Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第三節 ナイチンゲール  

随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

前後
2  若き日のナイチンゲールの日記に、こう書かれている。
 「職業、商売、必要な仕事、何でもいゝ、私の全能力を充分に満し、働かせるに足るものが私には是非必要だと思ひ、絶えずそれを求めて来た」(リットン・ストレーチィ『ナイティンゲール評伝』岩崎民平訳、実業之日本社)
 こうして彼女は、悩める人々のために看護婦になろうと決心する。二十五歳の時に、その切実なる思いを家族に訴えると大反対にあってしまう。それも無理はない。当時の病院のイメージはきわめて悪く、不潔で風紀も乱れた場所のように考えられ、「看護婦としては、すでにその品性を喪失した女、したがって子供のひとりも抱えているくらいの女の方が望ましいとされていた」(セシル・ウッダム=スミス『フロレンス・ナイチンゲールの生涯』武山満智子訳者代表、現代社、以下同じ)とナイチンゲールは記している。また「看護婦たちは皆、大酒呑みで、婦長をはじめ誰も皆、同様であった」などとロンドン病院の医師が述べるようなありさまであった。
 そうした時代に“私は看護婦になる”と決意したのである。ここに私は、ナイチンゲールの人間としての信念の強さ、偉さを感じる。人間の常として、多くの人々は世間体を第一に考えるものだ。しかし、彼女はひるまなかった。このころ「諦めなどという言葉は私の辞書にはない」と記している。
 大なり小なり先駆的な業績を残した人の生涯はこのように固く純粋な「信念」から出発し、それを貫き通している。喜びや苦しみや悲しみの光と影が織りなす人間感情の綾は、そのままより合わせ続けられて、人生という一本の綱となる。その綱が太く強固なものであれば、わが人生を、苦い経験もすべて包み込んで、誇りと感謝をもって振り返ることができるであろう。そして、自己の信ずる道を一直線に歩みぬくなかにこそ、人間としての価値も、確かな幸せもあるのではなかろうか。
3  “自立した女性”の先駆者
 ナイチンゲールが家族や周囲の無理解と反対のなか、ドイツのカイゼルスウェルトにある看護学校に入り、看護婦としての第一歩を踏み出したのは、彼女が三十一歳の時のことである。実質的に看護婦としての経歴をスタートしたのは、実に三十三歳である。
 世の偉人の多くがそうであったように、彼女にとってもその二十代は嵐の時代であり、のちの飛躍を準備するための試練の時代であった。そして、彼女が自己の課題に挑戦を始めたのは三十代になってからである。
 自分らしい人生を構築していくのに年齢は関係ない。また偉大なる人生に男女の差はない。自己の内部に秘められた独自の偉大な使命をつかみ、自覚していくならば、三十代といっても新たな挑戦を開始するのに決して遅くないといってよい好例であろう。
 ナイチンゲールは「私の心は人間の苦悩についての思いで一杯だ。それが前から後から私を悩ます。……」(バーバラ・ハーメリンク『ナイチンゲール伝』西田晃訳、メヂカルフレンド社)と日記に書いている。彼女の心は自己自身にとどまることなく広い人間愛の世界に深くとらえられていたようである。
 結局、生涯を天職に捧げて独身を貫いた。私は何も女性に独身を勧めているわけではない。しかしいたずらに他人と自分とを比較したり、また、いわゆる「華やかな結婚」といったような表層的な幸福観にとらわれて、正しき人生の展望を見失うとすれば悲しいことだといわなければならない。
 世の中には若いころ華やかな結婚式をあげ、新たな人生のスタートを切りながら、やがて家庭に入り、子どもを産み、三十代に入るころには現実の苦労に疲れ果て、希望も向上心も失ってしまう人も少なくない。その人自身の本来の力を出すこともなく、どこか空虚なままに一人の女性が人生を送る姿を見るのは、まことに残念でならない。
 男性であれ、女性であれ、大事なことは、自身の力をあますところなく発揮することである。使命に生きぬくことである。そして他にすがって生きるのではなく、自己自身に生きぬくなかに、真の喜びと崩れざる幸福の道が開かれることを忘れてはならない。
4  ナイチンゲールは当時、ある手紙に「人生は戦いであり、不正との格闘である」(吉岡修一郎『もうひとりのナイチンゲール』医学書院)という意味のことを書いている。
 彼女は、生涯にわたる激しい「戦い」をとおし、病院を改良し、看護婦を「品性を喪失した女」から「天使」へと昇華させていく。それは、人間の精神の大変革であった。それを一人の女性が行ったという事実は、“一人”の力がいかに大きいかを端的に示すものであったといえる。偉大なる事業の推進も、結局は“一人”の成長にかかっている。男性であれ、女性であれ、その“一人”になれるかどうかである。
 ましてやナイチンゲールが生きた十九世紀は、女性の生き方をひとつの方向に限定しようとする世の中全体のベクトルが、まだ依然として強力であった時代である。その時代に、一人の女性が、あれほどの仕事を成し遂げた。その気迫と情熱はまことに敬服に値しよう。彼女の初期の著作『カイゼルスウェルト学園によせて』の冒頭にはこのように書かれている。
 「一九世紀は『女性の世紀』となるにちがいない、という古い言い伝えがある。ところが(中略)一九世紀が女性の世紀になっていないのは、いったい誰のせいなのであろうか。男性のせいではない。というのは、この時代ほど、女性がその能力を開発する自由ばかりでなくその機会をも与えられている世紀はかつてなく、女性自身にとっても最もよき時代と思われるくらいだからである」(湯槙ます監修・薄井坦子編訳者代表『ナイチンゲール著作集』1所収、現代社)
 私は、この文章の中に、決して環境に流されたり、支配されたりする女性ではなく、しとやかななかにも凛然たる勇気を備えて、果敢に周囲に働きかけていこうとする、自立した近代女性の先駆者の魂を見る思いがする。その生き方は世紀を超えて、今日の多くの女性に、貴重な人生の示唆を与えているといえるであろう。
5  クリミアの天使
 一八五三年、ロシアとトルコとの間に戦争が起きた。そのきっかけは宗教的な対立を理由にしていた。当時のロシアの南下政策を阻もうとするイギリス、フランスがトルコを支援して参戦。この戦争は黒海につきでたクリミア半島が主戦場となり、「クリミア戦争」と呼ばれている。戦争勃発の翌一八五四年、ナイチンゲールは時の陸軍長官の要請によって、三十八人の看護婦隊を編制し、戦場へと向かった。時に彼女は三十四歳、以後二年間にわたり奮迅の活躍を展開していく。ここから彼女は「クリミアの天使」としてその名を世界の歴史にとどめていくことになる。
 「戦争というものを、ひびく軍楽、鳴る太鼓、ひるがえる旌旗、颯爽たる馬上の将軍などといったふうの、整然として美しい、きらびやかな相でなく、その実相――流血と、苦痛と、死とにおいて見る」(「セヴァストーポリ」中村白葉訳、『トルストイ全集』2所収、河出書房新社)と、当時、ロシア将校としてクリミアにいた若きトルストイが描写したとおり、その戦場は、敵味方の区別なく、悲惨このうえない状況を呈していた。
 ナイチンゲールが赴いたイギリス軍の野戦病院もまた、目を覆うばかりの惨状であった。負傷兵が続出するうえ、コレラ患者も急増、しかし医療品や食糧、物資はまったく不備という状態であった。しかも、野戦病院の建物も不衛生きわまりなく、運びこまれた兵士たちは病院の不衛生からくるペストによって命を落とすことも多かったといわれる。
 何不自由のない良家育ちで、それほど体も強くなかった彼女自身、病気で死にかかったこともあった。しかしそれらをすべて乗り越えた彼女はこう書簡に記している。
 「クリミア熱、赤痢、リウマチなど、今や私はおよそこの風土がもたらす病いのすべてを経験しましたから、もう自分の躰はこの気候風土に完全に順化され、兵士たちとともにこの戦いに耐え抜く用意ができたと信じています」(セシル・ウーダム=スミス、武山満智子訳者代表『フロレンス・ナイチンゲールの生涯』現代社)
 そのうえ、医師団からの露骨なまでの差別があった。権威をふりかざす彼らはナイチンゲールたちを無視し、病室にさえ入れようとしなかった。
 優れた看護婦は、患者を観察する眼がこまやかで、ときには医師よりも的確な判断をすることすらある。ゆえに、看護婦という存在は尊敬こそすれ、軽視すべきでは決してない。
 しかし当時は、看護に対する、無知と無理解が横行していた。そうしたなかで彼女は、掃除、洗濯、料理からすべての物資の供給にいたるまで何もかも引き受け、雑用に追われたという。それでも“私たちには私たちの使命がある”といって意に介さなかった。
 普通であれば、あまりの不遇、過酷な状況にいきどおって、当初の志を失ってしまうであろう。しかし、ナイチンゲールは初心を貫き、使命の道を歩みぬいた。
 ナイチンゲールの看護がどれほど献身的であったか。兵士の看護のために一日中休みなしで立ち通したこともある。逆に、包帯を巻くために、数時間もひざまずいて頑張りぬいたこともあったという。
 苛烈な戦闘で兵士が相次ぎ亡くなる姿を目にしたナイチンゲールは、孤独のなかで息を引き取っていく多くの兵士たちの孤愁に、深い同情の念を禁じえなかった。そこで彼女は“失意のうちにたった一人で死んでいく兵士がないように”と強く願い、瀕死の枕辺を力のかぎり回り、励ました。ここかしこにあまりに繁く姿を見せる彼女の奔走ぶりに、兵士たちは、彼女は何人もいるのではないかと思ったほどであったという。
6  そのうえ、彼女は、これとは違った仕事の一つとして、膨大な数の手紙を書かなければならなかった。毎日、多くの兵士が死んでいく。連絡が途絶えて、故国の家族は心配でたまらない。軍に手紙を書いても、当時のことゆえ、権威と役人根性の軍人たちに親切な反応を期待することはできない。しぜん、家族たちはナイチンゲールにあてて手紙を書くような場合もあった。彼女は、激務のなか、それらにぜんぶ目を通し、心のこもった返書をしたためている。
 ある兵士の妻にあてたナイチンゲールの手紙が現在も残っている。夫である兵士の悲しい死を告げたその手紙は、深い同情とこまやかな思いやりに満ちた文面で、家族ならずとも涙なくしては読めないものである。そのうえ、彼女は未亡人手当ての申請書を同封し、手続きの方法までこまごまと教え、あれこれとアドバイスしているのである。
 こうして彼女が生涯にしたためた手紙は、膨大な数にのぼり、『ナイチンゲール著作集』の監修者である湯槙ます氏は「一万通とも一万数千通ともいわれている」と述べている。何の報酬があるわけでもなければ、名声のためでもない。ただ自分の決めた使命をひたむきに果たしていこうとする尊貴なる姿である。彼女はこれだけの純粋なる献身と努力を重ねたにもかかわらず、無数の反対や妨害にあっている。もちろん彼女の優しい看護に直接ふれた多くの兵士たちからは、心からの感謝と信頼が寄せられていた。しかし、その反面、彼女への信頼に対する卑劣で低俗な中傷や嫉妬が渦巻くというありさまであった。この点からすれば、百年前も今も、人の心は進歩していない。そうしたことを乗り越え進んだ彼女こそ真正の勇者であり、自ら定めた使命に生きぬいた人であった。
 彼女は『看護覚え書』の中で次のように記している。
 「何かに対して《使命》を感じるとはどういうことであろうか? それは何が《正しく》何が《最善》であるかという、あなた自身がもっている高い理念を達成させるために自分の仕事をすることであり、もしその仕事をしないでいたら『指摘される』からするというのではない、ということではなかろうか」(湯槙ます監修・薄井坦子編訳者代表『ナイチンゲール著作集』1所収、現代社)
 “言われたからやる”というのでは、使命感のうえの行動ではない。義務感である。“言われなくてもやる”――これが大事な精神である。
 彼女は続けて「これが『熱中するということ』であり、自分の『使命』を全うするためには(中略)誰もがもっていなければならないものなのである。(中略)看護婦が自分自身の理念の満足を求めて病人の世話をするのでない限り、他からのどんな《指示》をもってしても、彼女が熱意をもって看護できるようにすることは不可能であろう」と述べている。
 このように、彼女は、自らの使命を全うするためには、人から言われるまでもなく仕事に取り組まなければならない、それが「熱中するということ」であると強調している。
 人の一生はどういう仕事をしたか、そしてまたどれだけ現実の家庭、社会に幸を贈ったかによって決まると思う。要は、自分のありったけの力を出して使命に生きぬいたか、そして生命を完全に燃焼させて、その時代、社会に自己の燃焼のエネルギーによって利益をもたらしたかということではないだろうか。女性は男性に比べ感情的、情熱的といわれ、それがともすれば、理性を失いがちになる欠点であるといわれる。しかし、高く正しい目的観、使命感に立ったときには、その特質も男性にはない大きな力を発揮することができることをナイチンゲールの崇高な生き方は語りかけてくる。
7  実践の汗から創始した近代看護
 のちに「クリミアの天使」と称された、戦場でのナイチンゲールの勇敢な活躍は、よく知られている。
 しかし、彼女が後世に偉人として名をとどめているのは、近代看護の創始者としてであり、クリミア戦争でのエピソードはその長い生涯をかけた偉大な仕事の出発点にすぎなかった。しかも戦場での無理がたたって、以後、終生にわたり病身でさえあった。
 わが身をさいなむ病苦と闘いながら、ナイチンゲールは、看護婦の立場にとどまることなく、大きく病院の改良やインドの衛生問題など国家的レベルでも活躍している。今日、彼女は、近代看護を創始した世界看護婦界の原点といわれ、模範と仰がれている。
 ひとつの原点を持ち、信念に生きぬくとき、病気といえども当人にとっては何ら支障とならず、自己の道に徹するか否かのなかに事を成すかぎがあることを教えていると思う。
 さらにまた私が驚嘆してやまないのは、ナイチンゲールのその行動の幅の広さと、それをもたらした彼女自身の聡明な構想力である。
 ひとつの原点を持ち、行動をした人の真価は、教育者にも、実践家にも通ずるし、また多次元の社会の行動にも通じていくものであろう。
 彼女は一看護婦として出発し、しだいに活動の対象領域を拡大して、ついには近代看護の体系の基本を固めた。生命を慈しむ彼女の視点は一個の人間から家庭・地域へ、さらに国家・世界へと広がりをもっていった。彼女はたんなる慈愛家として生きたのではなく、慈愛を根底におきつつも、より多くの民衆を救うためには、ときに冷徹な計算もして、イギリス政府や陸軍省に仮借ない改善勧告を送り続けた。そのため敵も大変に多かったようである。しかし、彼女は生涯ひるまず、弱者を不必要の死へ追いやる世の怠慢と無知に対する戦いを続けた。
 いずれにしても彼女は一看護婦として終わらなかった。いや、看護婦に徹するなかに広大な使命の沃野を開いていったともいえようか。
 彼女は、看護にかかわるあらゆる事柄について、明確な将来のビジョンを持っていた。使命感に生きる不動の信念が、彼女の頭脳の中に、他者の追随を許さぬ強靭な構想力をもたらしたのであろう。彼女の目にふれたもの、耳にしたものはすべて、その構想力によって整理され、再構築されて、新たな構想に結晶していった。彼女はその構想の実現に向けて、世の人々の批判も称賛もともに眼中になく、一直線に突き進んだのである。
8  ナイチンゲールは、クリミアでのある書簡の中で「今や看護は、私に求められている仕事の中で、ほんの一部を占めるにすぎません」(セシル・ウーダム=スミス、武山満智子訳者代表『フロレンス・ナイチンゲールの生涯』現代社)と述べている。病院を管理し、運営する一切の仕事が、当時から彼女に課せられていた。
 彼女は、十分な看護を行うためには、医師や看護婦のみならず、あらゆる人々の協力を得る必要を感じていたに相違ない。福祉・衛生という目的のために多くの人々が連帯し、組織化されていかねばならないとの認識に達していた。ここから彼女は、より大きな使命の人生へと歩み始めたといってよい。
 言うなれば、現実の実践のなかから、近代看護体系を導き出すような構想をはぐくんでいったのである。また、上流階級の出身でありながら、看護をとおしてすすんであらゆる階層の人々と交流したことも、発想の多元性をもたらす貴重な経験となったのであろう。
 ここに大事な教訓があると、私は思う。
 理想を持つ、構想をはぐくむ、ということは大切な人生の価値ではあるが、果たしてそれが現実との格闘のうえで獲得したものであるのか否か。そこに一切のかぎがあるように思えてならない。机上の空想はもろく、実践の汗のなかから勝ち取った理想は強い。
 現実との妥協のない取り組みのなかからつかんだ構想を確固として持つところから、人生の無限の広がりが生じるということを、私たちは学んでいきたい。
9  真実の英雄は謙虚の人
 一八五六年にクリミア戦争が終わり、ナイチンゲールが帰国した時、そこには国民の熱狂的な歓迎が待っていた。そして先に帰国した兵士たちの話から、彼女は民衆から英雄として仰がれその名声は高まった。しかし、国民の賛嘆など、彼女の眼中にはなかった。あのクリミアの悲惨と次への改革の願いが彼女の全身を覆い尽くしていた。
 ナイチンゲールは「真実の英雄」について、「もし英雄というものが、他者のために崇高なことを行なう人をさすのであれば」と前置きし、「高慢にならず、謙虚そのものであるような人です。自分で自分を英雄だなどと思う人は、とるに足らない人間です」(湯槙ます監修・薄井坦子編訳者代表『ナイチンゲール著作集』3所収、現代社)と述べている。
 英雄といえば、ともすれば、華々しく傲岸で誇らしげな姿を想像するかもしれない。しかし、彼女は「高慢にならず、謙虚そのものであるような人」こそ英雄であると言っている。自分をたいした人物だとうぬぼれていても、大宇宙からみれば、赤子のごとき存在でしかない。そうした力のない人物に限って、傲慢になるものである。謙虚とは自身を冷静に正視し、成長しよう、伸びていこうと自覚する内面の表れである。謙虚の人は常に余裕があり、物事を正確に見る。傲慢な人は、常に焦りがあり、虚栄のとりこになりがちである。“他者のために崇高なことを行なう人”が英雄であるとするならば、おのずとその要件は、人格であり、慈愛であり、その行動にあるといえるだろう。
 また「もし、日常の生活の〈小さなこまごましたこと〉においても、大きな出来事に対処する大仕事におけると同様に、あるいはそれ以上に、女性は誰も英雄となりうるものであるならば、毎日を他者のために働いている看護婦は、まさしく皆英雄となりうるのです」(同前)とも語っている。
 華麗な表舞台の大仕事のなかにのみ、英雄があるのではない。日々、“他者のために”心を砕き、黙々として献身している人のなかにこそ、本当の英雄がいるのである。“他者のために”という真心の行動には、本当の喜びと充実がこみあげてくる。“無償の行為”の充実感は何物にも代えがたい生命の豊かな躍動をもたらす。
10  責任を持つことの真の意味
 文字通り献身的な看護に駆けずり回ったクリミア戦争のさなか、ナイチンゲールはこんな言葉を述べている。
 「ここにおける真の屈辱、真の辛苦ともいうべきは、紳士でもなければ教養人でもなく、また実業家でさえなく、ましてや思いやりもなく、ただただ責任回避と保身しか念頭にないような人間たちを相手に、何とか仕事を進めて行かねばならぬというところにあるのです」(セシル・ウーダム=スミス『フロレンス・ナイチンゲールの生涯』武山満智子訳者代表、現代社)
 激務がつらいのではない。悪環境がつらいのではない。志を同じくできない、心を通じ合うことのできないことへの痛烈な嘆きがそこにある。
 彼女が四十歳の時に書いた『看護覚え書』に「多くの人びとは、自分の留守中や食事中、あるいは自分が病気で寝ている間は、世界はそのまま静止しているものだと信じ込んでいるように思われる。その間に病人に万一のことがあったとすれば、それは病人のせいであって、自分のせいではない、とでもいうのであろうか?(中略)大事小事を問わず、何かに対して『責任をもっている』ということの意味を理解しているひとは――責任をどのように遂行するかを知っているひと、という意味なのであるが――男性でも、女性でさえも、なんと少ないことであろう。上は最大の規模の災害から、下はほんの些細な事故に至るまで、その原因をたどってみれば(あるいは、たどるまでもなく)『責任をもつ』誰かが不在であったか、あるいはその人間が『責任』のとり方を知らなかったためであることが多い」(湯槙ます監修・薄井坦子編訳者代表『ナイチンゲール著作集』1所収、現代社)とある。
 彼女のいう責任とは、与えられた義務だけをそつなく果たすということとは、根本的に次元を異にするといえよう。
11  現代は、俗に“無責任時代”などといわれるが、こうした風潮を、私は深く心配している。人間、特に指導者たちは、いかなることにも自分で責任をとっていくことが当然である。無責任の風潮の彼方には、取り返しのつかない大きな破壊が待っていることを忘れてはならないと思う。
 他人の気づかないことにまで気がつくのが真の責任感の証である。
 ナイチンゲールの偉大さのひとつも、まさしくそこにあった。彼女は、他の人々にとっては問題として目にうつらなかった事柄のなかから、見事に問題を摘出してみせている。彼女が看護に必要な知識項目として挙げるのは、病気に対する知識は当然のこととして、換気、暖房、消毒、住居、水、採光、感染、物音、環境変化、食事、寝具等々、多岐にわたる。今日の人はそれを当然のことと思うかもしれないが、当時の人はだれもそのようなことを考えもしなかった。
 空気、水、光といった、いつでも目にふれるものほど人間は閑却しやすいものである。
 ナイチンゲールが気づいたのはまさにそういうところである。しかも彼女は、経験に基づいてきわめて的確な指摘をしている。例えば「換気と暖房」について、何をさしおいても患者に必要不可欠なこととして、「それは『患者が呼吸する空気を、患者の身体を冷やすことなく、屋外の空気と同じ清浄さに保つこと』なのである。ところが、このことほど注意を払われていないことが他にあるだろうか?」(同前)と述べている。そして、問題点を摘出するだけでなく、空気の流通経路から換気のあり方にいたるまで、きわめて具体的に指摘しているのである。「眼に見えるところのみが観察されて一般状態が暗示していることが観察されていない」(同前)とも述べているが、ナイチンゲールの真剣さと人間への限りなき愛情、そしてそれらに裏づけられた責任感は、病気の原因についてのあくなき追究をもたらし、大いなる仕事を果たしていく力となった。
 ものごとをあらゆる角度から考え、洞察しぬいていくこと――それを可能にするのは、あらゆる人を守りぬいていこうとする、胸中深くにかたく秘めた責任感以外にはないと思う。
12  使命を自覚した進歩、前進の人生
 彼女の不動の原点――それは、あのクリミア戦争のさなか、十分な看護を受けることなく苦痛と孤独のなかで死亡した兵士たちの姿であったようである。そして戦死した者以上に病死した者が多かったという悲しい事実であった。悲劇の大半は、軍の衛生組織の不備に起因していることが判明していながら何の手も打たれず放置されたままである。それを思えば、彼女にとってはクリミア戦争の終結こそが戦いの始まりであり、限りなき改革と進歩の始まりであった。彼女の胸中には、こうした不動の信念が脈打っていた。
 このころのナイチンゲールの心情をうつす日記の一節に「私は殺された人々の祭壇の前に立っている。生きている限り、その原因を究明するために闘う」(エルスペス・ハクスレー、新治弟三・嶋勝次共訳『ナイチンゲールの生涯』メヂカルフレンド社)とある。
 疲れ果てた心身にむち打って、彼女はふたたび敢然と新たな戦いを始めたのである。
 彼女は、経験と調査の裏づけに基づいて、陸軍の衛生状態の改革、近代看護法の確立、病院の建築や管理の改良等の大事業に携わっていった。こうした事業の推進のかげには、ビクトリア女王の理解をはじめ、彼女の優れた献身的な精神に共鳴した人たちの応援があったといわれている。いつしか彼女は、実地の行動のなかで境涯を深め、人々が彼女に協力せずにはおれないほどの風格さえ身につけていたのであろう。
 周囲を変えるためにはまず自らが成長すること――「人生の達人」ともいえる彼女は、この大事な原理を自然のうちに実行していた。五十三歳の時の「書簡」を見ると、「私たち女性の中には、自分の心や性格を《日々の生活》の中で改善していこうと真剣に考えるような人はごくわずかしかいません」(湯槙ます監修・薄井坦子編訳者代表『ナイチンゲール著作集』3所収、現代社、以下同じ)とある。そして「しかも、自分の看護のあり方を改善していくには、これが絶対必要になってくるのです」と述べている。
13  いつの時代にあっても、人のうわさ話など無意味な語らいに時間を費やしたり、虚栄を追い求める人は多いが、真摯に自己を見つめようという人は少ない。
 しかし、すべては、自己自身の変革から始まる。生活も、事業も、教育も、政治も、また経済も、科学も、一切の原点は人間であり、自己自身の生命の変革こそがすべての起点となる。私どもが「人間革命」こそ一切の基盤とならねばならないとするゆえんがここにある。
 私は、百年前の一女性が、自らそれを達観したことに対し、大きな驚きと感嘆とを覚える。
 彼女は書簡の中で「私たち看護するものにとって、看護とは、私たちが年ごと月ごと週ごとに《進歩》しつづけていないかぎりは、まさに《退歩》しているといえる、そういうものなのです」と述べている。
 また彼女は「(不平と高慢と我欲に固まった、度し難い人間、《そういう》人間だけには《なりたくない》ものです。)そして演劇の合唱隊みたいに、二分おきに『進め、進め』と大声で歌いながら一歩も足を進めないような人間にだけはならないようにしようではありませんか」と呼びかけている。
 彼女は、この言葉どおりの、進歩、前進の人生を全うした女性であった。
14  一八六〇年に、彼女は「ナイチンゲール看護婦学校」を創設した。体をこわしていた彼女自身は、ついに一度も教鞭をとることはなかったが、彼女の熱意は教師や学生の心を激しくたたき、助言を求め、相談に来る人はあとをたたなかったという。
 学生たちが彼女を慕う気持ちは卒業の後も続いた。行き詰まり悩んだとき、卒業生たちは、世界のいずこの地からも彼女のもとにやってきた。ナイチンゲールは病弱を押し、忙しい仕事の合間をぬって彼女たちと会い、一生懸命に激励をした。そしてふたたび元気になった卒業生たちは、自信を取り戻して彼女のもとからまた世界へと出発していった。
 彼女が七十三歳の時に書いたある論文の中で「《われわれ》がみんな死んでしまったとき、自ら厳しい実践の中で、看護の改革を組織的に行なう苦しみと喜びを知り、われわれが行なったものをはるかにこえて導いていく指導者が現われることを希望する!」(同著作集2)と、後世の人に対し、万感の思いを語っている。
 こうしてフローレンス・ナイチンゲールは、輝く功績を残し、九十歳で眠るがごとき安らかな最期を迎えている。
 ナイチンゲールの残した近代的看護の伝統は今なお生きている。彼女の残した偉大な業績は、死後もなお進歩と前進を続けているのである。真に偉大な仕事は、その人の死後もなお力強い進歩を続ける――このことを深く銘記したいものである。

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