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日蓮大聖人・池田大作

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第一節 武田信玄  

随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

前後
2  信玄がいかに家臣をよく見極めていたかを示す例として次のようなエピソードがある。
 天文十四年(一五四五年)五月、武田家の柱石ともいうべき板垣信形は人々の反対を押し切って小笠原長時・木曾義高を無謀にも攻め、大敗した。信形の軽率な行動に武田陣中では批判が集中し、冷笑する声もあった。本人も屋敷に蟄居して罪に服す覚悟でいた。だが信形を呼んだ信玄は最小限の損害にとどめた信形の手腕を逆に評価して大きく包み、“まわりの者のたわ言など意に介するな”とねぎらい、元のとおりに用いたという。
 信形の勇猛ぶりを見極めていた信玄は、一度の失敗ぐらいで責めを負わせるようなことはしなかったのである。
 また、信玄は他国を攻め取ったならば、その土地の領主を味方として抱え、人々が困窮しないように配慮したという。
 このようにすべての人が活躍できるように心を配っていくのが、“大将”の慈悲心である。細かいことであるかもしれないが、リーダーは家臣の一人一人のことを的確につかんだ信玄の思いやりの深さを学び取らねばならないと思う。
 また、信玄は精強な軍勢をつくりあげ、城を築かなかった。信玄は堅固な城といっても守るのは人であり、要はその結束と士気に極まると考える。厳しい軍律のもとで、一糸乱れぬ軍行を起こし、敵を破ることに力を注ぐことこそ、築城以上に大切なことだ。そして、城にこもるのではなく、外に打って出て、外敵を国境で食いとめれば、領民が戦禍に遭わずに安心して生業を営めるようになるとの信念が信玄にはあった。
 さらに信玄は治山治水に努めた。甲斐の国は昔から水害が多く、特に甲府盆地の被害が甚大であった。釜無川に築造された信玄堤は現在も残っている。また、二つの川の流れをぶつけあって水勢を相殺させるという斬新な工法は、「甲州流川除」といわれ、独特の治水の方法として歴史に名を残した。信玄が心血を注いだ治水工事が、甲府盆地を四百年にわたって水から守ったのである。
 このように、信玄は、平素から領民を慈しみ、規律を正し、領民から信頼されるように努めた。慈悲の名君・信玄を慕って、甲斐の領民は食事のさいには必ず「館君」と称えたほどである。また信玄は「万事小さいことより、次第次第に組み立てていって、後に大事が成るのである」との信念を持っていたようだ。ものごとの理をきちんとわきまえて、鋭い人間洞察のうえから「小事が大事」ととらえたのである。こうした信玄の生き方は、今日の社会にあっても相通ずる原理を含んでいるように思う。
3  適材適所で人材を生かす
 多様な「人材」と「人材」を、どう的確に結びつけ、最大限の力を出させていくか。それは指導者の器量と、適材適所の配置いかんにかかっている。この点においても信玄は、類まれな人物であった。
 信玄は、同じような性格の侍を好んだり、似たような態度、行動のものばかりを大事に召し使うことを嫌った。
 信玄はこう言っている。
 ――蹴鞠を行おうとするときには、庭の四隅に四本の木(桜、柳、かえで、松)を植える。まず春には桜の色は鮮やかに、柳は緑とけぶるが、やがて春が過ぎれば桜と柳の争いは終わる。こうして夏も過ぎ秋になれば、散るかとかなしむ。そして、かえでが紅葉し、夕霧、秋雨のなかにはえる様子は歌に詠まれたりし、さまざまな相を表すが、それも冬になれば、それらの色どりは何ひとつなくなる。そのときにこそ常に変わることのない松の緑が、その真価を表すのである。
 世間のことにあってもそれと同様のことがいえる。ただ一つの気質だけを愛するのは、国持大名として誤りといわねばならない。ただし、すぐれた大将の下で、臣下が一つのように見えることは、ほめてよいことであろう。三と四をかければ十二、加えれば七つとは、このことをいうものである――。
 人間は、得てして自分と気の合う人や、使いやすい人ばかり周囲に集めがちである。そのような大名は欠陥であるとの信玄の言は、指導者としての大切な戒めである。たしかに鮮やかな花もよいが、地味な松の緑にも味わいがあるものだ。
 また三に四を掛け合わせると十二、三に四を足すと七となる――とは、相異なるタイプの人間でも、うまく組み合わせ、かみ合った場合には、両者の力を足した以上の力を発揮することをたとえている。
4  こうして信玄のもとには、武田二十四将をはじめ、実に多彩な人材が結集している。例えば、『甲陽軍鑑』には家臣の一人として、山本勘助という兵法の達者な武将が登場するが、武田二十四将のなかでもとりわけ異色の存在であったとされている。
 それによると山本勘助は大剛の侍で、ことに城どり、陣どりといった軍法に精通していた。また剣術は京流の達人で、合戦の駆け引きにもよく通じていた。ところが、勘助は大変な醜男で、そのうえ、片方の目が見えず指と足が不自由であった。勘助は初め、駿河の今川義元のもとに仕官を望んで参上したが、義元は召し抱えようとしなかった。彼の姿と周囲の悪評に惑わされて、勘助の人物を見きわめることができなかったのである。だが信玄の見方は違った。信玄は山本勘助が三河の牛窪という田舎の身分の低い家の出身であっても、兵法を鍛錬していること、それに醜悪な風体でありながらなお高名であるのはただものではないと注目し、武田家の宝として召し抱えた。
 さて、山本勘助はその後、信玄が見こんだ通りの活躍をした。彼が武者修行と称して諸国を遍歴し、各地の状況を逐一、報告してくるおかげで、信玄は居ながらにして、正確な情報をつかむことができたという。
 山本勘助が実在したかどうかは定かではない。しかし、『甲陽軍鑑』の記述の趣旨は、いかに信玄が人物の本質を鋭く見抜き、また一人一人の個性を尊重していたかを留めることにあったことは十分にうかがえる。優れた指導者か、暗愚であるかは、人をいかに用いるかで、その違いが歴然とする。
 信玄が人材登用の“名人”であったことが武田軍団の比類なき強さの要因であったが、信玄は次代を担う若駒たちの育成に全力を注いでいる。
 有力な臣下の子息等が集まった小姓組をはじめ、自分のまわりにいる若い武士に対し、信玄は、武将としてのあり方や戦術等を自ら教えるなど、徹底した薫陶・育成を行った。信玄の手駒となって活躍した武将の多くは、ほとんどが、こうした信玄の“手作り”の鍛錬から生まれた。特に信玄は、夜話といった雑談の折に、訓話をすることが少なくなかった。わかりやすい譬え話等を通し、知らずしらずのうちに、武将としての心構えや物の見方を教育していった。そばに仕える若衆らも、貪欲に信玄の教えを吸収し、成長の糧としていったことは、想像にかたくない。人を育てるといっても結局は人間的なふれあいのなかにあるものだ。少人数の懇談、折々の何げない言葉のほうが、心に深く刻まれていくことが多いからだ。
 父・信虎時代の重臣の一人に、萩原常陸守がいた。“知略の将”として仰がれていた彼は、幼き日の信玄に接し、その非凡の才を鋭く見抜いた。そして、折にふれ、合戦の話を聞かせた。そのことが、自然のうちに信玄に合戦の“ツボ”を教え、智将としての芽をはぐくんでいった。常陸守は、信玄が十四歳の時に亡くなるが、信玄に及ぼした影響は、計り知れなかったようだ。こうした自身の経験もあり、一層、信玄は、ふとした機会をとらえ、青年たちに後世への訓戒を言い残していったのではないか。
5  また『信玄全集末書 上巻之六』(甲斐叢書刊行会編、第一書房)に「御大将の誉」について述べた件がある。「御大将」とは、今でいえば、指導者のことであり、信玄はその“誉れ”として、次の三点を挙げている。
 それは、第一に「人の目利」、つまり「人材の正当なる評価」である。第二に「国の仕置」つまり「国の政治」。第三に「大合戦勝利」つまり「戦いにおける勝利」となっている。武将であれば、戦に勝つことこそ、その第一の栄誉とするのが普通かもしれない。しかし信玄は「戦いにおける勝利」が大切であることは当然ながら、それだけでなく、その上に「正当なる人材評価」と「国の政治」をおいている。こうした考え方に、信玄の指導者としての深さと強さの秘密があるように思う。
 「政治」の大切さについて信玄は、次のように言っている。
 まず「戦いに勝つことは誉れであるが、その後の国の政治が悪ければ、国はたちまち乱れてしまう。ゆえに、『戦いに勝つは易く、勝を守るは難し』といわれる」と。
 たしかに戦いに勝つことは大事である。しかし勝ったあと、内政が破綻をきたし、民衆が苦しむようなことがあれば、何のための勝利かわからない。まさに「戦いに勝つは易く、勝を守るは難し」なのである。あらゆる戦いに勝ち負けはつきものであるが、よしんば勝ったとしても、無理な戦いで多くの人が疲れ、生活や人生にひずみを起こすことになれば、反価値であり、勝利の意味がなくなる。
 つまり、指導者は、勝利したあとのことまで常に考えておくべきである。そしてどの程度まで勝利のための行動を進めるか。また皆の「喜び」と「成長」と「満足」のために、どのような手段を講じていくか。常に先の先を読みながら、こうした点に、心を配っていかねばならない。
 人材評価と登用の重要性について信玄は「国内をよく治めることは大将一人で叶うことではないから、よき人材を選び出すことが肝要である。これによって、人材の評価を正当に行うことを、大将の第一の誉れ、手柄というのである」と言っている。
 これは、いかなる「国家」や「社会」、さらには、あらゆる次元の「組織」にもあてはまる普遍の原理である。多数の人々からなる組織を、一人の力で維持し、発展させていくことはできない。やはり、多くの人材を集め、力を結集していかなければ、とうてい繁栄はおぼつかない。
6  さて信玄は、臣下の意見に、真摯に耳を傾ける武将であった。軍略や戦術を、一人で決めるようなことはせず、必ず、諸将の意見をよく聞き、協議に協議を重ねて、決断した。
 さらに信玄は、その決定を実行するさいに、何度も演習し、訓練を繰り返した。それで確証を得て初めて、実際の戦場で、その戦術を実行に移した。こうした用意周到さのゆえに、信玄の戦術は一糸乱れず遂行され、成功を収めたと伝えられている。
 そして、信玄は普段は温和であったが、規律に対しては厳しかった。例えば、軍法に背く者は知行を没収し、死罪に処すと定めていた。このような厳しさが、一糸乱れぬ統制のとれた行動力となり、武田軍の強さを生む因となったともいわれている。
 ともあれ何か事を起こす場合に、勝手な独断や安易な実践は、決してあってはならない。熟慮に熟慮を重ね、全員でよく話し合い協議し合いながら、最後は全員が呼吸を合わせ、気持ちを合わせて行動した場合、すべてが気持ちのよい勝利につながるのである。
7  過ちなき人物の見方
 人物の見方、とらえ方について、どのような心がけが大切であろうか。
 信玄は「大身小身共に人を見そこのふ邪道七ッ之事」(『甲陽軍鑑末書結要本』甲斐叢書刊行会編、第一書房)として、人物の本質を見誤りがちな、七つのケースに言及している。ここでは、そのうちの三つの場合について述べてみたい。
 その一つに「手おそ成る人を、よくおもき人に見そこのふ也」と。これは、ぐずな人をよく沈着な人と見そこなうものだ、との意味であるが、まことに鋭い指摘だと思う。
 例えば、あの人は地震があっても動揺しない。なんと冷静沈着か、と思った人が実は、その本質は愚鈍にすぎず、対応が遅れただけだったという場合もあろう。
 沈着と愚鈍では、大変な違いである。この点の見きわめを誤らないよう心していきたい。
 また信玄は「十方なく物ゆふ人は、口たゝきとて一日物をいへとも友はうばい、あるひはよりをやの功になる、能事一言も申さす、にくけれは能武士をもそしり、我に物をくれきげんを取る人をうれしがり、中よけれはあしき者をもほめ候、十方なしを、よくさくきものに見そこなふなり」と言っている。
 何の思慮もなく口出しする人のことを、信玄は“口たたき”と呼び、こうした“口たたき”を、さばけた人と見誤ってはいけない、と戒めている。
 一日中話をしていても、朋輩や寄親の役に立つことは少しも言わない。そういう“口たたき”に限って、立派な武士に対しても、憎いと思えば悪口を言いふらし、反対に自分に物をくれて機嫌をとる人を快く思い、自分と仲が良ければ悪い人間でもほめるものだ、と信玄は指摘している。
8  いつの時代にも、こうした人はいる。そんな人間ほど得てして饒舌で文章もうまい。世間の人は、この饒舌さに惑わされて、知識があり、社会のことをよく知る者として信用してしまう傾向がある。しかし、この種の人間は節操に欠け、利害にさとく、しかも自己中心的であることが多い。
 いかに利発で、雄弁な人であっても、こうした“口たたき”のごとき人間は、決して信用してはならないというのが、信玄の戒めである。
 さらに信玄は人を見誤りがちなケースとして、「踏所なき人は、我しらぬ事をは作り事申、殊外ぜうこわき者なり、是をよき武士の雅のつよくして、人にまくるをいやがる剛強武勇の人に、かならす見そこのふ者なり」ということを挙げている。
 これは信念のない人は、自分の知りもしない作りごとを言い、意外と強情なものである。これを、信念も強く、人に負けるのを嫌う剛強武勇の立派な武士であると、よく見損なうものである、というのである。
 本当の信念を持った人は、柔軟な心を持ち、謙虚に学ぶという姿勢がいかに大切かを知っている。このような人はリーダーとして、大いに成長していく。逆に謙虚さを失い、強情に我を張り、かたくなに自らの考えに固執する人は、必ず行き詰まってくる。そして何かあると脆くも挫折してしまうものである。信玄は真の剛強さは、武道の鍛錬とともに学問を好むことによって養われるといい、自分もそれを心がけ、人にも勧めた。
 ところで信玄の言々句々は、人間の心を鋭くとらえた本質論といってよい。信玄のこの着眼と指摘の鋭さは、何に由来するものか。
 それは将の将としての“真剣さ”ではなかったかと思う。彼は数多くの将兵を抱えている。ひとたび人材の登用を誤り、用兵を間違えれば、それは自軍の全滅、また領民の限りない苦しみにつながる。絶対に過ちは許されない――この真剣さと責任感から生まれてきたものと、私には思えてならない。真剣で責任ある人には知恵がわき、人がつく。指導者としての資格は、責任感の有無にあり、その大きさ、深さが、人格の偉大さを決定づけるものといえよう。
9  賢将は「五分」の勝利を上とす
 あらゆるものが変化してやまないのが人生である。社会も変化、変化の連続である。人の心も瞬間、瞬間の変化である。自然にしても、冬から春へ、春から夏へ、刻々と変化していく。自分自身が、そもそも刻々と変化し続けてやまない。
 この一切の変化という現実に、どう対処していくか。どう状況の変化をとらえ、勝機をとらえて価値的に動いていくか、そこに「兵法」の必要性が生まれる。
 「勝負」に関しての信玄の考え方は、まことに意味深いものがある。
 信玄は何点か述べているが、一つは、個々の勝負に対する余裕ある心構えである。信玄は、合戦における勝敗について「十分(を)、六分七分の勝は十分の勝なり」(磯貝正義・服部治則校注『甲陽軍鑑』人物往来社)とした。つまり、十のものならば六分か七分勝てば十分であるとし、とりわけ大合戦においてはこの点が重要であるとした。そして「子細は八分の勝は、あやうし。九分十分の勝(は)、味方大負の下作也」(同前)という。
 また信玄は、戦いでの勝利は、五分をもって「上」とし、七分をもって「中」とし、十分をもって「下」とする、と常々、語っていた。それはなぜか。五分の勝利は励みを生じ、七分は怠りをもたらす。十分の勝利は傲りを生むからである。五分ならば“半ば敗れたが、半ば勝った。次こそ頑張ろう”と励みの心を起こす。まして十分も勝ってしまったら、必ず傲りの心を生じる、と。こうした理由から、信玄は、あえて六、七分の勝ちを越そうとはしなかったという。(岡谷繁実『定本名将言行録』〈上〉新人物往来社)
 上杉謙信との川中島の戦は、天文二十二年(一五五三年)から永禄七年(一五六四年)までの十二年間に五回にわたり行われたが、基本的な図式は、攻める謙信に対し、信玄は「善戦は戦わず、善戦は死なず」と、堅固な守りを背景にして、駒を前に進めた。上杉謙信が、信玄にかなわなかったのは、この一点にあるといわれている。
 私も、この方式は、経済戦をはじめ現代の万般に通じる含蓄ある見方だと思う。
10  また信玄が、勝負の心得として、“四十歳より前は勝つように、四十歳から後は負けぬように”としたことが『甲陽軍鑑』に記されている。
 ここにも、目先の勝敗にとらわれず大局をみる信玄の面目が躍如としている。すなわち彼は、将来の最後の勝利を第一に考えた。ただ現在のみ勝てばよいというのでは意味がない。現在も大事だが、将来はもっと大事である。将来、勝つために、今をどうするか。その自覚と思索のなかに、賢将と凡将・愚将との岐路がある。
 四十前には勝ちに努め、四十後には負けないように努める――という信玄の戦訓も、将来の勝利を大目的に据えたところから生まれている。それを根本に、工夫を重ね、着実に地力をたくわえながら、追いつめていく。この姿勢を貫いてこそ、最終にして永遠の勝利への坂を確実に上っていける。
 いかなる次元であれ、勝負については「勝って傲らず、負けて悔やまず」という心が大切なのである。信玄も目先の勝敗の結果に対しては超然としていた。
 彼には甲斐の国を守り、永遠に発展させていくという、胸中深き遠望があった。
 例えば信濃の村上義清との戦いは見事な連勝であった。勢いに乗っているから、いくらでも勝てるとみた武将たちは、もっと追い打ちをかけるべきだと主張した。しかし大将の信玄は、早々と陣をたたみ帰国してしまう。武将たちには信玄の深き心がわからなかった。帰国して後のこと、老臣たちは、月に二度もの勝ち戦で、さぞ主君はご機嫌うるわしかろうと思った。しかし信玄は、一向にそうした素振りも見せない。平常とまったく変わりなかった。
 その後に、しばらくしてふたたび村上義清と戦ったが、今度は負け戦になった。この時、甲府に帰ってきた信玄は、機嫌が悪いのではないかと思った人々の心配をよそに戦のことなど忘れたかのように悠然と構え、淡々とした顔つきであった。能を三日間舞わせ、将兵の労をねぎらったという。こうした若き日のエピソードにも、信玄が多くの戦国武将のなかで、いかに傑出していたかを偲ばせる味わいがある。
11  江戸幕府を開いた「天下人」の徳川家康にとって、信玄は、偉大なるライバルであるとともに、いわば“軍略の師”でもあった。
 家康にとって、生涯ただ一度の負け戦――それは、信玄と覇を争った元亀三年(一五七二年)十二月の三方ケ原の戦いであった。兵力のうえでも劣っていた家康の軍は、周到な計画と万全の態勢で臨んだ武田軍に完敗した。それも敗走中に家康が失禁したとのエピソードも伝わるなど、完膚なきまでの敗北であった。
 噂以上の信玄の兵略に、家康は舌をまいたにちがいない。のちに、かの勝海舟が信玄の兵法について「規律あり節制ある当今の西洋流と少しも違わない」(『氷川清話』角川文庫)と言ったほどに、その戦法は合理的なものであった。
 以来、家康は、信玄の軍学を自らのものとし、戦国の世を勝ち抜き天下を取った。そして二百六十五年にも及ぶ徳川幕府の基を築いたのである。
 敗北が、次の勝利への因となる場合がある。反対に、勝利の時に敗北の原因をつくることも多い。家康は、三方ケ原の戦で信玄に敗れた。しかし、そこから信玄の兵法を学び、最後は天下人としての大勝利を得た。つまり、自らの大敗を、より大きな勝利への源泉とすることができた。ここにも、家康の、指導者としての度量の大きさがうかがえる。
12  後継者育成の戒め
 いかなる世界にあっても、その消長、興亡は、後継者によって決まるといってよい。否、後継者によって先人の偉大さはさらに決定づけられていく、ともいえよう。
 武田信玄は天正元年(一五七三年)、五十三歳で病死する。そのあとを継いだのが四男の勝頼である。しかし、信玄によって天下に覇を唱えようとした武田家も、その子・勝頼の代で、あっけなく滅びてしまう。
 用意周到な信玄が築き、鉄壁ともみえた武田家が、なぜ、かくももろく滅亡したか――これは、歴史の大きな教訓である。武田家滅亡について、その理由はいろいろ挙げられるが次のようにある。
 「晴信(=信玄)終に臨み、遺言して曰く(中略)一旦国を以て之に託する時は、泰山よりも安し。汝(=勝頼)我言を用ひば、吾復た何をか患へんと言て卒す。勝頼、其言に従はず、竟に其国を亡せり」(岡谷繁実『定本名将言行録』〈上〉新人物往来社)
 信玄は死に臨んで勝頼に一切を託し、自分の言ったとおりにすれば、何の憂うるところもないと言い残した。しかし、後継の勝頼は二十七歳。自己の力への過信があったのか、また父以上の戦いを天下に示してみせたいという功名への焦りがあったのか、勝頼は、遺言を守らなかった。家臣の諌言も聞き入れることはなかった。
 信玄は亡くなる時、「三年間は(自分の)喪を秘せよ」と言い遺した。また無理な戦をしかけてはならない、と。しかし、信玄の死は、やがて近隣の諸将の知るところとなる。また、勝頼は、父の遺言に背き、自ら先手をとって動き始めていた。
 武田家を継いだ家長は勝頼である。しかし戦国第一級の武将として、あまりにも偉大であった父・信玄に対し、勝頼の末路は暗い。
 勝頼を“凡将”とすることについては異論もあり、天下収攬の時代へと急速度に進む時代の流れのなかにあって、偉大な信玄の跡を数々の不運とハンデのなか必死に継承しようとしたそれなりの力ある人物であるとの説もあるが、当初は勝頼には父との“差”という現実への認識が十分でなかったようだ。甲斐の悲劇はここに始まる。すなわち勝頼は、自分は信玄と同様の存在感を周囲にも与えていると思いがちであった。それは尾張の信長に対しても同様であった。
13  慢心は怖い。人間は、傲りと焦りから滅びていく。しかも勝頼は、主君である自分の言うことなら、家臣は何でも聞くと思い込んでいた。自分は偉い、「力」があると信じ、どれほど社会が厳しいかを知らない。また、甲斐の国を守り栄えさせるための真剣な思索も欠けていた。
 信玄は、甲斐の国をどう守るか、その要件は何か等々、常に考え抜いていた。戦に対しても慎重だった。敵が何を考えているか。現状をどうつかみ、どう対処するか。領民の苦しみを、どうやわらげるか。年がら年中、信玄は思索し、作戦を練っていた。その父の心も知らず、勝頼は功名に焦り、戦いを始めた。社会を軽くみ、敵を軽くみた結果である。後継者という立場に傲り、自分がいかに浅慮であるかの自覚がなかった。
 武田家にとって不幸なことが、もう一つあった。それは勝頼を正しく諌める家臣がいなくなっていたことである。過ちや危険に対して、勇敢に諌め、正していくという忠義の臣下が、もはやいなかった。みな、主君の顔色をうかがい、その場しのぎの保身と、ことなかれ主義の態度に陥っていた。また苦言に耳を貸さぬ勝頼へのあきらめもあった。
 しかも、勝頼をかこむ若き武士たちは、戦国を乗り越えてきたという経験も鍛えもなくひ弱であった。いわゆる今でいう二世の弱さである。
 主臣一丸となってどこまでも、とことん戦い抜いていく。信玄の時代にはみなぎっていた、そうした燃えるような伝統精神がすでになくなっていた。
 信玄は戦国時代の傑出した武将の一人であったが、わが子への偏愛だけは克服できなかった。ここに、いかなる名将も免れえない人間性の悲劇をみる思いがする。しかし幸か不幸か、信玄自身は、この大失敗の結末を見ることなく世を去っている。
14  人心の離反は一国滅亡の因
 「時流」をとらえずして、勝ち戦はない。また「時代」を知らずして、「勝利」もありえない。
 武田家の没落を決定づけたのは、歴史に名高い「長篠の戦い」である。
 天正三年(一五七五年)五月、勝頼の率いる武田軍は上洛の途中にあった。が、三河国長篠で、織田信長と徳川家康の連合軍と戦い、大敗を喫する。そのさい、信長が鉄砲による攻撃を巧みに行い、騎馬と長槍の武田軍を徹底的に破ったことは、あまりにも有名である。いわば、「時代」を先取りした織田軍の新戦法が、「時流」からはずれ、伝統に固執した武田軍の旧戦法を破った。
15  長篠の戦いに関連して着目すべき一つの事実がある。それは、勝頼が五月に出陣し、決戦を挑んだということである。
 旧暦の五月といえば、農民にとっては、一年のうちで、最も忙しく重要な季節である。その時期の争乱は、農民たちの最も忌み嫌うものであった。信玄は、民衆の「生活」と「心情」に、深く、こまやかな配慮を巡らし、民衆の負担が必要以上に大きくならぬように心掛けていた。それに対して、勝頼は時の流れもあったとはいえ、農民のことを考えずに決戦を挑み、その結果、武田軍に対する不平がつのり、民衆の「心」が離反していったとも考えられる。
 武田勝頼は、長篠の戦いに臨むさいに、宝飯郡(現在の愛知県宝飯郡)の付近で豊川の用水の堰を切り、水を平野に流した。長篠へ向かう徳川軍の後方をたたいておくためであったようだが、おびただしい水量が田畑へと流れ込み、農民は甚大な被害をこうむっている。また、東三河の田畑にとっては貴重な用水であったので、この年は旱魃にも悩まされたという。
 いかに軍事上の作戦とはいえ、このような、農民の生活の基盤までも破壊してしまう行為は、他に例をみないといわれる。その時の農民の嘆きと怒りは、いかばかりであったろうか。
 要するに、勝頼は、民衆の「心」を知ることができなかった。それは、苦労を知らずして高位に上った“権威の人”に、おうおうにしてみられることである。しかし、それでは最後の「勝利」と「繁栄」を得ることはできない。
 反対に、人の「心」を知り、人情の機微に通じゆくことこそ「将に将」たる要件である。民衆の心がわからずして、真実の指導者とはいえない。
 しかも長篠の戦いでは、致命的ともいえる内部の結束の乱れがあった。武田軍の強さは、究極するところ、信玄という一個の人物の大きさと力に帰着する。信玄を失い、若き勝頼がそれを補うにはあまりにも荷が重すぎた。悪いことに勝頼は、長篠城を陥落させることによって、武将に己の手腕を見せつけようと焦った。信玄以来の武将は、織田・徳川連合軍の兵力と陣形を見て、決戦回避に固まっていたという。しかし、焦る勝頼は強引にこれを無視した。結束の乱れを戦いの勝利をもって力ずくで補おうとした彼の意図は無残にも裏目に出た。多くの武将が命を落とし、絆はもろくも崩れ去った。
 信玄はどこまでも、兵を守り、国を守り、ひいては領民を守ることに徹していた。そのためには退くべき時には退く真の勇気を持っていたといえよう。そして最後には、自国の偉大な繁栄を築いた。逆に勝頼は、悲惨な滅亡を迎えることになる。
 このように一人の指導者の優劣で、国や団体は、繁栄もすれば、滅亡もする。その重大な責任を担った存在が、指導者である。
 実に、誤った指導者に率いられた民衆ほど不幸なものはない。
 かつて軍部権力の愚かな指揮のもと、数限りない辛酸をなめ、犠牲になった日本人の悲しい経験も、その一例であろう。そのような悲惨を、絶対に繰り返してはならない。
16  長篠での敗北後も、勝頼の「傲り」と「焦り」のいのちは消えなかった。その結果、人心は離れ、家臣の離反も相次いだ。
 天正十年(一五八二年)一月、臣下の木曾義昌は、信長と通じ謀反を起こす。義昌は、勝頼の妹の夫であり、いわば親族の反逆であった。義昌が反乱したときに勝頼は“まさかあの義昌が……”と信じようとしなかったという。それだけ一人一人の人心の掌握がなされていなかったともいえよう。義昌に対する対策は後手になり、傷口を大きくした。
 信長には勝頼が暴悪で領民は圧政に苦しんでいることが伝えられたようである。そして勝頼の下から去る者が相次ぐようになった。信長の隆盛と武田の衰運を多くの者が敏感に感じとって、離反したというだけでなく、勝頼自身に対する信頼の欠如が、天下に名をはせた強固な武田軍を滅亡へと追い込んだ。
 義昌の反乱を機に、武田家は一気に傾き、滅亡する。
 ともあれ、人心が指導者から離れてしまえば、発展はありえない。これは時代を超えた方程式であり、いずこの団体であれ、これほど恐ろしいことはない。

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