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日蓮大聖人・池田大作

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第一節 民衆こそ真実の力  

随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

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1  時代を変える先駆の魂――ゴイセンの蜂起とエグモント
 先日、たまたまテレビのスイッチを入れたところ、NHKの「名曲アルバム」でベートーヴェンの「エグモント序曲」を放映していた。ベートーヴェンの序曲は全部で十二曲あるが、そのなかでも一八一〇年に完成した「エグモント序曲」は、最も人気のある名曲とされている。
 戦後まもないころ、東京・大田区に下宿していた私は、狭いアパートの一室で、深夜、ベートーヴェンのレコードを聴くのが楽しみであった。当時は、戸田第二代会長の事業が苦境の真っただ中にあり、私はともに奮闘の連続の日々であった。加えて胸も患って心身ともに疲労の極にあった。そんななか、ベートーヴェンの勇壮な音楽は私の心に大きな希望と勇気をわきたたせてくれた。「嵐の中の青春」の今こそ、光輝みつ勝利への序曲なのだと――。
2  ベートーヴェンは、十六世紀のオランダ独立運動を題材としたゲーテの戯曲『エグモント』に感動して、この序曲を創ったといわれている。のちにベートーヴェンは友人に送った手紙の中で、ゲーテへの敬愛の念を込めて、次のように述べている。
 「小生はひたすらこの詩人を愛するあまり作曲したのです」(『ベートーヴェンの手紙』小松雄一郎訳、岩波文庫)
 オランダ独立運動のなかで、民衆のため、信念のために、その身を捧げた指導者エグモント。そして、権力への抵抗運動の軸となった「ゴイセン(乞食党)」という名の民衆群像――。ここにも民衆運動における数多くの示唆がある。
 十六世紀、ヨーロッパでは、全土を震撼させる重大な事件が起きている。それは、「宗教改革」の勃発と、それにともなう旧教と新教の激しい対決である。オランダの独立運動も、この深刻な対立が背景にあった。
 十六世紀前半のオランダは、現在のベルギー、ルクセンブルク、北フランスの一部とともに、ネーデルラントと呼ばれ、ハプスブルク家カール五世の治下にあった。一五一六年、彼がスペイン王位を継承、ネーデルラントは、スペインの属領となる。この翌年、ドイツで「宗教改革」の口火が切られ、新教はしだいにネーデルラントにも流入していった。当時、ネーデルラントは商工業の一大中心地であり、新教が“職業にいそしむことは神に通じる”との職業倫理を説いていたことともあいまって、急速に人々の心に浸透していったのである。
 カール五世は、ドイツと同様、このネーデルラントでも新教弾圧の挙に出たが、彼自身、ネーデルラント人であったこともあり、人々との心の交流もあって、その圧迫はまだ厳格ではなかった。しかし、一五五五年にカール五世が引退し、スペイン国王にフェリペ二世が即位するや、状況は変化していく。
 フェリペ二世は、それより約百年前、スペインでユダヤ教徒とイスラム教徒を撲滅するためにつくられた異端審問の宗教裁判の制度を、ネーデルラントにも適用し“異端者”への徹底的な弾圧に乗り出した。こうして対立は急速に激化する。
 そしてついに一五六六年、スペイン国王フェリペ二世の圧政に憤慨するネーデルラントの中・下級貴族数百人が、ブリュッセル宮廷(政庁)に押しかけた。
 彼らの請願は「宗教裁判制度の廃止」「宗教問題を扱う連邦議会の召集」等であった。この時、執政の側近の一人が彼らを侮辱して「彼らはたかが乞食(ゴイセン)の群れにすぎない」と言った。これが「ゴイセン(乞食党)」の名前の由来とされている。
 彼らは自分たちの集団につける名前に困っていたこともあり、この侮辱的言葉を逆手にとって、「これはおもしろい」と、自らの栄誉の呼称としたのである。この時、彼らは「ゴイセン、万歳!」と杯を交わしたという。その後、この名称のもと圧政への抵抗のエネルギーを結集し、歴史に残る活躍をしていくのである。
 「ゴイセン」との蔑称を逆に誉れとして胸を張った、そこに私は気概を感ずる。何ごとにも相手をのんでいく度量が大切であろう。人に何と言われようとも悪口や侮辱など何でもない、正義の人を侮辱することは天に唾する行為であると、堂々と前進していける大きな器量と度量がなければならないと常々思う。
3  歴史を画する「ゴイセン」の結成と蜂起。しかしその戦いは熾烈を極めた。
 これに対し、スペインは翌一五六七年、アルバ公を急派。アルバ公は騒擾評議会(血の評議会)を設けて恐怖政治を展開し、エグモントをはじめ八千人に及ぶ貴族・市民を処刑した。こうした弾圧の嵐に、約十万人もの民が国外へ亡命、避難したという。
 乞食党も大打撃を受け、処刑を免れた者も大量に海外に亡命する。亡命者たちは「海乞食」と称して運動を持続。また国内に潜んだ者は「森乞食」となって教会や修道院を攻撃するなど、急進的なゲリラ活動を繰り広げた。この苦難のなかで、戦いは本格的な独立戦争の様相を帯びる。
 一五七二年、「海乞食」の一団はブリーレを占領する。さらにホラント、ゼーラント両州の諸都市を次々と占拠する。これが契機となって、以後の抵抗運動は成功裏に進展し、一五八一年、北部七州が独立を宣言した。こうしてオランダ共和国の自由が勝ち取られていったのである。
 何事も苦難をくぐり抜けずして凱歌はない。迫害にも屈せず、ついに独立への“中核”の存在となった「ゴイセン」の歴史に学ぶことはあまりにも多い。
 この「ゴイセン」の背後にあって活躍した有力な人物が、エグモントであり、オレンジ公ウィリアム等であった。エグモントは聡明で、戦場においてはまことに勇猛果敢、魅力的な人物であったようだ。スペインの圧政に対する彼の憤激は民衆の声をまさしく代弁するものであった。
4  このエグモントを、のちにゲーテが、戯曲として感動的に描いた。エグモントの死から約二百年後の一七八七年九月、ゲーテ、三十八歳の時である。
 ゲーテは、エグモントを自由と正義を愛する革命的宗教運動の盟主として描き「天下こぞって、エグモント伯爵になついてる」と、その人望のほどを表現している。
 また、戯曲の中でエグモントは「いまの瞬間を享楽することによってこそ、つぎの瞬間を確信するべきではないのか」と、いたずらな不安と臆病によって現在を無駄にする姿勢を退けている。さらに「わたしは高いところに立っているが、もっと高く登ることができるし、登らざるをえない。わたしは希望と気力を感じる。まだ成長の頂点に達してはいないのだ」(『ゲーテ全集』4、内垣啓一訳、潮出版社)とも述べている。
 こうした言葉を通して、ゲーテは「主人公の特徴をなしている。いかにもその人らしい勇気が、彼の人柄全体をささえている基礎であり、またそれが湧き出てくる基盤である」(『ゲーテ全集』10、河原忠彦・山崎章甫訳、潮出版社)とエグモントの勇気ある人格を讃えた。
 彼は、アルバ公の策略にかかって捕われ、死刑を宣告される。しかし彼は信念を曲げない。彼の恋人であったクレールヘンは、必死に彼を救おうとするがかなわず、絶望のあまり毒を飲んで命を絶つ。死刑を前にしたエグモントの獄屋に、クレールヘンの幻影が現れ、彼の正義の死を祝福する。エグモントは愛国の志士たちの流した血はむだではないとし、今、「おれは自由のために死ぬのだ」と語り、力強い足どりで刑場に向かうのである。エグモントの処刑によって戯曲は幕をおろすが、その時、彼はこう叫ぶ。「きみたちの最愛の者を救い出すためには、喜んで倒れよ、いまおれが実例を示すように」(前掲『ゲーテ全集』4)
 こうしてエグモントは胸を張って処刑に臨み、自身の烈々たる心情を言い遺す。
 ゲーテの親友であり、また歴史家でもあったドイツの劇作家・詩人のシラーは、その著『オランダ独立史』(丸山武夫訳、岩波書店)の中で、こう述べている。
 「世界史において十六世紀をもつともかがやかしい世紀となしたもつとも注目に値する国家的事件の一つは、ニーデルランデの自由の建設であると思ふ」
 そして彼は、このオランダ独立史が「庶民の強さの美しい記念」であり、一人の人間の勇気がどれほどの力を発揮し、また目覚めた民衆の力がいかに偉大なる結果を生みだすかを情熱こめて語っている。
 逆風をものともせず一人立ち上がることがどれほど至難であることか。また、その一人に心を合わせ行動することはいかに勇気のいることか。不安や不信をいだきつつも、何もしないで歴史の濁流にのまれてしまうことが多い現実をみる時、シラーが「庶民の強さの美しい記念」と称賛した胸の鼓動がひしひしと伝わってくる。
 「悪魔が栄えるために必要なことは、善良な人々が何もしないということだけだ」――今日の恐るべき核兵器時代、平和の願いをこめた第十七回パグウォッシュ会議で叫ばれた一言である。まさに新しき時代の「序曲」は、いつの世も「先駆の一人の勇気」と「民衆の結合の力」によって高らかに奏でられていく。そしてまた時代の根本的流れを見きわめるこの史観を、決して見過ごしてはならないと思う。
5  フランス革命を回天させた一婦人――ルグロ夫人の勇気の一歩
 フランス革命から二百年――。このフランス革命は、ヨーロッパ全土を揺り動かし、封建制の桎梏の時代に終焉を告げる事件であった。とともに、「自由」「平等」「友愛」の理念のもとに発せられた「人権宣言」を生みだし、今日の民主主義の源流を形づくった画期的出来事であった。なかでも歴史回天の主役として、抑圧の谷間から民衆のエネルギーが噴出したところにこの革命の重大な意義があるといってよい。このフランス革命にはさまざまな民衆のドラマがあった。
6  ラファエル・サバチニ作の『スカラムーシュ』(加島祥造訳、潮文庫)は、このフランス革命を背景にした、まさに血わき肉おどる熱血小説である。
 革命以前のフランスは、特権階級に属する一部の僧侶と貴族が君臨し、第三階級と呼ばれた平民は虐げられ、苦しめられてきた。だがしかし、その圧政も民衆の底力によって打ち破られていく。この小説の中で、サバチニが、風車に向かって突進するドン・キホーテの話を挿入している、きわめて印象的場面がある。
 決然と権力に向かって立つ主人公のアンドレ・ルイに対し、義父のケルカディウ公が、「お前、ドン・キホーテを読んだことあるだろう。彼が風車に向かって突進した時何が起こった? お前の身に起こるのはあれと同じだ」と、その行為を無謀だと揶揄して言う。しかし、アンドレは反撃して言う。
 「もし風車が強すぎるようでしたら……」「……風のほうを何とかするようにつとめてみるつもりです」
 つまり、風車は特権階級であり、風は民衆である。風車は槍では倒せないが、風が吹けば、いやでも回りだすだろう。まさにフランス革命は、民衆が巻き起こした一陣の風が風車を回しに回し、やがて全ヨーロッパに、ヒューマニズムの薫風を吹き込んでいったものといえよう。
7  歴史のコマを回天させる民衆の風――このフランス革命前夜に、名もなき一人の女性が登場する。
 ルグロ夫人――小間物商を営み、店で縫い物をしながら細々と生計を立てていたこの市井の一婦人が、フランス革命に先駆けて、かの“バスチーユの要塞”と戦い続け、ついにその重い扉を開かせているのである。
 私も若き日にこの女性について読み、まことに強い感銘を受けたことを覚えている。二十年ほど前、私は「生命の尊厳を護る者へ」と題し、詩を詠んだ。そのなかに次の一節がある。
  団結と幸福と解放と
  最も地道に もっとも迅速に
  生命の尊厳を 身をもって護るものよ
  永遠の平和と繁栄は
  いずこにあるものでもない
  あなたたちの――
  純粋な 力ある胸中にこそあるのだ
8  この時の詩想のうちには、生命の尊厳を護り、革命の序曲を奏でたこのフランス一婦人に対する尊敬の思いがあったことを、懐かしく思い起こす。
 バスチーユとは、城塞を意味する言葉で、当初はパリ防衛のための要塞であった。十七世紀のルイ十三世の時代に牢獄に転用され、反権力的な文筆家が投獄されたため、絶対王制の象徴といわれてきた。
 一七七九年、パリには、このバスチーユをはじめ、三十ほどの牢獄があり、民衆は裁判も受けずに、いつ牢獄に閉じ込められるかもしれないという状況にあった。バスチーユは、国王の“封印状”という命令書によって、勝手に逮捕できる手続きをとっており、それが封建的専断のもととなったとされる。
 こうして、無辜の民、また信仰、思想の殉教者を含めて、十七世紀中ごろよりこのころまでに実に五千人余がバスチーユ牢獄に投獄された。
 いつの時代も、民衆がしっかりしないと、権力者や為政者たちの意のままの社会がつくられてしまうといえよう。苦しみ、悲惨さを味わうのは結局、民衆である。ゆえに、どこまでも、一人一人が素晴らしき人生を生きるために、人間共和の連帯の輪を、この社会に広げゆく、地道にして着実な努力が大切となる。
 “戦争を起こしてはならない”“この地球上から「悲惨」と「不幸」をなくしていきたい”“本当に正しい人が幸せになり、悪しき人々の力を封じこめて「平和」で「安穏」な世界を築きたい”――こうした最も根本的で切実な願いを一歩でも実現していこうという民衆のエネルギーと賢明さが、複雑性をます社会のなかでしだいに失われていくとしたら、これほど危険なことはない。
 一七八九年七月十四日、フランス革命は、バスチーユ牢獄の解放から始まった。しかしフランスの大歴史家ミシュレは、その真実の功労者は、ルグロ夫人だとしている。民衆の前に絶対王制のシンボルとしてそびえ立つバスチーユの牢獄は、この一婦人のか弱い手によって倒されたというのである。
9  ミシュレの『革命の女たち』(三宅徳嘉・山上正太郎訳、河出書房)によれば――。ルグロ夫人は、平凡な日々の暮らしであった。しかし、彼女はある日、偶然に一通の手紙を拾う。それは、牢獄に囚われた一人の政治犯の手紙であった。その囚人は、二十五歳の時に政治抗争の犠牲となり、実に三十数年も獄中生活を強いられていた。
 ルグロ夫人が拾った手紙は、その囚人が、ある慈善家のもとへ届けてほしいと牢番に託していたもので、牢番が、酔っ払ってうっかり落としたものであった。
 手紙を読んだ夫人は、この見ず知らずの囚人が無実であり、専制政治の悲惨な犠牲者であることを知った。そして女性としてのやさしい憐憫の情、慈悲の心から、この無実の囚人の救出へ大いなる一歩を踏み出した。
 ミシュレは前述の書の中で、大要、次のように綴っている。
 ――当時の頽廃した社会の中にも、何かの事件にあうと同情の涙を浮かべる博愛主義者、大臣、法官、貴族はたくさんいた。にもかかわらず、そのだれ一人として行動を起こすものはいなかった。それに対し、この無名の婦人は、手紙によって悲惨な事実を知って思わずふるえた。しかし涙にはくれなかった。そして即座に行動に移ったのである――。
 人の苦しみや不幸に対して“かわいそうだ”と、哀れみの情を持つことは、だれにでもできる。しかし、そこから“どうしてあげられるか”“こうしてあげたい”と、一歩行動を起こすことのできる人はあまりにも少ない。ましてや、その行動が多くの苦難をともない、自分の立場を危うくするものであればなおさらである。人間としての偉さの基準は、いかなる状況にあろうとも、人間としての真実の道を歩みきる断固たる姿勢にあるといってよい。
 まさに、ルグロ夫人は、その苦難の一歩を踏み出した。
10  彼女の行動は実に果敢であった。社会的に何の縁故も持たぬ彼女である。みすぼらしい服をまとい、一軒一軒、門から門へと歩き続けた。あちこちの館に入り、領主の前で自分の信じるところを訴え、囚人の釈放を依頼した。彼女は真剣そのものであった。
 しかし、そうした夫人の行動に対し、親戚や世間からは非難が集中した。その囚人は彼女の情夫ではないか、等との卑しい疑いまでかけられた。正義の人に、社会は残酷であり、下劣な悪意の目を向け続けた。
 先駆の実践者に社会が非難を投げつけるのは、歴史の常である。悪意と嫉妬とエゴから事実無根の話を捏造する卑しさも変わらない。その結果、正しき人の真実が闇に葬られ、でっちあげられた物語のみが世上に流布することもあまりにも多い。そして、いつしか歴史上の事実のごとく信じられ伝えられることも少なくない。
 ルグロ夫人はやがて生業も失ってしまった。しかし、両親の死、官憲の脅迫、うち続く苦難にも彼女は、微動だにしなかった。落胆もせず、恐れもせず、ひたむきに目的に向かって進んだ。
 あらゆる人の門をたたき、あらゆる伝をたどって、彼女の奔走は続いた。ある時は、王室の侍女の援助を求めるために、七カ月の身重でありながら、パリからベルサイユへと真冬の道をたどったこともある。
 こうした数年間にわたる戦いの末、ようやくにして、国王ルイ十六世のもとまで囚人釈放の請願書が届く日がきた。しかし、王は無情だった。悲願ともいえる囚人釈放を永遠に拒否するという回答を出したのである。万事休す――。一切の努力は水泡に帰した。無残といえばあまりにも無残な回答である。
 しかしルグロ夫人は、それでも執念の戦いをやめなかった。民衆の力のみを信じようとしたのである。彼女は、専制に不満をいだいている貴族や、思いやりのある公爵妃、哲学者や裁判官等、あらゆる人々に働きかけ、世論の波を一つまた一つと起こしていった。
 まさに不退転の執念である。いかなる道にせよ、目的に向かって歩み抜くことは、現実には並大抵のことではない。“絶望”や“あきらめ”は甘美な誘惑となって、すぐ手のとどくところに横たわる。だが自己正当化の詭弁は、重ねれば重ねるほど、どうしようもない空しさしか心に残さないものである。
 ルグロ夫人は“バスチーユ”と戦い続けた。そして、ついに彼女が「最後の勝利」を得る時がきた。
 一七八四年、周囲の声に抗し切れず、とうとうルイ十六世は、かの囚人の釈放命令を下した。さらに、みだりに悪用されていた“封印状”に規制を加えるとの命が出された。難攻不落の“バスチーユ”が、一婦人の正義の訴えの前に、初めて、その扉を開いたのである。
 ルグロ夫人は、ついに、勝った。――彼女は、この後、一七八八年に世を去っている。
 したがって翌八九年、フランス革命の幕開けとなった、パリ民衆によるバスチーユの解放には当然、参加していない。しかし、このバスチーユを民衆の審判の前に引き出したのは、まさに、彼女の不屈の一念であったといってよい。
11  真実の英雄とは――ミシュレは言う。
 「英雄とはイエナの橋(=セーヌ川にかかるパリの橋)をきずいた人(=ナポレオン)ではないであろうか……。そうではない。ここにはその人よりももつと偉大で力も強くもつと生命力のある誰かがいて、その広大な土地をみたしている」(『フランス革命史』1、後藤達雄・後藤喜久雄訳、日本評論社)
 革命の地フランスに満ちる、ナポレオン以上の英雄。それは、生命の尊厳と自らの信念のために戦う「庶民の英雄」である。
 その一人、ルグロ夫人は、「正義」と「自由」に殉じ、バスチーユの鉄鎖から、一人の人間を救った。そして、不可侵であり不落であったこの牢獄に象徴される、専制政治への“あきらめ”を“勇気”に変えて、民衆のうねりを起こしたのである。
 何よりも彼女自身が“あきらめの心”との戦いの連続であったにちがいない。彼女は眼前の障害を一つまた一つと、「勇気」と「知恵」の力で乗り越え、ついに大事をなしとげたのである。
 一切の虚飾をはぎとって、一人の人間として何が残るか、これが最も大切である。彼女は社会的地位等とは無縁であった。だからこそ強かったともいえる。
 私がルグロ夫人の話にうたれるのも、彼女がどこまでも平凡な一女性であり続けながら、否むしろ、そうであったがゆえに、はからずも時代のなかに充満しつつあった民衆のエネルギー噴出への突破口を開き、歴史をも動かしていったという事実である。その彼女の出発点は無実の囚人に対する本当に女性らしいあわれみと一途なる心であり、その心をまっすぐに行動へと昇華させていった率直さである。人生における本物の強さとは見かけの姿や権力や財力、世間の権威等によるものではない。自ら立てた大目的に殉じ一切を失っても悔いがないという究極の「人間性」の強さにあるといってよい。
 赤裸々な人間性の叫びこそ、人々の「心」をつかみ、たしかな人間共和の沃野を不断に開き続ける原動力だと私は思う。
12  大衆という大知識――長谷川如是閑と吉川英治
 大衆ほど豊富な知識を持った存在はない。まことに賢明である。例えばテレビで政治家の政見放送を見ていても、“この政治家は口がうまくてもハラが黒い”とか、表面的にはどんなに美貌で華やかでも、“心が卑しく貧しい”というように、大衆は実に鋭く相対する人物の心を見抜いている。このように真実を見通す知恵と判断力を持った大衆は、別の意味からいえば、まことに恐ろしい存在と知るべきであろう。
13  明治・大正・昭和の三代にわたって活躍したジャーナリストの長谷川如是閑氏と、作家の吉川英治氏との対談で、「大衆」がいかに賢明な存在であるかについて、今でも印象に残っているやりとりがある。
 この対談の中で、吉川氏はこう語っている。(吉川英治『われ以外みなわが師』大和書房)
 「大衆っていうものは、ぼくら作家として見ると、大衆は実に大智識と思うしかありませんね」
 これに対して、長谷川氏も「それはそうなんだ。道徳でも宗教でも、大衆の採るものが一番正しいんですよ」と述べている。さらに吉川氏が「それを胡麻化したり、テクニックだけで維持することは出来ませんね。(中略)大衆は欺かれたりするものでないんです」と言うと、長谷川氏は「大衆が一番かしこいんでね。(中略)社会的生活が大衆によって保たれているということで、大衆が崩れちゃえば社会が崩れちゃう。インテリが死のうと生きようと関係はない」とまで言っている。そのゆえに吉川氏は「大衆を相手にしているんだと思うと、こわくなっちゃうんですよ。厳粛にならざるを得ないんですよ。自分の身を削らずにいられなくなっちゃうんです」と結論している。
 ここにいう大衆とは民衆というのとほぼ同義といってよいであろう。両氏には難解な内容を話し、事足れりとするような知識人の“うぬぼれ”“傲慢”は無縁である。大衆への愛情と敬虔さを欠落したときに、自身が時代に取り残されていくことを、痛いほど知悉しているといえまいか。
14  「民衆」のエネルギーと運動を考えると、私はインドのガンジーを思い起こさざるをえない。“暴力を使うな。服従するな”という非暴力不服従を貫いた「マハトマ(偉大なる魂)・ガンジー」――。タゴールが贈ったというこの名が、“インド独立の父”といった名称より心迫るものがあるのは、ガンジーが常に民衆の海の中で生き、民衆にとってまさに魂の拠りどころであったことに起因しよう。ガンジーの苛酷な、言語を絶する戦いは、魂の光をもってしか遂行しえない次元のものであったのだろう。
 晩年のK・ヤスパースは、ガンジーを讃し、次のように言っている。
 「今日われわれは、核兵器大量虐殺をいかに避けるか、という問いに直面している。ガンディーは真の答えを与えてくれた。政治そのものを超える政治的価値のみが、われわれを救済できる、と」(ラーダークリシュナン編『マハトマ・ガンディー=生誕百年祭記念論文集』所収)
 ガンジーの非暴力主義を、政治的効果の点でのみ考えるかぎり、氷山の一角をみているにすぎない。水中には何十倍の氷塊が現存するように彼の巨大な魂は、ウルチマ・ラチオ(最後通牒)としての暴力行使を事とする政治の次元をはるかに超えていた。しかも彼は、政治的現実という奔馬の鼻綱を、しかと握って離さなかった。「政治そのものを超える政治的価値」――ガンジーの政治的行動が、あのような全世界的な衝撃を及ぼしえたゆえんは、一にも二にも人類愛に燃える内面世界の横溢であったからであろう。非暴力不服従のなかにあるものは、一人から断固として発する巨大な魂が、民衆の魂へと広がりゆく壮大な図である。
15  仏法もまた民衆の大地より生まれ広まった。日蓮大聖人の有名な『立正安国論』では“国”の字の多くが、口(くにがまえ)に王の“国”ではなく、口に民の“囻”で書かれている。また、別の御書には「王は民を親とし」(一五五四㌻)とある。当時は封建社会の真っただ中であった。私は信仰してまもない青春時代、この一言が深く心に刻み込まれたことを鮮明に覚えている。
 「王は民を親とし」――ここに「王」とは現代でいえば権力者であり、社会の指導者である。指導者は本来、民衆をわが親として賢明に仕えていくべきである。これは為政者にとっても、銘記すべき重要な基本である。民衆こそ、一切を生みだす「親」であり、民衆こそ最も大切な原点である。私は常に、この一点を忘れてはならないと思ってきた。いかなる指導者、著名人よりも、いかなる栄誉の人よりも民衆が尊い。どこまでもその尊貴なる存在である民衆のなかに生き、常にそこから発し、そこから思考することである。
 長い間、ほんの一握りの権力者たちの手段とされてきた民衆。しかし、民衆を味方にしなければ何もできない時代が到来した。民衆を忘れ、民衆の支持を失った運動ほど弱く、持続性のないものはない。それでは、いつしか躍動と前進の息吹をなくし、消滅していく運命にならざるをえない。
 民衆に根差した共生と共感と共進――そこにこそ、社会の王道を悠々と進みゆく、最も正しく、確かなる永続性の歩みがある。
16  新しきヒューマニズム――『はだしのダリエ』より
 いずこの国であれ、民衆という大地に耳をそばだてて、心の扉をたたいてみれば、確かなるヒューマニズムの鼓動が必ず聞こえてくるものだ。
 一九八三年(昭和五十八年)、初夏の美しい花と緑の樹々に包まれたルーマニアを初めて訪問した私は、数人の詩人・作家グループとの語らいのひとときを持った。その折、もし健在であれば値遇を得たであろうにと残念に思ったのが、作家の故ザハリア・スタンク氏である。
 氏の代表作『はだしのダリエ』(直野敦訳、恒文社)は、日本でも読まれている作品である。そこには圧政にもかかわらず、貧しいなかにあって、来る日も来る日も逞しくも明るく生きぬく農民たちの姿が、生き生きとまことに感動的に描かれている。
 その中に、ことのほか私の印象に残っている一つのシーンがある。
 舞台は、ドナウ川の手前側のブルガリアとの国境付近のようである。必然的にダリエの村の人々とブルガリア人との付き合いは、ごく日常的なものであった。川を渡り、春には種を、秋には野菜を売りにくる彼らとは、土の匂いのする友情で結ばれていた。
 ところが、ブルガリアとトルコの戦争が起こり、彼らがぷっつりとダリエの村に姿を見せなくなった。そのうち、消息が伝わり、イヴァン、ストイヤン、ヴェルチウ、アントン……と、親しい名前が次々と戦場に消えていった。それどころか、今度は村人たちが、ブルガリア人と戦わなければならなくなった。ある日、広場に集められ、憲兵からそのことを聞かされた時、人々は口々にささやきはじめた。
 「ブルガリア人と戦争するんだと?」
 「おれたちゃ、ブルガリア人にどんなうらみがあるんだい? 友達だったじゃねえか。イヴァンも、ストイヤンも死んでよかったなあ。生きてりゃ、あいつらと戦場で顔を合わせるところだったぜ。こんな恥ずかしいことがあるもんか。おれたちゃ、お互いになぐりあい、射ち合わにゃならなかっただろうよ……」
 何と美しく、何と温かな人間性のほとばしりであろうか。きっと彼らは無学であったにちがいない。しかし、無学ゆえに、歪められた民族的偏見や敵意とは無縁であった。生活の大地にしっかりと根を張り、ルーマニア人であるとブルガリア人であるとを問わず、人々の心の奥深く潜んでいる人間性の美質、魂部分をひときわ鮮やかに体現している。私は、別に無学を奨励するつもりはない。しかし、あらゆる知識や学問はそうした民衆のみずみずしい生活感覚に奉仕していくべきものであるという一点だけは、断じて忘れてはならないと思っている。
 まことに優れた文学作品というものは、民衆の心のひだ一本一本を鋭く写しとり、万人の心を揺り動かしてやまない普遍的なかたちを与えていく。スタンク氏が見事に描き出したように、民衆の心、広く人間の心というものは、余計な粉飾物を取り払ってしまえば、想像以上に平和主義者であり、コスモポリタンといえるであろう。
17  ひるがえって日本の民衆に関するエピソードがある。日本と帝政ロシアが戦争を始めた一九〇四年ごろの話であり、『はだしのダリエ』の舞台と同時期である。
 ある時、日本軍の連隊本部にロシアの将校一名と兵隊一名が捕われてきた。初めての捕虜であった。そこで、一人の中隊長が兵隊たちを集めて「捕虜見学を希望するもの手を挙げよ」といったところ、手を挙げた者、手を挙げない者、ほぼ半々であった。そこで中隊長は、見学をしない者一人一人に、その理由を聞いていった。すると一人の兵隊が、こう答えた、というのである。
 「自分は在郷のときは職人であります、軍服を着たからは日本の武士であります、何処のどういう人か知りませぬが、敵ながら武士であるものが運拙く捕虜となって彼方此方と引廻され、見世物にされること、さだめて残念至極でありましょうと察せられ、気の毒で耐りませんから自分は見学にいって捕虜を辱しめたくありません」
 中隊長は、この意見を聞いて非常に喜び、見学を希望していた者も次々にこれに賛同して、ついに捕虜見学は中止されたというのである。
 これは、作家の長谷川伸氏が『日本捕虜志(上)』(中公文庫)に書き残している史実であるが、戦争の渦中の出来事だけに、とりわけ心洗われるようなエピソードである。こうした人間性の美質をかたどった発想が、職人という名もない民衆の心から生まれ、またたくまに全中隊を制していったということが、まことに尊く思えてならない。
 彼は、絶対に戦争などしたくなかったと思う。一日一日の職人としての仕事が一番尊く、また誇りに思っていたにちがいない。しかし、やむなく戦場に臨んでも、人間であることの誇りだけは失いたくなかった。ロシアの捕虜を「何処のどういう人か知りませぬが……」といとおしむ言葉には、彼らもまた異国にあって、家族を持ち、働き者の生活人であるにちがいない、といった同情に満ちている。
 それはまた、ダリエの村の人々の思いにも似て、生活の匂いのする民衆の心というものを伝えて余りある。二つの事例が、ともに「恥辱」について語っている点は注目に値する。ブルガリア人の友だちと殺し合いをするのを「恥ずかしい」と思う心、ロシア人の捕虜を「辱めたくない」と思う心――その二つの心は、遠く離れて、いまだ見も知らぬ異邦人であっても、必ずやどこかで手と手を取り合っていることであろう。
 「課題は足もとにあり」――洋の東西を問わず、新しいヒューマニズムは、観念やスローガンではなく、こうした民衆の心の土壌の上にこそ、絢爛と花開き、それが平和への確かな歩みとなっていくにちがいない。
18  哲学不在の時代――ホイジンガの指摘
 現代は、情報化の時代である。いながらにして世界の情報が入ってくる反面、かえって氾濫する情報のなかで、真実を見きわめることがむずかしい状況もある。テレビなどのマスコミに登場しさえすれば“われ偉し”との錯覚をいだきがちであるし、人々もあこがれを持つ。現代社会は華やかであればあるほど、つくられた虚像を実像と見まがう危険性をはらんでいるといってよい。
 しかも、時代はますます巨大化し、高度情報化社会、複雑化の社会へと進んでいる。“豊かな社会”“中流意識”などという漠然としたイメージを無批判に受け入れてしまえば、知らずしらずのうちに、軽佻浮薄の潮流に押し流されてしまうことは必至であろう。かつてヨハン・ホイジンガは、大衆社会化状況のなかで、人間の思考力・判断力が、全般的に衰弱し、幼稚化する傾向のあることを鋭く見抜き「自分の判断力の程度より以下の幼稚な行動をする共同体の態度を、幼稚性と呼びたいと思う。すなわち、そのような共同体は、子供を大人に育てることもせずに、それ自身の態度を少年時代のそれに近づけている」「私たちの社会生活は、『判断力の弱まり』という標題のもとに最もよく総括される憂慮すべき症状を示している」(『あしたの蔭りの中で』藤縄千艸訳、河出書房新社)と指摘した。五十年も前のことでありながら、ファシズムの暗雲がたれこめ、全体のなかに個が埋没する危険性をも鋭敏にとらえつつ展開したこの言葉は、あまりにも的確に現代社会をも照射している。現代は次々と流れる情報を追い、新奇さを求める状況追随のなかで、自己の存在を確認できない時代となりつつある。それはまた、人間の生きることの中身を不断に空洞化させていく時代ともいえるであろう。このような大衆社会においてはどこまでも確かな座標軸を持ち、実像の世界を見失わないことこそ大切である。
 現代を、一言をもっていうならば「哲学不在の時代」といってよい。今日の世界的行き詰まりは、それぞれの人に、民族に、そして国に、哲学がなくなってしまったことに根本的な原因があるといえよう。過去には、ソクラテス、アリストテレス、デカルト、カント、ヘーゲル、マルクス等々の幾多の思想・哲学が、それなりに息づいていた。また多くの宗教の聖者といわれる存在がそれぞれ時代に息づいていた。だが今、文明の急速の進歩と裏腹に、肝心の哲学はいずれもその力を失っていると言わざるをえない。
 時代・社会に哲学がないということは、その時代が不幸な証左でもある。なぜなら、哲学なき人は、人生の深き価値を見いだしえない。不安定な、価値基準なき漠たる時空が広がっていくだけである。そこには怠惰が生じ、堕落が始まる。安逸と享楽に沈んでしまう。反対に、深き哲学を持った人は、深き人生の味わいを知る。また深き哲学は、時とともに多くの人々の心奥深く、鋭く光線を放っていくものだ。相対的な価値の高さのみを追いがちな現代社会――そこで大事なのは、自分の内に価値を築き上げる確かな哲学を持つことであろう。
19  私の恩師戸田先生は数学者であったが、いわゆる万般の道理に通じた大学者でもあったと私は思っている。しかも恩師は、稀有の仏法の実践者であった。先生の場合、思索即実践であった。いや、実践がそのまま人生への深き思索となっていたといえるかもしれない。この偉大な人生の師を持ちえたことが私の最大の誇りである。
 恩師はある時、「哲学」について、まことに平易な譬えを引いて話された。「いちばんやさしい哲学は、水戸光圀(黄門)の漫遊記の中にある。光圀が田舎でおばあさんに水をくれといって、米俵に腰をかけた。するとおばあさんが、『これは水戸様に出す米だ、尻の下に敷くとは何事か』といって怒った。光圀は頭を下げて謝った。聞けばこっけいな話であるが、おばあさんには、学は無くても一つの信念があり、自分の生業への誇りがあり、哲学がある」――。そして、「だれがなんといっても、これだけはどうしようもないもの、これが哲学である。これを持った人は強い」と。
 もとよりこのエピソードは封建時代の話であり、その事実自体を論ずるものではない。しかし、それは、いかなる時代にあっても、人間がそれなくして生きることができず、社会にとっても不可欠な、確固たる「価値観」「秩序感覚」が重要であることを浮き彫りにしている。
 本当の「哲学」とは、民衆の生活実感に根差した、まさしくそうしたものなのだと思う。たとえ、いかに抽象化された高度な理論体系を持っていても、「哲学」の名に値する哲学は、必ず、そうした民衆という土壌から養分を吸い上げ、枝葉を茂らせ、花を咲かせていくものでなければならない。ゆえに「哲学不在の時代」であればあるほど、民衆の心の奥深くにたたえられている豊かなる人間性や、“力”に抗する情念、さらにはその現実感覚などの思想的豊饒さを見据えていかなければならないであろう。大衆社会、情報化社会でのリーダーシップとは、それができうるか否かの一点にかかっているといってよい。
20  民衆の原像――中国民族と現実直視の思想
 日本の著名な中国文学者であった吉川幸次郎博士が『東洋におけるヒューマニズム』(講談社学術文庫)の中で、中国文明を「神様のいない文明」と名づけた。たしかに中国文明のどこを探してみても、キリスト教やイスラム教のような神の存在は見当たらない。同じアジアでも、日本やインドでは、古来、神話のたぐいが数多く語り継がれてきたが、中国では、孔子の「怪力乱神を語らず」との言葉に象徴されるように、おそらく世界で最も早く、神話と訣別した国である。「神様のいない文明」とは、まことに言い得て妙であると思う。
 ところで、そうした中国文明は、人々の人間観や世界観に、どのような特徴をもたらしたのであろうか。浅学を省みずに言えば、私は「個別を通して普遍を見る」という言葉に要約できるのではないかと思う。
 一例を挙げれば、司馬遷は『史記』の「列伝」の初めの件で「天道はえこひいきなく、常に善人に味方する」との説を駁し、善人が滅び悪人が栄える歴史的事実を挙げたあと、次のような有名な問いを発している。
 「わたしははなはだ思い惑う――いわゆる天道は是なのか、非なのか、と」(野口定男訳、『中国古典文学大系』11所収、平凡社)
 この問いは、日本でもよく知られているところである。私は、いわゆる「天道」なるものについて言及しようとは思わない。たしかにそこには、儒教や道教の影響もあるだろうし、現代からみれば、封建的残滓も数多く発見されるであろう。しかし私は、同時にそこには、当時の人々がいだいていた、普遍性への希求ともいうべきものがうかがえると思うのである。
 もっとも人間と自然を貫く、ある種の普遍的な法則性を見いだそうとする願望は、中国民族にかぎらず人間社会の変わらぬあり方であったともいえる。私がさらに注目するのは、司馬遷の問いにおいては、「天道」という普遍的な法則性が「是なのか非なのか」という個別の次元で鋭く提起されている点である。
 司馬遷は“李陵の禍”に連なって身を“宮刑”に処せられている。その無念の思いを込めて書きつづったのが『史記』であることも周知の事実である。“李陵の禍”そして“宮刑”は、司馬遷という一個の人間にふりかかった痛ましい運命であり、その意味で、事の是非、善悪をたださねばならぬ、際立って個別的な事件であった。すなわち彼は「天道」をそれ自体として問おうとしているのではなく、わが身の悲劇という個別性の上に立ち現れた「天道」の是非をただそうとしている。「個別を通して普遍を見る」とは、まさにその意味からである。
21  これに対し「神のいる文明」、例えばヨーロッパ諸民族の場合などは、中国とは逆に、神という「普遍を通して個別を見る」傾向が支配的であったと思う。神は人間の手の届かぬところからこの世を支配しており、人間のできることといえば、その絶対普遍の神の摂理を、どうこの世に実現するかという神の側から人間の側への一方的な流れだけである。司馬遷のように、人間の側から「天道」を問うことなど、一切許されない。ヨーロッパの歴史で司馬遷の問いかけが現れるのは、たかだか、“神の死”が宣告された十九世紀末からである。
 したがってヨーロッパの場合、人間や自然をとらえるさい、どうしても神というプリズムを通して見てしまう。そのプリズムは、彼らにとっては普遍的かもしれないが結果は侵略的、排外的な植民地主義が、神のベールをかぶって横行してしまうのである。
 「個別を通して普遍を見る」という形で要約した、中国民族の伝統には、明らかにそれとは違った人間観、世界観がはらまれているように思う。
 それは、ある種のプリズムを通して物事を見るのではなく、現実そのものに目を向け、そこから普遍的な法則性を探り出そうとする姿勢である。英国の歴史家トインビー博士は、晩年、中国が世界史の今後の軸になるだろうとの予感を持っていた。博士はその最大の理由として“長い中国史の流れのなかで中国民族が身につけてきた世界精神”を挙げている。キリスト教にはきわめて批判的な博士は、中国史に蓄積されてきた精神的遺産のなかに、侵略的色彩の濃いヨーロッパの普遍主義とは違った、ある種の世界精神の萌芽を感じ取っていたにちがいないと思うのである。
22  現実そのものを直視し、そこから現実を再構成していく精神のあり方――魯迅の澄んだ目に私が感ずるのも、民族の原質を見つめる鋭い視線である。一切のプリズムを排し、現実そのものを凝視しようとする彼は、人間を論ずる場合も、粉飾の覆いをはぎとって民衆の原像に迫る。とくに人間が人間を抹殺して恥じない「食人」をテーマにした『狂人日記』(竹内好訳、岩波文庫)の末尾、「人間を食ったことのない子どもは、まだいるかしらん。子どもを救え……」の痛苦の叫びは、切り裂くような倫理感覚で読者の胸を突き刺す。
 また、最下層の貧農を扱った『阿Q正伝』(同前)で「しかしながら、われらの阿Qは、そんな弱虫ではない。彼は永遠に得意である。これまた、中国の精神文明が世界に冠絶する証拠の一つであるかもしれない」との簡潔な描写に接するとき、愚鈍ななかにもしぶとく生きる雑草のように逞しい民衆の原像が、鮮やかに浮かび上がってくる。それは私の脳裏に、かつてパリの不良少年の心奥に「パリーの空気のうちにある観念から生ずる、一種の非腐敗性」(『レ・ミゼラブル』豊島与志雄訳、岩波文庫)を見いだした、かのビクトル・ユゴーの目を思い出させるのである。
 魯迅の文学運動は、必ずしも功を奏したとはいえないであろう。しかし、彼が生涯の課題としたものは、新中国においても、確実に受け継がれていると、私は信じている。かつて私がお会いした作家の巴金氏は「敵と戦うために文章を書いた」と明言し、私は大変に感銘を受けた。そして巴金氏は「私の敵は何か。あらゆる古い伝統観念、社会の進歩と人間性の伸長を妨げる一切の不合理の制度、愛を打ち砕くすべてのもの」と述べておられた。私は巴金氏の風貌に、魯迅と共通する、民衆と共に戦う“戦士”のおもかげを見たのである。さらに言えば「人民に奉仕する」「人民に服務する」というスローガンが、戦後の中国で一貫して掲げ続けられている事実に、私はひそかに刮目している一人である。そこに、歴史を切り開く、新たなる民衆像の胎動が予感されたからにほかならない。
 中国の科学史の研究に巨大な足跡を残したジョセフ・ニーダムは、大著『中国の科学と文明』(思索社)の序文で「今われわれはすべての人種の働く人びとを普遍的で協同的な共同体に結び付ける、ひとつの新しい普遍主義(Universalism)の夜明けにいる」(脇本繁訳)と述べている。
 その「新しい普遍主義」の主役こそ、新たな民衆、庶民群像でなければならないであろう。そして、中国の長大なる歴史と現実の歩みは、そうした未来を開拓しゆく、計り知れぬほどのエネルギーを秘めていると私は思う。
23  庶民の大地に根差す――前漢の宣帝にみる善政
 中国・前漢の時代、「中興の治」と讃えられたのは、宣帝である。彼は祖父が事実無根の謀反の罪に問われたため、生後数カ月にして、祖父に連座した。しかし辛うじて殺害だけは免れ、「庶民」として育った。その後、皇帝が思いがけず死んだり、人を得なかったりして、結局、武帝の曽孫である彼が帝位につくことになった。庶民の生活を肌で知り、生活の知恵を身につけていただけに宣帝の政治は異彩を放つものとなった。彼は形式主義や虚飾を憎んだ。また知識階級の儒者たちが、いたずらに伝統を振りかざしたり、庶民の現実生活に無縁の理論をもてあそぶことを大いに嫌った。
 ある時、豊かに育った苦労知らずの皇太子が、観念的に儒者の登用を訴えたのに対し、宣帝は顔色を変えて断固退ける。『十八史略』(林秀一著、明治書院)では次のように言っている。
 「俗儒は時宜に達せずして、好んで、古を是とし今を非とし、人をして名実に眩して守る所を知らざらしむ。何ぞ委任するに足らんや」
 形式に堕し、現実を踏まえることなく、ただ古法の復活を願うような儒者を厳しく退けたのである。
 作家の陳舜臣氏は『小説十八史略』(毎日新聞社)の中で、宣帝が例えば食事の作法についても、儒者のとなえる古法の復活を形式主義として批判したことに触れ「『そんなもので飯が食えるか』宮廷のものものしい礼儀作法については、宣帝はそんなふうに冷笑した。飢えの恐怖におののきながら、額に汗して働く庶民のなかにいた彼にとって、何遍頭を下げ、膝をどこまで屈めるとか、左手を上にするとか、吉拝と凶拝はどう違うかといったことは、ばかばかしくてならなかった」と描いている。
 そして「礼儀作法の指南番に高禄を与えるなど、宣帝にとっては、国費の無駄使いとしか思えなかった」とし、現実から遊離した彼らの空言を聞くたびに、皇帝はいらだち「かつて自分のまわりに漂っていた庶民の汗のにおいを思い出す」と描写している。民衆の悩みや苦しみのなかで呼吸し、人間の生きるという現実を知悉していた彼にとって、儒者の空言は腹立たしかったようである。
 宣帝は飢えに苦しむ貧民の救済を積極的にはかるなど善政をしいた。世に言う「常平倉」の設置もその一つである。また『十八史略』(前掲)に「刺史・守・相を拝するとき、輒ち親しく見て問ふ」とあるように、民衆にじかに接する地方官を任命するにあたっては、自ら面接し、質問を発したという。庶民に接するそうした地方の中心者が立派でなければ民は安心できないとの考えに、貫かれていたのである。
 甘やかされた特権階級であったり、「庶民の味」「庶民の心」のわからぬリーダーでは、民衆とともに歩むことはできない。庶民性豊かな、だれもがほっとする指導者の存在が、どれほど大きな力を生むか、計り知れない。
 漢王朝歴代皇帝のなかで、宣帝は名君と讃えられている。一つ一つの政策が民衆の心をしっかりとつかんだ。庶民の生活を経験したことが具体的に生かされていった。そしてまた、辛苦によって鍛えられた逞しさを明確に備えてもいた。その苦労が民衆という確固たる思想的基軸を体に刻みつけるとともに、したたかな現実感覚を血肉化していったといえよう。
24  畜生道の地球――桐生悠々の信念
 長野に、かつて一人の信念の言論人がいた。「信濃毎日新聞」の主筆であった、有名な桐生悠々である。彼は、“戦争とジャーナリズム”を論じるさいに、しばしば取り上げられる人物でもある。
 彼は信州の風土について、こう述べている。
 「(=元来)信州は言論の国であった。信州人は人の知る如く理智に富んだ、極めて聡明な民だから、この民の棲んでいる信州が言論の国であるに不思議はない。従って信州は私たち言論者即ち論説記者に取っては、殆ど理想的の国であった」(太田雅夫編『桐生悠々自伝』現代ジャーナリズム出版会)
 この指摘のとおり、信州・長野は、聡明で自立心の強い県民性のようである。芯が強く、根性がある。どこかイギリス人的なものを思わせる性格でもあるようだ。「言論の国」と呼ばれるこの風土にあって正義のペンの歴史を刻んできたわけである。
 昭和八年(一九三三年)のこと、八月九日から三日間、東京を中心に関東地方で防空大演習が行われた。そのただなかの八月十一日、桐生主筆は「関東防空大演習を嗤ふ」という社説を書いたのである。
 その趣旨は、要するに、“敵機が日本上空に出現する前にこそ撃退すべきである。その一点を看過し、まして空襲にそなえて防空演習をしても、意味がない”という、しごくもっともな正論であった。
 しかし、この社説が軍部権力の怒りをかい、桐生は退社を余儀なくされたのである。是は是とし、非は非として主張する自由すらも弾圧したわけである。まことに、傲れる権力ほど怖いものはない。
 退職後、彼は名古屋に移り、月刊個人誌『他山の石』を発刊する。ここでも権力への容赦なきペンゆえに発禁に次ぐ発禁となる。しかし、彼は死ぬまで軍部批判の筆を休めなかった。彼はこう言っている。
 「私は言いたいことを言っているのではない。徒に言いたいことを言って、快を貪っているのではない。言わねばならないことを、国民として、特に、この非常に際して、しかも国家の将来に対して、真正なる愛国者の一人として、同時に人類として言わねばならないことを言っているのだ。言いたいことを、出放題に言っていれば、愉快に相違ない。だが、言わねばならないことを言うのは、愉快ではなくて、苦痛である」「そして、これがために、私は終に、私の生活権を奪われたのであった」(同前)
 こうして彼は、当時は迫害され国賊扱いされたが、今では“抵抗の新聞人”の鑑として、歴史に名を輝かせている。
 彼は当時の世界を「畜生道の地球」と表現しているが、それは現代も少しも変わっていないといってよいであろう。この言葉にも表れている鋭い識見と、権力との戦いを辞さない勇気は、今も多くの人々に感銘を与えずにおかない。彼は“だれのために”また“何のために”書くのかというジャーナリズムの根本的命題に対する答えを、生涯の行動のうえに示したのである。
 ジャーナリズムは“だれのためにあるのか”――あくまでも民衆のためである。“何のために書くのか”――庶民の味方となるためである。この言論の原点を忘れたジャーナリズムは、必然的に堕落せざるをえない。
 権力を恐れ、その悪を本気で糾明することもなく、迎合に努めるジャーナリズムは、ますます権力の横暴を肥大させ、そのためにいよいよ権力を恐れるようになる。この悪循環の構図が日本の将来を危うくすることを私は強く危惧する。
 ともあれ、“ジャーナリズムの本道”の先駆者ともいうべき桐生悠々の足跡は、現代にも、否、現代にこそ、鋭い問いを投げかけていると思う。
25  宗教裁判の悲惨――ケプラーの母と“魔女狩り”
 迫害ということを考えるとブルーノやガリレイらと同じく、悪しき宗教の権威と戦った一人であるヨハネス・ケプラーを思い起こす。
 ケプラーは、ドイツの天文学者で、太陽系惑星の運動について「ケプラーの法則」を発見した人である。近代天文学の創設者の一人とされ、この「ケプラーの法則」が発見されなければ、あのニュートンの「万有引力の法則」も発見されなかったであろうとさえいわれている。
 ケプラーは、デンマークの天文学者ティコ・ブラーエを師とした。彼は、まず仮定を立ててそれから結論を導くという当時の研究方法だけに依拠するのではなく、ブラーエが十七年間にわたる天文観測で蓄積した観測データを分析することにより、惑星の運動に関する法則を発見したのである。現代のように電算機がある時代ではない。発見にいたるまで十年でも二十年でも苦労をいとわず、丹念に計算を繰り返した情熱と執念の人であった。
 彼がブラーエの弟子となり、その観測データにめぐりあわなければケプラーの発見はなかったとされる。その意味で、彼の発見は、師弟による労作業であったといってよい。
 ケプラーの活躍した十七世紀前半は、近代科学の建設期であるとともに“魔女狩り”が頂点に達した時期でもあった。
 不幸にもケプラーの母も“魔女”として告発される。彼の兄弟や親族は、世間体を恐れてかこの母を見捨ててしまう。彼女はいろいろと言われたり、多少の問題もあったような記録もあるが、それはそれとして、ケプラーは断固たる決意で母を救い出すための戦いを貫き、ついに成功する。このように“魔女”と告発された人を救い出せたことは、魔女裁判史上、きわめてまれなことといわれている。
26  アーサー・ケストラーの『ヨハネス・ケプラー』(小尾信弥・木村博訳、河出書房新社)に紹介されているが、この時のケプラーの母に対する裁判では四十九項目以上にわたる罪状が挙げられており、そのなかには、ケプラーの母が、聖書の言葉を聞いても涙を流さなかった、ということまで含まれていたという。このことは「泣き試験」といわれ、魔女裁判における有力な証拠の一つとされたのである。まことに狂気としかいいようのない出来事である。
 七十三歳の老齢で鎖につながれていた哀れな母を救い出すため、ケプラーは勇気をもって立ち上がった。彼は、母親の迫害者たちこそ「悪魔」にそそのかされているのだと言いきった。それは、共に戦ってくれる友人もおらず、また人受けのよくない「孤独」な戦いであった。ケプラーは、母を弁護するため、百二十八ページにわたる弁論をほとんど一人の手で書き上げたという――。
 また、彼の母も、死を覚悟して“魔女である”と自白することを拒否しぬいた。子どもも偉かったが、母も偉かった。こうして、一年以上もの拘禁から母はついに釈放された。辛苦の戦いであった。しかし、半年後、彼女は亡くなってしまう。
 ケプラーは、この憤激を胸に、歴史的な「惑星の第三法則」(惑星の公転周期の二乗は太陽からの平均距離の三乗に比例する)を世界に発表する。そして、また母とともに月旅行をする物語『夢』を完成した。この物語は、太陽中心の地動説に基づいたもので、彼はこの書を完成させ、悪意ある人への、反撃としたのである。(ヨハネス・ケプラー『ケプラーの夢』渡辺正雄・榎本恵美子訳、講談社学術文庫)
27  ペルーの首都リマを訪れたさい、キリスト教の残酷な歴史を象徴する、かつての宗教裁判所に行ったことがある。現在は、その暗黒史をとどめる博物館となっている。
 ヨーロッパ各地にも、宗教裁判所はあったが、このように今日まで残されているのはきわめてまれである。法廷の天井彫刻や牢獄等が往時のまま残されており、多くの犠牲者を生んだ悲惨な歴史が生々しく伝えられていた。
 一九七九年にリマで発行された『宗教裁判所』(セバージョス著)には、次のようにある。
 「この博物館は、真実の苦悶に満ちた二百五十年余にわたる過ぎし時代を再現させ、“言語に絶する受難”の日々を今に語り伝えている。この地で、人々は、犯してもいない無実の罪で告発され、気味の悪い通路でつながった地下の洞穴に山積みにされ、生きたまま埋められていった。囚われた人々は、苛酷な拷問ののち、おそらくこの世にやって来たことすら呪いながら、最後の長い日々をすごさなければならなかったのである」――。
 この宗教裁判所が生まれたのは、一五七〇年。スペイン王の命により、リマの中央教会で発足し、一五八四年には、現在のボリバル広場に、正式に設置された。
 これに先立ち、スペイン人のピサロが、一五三一年にペルー北部に侵入、次々と征服を始めた。このころ、早くも裁判官の資格を持ったスペインの宗教裁判所の使節がペルーに上陸し、正式に裁判所がおかれる前に、何度か宗教裁判が行われていた。
 リマの宗教裁判所が完全廃止になるのが一八二〇年。この裁判所は、なんと二百五十年間も、民衆を苦しめ続けた。廃止の報を知ったリマの人々は、大挙して裁判所を襲い、建物や設備を破壊した。それほどまでに、民衆の心に、怨念ともいうべき怒りが鬱積していたのであろう。
28  宗教的な弾圧の歴史は、各所に数多く見られるが、「宗教裁判」といえば、キリスト教の場合を指すことが多いようだ。これは、いわゆるカトリックの正統教義に反した異端者並びに他宗の者に改宗を迫る審問制度のことで、とくに、中世半ばから近世にかけて、ヨーロッパとラテン・アメリカで、広く行われた。それは、まさに、残虐な拷問と処刑の歴史である。宗教裁判の元来の目的は、カトリックの純粋性を維持し、改宗を迫ることにあったらしい。しかし現実には、異端者の取り締まりと処刑に、眼目がおかれた。
 セバージョスは「リマの宗教裁判所の機構は、裁判長のもとに二人の裁判官、そして弁護士、諮問官、審査官、出版物の検閲官等、最低七十一人の人々から成り、一種の法廷形式をとっていた。しかし、実際には、刑法がなかったため、裁判官の自由意志により、すべてが決定された」と述べている。裁判で、容疑者の無実を弁明することは、自らも異端の嫌疑をかけられるために、被疑者に有利な証人は、なかなか現れなかったという。法定弁護人でさえ、現実には、容疑者から自白を引き出す説得者にすぎなかったらしい。それほど、裁判官には、絶大な権限が与えられていたわけである。
 リマの宗教裁判所には、二百五十年間に、四十二人の裁判官が、スペイン本国から派遣されている。彼らはいわば当時の最高権力を背景とした、エリート中のエリートであった。しかし、民衆からは、“あの世から来た食人鬼”と言われ、恐れられていた。
 セバージョスの著書にも、
 「最も卑劣なことは、数々の残虐行為が、選ばれた学識のある人々によって行われたという事実である。彼等は、自らの残虐行為に無関心であるどころか、逆に、自分自身の行為が残虐であるということを認めることからは身をそらし、そればかりか行為の遂行に専従する人々の特定集団すら構成していたのである。これらの専従職者たちは、大きな庭園とその歌声が心弾ませる鳥篭に囲まれて生活していたけれども、悲運の深淵に突き落とされていくあの苦悶の民の嘆きの声からは隔離されていたのである」とある。
29  また残虐な判決を繰り返した裁判官たちの心理を、よく表した次のような判決文がある。
 「囚人を有罪と決定し、拷問の刑に処する。拷問は、すでに告発され証拠立てられていることを囚人が真実であると告白するために、我々が必要とみなす間、命令し継続するものとする。この拷問の結果、たとえ囚人が死に至ろうとも、……流血をしようとも、手足がもぎとられようとも、真実を告白することを拒絶した囚人によるものであり、責任はすべて本人にあり、我々のくみするところではない」
 何という欺瞞の言葉であろうか。“真実を述べる”どころか、被疑者の多くが無実の民だったのではあるまいか。宗教の権威をかさにきて民衆を抑圧する尊大な権力者たちに、私は、深い怒りを禁じえない。
 宗教裁判には、見せしめの要素も強かった。裁判には、裁判官のもと、町の主だった要人が、すべて出席した。セバージョスは紳士、淑女は、盛装での出席を義務づけられ、それは、当時の教会と政治の権威に対する忠誠の証でもあった、と指摘している。そして、盛装した有力者たちは“罪人”を引き回しながら、中央広場からの通りを練り歩いたといわれる。その後“罪人”たちは、十字架にかけられ、処刑された。被告は、一種の見せ物的なさらしものにもなっており、面白半分のうわさ話の種にもなっていた――。
 いかに“罪人”といわれても、苦しみ、死にゆく人の姿を面白がり、興ずる風潮は、正常な人間の心ではない。
 宗教裁判の犠牲者は、ペルーだけで五十万人といわれる。全世界では、どれだけの人が非業の死を遂げたのであろうか。そのなかには、素晴らしき人格者もいたであろう。また才能ある人、正義の人も、数多くいたにちがいない。そうした人々も、すべて、恐ろしき死の淵へ、いやおうなく追いやられた。まことに、戦慄すべき歴史である。
 こうしたペルーなどラテン・アメリカの宗教裁判の前史として、中世に始まるヨーロッパの宗教裁判がある。
 総じて、中世ヨーロッパは国王の「王権」と教会の「教権」とが併存し、社会機構と宗教が表裏一体をなしていた。そして宗教裁判においても、王権と教権の利害が複雑に絡み合い、また、そのなかに人間の抑えきれぬ欲望がうごめいて、陰惨な殺戮の歴史を綴った。民衆の苦しみをよそに、教会自身は、富と権威、そして現世の権力への醜い貪欲を満たしていた。本来、個人の良心の尊重と、愛と寛容を説くキリスト教のはずである。その教会によって、幾百万にものぼる民衆の血が流された。これは否定しえぬ歴史的事実である。その相手も異教徒ばかりではない。れっきとしたキリスト教徒に対しても、教会の教義を批判した人間は、徹底して弾圧され、しばしば火あぶりや絞殺なども行われた。その教訓は重い。もちろん過去の話であり、現代の教会はまったく様相が異なっている。しかし、そのうえで、キリスト教のこうした長い暗黒の歴史をみる時、かつて、トインビー博士が、厳しくその偏狭さを批判されていたことを思い出さざるをえない。
30  これまで幾多の宗教が、絶大なる権威をかさにきて、民衆を抑圧し、しいたげてきたことか。本来、民衆のためにあるはずの宗教が、いつしか民衆を迫害する側に回る。この恐ろしい歴史の構図を断じて忘れてはならない。
 例えば日本の江戸時代にも宗教弾圧があった。仏教界においては、多くの場合、信徒が強い信仰心を起こして布教し、捕えられるというケースである。
 その場合、本来、信徒を守り、信仰の純粋性を守るべき寺院は、累が及ぶのを恐れて“信徒が勝手に行った布教であり、寺院の責任ではない”と弁明することさえあったという。法を流布するのが宗教者の使命である。にもかかわらず布教にともなう迫害を、信徒にのみ押しつけて、平然としている。
 あまりにも卑劣な姿であり、いつの時代も、犠牲になるのは民衆である。その悲惨の歴史を転換していかなくてはならない。そのために最も必要とされるのは、集団の狂気にからめとられようとする人間心理の陥穽を鋭く撃つ、一人の勇気ある信念の行動と、目覚めた民衆の連帯の力であると私は思う。ともあれ目覚めた民衆こそ歴史創出の主役である。時代はその“時”に入っていることを深く自覚すべきであろう。
31  民衆こそ仏法の大地――インド仏教衰亡の因
 民衆ほど大切なものはない。民衆の大地から離れて栄え続けたものもない。
 インド仏教衰亡の原因は、さまざまに論じられるが、大別すれば、外的要因としての「イスラム教徒の侵入」また「ヒンドゥー教との妥協」が挙げられる。しかし、最も顕著にして、重要なのは、内的要因としての「民衆との遊離」である。これは、多くの学者の一致した見解である。
 仏教も本来、民衆のために、民衆のなかで説かれ、広がった。釈尊は庶民の哀歓のひだにふれつつ、人生の苦との対決のなかから、珠玉のごとき教えを遺していった。
 ある仏教学者によると「釈尊は仏教を説かなかった」という極端な説もあるほどである。もちろん釈尊が仏教を説いたのは当然であるが、この一見矛盾する言葉も、ある意味で含蓄に富んだ言葉であるといってよい。釈尊が説いたという八万法蔵という膨大な教説と聞くと、精密に体系だてられた教理を思い浮かべ、釈尊もそのカリキュラムにそって、説法したかのように受け取りがちである。しかし釈尊の説法は、貧苦にあえぐ庶民への激励であり、病に苦しむ老婦人を背に負わんばかりの同苦の言葉であり、精神の悩みの深淵に沈む青年への温かな激励の教えであった。差別に悩み、カースト制度に苦しむ大衆の側に立った火のような言々句々が、その一生の教化を終えてみれば、八万法蔵として残っていたということであろう。それは、経文が徹底して問答形式で説かれていることに、象徴的に表れている。民衆との対話、行動のなかに釈尊の悟りの法門がほとばしりでていったのであり、それが経典としてまとめられていったのである。
 仏教ときけば、山野にこもり、静的なものと考えがちであるが、その発生からすでに実践のなかに生き、民衆のなかで生き生きと語り継がれてきたのが、その正統な流れであることに刮目したい。
32  しかし釈尊入滅後、仏教はしだいに民衆救済の精神から遠ざかっていった。それはいったいなぜか。
 その一つの表れが「解釈学の先行」である。釈尊自身は、その悟りを巧みな譬喩等を使って、やさしく説いた。また卓越した慈悲の人格によって、人々を教化した。ゆえに、難解な仏教の法理を理解できない人々も、釈尊の、時に応じ、人に応じ、所に応じた「自在な説得力」と、「偉大な人間性」によって、仏教に帰依することができた。
 しかし釈尊入滅後、仏教教団は、仏説の解釈や教理について、煩雑な論議を繰り返し、見解の相違から多くの部派に分裂していった。いわゆる「部派仏教」の時代である。
 そうしたなか、実践者として「民衆のなかへ入り」「民衆の苦を救う」という釈尊の真意から、遠く、かけ離れたものになっていった。その後、こうした傾向への反省等から、大乗仏教が興隆した。しかし、大勢として、インド仏教の民衆遊離の傾向は変わらなかった。最も重要なことは「一人」の人間を心から蘇生させていくことだ。民衆を忘れ、現実を離れて、いたずらに空理空論をもてあそぶ姿のなかには、すでに仏法の精神は完全に失われている。
 いかに「難解」な「論理」をあやつり、深遠めいた言葉で自身を飾ったとしても、実践なき人を、決して信じてはならない。
 いかに、素晴らしい哲学でも、民衆にわからなければ価値がない。いわゆる難解な論が優れているのではない。決して尊いのでもない。逆である。最も深遠な哲理を、最もやさしく説く人こそ真実の仏法者なのである。
 これに関連して、インド仏教の民衆からの遊離を表す例として、サンスクリット(梵語)による仏典の編さんがある。もともと釈尊は、弟子たちに俗語すなわち社会一般に使われている日常の言葉での説法を勧めたとされている。そのことは、現在、各地で発見される仏典の写本が、そうした言葉を反映して書かれていることからも推察される。
 しかし、仏教が衰え始めたグプタ王朝の時代になると、サンスクリットが国家的に奨励された。そこから仏典もサンスクリットを用いるようになっていった。
 サンスクリットは民衆の日常語ではなく、聖なる言葉として、バラモン教の聖典・ヴェーダ等に使用されていた、いわば一部の特権階級の言葉である。
33  庶民にわからぬ言葉での仏典編さん――このこと自体、仏教が民衆のなかでの生きた躍動を失った証と論ずる人もいる。私も、そう思っている一人である。
 日蓮大聖人も、仮名のほうが相手にわかりやすい場合には、平仮名でお手紙を書かれた。ここにこそ仏教本来の精神があり、指導・弘教の方軌がある。
 インド仏教の民衆遊離の他の面としては、その支持層が都市住民に限られていたという点がある。都市には王族がおり、富裕な商人がいた。仏教教団は、自然、彼らの寄進にのみ依存し、その結果、地方、とくに農民たちの間に深く根を張ることができなかった。
 この「都市民への寄進依存」から、もう一つの重大な変化が起こった。
 それは、「僧院中心主義」による僧の堕落である。すなわち僧院の増加にともない、それまで個々の修行者の乞食行に対して行われていた供養が、僧院自体に対して行われるようになった。
 鉢を持って一軒一軒の家をたずね、食を乞うて歩く托鉢の修行は、一定の厳しい行儀に基づいていた。しかし、僧院の比重が増すにつれて、日々の厳しい修行は、しだいに忘れ去られるにいたった。
 修行がなくても、権力者や富豪は次々に財物を寄進する。しかも、しだいに供養は巨額となり、僧院には莫大な財産が蓄えられた。やがて土地さえ寄進されるようになり、僧院は広大な土地からあがる小作料を生活の糧とし、一種の“世俗領主”のような様相さえ示していった。
 こうして僧院が富み、生活が保障されるにともない、比丘(僧)たちは民衆との接点を失い、遊離し、また堕落していった。さらに、生活のために出家する例や、社会で罪を犯した者が身の安全を求めて僧院に入りこむ例も出てきた。
34  サンガ(仏教教団)を形成する比丘たちは、本来、求道の「修行者」であり、同時に「弘教者」であり、民衆のよき「導師」のはずであった。しかし仏教が僧院中心主義となり、僧院が僧たちの専有物と化した結果、峻厳な「修行」も、慈愛の「弘教」も、民衆の幸福に尽くしていく「指導者」としての使命も見失われていった。
 このようにインド仏教の「民衆からの遊離」は、あらゆる面で顕著であった。
 強い「信仰」に基づく仏教の本来の生命力を失い、観念化していった。こうなっては弱体化するほかないのは、個人においても、組織においても同様である。
 この意味からすれば、イスラム教徒の侵略によって、もろくも滅びてしまったことも十分に理由のあることである。このほか、インド仏教滅亡の因としてヒンドゥー教の興隆によって、押されぎみになった仏教が、自らインド土着の民間信仰を取り入れて密教化し、本来の精神を失った、いわば“死に体”同然で余命を辛うじて延ばしていたこと等が挙げられている。このようにみるとイスラム教による打撃は、内部から朽ちてしまったインド仏教の大木を倒す、最後の決定打にすぎなかった。
 これに対し、事実として、インドの民衆に根づいたのはヒンドゥー教である。教えの高低浅深は別にして、現在、仏教発祥の地インドにおいて、仏教徒がわずか一パーセント足らずにすぎず、ヒンドゥー教徒が八十数パーセントを数えるという現実は直視しなければならない。
 ある研究によれば、インド仏教史の全体を通じて、仏教は一度も、ヒンドゥー教ほど民衆に支持されたことはなかった。仏教の隆盛期とされるアショーカ王、カニシカ王の治世においてさえ、一般民衆の間に根強い勢力を持っていたのはヒンドゥー教であったという。その後、仏教は時代の推移とともにヒンドゥー教と妥協した。それは、ある意味で民衆への接近ではあった。しかし、最も大切な釈尊の原点と独自性を失って吸収され、姿を消していった。
 結論するに、最も重要なことは、本来の精神を堅持しつつ、いかに「民衆」とともに生き、「民衆」を覚醒させていくかである。一切の基盤である「民衆」を離れた結果、インドの仏教は衰亡した。この過ちを繰り返すのは余りにも愚かである。

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