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日蓮大聖人・池田大作

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第一節 『新・平家物語』  

随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

前後
1  “苦に徹する”ということ
 私は早くより、どちらかというと文を書くことが好きであった。体も強くない。他に特別の才能もない。何とか文筆で身を立てることができればと思ったことも青年時代にはあった。
 そうしたなか、戸田城聖先生が日本正学館という出版会社を経営されている時、誘いがあり喜んで入社し、雑誌の編集者となった。短い期間であったが、多くの著名な作家とも出会えたことは、大変うれしかった。それは、懐かしくも思い出深き歴史のひとこまとなっている。
 詩人の西条八十、ユーモア小説の佐々木邦、時代小説の山岡荘八、山手樹一郎等々の諸先生であり、他にも多くの方々と面識を得た。
 そのころ、ぜひとも一度お会いしたいと思っていた方が吉川英治氏である。しかし、残念なことに、とうとうお会いする機会がなかった。私が会長に就任した二年後の、昭和三十七年(一九六二年)に氏は逝去された。私の行きつけの理髪師に聞いたことだが、吉川氏も慶応病院に入院中、その理髪店を利用されており、そのさい創価学会に深い関心を持っている旨、話しておられたという。学会の出版物も読まれていたようであり、友人からも学会の話を聞かされていたような口ぶりであったそうである。一度、話をする機会があれば、いかなる語らいとなったか――お会いできなかったことは、今も残念でならない。
 しかし、私は昭和六十二年(一九八七年)の五月、氏が昭和十九年(一九四四年)に疎開し、約十年間にわたって住んでいる吉野村(現在の青梅市)の草思堂、現在の吉川英治記念館を訪ねることができた。
2  吉川英治氏といえば、まず「苦徹成珠」という言葉を思い浮かべる。吉川英治記念館でも、氏自身の「苦徹成珠」の墨書が目をひいた。いうまでもなく、氏が好み、人にも書き贈り、自分も壁間に掲げて“修行の心”としていた言葉である。記念館の訪問は長年の念願がかなったものであったが、以下の「富士のごとくに」の詩は、その時の思いをもとに、この不世出の文豪の人と作品をしのんで詩いとどめたものである。
  緑もまばゆく風清し       
  ついに来りし草思堂       
  孤高持したる文豪の       
  大いなる道しのばむと      
  
  青春思索のあの書あり      
  恩師と学びしこの書あり     
  心の糧なる文人の        
  面影揺れる梅木立        
  
  波瀾なるかなその生涯      
  齢十一零落の          
  運命厳しく試練あり       
  奉公に出し秋の朝        
  
  痩せ細りたる母の面       
  楽をば願いて勤めたる      
  ドックの作業所足場墜ち     
  瀕死の事故に遭いにけむ     
  
  使命のゆえか不思議なれ     
  生死の淵より蘇り        
  胸に苦学の志          
  抱きて都の土を踏む       
3   男子ひとたび立てるなら     
  負け朽ち果ててなるものぞ    
  身は粉となるも何かせむ     
  「苦に徹すれば珠と成る」    
  
  権勢の波いざよえる       
  底に常なる庶民あり       
  平凡なるも満たされし      
  幸いありや尊けれ        
  
  殿上遠く地下なるも       
  まことの凱歌の夫婦旅      
  正義の歩みの彼方には      
  桜花爛漫名画あり        
  
  権力の魔力にひとは酔う     
  悲しかりけむ性なるか      
  生命の淵にたたずめる      
  深き思惟の孤影あり       
  
  大衆と伍し共にあり       
  民の心を潤しぬ         
  荒涼の野に馥郁と        
  野梅の清く咲くに以て      
4   向学の情やみがたく
  月下に書を読み句をつくり
  幼き胸に創作の
  熱ふつふつとたぎりたる
5   父は病臥の人となり
  昼夜分かたぬ労働も
  口を糊する糧ならず
  ひとり夜明けの海を見む
  
  一家は散りて世の波間
  漂い流れる花なるか
  病みて帰れる妹は
  母の名呼びつ息絶えむ
  
  ただ憂うるは家びとの
  暮らしや如何に如何ならむ
  心に詫びつ学びたる
  その懐に母の手紙
    (中略)
  国は破れし民悲し
  栄枯と盛衰はかなけれ
  吉野の里にて文人は
  筆をば断ちてもの思う
  
  骨肉相喰む世にありて
  人の幸とは如何なるや
  欲望綾なす人間愚
  涙しつづる「新平家」
6   諸行は無常散りゆくも
  散らぬは法の花なるか
  常住の道たずね行く
  文の旅路や遙かなる
  
  文は人なり境涯ぞ
  史観鋭く確かにて
  時世の描写は優れりと
  我が師も高くたたえたり
    (中略)
  ああ光降る奥多摩の
  川のほとりに我れ立たば
  無量の思い水に溶け
  波間に優し笑みを見む
  
  その文学の峰高く
  富士のごとくに聳えたり
  ああ燃えゆかむ旭日に
  ああ輝きぬ永劫に
7  この詩にも綴ったが、幼少のころより、氏の経てきた苦労は相当のものがあったろう。十一歳の時に家運が傾き、小学校を中退して印刻店に奉公に出ている。やがて父は病床に臥し、赤貧の果てに一家は離散さながらの状況を呈する。家計を助けるため、年齢を偽って、ドックの船具工員となるが、作業中に足場板もろとも落下するという事故にも遭う。その後、苦学の決意で上京。らせん釘工場などに勤めながら、文章を磨いていく。
 しかし、氏が自分の苦労を嘆いたという話も、苦労談を誇らしげに語ったという話も聞かない。“四半自叙伝”として書いた『忘れ残りの記』を見ても、てらいも気負いもなく、苦境時代が淡々とした筆致で綴られている。
 氏のこんな一文がある。
 「およそ『自分ほど苦労した者はありません』などと自ら云える人の苦労と称するものなどは、十中の十までが、ほんとの苦労であったためしはない」「ほんとに人生の苦労らしい苦労をなめたにちがいない人間は、そんな惨苦と闘って来たようにも見えないほど、明るくて、温和に、そしてどこか風雨に洗われた花の淡々たる姿のように、さりげない人がらをもつに至るものである。なぜならば、正しく苦労をうけとって、正しく克ってきた生命には、当然、そういうゆかしい底光りと香いが、その人の身についているはずのものだから」(「焚き反古の記」『吉川英治全集』52所収、講談社)
8  鋭い指摘である。人は苦労への処し方によって、その後の自身がつくられていくように思う。ひとつは、自分を卑下し、卑屈になり、物事を悲観的にとらえるようになるケースである。これは現在に不満があり、苦労が報われなかったと考える人が陥りがちな傾向といってよい。語られる言葉は暗く、愚痴と文句、あるいはあきらめに終始してしまう。
 もうひとつは、自分ほどの苦労人はいないとの思い上がりを持ち、他を見下し驕慢になっていく人である。これは一応の成功者に多いようである。ともすれば過去の苦労談を吹聴し、誇張して語ろうとする。しかし、その実、未来に対しては、苦労を回避したいという願望が強く、巧妙な世渡りの術を駆使し、保身に汲々となる。これらは、いかに功なり名を遂げたとしても、苦労が自身の人格を向上させる真の養分とはなっていないと言わざるをえない。
 それらに対し、苦労を経ることによって、人格が磨かれ、人柄の幅も広がり、人間的な深みが増していく人がいる。こうした人は、苦労をことさらひけらかすこともないし、かりに語っても、明るい響きがある。いな、本人自身が、それを苦労などと受け止めてはいないことさえある。“まだまだ自分のやってきたことなど本当の苦労ではない。世の中には、もっと多くの辛酸をなめつくしてきた人がいるのだ”との、謙虚さを持っているからにほかならない。
 この差はどこから生じるのか。その人の人生観の深さと生き方の気構えにある。いわば「苦労は未来の財産である」「苦労なくして成長も大成もない」との自覚に立って、能動的に一つ一つの物事に突き進んでいけるかどうかにある。
 「苦徹成珠」の「苦徹」すなわち「苦に徹する」とは、その不断の気構えにあるといってよい。
9  “無常”の世に“常住”を求めて
 吉川英治氏が草思堂で起稿し、代表作となった作品が『新・平家物語』である。敗戦の傷跡癒えぬ昭和二十五年(一九五〇年)春から三十二年(一九五七年)春まで、実に七年間にわたって「週刊朝日」に連載された。
 氏は一九四五年八月十五日の終戦の日以後、二年間にわたって執筆を中止している。吉川英治氏ご自身も述べているように、人間が人間を殺し合う愚行が今なお繰り返されるという現実――吉川氏は、歴史と現実と自己を痛みと悲しみのなかで直視し、深き思索と洞察の時をもったにちがいない。また、時代と民衆を巻き込んだ軍国主義という大きな歴史の轍のなかで、文人としての自己の存在を省み、人間はいかに生きるべきかを考え、悩み続けたことだろう。その熟慮の結実が『新・平家物語』であったといってよい。しかも、その後、執筆までに、約三年間にわたって構想を練りに練ったという。また、病弱で胃腸の弱かった氏は、連載開始を前に、とくに盲腸の手術までしている。この作品にどれだけ情熱を注いだかがうかがいしれるところである。
10  物語は、平清盛の青年時代から始まる。やがて平家は全盛を極めるが、栄華も束の間にして、源氏の旗揚げによって滅ぼされる。そして、平家討伐の総大将であった源義経も、兄・頼朝の命によって討たれ、その頼朝も、ほどなく落馬がもとで病床につき、あえない最期を迎える。
 著者は、物語の「“はしがき”に代えて」で「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。……」との、『平家物語』書き出しの一節を引用している。まさに諸行は無常であり、人間や一門の栄華など風の前の塵にすぎない。それなのに人間は盛者たろうとし、なぜ愚かな争いを繰り返し続けるのか――これが、この作品を貫く一つの命題となっている。
 人間は、無常の世にあって、限りある生を全うしていく以外にない。では、人はいかに生くべきなのか。
 この書の中で、吉川氏は、過ちを犯しひとたびは死を思い立った清盛の知人・遠藤武者盛遠に、次のような示唆に富む感慨をもらさせている。
 「生々久遠の美と光をもつ日輪のまえに、悩むこと、惑うこと、苦しむこと、何一つ、価値があると思えるものはない。――笑いたくさえなる。だが、人間はある。果てなく生まれ次いでゆく。宇宙観の冷厳だけで、それをいいきってしまっては、人間とは、余りにも微小であわれ過ぎる。せめて、人間の中の範囲で、価値を見つけて生きあうのが、はかない者同士の、世の中というものではあるまいか。――と、思い出したかれは、何か、地上の価値を見つける者のひとりになろうと思った。生きる愚よりは、死ぬのは、なお大きな愚だと思った」(「ちげぐさの巻」、以下『新・平家物語』の引用は『吉川英治全集』所収、講談社による)
 はかない権力や栄華を、あたかも永遠のものと思い、争い求めたとしても、結局は、かげろうのように空しい人生に終わってしまう。大宇宙と比べれば、人間の営みなど、とるに足りないものにすぎないだろう。
 しかし、それで終わってしまえば、弱々しい厭世観の域を一歩も出ないが、この盛遠の言のように、吉川英治氏は、人間存在が、はかなく限りあるものだからこそ、この有限の生のなかで、何らかの価値を見いだし、創り上げていくことが大切であることを強調している。それは、無常の世の中で、常住なるものは何かという、人間にとって普遍のテーマへの氏自身の模索といってよい。
11  話は変わるが、私は十七歳で終戦を迎えた。東京は焦土と化し、わが家も戦災に遭い、愛する兄も失った。ほどなく焦土の街に秋の気配が漂い、やがて冬が来た。焼け出された人々をさいなむ、長く厳しい冬であった。しかし、冬は春となり、バラックの立ち並ぶ町にも、鮮やかに桜の花が咲き薫った。
 私は、廃墟に咲く桜を見て思った。――桜花は美しく、自らの生命の限りを尽くすかのように咲き、人々の目を楽しませ、心をなごませる。限りあるものが、その力の限りを尽くしてこそ、この世に生を受けた使命を果たせるのではないか、と。
 やがて、私は人生の師戸田先生と巡り会い、この仏法を知ることができた。それは、まぎれもなく常住の世界への確かなる一歩であった。そして、戦争という人間悪と戦うために、自分らしく生涯をかけようとの決意を固めた。それは、途方もなく困難な、遙かな道であることも知悉していた。しかし、私も、“地上の価値”を見つけて生きゆく一人でありたいと願ったのであった。
 身近な暮らしのなかでよい。いや、その日々の現実のなかに、自分は自分らしい信念と人生の方途を見つけ、創りながら、何ものにも壊れない満足の人生を歩んでいくことである。
12  生涯、貧者の友となる
 『新・平家物語』には、著者自ら言うように特定の主人公はいない。「約半世紀にわたる“時の流れ”を書こうとしております」と吉川氏は述べている。清盛、頼朝、義経、義仲なども、物語全体を通しての主人公とは言いがたい。
 しかし、そのなかで、一貫して登場する人物がいる。阿部麻鳥とその妻の蓬である。清盛の青年期から頼朝の死にいたる半世紀を生きぬき、すべてを見届けた一庶民。この一組の夫婦こそ、いわばこの物語の陰の主人公である。
 麻鳥は、上皇の水守として人生を出発したが、やがて人々のためにとの思いから、独学で医学の勉強を始める。彼の願いは“町の片すみに住み、貧者の友となりながら、生涯を凡々と暮らしていきたい”ということである。麻鳥はその後、師を得て医者としての自分を磨き、病に苦しむ貧しい人々を救っていく。庶民の間に、彼の信望が高まり、名も知られ、清盛や殿上人なども、しばしば請われて診察することになる。
 また義経に軍医として従軍したこともある。その折には、負傷者が源氏方であろうが、平家方であろうが、区別なく懸命に治療している。
 この麻鳥に、著者は人間の生き方の理想を置いているように思える。彼は名医の実力を持ちながら、庶民で在り通す。殿上人に取り入って、名声や地位を得、財をなそうなどとは毛頭考えない。自分の信じたままに一途に生きる。それが妻の蓬にはいささか不満であり、よく小言も言われる。蓬には、家庭を顧みない、無欲なお人好しの亭主が少々物足りなかったのである。
 麻鳥は、妻の文句や愚痴も、飄々と受け流す。彼には信念がある。民の安穏のために生きるということだ。まことに民衆のなかにしか、人間社会の真実の実像、実相はない。また民衆という現実を無視して、いかなる歴史も語ることはできない。
 しかし、人間は、しばしば、この民衆という大海を忘れ、いな、背を向けて自らの栄耀栄達を図ろうとする。のみならず民衆を犠牲にし、手段にして、自らの野望を果たそうとする権力者も数多い。しかも現実に残される歴史の多くも、この民衆という大海原からみれば、けしつぶのように小さい波にすぎない一部の権力者や英雄が、さも歴史の主役であるかのように語られている。
13  吉川英治氏は、この『新・平家物語』で、たんに権力の座にある者の視座からだけではなく、その時代、社会のまごうかたなき呼吸者たる庶民、民衆の眼から、人間の歴史の歩みを、もう一度、活写していこうと試みているかのようである。そこには、現実の生活者たる庶民の眼こそ、一切を曇りなくまた公平に写しゆく確かなる“活眼”であるという、氏自身の波瀾に富んだ人生経験に裏付けられた信念が潜んでいるように感じられてならない。
 その意味で、麻鳥の信念は、吉川氏自身の人生に対する誇らかな信念であるわけだが、生涯を、平凡な一庶民として在り通し、民の安穏のために尽くすという麻鳥の生き方のなかに、無常の世にあって、常住なるものに近づきうる人間の普遍的価値があると、著者は全編を通じて語りかけているといってよい。
 と同時に麻鳥が、たんにかげろうのごとき「殿上の価値」に訣別するだけでなく、「地下人として生きる価値」を求めたことに、現実に生きて生きて生きぬくなかにしか、真実の人間としての人生の証はないとの主張が感じられる。当時、栄華や権力の争奪に訣別し、人間の真実の道を求めようとした者は、出家し遁世するのが常である。しかし、麻鳥は現実の世界に根を張り、決して逃げようとはしなかった。
 社会の矛盾や荒廃に直面した時、それに背を向け、引き退くことはたやすい。自ら、かかわりを断ち切ることによって、自分なりの自己満足の世界をつくることも可能である。だが、麻鳥は、現実世界のなかにあって、妻をかかえ、子の将来を案じながら、悩みつつ逞しき生活者として生きぬいていく。そのなかで、京の町に増える捨て子を何十人も面倒をみ、荒れ果てた都に田畑を作ることを人々に教え、自らその先頭に立って働くのである。現実を離れ逃避して、いかに理想を追い求めたとしても、それは所詮、夢想にすぎない。日々、汗と泥にまみれながら、自らの理想とするところへの歩みを続けずして、いかなる建設もありえない。
14  麻鳥は言う。
 「こんなときには、一心、気をそろえて、手足の満足な者は働き、弱い者は扶け、とかく、扶け合いで、よい日を待つほか、生き方はない」「いくら凶年だからといって、智恵をもち、手足もある人間が、むざむざ、餓死を待っていてよいものか」(「くりからの巻」)
 ここには懸命に、ひたぶるに自らも生き、人を生かそうとする人間の心を感じさせる。彼にあるのは、机上の理論ではなく行動である。ゆえに、その言葉に、人々は勇気を持ち彼の後に続いた。皆、だれよりも麻鳥を尊敬し、信頼したのである。それは、彼が、自分たちと同じ生活者としての辛酸をなめ、苦悩しつつ生きる人間であったからだ。
 人は最終的には、権威につき従ってはこない。人間についてくるのである。一個の人間としての人柄、誠実さ、真剣さ、そして、それらがもたらす触発と共感が、人をひきつけるのである。
 現実の渦中から一歩もひかず、人々の真っただ中で、民衆とともに、今日も貧者の友と同苦しつつ、己が人生の歩みを堂々と悔いなく歩み続ける麻鳥――私は、そこに最も尊い人間の進むべき道があると拍手を送りたい。
15  人間を見る平等な“まなざし”
 麻鳥は、かつて水守として仕えていた崇徳上皇が謀反のかどで讃岐に流されると、以前、上皇が「月のよい晩に、いちど、おまえの横笛を聞いてみたいね」(「ほげんの巻」)といっていた言葉を思い出し、はるか海をへだてた讃岐を訪れている。また清盛の病の治療にもあたれば、源氏の大将・義経のためにも献身する。そして、無名の民のためには、さらに労苦をいとわない。
 その行動は、およそ世間の固定観念の枠でとらえることはできない。権威権力を恐れての行為では当然ないし、親「平家」とか親「源氏」といった枠にもおさまらない。また、権力者対民衆といった図式に縛られての行動でもない。
 麻鳥は蓬にこう語っている。
 「富者も貧者も、源氏も平家も、医者の眼からは、なべて一つの人間だ。みな平等な人間でしかないのだよ。(中略)だいいち、この小さい家のおたがい夫婦と子たちは、決して、源氏でもなければ平家でもないはずだ。ただ、こうやって、日々を仲よく楽しく暮らしたいと願っているだけの家族ではないか」(「三界の巻」)
 彼は位階や立場を超えて、すべての人々を一個の尊い人間とみている。どこの勢力に与するわけでもない。あえていえば、一人一人の人間に与する親「人間派」といえようか。だから、相手がだれであれ、苦しみ、悩み、助力を願う者を見過ごしにすることはできない。大誠実をもって応えている。
 まことに明快な立場であり、人間として、心から納得できる行動である。私も、かねがね、仏法者として「人間党」を信条としてきたが、全く同感である。あらゆることの前提にまず何よりも、人間個々の存在を優先して事にあたるという人間主義の行動こそ、一切の原点でなければならないと私は信じている。
 しかし、この万人にとって、いわば“自明の理”とも思えることも、現実の問題となると、人は、なかなか、この原点からの行動に立つことができない。どうしても現実のしがらみのなかで、人間は、人間そのものを離れて、結局、自ら属するセクトや立場、あるいはイデオロギーなどで色分けし、ときには一方を善とし、一方を悪と決めてしまいがちである。言いかえれば、その人間の真実をみることなく、個々の人間を取り巻く社会のなかで付与された枠組み、つまりある種の既成の虚構をもって、人間を識別してしまうことが余りにも多い。なかんずく、時代、社会全体が、セクト間同士の対決、葛藤の渦で揺れ動いているときは、なおさらである。
 阿部麻鳥の眼に映じる時代は、いうまでもなく、源平の対決という、文字通り国が二分された時代であった。そのなかで麻鳥をして、源平に偏せず、しかも源平を超えて、思いきって人間という原点からの行動をとらせたところに、太平洋戦争を経て、文人として思想的葛藤を繰り返し、懊悩してきた果ての、吉川氏の視座があったといってよい。そして、この視座は、仏法で説く中道にも通じゆくものともいえようか。
16  仏法の中道という立場は、決して中間的、折衷的なものではない。それは、物事を二者択一ととらえる見方、論理に対する批判の立場であり、物事を既成の論理、観念、範疇からでなく、全体的、個別的に、真実あるがままに即して見て、行動していく独自の現実的行動の原理である。
 中道を表す有名な比喩として、“毒矢の譬え”がある。ある人が毒矢に射られたとき、人間はまず何をするか――すべてをさしおいて、まずその矢を抜くであろう。それを、その人の身分がどうの、その人の思想がどうの、その人の立場がどうの等々ということが判明しないかぎり、行動できないとすれば、その人は、たちどころに死んでしまうであろう。そして、まさに、まずこの毒の矢を抜いて人を救うという知恵と実践のなかに中道があると、釈尊は説いていく。
 ここには、釈尊当時のインドの思想界が、九十五派にも分かれ、それぞれが、現実遊離の観念、論理をもって争っていたバラモンの状況に対する痛烈な批判があるわけだが、同時に死に瀕した人間という最もシビアな現実を前にして、既成の論理、観念、権威、そこから派生した枠組みといったことが、いかに無益なものであるかを諭している。そして、現実の人間社会の実相は、仏の眼からみれば、まさに、この毒矢に射られた人と同じく苦しみ、悩む“生命の病人”であり、一刻も早く救済しなければならない衆生ばかりである。
 したがって、ここから、すべてをさしおいて、まず人間に巣くう苦悩をなくそうとの人間主義の実践が生まれてくる。麻鳥の「富者も貧者も、源氏も平家も、医者の眼からは、なべて一つの人間だ」との言は、期せずして、生命の病の耆婆(医師)を任じた仏の慈眼に相応する一面があるともいえよう。
17  ところで、この件で、麻鳥が、「この小さい家のおたがい夫婦と子たちは、決して、源氏でもなければ平家でもないはずだ。ただ、こうやって、日々を仲よく楽しく暮らしたいと願っているだけの家族ではないか」と語っているところは、まことに味わい深い。殿上の世界、言いかえれば権力側からの視点に立てば、源氏か平家かは、天下の一大事であるかもしれない。しかしそれを、地下人の世界、すなわち一民衆の次元からみると、源氏も平家もいっこうに関係ない。ただ、あるのは、幸せに暮らしたいと願う人間群であり、家族である。まさに民衆の眼からみた、歴史の真実相が吐露されているわけだが、それはまた麻鳥が、民衆の側に自身の身を置き通したことで見いだしえた、大切な人生の真実であった。
 これに関連し、恩師戸田先生が、「地球民族主義」を提唱した時のことを思い出す。今日では、「宇宙船地球号」なる言葉も定着しているように、人間が、小さな自分の民族、国家、人種、イデオロギーを超えて、地球的規模で一致結束して、共存共栄をめざすことは、当然の常識となりつつあるが、恩師が、このグローバルな観点の「地球民族主義」を提唱した時は、今から三十数年前の朝鮮戦争の折であった。
 当時は、戦後の冷戦時代の幕開けで、東西対決は、日に日に激化し、ふたたび大戦火の危機をはらんでいた時であった。したがって、恩師のこの卓見も、当初は、荒唐無稽な飛躍論のようにしか受け取られなかったが、戸田先生はまことに達観しておられた。そして、当時の冷戦時代の大テーマと考えられていた「資本主義か社会主義か」という二者択一的な熱い世論の動向に対しても、一庶民からみると、直接の問題ではない。むしろ、「どちらの味方か」と民衆に聞かれれば、「ご飯が味方で、家のあるほうへつきます」と答えるであろうと、ユーモアをまじえて話されていた。
 いつの時代でも、民衆は、“生活派”であり、麻鳥のいう幸福と平和を願う“家族派”である。為政者、権力者が、この庶民の現実感覚を忘れた時、常に悲劇が訪れる。戦争は、いかなる大義名分を掲げようとも、絶対許されない。
 『新・平家物語』の一つの魅力は、この麻鳥の生き方に象徴されるように、随所に著者の人間を見る平等な“まなざし”があることだ。
18  平清盛には、出生の秘密があった。白河上皇の落胤とも、悪僧の不義の子ともいわれるが、真相は定かではない。若き日の清盛は、そのことで深刻に悩む。その時、古くからの家臣で、清盛のいわば“おじじ”の存在である木工助が言う。
 「たとえ、真の父御が、たれであろうと、和子様だけは、まちがいなく、一個の男の児ではおわさぬか。(中略)こころを太々と、おもちなされい。天地を父母とお思いなされや」(「ちげぐさの巻」)
 人は、自分のことになると、家柄や門閥、社会的キャリアや立場、また財産の有無、さらには国籍、人種等々で推し量り、優越感をもったり、時に劣等感をいだいたりするものである。清盛もその一人であったのだが、家臣が述べた「天地が生んだ一個の人間」――との言葉は、清盛の心を鋭く射抜いた。彼はこの言葉に励まされ、そこに自らの立脚点を定め、以後、大志をいだいて天下への道に突き進んでいくのである。その意味で、木工助の言葉は、清盛の生き方の基盤ともなったわけである。
 また、こんな件がある――麻鳥の息子は、家出し、やがて染物屋の職子になる。蓬は、医者の息子が「手を真っ黒けにして、染屋の紺掻き男なぞで終わったら、世間も笑う」のではないか、と心配する。
 すると、麻鳥は厳として言う。
 「人として、どこに負け目がある?(中略)人おのおのの天分と、それの一生が世間で果たす、職やら使命の違いはどうも是非がない。が、その職になり切っている者は、すべて立派だ。なんの、人間として変りがあろう」(「吉野雛の巻」)
 社会というものは、さまざまな職業の人がいて成り立つものである。皆が同じ職業であっては成り立たない。その意味で、職業の違いがあるのは当然だが、もとよりそこに上下、貴賎はない。要は、その職に徹しきり、そこで第一人者となっていくことこそが肝要であろう。
 このように、『新・平家物語』には、人は職業や門閥の隷属物でもなければ、党派、国家の帰属物でもない。すべてに先立って、まず尊厳なる人間であり、これこそ最も尊重すべき人間社会の原点であるべきだとの不動の視点が据えられている。そして、まさに、この当然ともいうべき視点の確立のなかにこそ、ますます複雑化する人間社会の未来を開きゆく確かな“座標軸”があるといってよい。
19  「朝の来ない夜はない」
 平清盛も、源頼朝も、ともに不遇な青年時代を過ごしている。
 清盛は、父忠盛の零落の極みのなかで育つ。一家は「貧乏平民」と言われ、同族にまでさげすまれるありさまであった。父に代わって借金もして歩いた。家では夫婦げんかが絶えず、勧学院に学問をしに通っていたが、彼の心はすさみ、いつかやめてしまう。
 やがて、清盛は院の武者所に入り、父とともに鳥羽院に仕え、叡山の法師の強訴のさいには、院から取りしずめの一任をうけ、神輿に矢を放って、見事にこれを抑えた。しかし、源氏びいきの左府(左大臣)頼長が権力を握っており、なんの行賞もないばかりか、むしろ不逞な行為として、清盛は院への出仕を停止され、親族までも罰せられたのである。
 どんなに尽くしても報われない構造のもとで生きなくてはならないことほど、絶望の思いをつのらせるものはない。だが、清盛は、決して不平顔を見せずに言いきる。
 「なんの、陽がかげれば、月が出る。月が沈めば、陽が出る。あすの陽が、出ないわけでもあるまい」(「九重の巻」)
 頼朝もまた、同じ意味の言葉を口にしている。
 平治の乱で源氏が敗れたのは、頼朝が十四歳の時である。ほどなく彼は伊豆の蛭ヶ小島に流され、以来、挙兵までの二十年、厳しい監視下で青年時代を送ったのだ。
 そして、挙兵後まもなく、石橋山の戦いで彼は惨敗する。
 その時、頼朝は、自分に向かって、こう言い聞かせる。
 「敗けたのだ、おまえは、敗けたのだ」「こういう目に遭ったのも、よいことだったと、後にはいえるかもしれぬ。落命しては、おしまいだが、一命だけは、とりとめた。みろ、わしはまだ生きている」
 敗戦の末、一切を失った頼朝であったが、三十四歳のいまだ若い五体があることに気づき喜びを覚える。
 頼朝は言う。
 「夜明けを待とうよ。明けぬ夜を、もがいてみても仕方がない」
 臣下は答える。
 「げにも、朝の来ない夜はないはず。……だがなんと、明けの遅さ」(「断橋の巻」)
 絶体絶命ともいえる窮地でのやりとりである。
20  長い人生には挫折もある。敗北を余儀なくされることもある。人は、苦難の波浪にあい、敗北を喫すると、往々にして、自ら絶望に落ち込んでしまう。実は、その時、一切の可能性の芽を、自分の手で摘んでしまっているのだ。
 時は移り、流れる。そこには必ず事態の変容がある。夜の闇も刻々と暗さを変え、ついには黎明に染まるように。それは自然のことわりであり、道理といってよい。その認識を欠けば、ピンチにはあきらめに陥り、チャンスをも安閑として見過ごしてしまうことになる。大切なことは、未来を信じ、希望を持ち続けることである。そこから、新たなる蘇生の道が開かれていく。
 清盛も、頼朝も、希望を捨てなかった。もちろん来るべき未来は、必ずしもよりよい事態であるとはかぎらない。しかし、“やがていつの日か”と、時の来るのを待ち、希望の火を胸中に燃やした。いわば“信念ある楽観主義”といってよい。
 悲観的なものの見方は、安逸や油断を排する役割を担いもするが、窮地を脱する活力とはならない。ともすれば、挑戦への気力をそぎ、あきらめをいだかせてしまうからだ。では、ただ楽観的であればよいかというと、決してそうとはかぎらない。安易な楽観主義は、尽くすべき力も尽くさず、未来への備えをも怠る因になりかねず、やがて絶望への拍車をかけることにもなる。
 不動の信念のもとに、十二分の備え、努力をなして、闇の彼方の旭日を胸に描いて、突き進む――この信念ある楽観主義こそが、閉ざされた暗夜の扉を開くカギとなろう。
 清盛も、頼朝も、それゆえに、ピンチを脱して、自らの大願を果たしたといえる。青年は、いかなる困難に出くわしても「朝の来ない夜はない」との信念に生きる、勇気の人でありたい。
21  忍耐こそ大成の要件
 頼朝の挙兵――それは、ほとばしる泉が、山を下り、谷を刻み、大河となって広がるように、歴史転換の大きな流れを開いた。その背景には、源氏という枯渇した泉の底深く水脈をつなげ、水をたたえ、噴出の機をつくった一人の老武将がいる。源三位頼政がその人である。
 この頼政については、歴史的な評価も、美談の人というものや、逆に変節の人というように分かれ、人物についても不明な部分は少なくないようだ。しかし吉川氏は、頼政像を次のように描き上げている――。
 頼政は、平治の乱では、源氏の一門ではあったが、公卿の“野望の武器”に利用されるだけだとして、戦いには加わらなかった。そのため一門から裏切り者とののしられ、結果的には、平家に与していくことになる。平家の覇権の時代が訪れるが、彼にはなんの恩命もない。保身のために寝返った卑怯者として平家からも冷侮され、貧乏に耐え、人の誹りを忍びながら、地下武者として黙々と番将を務めた。やがてあわれみをかい、位階を得、昇殿を許されるが、人々は異口同音に「犬よ」「獣よ」とさげすむ。
 しかし、清盛に平家への忠勤が認められ、源氏の見張り役として伊豆に領国が与えられ、東国の目付人になるのである。源氏の一門は、ことごとく頼政を憎み、恨んだ。孫でさえも深く憎悪していた。
 頼政の衣服は疲れ果て、馬も決して武者などが乗らない驢であった。そのみすぼらしさがまた、あざけりの対象となった。家にこもれば石つぶてを投げられる。周囲のだれもが、誇りも気位もなく、余生をつつがなく送ることだけを考えている老残の姿でしかないと見ていた。
 しかし、彼には、ひそかな大目的があった。平家を打倒し、源氏の世をつくるということである。そこに、生涯をあまねく賭けていたのだ。
22  彼の貧しさは、頼朝が旗揚げの日に必要不可欠な弓、太刀、馬具、小具足、大鎧、あらゆる軍の用具や兵糧を調えるために、生活を極限まで切り詰めていたためである。また、日ごろの振る舞いも、平家を安心させ、あざむくためであり、すべては深謀遠慮のもとにあった。
 人々に唾棄され、地をはいずるがごとく、忍従ここに二十年。その間、ひそかに志を同じくする者と連携をとり、着々と準備を進め、時の来るのを待った。
 頼政七十七歳にして、彼の立つべき時が来た。後白河上皇の第二の皇子以仁王を立て、平家追討の令旨を書かせることに成功したのだ。頼政は、以仁王とともに奈良に行き、そこに陣所を設け、諸国の源氏が蜂起するのを待とうとした。
 しかし、もとより、遠く勝利及ばぬ戦いである。
 彼は思っている。「余命、わし一個は、いくばくもあるまい。しかし源氏は若い。わしは死のうが、源氏は死なぬ。それでよいのだ、わしの接木の役はすむ」(「りんねの巻」)と。
 奈良への途次、頼政は、謀反を知った清盛のさし向けた兵と、宇治川で戦う。十倍の兵を相手にした合戦であった。壮絶な戦いの末に、頼政の軍は敗れ、以仁王は自害し、彼もまた討ち死にしたのである。
 が、頼政は確信していた。以仁王も、自分も果てても、令旨は必ず諸国の源氏に、新たな希望を与えていくことを――。
 事実、頼政が以仁王の令旨を得て蜂起したことが、伊豆の頼朝に伝えられるや、頼朝はついに旗揚げした。挙兵のための武器、馬具、食糧など、頼政が三島の官倉にすべて用意していた。「生涯、貧しい粟を食べつつ人知れず蓄積しておいた」ものだ。かくて、源氏の世への幕が開いたのである。
23  頼政の生涯は、悲惨といえば、あまりにも悲惨である。また、目的も、一門の興隆にあり、全民衆の幸せ、繁栄といった視座に立つものではない。しかし、一つの目的に向かう信念と忍耐の強さは、称賛に値しよう。何ごとによらず、大業を成そうとする者にとって忍耐は不可欠な条件だ。一時の感情に激することはたやすい。勇敢に戦い、命を捨てることも、耐え忍んで生きぬくことからみれば、まだ容易である。それは束の間にすぎないからだ。忍耐の長夜を生きることは、最大の辛労であり、それに打ち勝てる者こそが初志を貫徹し、大業を成しうる。
 忍耐は、地中にのびる根っこといえるかもしれない。この根が地中深く、幾重にも交差してこそ緑茂る大樹は成る。忍耐なくして大業を成そうとすることは、根なき大樹を求めるに等しい。
 青年時代とは、一面、未来の夢と現実との葛藤の季節であるともいえる。心はやり、希望と不安が交錯し、他人と自己とを比べて焦燥にかられることも少なくない。その不安や焦りに抗して自らを律し、自己の定めた指標に向かって、日々黙々と突き進む勇気――それこそが忍耐である。
 言いかえれば忍耐とは、目的の成就に徹してこそできる人間の所為といえる。その目的のためには、見栄も、恥も、悔しさも、悲しさもかなぐり捨てることも辞さないし、悔いはないという決定した心こそが、“忍耐の母”である。また、目的に向かい、緻密に計画が練られ、ひそかに、着々と準備が進んでいるのだとの実感が、さらに忍耐力を強くするであろう。
24  敵である平家のみならず、味方の源氏からもさげすまれ、憎まれても、頼政がなおじっと耐ええたのは、平家討伐の目的に殉ずる不動の決意を固め、だれも気づかないが、着実にその実現に向かい布石がなされている手応えを感じていたからではないだろうか。
 自身の一切を賭けて悔いない指標の確立、そして、そのための一つ一つの課題への挑戦――ここに頼政をして二十年の忍耐を可能ならしめた要因があろう。
 よく現代の若者には忍耐がないとの声を耳にする。たしかに苦労を避けてよい結果のみを求める風潮がないとはいえない。しかし、それよりも、自分の一切を賭けうる指標を見いだせないことに、より大きな原因があるように、私には思える。
 また、頼政は死したが、死して源氏の世を開いた。「犬」といわれた彼だが、その死は、源氏のためには、決して「犬死に」ではなかった。
 人生の意味は、生きがいによって決まる。生きがいはまた、死にがいと表裏をなしている。自身の死にも、未来への大きな意義を見いだし、殉じていった頼政の生涯は、一つの完結した人間のいき方といえるかもしれない。
25  義経にみる“優しさ”と“強さ”
 『新・平家物語』に登場する人物で、どうしてもふれずにはおれない人物は、源義経であろう。それはたんに、彼の歩んだ人生がまことに波瀾万丈で、しかもその最終章が余りにも悲劇的であったということだけではない。彼の生き方のなかにみられる人間性そのものが、多くの人々に、深い感銘を与えるからであろう。
 とくに、『新・平家物語』に描かれる義経像には、吉川英治氏の理想のリーダー像が託されているかのように、その人間的魅力が、生き生きと活写されている。
 義経の短い生涯に凝結されたドラマは、余りにも有名である。それは、まさに“花のごとき生涯”といってよい。平治の乱で父・源義朝が敗れ、叡山の末寺・鞍馬山鞍馬寺に稚児として預けられ、得度を前にした十五の年に、寺から逃げ、平家の力及ばぬ陸奥に向かう。そして頼朝の旗揚げを聞いて、主従の絆を結んだ“草の実党”の若武者らとともに馳せ参じ、兄弟の対面を果たす。以後、源氏の勇将として一ノ谷、屋島、壇ノ浦と果敢に戦い、平家を滅ぼすが、なんら行賞は与えられず、逆に讒言に心動いた兄・頼朝の命によって追われる身となり、ついに衣川で生涯を閉じる……。
 悲劇の波間を必死に生き、義に厚く、情深く、知勇兼備の義経像は、悲しくも、まことにさわやかな感動を与える。なかでも感銘を深くするのは、“草の実党”をはじめとする配下の武者たちとの結合の絆の強さである。その人間的絆の強さは、頼朝を恐れさせ、その顰蹙をかうところとなり、やがて追われる要因にもなるのだが、主従の深い交わりは、人間の絆とは何かを物語って余りある。
26  小説の中に、あの扇の的を射落とした那須余一宗高と弟の大八郎宗重が、十年ぶりに再会し、語り合う場面がある。
 大八郎は義経の配下にあり、余一は頼朝の寵臣・梶原景時の配下にある。
 開口一番、余一は言う。「なあ弟、おまえは、倖せだろう。倖せとは思わないか」と。「なぜですか」と尋ねると大八郎に、余一は答える。「判官殿のおそばにおる。おなじ仕えるなら、よいお主がよい」(「やしまの巻」)――。
 義経は、まさに源氏の臣下にとって、羨望の的だった。かくも義経が慕われたゆえんは、どこにあったのであろうか。義経の魅力は多々あるが、一言すれば、人に対する深い思いやり、情愛といってよい。弁慶の母で奴婢の「さめ」への慈愛は、それを象徴している。「さめ」と出会った彼は、古い肌着や菓子を与え、母に接するかのように敬い、庇護する。そして、義経と一緒に都に連れていってくれと切望する、「さめ」の願いを聞き入れ、自分の馬に乗せ、自らその口輪を取ろうとさえする。危地を行かねばならない旅に、媼を伴うことは、いかに大きな労苦と危険を背負いこむことになるかは言うまでもない。
 私は、この義経の優しさ、誠実さの背後に、限りない強さを見る思いがする。普通、優しさと強さは対極をなすものと考えられ、むしろ弱さと優しさが共存するかのように思われがちである。しかし、真実は、優しさと強さは表裏一体であり、大いなる優しさは、大いなる強さのなかにしか宿らないものである。
 次の話は、それを端的に物語っている。
 ――義経の叔父にあたる新宮十郎行家は、策略家として知られるが、平家が牛耳る都の治安を混乱させるために、放火などの奇策をめぐらせ、子の行宗や“草の実党”の若者と実行に移す。しかし、行宗をはじめ実行者十数人が、平時忠に捕らえられる。この事件は、義経にとっては、まったく、何の関係もないことであった。しかし、彼は、同志が窮地に陥っていることを見過ごすことができず、その身柄の救出のために、自ら犠牲になることを思い立ち、敵中に一人出向く。
 同志が無事に解放されるためには、自身の身を損ずることも辞さない――それは最大の優しさ、思いやりであるといってよい。心弱くしては、決してできうる行為ではない。人間は、自分に余力があり、安全であるうちは、他人に情をかけ、優しく振る舞うこともできよう。しかし、ひとたび窮地に陥ると、自己の保身のために、他人への思いやりどころではなくなってしまうのが常である。
27  だが、真実の優しさも、思いやりも、また誠実も、人情も、むしろそこから始まるのではないだろうか。わが身を損ずるのも顧みず、人のためになす行為であるからこそ尊く、感動を覚えるのである。それは人間として、またリーダーとして最も大事な“利己”を超えた“利他”の振る舞いの輝きといえようか。
 人間だれしも、自己を愛する心は強いものだ。そのなかで利他の行動に突き進んでいくには、少なくとも二つの条件が必要となろう。一つは、“利他”の行為を己に課す哲学、精神の支柱である。そして、もう一つは、それを行動に移す勇気、強靭な意志力である。
 義経にとって、彼の哲学の骨格となっているのは、十六歳で武門に生きようと心定めた時、母の常磐から言われた言葉である。
 「宿命でしょう、ぜひもない。けれど夢々、無力な民を苦しめない良将になってください。この母は、おまえたち幼子を、抱きかかえ、飢えさまようて、どんなに、戦のむごさを、身に知らされて来たことか。また、たくさんの人びとに同じ姿を見て来たことか。
 もし、その酸鼻を、地上からなくし、世の安堵を守る弓矢が、そなたの武門であってくれたら、母はどんなに、うれしかろう」(「吉野雛の巻」)
 「世の安堵を守る弓矢」――これこそ、義経が母親から切に託された「武門の道」であった。彼は、そのために平家を倒さねばならないという矛盾を背負って生きたが、この戒めをよく心に銘じ、戦にさいしても、無益な殺生は極力避け、和睦を望み、一人一人に最大限の真心を注いでいった。つまり、世の安堵を守る具体的な行為として、身近な一人一人を大切にしたのである。
 この義経の人間への思いは、彼の最期の時、遺憾なく示される。まもなく果てんとする彼は愛する妻の静の不幸を思い、静と同じ立場にあり苦しんでいる者が、平家のなかにもあまたいることを考え、自身の武勲をむしろ恥じ、悲しむ。そして、死を前に、忠臣たちに、落ちのびるよう諭し、復讐の念だけはいだくな、と次のごとく語る。
 「一人を幸福にしたい気もちも、人すべての幸福を願う祈りも、おなじ善意につながってこそ世に平和は成就されるものと信じるからだ。まして、これから先、お汝たちが、旧主の怨みをはらさんなどという考えを起こしたら、義経の最期は、無残、犬死にとなるだろう」(同前)
 まことに心を打つ一節である。自分の妻や子、愛する者を幸福にしたい気持ちは、全人類の幸福を願う思いと、一体でなくてはならない。人類愛や世界の平和を口にしても、自分の身近な人を粗末にし、不幸にするようでは、所詮、観念の遊戯であり、虚像にすぎない。また、自分の愛する人の幸福のみを願い、他を、全体を顧みない生き方は、エゴの域を出ない。平和といっても、身近なところから始まるし、身近なところでつくりあげた幸福、人の和を、社会へ、世界へと広げていこうという努力こそが大切なのである。
28  ところで、もう一つ、義経の魅力は、彼が常に“悩める将”であったことであろう。頼朝夫妻の奸策によって百合野とむりやり結婚させられ、ひとかたならぬ頼朝への忠誠心を持ちながら、誤解され、冷遇され続ける。しかし、決して、兄頼朝を怨むまいとし、人知れず、葛藤しつつも、なお自らの「武門の道」に生きようとする。
 多くの悲しみ、苦しさと戦いながら、必死に生きる姿――人々の共感は、そこに生まれる。恵まれた立場、環境にあって、堂々と指揮をとることは容易だし、尊敬もされるかもしれない。しかし、大変な苦境にありながらも、それにめげず、くさらず初心を貫こうとしてこそ、より深く、人々と心を通わせ合うことができる。義経の臣下も、彼の苦しい心中を知るにつけ、さらに尊敬の念を深め、忠義の心を強めていったといえよう。
 こうして義経は、個々人とのふれあいのなかで、共感の輪を広げ、主従というより、むしろ同志としての絆をつくっていったのである。そこに彼の臣下たちが、合戦に臨んで遺憾なく力を発揮していったゆえんがある。
 頼朝と義経――歴史は、この宿命の兄弟の絆を、残酷な形で引き裂いた。それは、天下を狙う冷徹な権力者と、人々に信頼高き、優れた人間的リーダーとの、ある意味では必然の帰趨であったのかもしれない。そして自ら恐れをもいだいた弟を追放した兄は、史上初めての武家政治の開幕者として、文字通り、歴史の表舞台に、その名を刻した。しかし悲劇の終末だった弟の名は、ある意味で、この兄の何千、何万倍と深い思い出とともに、人々の心という永遠の歴史のカンバスに残ったのである。
29  もとより、どちらの生き方がよかったかを、ここで論ずるつもりはない。また、『新・平家物語』の義経像は、少し理想化されすぎているかもしれない。ただ、吉川英治氏が、理想のリーダー像を託す思いで、感銘深く義経像を描こうとした点は、よく理解できる。
 というのは、リーダーたるものは、民衆の安堵のためには、一身の犠牲をも顧みず、他者に献身するという勇気と強さを持つべきであり、その丈夫の強さと優しさを兼ね備えることこそ、まさに指導者の要件であるからだ。また人間として、真に偉大なのは、たとえ何らの行賞を与えられなくとも、己が大義に、黙々と徹しきり、殉じゆく人である。
 義経の歩んだ人生は、この無私の人間のみの持つ、輝きを放っている。そして、これも歴史の示すところだが、いつの時代でも、民衆は、こうしたひたむきな「義経型英雄」を愛し、逆に権力者は、その無私ということが信じられないがゆえに、まばゆさを覚え、恐れを感じ、やがて嫉妬し、排除していく。それはある意味で、人間の究極の善性を信じられるか否かの、その人の人間性の分岐点であるともいえようか。
30  幸せはわが心の中に
 『新・平家物語』の最終章は、波瀾万丈の半世紀を生きてきた麻鳥と蓬の老夫婦が、美しい吉野山の桜を眺め、幸福をかみしめ、語り合うシーンで終わっている。
 蓬は、しみじみと思う。
 「よくよく、わたしは倖せ者だったのだ。これまで、世に見て来たどんな栄花の中のお人よりも。……また、どんなに気高く生まれついた御容貌よしの女子たちより」(「吉野雛の巻」)
 蓬は、かつては、義経の母である常磐御前に仕えていた。その常磐は、夫・源義朝を失い、幼い三人の子どもとも引き離され、苦渋の生涯を送らなければならなかった。
 蓬も、世の多くの人が願うように、夫が功なり名を遂げ、それなりの財を得て、豊かで安定した暮らしを望む気持ちは強かった。貧しい人々のために、家庭をも犠牲にして尽くそうとする夫に、腹をたて、文句を言いもした。
 しかし、世の栄枯盛衰を見続けるなかで、蓬は麻鳥の言葉を思い起こしつつこう語っている。
 「栄花や権勢は、うわべだけの物でしかない。九重の内に住む人びとと、貧しいちまたに生きている人びとをくらべれば、かえって、ほんとの人情や、人間の美しさは、公卿の社会より、貧者の町の底にあると。……それは、つくづく本当だと思いました」(「常磐木の巻」)
 こうして、自らの幸せに気づいたのである。
 人間の本当の幸せとは、富や権勢など、外面的な条件によって得られるものではない。
31  私も、これまで、数々の指導者や識者とも会ってきたし、多くの無名の庶民の方々とも語り合ってきた。たしかに、社会的な立場などが、そのまま幸せを意味するとはかぎらない。多くの財と名声を得ながらも、家庭の不和に悩み、安らぎもいたわり合いもなく、悶々とした日々を送っている人もいる。心から信じ合える友もなく、立場の維持に汲々となり、猜疑と孤独にさいなまれている人もいる。また、決して生活も豊かとはいえず、名も地位もない平凡な庶民であっても、家庭も円満で、希望に満ちた、充実した人生を楽しんでいる人も少なくない。むしろ、そのほうが、はるかに多いともいえる。
 人間の幸せを考えるとき、最も大切になるのは、心の満足、心の豊かさである。幸せを、財や地位、名誉など外面的なもののなかに求めるかぎり、永遠に心の満足は得られない。富も地位も、求めれば限りがないからだ。そして、その獲得に終始していれば、いつも心は、“飢餓の泥沼”から脱しきれない。
 心を満たすには、自身の内に「歓喜の泉」「感謝の泉」を持つことであろう。
 麻鳥夫妻の生涯は、苦労に苦労を重ねてきた波瀾の日々であったといってよい。蓬は、ときにはそんな苦労に嫌気がさし、ついつい夫に愚痴をこぼしてきた。しかし、そうした自分を恥じ、桜を眺めながら、ひそかに夫に詫びる。常磐をはじめ、権勢の犠牲となった人々や、親子、兄弟で争い、骨肉相喰んできた人たちに比べ、どれほど自分が幸せであったかと感じ、感謝の思いをいだいていたからである。
 麻鳥も、「これという楽しみも生活の安定も与えず、雑巾のように使い古してしまった妻」(「吉野雛の巻」)に、自分についてきてくれた妻に、礼や詫びを言いたいと思う。この感謝と感謝の共鳴が、互いの心に、いたわりと幸福の楽の音を奏でるのである。いかなる困難や試練にさらされても、感謝を忘れぬ人には、喜びがあり、幸せがあることを銘記したい。
 また、麻鳥夫妻の幸せは、その生涯を利己のためではなく、貧しい人など、利他のために尽くしてきた喜びに裏打ちされていよう。利己のみに生きる人生は、どんなに富を得ても空しさが残り、本当の充実は得られないものだ。しかし、たとえ苦労はあっても、利他に生きるとき、自身の心は広がり、さわやかな充実感を得ることができる。
 幸せは、彼方にあるのではない。自分の生活の中に、生き方の中に、そしてわが心の中にある。さらに麻鳥夫妻のこの光景は、人生の最後に幸せを実感できる人こそが真の幸福者であることを示している。彼らは、戦災で住む家さえ失ったこともあったし、非行に走った息子のことで悩みもしてきた。何度となく恐ろしい思いもしている。しかし、麻鳥は信念を捨てなかった。そして、老いて、幸せをしみじみとかみしめている。
 途中がいかに幸せそうにみえても、人生の最終章が不幸であれば、悲しみと悔いが残る。最後の勝利者をめざし、日々悔いなく、わが人生を進みゆく信念の走者でありたいものである。

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