Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第二節 ナポレオン  

随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

前後
1  世紀の転換を生きる
 ナポレオンは、一生のうち六十回もの戦いをしたといわれている。その彼の心意気は常に「前進!」の一語であった。いかなる困難に遭遇しても「前進、また前進」と叫んで、窮地を切り開いていった。そうしたナポレオンの足跡は今日、多くの伝説を生むにいたっている。
 ナポレオンは一七六九年、地中海に浮かぶコルシカ島で生まれ、一八二一年、流刑地のセント・ヘレナ島で五十一歳の生涯を閉じた。彼は生涯最後の戦闘となったワーテルローの戦いで敗れ、最終的に帝位を退き、セントヘレナに幽閉の身となった。その時、ナポレオンは四十六歳。わずか五十年足らずの間に、ヨーロッパ、エジプト、そしてロシアを舞台に波瀾万丈の人生ドラマを演じた。まさしく、彼は十八世紀から十九世紀への「世紀の転換」のただなかを生き、疾走したといってよい。
 彼は迫りくる運命に、簡単に屈しようとはしなかった。ロシアへの遠征で敗北し、裏切りにもあい、エルバ島に流されても、毅然たる情熱は、その炎を失うことがなかった。過酷な運命をはね返し、パリにたちかえり、いわゆる“百日天下”を樹立する。この世に生まれた以上、自らの「人生」のドラマを最後まで演じきりたいと決心し、真っしぐらに進んだ。
 類まれなる読書量、強き身体、限りなき想像力、目的成就への執念、不屈の精神力と知恵、そして実行力――フランス革命の激動のなかから生まれた、まさに時代の英雄であり、寵児であったといえよう。多くの偉大な思想や人物がそうであるように、ナポレオンの評価もさまざまではあるが、彼の一生のドラマは現代にさまざまな教訓と示唆を与えてくれる。
2  私も二十二、三歳の若い時代に、ナポレオンの伝記や戦史などをひもといては、いろいろなことを学んだことが、今は懐かしい。その当時の日記には次のように記している。
 人生は、生涯、戦いの連続だ。ただ、その戦いが、何を目的としているか、何を根本としているかが、大事なことだと考える。
 自己の戦いの目的が、微塵も悔いなければ、最大の幸福の戦いだ。今、全く悔いなきことを自覚している。なれば、莞爾として、進軍あるのみだ。
 戦いには、自分らしく、立派に活躍しきって終幕を飾りたい。勝敗は第二義として。――而し、その戦闘の、能力、実践力、確固、責務――これらを、完全に発揮しきってゆくことを、第一義とせねばならぬ。
 ナポレオンは、戦勝した。次に、大敗、又戦勝。最後は、敗戦の英雄であった。
 ペスタロッチは、五十年の人生の戦いは、完敗の如くであった。而し、最後は、遂に勝利の大教育者として飾った。
 今、自分は、どのように戦い、どのように終幕を飾るかが重大問題だ。
 ナポレオンの最後は敗北であった。花の都パリには、彼の戦勝を記念する凱旋門がある。しかしナポレオンは、自らの人生の最後を勝利で飾りその門をくぐることはできなかった。
3  言うまでもなく、ナポレオンの限界は、目的のために「戦争」を正当化し、多くの犠牲者を出したことである。しかし、ナポレオンという一個の人間が大きく歴史を動かしたという事実に、私は“一人”の重みを感ぜずにはいられない。
 むろん現代は、一人の「英雄」が社会の主要な動向を決していくような時代ではないだろう。だが、歴史という“織物”は、所詮、「人間」という限りなく多彩な“糸”と“糸”によって織りあげられていく以外にない。歴史を動かすのは、やはり一人一人の人間である。「一人」の変革から出発し、「一人」から「一人」へと伝わりゆく波動こそ、真実の「革命」であると私は思う。
 時代は、激動、混乱のカオスのなかで、新しき時代の新しき「人間」、新しき「生命の世紀」を待望して久しい。私には、自身という「一人」の革命から全人類の宿命の転換という壮大なるドラマに向かって進む時が、いよいよ訪れたと思えてならない。
4  “大義名分”と“人情”
 ナポレオンの軍隊は、またたくまに大陸を席巻した。戦いは連戦連勝であった。その勝因は何であったか。それは、強大な軍事力や彼の天才的用兵もあったろう。とともに、それを支えるものとして、フランス軍には革命の進歩的な理想をヨーロッパのすみずみにまで浸透させていくという大いなる「使命感」があったといわれる。理想とは大義名分であり、その大義名分を掲げていったところにナポレオンの勝因があったというのである。恩師戸田先生も「戦いには大義名分がなければならない」と、よく言われていた。社会に多くの運動や団体があるが、「理想」を見失い、「大義」を欠いた団体、運動は、たとえ一時は隆盛を誇っても、決して長続きはしないものである。
 ナポレオンにはヨーロッパ大陸を連邦のように統治したいとの理想があった。彼が活躍したのはフランス革命直後の時代である。フランス国内では、土地所有のあり方や法律の制定など、新しい時代構築のためのさまざまな事業が緊急課題となっていた。そこで、ナポレオンは、農民が自ら土地を手にできる道を開いた。また「ナポレオン法典」を制定し、施行するなど、着々と新国家の枠組みをつくりあげていった。
 ナポレオンという名は、一説によれば、“新しい都市の”という意味のギリシャ語に由来するといわれる。その名のごとく、彼は戦争のみに明け暮れたのではなく、パリをはじめ、フランスの各地に新しい時代の、新しい都市を建設した。こうして彼は徐々に自信を深め、各国と戦火を交えるにあたっても、その実現を大義として掲げていく。
 フランス革命とともに「自由・平等・友愛」の思想はフランス国民のなかに急速に広がった。そこに高邁な理想主義が横溢し、また革命を封じ込めようとするフランス内外の諸勢力との激しい対決のなかで、人々の心にはより強きより熱きナショナリズムが満ちていった。ナポレオン自ら「私は革命の申し子である」(井上幸治『ナポレオン』岩波新書)と言ったように、彼の出現自体がこうした空気の体現であったし、ナポレオン軍の転戦も、当初は侵略というよりも、解放運動の意味合いが強かった。
5  「イタリア国民よ、フランス軍は諸君の鉄鎖を切断しに来たのである、信頼してフランス軍を来たり迎えよ」「ワシントンが死んだ。あの偉人は圧制と戦った。(中略)フランスの兵隊は、彼と同じく、またアメリカの兵隊と同じく、平等と自由とのために戦っている」(オクターヴ・オブリ編『ナポレオン言行録』大塚幸男訳、岩波文庫)などの演説は、ナポレオンが、フランス革命の原理を大義として駒を進めたことを如実に示している。彼は内にあっては、自由・平等の思想を全世界に広めるのだとの自覚をもって兵を統率し、外には、民族解放の救世主としてのイメージを示し、進軍した。そして事実、ナポレオン軍は、当初、間違いなく好感をもって迎えられたのである。
 しかし、ナポレオンにも後々までひびいてくる決定的ともいえる失敗があった。それは、理想を鼓吹しつつも、結局は、相手国に対し“征服者”としてまた“圧政者”として振る舞っていったことである。
 いかに自由・平等の高邁な思想を掲げようとも、外国占領軍が、“征服者”としての立場を取り続ける時、当地の人々としだいに摩擦を生じていくことは当然の帰結である。また、民族解放という新しい思想が、理想としては賛嘆されても、事実のうえで認められるには時間が必要であり、旧支配層をはじめとして多くの反発を招いた。さらには、ナポレオンの“食糧は現地調達”という機動戦術が現地民の反発と抵抗をしだいに増していったのである。そして何より、ナポレオンは、自分の親族を、占領した国々の王に次々と任じていった。それでは、いかなる「理想」「使命感」も色あせたにちがいない。こうしてナポレオンは、“征服者”として、あからさまに君臨していった。人々はこれに対し、“ナポレオンは自由を教えたが、自由を与えなかった”などと怒りをあらわにしたことは、あまりにも有名である。そうした民衆の心の動きをとらえきれず、“力の論理”を推し進めていったナポレオンは、結局人々の共感を得ることができなかった。民衆は、ナポレオンの“傲慢”を鋭く察知していたのである。
6  人々に、心から共感と納得を与えていく最上の道は、“誠実”と“真心”を尽くしていくことである。それに対し、傲慢、驕慢、増上慢が心にひそみ、相手を見下げていくとき、必ず人々の心は離れていってしまう。どんな美辞麗句を並べても、立派そうな振る舞いを見せても、表面だけのものであっては人の心を打つことはできない。たとえ一時的には通用したとしても、長続きはしない。ドイツの著述家カール・レーダーは『戦争物語』(西村克彦訳、原書房)で、ナポレオンのあり方に論及し、「ここにふたたび自然の人情が、逆児のような進歩思想よりも、はるかに強いものとして登場する」と分析している。
 つまり“人情”というものは、理想よりも、また武力、権力、名声よりも、はるかに強いということである。いかに権力者や権威の人が、その権力や権威の力で人の心を引っ張っていこうとしても、人々は心から納得することはないのである。中心者のもとに結束した組織は強い。そして、“誠実”“真心”のリーダーには、人々が敬愛の心で結束していく。反対にエゴと権威の指導者には、“離反”の心のみ増していくものだ。
 フランスの文学者ボルテールは、「幸福」について、こう言っている。
 「汝一身のために賢なれ、此のはらからに同情的なれ、つまり汝の幸せを他人の幸せによって造れ」(竹内謙二『十八世紀のフランス思想界』東京大学出版会)
 自分のみの幸福を追うエゴイズムのなかに真の幸せはない。自分自身にとって最も「賢」なる行動とは、友の幸せを願い、そのために真心を尽くして実践していくことである。そこに、わが身の幸福も実現していけるのである。
7  ボロジノの戦い
 栄光に包まれ、英雄と仰がれたナポレオンの神話にかげりがさすのは、ロシア遠征が失敗に帰したあたりからである。彼自身、このころから、往年のみずみずしい輝きを徐々に失っていっている。ナポレオンがつまずいた大きな原因の一つとして、判断力、決断力の衰えを挙げることができると思う。
 ロシア遠征で最大の激戦となった「ボロジノの戦い」は、ロシア軍、ナポレオン軍ともに「わが軍勝利」としているが、実際には、勝敗がつかないほどの激しい戦闘であったようだ。
 後日、ナポレオン自身も“生涯最大の戦闘”と言っているこの大戦は、一八一二年九月七日、モスクワの西百二十四キロにあるボロジノという村で行われた。その時の双方の勢力はナポレオン軍十三万五千、ロシア軍十二万であったと伝えられる。犠牲者も、一説では、ナポレオン軍三万、ロシア軍三万五千といわれ、またどちらも、五万人以上を失ったとの説もあり、こうした莫大な死傷者の数からも、激戦の模様が想像できる。
 この戦いの後、クツーゾフ将軍の率いるロシア軍は、撤退する。そして最後の勝利を得るために、クツーゾフ将軍は、モスクワをも明け渡すという、意表をつく大胆な作戦をとった。一気にたたこうとしたナポレオンにとって、それは誤算であった。
 ナポレオン軍はロシア軍の撤退した翌日、モスクワに入る。しかし住民のほとんどはロシア軍とともに疎開し、そこには死のごとき静寂が待っていた。しかもその日に火災が発生、モスクワは焦土と化す。この予期せぬ出来事によりナポレオンの機動戦術が崩れてしまう。自己の戦術におぼれて事態を冷静に見抜けなかったナポレオンの認識の誤りであった。しかもその後、一カ月余、ナポレオン軍はなすすべもなくモスクワに滞在する。
8  本来であれば、ナポレオンはここで、速やかに和平交渉をまとめるなど、何らかの迅速な対応をしたはずである。ところが、交渉もずるずると日を経るのみでナポレオンが手をこまねいているうちに、かの“冬将軍”を招き入れてしまうのである。何故か。
 それはたんに戦況そのものによるものではない。ナポレオン自身が、新しき状況そのものに迅速に対応していく柔軟さと力を失いつつあったのである。将校たちも以前とは違うナポレオンの姿に不信をいだいたようだ。
 このナポレオンの姿から、指導者のあり方として思うことは、功なり名を遂げた立場に安住して、新鮮にして的確な判断力を失ってはならないということである。
 日は過ぎていく。十月十三日には早くも初雪が降る。和平交渉はまとまらない。しかし“冬将軍”を迎えたのでは敗北は決定的となる。冬を目前にし、迫りくる飢えと寒さの前に、さすがのナポレオンもいかんともしがたく、モスクワから退却する。後退を続けるナポレオン軍はクツーゾフ将軍に率いられたロシア軍の追撃、ロシア農民によるパルチザンの攻撃さらに飢えと寒さのため、壊滅的敗北を喫し、パリに帰還した兵は、わずか二万ないし三万であったとされている。
 長い間、皇帝の座に安住しているなかで、いつしか保守的となり、時に応じた適切な判断ができなくなった指導者の采配が、多くの人々を死地に追いやった例として記憶されるべきであろう。
 戦いというものは、ただ前へ前へ進んでいけばよいというものではない。一歩退くことも必要な場合がある。一歩退きながらも次に全力を尽くして事にあたっていくことの重要性を認識すべきである。
 仏法では、この方程式を「前三後一」というが、この方程式は、私たちの人生にあっても、あてはまると思う。最後の最後の勝利が本当の勝利である。途中にいくら勝利があったとしても、それが最後の勝利へと結実していかなければ何の意味もない。特に、次代のリーダーたるべき人は、人生と社会において、「前三後一」のあり方を、よくよくわきまえていくべきであろう。
9  判断を狂わせた慢心と油断
 もう一つ、ボロジノの戦いをとおして感じられることがある。両軍の指揮官の戦いに臨んだ姿勢が勝敗を決したということである。フランス軍がロシアに侵入を始めたころ、ロシア軍は後退につぐ後退を繰り返した。ナポレオン軍がモスクワに迫ってきた時になって、衆望におされる形で、皇帝から総司令官の任命を受けたのが、クツーゾフである。彼はその時六十七歳。百戦錬磨の経験の持ち主で、かつ教養もあり、知力と忍耐力を兼ね備えた名将であった。待望のクツーゾフの総司令官就任に、軍隊内の士気は一気に高まった。
 一方、ナポレオンも、クツーゾフの総司令官就任の報を喜んだ。かつてアウステルリッツの戦闘で自ら戦い、勝った相手だったからである。クツーゾフの将軍としての指揮能力を“無能”と甘くみていた。ここに、ナポレオンの“慢心”と“油断”があった。
 ナポレオンの心中に顔をのぞかせていた“慢心”と“油断”。一方、“祖国を断じて守り抜く”との強い一念に貫かれていたクツーゾフ。
 この二人の一念の相違のなかに、その勝敗の帰趨があった。しかも、長期の遠征で、暑さと疲労と病に苦しむナポレオン軍に対して、兵力は五分でもクツーゾフの兵の戦意は、はるかに勝っていた。
 このボロジノの戦いの状況については、トルストイの名作『戦争と平和』にも詳しいが、クツーゾフは、常に「時」が自分に味方することを信じていた。この折の作戦でも、敵の消耗を待つという戦術を選んでいる。「時」を待ち、「時」をつくりゆく「忍耐」。その力を十分に発揮することによって、彼は強大な兵力の壁を破り勝利を収めたのである。
10  これに対し、ナポレオンは、和平交渉をもっと早めに切り上げ、冬がくる前に引き揚げるべきであった。しかし、先述したように、この戦いの彼には、かつての迅速な判断と対応がみられなかった。慢心し、退くべき時には退くという「時」と「忍耐」の大切さを忘れてしまっていたのである。
 ナポレオンのロシア遠征は大失敗に終わった。敗因は指揮官の姿勢のほかにも、さまざまに挙げられると思う。その一つとして、フランス軍に戦争の目的が不明確であったことを挙げておきたい。当時、フランスは経済危機や専制への不満などが重なり、国内は政情不安に陥っていたという。ナポレオンは、そうした状況を背景に、国民の不満をそらすために外国に戦争をしかけていったともいえる。そのうえ、ロシア駐在のフランス大使からは、ナポレオンに次のような報告が入っていた。
 「陛下、戦争目的が明確で御座いません。フランス国民は、このたびのロシア遠征を、国民的戦争として、心から支持するでしょうか?」(加瀬俊一『ナポレオン』文藝春秋)
 これに対し、ロシア軍には祖国防衛という大義があり、明確な道義に基づいた勇気がみなぎっていた。結果的に、ナポレオンにはこの直言を聞き入れる柔軟さが欠けていた。自身の頭の堅さに負けてしまったのである。彼は自身の頑固さゆえに勝ち進み、その頑固さゆえに敗れたともいえよう。
 さらにナポレオン軍は、そのかなりの部分をフランス人以外の外国人部隊が占めていた。加えてその待遇に差別がみられ、ここにも士気があがらぬ要因があった。
 後日、ナポレオンは遠征の犠牲者に対する弁明として、フランス人の戦死者が外国人と比べて少なかったことを挙げている。ところが「大陸軍」の名のもとに死んでいった膨大な外国人兵士がいたのである。その兵士らが、何とも哀れでならない。
11  また敗因の第二として、戦争遂行にあたって欠くことのできない“地図”が不備であったことが挙げられる。
 戦争には、正確な地理の認識は不可欠である。しかも、ロシアでの戦闘は平原での戦いが多く、彼が得意とする兵力の集中、中央突破型の戦術が当てはまるところではなかった。にもかかわらず、粗末な地図をもとにしたために、狂いが生じてしまった。もともと不確実な地図を拡大して使用したために、感覚のうえで大きな距離の誤差を生じ、作戦や布陣に支障をきたす結果を招いたようだ。地図の手配は、総指揮官であるナポレオンの任務ではないかもしれないが、最高責任者として、一番の基本を甘くみたところから、すでに失敗が始まっていたともいえる。
 ナポレオンは元来、その卓越した実行力の裏で、常に十分な調査と準備を怠らぬ緻密の人であった。しかし惰性や慢心からであろう、徐々に綿密な計算を怠るようになっていったのである。
 さらに彼はモスクワこそロシアの中心であり、ここをたたけば、全ロシアの息の根を止められると考えていた。国の違い、地勢の違いが、根本的な判断を狂わせた。広大なふところをもつロシアはフランスと違っていたのだ。しかも火災の発生理由に対する敏速な判断と対応に欠け、かつまた、それがフランス軍によるものでないことを説明しようという考えに固執したところもあったようだ。モスクワでの和平交渉がずるずると長引いてしまったゆえんでもある。体力の衰えもあったかもしれない。一つ一つの戦いの局面に“油断”と“慢心”と“集中力の欠如”が連鎖し、敗戦への坂を転がり落ちていったといえよう。
 ところで、十九世紀のロシア最大の文芸評論家ベリンスキーは、ナポレオンのロシア侵攻に関連して、次のような言葉を残している。
 「一八一二年は、ロシア全土を震撼させ、眠っていた力を呼びさまし、これまで見られなかった新しい力を発揮させた。民衆の自覚と民族の誇りを呼びさました」
 つまり、ナポレオンの侵略という苦難が、ただ苦難であるにとどまらず、かえってロシアの民衆の潜在力を引き出す機会になったというのである。
 “苦難が、眠れる力、新しい力を呼びさまし、発揮させるチャンスとなる”ことは、古今東西の歴史にも広くみられ、また、現在にあってもあてはまる一つの真理といえよう。
12  ワーテルローと“背信の徒”ネイ
 ロシアから敗走してきたナポレオンは、退位を余儀なくされ、一八一四年、エルバ島に流刑となる。しかし、まもなく島を脱出。パリで帝政を復活し、いわゆる「百日天下」が始まる。そして、イギリス・プロシア連合軍との有名なワーテルローの戦いに敗れ、終幕を迎える。ナポレオンは、セント・ヘレナ島へ流され、そこで没する。
 ナポレオンにとって、最後の戦いとなったのが一八一五年六月十八日に行われたワーテルローの戦いであった。
 ナポレオンのこの戦いの敗北は、彼の時代の終わりを決定づけた。二十数年の間、多くの人々に光を与え、また逆に流転の波に巻き込んできた彼自身が、業苦の淵に沈む時を迎えるのである。
 このワーテルローの戦いの時、フランスの軍勢は、相手の連合軍のほぼ半分であった。しかし、装備や一部青年兵士の士気の面では、はるかに敵を凌いでいたともされる。ナポレオンも「勝利は私のものだ。百のうち九十の勝算がある」(加瀬俊一『ナポレオン』文藝春秋)と考えていた。それでも大敗を喫したナポレオンは、後に流刑地のセント・ヘレナ島で、次のように回顧する。
 「宿命だったのだ。あの場合の事情を総合すると、おれが勝つべき戦争であったのだ」(鶴見祐輔『ナポレオン』潮文庫)
13  フランス軍の敗因については、さまざまな分析がなされているが、だいたい、次の三点に要約できると思う。
 第一に、有能な人材がいなかったこと。第二に、苛酷な状況で兵士を戦わせたこと。第三に、ナポレオンの命令が、うまく伝わらず、作戦が後手、後手になったことである。
 まず「人材の不足」である。
 ナポレオンのもとには、彼とともに戦い、戦勲を重ねてきた元帥たちがいた。かつては、若さと野望に満ち、大いに活躍したが、このころには、すっかり保守化し、その多くが蓄えてきた財産を守ることに余念のない姿となっていた。
 そうした姿は、当然、若手兵士たちの不信を募らせることになり、「つぎの戦役では、元帥たちは使わないでいただきたい」(長塚隆二『ナポレオン』読売新聞社)との手紙が寄せられるほどであったという。ナポレオンも、腹心たちの堕落の姿に、気がついてはいたようだ。しかし、経験不足の後進の部下たちに指揮を託すことを不安に思い、昔からの元帥たちに、各軍の指揮を委ねてしまった。
 その元帥の一人に、ネイがいた。彼はかつてナポレオンを裏切ったことのある男である。ロシア遠征の後、ナポレオンは皇帝の座から退位する。その時、ネイは、代わって即位したルイ十八世のもとに走った。その後、ふたたびナポレオンにくみするという、いわば変節の徒であった。
 ネイは、ナポレオンと同じ年で、樽屋の息子として生まれた。フランス軍に入隊した彼は、革命戦争に加わって武勲を立てた。さらにナポレオンのもとで第一線の将校としてめざましい戦いを展開、一八〇四年、数々の戦功が認められて最初の十六人の元帥の一人に選ばれた。三十六歳の時には、オーストリア軍を撃破し、ウィーン入城への道を開く。その後も、プロシア、ポーランドで大きな戦功をあげ、“勇者のなかの勇者”とも讃えられた。
 しかし、ナポレオンの勢いの衰退とともに、ネイの背信の動きが始まる。
 一八一四年、連合軍がパリに入城し、ナポレオンが窮地に立たされるや、ネイをはじめ元帥らは、彼に退位を勧める。君主であり、恩人であり、兵法の師でもあったナポレオンを見捨て、自らの栄誉や財産を守ることに腐心するのである。
 そしてナポレオンは四月に退位、五月にはエルバ島に流される。するとネイは即座にルイ十八世の下に走って自ら生きのびようとするのである。さらに、ナポレオンがエルバ島を脱出し、上陸したさいには、ネイは、ルイ十八世の前で「ボナパルトはわたしが引き受けました。あの野獣を攻撃してまいります!」(同前)とまで言ったという。
 しかし、その直後、ナポレオンの軍使が彼のもとを訪ねると、ふたたび心をひるがえし、ナポレオン軍に合流。ネイの背信は、こうして、数を重ねていった。
 だが、ナポレオンは、彼の運命を決したワーテルローの戦いで、ネイを自軍の左翼軍の総司令官に任ずるのである。そこにはナポレオンの苦衷があった。アウエルシュテットで寡兵をもってプロシア軍を撃破したダブー陸相をパリ防戦に残さねばならず、信頼していたベルティエ元帥も亡く、結局イギリス軍を攻めるべき“将”を得なかった。そこで急遽、六月十四日、変節漢であるネイをその役に任ぜざるをえなかったのである。
14  ネイの将軍としての戦いぶりはどうであったか。それは、かつての精彩がまったくみられないみじめなものであった。それもそのはずである。その直前に戦線に合流したばかりで、戦局の変化に通じてもいなければ、部下の幹部将校の顔すら、よく知らなかった。さらに、その指揮ぶりは緩慢で、優柔不断であり、常にナポレオンの心をいらだたせた。
 また、ナポレオンは次のようにも言う。
 「つねに砲火の陣頭に立つネイは、自分の目にふれない部隊のことはすっかりわすれていた。最高司令官が発揮すべき勇猛さは師団長が持つべき勇気とは異質のはずであり……」(同前)
 ナポレオンが慨嘆したように、大局的判断に立てず、ただ突撃するだけのネイによって、ワーテルローの戦いにおけるナポレオン軍の作戦は崩れていく。しかし、彼は、ネイ以外の人を得ることができなかった。人材の不足は、だれの目にも明瞭であったといってよい。
 ワーテルローで敗れたあとネイは、また背信の行為に出る。ナポレオンがふたたびの退位を決断する以前に、ネイはまたしてもナポレオンを裏切ってルイ十八世に身を寄せようとした。
 しかし、この変節が周囲に認められることはなかった。王党派も、彼の心根を熟知していたにちがいない。彼は結局、反逆罪をもって裁かれ、死刑を宣告され、一八一五年十二月、パリで銃殺されている。四十六歳であった。
 ネイの死の姿は、変節の人生の行く末を物語る象徴的な末期だったといえるかもしれない。いつの世でも、反逆者の生涯に、晴れがましい終幕が訪れることはない。
 たとえ処刑を免れたとしても、すでにその人生は「敗北」であり、生きながらの「死」の人生であったといっても過言ではあるまい。師を裏切り、恩人を裏切る“背信の徒”は、自分で自分の「心」を死刑にしているに等しいからである。
15  敗北招いた命令伝達の遅れ
 前述したようにフランス軍のワーテルローの戦いにおける第二の敗因に、苛酷な状況で兵士を戦わせた無理が挙げられる。
 ワーテルローの戦いの前日のことである。午後から豪雨が続いた。ナポレオン軍は、ワーテルローの南約七キロにあるブランスノワで一夜を過ごした。
 上級の幕僚たちは、農場の二階で、死んだように眠った。しかし将校たちは、家の中にも入れずに、豪雨によって沼地のようになった路上で、体を寄せあって寝るという悲惨な状況であった。第一線の兵士といえば、外で立ったまま、ぬれネズミとなり、一睡もできなかった者も多くいたという。
 そのうえ、道路状態の悪化から食糧の補給が遅れた。兵士たちは飢えに苦しみ、食をさがし回った。これでは十分な戦いを期待するほうが無理である。いついかなる時でも、第一線の人たちの状況に思いを巡らす責任感を失っては、指導者の資格はないと言わざるをえない。
 リーダーの根本条件は後輩を徹底して大切にすることである。
16  ワーテルローの戦いの敗因の第三は、ナポレオンの命令がうまく伝わらず、作戦が後手になり、勝機を逃したことである。
 連合国側の主力はウェリントン率いるイギリス軍とブリューハ率いるプロシア軍。ナポレオンはその連携を断つべく分断策を図り、まずプロシア軍を攻撃、これを敗走せしめた。
 一方、イギリス軍についてはネイをその任にあたらせ、まずその前衛を撃破する作戦に出た。ところが、ネイは深入りを恐れて逡巡、手薄のうちに攻めるべき最大のチャンスを逃してしまった。その間に、ウェリントンは兵力を増強してしまう。これによってナポレオンの作戦に狂いが生じはじめた。さらに、ネイ麾下のデルロンが率いる部隊に敗勢濃いプロシア軍を攻めよと命ずるが、ネイが反対したためデルロンの部隊が混乱し、これもまた戦機を逃してしまった。決定的打撃を免れ退却するプロシア軍をナポレオンはグルーシー元帥に追わせた。
 そして、翌日ワーテルローの決戦となる。退却したプロシア軍が陣容を立て直し、ワーテルローのイギリス軍と合流しようとしたのに対して、ナポレオンはそれを知ってグルーシーを少しでも早くワーテルローに呼びよせようとした。しかし、フランス軍参謀総長のスルトは伝令将校を一人しか送らなかったため、ナポレオンの指令がグルーシーのもとに届くまでに、貴重な時間が費やされてしまう。安全のため、また少しでも速く伝わるための万全の策が要求されていたのに、それができず、結局、ワーテルローの戦いの致命傷ともなっていく。
 グルーシーの遅れについては多くの説がなされているが、数々の連携の不備が重なるなか、結局、グルーシーは決戦に参加できず、逆に、よき道案内を得たプロシア軍が会戦中に到着しイギリス軍と合流したことは、フランス軍に、圧倒的に不利な形勢をもたらしたのである。
 ナポレオンの作戦通りに進まなかったのはそれだけではない。
 イギリス軍攻撃にさいしては、砲兵と歩兵の援護の下で騎兵を投入して勝負をかけるというのがナポレオンの作戦であったが、ネイが焦りのあまりいきなり騎兵を突撃させたことで、作戦は水泡に帰してしまった。これもまたナポレオンにとって大変な計算違いであった。
 これら一つ一つの歯車の狂いが、ナポレオンの作戦に大きな蹉跌を生ぜしめた。この事実は、さまざまな局面における連携、連絡の重要性を、さらには心を一つにする“呼吸の一致”の大切さを示唆しているといわねばならない。
17  ナポレオンの傲り
 ナポレオンがワーテルローで決定的な敗北を喫した原因は、人材不足をはじめとする諸点ではあるが、究極するところ彼自身の傲りにこそ最大の因があるといってよい。結局、自己を過信するあまり、勝利の因を常に自分一人の「才」と「力」に帰してしまった傲りに失敗があったのである。
 彼は肉体にも自信があった。一八一五年六月十七日、ワーテルローの決戦を前にして、ほぼ一日中、馬に乗り続けて戦った。雨にずぶ濡れになった。そのなかでの進軍また進軍である。持病の痔と膀胱炎が再発するのは当然だった。四十代も後半の体である。しかも約二十年にわたる戦いの連続である。あまりに苛酷な戦闘へ自分を駆り立ててきた彼の身体が消耗しないはずはない。いつまでも若いつもりで、二十代、三十代の時と同じに考えていては失敗する。これも一つの慢心と油断の表れであった。
 彼は「毅然として事にあたれば勝利はわれわれに帰するであろう。(中略)勇気あるすべてのフランス人にとって、勝つか滅びるかの瞬間が来たのである」(オクターヴ・オブリ編『ナポレオン言行録』大塚幸男訳、岩波文庫)と布告する。事実、彼には勝利はすべて自分の掌中にある。ヨーロッパにはだれも自分に勝てる者はない、とのうぬぼれがあった。そこから強気な作戦に出た。しかし、あまりに強引であり、緻密さに欠けていた。何より、ナポレオンの戦術自体が、すでに古くなっていたのである。
 彼の戦術は、“兵力の集中、中央突破、各個撃破”であるといわれる。寡兵を率いて敵の大兵に向かい敵の弱点をいっきょに突く、そして、食糧を現地調達して身軽な機動戦術を展開する彼の戦術は、「前進、また前進」の気迫ともあいまって連戦連勝を記録した。食糧を備え、テントを組み立て、じっくり攻めかつ退くという従来型の戦法をとっていた各国はとまどい、退けられていった。この戦術は、きわめて斬新であり威力を発揮した。しかし、二十年間ヨーロッパで転戦を重ねるうちに、相手に研究しつくされてしまったのである。手のうちは知られ、各国の軍隊はナポレオンの戦術の長所を取り入れた。しかし、当のナポレオン自身は、そうした事実への自覚が薄く、同じ戦法での勝利を疑わなかったのである。
 また、こうしたナポレオンの機動戦術は彼自身の天才的な判断力と素早い決断と、それを理解して的確に任務を遂行する部下、さらにそれが効果を発揮する盆地のような地形であってはじめて最大の力となる。北イタリアなどでこの戦術が絶大な効果を上げたのに比べて、あまりにも広大なロシアの平原で苦しみ、またスペインの台地や山岳で粘り強いゲリラ的抵抗にあって思うように進軍できなかった。自らの戦術が、そうした土地ではそのまま通用しないということも、ナポレオンは十分自覚しえなかったともいわれる。
 ここに重大な教訓がある。時代は常に変化し、進歩する。以前、通じた戦法が、次も通じるとはかぎらない。過去の経験や成功に執着して、社会の変化を見失えば、もはや次の勝利はありえない。
 したがって、指導者は、絶えず、時代の先を読み取りながら、自身の成長を心がけねばならないのである。貪欲に勉強し、人一倍苦労し、常に新鮮な魅力を発揮できる人でなければならないと思う。
 時代とともに成長する指導者でなければ民衆をリードすることはできない。と同時に、進歩と向上のない指導者の下にある人々は、本当に不幸であると言わざるをえない。

1
1