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日蓮大聖人・池田大作

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第四節 吉田松陰  

随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

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1  人間の真価は逆境で輝く
 人間が成しうる最高の事業とは、人をはぐくみ、人材をつくるということではないだろうか。人材に勝る財産はない。
 私は、時代を託すに足る後継の青年の育成に全魂を注いできた。社会も国家も、また団体も、その未来は、すべて人によって決まる。その意味から、私は、よく吉田松陰の生涯に思いを巡らせた。維新を成し遂げ、新しい日本の夜明けを開いた多くの逸材をはぐくんだかぎは何だったのか。そこに尽きない関心をいだいたからだ。
 人間は限りない多様性を持っている。それだけに、人材を育てるという作業は、ひとすじ縄ではいくものではない。それを無理に人間を鋳型にあてはめるような教育をすれば、「教」が「育」を押しつぶして、個々人の才能は摘み取られてしまう。
 松陰の教育者としてのあり方には、この「教」と「育」との絶妙なるバランス、融合があったように私には思われる。
2  吉田松陰、幼名虎之助は、文政十三年(一八三〇年)八月四日、長州(山口県)萩の東郊松本村に生まれた。山鹿流兵学師範の叔父・吉田大助の養子となり、兵学師範を継承し、数え年十一歳の時には、すでに藩主を前に講義をしている。安政元年(一八五四年)には、ペリーの率いる米艦でアメリカへの密航を企てて捕えられる。出獄後、松下村塾を開き、人材の育成にあたるが、幕府の通商条約調印に憤り、尊皇攘夷を唱え、ふたたび囚われの身となる。そして、安政の大獄によって江戸伝馬牢の刑場で処刑された。安政六年(一八五九年)、数え年三十歳の時である。
 松陰の思想については、今日、批判も少なくない。特に隣国に対する彼の考え方に対しては、さまざまな見方もあり、彼のような日本観からは、当然、侵略的な思想が出てくるとの指摘もある。彼の思想は、こうした多くの問題をかかえ、隣国の人々から見て、あまりにも、日本中心的な色彩があったことは、否定できない。
 しかし、こうした思想的な限界をかかえながらも、一個の人間として、松陰が激動の時代を奔馬のごとく生きたことは間違いないし、迫害を覚悟で、死をも恐れず、自らの信念を貫き、幾多の人材を残した彼に学ぶものは少なくない。
 そのひとつは、逆境のなかで人間としての光彩を放っていったということである。
 松陰は、下田沖に再来した米艦で海外密航を企てて失敗し、江戸伝馬町の牢に投獄されたあと、萩に連れ帰られ、野山獄に投じられる。数え年二十五歳のことである。
 野山獄は、士分の者を収容する牢で、獄内での生活は比較的自由ではあったが、光も満足にささず、厳寒、酷暑に責められる獄舎であることに変わりはない。
 松陰はここを、勉学の格好の場として、徹底して読書にいそしんでいる。入獄から出獄までの十四カ月間の読書は約六百冊。歴史書をはじめ政治、経済、時事、小説、詩など万般に及んでいる。著作も『幽囚録』『野山獄文稿』『回顧録』など相当数にのぼる。
 そして、特筆すべきは、獄中の囚人たちと時事を論じ、希望者を集めて『孟子』の講義をしたほか、句会を開き、さらに、書に秀でた者を説き伏せて教師とし、書道講座まで行っていることである。この句会には牢番も参加し、彼の講義は司獄官さえも傾聴している。また、獄中改革への提言を書き、刑期の明確化や「教育」を取り入れることを説き、囚人の釈放運動まで推進した。
 松陰は、苦境をただ嘆いて、空しく時を過ごそうとはしなかった。自身が人間としてなさねばならぬ何かを、常に見いだし、ひたぶるに生きた。そこに、彼の一個の人間としての偉大さがあった。大志をいだく者は多い。理想に生きようとする人もまた多い。しかし、ひとたび逆境下におかれ、困難の障壁に阻まれると、ただ不運を嘆き、志を捨て去ることが少なくない。あるいは、志は捨てないまでも、時運を漫然と待ち、いたずらに時を費やしてしまう。
 しかし、松陰は、刻一刻と過ぎゆく“時”を懸命に生きた。彼の三十年にも満たない生涯が、不滅の光彩となって歴史に輝きを放つのも、瞬時として停滞、浪費のない、凝縮された一生を送ったことに由来していよう。
3  さて、当時、野山獄には、記録によれば、十一人の囚人がいた。最高齢者は七十代半ば、平均年齢は四十代半ばで在獄は平均十年を超えている。松陰は最年少である。牢生活のしきたりとして、多くの雑用も、彼が引き受けなければならなかった。
 その松陰が、なぜ、獄中の指導者となり、周囲の尊敬と信頼を得るにいたったのか。
 もちろん、教えるに足る豊富な知識を彼が持っていたからであることは言うまでもない。兵学師範としての学業の蓄積、九州・東北・江戸など各地を回り、直接、見聞してきた知識、さらに諸外国の歴史、情勢にも明るかった。
 しかし、そうした豊富な学識よりも、彼の人柄、人格によるところが、大きかったといってよい。こんなエピソードがある。彼は入獄後ほどなく、ともに海外密航を企て岩倉獄に捕らえられていた弟子の金子重輔が、病のため獄死したことを知る。その時、「何日間かの食事から汁と菜を省いて資金百疋を作り、遺族に贈っている」(古川薫『吉田松陰』創元社)のである。ただでさえ貧しい食事である。その食事の一部を何日間にもわたって削り、亡き弟子を弔おうとする律義さ、誠実さに、周囲のだれもが心打たれたであろうことは想像にかたくない。
 獄中の松陰は、囚人一人一人に心を砕いた。病人があれば、自ら治療法を研究して尽力したり、互いに助け合っていこうと提案して月掛け貯金まで実現している。そして、囚人たちが自暴自棄にならないように、ある場合には自分の書いた論に対する意見を求め、また、ある場合には、書物の回し読みをすすめた。
 松陰は、獄中の人々にとって、初めて接する、人間的な包容と温もりを持った大きな存在であったろう。彼との語らいは、囚人たちの孤独に凝り固まった心を氷解させ、忌まわしい獄舎にいることさえ忘れさせた。囚人たちは、時に希望を知り、生きがいさえ覚えたにちがいない。
 こうした松陰の人を思う真心、誠実さに、囚人たちはしだいに惹かれ、自然に彼の言葉に耳を傾け、その説に従うようになり、講義を求める素地ができあがっていったのである。
4  志を蓄え、信念に生きる
 獄舎にあって、松陰が決して落胆することもなく、遺憾なく自分の特質、技量を発揮することができたのは、彼の信念と深くかかわっている。
 自著『講孟余話』の中に、こうした一節がある。
 「君に事へて遇はざる時は諌死するも可なり、幽囚するも可なり、饑餓するも可なり。是れ等の事に遇へば其の身は功業も名誉も無き如くなれども、人臣の道を失はず、永く後世の模範となり、必ず其の風を観感して興起する者あり。遂には其の国風一定して、賢愚貴賎なべて節義を崇尚する如くなるなり」(山口県教育会編『吉田松陰全集』3所収、岩波書店)
 松陰にとっては下獄の罪をつくった海外密航の計画は、信念に従ってのことであり、それによって死ぬことも、囚われの身となることも、飢えることも、もとより覚悟のことであった。その行為こそ、人臣の道を開き、後世の模範となり、やがては一国をも変えゆくと固く信じていた。むしろ、これまでの行動は、自分が果たさなければならない使命の端緒ととらえていた。信念の定まった人は強い。
 松陰の決意を示すものに「二十一回猛士」という号がある。自著には、しばしばこの号を愛用しているが、自分には二十一回の猛を遂げる使命があるとの意味をとどめたものだ。獄中で記した「二十一回猛士の説」には、その由来が、次のように述べられている。
 「吾庚寅の年(文政十三年)を以て杉家に生れ、すでに長じて吉田家を嗣ぐ。甲寅の年(安政元年)罪ありて獄に下る。夢に神人あり、与ふるに一刺を以てす。文に曰く、二十一回猛士と。忽ち覚む」(古川薫『吉田松陰』創元社)
 そして、自らこう意義づけていく。――生まれた杉家の「杉」の字は二十一(「木」は十と八で十八、「彡」は三で、計二十一)をあらわし、養子に入った吉田家の「吉田」も二十一(「吉」の「士」は十と一で十一、「田」には十が含まれ、計二十一)をあらわす。さらに、「吉」の「口」と「田」の「口」を重ねあわせると「回」となる。また、当時、寅次郎と名乗っていたことから「寅は虎に属す。虎の徳は猛なり」として、自らを「二十一回猛士」としたのである。松陰は言う。自分はこれまで三回の猛をなした、と。それは、脱藩して東北に遊学したこと、藩主に意見書を出したこと、密航を企てたことをさしている。そして、なお十八回の猛を遂げなくてはならないとし、その責任は重いという。さらにそのために「志を蓄える」というのである。家の名から二十一回の猛を遂げることを意義づけるのは、見方によっては、一種の“こじつけ”のように感じるかもしれない。しかし、それは、使命のあくなき遂行を期そうとする彼の一念の発露であり、家名にもその意味を見いだして“よすが”としていく不屈の決意には、驚嘆せざるをえない。
 生涯で二十一回の猛を遂げるというのは、間断なき挑戦の人生を生きるということである。彼は、密航に失敗し、獄につながれているにもかかわらず、くじけるどころか、さらなる挑戦を宣言してはばからない。人生にも失敗はある。長い苦渋の時もある。しかし、大きな目的や理想が、一度や二度の行動で成就することなどありえない。失敗も恐れるに足りない。敗北も恐れる必要はない。不撓不屈の意志力の前には、いかなる障害も、いつか砕け散り、最後の勝利が待っていることを確信することだ。
 また、松陰が、あとの十八回の猛を遂げるために、「志を蓄える」と言っていることに注目したい。志は、一切の根本である。鍛錬も、努力も、研究も、すべてが含まれる。その志を蓄えるとは、思想を磨き、意志を確固不動のものとし、力を培い、軽挙妄動を慎んで万全の備えを整えることといってよい。
 心のみはやっても、十分な力を蓄えなければ、一切は水泡に帰してしまう。松陰が野山獄にあって、書と格闘するかのように勉強に打ち込んだのも、志を蓄えるためであった。
 ともあれ、彼の胸中には微動だにしない信念があり、使命の炎が燃えさかっていた。だからこそ、そこには悲哀も感傷もなかった。暗い獄舎を照らした彼の英知の光源も、凍てついた人々の心を温めた行為の熱源も、胸中に赤々と燃え続ける信念と使命のかがり火にほかならない。いたわりも、励ましも、すべてはそこから始まる。
5  行動で範を示す
 安政二年(一八五五年)十二月に野山獄を出獄した松陰は、松下村塾を開く。その塾では、どのような教育がなされたのだろうか――。
 もともと松下村塾とは、松陰の叔父・玉木文之進が、松本村新道にあった自宅で開いた塾の名であり、松本(下)村の村名をとって松下村塾とした。かつては松陰自身もここで学んでいる。その後、文之進が官職についたことにともない、塾は閉鎖され、外叔・久保五郎左衛門の開いていた寺子屋の久保塾が、この名を引き継ぐ。これを基盤にして松陰の松下村塾が出発する。
 安政三年(一八五六年)に松陰が書いた『松下村塾記』には、萩城下の未来は、この松本村から始まるであろうとし、この塾をもって一村を奮発震動させ、さらには、天下に有為な人材を送り出そうとの烈々たる決意がみなぎっている。また、ここでは、学問の目的は「人の人たるゆえんを学ぶ」すなわち、人間の道を学ぶことであるとも述べている。
 松下村塾は杉家の一室に始まり、間もなく庭内にある小屋を改造し、八畳一間の講義室をつくり塾舎とした。そして、塾生の数が数十人に及ぶにいたり、四畳半一間、三畳二間と土間を増築している。
 塾生の身分はさまざまだった。藩士の子もいれば足軽の子もいた。さらに農民、商人の子どもも入塾を許可された。不良青年といわれた者までもがここに通ってくるようになった。
 当時、藩校として明倫館があった。しかし、入校は藩士の子弟のみに限られている。足軽やそれ以下の身分の子弟である青少年には、学問の道さえ閉ざされていた。それがいかに青年たちの無気力化をもたらしたかは計り知れない。松下村塾は、そうした多くの青少年に、学問の門戸を開いたのである。
 ここでは、すべての身分の者が平等に扱われた。藩士の子と農民の子の間でも対等な付き合いがなされ、友情で結ばれていった。身分によって厳しく分断されていた社会のなかにあって、それは制度を超えた、まったく新たな小社会の創出であった。彼は、その広範な人間の連帯こそが、時代を変革するエネルギーとなることを知っていたにちがいない。
6  こうありたいという一つのビジョンを描くとき、その実現のために、まず身近なところから着手し、具体化していくことが大事だ。彼方に理想を求め、あるべき姿ばかりをいかに語り、描いてみたところで、現実の進展はない。万言の理想論より、一つの事実が大切である。足下を掘り、そこに泉を涌かせることだ。自らの腕のなかに縮図をつくることだ。その積み重ねと広がりのなかに、理想の実現もある。
 松陰は、塾生の身分を問わなかっただけでなく、年齢さえも、問わなかったようだ。多くは十代と二十代前半で、平均年齢は十七、八歳であるが、なかには九歳の者や三十半ばの塾生もいた。それが同じように机を並べて学ぶのである。実にほほえましい光景であったろう。また、月謝の類は取らなかった。弁当を持ってこない通学生にはしばしば食事が振る舞われている。
 そこでの授業は、きわめて独創的なものであった。どこまでも個性、自主性を重んじた。
 他の漢学塾同様に、四書五経などが主なテキストとして使われてはいたが、特に指定されたものではなく、基本的には本人の自由意思に任されていた。ある者は『日本外史』を学び、またある者は中国の史書を学んだ。国学に熱中する者もあれば、詩文集に取り組む者もいる。塾生の学習時間も一定ではない。時間割もなかったようだ。明倫館に通い、夜になって、通ってくる者もいる。
 そのなかで、松陰は、よく塾生の間を回り、一人一人と対話し、こまやかにアドバイスした。彼のすわる座は、固定されていなかったし、講義のための見台もなかった。
 人間は、一人一人顔かたちが違うように、育った環境も異なれば、性格も違う。一様にはいかない。したがって一人一人に光を当て、指導者と一対一でつながり合い、その個性を伸ばしていくことが、人間をはぐくむ要諦である。
7  組織や集団を相手にするときに陥りやすい誤りは、個を見失ってしまうことである。話にしても、全体を対象にしたものは、なかなか一人一人の心には入らないし、また、納得も与えにくいものだ。本義はどこまでも個々人であり、全体に対して費やす労力の何倍も、個人に注いでいくことが必要となる。この個に即した、個別的な指導、激励があってこそ、全体的な指導、教育も生きてくる。また、松陰はこの塾舎で起居し、行動をともにしながら、人間、社会のあり方を教えている。ときには、塾生とともに草むしりや米つきをしながら、読書法や歴史の講義をするのである。
 安政五年(一八五八年)三月に、塾舎を増築したが、これは松陰をはじめ塾生が力を合わせて、自力で建てたものだ。彼は、こうした一つ一つの作業をとおして、相互扶助、協力の大切さを教えていったのだ。
 人はただ言葉からのみ学ぶのではない。むしろ、ともに行動するなかから、より多くのものを学ぶ。差別なく青年たちと接し、語らい、ともに笑い、ともに泣く松陰の行動、振る舞いは、それ自体が、人間の平等や調和を教えていたし、人間学の生きたテキストであった。行動は思想の反映であり、思想は行動となって表れる。松陰は、その範を示すことを自らに義務づけ、塾生と接していたといってよい。
 松下村塾には、塾としての整った環境条件は、何ひとつなかったといっても過言ではない。しかし、松陰という稀有の師がいた。それが唯一の、そして最高最大の環境であった。人間教育の一番の環境は、教師自身、人間自身であり、すべてはそこに始まり、そこに終わるのではないだろうか。
8  一人一人の才能を開花
 「青年は教えられるより、刺激されることを欲する」(高橋健二編訳『ゲーテ格言集』所収、新潮文庫)とゲーテは語っているが、まぎれもなく松陰の講義は、人格と人格の触発をもって青年を刺激し、魅了した。
 松下村塾の塾生たちの最大の楽しみは、夜になって開かれる松陰の自由講義であった。そこでは教科書の類は使われず、彼が全国各地を見て回った実践のうえで得た豊富な知識をもとにして、自由闊達な論が展開された。時勢を論じ、諸外国の情勢を論じ、また、それに対する幕府の無力な対応を嘆き、外国文化に目を開かぬ旧態依然たる鎖国的姿勢を鋭く糾弾した。それは、深夜に及ぶこともあったし、さらに、夜を徹して議論し合うこともあった。
 すべてが生きた学問であり、そこでは明日の世とわが身のあり方とが完全に溶け合い、学ぶことはすなわち生きることであった。
 明倫館での権威ぶった、進歩、発展のない講義に比べ、松陰の烈々たる気魄の講義は、青年にとって、いかに新鮮で、魅力あるものであったろうか。
 教育は触発でなくてはならない。単に知識を教え授けるだけなら「教」はあっても「育」はなく、人間を育てることはできない。だが、それを行うためには、何よりも教える側に、熱い情熱が脈打っていることが要件となる。自らが炎をいだかずしては、その火が人に燃え移ることはない。
 松陰は、全情熱を傾けて、日本の未来のために何をなさねばならないかを考え、語り、訴えた。つまり、学問のための学問ではなく、実践し、行動することを教えたのである。
 彼は、必ず入門を希望するものに「何の為めに学問するか」と質問する。「書物が読めぬ故に、稽古してよく読めるやうにならん」との答えが返ってくるといつもこう言った。
 「学者になつてはいかぬ。人は実行が第一である、書物の如きは心掛けさへすれば、実務に服する間には、自然読み得るに至るものなり」(山口県教育会編『吉田松陰全集』12岩波書店)
9  松下村塾には「飛耳長目」と呼ばれるノートが備え付けられている。友人からの話、京都方面からくる商人の話、あるいは各地に出た塾生らによって、全国からもたらされた情報を記しておくものである。それは時々刻々と変わる生きたニュースを伝える今日の新聞の役割を果たしていたといえる。
 また、彼は、塾生が各地の実情を直接見聞できるように、積極的に塾生の遊学を推進している。
 社会のために生かされてこそ学問の意味があると考える松陰は、社会から生きた知識を学ばせようとしたのだ。きわめて大切な視座である。知識は、知識として終わってはなるまい。知識は知恵となって生かされ、生活の場で、社会のなかで応用、展開されなくてはならない。だからこそ彼は、常に何のための学問かを問い、教えた。
 今日の学校教育にあっては「いかにして学ぶか」は、さまざまに研究もされ、教えられもしているが、「何のために学ぶか」があいまいにされているように思う。この何のためかという原点を明らかにしていくことは、そのまま向学の原動力となっていく。
 また、彼は、人間の隠れた才能を見いだす優れた眼をもっていた。さらにそれを引き出す力にも長けている。
 あの野山獄にあってさえ、彼は囚人一人一人の高く評価すべき能力を発見し、ある者には俳諧の師匠をやらせ、偏屈者とされていた富永有隣には、書道を担当させている。松陰は、野山獄を出たあとも有隣のために釈放運動を展開し、放免になると、松下村塾に教師として迎えている。ちなみにのちに国木田独歩が書いた『富岡先生』は、この富永有隣がモデルだといわれる。
 松陰は萩の地から旅立つ門下生に親愛の情のこもった壮行の辞を贈って励ましているが、この「送序」をはじめとする書簡には、松陰の人を見る眼がよく表れている。
 久坂玄瑞には“年は若いが、志はさかんで気も鋭い。しかも、その志と気を才で運用する人物である。自分は以前から、わが藩の若手の中では、第一流の人物であると推奨してきた”と述べている。
10  また、性行はじゃじゃ馬のごとく奔放きわまりない高杉晋作に対しては、このように語っている。
 “自分は昔、同志の年少の者の中では久坂玄瑞を第一と考えていた。その後、高杉晋作を得たのである。晋作は有識の士ではあったが、学問はまだ充分ではない。だが、自由奔放に物事を考え、行動するところがある。そこで自分はあえて玄瑞を推奨して晋作を抑えるようにつとめた。晋作ははなはだ不満であったようだが、やがて晋作の学力は大いに伸び、議論はますますすぐれ、同志もその言に従わざるを得なくなった”
 晋作の性行を見抜き、いかに的確な指導をしてきたかがよくわかる。
 年少の門下で、のちに明治政府の枢密顧問官などを歴任した品川弥二郎についても「事に臨みて驚かず、少年中希覯の男子なり」(同前)と見ていた。
 また、長崎造船所を創設した天野清三郎(渡辺蒿蔵)のことは、「天野は奇識あり、人を視ること虫の如く」(同前)と、その抜きんでた知識と人物への洞察の鋭さを評し、天野の言葉はしばしば自分を感心させる、とつづっているのである。
 松陰は言う。
 「人間はみななにほどかの純金を持って生まれている。聖人の純金もわれわれの純金も変わりはない」(山口県教育会編『吉田松陰入門』大和書房)
 そして、「天から与えられた金の純度を高めることが修養努力であって、われわれの学問も責務もここにある」としている。それぞれが自分の天分を自覚し、何らかの社会的役割を発見して、その使命を果たすように努力させること――それが教育の最大の眼目であると彼は言うのである。
 松陰の人を見る“眼”の根底には、万人が純金を必ずいだいているとの強い“信”があったということを忘れてはなるまい。だからこそ彼は、不良といわれ、村人たちから疎んじられていた市之進、音三郎、溝三郎の入門も許し、薫陶したのである。
 人間の可能性を信ずる心。それが長所発見の炯眼を培う。逆に、人間への不信は、人の長所を見抜く自分の眼をふさいでしまう。
 初めから優れた人間というものはいない。教育によって才能が引き出され、開花されてこそ、優れた人物となるのである。松下村塾のみに、際立って優秀な人物が集ってきたわけではない。江戸などの大都市には、もっと優れた資質を持った人物は、たくさんいたであろう。松下村塾の塾生は、松陰によって一人一人の才能が引き出されたがゆえに大きな力を発揮したのだ。自分の長所を認め、どこまでもそれを大切にして温かくはぐくんでくれる人がいる――これほど人に勇気を与え、やる気にさせるものはあるまい。
11  塾生の煙管を折らせたもの
 松陰が安政四年(一八五七年)に書いた『丁巳幽室文稿』の中に「煙管を折るの記」という随筆風の一文がある。高杉晋作が松陰の文に初めて現れたものとしても知られている一文である。
 ある夜、松下村塾で、教師の富永有隣や塾生の増野徳民、吉田栄太郎、そして不良といわれていた市之進、溝三郎が集まって士風について話し合っていた。
 話ははずみ、やがて話題は、そこにはいない塾生の岸田多門の喫煙などに及んだ。皆は相当、彼を非難したようである。すると、その場にいた松陰は、憂色深い顔をした。有隣や塾生たちは松陰の顔色を見ると、みな押し黙ってしまった。
 長い沈黙のあと、突然、吉田栄太郎が手にしていた煙管を折って言った。「私は、これからタバコをやめる」。年若くしてタバコなど吸っている雰囲気を改めたいという反省の思いがあったにちがいない。
 すると、増野徳民、市之進、溝三郎も、声をそろえて、タバコをやめると言い出し、相次ぎ煙管を折った。すると年配の有隣までが「君たちがここまで言っているのに、私だけがどうしてタバコを吸っていられようか」と、松陰に煙管を折ってくれと差し出した。
 松陰は、酒もタバコもやらなかった。その弊害も知悉していた。しかし、無理に、それをやめさせるようなことはしなかったのである。
 彼は静かにこう言った。
 「タバコは飲食とは違うが、慣れると習性になってしまってやめにくいものだ。私は、タバコを憎んでいるが、諸君は一時の興奮でやめるなどと言ってしまって、あとで終生、退屈で面白くないということになりはしないか」
 すると有隣らは、憤然として言った。
 「先生は、私たちの言葉を疑っておられるのですか。塾生の岸田も、ここにいる市之進、溝三郎も、みな十四歳で公然とタバコを吸っています。年配の大人たちと同じように……。今の世間も同様です。私たちは、ただ岸田のためにやめようというのではないのです。それなのに、先生は、なお私たちの言うことを疑われるのですか」
 松陰は、何度も頭を下げて謝った。
 「諸君がそういう考えをもっているのなら、これからは村の風儀も大きく改まっていこう。私の心配は無用だった」
 なんとほのぼのとした師弟の語らいだろうか。
 松陰は、さっそくこのいきさつを記し、すぐに塾生の岸田多門に話して聞かせた。話の途中から岸田は感きわまって泣き伏し、数日後に、自分で喫煙具を親元に送ってしまう。以来、きっぱりとタバコをやめ、学問に精を出すのである。さらに、あとになって、高杉晋作もこの話を聞き、「よい機会だ」といってタバコをやめている。
12  松陰は、どこまでも本人の自主性を重んじ、自覚を待った。規則を設け、権威や立場で、それを押し付けることは一番簡単なことだ。しかし、本人自身が心から納得し、本人の自発性に基づくものでないかぎり、不平不満が残るし、また、陰では規則を破るようになる。
 それに対して、心から納得し、各人の自覚に基づくものは強いし、崩れない。教育の大きな意味は、この自覚を呼び覚ますことにある。それには、相当な忍耐と愛情が必要である。
 松陰の言動をみると、大変な情熱家であることがわかる。自分の信じたことは、即座に行動に移している。しかし、一面、塾生の自覚を待つことについては、はなはだ忍耐強い。決して人を見捨てることなく、粘り強く励まし、じっと時を待つ。教育は、忍耐の作業であることを知るべきであろう。
 また、松陰は、塾生たちが、他の多くの青少年のことまで考えて、タバコをやめると言いだしたことに、大いに共感し、あえて文章につづり、残そうとしたように思われる。その心情を、高く評価し、讃えてやりたかったのであろう。
 彼は村全体の風儀といっても、一人一人の自覚がなくては変わらないことを知っていた。一人一人の人間の心が社会の気風をつくり、また、それを変えもする。禁煙は、ほんの一握りの者の、小さな決断ではあったが、藩の士風を憂い、語り合ったことの、実りある結論となっている。論議も、論議だけに終わっては意味がない。行動につながることが大事である。
 人の心に芽吹いた自覚は、大切にはぐくんでいくことである。松陰の称賛は、塾生たちの自覚を、さらに、深く強いものにしていったであろうことは想像にかたくない。
 こうしてはぐくまれた、弟子たちの時代変革への自覚は、やがて使命感という大樹となってそびえ立ち、日本の歴史を大きく転換する力となっていくのである。
13  松陰の触発力の源泉
 松陰が松下村塾で教えていた期間は驚くほど短い。庭内の小屋を改造して、独立した塾舎を持ってから約一年。近隣の子弟のために「武教全書」の講義を始めてからでも二年余にすぎない。兵学師範であったころからの弟子を別にすれば、松陰に教えを受けた者の多くが、二年に満たない。一年未満、半年未満の者も少なくない。それにもかかわらず、なぜ、あれほどの感化力を持ったのであろうか。
 前にも述べたように、松陰は実践、行動、生き方に直結した生きた学問を教えた。また、一人一人の可能性を見いだす“眼”や、教育への大情熱を持っていた。そうしたことも、大きな原因であったろう。
 だが、それだけでは、松陰の触発力の要因を説明するには決して十分でない。
 私は、ひとつには、彼の人への接し方を見逃してはならないと考えている。松陰は、塾生の人格を認め、年少の彼らにも礼をもって接していた。それは、言葉遣いにも明確に表れている。彼は弟子たちを「あなた」と呼んだという。また書簡を見ると「同志」と記している。それは、年長で教える立場にある自分と、弟子たちを対等にとらえ、遇していることを意味している。教育といっても、相互の信頼から始まる。ものを教える側にあるからといって、居丈高に、あたかも家来や下僕のように接していけば、人間は皆、心を閉ざしてしまうものだ。そうなれば、もはや共感も生まれず、心の絆が結ばれることもありえない。それでは教育というものの成立基盤を失うことになってしまう。が、逆に、相手を尊重し、同じ一個の人間として対していくときには、心の扉は大きく開け放たれ、信頼が芽生えていく。指導的立場に立つ人が、心しなければならない一点である。
 さらに、師である松陰自身が、常に向上、求道の心を失わず、精進を続け、また、自らの説を多くの人々にぶつけ、切磋琢磨していったことに着目したい。
14  松陰は塾で指導にあたる一方、討幕論を唱える黙霖とも徹底して論争しているし、親幕論者の儒官・山県太華にも、『講孟余話』の批評を求め、果敢に論争を展開している。さらに、藩政批判の論文『狂夫の言』を書き下ろし、上書している。
 人々から尊敬を受け、門下を有するようになると、人間は他の意見や考えには、とかく耳を傾けようとしなくなるし、自らの研鑽を怠り、権威のみを求めようとするものだ。
 しかし、彼は自説に安住し、事足れりとはしなかった。論争し、相手の意見や説が正しいとわかれば、積極的にそれを取り入れた。まさに、松陰自身が、常に模索し、さらに前へ進もうとする気概に燃えていた。
 そうした自身の前進、向上の息吹を常にたたえていたがゆえに、彼の触発力は大きかったといえよう。指導者は、自己の錬磨、成長を片時も怠ってはならない。
 また彼には、私利私欲、名聞名利の心がない。新しい日本の夜明けを開くという目的に貫かれ、無私であり、無心であったことが、弟子たちの共感を呼んだ要素であったろう。
 青年は純粋であり、批判力猛々しく、その心には濁りがない。それゆえに、指導者の私利私欲を鋭敏にかぎわける。また、汚れなき一途な志には共鳴音を奏でる。私利私欲に走り、名聞名利に生きる者は、仮に一時期は青年たちを巧みにだますことがあったとしても、早晩、その欺瞞の仮面ははがされてしまう。そして、何よりも、その私心を超え志に生きる松陰の生死観こそが、弟子たちの心をとらえたと私はみている。彼の生死観そのものの論議は別として、生死観は人間の生き方を決する最も根本的な問題である。いかに生きるかという問題も、つきつめれば、何のために死ぬか、という問題につき当たる。彼が獄中から高杉晋作にあてた手紙の中に、有名な「死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込あらばいつでも生くべし」(山口県教育会編『吉田松陰全集』9所収、岩波書店)との言葉がある。
 死ぬことによってその名が不朽となると思えば、そこで戦い死んでいきなさい。永遠にその名が歴史に残るであろう。また生きなければ大業を成就できないと自覚したならば、生きて生きて生き抜け、というのである。松陰は、自らこの生死観に徹してきた。そこに弟子たちは、生き方の範を見いだし、強い、胸奥からの共感を覚えたにちがいない。
15  師匠は“針”、弟子は“糸”
 松陰の遺書『留魂録』に次のような一文がある。
 「私は三十にして実をつけ、この世を去る。それが単なるモミガラなのか、成熟した米粒であるかはわからないが、同志が私の微衷を継いでくれるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになろう。同志よ、このことをよく考えてほしい」(古川薫『吉田松陰』創元社)
 そして、江戸伝馬町の牢屋敷で、刑場の露と消えた。彼の死は、自らの生死観を完結させるものであり、生の意味を、死の意味を、自らが犠牲となって示すものであったといえる。
 松陰の理不尽な刑死を知った門下生の憤恨がいかに筆舌に尽くせないものであったかは、察するにあまりある。高杉晋作は「実に私共も師弟之交を結び候程之事故仇を報い候らはて安心不仕候」(堀哲三郎編『高杉晋作全集』〈上巻〉新人物往来社)と決意した。また、久坂玄瑞は「先師之非命を悲む事無益なり、先師之志を墜さぬ様肝要なり」(福本義亮編『久坂玄瑞全集』マツノ書店)と述べている。
 それを契機に、やがて彼の門下生は、松陰の遺志を継いで立ち上がり、明治維新へと時代を大きく回転させていったことは、周知の通りである。
 維新の断行――それは死を決意してこそなせる業であった。事実、その途上で、高杉は倒れ、久坂も逝った。だが、維新は成った。ひとつの日本の新しい夜明けが訪れたことは間違いない。
 この松陰と弟子たちの関係をみるとき、時代状況は現代とは大きく異なるが、人間が自身の使命を知り、生きていくうえで、また、社会を向上、発展させるうえで、師弟というものの大切さが実感されてならない。師弟などというと、今日では、どこか古めかしい、封建的なものといった印象が強いようだ。しかし、決してそうではあるまい。
16  学問にせよ、スポーツにせよ、何かを習得しようと思えば、必ず指導者が必要になる。良き指導者がいれば上達も早いし、向上も著しい。だが、自分ひとりで習得しようとすれば、徒労も多く、またすぐに行き詰まってしまうものだ。同じように、人生をより有意義に、最大に価値あるものにしていくためには、生き方の根本的な価値観や人間観などを教えてくれる良き指導者、すなわち“人生の師”が必要である。
 彼の門下生にとって、松陰という存在は、学問上の指導者であったが、同時に、人生の師となっていた。彼らは、松陰と接し、その思想、生き方、人格にふれていくなかで、自らの意思と判断で、彼を師と定めたのである。他から、強制されたものでは決してない。
 一方、松陰も、来る者をこばむことなく、一人一人に内在する力を引き出すために献身し、人間としてなすべき道を身をもって教え示していった。そして、同じ目的――新しい日本の夜明けを開くという理想を共有しあい、ともに、その指標をめざした。
 それは、身分による上下の関係でもなく、利害や報酬に基づいた契約関係でもない。同じ目的を分かち合い、信頼を基盤とした最も自発的にして純粋な精神の融合といってよい。そのような「人」と「人」との絆のなかでのみ、真に人間ははぐくまれ、開花していくのである。
 そう考えると、良き師、偉大なる師に巡り会えた人生は、最高の人生といえるのではあるまいか。また、大きな理想というものは、師と弟子とがそれを共有し、弟子が師の遺志を継いでこそ、初めて成就していけるものである。
 師匠と弟子とは、針と糸の関係にもたとえられよう。師が道を開き、原理を示し、後に残った弟子たちが、その原理を応用、展開し、実現化していく。また、弟子は師匠を凌いでいかなくてはならない。一方、師は弟子たちのために一切をなげうち、捨て石となる覚悟でなくてはならない。
 私も若い青年たちの輝かしい未来の大道を開き、活躍の桧舞台をつくるためには、いかなる労苦もいとうまい、勇んで犠牲にもなろう、それが自分の責務であると、いつも心に誓っている。

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