Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第四節 『戦争と平和』  

随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

前後
1  歴史は英雄が創るのではない
 トルストイの『戦争と平和』には、実に五百五十九人もの人物が登場する。それら膨大な人物を、一人一人描き分けてドラマ化していくトルストイの天才的力量にはだれしも圧倒されよう。想像力、構成力、委細を尽くす心理描写、史観のユニークさ……まさに大文豪の最高傑作といってよい。
 この大河小説は、一八〇五年七月、ペテルブルクの華やかな夜会の場面から始まる。この年のロシア・オーストリア連合軍対ナポレオンの戦争から、七年後のナポレオン軍のロシア侵入を頂点にした時代の激動を描いて、エピローグは、一八二〇年冬まで書き及んでいる。アウステルリッツやボロジノの戦い、モスクワ炎上、ナポレオン軍の敗走など、歴史的な大事件が活写され、ヨーロッパ近代史上、最も波瀾に富んだ時代が、壮大なスケールで描き出されている。
 そうした“大状況”にボルコンスキイ、ロストフ、ベズーホフの三家を中心にしたさまざまな人間群像が“小状況”として配され、“戦争とは一体何か”“平和とは何か”“人生とは”“死とは”“愛とは”という根本問題をめぐって、比類なき人間ドラマが形成されている。
2  トルストイは、この小説を三十六歳の時に書き始めているが、最初は、一八五六年に流刑地より帰還を許されて戻ってきたデカブリスト(十二月党員)たちの運動をテーマにしたものを企図していたらしい。しかし、そのためには、どうしても一時代前の対ナポレオン戦争という、ロシアにとっての歴史的な大事件にまでさかのぼらねばならなかった。亡命したロシアの詩人、メレシコフスキーはプーシキンの「彼はロシア民族に大いなる天命を示せり」との言葉にふれつつ、「ピョートル大帝の与えた打撃は、ロシアの肉体を目ざめさせた。ナポレオンの与えた打撃は、ロシアの魂を目ざめさせた」(『トルストイとドストイェーフスキー』植野修司訳、雄渾社)と述べている。ナポレオンがロシアに与えた衝撃は、まことに運命的なものであり、ロシア人の国民的自覚を、一挙に高揚させたものである。このことは、メレシコフスキーも指摘しているようにロシアを代表する二大文豪トルストイとドストエフスキーが、それぞれ『戦争と平和』『罪と罰』という主著で、ナポレオンを取り上げているという事実からも、うかがい知れよう。
 さて、そのような存在の重みに比べて『戦争と平和』に描かれたナポレオン像は、なんともみすぼらしく、平板であり、卑小ですらある。(以下『戦争と平和』は中村白葉訳、『トルストイ全集』所収、河出書房新社)
 アウステルリッツの戦いで負傷したアンドレイ・ボルコンスキイ公爵は、たまたま巡視してきたナポレオンと出会う。ナポレオンこそはアンドレイが、敵ながら尊敬してやまなかった英雄であった。
 「『〈おお、りっぱな死にざまだ〉』とナポレオンは、ボルコンスキイを見ながら言った。アンドレイ公爵は、それは自分のことであること、そしてそれを言っているのはナポレオンであることをさとった。(中略)が、彼はこれらの言葉を、蠅のうなりを聞くような気持ちで聞いていた。(中略)彼はそれがナポレオンであること――彼の崇拝する英雄であることを、知っていたが、この時にはナポレオンも、今そのおもてに走り流れる雲をうかべているこの高い無限の大空と彼の魂とのあいだに生じつつあるものにくらべては、あまりに小さく、とるにたらぬ人間のように思われた」(第一巻第三編)
 その他の場面でも、ボロジノの戦いから、フランス軍のモスクワからの敗走にいたるナポレオンの描かれ方は、ロシアの国民的英雄クツーゾフ将軍に比べて、ときには滑稽じみて見えるほど平板、矮小の感を受ける。“偉人”のなかにも“凡人”が宿っているのが常であるにしても、『戦争と平和』で描かれるナポレオンの姿は、見すぼらしすぎはしないだろうか。
3  トルストイとは対照的な、文豪によるもう一つのナポレオン評を見てみよう。ゲーテはエッカーマンとの対話のなかで、ナポレオンの印象を、こう語っている。
 「ナポレオンは大した男だった! いつも開悟し、いつも明晰で、決断力があった」
 「彼の生涯は、戦いから戦いへ、勝利から勝利へと進む半神の歩みだった。まちがいなく彼はたえず開悟した状態にあったといってよいだろう。だからこそ、彼の運命が、彼の後にも、また彼の前にも、二度と見られないほど、輝かしいものだった」(エッカーマン『ゲーテとの対話』山下肇訳、岩波文庫)
 どちらのナポレオン像が実像なのか。トルストイのものか、ゲーテのものか――。ここでは、その点についての細かい論及は割愛したい。ただ、次の二点だけは、指摘しておきたい。
 第一に、重傷を負ったアンドレイ公爵の視界のなかのナポレオン像が、みるみる色あせていったのは、アンドレイがナポレオンに仮託していた世俗的価値――すなわち権勢、富、名誉、位階等が「生死」という根本事を前にして、もろくも崩壊していくさまを物語っている。
 仏教では一切の外面世界の現象は内面世界と不可分の関係にあり、内面世界の展開であると説いている。したがって、『戦争と平和』に登場するナポレオン像も、トルストイなりアンドレイ公爵なりの「己心」に受け止められ映し出されたナポレオン像であることを忘れてはならないであろう。
 第二に、それでもなおかつ、トルストイによるナポレオンの矮小化は、なぜ、かくも執拗なのか、という問題がある。ここにトルストイ独自の史観が、強く働いていると感じられてならない。つまり、歴史というものは、一人の卓越したリーダーの力によって創出されるものではない、という透徹した眼である。
 トルストイのこの二つの透徹した洞察のなかで、ナポレオンは、悠久なる宇宙と歴史の流れ、そして免れがたき生死、さらに民衆のなかに静かに定位される。
4  最後の勝利を導くもの
 ボロジノ戦を控えて、アンドレイ公爵は、陣地を訪れた親友ピエールを前に、戦いについて大事なことを語っている。
 「二人の歩兵はつねに一人より強い。が、実戦となると、一個大隊がときとして一個師団より強い場合があり、ときとして一個中隊より弱い場合もある。この点がちがうのだ(中略)戦争の勝利はかつて、陣地や、武装や、兵数によってさえ支配されたこともなければ、また将来も、支配されることはないだろう。(中略)それ(=支配するもの)はね、ぼくやこのひとや(中略)それから、兵卒各自のなかにある感情さ」
 「戦争には、かならず勝とうと堅く決心した者が勝つのだ。なぜわれわれは、アウステルリッツで敗れたか? 彼我両軍の損害はほとんど伯仲していた。それだのにわれわれは、あまりに早く、こちらの負けだと自分に言った。そして負けたのだ」(第三巻第二編)
 「感情」「必ず勝とうと堅く決心したほうが勝つ」――これらは、太平洋戦争中の日本の軍部にみられたような無謀、合理性を無視した精神主義では決してない。あらゆる戦いにおいて、最終的に勝利を決しゆく要諦となるものは、全員がある目的のもとに、心を一に結束できるような拠りどころが、確固不抜なものとして存在するかどうかなのである。水鳥の羽音に驚いて逃げ出してしまった平家の軍勢のように、最初からばらばらで、おじけづいているようでは、とうてい戦いに勝てはしない。
5  若い友人から聞いた話だが、いま人気のあるラグビーの日本代表チームの監督が、こんな話をしていたという。
 ――ある時、日本代表チームからみれば、やや“格下”と思われる海外の学生チームがやってきた。試合は四試合ほど組まれており、最終戦で日本代表チームと対戦することになっていた。第一戦あたりの戦いぶりを見ているとさして強くない。そこで、どうしても油断が生じてしまう。ところが、その学生チームは、最終の日本代表との戦い一本にしぼって臨んできた。案の定、日本代表は、一敗地にまみれてしまった。勝った学生チームは、ロッカールームに引き揚げてから、勝利の喜びを爆発させていたという。そこで、日本代表チームの監督は反省した。果たして、われわれが彼らに勝ったにしても、あれほど喜べるか、すなわち勝つことへの執念において、差が生じてしまったのではないか、と。
 士気――中心者のもとに、結束して事にあたることができるかどうかは、勝負の行方に対しこのように微妙にして決定的な役割を演ずる。
 ボロジノの戦いにおいても、このことは、きわめて教訓的である。この戦いは、どちらも決定的な勝利をあげることはできなかったが、戦いそれ自体を取り上げれば、フランス軍が明らかに優勢であった。しかし、クツーゾフは、絶対に敗勢を認めようとしなかった。
 「彼はただ一人、ボロジノ戦は勝利であると言明し、それを口頭でも、報告書や上申書の中でも、死の最後のときまでくりかえしていた」(第四巻第四編)
 実際、クツーゾフの戦い方そのものが、そうであった。ボロジノ戦が峠を越したと思われるころ、クツーゾフのもとへ、芳しからぬ戦況報告がもたらされる。しかし「あののろまのクトゥーゾフ、忍耐と時間を標語とし、果断決行の敵」(同前)とまで言われた彼は、この時ばかりは、一歩も退かなかった。弱気の部下を大喝し、副官に命ずる。
 「戦線をまわって、ふれてこい。あすはこっちから攻撃するって」(第三巻第二編)
 その結果、
 「一般に士気と名づけられて、戦争の中枢神経を成す一つの気分を、軍全体にわたって維持している連鎖――なんとも定めがたい、神秘な連鎖によって、クトゥーゾフの言葉と、あすの戦いに対するその命令とは、同時に、全軍のすみずみまで伝達された」(同前)
 この厳然たる「将軍」の決意の言は、疲労の極にあり、動揺していた将兵たちの心を奮い立たせた。そして、拮抗した戦況を開いていく。ふだん、優柔不断なほどの慎重居士であるにもかかわらず、この正念場にあって、勝利への一念に徹し、一歩も退こうとしなかったクツーゾフは、まことに名将であったといえよう。一八〇〇年以降のロシアの将軍でクツーゾフほど尊敬された者はいなかったといわれるのも、深くうなずけるのである。
6  それに対し、ナポレオンは、フランス軍はどうであったか。
 「突角堡占領の報があったにもかかわらず、ナポレオンは、こんどの戦争が、従来のあらゆる戦争とどこかちがっている、まるでちがっていることを、見ぬいていた。彼はまた、自分の味わっていると同じ感じを、戦争に経験ある周囲の人々もみな、感じていることを見ぬいていた。(中略)ナポレオンは、その長い戦争経験から、八時間にわたってあらゆる努力を傾倒しても、なお攻撃軍の勝利に帰さない戦闘がなにを意味するかを、よく承知していた。彼は、この戦争が、ほとんど敗戦にひとしいということも、きわめて微細な偶然さえ、今のように戦いが緊張の極限にある場合には、彼および彼の軍隊を滅ぼしうるものであることを、承知していた」(第三巻第二編)
 決定的勝利こそ得られないものの、戦いは優勢を保っていた。にもかかわらず、ナポレオンやその麾下の心中では、必ず勝つという勝利への一念や執念に翳りが生じていた。この時点において、すでにフランス軍の敗北は、宿命づけられてしまったといっても過言ではなかろう。「われわれは決戦に勝つ!」――民衆の心の奥にある感情の力によって、ロシア軍は、最後にナポレオン軍を撃退する。
 勝敗を決するものは何か――トルストイはこの命題に対し、簡単なようにみえながらきわめて微妙かつ広大な人間の一念の力がいかに大事であるかを描き出している。
 その一念の力ということで、私が、いつも思い出すのは、チャーチルに関するエピソードである。第二次世界大戦中、イギリス本土が連日のようにナチス・ドイツ空軍の猛爆撃にさらされていた。ロンドンは、そのため壊滅に瀕するかとさえ思われた。しかし、当時の宰相チャーチルは、ゆうゆうと、炎のなかを、まりを交互に放りながら、指揮をとっていた。その落ち着きはらった姿を見て、多くのロンドン市民は、心から安堵したと伝えられている。
 “ヒトラーの邪悪な狂信主義、破壊主義に断じて負けてはならない”というチャーチルの泰然とした、不退の一念が、失意と不安に脅える人々に、どれほど大きな励ましとなったことであろうか。まことに、一念の力用は計り知れない大きさを持っている。
7  “将に将”たる者の要件
 ロシア軍の総指揮官クツーゾフ将軍は、非常に魅力ある人物である。風采は、いっこうにあがらない。しかも、ボロジノ戦の時はナポレオンが四十三歳の男盛りであったのに対し、クツーゾフは、六十七歳の高齢であった。馬にも乗らなければ、会議の席で居眠りばかりしている、と批判する向きも多かった。皇帝の覚えも、決していいとはいえぬ彼であった。
 そのクツーゾフが、国の命運をかけた大戦争の総指揮官に選ばれた理由は、いつにその衆望にあった。“愚にして賢”なる民衆の眼は、こののるかそるかの大危機にあって、よく国家の柱石たりうるのは、この歴戦の老将軍以外にないことを、鋭く見抜いていたのである。
 その声望のよって来るところは、どこにあるのか――。トルストイは、クツーゾフが「腹の底からロシア人であったからである」としている。たしかにそのとおりであり、だからこそ、ロシアをロシアたらしめた対ナポレオン戦争という運命的な出来事にさいして、クツーゾフが、優れたリーダーシップを発揮しえたのであろう。
 それと同時に、私が留意すべきであると思うのは、クツーゾフにあっては、ロシアへの愛情が、人間愛や人類愛といった普遍的な感情と少しも矛盾せず、まっすぐに回路を通じているということである。トルストイはクツーゾフを決して英雄として扱わず、人間味あふれる老将として共感を込めて描いているが、その人間味が、まさしく普遍的価値へと連なっていることに注目せざるをえない。クツーゾフの一念の奥底は「平和」にあって「戦争」にはないのである。この、いわば“大乗的なるもの”こそ、クツーゾフをして“将に将”たらしめている最大の要因のように、私には思えてならない。
 トルストイは書いている。
 「彼(=クツーゾフ)の行動は――最小の例外もなくすべて――ことごとく、三様の同一目的――一、フランス軍との衝突のために全力を緊張すること、二、彼らに打ち勝つこと、三、能うかぎり国民と軍隊の不幸を軽減しながら、敵を国外へ駆逐することに向けられている」(第四巻第四編)
8  ここにあるのは、襲いかかった災厄をふりはらうことへの断固たる意志の表明であり、名目は何であれ、過剰な戦争への傾斜が微塵も見られないことに注意したい。そして、クツーゾフは、あれほどの錯綜せる状況のなかでその意志を貫徹しているのである。「史上の人物で自分のいだいていた目的が、一二年役(=対ナポレオン戦役)でクトゥーゾフがその達成に全活動力を傾注した目的のように、あれほど完全に達せられた例を史上に見いだすことも、さらにいっそう困難である」(同前)と、トルストイは述懐している。
 そのクツーゾフの意志力、自制力は、彼の一念の奥底が「平和」に立った“大乗的なるもの”であったからこそ可能であったとはいえまいか。
 敗走するフランス軍に、壊滅的打撃を与えたあと、クツーゾフは、疲れきった自軍の兵士やフランス軍の捕虜を前に、一風変わった訓示をたれる。「全員に感謝する!」と、それは型どおりに始まったが、途中から、彼の表情と声は総指揮官としてのそれから、平凡な一人の老人のそれへと一変する。
 「『ところで、諸君、諸君が苦しいことはわたしもよく知っている。だが、どうも仕方がない! いま少しがまんしてくれ、もう長いことはない。お客を送りだしてしまったら、その時こそゆっくり休める。諸君の苦労は陛下もお忘れにはならないだろう。諸君も苦しかろうが、でもまだ自分の国にいるのだ。ところが彼らは――まあ見るがいい、なんということになったものだ』彼は捕虜たちをさしながら、こう言った。『いちばんひどい乞食より、もっとわるいではないか。彼らが強力だったあいだは、われわれも身命を惜しまなかったが、今では彼らをあわれんでやることができる。彼らも同じ人間だからな。そうだろう、諸君?』
 彼はあたりを見まわした。そして自分のほうにこらされている、うやうやしく怪訝そうな、執拗なまなざしのうちに、自分の言葉にたいする同感を読んだ――彼の顔は、くちびるや目のはじに星形の小皺をきざむ老人らしい、柔和な微笑から、ますます明るく明るくなって行った。彼はちょっと言葉をきり、なにか思いまどうように頭をたれた。
 『だが、それにしても、いったいだれが、やつらをここへ呼んだのと言いたくなるね、いわば自業自得だ、ば……ば……ばかな……』」(同前)
 長文の引用になったが、クツーゾフの面目が躍っており、『戦争と平和』の中でも、最も感動的なシーンの一つである。そこには、閉鎖的なナショナリズムとは似て非なる、人間愛に彩られた普遍的ヒューマニズムが満ちみちている。偏狭なナショナリズムは、人々の憎悪をあおりたて、民衆を一時的な熱狂へと導くことはできるが、決して長続きはしないものだ。このクツーゾフの心はそのまま各兵士の心の共鳴盤を激しくたたく。
 トルストイは、書いている。
 「敵にたいする憐れみと自己の正義に対する意識――あの老人らしい、人のいい罵詈の言葉で表現された意識とが、ひとつになった偉大な勝利の感情――この同じ感情は、各兵の心にあり、それが喜びの叫びとなって爆発して、いつまでも鳴りやまなかった」(同前)
9  私は四回目に訪ソした一九八七年(昭和六十二年)五月、モスクワ市内のボロジノ・パノラマ館を見学する機会を得た。これは、そばにある凱旋門とともに、ナポレオンのモスクワ遠征を退けたロシア民衆の勝利の歴史をとどめるために建設されたものである。
 館内には、ボロジノの戦いの戦闘場面がそのまま再現された巨大なパノラマ画が、ぐるりと取りまいている。縦十五メートル、横百十五メートルという壮大なものであった。戦いは、一八一二年九月七日の夜明けから夕方まで十五時間に及んだが、パノラマ館では、そのなかで最も戦闘の厳しかった十二時三十分ごろを描き出していた。舞台は、陽光の降り注ぐロシアの黄金の秋である。空は抜けるように青く、地平線の彼方まで広がる緑野には森が点在し、一輪草も見えかくれする。川は清冽に流れている。こののどかな自然のなかに、両軍あわせて二十五万もの人間たちの戦いが、壮大な絵巻として、絵と模型を使って克明に再現されていた。
 次から次へとめくるめくようなパノラマに目を転じ、トルストイの名作を記憶の底に呼びおこしながら、私は、ソ連の人々が、ボロジノの戦いに象徴される対ナポレオン戦争を、このようなモニュメントとして残そうとしている背景には、それが、たんにロシア史上に一大エポックを刻んだというにとどまらず、トルストイがクツーゾフに託して表出しているような人類史に通ずるような普遍的価値をそこに見いだし、誇りとしているのではないか、と思われてならなかった。
10  「時運」というものの力
 『戦争と平和』には、前述したようにトルストイの独自の歴史観が随所に展開されているが、それを一言にしていえば、一種の宿命論に近い。いかなる偉人であろうと英雄であろうと、自ら歴史創出の主役たらんとすることなど、傲慢な思い上がりにすぎない。彼らの所業は、何事かを為しているように見えても、その実、サル回しのサルに似て、何ものかによって使役させられているにすぎないともいえよう。
 「『王者の心は神の掌中にある』
 王は歴史の奴隷である。
 歴史、すなわち人類の、無意識的、社会的、集団的生活は、王者の生活のあらゆる瞬間を、自分のため、自分の目的のための道具として利用するものである」(第三巻第一編)
 これが、トルストイの一貫した歴史観である。だから、彼は、ボロジノの戦いについても、冷厳に言い放つ。
 「ボロジノ戦をいどんだり応じたりしたナポレオンとクトゥーゾフとは、不随意的にかつ無意味に行動したものである。しかるに、後になって歴史家たちは、両指揮官の先見の明と天才を証明するような理論を巧みに編みだして、それを、過去の事実にあてはめたのである。しかも、これらの両指揮官は、世界的事件における、意志を持たぬすべての道具の中でも、もっとも奴隷的かつ不随意的な傀儡(かいらい)にすぎなかったのである」(第三巻第二編)
 まことに、とりつくしまもないような、突き放し方である。歴史の流れすなわち時運というものの巨大に比べれば、ナポレオンはもとよりクツーゾフでさえ、豆つぶのように小さく、その操り人形にすぎない。その巨大な力を前にして、ナポレオンは傲慢にも歴史を自らの意志で動かしているつもりでいて、結局、歴史に押しつぶされていった。これに対し「忍耐と時より強いものはない」をモットーとするクツーゾフは、大きな歴史の流れをよく理解し、退くべきときには退き、忍耐強く時をつくりつつ行動する敬虔さを持っていた。その点が両者を決定的に分かったのだ――と。
11  こうした歴史観は、自ら歴史創出の主役たらんとする夢を追い続ける近代人の感覚には、なじみにくいかもしれない。そこにある宿命論的な諦観の響きは、そのまま暴虐なる権力への利敵行為であると、のちにレーニンの激しい反発を買ったことも、事実である。だが、トルストイは、すぐさま、静かに反論するにちがいない――それは、「史上最も教訓的な現象の一つ」としての対ナポレオン戦争の意味を、正しくとらえていないからである、と。トルストイはこう述べる。
 「今こそわれわれには、一八一二年におけるフランス軍全滅の原因がなんであったかは明白である。(中略)しかし、当時はだれ一人(こんにちこれほど明白に思われていることを)予見した者はなかった。つまり、もっともすぐれた司令官に率いられた、世界でも有数な八十万の軍隊が、その半分の力しか持たず、しかも、無経験な司令官に率いられた無経験なロシヤ軍と衝突して全滅しうるのは、ただこの道一つしかないということを、予見した者はなかったのである」(同前)
 たしかに、これは、歴史の流れをいわゆる人知の計測線上にのみおこうとするある種の歴史主義、進歩主義、合理主義に対する痛烈な反証といってよい。時運というものは、そんな単純なものでも、なまやさしいものでもない。抗しがたい時の流れに静かに耳を傾ける謙虚な姿勢を欠き、歴史を小馬鹿にするようなことがあれば、その巨大なうねりは、たちまちその人をのみこんでしまうであろう。あたかもモスクワに入りながら広大なロシアの地勢と“冬将軍”等に身動きのとれなかった一八一二年のナポレオンのように……。
 これは、近代人の最も心しなければならない点であろう。際限なき自由が際限なき専制を招くという逆説は、プラトンが『国家』で、ドストエフスキーが『悪霊』で赤裸々に描き出しているところである。自由を求めながら、知らずしらずのうちに何ものかの束縛下に入ってしまうのが、人間の常なのである。史上、幾多の事例が物語っているように、そこに自由というものの背理があり、歴史の逆説がある。
12  私の恩師戸田先生は、さまざまな歴史小説を題材に、意見を交わしあう場を、しばしば持ってくださったが、ある時“波瀾万丈の歴史的事件を分析してみると、七割方は宿命で決まっている”という意味の言葉をもらしていたのを記憶している。歴史に“もし……”は禁物だが、たしかに、この“もし……”を置いてみると歴史の流れも、ずいぶん変わっているだろう、との感もなしとしない。
 そのことはいわゆる事件だけにとどまらない。例えば“ボロジノの地”自体にもそんなものがあるように思える。ボロジノの地は、この約百三十年後、第二次世界大戦でも、独ソ戦の激戦地となり、同じ悲劇を繰り返している。これは、人間にも宿命があるように、国土にも宿業があることを思わせる。人類もまた、ある運命を背負っているだろう。その運命のままに歩んでしまうならば、人類もふたたび、数々の災禍を繰り返すことになってしまう。断じて避けなければならないことである。
 ともあれ、人間は、自分の力で何事かをなしたように思っていても、目に見えない大きな流れ、また時の流れという糸に繋がれている場合が、想像以上に多いものだ。だからこそ、その大いなる力への敬虔さと謙虚さが肝要なのだ。「現代は、祈りを忘れた時代である」といわれるが、トルストイのややラディカルな史観は、それだけに、現代人の傲慢さを戒める“頂門の一針”たりえていると思われる。
13  「死」に直面し開ける境涯
 『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』などの世界文学史上に輝く名作をものしたあと、トルストイの精神世界に深刻な危機が訪れることは、よく知られている。幸福な結婚生活、小説家としての世界的名声、莫大な収入を得ているにもかかわらず、人生の真の目的への不安が彼をさいなみ、有名な“回心”がなされるのである。
 そして、晩年のトルストイは『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』などの傑作の価値をもついに否定するにいたる。そのことの是非はさておき、『懺悔』にみられるような内面世界のうねりにも似た激しい振幅は、精神界の巨人にして初めてなしうるものであり、小さな安寧に甘んじていることのできない、トルストイのすさまじい生命力を垣間見せている。
14  『戦争と平和』の中で、その“回心”を予兆させる部分が、アウステルリッツの戦いで傷ついたアンドレイ公爵が、広大な空を仰ぐシーンである。
 「彼の上には高い空――晴れわたってはいないが、でもやはり、はかり知れぬほどに高い空と、そのおもてを静かに流れてゆく灰色の雲のほか、なにもなかった。《なんて静かで、おだやかで、荘厳なんだろう、おれが走っていたのとはまるでちがう》とアンドレイ公爵は考えた。《われわれが走ったり、わめいたり、戦ったりしていたのとは、まるでちがう。あのフランス兵と砲兵とが、互いに怒ったような、おびえたような顔をして、洗桿をひっぱりあっていたのとは、まるでちがう――この高い、無限の空を流れている雲は、まるでちがう。おれはどうしてこれまで、この高い空を見なかったんだろう? それにしても、おれはなんてしあわせなんだろう、とうとうこの空を見つけたとは。そうだ! この無限の空以外は、すべて空だ、すべて偽りだ。この空以外には、なんにもないのだ、なんにもないのだ。しかし、それさえないのだ、なんにもないのだ、静寂と平安以外には。ありがたいことだ!……》」(第一巻第三編)
 戦いの最中は、無我夢中で殺し合い、傷つけ合ってきたのが、あることをきっかけにわれに返ってみると、その所業に、身震いのするような嫌悪感、罪悪感に襲われるということは、しばしば耳にするところである。
 仏教史上に名高い阿育大王は、経典にも「王暴悪を行うが故に、暴悪阿育王という」とあるように、当初は暴虐の限りを尽くしたと伝えられる。しかし彼は、戦乱に次ぐ戦乱、殺戮につぐ殺戮の悲惨きわまりなき状況に嫌気がさし、ある時、翻然と悔い改めて、「法」を根本にした慈悲の政治へと転じていったといわれている。まさに阿育の心中にアンドレイ公爵の仰いだ「無限の空」に似た「何か」が生じていたにちがいない。そして、人生観の根底を揺るがすような衝撃をもたらすものこそ、何人も襟を正さざるをえない「生死」という厳粛な事実であるといえよう。
 とはいえ、アンドレイ公爵が「無限の空」を見たといっても、それは“境涯革命”の予兆であって、確たる手応えというには遠い。アンドレイは、後のボロジノの戦いでも重傷を負い、ついに不帰の客となるわけであるが、その臨終の床での苦悶を通しても“闇”が“光”に転ずることはなかった。
15  臨終のアンドレイを苦しめていた「生死」の問題を、トルストイが、いわゆる“回心”以後、渾身の筆をもって描き出しているのが『イワン・イリイチの死』である。
 イワン・イリイチは、妻と二人の子どもを抱えた判事である。ごく単純で平凡な生活を送っていた彼が、ある時、ふとした事故が原因で不治の病にとりつかれる。死の恐怖との長い、壮絶きわまる格闘を通して、彼が“闇”の彼方に“光”を見いだすのは、臨終のほぼ二時間前のことであった。
 「死のかわりに光があった。
 『ああ、これだったのか!』不意に彼は声にだしてこう言った。『なんという喜びだ!』
 彼にとって、すべてこれらのことは、一瞬間におこったのだが、この瞬間の意味はもはや変わらなかった。しかし、そこに居あわせた者にとっては、彼の臨終の苦しみはなお二時間つづいた。彼の胸の中では、何かがごろごろ鳴っていた、彼の衰弱しきった肉体はびくびくふるえていた。やがて、喘鳴としゃがれた呼吸音とは、だんだん間遠になって行った。
 『おしまいだ!』と、だれかが彼の上で言った。
 彼はこの言葉を聞きつけて、それを心の中でくり返した。《死はおしまいだ》と彼は自分に言った。《もう死はないのだ》」(中村白葉訳、『トルストイ全集』9所収、河出書房新社)
 ここでは、アンドレイ公爵の場合と違い、“闇”から“光”への劇的な転回がなされており、まさに迫真の筆致といってよい。そこには“回心”以後の、一層の深まりをみせた文豪の魂の光がうかがえるように思えてならない。
 ともあれ、仏法で「生老病死」あるいは「生死」と説くように、「生」あるものは必ず「死」すという、何人も動かしようも避けようもない事実を根本にすえてこそ、われわれの境涯は限りなく、広く、大きく、そして深く開けていくのである。
16  “剣の英雄”と“精神の英雄”と
 ロシア文学全般に、教訓的色彩の強いことは、よく知られている。ロシア社会は、歴史の発展途上に、西欧諸国のような市民階級を形成しゆく機会を持たなかった。したがって、そこを基盤にした芸術のための芸術、文学のための文学といった“……至上主義”的なあり方は、ロシア文学とは縁遠かったといってよい。どんなに享楽的な、あるいはニヒリスティックな文学にみえても“底”の部分では、必ず“人間いかに生くべきか”というテーマと通じ合った教訓性の根を断ち切ることはできない。
 トルストイの文学は、なかでもその傾向を強くにじませているといえよう。“回心”以後の作品に色濃く表れてくる説教調がそうであるし、『イワンの馬鹿』など晩年の民話にみられる教訓性も、その表出である。貧しく、悲惨な農民を前にして、貴族やインテリゲンチアとしての負い目は、この大文豪にして、否、大文豪なればこそ、文学や芸術に安住し窮状に手をこまねいていることを許さなかったのである。
17  かつて、サルトルは「飢えた子どもを前にして、文学は何ができるか」という設問をたてたことがある。まことに、アンガージュマン(参加)の哲学者らしい問いであるが、ロシアの精神的土壌――“ブ・ナロード”(人民の中へ)と呼ばれる、知識人の大規模な自発的な“下放”運動を経験しているようなところにあっては、そうしたサルトルの問い自体が、すでに自明のことであった。ゆえに、私は一九七五年(昭和五十年)に行ったモスクワ大学での講演「東西文化交流の新しい道」の中で、「ことロシアに関しては、こうした設問自体を、すでに乗り越えている」「民衆の幸福・解放・平和という万人共通の願いを、ともに呼吸し続けてきたロシアの文学や芸術にあっては、このような疑問が生ずる余地はない」と指摘したのである。教訓性という文学的土壌の持つ一種の若さであり豊かさといってよい。
 『戦争と平和』の中で、フランス軍の捕虜となったピエールが、同じ捕虜仲間として農民出身の兵士プラトン・カラターエフと出会い、強い印象をうけるところがある。彼はこう言う。
 「運命の神さまあ、ちゃんといいようにしてくださるだ。それをこちとら人間は、ああでもねえこうでもねえと、せんぎだてばかりしているだ。人間の幸福なんてもな、おまえさま、網の中の水みたようなもんで、ひいてる時にゃふくれるが、あげてしまやなんにもありゃしねえ。こういったもんでさ」(第四巻第一編)
 こうしたプラトン・カラターエフは、どんな風貌の持ち主であったか。
 「――フランス外套に縄の帯をしめ、軍帽をかぶって木の皮ぐつをはいたプラトン・カラターエフの姿は、全体的にまるまるとしていた。頭は完全にまるかったし、背中も、胸も、肩も、いつもなにかを抱こうとするようなかっこうをした腕までが、まるかった。気持ちのいい微笑も、大きな褐色をしたやさしい目も、まるかった。
 プラトン・カラターエフは、だいぶ前に兵隊として参加したというかずかずの戦争話から考えると、もう五十以上でなければならなかった。ところが、彼自身、自分はいくつになるのか知りもしなかったし、はたからきめることもできなかった。しかしその歯は、かがやくばかりに白く丈夫そうで、笑うときには(しかも彼はよく笑った)その歯がぜんぶ、ふたつの半円を描いて現われ、一本のかけもなくそろってみごとであったし、あごひげや髪にも白いのは一本もなく、からだ全体もしなやかさ、ことに手堅さと耐久力を見せていた」(同前)
18  細部を描写することによってあるイメージを喚起しゆくトルストイの筆力には、感心させられるばかりである。読み進んでいくうちに、よけいな説明など何もなくても、いかにも健康で、いかにも善良で、いかにも純朴なロシアの一農民の姿が、読者の脳裏に、鮮やかなイメージを結んでくるのである。
 そして、ピエールにとっても「彼(=プラトン・カラターエフ)は最初の晩に想像されたとおり、素朴と真実の精神の、永遠にして不可思議な、円満具足の化身として、いつまでも心にのこったのである」(同前)――。
 ナポレオンが“剣の英雄”であるとするならば、プラトン・カラターエフは“精神の英雄”である。トルストイは、前者を捨て、後者を取る。「ソロモンの栄華」に別れを告げ「一本の野の花」を深くみつめていく。その巨腕の力の限りを尽くして“剣の英雄”の卑小さを暴き出し、“精神の英雄”の存在感を重からしめている。
 こうしたトルストイの志向性は、後に「悪に抵抗するな」とする無抵抗主義となって結実し、宗教的巨人の良心の叫びとして、ガンジーの非暴力主義に強い影響を与えるなど、世界的な波動を呼んでいったのである。ガンジーなどは、南アフリカのヨハネスブルク近郊にもうけた農園に「トルストイ農園」の名をつけているほどである。晩年、トルストイの住んでいたヤースナヤ・ポリャーナには、その世界的名声を慕って各国各地から訪れる求道の人波が絶えなかった、という。
19  一九八一年(昭和五十六年)五月、私は、モスクワ市内にあるトルストイの家及び資料館を訪れた。晩年の『復活』などを生んだ木造二階建ての質素で平凡な家であったが、ここかしこに、文豪の魂の光をしのばせていた。
 とりわけ、印象深かったのは、隣接する資料館に展示されていた一塊の緑のガラスであった。そこには、ガラス工場の労働者たちが、トルストイの心情に対してわれらは支持する、との檄文が記されていた。当時、国家権力と癒着したロシア正教会は、民衆の大地に立ったトルストイの正義の叫びに、破門をもって迫った。民衆は抗議の渦巻きの声をあげ、それが、一塊のガラスに結晶していったのである。それを見て、私は、プラトン・カラターエフにかぎらず、彼の作品や言動が、たしかに民衆の心をとらえていたな、と感じ入ったものである。権力が、トルストイを逮捕しようとした時、農民たちから「トルストイを入れるほど大きな牢獄はロシアにはない」との声があがったのも、必然のことであったであろう。
 館を去るにあたり、私は、万感を筆に託して、こう記した。
  大トルストイの魂 
  ここにあるを知り
  今新たなる感動を覚ゆるのは
  私一人ではあるまい
  大作家は真に民衆の心の蘇生を
  永遠にせしめゆく
  唯一の魂の叫びであるか
20  挫折こそ飛躍のチャンス
 アンドレイ公爵と並ぶ『戦争と平和』の主人公は、その親友ピエール・ベズーホフである。アンドレイが知性タイプであるとすればピエールは感性タイプ、アンドレイが人生に“否定”的であるとすればピエールは“肯定”的に描かれ、あくまで対照的である。真率で情熱的で、何事にも中途半端を嫌い、さまざまな経験をするが、そのたびに一回り大きくなってくるピエール。最後は、ヒロインのナターシャと幸福な結婚生活に入るのだが、ともかく、ロマン・ロランが「『戦争と平和』の最大の魅力は心の若々しさである」(『トルストイの生涯』宮本正清訳、『ロマン・ロラン全集』13所収、みすず書房)と述べているが、その意味からピエールは、この名作を象徴するような人物といってよい。私は、若いころ、アンドレイよりも、ピエールのほうに惹かれたものである。
 波瀾万丈のピエールの生涯でも、その頂に位置するのは、血気のピエールが、ナポレオンに対する怒りから彼の暗殺に出かけ、かえってフランス軍の捕虜になってしまい、幾多の辛酸をなめるところである。この名作の中でも、最も印象の深い件である。
 さて、帰還後のピエールが、ナターシャと公爵令嬢マリヤに、夜中の三時まで、熱くなって捕虜体験を語るシーンに、次のような台詞がある。
 「『よく人は言います――不幸だ、苦痛だって』とピエールは言いだした。『ですが、もし今、この瞬間にですね、人がぼくに向かって、捕虜になる前の自分でいたいか、あるいは最初からもう一度すべてをやり直したいかときいたら、――ぼくは、どうかもう一度捕虜になって、馬肉を食いたいと言うでしょう。われわれは歩きなれた道からほうりだされると、もういっさいが終わったように考えがちです。が、じつは、そこではじめて新しい、いい生活がはじまるのです。命のあるあいだは、幸福もあります。前途には多くのものが、じつに多くのものがあるのです』」(第四巻第四編)
 すがすがしく、若々しく、生きんとする力が横溢していて、いかにもピエールらしい言葉といえよう。しかもピエールには無理に力んだところがない。生きんとする力にうながされるままに、まっしぐらに生きぬいた、その来し方に巧まずして表出された、骨太にして大らかな生きざまの輪郭がある。そこにピエールのユニークな個性の輝きが光を放っている。
 それは、良い意味の楽観主義といってよいかもしれない。それは、甘さというような浅い次元ではなく、もっと人間性の深いところに備わっている品格のようなものである。換言すれば、人を信じ、人生を信ずる力によって、よき変化がもたらされることを確信する“度量”であり“強さ”であり“明るさ”に通じるものかもしれない。
 私は、世界各国の多くの著名な方々とお会いしてきたが、おしなべてそれらの方々は最も優れた意味での楽観主義を持っている。フランスの哲学者アランは「悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意志のものである。およそ成行にまかせる人間は気分がめいりがちなものだ」(『幸福論』串田孫一・中村雄二郎訳、白水社)と言っている。生きることの輝きを放射してやまないピエールの個性は、生のうながしに正直にそして意志的に従うことから生まれる楽観主義ともいうべきものを、巧まずして備えているのである。
 一節こえるごとに大きくなっていくピエールを、ナターシャは、こう語っている。
 「『ねえ、マリー』とふいにナターシャは、公爵令嬢マリヤがもう久しく彼女の顔に見なかった、いたずらっぽい微笑をうかべて言った。『あの方ったら、なんだかこう、さっぱりと、すべすべして、まるでお湯からあがったように新鮮な感じにおなりになったじゃない、あなたそうお思いにならない? ――精神的にお風呂からあがったように。そうでしょう?』」(第四巻第四編)
 何歳になっても、心だけは、こうした新鮮なすがすがしさを保ち続けたいものである。
21  女性の「信」の素晴らしさ
 家庭を持ち、妻となり母となることが、女性にとってどのような意味を持つのか、また、そうなると女性はどう成長し、変わっていくのか――。こうしたことに思いを巡らすとき、私の脳裏に鮮やかなイメージとなって浮かんでくるのはナターシャの変貌ぶりである。
 ロストフ伯爵家の末娘。瞳は常に明るく、生き生きと輝いている。美しい声の持ち主で、多感な情熱のほとばしり、豊かな笑い声は、周囲の人々を魅了してやまない。生の一瞬一瞬に全身を傾けて生きている姿は、若さと健康そのものである。
 しかし、時代の激流は、そうした可憐な乙女をも、容赦なく運命の大浪の中に巻き込んでいく。恋の破綻による自殺未遂、わが家の没落、婚約者や兄弟の死、戦争と平和、生と死、愛と非情――文豪の筆は、一人の乙女が、波瀾万丈のなかを生きぬいていく姿を、比類なき美しさに描き上げている。
 さて、変貌したナターシャが描かれるのは「エピローグ」の場面である。この章は、大作全体からみると、何となく付け足しのようにも思われ、妻や母としてのナターシャ像に、やや失望されるむきもあるかもしれない。しかし、私はそうは思わない。女性が結婚して家庭を持つことの意義が、実に深い筆致で掘り下げられており、トルストイの結婚観、家庭観を知るうえでは、全作品中でも白眉のところだと思っている。
 ヨーロッパ全土を揺るがした戦乱が去って七年。ナターシャはすでに女の子三人、男の子一人の四児の母である。夫、ピエールは帝政の過酷さに反発するある政治結社に関係し、留守にしがちである。ナターシャは家事、育児の一切を取りしきっている。少し太り、顔には落ち着いた穏やかさと明朗さがあふれてはいたが、その姿からかつてのナターシャのぴちぴちとして「たえず燃えつづけるいきいきした炎」のような彼女のおもかげをうかがうことは困難だ。
 ナターシャの変わりようは、以前を知っている人々には驚くほどであった。彼女は、社交界との交わりを断ち切ってしまった。無理にそうしたのではない。好きでなくなったからである。
 当時の貴族社会の常識を破って、乳母に任せず、授乳も自分でやった。彼女の最大の関心事は家庭である。だから「自分が髪を振りみだし、ガウンのまま、うれしそうな顔をして大またに子供部屋から駆けだし、(=病気を示す)緑色のしみのかわりに黄いろいしみのついたおしめを見せて、もう赤ん坊も大丈夫だと慰めてもらえる、そういう人たちとの交際を尊重」(エピローグ第一編)している。
 ピエールに対しても、ナターシャの愛情は愚直なほどだ。彼は、ときたま訪れた親戚を前に、時勢糾弾の演説をぶつ。話の途中、部屋へ入ってきたナターシャは、夫の姿をうれしそうに眺めている。夫の言っていることを喜んでいるのではない。そういうことに彼女は何の興味も示さなかった。
 「そんなことはみな、しごく単純なことで、ずっと前から知っていることのように思われていたからである(そんなふうに思われたのは、彼女はそれが出てくる源――ピエールの心をすっかり知っていたからである)。彼女はただ、彼のいきいきした、感激にみちた様子を見るのがうれしかったのである」(同前)
22  私は、女性は家事や育児に専念すべきだなどと言うつもりは毛頭ない。女性もそれぞれに、社会的関心を持ち、社会に参加していくべきは当然である。
 ただ私は、妻となり母となったナターシャの姿に、現代の社会や家庭から失われつつあるもの、しかも、人類が生き続けるかぎり、絶対に失ってはならないものが、うかがい知れるように思えてならないのである。夫婦や母と子の絆といってしまえばそれまでだが、そういう言葉では言い尽くせない何ものか。好みや物の考え方はもとより、理非曲直、ある意味では善悪さえも超えた、ある大きなものとの繋がり。ナターシャの結婚の時の心境を借りたトルストイの言葉によれば、こうである。
 「彼女は、前には本能に教えられて用いていた魅力も、最初の瞬間から自分の全存在を任せてしまった、つまり、どんな片すみも彼にわからないところはないように、心の底の底までうちあけてしまった夫の目には、今ではむしろおかしいだけだろうと感じていた。彼女は、自分と夫とのむすびつきは、はじめ彼を自分のほうへひきつけた、例の詩的な感情にささえられているのではなく、ちょうど、自分の心とからだとの関係のように、漠然とはしているけれども、しっかりした、何かべつのものによって保たれているのだ、こんなふうに感じていたのである」(同前)
 夫婦といっても、見ず知らずの他人が一緒になったものである。また子どもにしても、いつかは独立して、自分の手元を離れていく。自分の好みや、感情的な選択にまかせての繋がりでは、いつかは破綻をきたしてしまうだろう。
 幾多の試練を乗り越えていくためには、夫婦や親子の関係を支え、包み込んでいくもの、自分もそこから栄養分を吸い上げ、人間としての成長を図っていく精神の土壌が、何にもまして貴重なはずである。私は、そうした次元で妻や母親という存在の占める比重は、想像以上に大きいと思っている。「自分の心とからだとの関係のように、漠然とはしているけれども、しっかりした、何かべつのもの」――ナターシャは、たしかにそのことを実感していたにちがいない。
 そうした精神の土壌を、わが国では古来“縁”とか“天”という言葉で表してきたようだ。お互いを信じ、協力しあって人生の坂道を上ってきた生命が、幾多の試練を克服するなかで築き上げた愛情の絆の重さがそこにある。激しき風雪のたびに愛情と信頼が深められ、より深き絆と生命の一体感をかみしめることこそ人間らしい真の愛情といえようか。それは、人間同士、あるいは人間と物、人間と自然との絆を大事にはぐくんでいこうとする心の姿勢へと連なり、さらに夫婦や親子の愛情を超えて、深く人間愛、生命愛という精神の土壌にまで達していくように思えてならない。
 ナターシャの変貌は、人間同士、とくに女性の側からの「信」のかたちが、比類なき美しさで示されていると思う。それは、海のイメージで形容できよう。ある時は無限の包容力をもって清も濁も併せのみ、またある時は万物を慈しみはぐくみ、失意から蘇生へ、対立から調和へ、離反から結合へと導きゆく大いなる力。そして低次元の波風などどこ吹く風と、いつも深く静かな面を揺るがすことのない海。――私は、ピエールを見つめるナターシャの眼に、そうした、女性の揺るぎなき「信」の力の持つ素晴らしさが感じられてならない。

1
1