかできないといわれるような知的作業のかなりの部分をコンピューターが担うことになると指摘する人も多い。
 たしかに、データの記憶量や、計算処理の速度などについては、コンピューターのほうがはるかに人間よりも優れているといえるだろう。実際に産業のあらゆる場面でかつて人間が担っていた分野を、コンピューターがとって代わって効率よくやってのけている。電信電話といった通信機能や、銀行の預金管理から列車の座席指定といったものまで生活のすみずみに機能している例は枚挙にいとまがない。旧来、コンピューターは数量化された対象の計算処理、データ処理が、その主な役割であったが、“人工知能”は記号化された知識とルールにより推論を行うことが特徴である。一九六〇年代後半から“人工知能”を研究する科学者たちの手によってエキスパートシステムと呼ばれるような実際に知的に振る舞うシステムが徐々に実現されるようになってきた。
17  以来コンピューターは、旧来の分野の他に、医療、科学、軍事、経営における意思決定支援システム等々、数々の分野で人間の知的作業を補助し、なかには設計した人の推論や分析の力を超えた能力を示すものもあるという。たしかに、コンピューターは、ある面では、生きた人間の、いかなる頭脳も及ばない優秀さを持っているといえるだろう。しかし、コンピューターの支配が人間の、私生活の内部にまで及んでくるようになったときには、人間の価値は数量化され、人間性の認められる場は、この社会から確実に奪い去られてしまうことにもなる。それは、いわゆる“コンピューター公害”となって、人間から、人間としての生命を消し去っていくといっても過言ではない。
 現在の段階でも、人間性をコンピューターの対象とし、その結果をもって、その人間の運命を決するようなことに使われると、多分に人間を奴隷化する危険性を秘めているといわねばならないであろう。
 機械の賢明なあつかい方を知らぬまま、人は無軌道といえるほどそれを発達させてしまったとの嘆きの声があるが、その憂慮は、コンピューターの登場によって、一層、色濃くなってきたようだ。
 二十年以上にわたって“人工知能”を批判してきたアメリカの哲学者ヒューバート・L・ドレイファスは、コンピューターを「適切に使いさえすれば、合理的熟慮によって直観は一段と正確になる」(『純粋人工知能批判』椋田直子訳、アスキー)とし、真の問題は、「計算的思考に一〇〇パーセント依存して精神機能の形式化されていない部分が軽視される」ことであるとしている。
 現実に、脳の働きを研究している科学者の間では、人工知能は、規則性のある知的行動はとれても、経験的な知恵や、直観的な知能の働きを代行することは不可能であろう、という見解が多いようである。また、卑近な例でいえば、文学や芸術の世界、また、人間の愛情や美意識などは本来、数量化されえない個性的問題である。
 つまり問題はコンピューター技術が発達することにあるのではなく、人間そのもののとらえかたが“人工知能”の出現によって合理志向にますます拍車がかかり、人間の思考方法自体が単純・画一化され、豊かな人間性が失われてしまう危険性にあるといえるだろう。そしてテクノロジー偏重の傾向は、いずれ人間観そのものをも矮小化する恐れすらある。
 カントは人間は必ずそれ自身における目的として尊重されるべきであり、たんなる手段としてあつかうべきでないとし、「このような尊厳を価格とならべて見積ったり、或いはこれと比較したりすることは、絶対に不可能である、そのようなことは、尊厳の神聖性をいわば冒涜することになるであろう」(『道徳形而上学原論』篠田英雄訳、岩波文庫)と言っている。現代ほどその自覚が人間自身に求められる時代もないであろう。
18  かつてトインビー博士との対談のさいに、博士は次のように言っていた。
 「われわれの技術と倫理の格差は、かつてなかったほど大きく開いています。これは屈辱的であるだけでなく、致命的ともいえるほど危険なことです。(中略)尊厳性――それがなければわれわれの生命は無価値であり、人生もまた幸福にはなりえないその尊厳性――を確立するよう、一層努力しなければなりません」(『二十一世紀への対話』講談社学術文庫。本全集第3巻収録)
 その時のまことに厳しい表情を私は忘れることができない。
 技術の高度化とあいまって人間の精神性を高めていくことこそ大切であり、高度な技術進歩の時代というものは、裏を返せば人間が「生命の尊厳性」を根本的に自覚し、人間そのものの力をさらに高めていくことが、最も要請される時代であるといえよう。
 また、トインビー博士は「人間のもつ力が増大すればするほど、宗教は必要になってきます」(同前)と言っている。これは、新しい科学時代の生命の哲学、宗教を志向した言葉と、私は今日まで思ってきた。よく、恩師戸田先生も「科学が進歩すればするほど、何倍も仏法が理解しやすくなる時代がくる」と言われていた。コンピューターに象徴される科学技術の進歩が、人間性の変質をはじめとして多くの問題点を内包している現在、人間の全体性の回復とその豊饒なる価値を開花させる宗教への希求が高まるのは当然といえよう。私は急速に進歩する科学の時代こそ、「科学」と「宗教」とが相和して、人類貢献への志向性を共有する、尊い基盤をつくっていくことが必要だと思っている。
19  生命軽視の時代と生きる力――ベルクソンの「創造の歓喜」
 人間は限りあるこの一生を最高に価値あるものにしたいと願う。だが、ある意味で現代ほど人間が人間らしく生きにくくなった時代はないとすらいえるかもしれない。
 社会の発展とともに、長命を得るようになった反面、肝心の現代人の「生の力」がより以上、強くなったかといえば残念ながらそうはなっていないようだ。むしろ青年の間には“挫折からの回復力”が失われてきたとの指摘さえある。また現代人には生命力の衰退現象がみられるとの声も多い。自殺者の数が交通事故死の二倍を超えることに象徴されるように、生命軽視の風潮が広がりつつあるとの感も深い。そして、事故や病気のみならず、精神的な抑圧、疎外感、虚脱感といったものが、人々の周囲に蔓延しつつある。
 現代という時代は“生の力”よりも、何倍、何十倍も“生を狭める力”が強まっていると感ずるのは私一人だけではあるまい。いま大切なことは、こうした現実を直視し、「生きる」ことの根源的意味を見つめ直すことではないだろうか。
 死にさいした一瞬、人の脳裏には生涯の出来事が走馬灯のように駆け巡っていくといわれる。その脳裏に駆け巡る光景を、無念の涙で曇らせる人もいれば、心から満足感にひたりながら、歓喜のうちに人生の終末を迎える人もいる。ここに厳然たる人生の勝敗の分岐点があると、私は思う。
 いかなる富や地位に恵まれようとも、虚構の人生を生きた人には、真実の人生の勝利感はなく、苦い回想があるにちがいない。外見はどうあれ、真実一路の人生を生き抜いた人、主義主張に生き抜いた人は、歓喜の潮流のほとばしるなかで臨終を迎えていく。自己の生命、人生が勝利したこと、生命の歩みが力強い前進を遂げたこと、その人の行動が社会と世界と宇宙の営みに悔いなき貢献を成し遂げてきた証拠として、歓喜の波が心中にあふれるのであろう。
20  では、なぜ、勝利の人生を送った人には、歓喜の潮流がほとばしるのか。ベルクソンの洞察によれば、歓喜の潮は、創造、つまり生のクリエートによってもたらされるという。彼の著作『意識と生命』には、歓喜と創造の関連性が見事に描き出されているが、要約して言えば、創造が豊かであればあるほど喜びの生命も強まり、したがって、深い感情の嵐を巻き起こすにいたるという。
 創造とは、文字通り今までなかったものから、新たなものを創り出していくことである。とすると、生の創造とは生命そのものを新しく創り上げることであろう。
 私たちの生存するこの大宇宙は、まさに生命を生み出し、育て上げるという創造の根源である。宇宙は巨大な生き物のように、地球に生息するあらゆる生命的存在をも生み出した。
 私たちが今、こうして生を享受できるのも、宇宙生命ともいうべき実在の無限の創造のたまものである。私たち人間も、学者は真理を発見し、それに基づいて知識の体系を作り出し、芸術家は美を創造している。それらの日々の行為は、たしかに宇宙の根源的な創造への人間としての参画であり、その参画が激流のごとき喜びを引き起こしていくものであると、私は思いたい。
 ベルクソンはこの芸術や学問の創造にとどまらず、生命自体の創造にふれて次のように言う。
 「あらゆる領域において生命の勝利が創造であるとすれば、芸術家や学者の創造とは違っていつでもだれにでも追求できる創造にこそ、人間の生命の存在理由があると考えるべきではないでしょうか。その創造は自分で自分を創造することであり、少ないものから多くのものを引き出し、無から何ものかを引き出し、世界の豊かなものにたえず何かを加える努力によって、人格を大きくすることであります」(渡辺秀訳、『ベルグソン全集』5所収、白水社)
 すべての人間がどのようなときにも追求しうる創造を、自分による自分の創造であるというのである。
21  この“創造”という言葉の実感とは、自己の全存在をかけて生き抜いた、悔いなき自己拡大の生命の勝ちどきであり、汗と涙の結晶作業以外の何物でもない。“創造的生命”とは、そうした人生行動のたゆみなき錬磨のなかに浮かび上がる、生命のダイナミズムであるといえる。
 そこには嵐もあろう、雨も強かろう、一時的な敗北の姿もあるかもしれない。しかし創造する喜びを知る生命は、それで敗退し去ることは決してない。創造はきしむような重い生命の扉を開く、最も峻烈なる戦いそのものであり、最も至難の作業であるかもしれない。極言すれば、宇宙の神秘な扉を開くよりも「汝自身の生命の門戸」を開くことのほうが、より困難な作業、活動である。
 しかし、そこに人間としての証がある。否、生あるものとしての真実の生きがいがあり、生き方がある。“生”を創造する歓喜を知らぬ人生ほど、寂しくはかないものはないと私は思う。ベルクソンは「世界の豊かなものにたえず何かを加える努力によって、人格を大きくする」と言っているが、それは自他ともに境涯を開き、生命をより豊かにしていくことに尽きるといえるだろう。
 仏法の目的もまさに自己変革、人間完成への絶え間ない創造の道を切り開くことにあったといえる。人間としての成長の方途を、仏法は他者と苦楽を共有し、他者の生存の力を強化するという行為のなかにのみあることを、鋭く見抜いていた。
 利他の行為がそのまま自己完成への道であり、その利他という生の創造への根源力を、尽きせぬ泉のように涌きいだす方途を明瞭にしたのが、仏法である。日蓮大聖人の御書には、“喜ぶ”ということについて「喜とは自他共に喜ぶ事なり」(七六一㌻)とある。自他ともに創造しながら、生命の歓喜を呼び起こしていってこそ、真の歓喜であるといえよう。
 生命軽視と生命力衰弱の現代にあって、あらゆる人の生命の内奥からいかにして生きる力、深い生命の歓喜をともに顕現していくことができるかという実践の重要性は、ますますその重みを増していくにちがいない。

1
1