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日蓮大聖人・池田大作

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第二節 開かれた家庭と教育  

随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

前後
2  経夫人は当時、中日友好協会の理事の要職にあり、廖氏もまた中国革命の第一線を歩んでこられた方である。廖氏の父親は革命のなかで殺され、自身もあの苦難の大長征を勇んで歩んだ。まことに理解と愛情のなかに信念と目的を持っておられるご夫婦であった。苦難を経た夫婦の絆はどれほど深いものかを、私は実感せざるをえない。
 経夫人は、ご主人の健康管理にはまことに厳しくとも、反面、やさしい心の持ち主である。一九七八年秋、私の四度目の訪中を終えるにあたって、北京の北海公園内で、中日友好協会の皆さんの労に謝する答礼宴を催させてもらった。その席上、私どもの一人の若い団員が「周総理をしのぶ歌」を中国語でしみじみと歌った。歌が終わると、私と同じ卓にいる、あの冷静な経夫人が目にいっぱい涙を光らせていた。そして「亡くなられた周総理のことを思い出しました。周総理は、本当に人民のために尽くしてくれました。いいお方でした」と、しぼるような声で、かたわらの人に語っておられた。その光景は、私の胸中に鮮烈に焼きついている。
 夫と志を同じくする妻の強さと美しさ――そのような印象を強く深く私に与えてくれたといってよい。日蓮大聖人の御書に「女人となる事は物に随つて物を随える身なり」(御書一〇八八㌻)とある。夫にしたがっていくと同時に、良き方向へ、幸せの方向へとしたがわせていく、明確なる方途を妻は持っていなければならない。家族の安定と社会への融合の主体性があるべきである。
 夫と妻は互いに向き合った相対的な関係だけであってはならないと思う。ともに人生の大いなる目標に向かって進む共同の主体者であり、建設者であるはずだ。夫婦という人生飛行の極意もここらへんにあるのかもしれない。そうした夫婦の深き絆と汗と労苦の共同作業で得た凱歌は、豊かなそして確かなる人生の実像の世界を築いていくにちがいない。
3  人を思いやる心――夏目漱石『道草』
 家庭ということを考えるたびに、私は、いつもある言葉を思い出す。“王様であれ、庶民であれ、自己の家庭の内に平和を見いだす者が、最も幸福な人間である”――。
 家庭の基本は、何といっても夫婦の人間関係にあると思う。それは、核家族であろうが、大家族であろうが、少しも変わるものではない。わが国では子どもが生まれると、夫が「パパ」「おとうさん」、そして妻が「ママ」「おかあさん」と呼び名が変わり、子どもに家庭の中心軸が移るようなところがあるが、それとても夫婦の人間関係が土台となってのことであろう。
4  夏目漱石といえば、日本近代文学の最高峰に位置する文豪であることは言うまでもない。彼は当時の貴族院書記官長という高官の長女と結婚している。しかし、その結婚生活は必ずしも幸福なものではなかったようだ。
 晩年の小説『道草』(岩波文庫)は、彼の自伝的作品であるといわれているが、そこには自らの不幸な結婚生活が色濃く影を落としている。
 漱石の分身である主人公・健三は三十代の大学教師。妻の名はお住といい、高級官僚の娘である。人々の祝福をうけての結婚であったにちがいない。しかし、二人は、どうしてもお互いを理解できず、心は、ぎくしゃくとすれちがってばかりいる。『道草』は、こうした夫婦の間の葛藤を、漱石の体験に基づいて描いた名作である。
 この物語の中に、忘れがたいこんな場面がある。
 健三が少しでも家計の足しにしようと思って、今でいうアルバイトをする。そこには、妻のやりくりを楽にしてあげたいとの、けなげな心があった。しかし、彼が稼いだ給金を渡したところ「その時細君は別にうれしい顔もしなかった」というのである。
 漱石は、この時の二人の心理を次のように書いている。
 お住は「もし夫が優しい言葉に添えて、それを渡してくれたなら、きっとうれしい顔をする事ができたろうにと思った」という。
 一方、健三は「もし細君がうれしそうにそれを受け取ってくれたら優しい言葉も掛けられたろうにと考えた」というのである。
 人間心理の微妙なアヤをついた、さすがに文豪の名にふさわしい鋭い筆の冴えであると私は感心した。一事が万事である。互いが、かたくなに相手に期待し要求するだけで、自分を省みるゆとりと思いやりがなかったならば、ことあるたびに心のミゾは深まるばかりであろう。
 これは、夫婦の仲だけの問題ではない。家族・親戚、また友人との交際においても、肝に銘ずべき重要な問題である。
5  また、こんなシーンもある。ある日曜日のこと、外出したお住の帰宅が遅くなった。健三は夕食を一人ですませ、部屋に引きこもっている。「ただいま」と言ったきり「おそくなりましたとも何ともいわない彼女の無愛嬌が、彼には気に入らなかった。彼はちょっと振り向いただけで口をきかなかった」と。
 健三の心情も、無理もないといえばいえるかもしれない。ほんの一言、「おそくなりました」と声をかければ夫の心もなごむものを、気位の高さからか、健三との冷淡な関係に心が冷えきっているせいか、簡単な一言がお住の口からは出ない。一方、健三は、どうしても、そのことが腹にすえかね、黙りこんでしまうのである――。
 健三が黙りこんでしまったあと、続けて、こう記されている。「するとそれがまた細君の心に暗い影を投げる媒介となった。細君もそのまま立って茶の間の方へ行ってしまった。話をする機会はそれぎり二人の間に絶えた」と。
 口をきかない夫の態度が、妻の心を暗くし、二人の仲をますます冷ややかなものにしてしまった。もとはといえば、妻がほんの一言、心からの素直な言葉を言えなかったのが発端である。
 小さなことといえば、本当に小さなことかもしれない。しかし、その小さなことが、現実を動かす「大事」である場合が、往々にしてあるものである。まさに一日の幸、不幸の感情は、そんな小事に左右されることが多いものだ。
 人の心は、想像以上に繊細なものである。あたかも小さなギアが幾つもかみ合って回転しているように、微妙にして小さな心理の動きが、一瞬一瞬、重なり合って動いている。この人情のこまやかな機微を、決しておろそかにしてはなるまい。また、一流の指導者であればあるほど、そうした人心の妙に通じているものだ。
 私は多くの世界の指導者に会ったが、なかでも、政治家でいえば、中国の周恩来首相が、そういう指導者であったような印象をうけた。
 また、人と人との関係において、私は「言葉」の重要性を痛感する。人間は一つの言葉で争いもすれば、仲直りもできる。一つの言葉が生涯の傷ともなれば、忘れえぬ希望の人生へのきっかけにさえなる。一つの言葉は一つの心を持っている。ゆえに私は言葉を大切にすることは、心を大切にすることに通じると思っている。どこまでも言葉の美しい人でありたい。平凡にみえても、真心のこもった美しい言葉は、人の心をとらえ、深く結び合わせてくれるからである。
6  健三夫婦の場合、そのささいな心のすれ違いが、やがて二人を修復しがたい仲へと導いてしまう。漱石は次のように記している。
 「二人は互いに徹底するまで話し合う事のついにできない男女のような気がした。従って二人とも現在の自分を改める必要を感じ得なかった」
 たしかに作品を通じて、お互いに、自分自身を見つめることのできない宿命的な生命の傾向性を感ぜざるをえない。自らを変革していけない人生は、結局は、宿命の波に翻弄されてしまうといってよい。
 人はどうしても自分中心にものを考えてしまうものだ。相手の側に立って考えられるようになるには、よほどの修練がいる。世界は自分中心に動くがごとく、いわば“天動説”のように思考することは、人間関係のうえでも幼く未熟である。人を知り社会を知るなかで、自分の感情をコントロールして、相手の側に立って考えられるようになることが、人間が成長していくうえで重要な要素ともいえよう。その意味で“人心の妙に通じる”ということはたんなる心がけではない。それは、全人格をかけた成長の証であるとともに、自己の世界から脱皮して、より大きな世界を内に抱えゆく“生命の力”といえまいか。
7  成長家族――家族の意義示す『人形の家』
 人間は自分一人で生まれてくることはできない。また、たった一人で一人前の人間になれるものでもない。当然のことながら、家族の中に生まれ、家族の中で育ち、やがて一個の人間として成長していく。夫婦も、親子も、兄弟も、目に見えぬ心の絆で結ばれているともいえる。これこそ、「人間を創りゆく」過程での不可欠の土壌といえよう。
 私が近年の「家庭崩壊」と呼ばれるわびしい現象を深く憂慮するのも、それが「人間崩壊」と裏表であるように思えてならないからだ。
 有名なノルウェーの劇作家イプセンの『人形の家』(矢崎源九郎訳、新潮文庫)は、主人公のノラが「人間としての自立」を求めて家庭を去る問題劇として、多くの人に知られている。『人形の家』の名高いラストシーンで、ノラは、夫の偽善的な生き方と自分の過去の空しさに絶望し、別離を宣言する。彼女の訣別は「人間になろう」としての出発でもあった。夫のヘルメルは「わたしはお前にとって永久に他人以上にはなれないのかい?」と、思いとどまらせようとする。しかしノラはただ一言、「それには奇蹟中の奇蹟が現われなくてはなりませんわ」と答えるのである。
 ヘルメル「その奇蹟中の奇蹟というのはなんだい?」
 ノラ「それはあなたもあたしもすっかり変って――。いいえ、あなた、あたしもうそんな奇蹟なんて信じませんわ」
 ヘルメル「だがわたしは信じよう。さあ、言っておくれ! わたしたちがすっかり変って――?」
 ノラ「あたしたち二人の共同生活が、そのままほんとうの夫婦生活になれる時でしょう。ではさようなら(玄関を通って出て行く)」
 そして、ヘルメルは嘆きつつノラの名を呼び「ああ、その奇蹟中の奇蹟が――」と、最後に一縷の望みをかけた叫びを発し、幕となる。
8  イプセンが、この作品で意図した主なテーマは、決して当時の社会改革ではなかった。むしろ彼は「本当に必要なのは、人間精神の革命です」(原千代海『イプセン』玉川大学出版部)と、ある手紙に記している。この言葉こそが、彼の思想の核心であり、全作品を貫く“希望”だったわけである。イプセンは、新しい時代にふさわしい家庭創造のかぎを、環境の変化にではなく、人間自身の変革にみていたのであろう。
 家庭というものを結び合わせている絆は、本来、愛情という純粋な心である。しかし、それがお互いの成長を阻むような、依存と惰性と体裁のみによって結びつけられたときには、重苦しい束縛の鉄鎖となっていく。よかれ悪しかれ、人間は、人間同士の絆、つながりのなかでしか生きていくことはできない、と私は思う。本当の、深い意味での生きる喜びというものは、その確かな絆のなかにのみ見いだすことができるものではないだろうか。
 ノラの場合も、より強い、より深い絆を求めゆく彼女の人生の旅の一里塚であったのであろう。また、そのような旅を可能とするのは男性であれ女性であれ、いつに人間自身の成長にかかっているということを、イプセンは訴えたかったにちがいない。
 この『人形の家』は、かつて戸田第二代会長を囲む青年の会合で、教材となったことがある。その折、戸田先生が結論として、「この『人形の家』の続編をどう書くかが、問題だ。それは各人が自分で書くのだ」と言われていたことを、私は懐かしく思い起こす。
 「家庭の役割」とは何か。私は変化の激しい時代であればあるほど、原点に帰り、家庭の不変の動きを自覚しなければならないと思う。
 いうなれば、家庭とは、日々、心のうるおいを深め、未完成から完成へ、互いの結びつきによって、人格を磨き、豊かなものにしていく「人格創造の場」なのである。私は、ここにこそ、いつの世にも変わらぬ家庭の重要な存在意義があると考えている。
9  家庭の一人一人が、ダイナミックに社会と交流し、家庭に戻ってくる――この毎日の繰り返しのなかで、さらには隣近所という地域との交流を広げ深めていく。それぞれの社会・地域で呼吸した体験が、一家のなかで空気となって、家庭の成長につながっている。そのように、常に成長してやまない家庭の「自己変革」という言葉でもよい、「自己進歩」という言葉でもよいと思う。ともかく、自身の向上への逞しいエネルギーに満ちた家庭。私は、これからの家庭像を、仮に「成長家族」と呼びたい。
 もちろん「成長家族」といっても、固定した何らかの型があるわけではない。「家庭もやはり創られるものであって、出来合いのものとして与えられるものではない。(中略)家庭はまさに、愛の倦むことなき努力によって創られるのである」とは、ドストエフスキーの言葉である(『作家の日記』(1)、川端香男里訳、『ドストエフスキー全集』17所収、新潮社)。千の家庭があれば千の顔を持っている。それでいいのである。他と比べる必要もない。またすべての条件が整っていないと幸福になれないわけでもない。たとえコンピューターで“最適”の条件の人を見つけ、豪華な挙式と恵まれた新居でスタートしたとしても、「愛の倦むことなき努力」がなければ、入れ物だけが立派で中身が空虚な、それこそ「人形の家」に堕してしまう危険性を持っている。
 いわゆる「マイホーム主義」だけでは、一見幸福そうに見えても、あんがいもろい場合がある。人間としてより高い次元を見つめながら、互いの成長のための錬磨を心がけていかなければ、人生の幸福と勝利の歴史は刻めない。互いに慈しみ合い、思いやり合いながら、自身の向上への坂を力強く上りゆく「成長家族」、言うなれば確かな「人間の家」が築かれたとき、人間らしく生きられる社会の建設へ確かな幸の風が吹く。
10  確かなる目的を持った社会参加を――働く一婦人の真剣な姿
 昭和六十年(一九八五年)の十月、私は秋晴れの広島を訪れていた。被爆四十周年、そして国連「国際青年の年」を記念して、世界の青年男女が平和の原点の地に集い開催した第六回世界青年平和文化祭に招待を受けたからである。
 その折、三年前、ご主人をガンで亡くし、私もその後を大変に案じていた一婦人の様子を聞くことができた。
 その方も三人の息子を残して最愛の夫に先立たれた時は、まったく途方に暮れてしまったという。突然、地球が回転を止めてしまったような衝撃でもあったろうか。その彼女を立ち上がらせたのは子どもたちへの愛情だった。“子らに希望を失わせてはいけない”――。経済的には必ずしも困窮していたわけではないが、彼女は建設会社に勤務、家族の面倒をみながら、日々、慣れない仕事に挑戦することになる。彼女は、そうした自分の姿を通して、“わが家はいささかも後退していない”と、子にも、また社会にも示したかったのだという。それが亡き夫への渾身の真心であり、自分の支えでもあったろう。その婦人は語っていた。「私の仕事ぶりを、夫や子どもがいつも見ていてくれるような気がする。だから少しも手が抜けないのです」。
 さりげない言葉ではあるが、私は感銘した。彼女にとって職場とは、何より自分を磨き、成長させる鍛えの道場でもあったのである。ゆえに、よき母であり妻であろうとする決意が、そのまま仕事での精励と向上への努力につながっていった――。
11  今、何らかの職業を持つ婦人は千五百万人を超え、専業主婦の数を上回っているという。職場の拡大や、管理職への登用なども含めて、働く女性の活躍は、もはや揺るぎない時代の潮流といってよい。
 なかでも最近の傾向として、若い独身女性ばかりでなく、パートの仕事など“働く母”の増大が著しいと聞く。その背景には電気機器、インスタント食品等による家事の簡便化や生活費、住居費の上昇はもちろん、人生八十年時代にあって“子育て後”の長い年月をどう有意義に過ごすかという問題もある。
 言うまでもなく、その実情は千差万別であるし、課題も多い。ただ私は、かねてより女性が社会に視野を広げ、伸び伸びと自己の力を発揮していくことを願ってきた一人として、「女性の時代」とさえいわれるこうした方向を歓迎し、応援したいと思う。その底に流れる、ごく平凡な主婦の、人間として自分なりの確かな生きがいをつかみたいという願いを何より大切にしたいと思うからである。
 もちろん働く動機は人によって異なるにちがいない。しかし、たとえどんな気持ちで始めたにせよ、仕事は仕事である。責任がある。
 職場を、自分の人格を磨き能力を伸ばす人間完成の場と決めた人には、そこがその人なりに成長の糧と変わっていくものだ。そのうえで私が多くの働く婦人との懇談を通して、いつも大切と思うことは、家庭と職場のけじめをつけ、なるべく頭と気持ちを切り替えること、目の前にきた仕事はできるだけその場で解決すること、仕事のうえで具体的な目標を持つこと、同僚や後輩に自己の人生体験を押しつけないこと、むしろ聞き上手であること、などが挙げられようか。
 もちろん生活は理屈どおりにいくものではない。要は“働く母”の自転車が家庭と職場とのバランスをとって、有形無形の障害を越え進んでいくためには、“なぜ働くのか”という確かな目的観のハンドルをしっかりと握りしめていくことである。そして、バランスのとりかたは自分の体で覚えるしかない。あるときは仕事に傾き、ときにはつまずくこともあるかもしれないが、粘り強く、挑戦していってほしいのである。
12  成長している人には愚痴がない。また謙虚である。日々はつらつと人生のペダルを踏む姿に、周囲もしだいに温かいまなざしを送るよう変わっていくにちがいない。
 また働く女性にとって、おそらく最大の悩みである子どもの教育に関しても、子どもたちへのアンケート調査等を見てみると、母親とふれあう時間の少なさ自体が、必ずしも精神的に重い負担を与えてはいないようだ。むしろ仕事と家事を両立させようと懸命に働く母親の姿に、社会へ目を開いた健全な人生観を養っていく場合も多いようである。
 子への教育は、漫然としたふれあいやたんなる言葉のやりとりだけではない。親の生き方そのものが最高の教育環境なのである。こうした事情が、いわゆる専業主婦の方にもそのままあてはまることは、多言を要さない。
 私は家事や育児も創造的な“仕事”に含めたいと思う。どのような仕事であれ、夫のため、子どものため、そして自らの人格のために、今なすべきことに真剣に取り組む姿こそ大切である。子も、その後ろ姿に、最も大切なものを学び、育っていくものであろう。
 女性の社会進出がさらに進むことは時代の趨勢である。とともに、女性の繊細さ、緻密さ、こまやかな心づかい、みずみずしい感性や発想を大切にし、伸ばしていくことはこれからの社会に不可欠である。それは職業というだけの範囲にとどまるものではない。社会のさまざまな分野に、また平和運動等のなかで、女性の果たすべき役割はきわめて大きい。大地に根を下ろしたように逞しい女性の現実感覚、身近な生活実感こそ、ともすると観念的になりがちな運動に内実を与えることになる。現実の生活こそ万人共通の拠って立つ基盤であるからだ。“母親が変われば世界が変わる”――婦人の声、婦人の主張が社会のすみずみに生かされることになれば、行き詰まった現代社会の大きな光明となろう。
13  結婚とは大きな意義のある創作――山本周五郎『桃の井戸』
 近ごろ、離婚が多いとよく耳にする。離婚までいかずとも、一筋の髪でやっとつながっているような夫婦の愛情もあるかもしれない。
 この世で縁あって、ともどもに出会った二人である。この一生をともに歩んでいくことをひとたびは願いながら、何かの理由で別れ別れになるまでには、第三者の軽はずみな推量の及ばない、やむをえない事情があるにちがいないし、ぎりぎりの選択を迫られた、同情すべきケースも多々あることであろう。それはそれとして考えねばならぬことは、困難や絶望に直面したとき、そして、それに備えて常日ごろから夫婦のとるべき姿勢である。
14  山本周五郎の作品の中に『桃の井戸』(『山本周五郎小説全集』1所収、新潮社)という小品がある。主人公は武家の娘である。器量にあまり恵まれないこともあって、小さいころから書物に親しむことのなかに楽しみを見つけていたような少女であった。しだいに和歌に心をひかれ、歌を詠んで一生を送ろうかとも考え、いくつかの縁談も断るうちに、いつしか縁遠い娘になっていくのであった。
 そんな彼女に転機が訪れる。人づてに紹介された老婦人とふれあううちに、心が解きほぐれていく。老婦人は“和歌の道と結婚とを別々に考えてはいけない。生涯独身で通そうと力んで何事にも肩肘を張るようでは、人の心を打つ美しい歌は詠めないのでは”とやさしく諭すのであった。
 やがて娘に、ある武家の後添いにという話がもちあがる。男は妻女に死別して二人の男児を抱えている。彼女は迷った。和歌にも未練はある。しかし、老婦人の言うように、かえって人の心を打つような歌が作れるかもしれない、とも思って、心を決めた。この時、老婦人は、結婚にかける女の夢や空想というものは、結婚と同時にあるものではなく、これから自分の努力で築いていくものだということを教えている。
 「夢のゆきついたところに結婚があるのではなくて、結婚から夢の実現がはじまるのです。それも殆んど妻のちからに依って……」
 この言葉は、二人の継子との生活などの試練を乗り越えつつ妻として成長していく過程で、しだいに実感の重みを増していくのであった。
 一年ほどの結婚生活を顧みて彼女は自らに語りかける。
 「家庭は妻の鏡にも似ている。誇張していえばこちらの心を去来するそのおりおりの明暗までが、すぐにそのまま家庭の上にあらわれるようだ。(中略)家を守り立ててゆくということは事務ではなく、歌を詠むのとおなじ創作である。(中略)そのうえ歌は詠み損じても裂き捨てればよいが、生活は決してやり直しができない。在った一日は在ったままで時の碑へ彫りつけられてしまう。眼には見えず形には遺らないけれど、親から子、子から孫へと、血とつながり心とつながって絶えるはてがない。創作とすればこんなに大きな意義のある創作はほかにはないと思う」
15  たしかに、夫婦あるいは家庭がたどる生涯の軌跡というものは、一編の創作にも似ている。そして、その創作の過程にあって、なかんずく女性の力の果たす役割は、大きい。日蓮大聖人の御書にも「やのはしる事は弓のちから(中略)をとこのしわざはめのちからなり」(御書九七五㌻)とあるように、“夫は矢、妻は弓のごとし”である。弓が壊れていては、矢は飛ぶことはできない。女性が立派であり、聡明であれば、男性の持つ力を出しきることもできるだろう。逆に女性が愚かで欠陥が多ければ、男性の持てる力は大きく低減させられてしまうものである。
 私は、その女性の聡明さの源泉となるものは、やはり男性と分かち合う志のいかんによると思うのである。
 夫婦といっても、もとより互いに未完成であり、欠点の多い二人である。だからこそ、“創作”の苦しみもある。また、だからこそ“創作”の喜びもあるといえまいか。そして、未熟な互いの欠点短所を償って余りあるものがあればよいのではないか。そこに、二人の間で共有できる理想なり目標――志――が必要とされる素地がある。まさに二人の“創作”における「メーンテーマ(主題)」ともいえよう。ときには互いを飽きるようなことがあっても、喧嘩をしても、「もう一度進んでいこうじゃないか」と立ち戻れるような夫婦の原点として、そういうものがあっていい。
 その志は、それぞれの夫婦で異なるであろう。それは二人で話し合っていくべきだ。そしてともにそこへ向かっていこうと努力するところに、互いに切磋琢磨もあり、夫婦の理解も深まることになるのである。この共通の「志」という夫婦の絆は、そのまま親子の絆ともなっていく。
 御書には「をやの心ざしをば子の申しのぶる」(御書一五三一㌻)とある。これは親の「志」つまり、理想、信念を、その子が受け継いで、自分らしく実現していくということになろうか。
 地位とか財産ではない、最も尊い「親から子へ」の流れを、私はそこに求めたいと思う。
 ともあれ結婚というのは、一面からみれば、もう後戻りのできない出発点である。いわば、互いの夫婦の絆というところに背水の陣をしいたわけである。前に進まねばならない。そして、幸せな家庭を築かねばならない。その時に『桃の井戸』の主人公の独白を、もう一度かみしめてほしいと思う。
 「創作とすればこんなに大きな意義のある創作はほかにはない」と――。
16  親こそ最高の教育環境――“強き母”キュリー夫人
 私はよく、若き女性たちに、キュリー夫人の物語を話すことがある。それは、彼女が一人の女性として、妻として、また母として、平凡な庶民にも通ずる、示唆に富んだ歩み方をしてきたと思うからである。
 パリから郊外電車で約二十分間走ると、ソーという駅に着く。都会の華やかさと打って変わって、閑静な住宅街である。このソー市に、フランス創価学会(SGF)のパリ会館もあり、私はフランスに行くと決まってここを訪れる。このあたりの石畳の道やマロニエの並木道を散策すると、歴史の足音が響いてくるようで、私は、よく妻と歩いたものである。そのなかに、マリー・キュリーの緑に包まれた住宅を見つけたり、また、マリーと夫であるピエール・キュリーが眠る墓地があったりする。若き日の私も、マリーの次女エーヴ・キュリーが書いた名著『キュリー夫人伝』(川口篤他訳、白水社)を愛読した。それだけに何か遠い昔の知己と相まみえたような懐かしさを感じたものだ。
17  マリー・キュリーは、今さら言うまでもないが、ラジウムの発見で一九〇三年にノーベル物理学賞を夫妻で、一九一一年には単独で同化学賞を受賞している。科学の分野で二回受賞は彼女一人である。
 私が注目するのは、そうした彼女の業績ではない。彼女が偉大なる科学者であると同時に、悲しみを乗り越えて二人の娘を育て上げた強き母親であったことである。
 『キュリー夫人伝』によれば――。
 次女エーヴは、こう母を語っている。
 「家庭生活か、科学者としての生涯か、そのいずれかを選ぼうというような考えは、マリーの心にかつて浮かんだことはなかった。彼女は妻としての愛情も、母としての役目も、それから科学も、ひとしく同列において、そのいずれからも手をぬくまいと覚悟していた。そうして熱情と意志をもって、彼女はそのことに成功したのである」
 マリーの娘たちへの教育は、マリーが常に信念をいだき、信念に生き続けた姿そのものであったということである。その信念とは“科学の力こそ人類に進歩をもたらす”との確固たるものである。もちろん核兵器に象徴される現代に、科学にばら色の未来をすべて託す人はいないが、彼女が生きたのは、十九世紀末から二十世紀初頭にかけてであり、科学の“胸躍る”時代でもあった。
 マリーと夫ピエールは、最良の共同研究者であり仲睦まじき人生の伴侶であった。
 マリーは、その生涯のなかで、大好きな父の死、姉の子どもの病気、二人目の子どもの流産、夫の病弱、というさまざまな困難が重なった時期に、夫と次のような会話を交わしている。
 「もしもわたしたちのうちのどちらかが死んだら……残ったものは生きてはいませんわね」と尋ねるマリーに、夫ピエールは「それはおまえ、まちがいだよ。どんなことが起ころうとも、たとえ魂のなくなったぬけがら同然になろうとも、やっぱり研究を続けなければならんよ」と答えている。
18  運命は苛酷にも、その会話どおりの事態をもたらした。
 四年後、夫ピエールは荷馬車にひかれるという、不慮の事故で帰らぬ人となってしまった。彼女が三十八歳の時である。しかし、彼女はピエールと交わした言葉どおり、深い悲しみをいだきながらも、なおかつ夫の研究を引き継ぎ、娘を育てていくために、つらい出発をする。
 彼女は、前例のない女性教授として、夫の講座を受け継ぎ、パリ大学ソルボンヌ校の教壇に立つのである。それからの日々、彼女は学者として研究に、主婦として生活に、何よりも母として子どもの教育に全力で挑戦しぬいていった。
 彼女の二人の娘に対する教育は、こまやかな愛情と配慮が行き届いたものであった。
 彼女は、娘たちに大きな財産を残してやれる機会が何回かあったにもかかわらず、自らそれを放棄している。彼女はどこまでも貧しさと戦い、自分の力で生活を確立していくことが大切だという信念を持っていたようだ。あえて“美田”を残さないその姿には共感せざるをえない。
 次女のエーヴは、「マリーの涙ぐましい努力、その意志、(中略)自立の本能、これは、わたくしたちふたりに、どのような境遇にあっても、だれの助けもなく、難局を切り抜けることができるという信念を与えた」と述懐している。
 とともに、その厳しさの奥に、母として、娘を抱きしめんばかりの慈愛が満ちていた。
 マリーは手紙にこう書いている。
 「あなたがたがわたしに優しくしてくれたり、喜ばせてくれたり、ときには心配をかけたりすることを考えます。あなたがたはほんとうにわたしの大きな宝です」
19  その母の心をうけて、長女のイレーヌは、母を継ぐ科学者となり、マリーの死後、夫とともにノーベル化学賞を受けた。次女のエーヴは、イレーヌとは別の面で開花をみせ、母の米国行きや、母が苦手としたおびただしい社交の場で、母を助けている。
 また、彼女の夫は、ユニセフ(国連児童基金)の事務局長として活躍し、この時代にユニセフにはノーベル平和賞が与えられている。まことに立派な凱歌の一家を築き上げた姿であると私は称賛したい。
 私は、マリー・キュリーの歩みのなかに、何ものにも負けない強靭な人間の芯をみるのである。そして、この芯こそが二人の娘に対する最大の家庭教育であったのではないだろうか。
 家庭教育の根幹は、親が自らの生き方を通して子どもに人間としての芯を教え、それを生活のなかにはぐくんでいくところにあるといってよい。
 見落としてならないのは、キュリー夫人の学識が立派な家庭教育をなさしめたのではなく、まさに一人の母としての彼女の「魂」が、それをなさしめたということである。
 私は、庶民のなかに、妻として、母として、悲しみも苦しみも乗り越えて立派に子どもを育て上げた、たくさんの家庭を見ている。
 ともかく、大切なのは、親が正しい生活への姿勢を厳然と持ち、愚痴っぽくならず、明るく生きぬいていくことであろう。
 よく「子どもは、親の背中を見て育つ」といわれる。言葉の綾ではないが、「背中」を見せるには、前を向いて進んでいかねばならない。昨日よりは今日、今日よりは明日と、絶えず親自身が充実と向上をめざしていくなかに、自然と子どもの生命にも、自信を持って生きぬく原動力が身についていく。まさしく、教育のなかにあって「家庭教育」こそはまことに優れた“全人教育”である。“魂の教育”であり、子どもにとっての最大の教育環境は、親自身の心の中にある。そしてまた、親自身の成長しゆく姿に、家庭教育のすべてのかぎが、握られているのではないだろうか。
20  父子対話で父親も教育参加――ウォーナー元駐日英国大使の家庭教育
 家庭教育について示唆を与えられ、感銘したことがある。それは、元駐日英国大使フレッド・ウォーナー氏の言葉である。ある年の暮れ、大使夫妻を夕食にお招きしたさいの談話であった。
 「私は、子どもに対しては、常に一人前の人格の持ち主として扱い、接しているんです」
 子どもに、わかってもわからなくても、複雑な国際問題を話して聞かせるのだという。私は、このオックスフォード出身の俊英外交官が、わが子と真剣に話し合っている様子を、楽しく思い浮かべた。たしかに、多くの母親や学者からも聞くが、子どもは、大人がびっくりするような事柄を理解する。どんな小さな子どもも一つの大切な人格として認め、尊重していくことが必要であろう。子どもは、どこかに、自分の存在を認めてもらいたいという気持ちを持っているものだ。
 大使のこの話は、父親の教育参加という点で示唆するものがあるように思う。家庭教育というと、とかく母親任せになりがちであり、これを反省して、もっと父親自身が子どもの教育に関心を持つべきだとの声もあがっている。父親は、毎日厳しい現実社会のなかに生き、それなりの知識も豊富である。それを家庭のなかに反映する方法として、父子対話をすればよいのではないだろうか。子どもも中・高校生にもなれば、相当に理解もするだろう。具体的な問題を通して父親の考えを学ぶことができるだろうと思う。
 大使の、子どもに対するしつけも厳しいようだ。大使館に勤める人々にも「うちの子どもが間違ったことをしたら、うんと叱ってほしい。遠慮はいらない」と言っていたという。使用人に対して、子どもが「さん」をつけないで呼ぼうものなら、大使夫妻はそれこそ烈火のごとく怒ったと聞く。やはり家庭にあって、善悪のけじめをはっきり教えていくことは大切であろうと思う。善悪の判断を明確にすることは、これからの社会人をつくるうえでますます大切になってきている。
 父親が母親に歩調を合わせて、子どもにあまり厳しすぎると子どもは反発したり、内向的になってしまう。父親は、友だちのようであるか、またはあまりうるさく言わないが、子どもにとって“こわい”存在であり、善悪のけじめを時折はっきり示すことが大切ではあるまいか。それとともに、父親の子どもへの大きな信頼は、母親の愛情にもまして人格形成の大きな礎をを形づくるものだ。
21  城山三郎氏のエッセー「父の根気」(『打たれ強く生きる』所収、日本経済新聞社)の中に、ある芥川賞作家の父親の話が紹介されている。
 その若手作家は、高校時代ふとしたことから非行少年の仲間入りをし、警察のお世話にもなったうえ、郷里を飛び出して上京した。教育者であった父親から、家を出た少年のもとに一通の葉書が届く。彼の行為を咎めるような内容は一切なく、さりげなく近況を知らせるものであった。一通の返事も書かない息子に父親は、実に七年間にわたり二千通にものぼる葉書を送り続ける。自分の顔に泥を塗った形の息子に対して、手応えもないままに七年間にわたって、無償の努力を続けた――その父親の深き信頼と根気、優しさが生きる根本のところで、いかに彼を支え、励ましたかという話である。
 親といい子といっても経験の多寡こそあれ人生の荒波に揉まれて生きていくことに変わりはない。愛情が深ければ深いほど、心配や気苦労が絶えないのが親心でもあろう。
 さまざまな現実と格闘しつつ煩悶し、試行錯誤を繰り返す過程で孤独感と絶望にさいなまれることもあるかもしれない。そうしたとき、存在の根元にある父親が、どれほど強く生き、かつ温かい信頼の眼差しで包んでくれるかどうかが、絶大なる影響を持つと私は思う。
 「子どもは父母の行為を映す鏡である」とよくいわれるが、子どもを信ずる親は、親を信ずる子どもを育てていく。親を信ずる子どもは必ず立派に成長していくものである。
22  心のふれあいが才能を無限に伸ばす――ゲーテの受けた幼児教育
 幼子といえども、厳として、内なる心の世界が広がっている。その小さな宇宙空間ともいうべき、心の世界が、早くから汚染されるようなことがあってはならない。闇に包まれ、スモッグに覆われるような環境であってもならない。
 幼い心に、いつも七色の虹のかかる天空のような、広々とした環境をつくってあげたいものである。そして、できるだけ豊かなロマンを贈っていくことが大切であると思う。
 ゆえに、長い長い人生を逞しくも美しく、美しくも雄々しく生きぬいていけるように、さまざまな幸福の種子を心の中に植えていくことを、母親は決して忘れてはならない。
 言うなれば、幼子にとっての最大の環境は母の心だからである。
23  かつて、私は、さわやかな初夏の風吹くドイツのフランクフルトの地を訪問したことがある。多忙なスケジュールであったが、その折、文豪ゲーテの生家を訪れるひとときを得た。そして、その時、彼の少年時代のエピソードを聞いた。
 ゲーテは、八十二歳の長き生涯で、数々の不朽の名作を残している。いったい、彼の豊かな創造力の源泉は、どこにあったのか――そのエピソードは、母親との温かくもほほえましい心のふれあいに源泉があったことを、教えてくれる。
 ゲーテの少年時代の様子については、ビーダーマン編『ゲーテ対話録』(大野俊一訳、白水社)や『ゲーテ物語』(菊池栄一、講談社学術文庫)によってうかがい知れる。それによると、彼の母親エリザベートは家庭的でしっかり者の、明るいお母さんであった。彼女がそこにいるだけで、周囲の人々の心を温かく包み込んでいく女性であったという。
 また、星にまつわる物語や、水や空気、そして土などを人物に仕立て上げて、想像力豊かに、わが子に語るのが得意だったようだ。彼女にかかっては、まわりの自然界の出来事がそのまま物語の素晴らしい題材となったのである。ゲーテは母親のその物語の中から生きとし生けるものの鼓動を感じとり、生命への畏敬の念と慈しみの心をはぐくんでいった。
 いつもゲーテは、大きな瞳を輝かせ、時間がたつのも忘れるくらいに熱心に母親の物語に聞き入っている。ときとして、お気に入りの登場人物の運命が彼の思いどおりにいかないと、顔に怒りの表情をあらわし、涙をこらえていることもあったという。
 そうしたゲーテの心を知っていた母親は、その日のうちに物語を完結させず「この続きは、明日の晩にね」と、翌日の楽しみとしたりした。するとゲーテは、ストーリーの進行をあれこれと自分で想像する。そして、その内容を彼をかわいがっていた祖母にだけ打ち明ける。
 そして翌晩、母親の物語の続きと、ゲーテの想像は、多くの場合、一致した。というのも、母親が、祖母からゲーテの想像した内容をそっと聞き、その通りに物語を創作していたからである。
 またゲーテは、自分の想像が母親の話と同じになる楽しさに夢中となった。喜びのあまり、小さな心臓がどきどき波打つほどであったという。
 母親のエリザベートは、こうした心の交流を回想し、「私たちの間には、どちらも相手にもらさない秘密の外交工作がおこなわれていました。それで私は聴き手たちの喜び驚くような工合におとぎ話を聞かせるのがたのしいし、またヴォルフガング(=ゲーテの名)のほうは自分がいろいろの不思議な出来事の作者であることをうちあけずに、自分の奇抜なプランが実現してゆくさまをながめて、目をかがやかせ、その話のすすむのを手をうって喜ぶのでした」(前掲『ゲーテ対話録』)と述べている。
 幼きゲーテは、母親の語る楽しい“おとぎ噺”とともに、その想像力の翼を伸びのびと広げていったのである。何と聡明な母親であろう。彼女は、こうした生きいきとした母と子のふれあいのなかに、ゲーテの想像力を存分にひきだし、限りなく才能の芽をはぐくんでいったにちがいない。
24  幼少年期の「心」の広がりほど大切なものはない。子の時代に培われた豊かな想像力は、生涯にわたる発想と情操の基盤となり、人間としての「豊かな心」の広がりを決定づけていくからだ。しかし、“子育て”といっても特別な論理をこね回す必要はないと思う。何よりも大切なことは、子どもが、自由に夢を紡ぎ、伸びのびと想像の翼を広げていけるよう、楽しく、広々とした環境を作っていくことである。
 人間の能力は無限という。その能力を引き出すのは自信である。自分は必ずできるという確信である。その自信と確信を与えるのが、心からのほめ言葉であり、温かい励ましである。逆に冷たい言葉、傲慢な言葉は、釘を打つのと同じである。釘をぬいても釘のあとは残る。あとで弁解しても、一度傷ついた心は、なかなか、もとに戻るものではない。
 子どもに「あなたはウソつきだから、お母さん、信じない」と言う母親と、「あなたが正直な子なのは、お母さんが一番よく知っているわ」と言う母親と、どちらが正直な子どもが育つか明らかであろう。同じ意味で「ダメな子ね」と決めつけた言い方よりも、「今度は失敗しちゃったね」と一緒にがっかりしてみせるほうが愛情は届くにちがいない。わが子といえども相手を決めつける言葉は、一種の慢心である。“母親は体ばかりか、心も産む”ことを銘記したい。そして心豊かな言葉のかけ橋を絶えず築き上げていくことだ。子どもを信じ励ます母親はある意味では“最後の慈愛の砦”といえるかもしれない。まさに才能の芽は、母親の愛情で、どこまでも大きく広がっていくものなのである。
25  親の生き方こそ子どもの財産――母と子の中秋の名月
 母から子への《語り》――それを考えるとき、語るべき物語は伝統的な昔話にかぎらないと思う。日常の振る舞いそのものが、暗黙のうちに子どもに貴重な教訓を語りかける場合も当然あるにちがいない。
 仏典には、「よき人にむつぶもの・なにとなけれども心も・ふるまひも・言も・なをしくなるなり」という言葉がある。
 これは、「善良な人とむつまじくすれば、自然に心も、振る舞いも、言葉も正しくなっていく」という人生の道理を示したものである。
 まことに人の心ほど微妙に変化していくものはない。とりわけ、雪のように純白な子どもの心は、その人生の揺籃期に出会った環境によって、よくも悪くも、どのようにでも染め上がってしまうものなのである。
 子どもへ何を伝えるか。子どもにとっては、お母さんの日々の行動のすべてが、《語部》ともいえるであろう。その自らの全身で伝える何ものかが、子どもの心にかけがえのない人生の財産として残り、生きていく力となっていくものなのである。
 ある中秋の名月の夕べのことである。私は、心に残る母と子の美しい話をうかがった。東京の団地に住むその親子は、秋の一夜を月を眺めて過ごそうと思い立ったそうである。五歳と三歳になる二人の男の子とともに、母親は月見の準備にとりかかった。
 さっそく、おだんごをこしらえ、近所からススキの穂をもらいうけ、花瓶に生けた。子どもたちは瞳を輝かせて月の出を、今か今かと待ちうけた。
 ところが、久しく続いた長雨のせいで、夜空はいつまでも厚い雲に覆われたままである。晴れる気配はいっこうにない。子どもたちも、心なしか落胆したようすであった。そのとき母親は、子どもたちにこう呼びかけた。「さあ、お母さんと一緒にお月さまを作りましょう!」
 母と子は、紙の上に、大きなまんまるの月を描き、それを壁に掛けた。母親は月にまつわる物語を子どもたちに語り聞かせながら、中秋の名月の一夜を楽しく過ごしたという。
 ささやかなエピソードである。しかし、私には、一幅の名画を見るように、その光景が偲ばれたのである。それは、母親の即興のアイデアに感心したからだけではない。多忙な都会人がほとんど忘れかけている、中秋の名月をめでるという昔ながらのロマンと、母親の子どもへの深い愛情とが、見事に調和して、私の胸に響いてきたからである。
 時代や環境がいかに変わろうとも、母親の豊かな心と知恵によって、子どもに大いなる夢を与えていけることに変わりはない、と私は思う。反対に、いくら子どもには理想を求めても、夫婦げんかが絶えなかったり、何かあると愚痴をこぼしたり、人の悪口を言う母親であっては、子どもは厳しくすべてを感じとってしまうものである。
 仏典には「父母必ず四の護を以て子を護る」と説かれている。
 この四つの護とは「生み」「養い」「成ぜしめ」「栄えさせる」ということである。これは、すべての親の本然的な姿と願いを端的に示したものといってよい。
 ここにいう「成」とは、人生における理想を成就することにも通じよう。では何を「成」じていくのか、また何をもって人生の「栄」とするのか。その基準となる視座が、あまりにも現代は見えなくなっているのではなかろうか。
 物質的にもますます豊かになり、価値観もさらに多様化している社会にあって、ともすれば、表面的な人生の眩惑に親も子も振り回されてしまうことを危惧するのは、私一人ではあるまい。親は子にとって、最も身近な人生の先輩といえる。平凡であってよい。地味であってもよい。失敗もあってよい。しかし、人間としての確かなる「完成」、また虚栄ではない、真実の「栄光」を見つめた自らの生き方の軌跡を、子どもに示していける存在でありたいものである。
 そこにこそ、「ああ、うちのオヤジ、オフクロはやっぱり偉かったな……」と子どもたちがいつか振り返ることのできる、「心」の故郷があるのかもしれないと考える昨今なのである。

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