Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第二節 ナポレオン  

随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

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17  ナポレオンの傲り
 ナポレオンがワーテルローで決定的な敗北を喫した原因は、人材不足をはじめとする諸点ではあるが、究極するところ彼自身の傲りにこそ最大の因があるといってよい。結局、自己を過信するあまり、勝利の因を常に自分一人の「才」と「力」に帰してしまった傲りに失敗があったのである。
 彼は肉体にも自信があった。一八一五年六月十七日、ワーテルローの決戦を前にして、ほぼ一日中、馬に乗り続けて戦った。雨にずぶ濡れになった。そのなかでの進軍また進軍である。持病の痔と膀胱炎が再発するのは当然だった。四十代も後半の体である。しかも約二十年にわたる戦いの連続である。あまりに苛酷な戦闘へ自分を駆り立ててきた彼の身体が消耗しないはずはない。いつまでも若いつもりで、二十代、三十代の時と同じに考えていては失敗する。これも一つの慢心と油断の表れであった。
 彼は「毅然として事にあたれば勝利はわれわれに帰するであろう。(中略)勇気あるすべてのフランス人にとって、勝つか滅びるかの瞬間が来たのである」(オクターヴ・オブリ編『ナポレオン言行録』大塚幸男訳、岩波文庫)と布告する。事実、彼には勝利はすべて自分の掌中にある。ヨーロッパにはだれも自分に勝てる者はない、とのうぬぼれがあった。そこから強気な作戦に出た。しかし、あまりに強引であり、緻密さに欠けていた。何より、ナポレオンの戦術自体が、すでに古くなっていたのである。
 彼の戦術は、“兵力の集中、中央突破、各個撃破”であるといわれる。寡兵を率いて敵の大兵に向かい敵の弱点をいっきょに突く、そして、食糧を現地調達して身軽な機動戦術を展開する彼の戦術は、「前進、また前進」の気迫ともあいまって連戦連勝を記録した。食糧を備え、テントを組み立て、じっくり攻めかつ退くという従来型の戦法をとっていた各国はとまどい、退けられていった。この戦術は、きわめて斬新であり威力を発揮した。しかし、二十年間ヨーロッパで転戦を重ねるうちに、相手に研究しつくされてしまったのである。手のうちは知られ、各国の軍隊はナポレオンの戦術の長所を取り入れた。しかし、当のナポレオン自身は、そうした事実への自覚が薄く、同じ戦法での勝利を疑わなかったのである。
 また、こうしたナポレオンの機動戦術は彼自身の天才的な判断力と素早い決断と、それを理解して的確に任務を遂行する部下、さらにそれが効果を発揮する盆地のような地形であってはじめて最大の力となる。北イタリアなどでこの戦術が絶大な効果を上げたのに比べて、あまりにも広大なロシアの平原で苦しみ、またスペインの台地や山岳で粘り強いゲリラ的抵抗にあって思うように進軍できなかった。自らの戦術が、そうした土地ではそのまま通用しないということも、ナポレオンは十分自覚しえなかったともいわれる。
 ここに重大な教訓がある。時代は常に変化し、進歩する。以前、通じた戦法が、次も通じるとはかぎらない。過去の経験や成功に執着して、社会の変化を見失えば、もはや次の勝利はありえない。
 したがって、指導者は、絶えず、時代の先を読み取りながら、自身の成長を心がけねばならないのである。貪欲に勉強し、人一倍苦労し、常に新鮮な魅力を発揮できる人でなければならないと思う。
 時代とともに成長する指導者でなければ民衆をリードすることはできない。と同時に、進歩と向上のない指導者の下にある人々は、本当に不幸であると言わざるをえない。

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