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日蓮大聖人・池田大作

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第三節 『三国志』  

随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

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1  わが恩師の読書観――「書を読め、書に読まれるな」
 『三国志』は、恩師戸田先生が、青年の育成のために、青年とともに読み、よく使われた書である。とりわけ昭和三十年春から半年間、研修の教材ともなり、先生は、ここから独特の鋭い指導者論、人間観、史観を徹底して展開してくださった。
 明治生まれの先生は、青年時代から『通俗三国志』(湖南文山訳)五十巻を何回となく読まれていたようだ。また吉川英治氏の『三国志』は新聞連載中から愛読されていて、先生の人物論議はあたかも、われわれの眼前に、その姿が彷彿とするような話し方であった。
 先生は「本の読み方にも、いろいろな読み方がある。まず筋書きだけを追って、ただ面白く読もうというのは、最も浅い読み方だ。次にその本の成立事情や歴史的背景を調べ、当時の社会情勢や登場人物の性格なども見きわめながら、よく思索しつつ読む読み方がある。そして第三に、作者の人物や境涯、その人の人生観、世界観、宇宙観、さらには思想まで深く読みとる読み方がある。そこまで読まなければ、本当の読み方ではない」と語っておられた。
 また「書を読め、書に読まれるな」と言われ、「史実と小説は違う。小説は、作者が史実を自分の境涯に照らして書いているのだ。すなわち作中の人物を通じて、作者自身の考えを代弁させているのである。だから作者の境涯がわからないと、小説に読まれてしまう。小説がそのまま事実だったように思い込んではいけない」と話されていた。まことに、この読書観のごとく、先生の『三国志』の視点は、独自の卓越したものだった。
 私自身にとっても、『三国志』は、思い出深き、懐かしき書である。二十代のころ、むさぼるように、繰り返し読んだことを思い出す。当時の日記には「第三回目の『三国志』読了(昭和二十八年四月七日)」とある。またこの書ほど、友人と語り合い論じ合った書も珍しい。二十七歳のころの日記には、次のようにも記している。
 「帰路、友と三国志等を語りつつ――。
 曹操の勇を思う。項羽の大勇を念う。関羽の人格。張飛の力。孔明の智。孫権の若さ。
 是非論、善悪論、多々論じあった。
2   王道の人たれ、覇道の人になる勿れ。
  民衆の王たれ、権力の将になること勿れ。
  大衆の友たれ、財力の奴隷になる勿れ。
  善の智者たれ、悪の智慧者になること勿れ」(本全集第36巻収録)
 まさに『三国志』は、私にとっても、史観を培い人間観を形成するうえで、大いなる青春の一書であったといってよい。
 『三国志』には人材論もある、また指導者論もある。一般の伝統、風俗、宗教、民族性についてもふれている。ともかく、さまざまな要素をはらんだ大河小説である。さらに、ここに描かれた人物像には、仏法で説く地獄界から修羅界、人界、天界、そして菩薩界……と十界の次元からみても、さまざまな縮図が描き出されている。
 したがって、そこから多種多様な人間の生き方や人生、宿命、使命といったものを感じとることができる。その意味で、この書は、一見、古いようではあるが、間違いなく現代に息づいているといってよい。多くの人々が今なお『三国志』を読み、そこから現代に通ずるものを学びとろうとしているのが、その何よりの証拠であるが、この一つの事実からしても、青年の人間学の形成・触発のため、『三国志』を展開して使われた戸田先生の識見がうかがいしれよう。
3  『三国志』の時代を見る――流動・混沌の実力時代
 『三国志』の背景となった舞台は、言うまでもなく、三世紀の中国に展開された「魏」「呉」「蜀」三国の鼎立していた時代である。『三国志』には、その約百年間にわたった三国の治乱興亡の模様が描かれている。
 歴史に展開された三国時代というのは、一言でいうならば、流動の時代である。古い権威は崩壊したが、新しい権威はまだ形成されておらず、社会規範も価値観も混沌とした状態のなかにあった。これは、ある次元からいえば、現代も同じであると考えられる。
 奇しくも西洋においては、ローマ帝国の末期で、「五賢帝時代」が終わりを告げ、「軍人皇帝時代」であった。すでにローマ帝国の統一と治安はほとんど失われ、帝国の広大な領土を独力で統治することの困難を察知したディオクレティアヌス帝が、四分統治制をしき、帝国を分割統治した時代であった。これは孔明の「天下三分の計」とも通じるところがあるとみられ、ほぼ同時代に、洋の東西で同じような治政のあり方が志向されていた事実に、歴史の妙を感ずる人も少なくない。
 さて、この「魏」「呉」「蜀」三国の治乱興亡の歴史を正史にまとめたのは西晋の史官陳寿といわれる。記録によれば、彼は二三三年から二九七年にかけて生き、『魏書』三十巻、『蜀書』十五巻、『呉書』二十巻の全六十五巻を残した。この中には、四百六十八人の皇帝・個人の伝記が収録されており、簡潔な名文で知られている。この名著の価値をさらに高めたのは、南朝の宋の人・裴松之(三七二年―四五一年)が当時の百四十種余りの書から引用して注をつけ、それぞれの人物像をより鮮明にしたため、といわれる。十四世紀中葉の人、羅貫中はこうした史書や、講釈師などによって巷間に語り継がれてきた三国時代の物語を用いて、一大長編小説を完成した。それが『三国志演義』である。「演義」とは「義」(史実)を「演」(敷衍)ずるとの意のようだ。この『三国志演義』は、全二十四巻。同書については「七分が史実、三分が虚構」といった論評もされている。
 吉川英治氏の『三国志』は、昭和十三年九月から十八年九月にかけて執筆された小説である。氏はその序文で「原本には『通俗三国志』『三国志演義』その他数種あるが、私はそのいずれの直訳にも依らないで、随時、長所を択って、わたくし流に書いた」と述べているように、氏自身の史観、人間観を織りまぜながら、新しい解釈を加えている。これには、かつて現実に中国の大地を踏みしめた作者自身の見聞、体験が、大きく影響したといわれる。有名な冒頭の劉備玄徳の感慨――「悠久と水は行く(中略)幾千万年も、こうして流れているのかと思われる黄河の水を、飽かずに眺めていた」というのは、そのまま吉川氏の感慨であったにちがいない。(以下、吉川英治『三国志』の引用は六興版による)
4  王道と覇道――理想主義と現実主義の相克
 一九八六年(昭和六十一年)四月、私は来訪された中国の王震現国家副主席と種々懇談した。その折、私が「信条、座右の銘は」と尋ねたところ、王震氏は「鞠躬尽瘁」――心身を労して国事に尽力する――という諸葛孔明の言葉を挙げられた。これは、有名な孔明の「後出師の表」にある言葉だが、王震氏は「国家と人民のために自分のすべての力を一生懸命尽くして奉仕していくことが私の信念です」と静かに語っておられた。
 また「青年に勧めたい中国の書物は何か」との私の問いに対し、即座に「『三国志』でしょう」と答えられた。さらに『三国志』の登場人物についての人物観も語り、諸葛孔明は、当時の中国社会の分裂状態に強い不満をいだき、統一への大志を貫いた人物で、尊敬する、と述べられた。また劉備玄徳については、不仁、不義を憎み、仁義を重んじた道徳的にも優れた指導者であったと思う、と評しておられた。
 『三国志』全編を貫く基調に、いわゆる「王道」と「覇道」の相克という中国古来のテーマが感じられる。「王道」とは、いわゆる徳をもってする政治のことで、王が天命を受けて民の君、師、親たるべく選ばれたことを自覚し、民生を安定させ、仁愛と道義に基づく社会秩序を樹立しようとすることと定義される。そして、「王道」の根本は、王者自身の「徳」の厳格な修得にあるといわれてきた。
 これに対し、「覇道」とは、覇者が武力をもって天下を支配する権力政治のことで、仁義よりも功利と力をどこまでも重んじるいき方である。前者が、理想主義的な善政を志向するものとすれば、後者は、怜悧な現実主義のマキャベリズムに徹するといってよいであろう。
 そして、『三国志』においては、劉備、孔明は「王道」を、曹操は「覇道」を歩んだ人物として描かれている。吉川『三国志』では、曹操の家臣の程昱(ていいく)が、主君・曹操に、こう進言するところがある。「王道の政治廃れてもはや久しく、天下は紊れ民心は飽いています。覇道独裁の強権が布かれることを世間は待望していると思います」と。これは、国を統治する力のない皇帝を廃し、武力を持つ指導者が国を治めるべきではないかと、暗に曹操の決断を促したものであった。
5  このように『三国志』では、個々の多彩な登場人物とともに、中国の歴史を貫いた「王道」と「覇道」の相克が、具体的に「蜀」を率いる劉備、孔明と「魏」の曹操らとの攻防のドラマとして展開されており、人間の歴史を考えるうえでも、非常に示唆に富んでいる。
 この点について、恩師が、次のように話されたことが忘れられない。「諸葛孔明も、劉備玄徳も理想主義者であった」「『三国志』においては、曹操のごとき現実論者が、彼ら理想論者に打ち勝ってしまったという悲しみがある」と。また「劉備玄徳は優柔不断であるから、曹操に敗れるような憂き目にあうのもやむをえなかった」と厳しく言われたこともあった。
 理想主義と現実主義――洋の東西を問わず、これは古来、永遠の人間のテーマであるが、現実を踏まえぬ理想は幻想と言わざるをえない。そのようなか弱き理想主義だけでは、所詮、現実の勝負には勝てない。勝負は、どこまでも荒れ狂う現実のなかにあることを忘れてはなるまい。
 しかし、だからといって理想を失った現実は、ただ醜いだけのものになってしまうであろう。理想なき現実主義のみでは、未来の展望を大きく開くことはできないのも事実である。ゆえに現実主義と理想主義、この両者のいき方を踏まえた中道主義でなければ、現実の諸問題を乗り越え、理想を実現していくことはできないことを、『三国志』を通し、われわれは銘記できるのである。
6  桃園の義――団結、結束の要諦
 『三国志』に繰り広げられる人間ドラマのなかでも、ひときわ人々の心に残るものに、いわゆる「桃園の義」がある。無名だった劉備玄徳、関羽、張飛の三人が桃園で兄弟の契りを結ぶ。これが有名な「桃園の義」であるが、三人の結束は、この義盟以来、文字通り生涯にわたった。『三国志』に流れる主旋律のような響きの一つに、この三人の信義があり、結束がある。
 一九八六年(昭和六十一年)、東京富士美術館で開催された「三国志人形展」を鑑賞したさい、制作者の川本喜八郎氏と種々語り合うことができた。川本氏の人形の一体一体は、それぞれの人物の魂と個性を見事に表現しており、深い感銘をおぼえたが、それは、氏が“これらの人物たちは、かく生きたにちがいない”という、氏自身の一人一人に対する深い共感と、鋭い洞察の裏付けをもって制作されたからだと思われた。その川本氏は、著書『三国志百態』(ぱるぷ)の中で、この「桃園の義」について「裏切りが日常化していた乱世に、桃園に義を結んだ三人が、生涯志を共にした、という事実は、今日でも充分感動的で、この三人の美しい結びつきがあったからこそ、『三国志』は時代を超えることが出来たのであろう」と評価されている。
7  やはり、時代、社会を超えて生き続けるものの一つは、心の「美しさ」である。しかも人心が動き、妬み、反目が渦巻く乱世であれば、なおのこと輝きを増すのは当然である。では何ゆえに、この三人に生涯の結束が生まれたのであろうか。戸田先生は、この点について「結局、三人が結束したのは、義を結んだ時に、お互い好きになったからだろう」とズバリ一言いわれた。まことに、いかなる高邁な理想をいだき、大目的を共有したとしても、そこに、互いに好きになるという強い結束がなければ、何事も成就しえないものである。すべての前提として、理屈を超えて互いに好きになるという心の絆、これこそ目的を同じくする同志としての不可欠のつながりであり、これほど尊く強いものはない。
 また、三人が団結できた要因について、「三人が共によく互いの短所を知って、補いあっていけたから、団結できたのだ」と話され、人物を見る場合、まず、その人の性格をよく知ることの重要性を強調された。そして、「どれが短所か、また長所は何かを知っていくことが、互いに相手の人物を理解する基本となるものだ」とも語られた。たしかに人の性格をよく知ることは、何事をなすにも大事な基本要件といえよう。
 人間の性格というものは、終生、変わらないものである。その相手の性格を知り、どう守り、生かしていくか。そこに多くの人をリードする指導者の器量が問われるとともに、現実の社会のなかで、麗しい人間関係を築くためには、相手の短所を追及するといういき方ではなく、この劉備、関羽、張飛の三人のように、互いによく理解しあって補いあっていくといういき方を身につけていきたいものである。
8  ところで、徐州の没落以来、数年ぶりに、劉備、関羽、張飛を中心として、君臣一同が一城に住むことのできる日がついに到来する。その喜びの日を迎えて、吉川『三国志』には次のように述べられている。
 「顧みれば――それはすべて忍苦の賜だった。また、分散してもふたたび結ばんとする結束の力だった。その結束と忍苦の二つをよく成さしめたものは、玄徳を中心とする信義、それであった」と。何事をなすにも、それなりの「忍苦」は当然あろう。また立場や場所は異なっても、いざというときは共に集い、共に進んでいこうとの、強き同志愛による「結束」が必要である。「結束」と「忍苦」――これは、大目的に向かう者にとって、不可避のことだが、この二つを可能にするものこそ、「桃園の義」に流れていた親子・兄弟以上に強い、人間同士の絶対の信義なのである。
9  関羽と張飛――英雄の明暗分けた人格の光彩
 『三国志』に登場する人物は、現代においても、人間、人生を考えるうえで、さまざまな視座を与えてくれる。関羽と張飛――ともに生涯、劉備を支え蜀を興した『三国志』中、屈指の英傑だが、この二人ほど対照的なタイプの武将像も珍しい。ともに武勇の才は、蜀を、否、三国時代を代表する誉れを持ち合わせているが、二人の人間性、性格となると、まったく対極をなしている。
 とりわけこの両者の違いをひきたたせているのは、張飛の振幅の激しい性格に起因している。張飛は、まことに長所、短所両極端の人物であった。張飛といえば、だれしも、長坂橋でただ一人仁王立ちして、百万の曹操の大軍を追い払い、敗走中の劉備を無事に救ったエピソードを想起するように、古今無類の豪傑のイメージをいだく。実際『三国志』に描かれる張飛も、その豹のごとき風貌といい、万雷のはためくがごとき声といい、いかにも豪快そのものといった一代の英雄で、味方にすればこれほど頼もしく、反対に敵に回せばこれほど手ごわい相手もいない。性格は直情径行、また「桃園の義」を生涯貫いたように、決して人を裏切らない心の純粋性を持ち合わせている。しかし、こうした比類なき長所とともに、張飛は極端な短所も持ち合わせていた。戸田先生は「張飛は、粗雑で軽薄すぎるから、身を滅ぼすようなことになってしまった」と述べられたが、彼の命とりは、まさに、この粗雑にして軽薄な生命の業にあったといわねばならない。
 周知のように、彼は、自分の幕下の武将に、寝首をかかれて命を失ってしまった。これなどは、敵から恐れられたその圧倒的な破壊力が、時として味方までも傷つける仕打ちに出たことに対する恨みからだが、張飛には、このように自らのほとばしる生命力を自制できず、見境もなく発揮してしまうといった軽薄さがつきまとう。
10  身を滅ぼしたといえば、彼の失敗がことごとく酒にあったことは、よく知られている。寝首をかかれたときも、酒に酔っていたし、徐州では、禁酒の令を破って泥酔し、呂布に大切な城を奪われたりもした。こうしてみると、古来、武勇抜群の英雄豪傑にありがちな豪放磊落、天衣無縫な性分のなかに併せ持つ人間的甘さ、なかんずく自己自身に対する甘さ、大雑把さが破滅を招くという悲劇を、張飛自身も免れえなかったのである。
 一度、いくさの舞台に立てば、並ぶ人なき力量を示しながら、人生最終章においては、自らの粗雑さから、あっけなく身を滅ぼしてしまう「張飛型英雄」の悲劇――それは長い人生を名実ともに勝ちきるには、それぞれの才覚天分を超えて、人格の力こそ根本であることを雄弁に物語っている。
 この張飛に対し、関羽の魅力は、武勇もさることながら、まさにその人格にある。恩師も「関羽は、重厚な人柄だ。時に損をするような、真面目な性格であるが、彼の偉さは義を立てぬいて、しかも、自分を少しも偉いと思っていないところにあると思う」と述べ、「関羽は、信義の人であった。節操を尚び、義を重んじて生きた」と大変高い評価をされていた。
11  関羽の人格にまつわるエピソードは、数多い。その人格の芳しさは、敵将・曹操をして心底感服せしめているほどだ。曹操は常々、関羽を「天下の義士」と評し、その信義を貫く生き方に敬意を表していた。曹操が関羽の人間性に敬服するにいたるのは、徐州で関羽を捕えた時であった。曹操は、その時、この声望高き捕虜をなんとか自分の配下に置くべく腐心し、偏将軍の位をはじめ金銀の器、高価な戦袍、はては名馬・赤兎馬まで贈り破格の厚遇をする。しかし、関羽の劉備への信義は、いささかも揺るがない。逆にその時生死さえ不明の劉備をひたすら思い、彼は劉備の夫人たちを守りぬく。そして関羽は、曹操の厚情に深く感じ入りながらも、自分は劉備に大恩があり、生死をともにすると誓った仲であるといって、曹操からの贈り物に全部封印し、劉備のもとへ帰っていく。さすがの曹操も、この関羽の志操の堅固さに心をうたれ、さわやかに送り出す。
 味わい深い名場面だが、吉川『三国志』の中で、曹操はこのような関羽の志操正しき人格を讃えて、次のように語る。
 「敵たると味方たるとをとわず、武人の薫しい心操に接するほど、予は、楽しいことはない。その一瞬は、天地も人間も、すべてこの世が美しいものに満ちているような心地がするのだ。――そういう一箇の人格が他を薫化することは、後世千年、二千年にも及ぶであろう」
 まことに一人の人物の高潔な人格というものは、敵味方を超え、時をも超えて人々を感動させ、向上せしめるものである。本物の人格者、立派な力ある人材、指導者の存在というものは、常にそういう力を持っている。私も内外を問わず、心に感動を覚える人材に出会うことがあるが、この言葉はまさに至言であると思う。ともあれ、いかなる時も、節操を重んじ、義を貫いた関羽の重厚な生涯こそ、乱世にあってひときわ大きな光彩を放つとともに、一個の人格の持つ力の大きさを、現代に見事に蘇らせるのである。
12  趙雲子龍の英勇――沈着冷静な実践の将
 劉備の軍にあって、関羽、張飛ほどには目立たないが、趙雲子龍の存在は、いぶし銀のように光っている。事実、数多くの『三国志』中の人物のなかでも、子龍に最も共感をいだく人も少なくない。
 先の人形作家・川本喜八郎氏もその一人で「趙雲の行動を見ていると、その人柄のよさ、判断の正しさ、強さ、戦いの正確さ、ということでは、『三国志』中随一ではないか、という気がする。彼には一寸した気のゆるみで作戦が失敗する、といったようなことは絶対に無いのである。諸葛亮孔明が立てた作戦を、最も確実に遂行出来たのは趙雲子龍で、孔明は誰よりも彼を信頼していたフシがある」(前掲書)と述べている。
 私も、これまで数多くの人を見てきたが、たしかに、趙雲子龍のように、表面的にはそれほど目立たないように見える人であっても、いざとなると、だれもできない仕事を、確実にやりとげる立派な人がいるものだ。
 その意味で、地位や立場、外見などで、人物を評価することは、大なる誤りである。むしろ、優れた人材というものは、陰日向なく、黙々と苦労して己が使命を果たしていく人に多くいることを忘れてはならない。
 また川本氏の言う「判断の正しさ」「強さ」「戦いの正確さ」は、リーダーにとって最も必要な資質である。このうち「強さ」という面でいえば、関羽、張飛らも趙雲にひけはとらなかった。しかし「判断の正しさ」「戦いの正確さ」ということでは、趙雲がひときわ秀でていたといってよいだろう。
 趙雲の「判断」の的確さを物語るものに、劉備が盟友関羽を呉軍によって失い、すぐさま討呉の軍を起こそうとした時、強く反対したことがあげられる。
 宿敵・魏をそのままにして、呉と戦うなどもってのほかであるというわけで、彼は「呉はいま伐つべからずです。魏を伐てば呉は自然に亡ぶものでしょう。もし魏を後にして、呉へかからば、かならず魏呉同体となって蜀は苦境に立たざるを得ないだろうと思われます」と諌言した、と吉川『三国志』では描かれている。
 当時の中国はほぼ十七州からなり、そのうち魏は十二州を支配する最強の国だった。大局観にたてば、蜀は呉と提携してこそ、魏に対抗していくことが可能となる。それはまた、魏を打倒して漢室を再興するという大義名分からいっても、趙雲の意見は正論だった。しかし劉備は耳をかさず、呉との戦に突入し、結果的には取り返しのつかない敗北を喫するわけだが、それを予見していた趙雲は、事に臨んで沈着冷静な判断力を兼ね備えていたことが、うかがいしれよう。
 このような趙雲の確かさ、正確な判断力が、緻密な作戦指揮をとる孔明にとっては、安心して仕事が任せられたのであろう。孔明は、幾度となく趙雲を起用し、彼の秘策を授け、しばしば蜀の、また主君劉備の危難を救っている。その意味では、趙雲のような頼りになる実践の将がいたからこそ、孔明も縦横に知略をめぐらせたともいえよう。
 ところで趙雲で忘れられないのは、こうした冷静沈着さとともに、生涯衰えることのなかった気概である。彼の晩年の心意気を物語るエピソードがある。主君・劉備の死後、孔明は「出師の表」を上奏し、北征する。そのさい、孔明は、老いて鬢髪も白くなっていた趙雲を、あえて部隊の編制から除いて留守に残そうとした。その時の趙雲の心意気を、吉川英治氏は次のように描いている。
 「ところが、趙雲は、その情けをかえってよろこばないのみか、編制の発表を見るや否や、『どうしてそれがしの名がこの中にないのか。けしからん』と丞相府へやって来て、孔明に膝詰めで談じつけたのである。『自ら言うのは口幅ったいが、先帝(=劉備)のときより、陣に臨んで退いたことなく、敵におうては先に馳けずと言うこと無き趙子龍である。老いたりといえ、近ごろの若者などには負けぬつもりだ。大丈夫と生まれて、戦場に死ぬはこの上もない身の倖せ。――丞相はかくいう趙雲の晩節をあえて枯れ木のごとく朽ちさせんおつもりであるか』」
 こうして趙雲は、自らの願いどおり、五千の精兵とともに大先鋒軍として先駆を切った。ここには、趙雲の気概が浮き彫りにされている。
 いかに年をとっても、自らの信条、信念を青年時代から変わらず貫いていく。そこに、趙雲の人間としての偉さと、何ともいえぬさわやかさが漂ってくる。われわれの人生もかくありたいものである。
13  曹操について――乱世の奸雄、才知の将
 魏の総帥・曹操をどうみるか――これは、『三国志』の中でも非常にむずかしいテーマであり、人により大きく評価の分かれるところである。それだけ現実の曹操自身、一つの次元からではとらえがたい複雑性を有している。将軍としての才能、とくにその軍事的才能という観点からみれば、これは同時代のライバルたる蜀の劉備や呉の孫権など、遙かに及ばない天賦の才を誇っており、この点で当時肩を並べうる者は、諸葛孔明をおいて他にはあるまい。事実、『三国志』では、この時代を代表する二人の軍事的天才の壮絶なる頭脳戦の数々が繰り広げられ、それが読者の興趣をいやがうえにも高めていくわけだが、戦国乱世を勝ち抜く武将の力量という面で、まず曹操は傑出した英雄であった。
 また、将軍としての器量という側面でも、人心収攬の才にたけ、幅広く人材を糾合し、思い切った抜擢や、敵軍の関羽や趙雲を迎え入れようと腐心したように、投降した敵将なども巧みに取り立て、多くの名将を得ている。さらにその才は文武両道にわたり、スケールも大きい。こうしてみると曹操は、さすが自らも志向した天下人たるにふさわしい稀代の英傑ということになるのだが、実際、乱世のなかで彼が歩んだ足跡をたどると、もう一つ別の実像が浮かび上がってくる。それは、きわめて冷酷非情な才人という“顔”である。
 戸田先生は「曹操は将軍として、たしかに偉い。力があった。史上、彼に似ていたのは、ナポレオン、また織田信長だろう。しかし、曹操は英雄とはいえ、奸雄ともいうべき人物だった。自分に尽くしてきた部下も、容赦なく殺してしまうような残虐で非道な面があった」と述べていた。
 曹操の残忍さを物語るものに、父親の友人・呂伯奢一家の虐殺がある。吉川氏が描くところによると、若きころ、董卓の暗殺に失敗して逃げた曹操が、呂伯奢をたずね一宿を頼む。呂伯奢は快く迎え入れ、隣村に酒を買いに出る。夜も初更のころ、壁の向こうから刀を研ぐような物音が聞こえてくる。曹操を歓待するため猪を料理していたのだが、曹操はそれを自分が殺されると錯覚する。そして、またたく間に呂伯奢の家族や召使いを惨殺する。のみならず、それが錯覚であることがわかったあとも、逃げる途中で出会った呂伯奢を、後顧の憂いを消すため殺害する。まったく冷酷きわまる人間性だが、曹操には、自分の野望と目的のためには平気で人を殺すという、恐るべきニヒリストの怖さが顔をのぞかせる。
14  この怖さが人をして、曹操に決して心を許させないものを持ち続けさせるわけだが、彼は、それを自らの並はずれた才をもって惹きつけようとする。その意味では、善きにつけ悪しきにつけ、曹操には、どこまでも「才知」という怜悧な刃物がつきまとう。彼は、この“刃物”で戦乱の世の頂上まで上りつめる一方、その“刃物”で自らを切り裂いていくのである。曹操は、しばしば自分の才知に溺れて失敗している。
 たとえば魏と蜀との大野戦の時である。魏軍の大勝が続いた。蜀の兵は馬具も捨て、われ先に潰走しだした。魏軍は、この時とばかり追っていく。このまま追いきったならば蜀軍は全滅したかもしれなかった。しかし曹操は突然、軍をとどめたのである。魏の諸将はみな、なぜかといぶかった。曹操は孔明が率いる蜀軍の敗走は真実ではなく、擬装であるとみて慎重を期したのであった。ところが曹操が兵を収めたため、蜀軍はがぜん反撃に転じ、今度は魏が退却を余儀なくされたのである。
 吉川『三国志』には「曹操は、自分の智慧と戦つてその智に敗れている」「智者は却つて智に溺れるとかいう」とある。このように曹操は、本質的に策士であった。常々、自分以上の知恵者はいないと自惚れていたきらいがある。結局、彼は、才余りて徳足らず、自らの才にとらわれ、王道を行くことができず、文字どおり覇道の奸雄となっていったわけである。
 若きころの曹操は、理想に燃えたはつらつたる青年であった。彼の名を最初に高からしめた黄巾賊討伐の時も、国という大義を貫いた。後になって、帝位につくことを臣下から進言されても「もし天命われに在らば、われ周の文王たらん」(『三国志』23、市川宏・山谷弘之訳、徳間書店)とこれを拒否した。天命や道義も知り尽くしていた曹操の一面である。しかしその一方で、彼には野心も渦巻いている。この相反する野心と道義の緊張関係のなかで、曹操は力と才知を信じてひたすら前へ突き進もうとする。
 そして晩年にさしかかった曹操の姿には、この野心が前面に出て、すぐ感情的になったり、焦りが出たりといった醜さが随所に現れる。吉川英治氏は、まだ宮門の一警手にすぎなかったころには、志に燃え颯爽たる気概を持ち、媚や甘言に侮辱を感じ、その愚を笑っていた青年曹操が、五十代後半にさしかかり、かつての英傑の面影を失っていくさまを、次のように描写している。
 「ところが、近来の彼はどうだろう。赤壁の役の前、観月の船上でも、うたた自己の老齢をかぞえていたが。老来まつたく青春時代の逆境に嘯いた姿はなく、ともすれば、耳に甘い側近のことばにうごく傾向がある。彼もいつか、むかし侮蔑し、唾棄し、またその愚を笑つた上官の地位になつていた」――どんな英傑でも、年齢や境遇の推移とともに人間が持つ平凡な弱点に陥りやすい。ここには、功成り名を遂げた一代の権力者が陥りがちな悲しき性が、哀切の思いを込めて痛烈に映し出されている。曹操の悲しさは、結局、才知の人では、自らの青春にいだいた理想すら踏みにじり、自らが最も唾棄したはずの醜悪な人間性から一歩も脱することができないことを示していることである。
15  孫権と人材――呉が一番長く存続した背景
 『三国志』の舞台となった魏、呉、蜀の三国は、いずれも滅びていく。まず蜀が滅び、次に蜀を倒した魏も、蜀滅亡後わずか三年であっけなく滅びてしまう。そして三国のなかでは、呉が最も長く続いている。なぜ国力の富んだ魏ではなく、呉の国が最も長命であったのか――私はここに歴史の重要な問題がひそんでいると思う。
 呉の初代皇帝・孫権が、兄の孫策から印綬を継ぎ、呉の主となったのは、弱冠十九歳のときであった。この時、劉備玄徳はすでに四十歳であり、曹操は四十六歳であった。呉が長命となった一つの理由には、たしかにこの孫権の若さが挙げられるが、ただもとより若かったというだけではない。若くても、そこに非凡なものがなければ、戦国乱世にあって到底生きぬくことはできなかったにちがいない。呉の孫権の非凡なところは、彼のもとには、周瑜をはじめ数多くの有能な臣下がおり、それら父・孫堅以来の重臣を年若いにもかかわらず心憎いばかりに的確に生かしきったうえに、有能な人材を次々と抱え、登用したことである。彼の特徴は、何といっても人材を生かす器にあった。そしてそのことが、呉の長命を保つことができた最大の要因であったといってよい。まことに人を得ることこそが、中心者たるものの第一の責務であることを、孫権の成功は物語っている。
16  若き孫権のもとに多くの有能の士が集まった背景には、孫権の器量の大きさとともに兄・孫策の存在が大きい。孫策は、父・孫堅が三十七歳の若さで戦死したあとを継ぐが、彼も武運拙く、二十六歳で刺客に暗殺されている。その意味で孫権は、いわば三代目の当主になるわけだが、兄の孫策はかねがねこの弟の非凡さを見抜いていた。そしていまわのきわに、孫権に印綬を与え、次のように遺言した(吉川『三国志』)。「おまえには内治の才がある。しかし江東の兵をひきいて、乾坤一擲を賭けるようなことは、おまえはわしに遠く及ばん。……だからそちは、父や兄が呉の国を建てた当初の艱難をわすれずに、よく賢人を用い有能の士をあげて、領土をまもり……」と。孫権は、この「賢人を用い有能の士をあげて、領土をまもれ」との遺言を徹底して遵守する。
 孫権と人材を語るのに、有名な挿話がある。(『三国志演義』(上)立間祥介訳、平凡社)
 若くして、帝位に就いた孫権が、兄・孫策時代からの名参謀・周瑜に「父兄の大業を継いだものの、どうしてこれを守ったらよいものか」と問うた。これに対し周瑜は「何事も、その基は人です。人を得る国は昌になり、人を失う国は亡びましょう。ですからあなたは、高徳才明な人を側らに持つことが第一です」(吉川『三国志』)と忠言した。孫権は、この言葉を忠実に実行し、王権の基盤を築いていったわけであるが、呉の国には、このように、とくに人材を大事にし、見いだしていこうというすぐれた土壌があった。後に呉の国の存亡を賭けた赤壁の戦いで、めざましい活躍をする魯粛を周瑜の勧めもあり、年少ながら思いきって登用したのも孫権であった。
 また「士、別れて三日、すなわちさらに刮目してあい待す」(呉書・呂蒙伝注)との有名な言葉で知られる呂蒙も、孫権に見いだされ、それまでの武道に偏していた姿勢を一変させ、大いに研学の眼を開かれた一人であった。孫権の人材育成で着目すべきは、彼がただ人を集め、用いたというだけでなく、呉の中に研学の息吹をみなぎらせ、切磋琢磨の気風を形成したということである。これは魏、蜀にはなかった呉の特徴で、その意味では、教育的環境を最も大事にしたのが呉であった。
 孫権のリーダーシップの秀でている点は、このように自らは、内治の根本を人の育成においたが、具体的な事にあたっては、これら軍師、参謀の意見をよく受け入れたことである。したがって、孫権のもとにあっては、軍師、参謀が持てる力を存分に発揮し、呉の国難を救ったのである。“草創より守成がむずかしい”とは歴史の教訓だが、孫権は、実に人を求め、人を生かした“内治の雄”であった。とともに孫権を中心とした呉の臣下たちの数十年にも及ぶ水も漏らさぬ結束をみていると、なぜ呉が最後まで存続したかの真の因が浮かび上がる。それは、あらゆる団体、組織の永続性をもたらすものは、個人個人の力量を超えて、崩れないチームワークにこそあることを如実に物語っているといってよい。
17  「徳」の人・劉備の軌跡〈1〉――指導者の要件について
 『三国志』の主人公・劉備の足跡には、まことにその人間性を彷彿させる、示唆に富んだ話が多い。関羽、張飛との「桃園の義」、孔明への「三顧の礼」、また晩年の大敗北を喫した呉との戦い等々……これらは、いずれも劉備という個性以外には、まずありえなかったし、起こりえなかったことばかりである。
 一般に劉備は、「仁徳」の人といわれる。彼は、戦乱の世のリーダーの重要な要件の一つである軍事の才という点においては、とくにこれといってみるべきものがなく、凡庸であったというほかない。事実、劉備は、三十年間にもわたって、多くの戦いを体験した千軍万馬の歴戦の将ではあったが、孔明を得るまでは、はかばかしい戦果を得ていない。しかし、それでいて蜀の皇帝となり、三国時代の一方の雄となりえたのは、彼には指導者としての徳がひときわ兼ね備わっていたからであろう。
 史書の多くは、劉備には「弘毅寛厚、人を知り士を待するは、けだし高祖の風、英雄の器あり」(『三国志』24、守屋洋・竹内良雄訳、徳間書店)と、その人物の風格が、人をして漢の高祖を想起させる高潔さ、スケールの大きさがあったことを記している。戦闘攻防の知略においては、曹操には遠く及ばないものの、指導者として最も大切な包容力、誠実さ、信義を守る等の人間性においては、劉備はこの時代一の高徳の持ち主であったといってよい。それは、劉備を中心とした関羽、張飛、孔明、趙雲ら蜀の君臣の、ある意味では兄弟以上といって過言でない美しい結束に如実に示されている。
 『三国志』が、たんなる戦闘攻防だけのドラマを超えて、今もなお、人間のドラマとして多くの人々の胸に迫ってくるのは、戦乱の世に稀有といっていいような劉備とその臣下たちとの人間の絆の深さにあろう。こうした蜀軍独特の義盟的な同志的連帯を生んだのは、劉備が、どこまでも「信」の人であるとともに「情」の人でもあったことによるところが大きい。
 劉備の「情」の深さを物語る最たるものは、関羽の弔い合戦であろう。終生の盟友・関羽を呉に謀殺された劉備は、部下のあらゆる反対を退けて、討呉の戦いに出兵する。周知のようにこの戦いで、劉備の軍は大敗北し、蜀は壊滅の事態にさらされる。その意味でこの戦いは、晩年の劉備の決定的な失敗で、結果的にこれが蜀の命取りにもなっていくのであるから、そのリーダーシップの甘さをいくら手厳しく批判されても当然である。事実、このような無謀さと稚拙さが、劉備という将軍にはたえず顔をのぞかせ、それが、彼をして漢王室の再建という大理想を志半ばで挫折せしめた最大の要因となっており、まさしく劉備その人の致命的欠陥であったというほかあるまい。
 しかし、このような軍事戦略上の常識ではとらえがたい討呉の挙兵であったが、劉備の心情に即してみるならば、生死を誓った友を見殺しにできぬというストレートな“情”の噴出であり、それを無視することは、“信”の死滅以外の何ものでもない。この世で最も尊い「信」や「義」を犠牲にしてまで勝ちとらねばならないものが果たして存在するであろうか……。善きにつけ悪しきにつけ、劉備には、このように策や計算ではない人間の「信」や「義」を直截的に優先しようとする心情の噴出がある。そこにまた彼の、人をこよなく魅了してやまぬ純粋な生命がしのばれ、孔明や関羽、張飛、趙雲ら志を同じくする者にとっては、そこが終生、主の美徳と映じ、絶大の信頼を寄せたのであろう。
18  人間としての純粋な心情の直截的発露と指導者としての大局的判断――劉備玄徳は、このバランスを往々にして欠き、そのつど不幸を招いた。蜀を傾けるにいたった関羽の弔い合戦と同じく、まさしく劉備の“情”や“徳”が仇となった場面がある。曹操の軍に大敗して、千里の道を敗走するさい、劉備は彼を慕う数万の民衆をともなった。しかし、戦に不慣れな庶民をともなう行軍は、困難をきわめ、曹操軍の追撃に多くの民衆が犠牲となった。吉川『三国志』によれば、それを見た彼は悲嘆に沈み「あわれや、無辜の民ぐさ達、我あらばこそ、このような禍をかける。――我さえなければ」と言って川に身を投げようとする。人間・劉備を象徴する格好のひとこまだが、彼は、こうしたセンチメンタルな側面をもった指導者であった。周囲の臣下たちは「死は易く、生は難し。もともと、生きつらぬく道は艱苦の闘いです。多くの民を見すてて、あなた様のみ先へ遁れようと遊ばしますか」と嘆き、諌める。そこで彼も死を思いとどまり再起を期していくわけであるが、その敗走は結果として甚大な犠牲をはらってしまう。
 敗走に民衆をともなった彼の判断が正しかったか否か――これは議論の分かれるむずかしい問題であるといえよう。事実、この劉備の判断を厳しく非難する人もいるが、民を思う彼の心情は、まことに尊い。そしてこれこそ、指導者たるもの、為政者たるものの亀鑑としなければならないものであろう。その意味では、劉備は、民の上に立つ者の人倫の基たる「慈愛の心」を人一倍有した名指導者といえる。しかし、彼にあって問題なのは、たえずその力である。指導者として力がなければ、いかに高邁な理想を持ち、優れた心情を有していても、結局、その大事な民すら犠牲にしてしまう。指導者・劉備玄徳の悲劇の一つは、自らの心情を現実に実証する力の裏付けに乏しかったことであり、このゆえに蜀の不幸を招いた例が少なくない。
 ともあれ、この劉備の故事は、たとえ指導者が、民衆を深く愛していたとしても、その民を守りぬくことがいかに至難であるかを示しており、それはまた、私自身の日ごろからの偽らざる実感でもある。正義と力――この兼備こそ、どれほど指導者にとって求められる要件であるかを、「徳」の人・劉備の軌跡は、改めて教えている。
19  「徳」の人・劉備の軌跡〈2〉――母親論、後継論、人生論など
 劉備玄徳について見逃してならないのは、母親の存在である。劉備は、大変に親孝行な青年であった。父はすでにいない。母一人である。劉備は、母を心から大切にした。しかし、その母はまことに気丈な母であった。偉大な母は、いつの時代であれ、そういうものだ。
 劉備が故郷を出て、二、三年。――いまだ志半ばでありながら故郷を思い、老いた母のもとに帰ったとき、優しく子どもを迎えるどころか、厳しくこう言った。
 「なんです。嬰児のように。……それで、おまえは憂国の大丈夫ですか。帰って来たものはぜひもないが、長居はなりませんぞ。こよい一晩休んだら、すぐ出てゆくがよい」
 そして「千億の民の幸を思いなさい。老先のないこの母ひとりなどが何であろう。そなたの心が――折角奮い起こした大志が――この母ひとりのために鈍るものならば、母は、億民のために生命を縮めても、そなたを励ましたいと思うほどですよ」(吉川『三国志』)と、峻厳な愛情で激励する。
 こうした偉大な母があればこそ、劉備は志を屈せずに、さらに決意を強く深めて、前へ前へと進んでいくことができたのである。まことに母親と子どもの関係は重要である。その関係を多く見てきた私は、母親の一念の所作、一念の力が、どれほど子どもに通じているかを知っているつもりである。とともに、こうした劉備の家庭環境をみるとき“家貧しくして孝子出づ”の言葉どおり、優れた人物は、とかく恵まれない家庭から出るというのが、今も昔も変わりない定理のようである。
20  一方、この劉備とまったく逆の例が、皮肉にも彼の嫡子・劉禅であった。蜀の国は、劉備亡きあと、この劉禅が帝位に就くが、彼には父帝のような大才はなかった。何よりも、艱難を知らないで育ってしまったからである。まことに後継の育成はむずかしいもので、指導者の苦労の最たるものの一つがここにあるが、この劉禅の場合は、劉備の四十代後半の時に生まれた子であり、劉備死去の時はわずか十七歳であった。その意味では、大事にされすぎたのかもしれない。
 戸田先生は「両親が働き盛りの時に生まれた子どもは優秀に育つ場合が多い」といった意味のことを述べておられた。それは結局、子どもにとっては、ある意味で、親の一番大変な時を知り、その苦労をともに味わうことが最大の教育となっていることを示唆している。
 ただ劉備の偉さは、わが子・劉禅の将来について、何らの私情もまじえなかったことである。彼は、自らの死期が近づくのを感じ、孔明に、次のように遺言し、一切を託す。吉川英治氏はこの場面を次のように描いている。
 「君(=孔明)の才は、曹丕(=曹操の息子)に十倍する。また孫権ごときは比肩もできない。……故によく蜀を安んじ、わが基業をいよいよ不壊となすであろう。ただ太子劉禅は、まだ幼年なので、将来はわからない。もし劉禅がよく帝たるの天質をそなえているものならば、御身が輔佐してくれればまことに歓ばしい。しかし、彼不才にして、帝王の器でない時は、丞相、君みずから蜀の帝となって、万民を治めよ……」
 そして劉禅には「父のない後は、孔明を父として仕えよ」と遺言している。吉川英治氏は、「何たる英断、何たる悲壮な遺詔であろう。太子が不才ならば、汝が立って、帝業を完うせよというのである。孔明は、龍床の下に頭を打ちつけ、両眼から血を流さんばかり哭いていた」と感動的に描写しているが、劉備の指導者として光っていた点は、孔明への信頼に表れているように、専制君主にありがちな一族主義を排し、一族の繁栄よりも大義を第一として優先させた、その私心なき姿勢であった。
 こうした姿勢が、君臣の模範とされたわけだが、一切を託された孔明が、劉備亡きあとそれこそ文字どおり、「死を以て」の覚悟で、先主の大業の成就をめざし、獅子奮迅の戦いに踏み出したのは言うまでもない。
21  さて劉備の人間性について、さまざまな角度からみてきたが、彼の歩んだ起伏に富んだ人生の軌跡はまた、人々にきわめて有益な教訓を与えている。それはまだ蜀の国を興す以前の劉備のことである。周囲は劉備の不遇をしきりに憤慨しているが、彼自身は淡々としている。なぜなら、この時の劉備の胸のうちには、次のようなものがあった。すなわち「身を屈して、分を守り、天の時を待つ。――蛟龍の淵にひそむは昇らんがためである」(吉川『三国志』)と。蛟龍とは水中にひそみ、雷雨を待って、時いたらば天に昇り、龍となるという伝説上の動物である。ここには、人生の逆境や不遇のとき、いかに身を処すべきか、その一つの生き方のヒントがある。
 とくに青年時代は、自分を認めてくれない環境を嘆くようなことが、あるかもしれない。しかし青年時代は、四十代、五十代になってからの社会と時代の本舞台を胸に秘め、淡々と時を待つという懐の深い境涯も必要であろう。まさに、劉備の言のごとく、屈するは伸びんがためであり、現在の本分に全力を尽くしつつ、天の時を待つという生き方に、大成への道があることを忘れてはならない。
 また、人生には、ときに敗北もある。そのときにどう身を処し、振る舞うか。幾たびか敗戦の憂き目にあった劉備だが、あるとき、盟友・関羽が失意の劉備を励ます。
 「勝敗は兵家のつね。人の成敗みな時ありです。……時来れば自ら開き、時を得なければいかにもがいてもだめです。長い人生に処するには、得意な時にも得意に驕らず、絶望の淵にのぞんでも滅失に墜ち入らず、――そこに動ぜず溺れず、出所進退、悠々たることが、難しいのではございますまいか」(同前)
 人生の一つの敗北にあたって、くよくよと悲嘆するばかりでは、人生そのものの敗北にさえ陥ってしまう。むしろ敗戦は、次の勝利へのバネであると一念を定め、自らの力をたくわえていくべきである。
 関羽はさらに「人間にも幾たびか泥魚の隠忍に倣うべき時期があると思うのでございまする」(同前)とも諭している。泥魚という魚は、日照りが続き河水が干上がると身を泥にくるんで幾日でもころがり、水があればたちまち泥の皮をはいで泳ぎ出すという、窮することのなき魚である。
 “泥魚と人生”――これもまた味わい深い言葉である。たしかに敗北は、人に失意と絶望をもたらすが、勝利のみでは、決して深みのある人生は生まれない。幾たびか敗戦を経験し、自重し、ひたすら自己を鍛えたもののみが、真実の人生の勝利の喜びをかみしめることができる。こうしてみれば多くの失意と敗北を乗り越えた劉備の生涯には、たんなる英雄、勝利者の何倍、何十倍もの人生の深さ、尊さ、価値が脈打っていることが感じられるのである。
22  不世出の名臣・諸葛孔明――『三国志』彩る英知の光
 『三国志』後半の英雄・諸葛孔明は、時代を超えて多くの人の心をとらえて離さない。その不滅の光彩は、『三国志』中、だれ一人比肩できるものはいないといってよい。戸田先生も、すべての登場人物のなかで、孔明を最も愛された。では、何故、孔明が最も深い感銘を、人々に与えるのであろうか。一つには、言うまでもなくその「智」の輝きが、人間として最高峰のきらめきを感じさせるからであろう。孔明には、人間の憧憬にも似た理想の「智」を縦横に体現できる明晰さがあり、その満天の星の輝きのような「智」の光が、三国の興亡史を限りなく多彩に、かつ色彩豊かなものにしている。
 諸葛孔明の智――彼を「三顧の礼」で蜀に遇した劉備は「先生のご神算には、いつもながら感服つかまつる」(『三国志演義』(上)立間祥介訳、平凡社)と、それこそ全幅の信を寄せたが、その智の秀逸さは、たんなる学究的なものでも、権謀術数的な策謀の類でもなかった。それは、後漢が倒れ、乱れに乱れた群雄割拠の時代、その塗炭の苦しみを味わった民衆のために、公平と正義の社会を実現したいというやむにやまれぬヒューマニズムから沸々と湧き出た実践智であった。そこがまた人々に深い感銘を与える所以であるが、それは人間の英知の、あるべき究極の原点であるといっても過言ではあるまい。
 この孔明が、歴史の表舞台に登場するきっかけとなったのが、有名な劉備による「三顧の礼」で、孔明二十七歳の時であった。この両者の運命的な出会いの伏線となったのは、劉備と司馬徽の問答といわれるが、吉川氏は次のように描いている。司馬徽は、劉備ほどの男が、いたずらに心身を疲れさせ、空しく年を経ることを“惜しい”と言う。劉備が、これについて「時の運はいかんともいたし難い」と慨嘆すると、司馬徽は運命のせいにしてはならないと、蜀の人材の不足を指摘する。
 たしかに関羽、張飛、趙雲らは、一騎当千の勇者であるが、時代を変えうる才に乏しい。またその他の人物にも世を救う経綸の士がいない。これでは、天下の大業がかなうわけがない。そして、今の劉備にとって必要なのは、無双の豪傑でもない。白面の学究の士でもない。時代を洞察し、歴史、天文、地勢をも掌にして、自己の使命に生きる俊傑の士こそ求めるべき人物で、それは具眼の人あらば必ず見いだせると言ったのである。「臥龍か鳳雛か。そのうちの一人を得給えば、おそらく、天下は掌にあろう」とは、この時の司馬徽の有名な言葉として知られている。
 やがて劉備は徐庶を介し、ついに“臥龍”孔明と出会う。そして「三顧の礼」を尽くし孔明は「天下三分の計」を語り、二人は“水魚の交わり”をもって、戦乱の世の統一へ、壮大なロマンを描いて進んでいく。この時の劉備が、いかに真剣であったか――「信義は、天下に聞こえています。英雄をすべて召し抱え、賢人を咽喉から手が出るようにお求めになります」(『蜀書・諸葛亮伝』本田済訳、『中国古典文学大系』13所収、平凡社)と孔明自身が語ったと伝えられるように、人材を求め、積極的に受け入れ、大義に進む劉備の純粋な心情が一直線に孔明の胸を打ったことがうかがいしれる。
23  ともあれ、こうして不世出の名臣・孔明を得た劉備は、それまでの一進一退の情勢から鮮やかに脱皮、戦に次々と勝利し「天下三分の計」の確かなる道を歩んでいくことになる。まさに扇の要ともいうべき“軸”の人を有することがいかに大切か――孔明が加わって以後、関羽、張飛、趙雲らの比類なき力が、余すところなく発揮されて、それぞれ勝利に直結していったことに象徴されている。孔明以前の劉備軍は、どちらかというと力に頼った直線的、平面的な戦であったといえよう。それが孔明という一人の稀代の軍師を得ることによって、一転して立体的にして機略縦横の展開に変化し、千軍万馬の勇将がそれぞれの持ち味を存分に発揮できる体系となっていった。一人の人間の力というものが、いかに人と組織に活力を与え、時代を大きく変えていくものであるかを示して余りある孔明の活躍であるが、彼の英知の光は、もとより軍略面だけではなかった。
 諸葛孔明の知略を代表するものに、「赤壁の戦い」がある。「赤壁の戦い」とは、魏の曹操率いる八十万の大軍と、江南の呉主・孫権との“史上空前の決戦”で、『三国志』の圧巻ともなっている。この戦に、劉備の軍師・孔明は、一帆の風雲に乗じ、その三寸不爛の舌をもって呉軍を説得、見事、赤壁の大捷に導く。名にしおう孫権、周瑜らを手玉にとり、大義を説いて魏との決戦へと向かわせた孔明の知略と胆力――これは別の角度からいえば“戦争を武力ではなく政略をもってする試み”ともいえるが、まことに孔明の面目躍如たるものがある。
24  ところで曹操は、この赤壁の戦いに敗れ、逃げ落ちようとする。そして、もう一歩というところで、関羽に見つかってしまう。しかし曹操は、言葉巧みに関羽の情に訴える。信義の士・関羽は敗残の曹操主従を討つに忍びず、ついに見逃してしまった。このあたり、いかにも関羽の情厚き人柄につけいった、曹操の奸智を如実に物語って余りある。無類の好人物と才知の人とのこの縮図は、人の世の常でもあり、彷彿としてその場面が浮かんでくるが、恩師戸田先生は、この時の曹操を、「彼はしょせん、まだ悪運があった。運勢が尽きていなかったのであろう」と話されていた。小説でいかにも悪人扱いされている曹操のことを十分承知したうえで、「悪運」等と述べられたものだが、恩師がこの段で強調した点は、別にあった。それは、関羽の派遣は、孔明の戦略の失策ということであった。吉川氏の『三国志』では、この点につき、孔明はあえて失策を承知のうえで、関羽を派遣したことになっているが、実際の孔明がそこまで読み通していたかとなると疑問である。
 この場面で恩師が言うのは、その時、関羽でなく、張飛か趙雲子龍を派遣していれば、ついに宿敵曹操を倒すことができたはずだ。あるいは孔明自身であってもよい。それをしなかったのは、さしもの孔明ほどの名参謀が、駒の配置を間違えたからであるという解釈になる。恩師が人物を知ることの重要性を説いてやまなかったのは、常に人間の長所・短所を見極めて、適材を適所におくという将軍学に基づくものであった。戦時に向く人と平時に向く人がある。また戦闘には強くても、治政に向くとはかぎらない。したがって、どのような人でも、それぞれの特徴に合う方向に進んでいけば、すべて生きてくるという指摘であった。孔明が何故、関羽を派遣したのか、その真因は明らかでないが、結果論からみるかぎり、名将孔明にして、その人材配置の甘さを免れえなかったということは、人の本質を見抜くということが、いかにむずかしいことであるかを示しているともいえようか。
25  孔明の知恵の卓越していたことを物語るエピソードのユニークなものとして、南方の土豪・孟獲を捕えた時の話が有名である。蜀の安泰のために、彼は劉備亡き後南征する。呉に通ずる南方を征伐し、後顧の憂いをなくして、魏に向かう壮大な作戦である。ところがこの南方には多くの土豪、その長がおり、その有力な一人が孟獲であった。孔明は南方に進みつつ、この孟獲を捕えては放し、また捕えては放す。それを繰り返すこと実に七度。世にいう孟獲の七擒七縦であるが、この過程を通し、孟獲は孔明に心底感服する。いかに無学野蛮なものとはいえ、古来、七度も捕えられて、放されたという例は聞いたことがない、この大恩をどうして感じないでいられようか、と。
 これは力で屈伏、制圧してもまた必ず反逆される。この人間の性を知り尽くしていた孔明が、南方の豪勇・孟獲に、力、知略、また人間の徳等すべてにわたってかなわないと敬服させ、恩を感じさせるまで待ち続けたという挿話であるが、孔明には、このような人間への深い洞察から出た独特の行動がある。それがまた現代にもなお新鮮な視点を与えている点であろう。
26  孔明の志――「出師の表」にみる清冽な魂
 諸葛孔明が人々の心を引きつけるのは、その知の輝きとともに、自らめざした理想に向かって、私心なく、ひたすら生きぬいたことにある。それは彼が蜀の宰相となって遺憾なく発揮される。孔明がいかに清廉かつ公平な政治を貫いたか、彼の宰相としての姿勢について『蜀書・諸葛亮伝』(『中国古典文学大系』13〈本田済編訳〉所収、平凡社)には、次のように記されている。
 「諸葛亮の宰相ぶりは、人民を慈しみつつ掟を示し、役人を取り締まるのに臨機の制度により、誠心を披瀝し公平な道を布いた。忠義を尽くし当世に益ある者は仇でも必ずほめ、法を犯し怠慢な者は親戚でも必ず罰した。罪に服し真情を吐露する者は重罪でも必ず宥し、いい逃れようとことばを飾る者は軽罪でも必ず罰した。善行はどんなに些細でも必ず賞し、悪事はどんなに軽微でも必ず咎めた。諸事に細かく気が付き、一つ一つ根本について調べる」
 ここに明らかにされているように、政治家・孔明は、ある意味では几帳面と思えるほど公平な政治を心がけた。そのため信賞必罰にも厳格に徹した。とともに彼の偉さは、己にも厳しく、大変清廉だったことだ。
 彼は、主君に「成都には桑八百株と痩せた田十五頃がございます。子弟の衣食はそれであり余るぐらい。(中略)たとい私が死にました時でも、陛下に背いて家の内に余計な絹を、家の外に余計な金を残すようなことは致しませぬ」(同前)と上奏しているが、死後、全くそのとおりであったと記録されている。蜀の人民が、こうした孔明の公平無私の姿を亡き後まで慕い続けたことは言うまでもない。
27  まことに大義と理念に殉ずる魂が、いかに清冽なものかを孔明は自らの人生を通して人々に示しているが、彼のその高邁な志への純粋な一念を不朽のものにしたものが、「出師の表」であろう。これは劉備亡きあと、蜀の王を継いだ劉禅に奉った孔明の有名な上奏文であるが、彼の国を憂える真情が吐露され、読む人をして涙させずにはおかない名文といってよい。
 「先帝、創業いまだ半ばならずして中道に崩殂(ほうそ)せり。今、天下三分して、益州疲弊せり、これまことに危急存亡の秋なり。(中略)宮中・府中はともに一体たり、臧否(そうひ)を陟罰するに、異同あるべからず。(中略)命を受けて以来、夙夜憂嘆し、託付の効あらず、もって先帝の明を傷らんことを恐る、故に五月、瀘を渡りて、深く不毛に入れり。今、南方すでに定まり、兵甲すでに足る、三軍を奨率し、北のかた中原を定むべし。庶わくは駑鈍を竭し、奸凶を攘除し、漢室を興復し、旧都に還さんことを」(守屋洋・竹内良雄訳、前掲『三国志』)
 劉備亡きあとの南方征伐から約一年、孔明は兵力、兵站の充実に努め、北征への準備を進める。しかし、蜀の多くの重臣たちは、現実の安定に甘んじ戦を嫌っていた。しかも三国時代とはいえ、魏の十二州に対し、蜀はわずか一州、弱小であることは免れえない。そういう意味で、だれがみても蜀にとって勝算の乏しい戦とみられるが、孔明の決意は固かった。なぜ孔明が、この時期、多大な犠牲を覚悟のうえで、魏との戦を決意したのか。それは、魏がますます力を増し、蜀を狙っていることを、すでに見抜いていたからである。したがって、自分の存命中に、先手を打っておかなければ、必ず魏は蜀を討ち滅ぼすにちがいないと先を見通していたのである。いつの時代でも、責任深き指導者にしかわからない胸中の苦悩があるが、「出師の表」には、時代の先を知悉できるがゆえの孔明の悲痛なまでの背水の覚悟が行間に脈打っている。
 その文中に「宮中府中一体たり」とある。宮中とは皇帝の側近、府中とは政府官僚のことで、先帝・劉備亡きあと蜀は危急存亡の時にあり、宮中と府中が一体となって事にあたらなければならない。まことに当を得た言で、戸田先生もこの文に大変共感されて、よく用いられた。今でいえば、指導者と民衆とが一体となって、その目的を達成しゆく道理を説いているのである。
 また孔明は「賢臣に親しみ、小人を遠ざくるは、これ先漢の興隆せしゆえんなり。小人に親しみ、賢臣を遠ざくるは、これ後漢の傾頽せしゆえんなり」(同前)と述べ、若き未熟な劉禅に帝王の道を説く。すなわち前漢が栄えたのは、皇帝が賢臣を近づけて用い、口さき巧みで、こびへつらう阿諛便佞の小人を遠ざけたからだ。これに対し後漢が滅びたのは、賢臣を遠ざけ、小人と親しくし用いたからである、と。
 折しも蜀の国は、孔明の懸命な内政の実を得て安定に向かっていたが、その過程のなかで、重臣たちの心はいつしか保守化し、次第にみずみずしい前進の息吹を失い、堕落と衰退の翳りが見え始めた時であった。
 「出師の表」は、こうした蜀に巣くう安逸と惰性を打ち破り、創業の大理想に立ち返り、宮中府中一体となって士風を一変し、国の危機を救わんとの孔明の強靭な一念から発した建白の書であった。諸葛孔明が、多くの人をして驚嘆せしめたその知略の冴えとともに、否、それ以上に、人々の心の奥深くに刻印されるのは、まさにこうした彼の鮮烈な生き方そのものにあったといってよい。そしてそれが、最も象徴的に展開されたのが、五丈原であった。
28  苦心孤忠の孔明――秋風五丈原の晩節
 諸葛孔明の魏征伐の出兵に対して、不安をいだく者は数多くいた。魏と蜀の兵力と国力の差を単純にみれば当然であるかもしれない。しかし、現実の孔明は、その違いを知り尽くし、万端の準備をしていた。人々はその孔明の深謀遠慮を理解できず反対した。だが、孔明の中原への進出の意志は不退転であった。そして彼は、この最後の大事のために、実に緻密にして用意周到に事を進めたのである。
 劉備亡き後、五回の外征をおさめ、とくに後半三年は内政の拡充に力を注ごうとしたのも、その現れであったといってよい。吉川英治氏は「三年師を出さず、軍士を養い、兵器糧草を蓄積して、捲土重来、もって先帝の知遇にこたえんと考えたのである。いかなる難事が重なろうと、中原進出の大策は、夢寐の間も忘れることなき孔明の一念だった。その事なくしては孔明も無い」と、いかに孔明にとって、中原への出兵が、先帝・劉備以来の宿願であったかを記している。彼の仕えた劉備は、まさに魏の曹操によって、中原を追われたのであった。
 最後の五丈原のみならず、劉備の志を胸に秘め、北征へと向かった孔明は、すでに晩年にさしかかっていた。しかし、その晩節にいたるまで、彼の一念から、先帝より受けた大恩、また先帝と誓った大業が消えることはなかった。この至誠の生涯に、孔明という一個の人格の真実の偉大さをみる思いがするのは、私一人ではあるまい。
 かくして孔明は、最後の戦線を中原に定め、数次にわたる北征を敢行する。弱小勢力のうえ、兵糧なども続かないといった悪条件のなか、執拗に繰り返されたのは、孔明の強靭な一念以外の何ものでもなかった。第二次北征前に書かれたといわれる「後出師の表」には、「ただ坐して亡ぶるを待たんよりは、これを伐たんにいずれぞ」(守屋洋・竹内良雄訳、前掲『三国志』)、すなわち“坐して滅びを待つよりむしろ伐つべし”との壮烈な孔明の心境が綴られている。
 しかし周知のように、この魏との戦は、比類なき名軍師・孔明の晩年の苦心孤忠をより一段と浮きだたせる結果となる。それを最も典型的にあらわしたものが、彼自身病没した最後の“五丈原”であるが、“泣いて馬謖を斬る”の故事で知られる最初の北征でも彼の苦衷はにじみでている。
29  第一次の北征は、孔明の知略が冴え、魏軍を翻弄し、勝利を積み重ねていくが、街亭における馬謖の失敗で頓挫する。馬謖は、孔明の友人・馬良の弟で、兄の戦死後、孔明が引き取り、世話をした青年であった。孔明はこの才気煥発の馬謖を大事に育てた。そして、この北征の天王山ともいうべき街亭の戦いに派遣した。しかし、馬謖は、経験が乏しく、また才と功に走るきらいがあった。もちろん孔明はそれを知りつつあえて起用した。孔明としては、それだけ“ここ一番”という思いで、馬謖に真剣に賭けたのであろう。その真剣勝負の心が、馬謖を送り出すさいの「陣中に戯言なし」との鋭い言葉に示されているといってよい。
 しかし、悲しいかな、馬謖にはそうした心の深さがわからない。溢れる才と、功を求めて走る心を払拭しえなかった。彼は結局、傲慢にも孔明らの命令に背き、常軌を逸して山上に布陣してしまう。これが取り返しのつかない大敗を招き、それまで緻密に組み立て、周到に積みあげた孔明の作戦は、音をたてて崩れてしまった。さながら針に糸を通すように少ない兵力、人材をもって魏に迫ろうとした孔明の粒々辛苦が、余りにも安易な若者の慢によって、水泡に帰してしまうとは……。しかもその命令違反の張本人が、彼が大成を期待し、育てた人物であったとは……。孔明は、重臣の反対を押し切り、涙をふるって馬謖を斬罪に処する。これは孔明ほどの知将も、馬謖への慈愛がすぐる余り、その判断に曇りが生じた例ともなっているが、別の見方をすれば、この馬謖派遣の悲劇は、蜀の人材の欠乏を如実にあらわしていたともいえよう。すでに関羽、張飛は亡く、謀臣の法正また黄忠等、建国以来の重臣が相次いで亡くなり、孔明一人、辛労を尽くすほかない蜀の状況だった。しかも魏との戦が激しくなるにつれ、この蜀の人材不足が深刻なまでに孔明に重くのしかかっていく。のちに裏切っていく魏延などを使わざるをえなかった苦衷はいかばかりであったろう。
30  その孔明の心中を、吉川氏は「五丈原の巻」で次のように記している。
 「口には出さないが、孔明の胸裡にある一点の寂寥というのは実にそれであった。彼には科学的な創造力も尽きざる作戦構想もあった。それをもって必勝の信ともしていたのである。けれどもただ、蜀陣営の人材の欠乏だけは、いかんとも是を補うことができなかった」
 この点について戸田先生は「人間おのおの長所もあれば、短所もあるものだ。さすがの孔明としてもいかんともしがたいところがあろう。蜀の国に人材が集まらなかったのは、あまりにも孔明の才が長け、几帳面すぎたからだ」と指摘しておられた。
 余りにすべてに長じすぎるがゆえの悲劇――いかにも不世出の名参謀・孔明なるがゆえの悲劇だが、恩師はさらに「しかも、彼には、人材を一生懸命探す余裕もなかった。そこに後継者が育たなかった原因があると思う」と、孔明の置かれた立場の苦しさ、果たさねばならぬ使命の厳しさに思いを寄せ、語られていたことが忘れられない。
 晩年の孔明には、このような彼以外には分かつことのできない苦衷を一人胸におさめながら、しかも前へ進まなければならないという苦心孤忠の運命がつきまとう。とくに魏との最後の大決戦の舞台となった五丈原においては、激務と心労で、彼自身、病のなかにあった。しかも任せるに足る味方の手駒は、数少ない。
 それでも孔明は、劉備の重恩に応え、その遺業の完結をめざし、毅然と敵将・司馬懿仲達と相対峙する。この孔明の赤誠と峻烈な生き方は、古来、多くの人の涙をさそわずにはおかない感動を与えている。土井晩翠の名詩「星落秋風五丈原」も、この孔明の心情を歌ったものである。
31   祁山悲秋の風更けて
  陣雲暗し五丈原
  零露の文は繁くして
  草枯れ馬は肥ゆれども
  蜀軍の旗光無く
  鼓角の音も今しづか。
    ***
  丞相病あつかりき。
    (中略)
  夢寐に忘れぬ君王の
  いまはの御こと畏みて
  心を焦がし身をつくす
  暴露のつとめ幾とせか
  今落葉の雨の音
  大樹ひとたび倒れなば
  漢室の運はたいかに。
    ***
  丞相病あつかりき。(土井晩翠、『現代日本文学全集』58所収、筑摩書房)   
32  諸葛孔明の生涯とその魂が、最後の戦場、五丈原をバックにして見事に表現された詩である。病あつき孔明。蜀軍の旗に光はない。孔明の胸に去来するものは、志半ばに死んだ劉備の自分への深い信頼と漢の国の命運である。……この詩には、まさに間もなく没しゆかんとする孔明の悲痛なまでの想いが込められている。
 ところで、昭和二十八年の新年、私は、恩師にこの「星落秋風五丈原」の歌を披露したことがある。これは土井晩翠の詩に曲がつけられていた歌であるが、恩師はじっと耳を傾けられ、聞くうちに眼鏡をはずされ、やがてハンカチを眼にあてられた。そして「いい歌だ。もう一度、歌って聞かせてくれないか」と、前後六回も聞かれ、「君たちにこの歌の本当の精神がわかるか」と尋ねられた。
 そして戸田先生は、志ならず途上で死ななければならなかった孔明の心情を、わがことのように語られた。「孔明は、明日をも知れぬ断崖絶壁の命となっている。味方の軍勢は負け戦の最中だ。このような瀬戸際に立った時、人はなにをどう考えるか。悔恨などという生やさしいものではない。まして、諦めることができるものではない……この孔明の一念を思うと、あまりにもかわいそうであり、不覚にも涙を流してしまうのだ」と。
 諸葛孔明は、文字どおり壮烈な五十四歳の人生の幕を、五丈原で閉じる。志半ばで逝かなければならなかった彼の無念の心中は察するに余りある。しかし、臨終を迎えんとするその刹那まで、孔明の一念の炎は止むことがなかった。その現当を貫く強靭な一念は、“死せる孔明、生ける仲達を走らす”という妙なる現実を生みだし、結果として蜀の国を守ったのである。ちなみに魏によって蜀が滅ぼされたのは、この孔明死後三十年も経過したあとだった。こうしてみると、晩年の孔明の北征は、負け戦ではあったが、彼の鬼神も哭くがごとき壮烈な至誠の一念は、蜀の危機を救うとともに、その名を千載の劫まで残すこととなったのである。
 諸葛孔明――劉備玄徳の知遇を得た二十七歳より、五丈原に没した五十四歳までの波瀾万丈の二十七年間の、一貫して変わらぬその潔き“生死”は『三国志』中の人物のなかで、不滅の光彩を今なお放っている。

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