Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第四節 『戦争と平和』  

随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

前後
22  私は、女性は家事や育児に専念すべきだなどと言うつもりは毛頭ない。女性もそれぞれに、社会的関心を持ち、社会に参加していくべきは当然である。
 ただ私は、妻となり母となったナターシャの姿に、現代の社会や家庭から失われつつあるもの、しかも、人類が生き続けるかぎり、絶対に失ってはならないものが、うかがい知れるように思えてならないのである。夫婦や母と子の絆といってしまえばそれまでだが、そういう言葉では言い尽くせない何ものか。好みや物の考え方はもとより、理非曲直、ある意味では善悪さえも超えた、ある大きなものとの繋がり。ナターシャの結婚の時の心境を借りたトルストイの言葉によれば、こうである。
 「彼女は、前には本能に教えられて用いていた魅力も、最初の瞬間から自分の全存在を任せてしまった、つまり、どんな片すみも彼にわからないところはないように、心の底の底までうちあけてしまった夫の目には、今ではむしろおかしいだけだろうと感じていた。彼女は、自分と夫とのむすびつきは、はじめ彼を自分のほうへひきつけた、例の詩的な感情にささえられているのではなく、ちょうど、自分の心とからだとの関係のように、漠然とはしているけれども、しっかりした、何かべつのものによって保たれているのだ、こんなふうに感じていたのである」(同前)
 夫婦といっても、見ず知らずの他人が一緒になったものである。また子どもにしても、いつかは独立して、自分の手元を離れていく。自分の好みや、感情的な選択にまかせての繋がりでは、いつかは破綻をきたしてしまうだろう。
 幾多の試練を乗り越えていくためには、夫婦や親子の関係を支え、包み込んでいくもの、自分もそこから栄養分を吸い上げ、人間としての成長を図っていく精神の土壌が、何にもまして貴重なはずである。私は、そうした次元で妻や母親という存在の占める比重は、想像以上に大きいと思っている。「自分の心とからだとの関係のように、漠然とはしているけれども、しっかりした、何かべつのもの」――ナターシャは、たしかにそのことを実感していたにちがいない。
 そうした精神の土壌を、わが国では古来“縁”とか“天”という言葉で表してきたようだ。お互いを信じ、協力しあって人生の坂道を上ってきた生命が、幾多の試練を克服するなかで築き上げた愛情の絆の重さがそこにある。激しき風雪のたびに愛情と信頼が深められ、より深き絆と生命の一体感をかみしめることこそ人間らしい真の愛情といえようか。それは、人間同士、あるいは人間と物、人間と自然との絆を大事にはぐくんでいこうとする心の姿勢へと連なり、さらに夫婦や親子の愛情を超えて、深く人間愛、生命愛という精神の土壌にまで達していくように思えてならない。
 ナターシャの変貌は、人間同士、とくに女性の側からの「信」のかたちが、比類なき美しさで示されていると思う。それは、海のイメージで形容できよう。ある時は無限の包容力をもって清も濁も併せのみ、またある時は万物を慈しみはぐくみ、失意から蘇生へ、対立から調和へ、離反から結合へと導きゆく大いなる力。そして低次元の波風などどこ吹く風と、いつも深く静かな面を揺るがすことのない海。――私は、ピエールを見つめるナターシャの眼に、そうした、女性の揺るぎなき「信」の力の持つ素晴らしさが感じられてならない。

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