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日蓮大聖人・池田大作

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随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

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1  必死の一人は万人に勝る――カナダの歴史に輝くセコード夫人
 “必死の一人は万人に勝る”――私の好きな言葉だが、それは私自身の偽らざる実感である。大小を問わず、勝利と凱歌の陰には必ず、真剣と真心の“必死の一人”がいる。そうした人との出会いは、心打たれるとともに、まことにうれしいものだ。
 その“一人”とは何も有名人ではない。それどころか、歴史を振り返るとき、時代の大きな変革には必ず無名の庶民、民衆の献身的な戦いがある。いわゆる“歴史”というものはその一点を軽視し、とかく“英雄史”となりがちだが、むしろ私は歴史を創出するのは民衆の力であると思う。
 ラウラ・セコード――後にカナダの危機を救った勇気ある女性と仰がれる彼女もまたそうした無名の庶民の一人であった。一九八一年(昭和五十六年)六月、私はカナダのトロントを訪れた。そして五大湖の一つ、オンタリオ湖畔にある彼女の“家”に向かった。周囲を柳や杉の古木、草花が美しく彩るなかに、セコード夫人の一生を彷彿させる清楚な二階家があった。
 一八一三年夏、カナダ(英)軍とアメリカ軍とがしのぎを削る戦いを展開していた。セコード夫人の住むクイーンストーンも激戦地の一つで、夫も重傷を負う。彼女の家も、アメリカ軍の駐屯所となってしまう。
 そんなある日、彼女は窓際で、アメリカ軍の重要な軍事機密を耳にする。急を知った彼女は、重傷の夫をあとに、単身約三十キロメートル離れたカナダ軍の駐留地へと走る。狙撃される恐れのある道を避けるためには迂回せざるをえなかった。しかも森の中をかきわけながらの道なき道であった。衣服は破れ手足は傷つき、疲労困憊しながらも一歩また一歩と走りぬいた彼女の必死の突破行が見事成功。それによってカナダ軍は、アメリカ軍に奇襲をかけ、歴史に燦然と輝く見事な勝利を収めたのであった。
 まさに女性のもつ一途さが歴史を動かしたのだ。しかもこの功績のあとも彼女はこれを誇ることなく、戦争で不具の身となった夫亡きあとも二人の子どもらとともに社会の荒波と戦い続けたという。功あってもなお、無名の道を走り続けた彼女の姿は、功績にもまして尊く気高い。清楚な白い二階家のたたずまいは、その人生の高貴さそのままであった。
 “一人”の存在がいかに大きいか。いかなる大偉業も、他人を頼って成しうるものではない。ましてや、大勢の力があればできるというのは、安易であり、傲慢であろう。
 “必死の一人”のいない団体は一時的に拡大、発展するようにみえることがあっても、究極的には、衰退への道をたどってしまう。真剣な一人を次々と生みだしていくところは、一つの核が、太き車軸をつくり、二波、三波、万波と大いなる広がりを不断に形成していくものである。
2  指導者の責任――ラ・コンパニア教会の大火災
 「指導者の責任」ということについて、考えさせられる事件の一つに、今から約百二十年前、南米チリの教会で起こった大惨事がある。この痛ましい事件は「誤った思想・宗教の恐ろしさ」「人間を大事にする一念」などを含め、きわめて多くの教訓を残していると思う。
 一八六三年、南米チリの首都サンチアゴにあるラ・コンパニア教会が火災に見舞われ、一夜にして二千人もの若き女性たちが焼死するという痛ましい事件があった。その惨事は、翌年のイギリス年鑑(Annual Register,1864)にも克明に記録されている。
 それによれば――。
 十七世紀末に建てられたこのラ・コンパニア教会で、十二月八日の夕刻から、盛大な祭典が挙行された。集まった人は三千人を超え、その大半はサンチアゴの上流階層を彩る若く美しい人たちであった。この祭典は「聖母マリアの無原罪懐胎」という教義を祝うもので、この日は一カ月間にわたる祭典の最終日にあたっていた。
 オーケストラ、合唱、かぐわしい香料、見事な飾りつけ等々、一カ月の祭典は、ぜいたくの限りを尽くしていたという。しかし、このラ・コンパニア教会のウガルテという司祭はそれでもまだあきたらなかった。彼は、手紙に供物を添えて教会に預け出れば、聖母マリアとつながることができる――そんなふれこみで「天国への郵便局」なるものを考えだしている。そのうえ宗教的な“富くじ”までも始めていた。これらは、カトリックの教義からも明らかに逸脱しており、信仰者とは思えない名利におぼれ、堕落しきった姿と言わざるをえない。司祭ウガルテは、ローマの有名教会をもしのぐ飾りつけを自慢したかったにちがいない。そこに注ぎこんだ莫大な費用の捻出のため、彼は高価な入場指定券さえ売り出したのである。教会内には絢爛豪華な掛け布が高い円天井から床まで垂れ下がり、祭壇のまわりには二千本ものロウソクが並べられたという。
 しかし、こうした豪華な飾りつけの一方で、安全上の配慮は何ひとつされていなかった。
 運命の十二月八日午後六時四十五分、教会はすでに超満員。それにもかかわらず、なお中へ入ろうとする群衆が扉をめざして押し寄せるなか、ミサが始まった。荘重なオルガンの調べ、たちこめる香料の甘い香り、荘厳な雰囲気に包まれて、侍祭の人たちが祭壇に登り、二千本ものロウソクに次々と火をともしていった。
 その直後、ある侍祭が不注意にも手もとを狂わせ、近くの布に火をつけてしまった。炎はみるみる大きく立ちのぼり、帳を伝わって天井の薄絹にも燃え広がる。宙づりにされた数千のパラフィン油ランプにも引火し、淑女たちに火花となって降りかかっていった。炎はうなりをあげて燃えさかり、人々の耳をつんざく悲鳴が教会の円天井にこだました。
3  ところで、火災が発生した当初の約一分間、人々は身動きをしなかったという。前述のイギリス年鑑はこう記している。
 「群衆には慈悲深い神が大火災を止めてくれるだろうという期待があった」
 一般的にいって、往々に信仰者は、こうした心情をいだきがちなものかもしれない。しかし現実の出来事に対して、何ら具体的な対応をしない受動的ないき方は、真実の信仰者のあり方ではない。むしろ、信仰をしているからこそ、細心の配慮と対策を講じなければならない。また悩みに直面しても、何とか苦難を乗り越えよう、希望の道を切り開こう、と積極的な工夫と取り組みを行っていくような前向きの姿勢こそ真実の信仰者の姿なのである。
 ラ・コンパニア教会には、人々の生命の安全性に対する配慮が全くといってよいほど欠けていた。その要点を挙げると、 教会は建造後約百五十年たっており、しかも屋根は木造で火の回りが早かった。 出入り口が少なく、小さいうえに飾り幕に遮られていた。 定員以上の入場券を売ったため、中に入りきれなかった女性たちが出入り口付近を占領して避難の妨げとなった――などである。
 そのうえ、教会の中に残された妻や娘を助けだそうとする男性が扉に殺到し、中から逃げようとする女性たちは逆に火の中へ押し返され、将棋倒しになって、出口はすっかりふさがってしまった。
 すなわち、この大惨事は「不注意」と「油断」と「無理」などが重なった人災であった。
 ロウソクへの点火のさいの不注意、避難に対する建物の構造上の不備、過剰な入場者、初期消火や適切な避難誘導をしなかったことなど、大惨事になるべくしてなったと思わせる状況である。
 現在でも世界で、飛行機や船舶などの大事故や惨事が引き起こされているが、それらの原因を追及していくと、必ずといってよいほど、陰にちょっとした不注意や油断がある。その意味で、人災と断ぜざるをえない大惨事があまりにも多い。
 「小事が大事」である。リーダーは、災難は小さな不注意から起こることを心底から知る人でなくてはならない。最大の責任感と細心の配慮をもって、日夜、心を砕いて初めて真のリーダーといえる。責任感のもとに、危ないと思った瞬間に手を打って事故を防止する先手の人でなくてはならない。
4  ところがこのラ・コンパニア教会の火災の場合、司祭ウガルテらの振る舞いは、全く逆であった。安全性への事前の配慮を欠いたことだけではない。彼らは火事の最中に、こっそり“聖器保管室”の裏側から逃げ出してしまったのである。そして、そのまま行方をくらまし、その後の動静はだれにもわかっていない。しかも祭壇にあった教会の高価な家具類だけは侍祭たちの手で運び出された。何とずるく、卑しい姿であろうか。
 頼るべき中心者を失った信者たちは、ただ右往左往するばかりだった。
 かりに事故が起こったとしても、その後の冷静な判断と的確な指示があれば、大惨事は防げたであろう。ただちに消火を始めること、順番に静かに出口から外へ向かうこと等、明快な指示を与えるとともに、落ち着いて行動するよう激励するなど、できることはいくらでもあったにちがいない。その責任を放棄した罪は大きい。あまりにも無慈悲であり、残酷である。
 本来、人々を救済することを天職とし、真っ先に人命を助けるべき聖職者である。その彼らの信じがたき醜い振る舞いに、民衆は激しく弾劾の声をあげた。“家具などを運ぶ前に、なぜ何よりも先に崇高なる人命を救わなかったのか”と。当然の怒りである。こうした民衆の憤激によって、チリ大統領もついに教会廃止の布告を発令している。
 民衆の怒りほど強いものはない。時の権力をも動かし、社会と時代を進歩させていく。なによりも青年は、卑劣なる指導者と戦う覇気をなくしてはならない。社会悪に対し、陰で愚痴を言っているのみであっては、あまりにも後進的な、封建社会のごとき姿と言わざるをえない。青年は、正義のために、民衆の先駆となって、勇んで立ち上がるべきである。
 わずか、一時間のうちに、サンチアゴの「花」と「美」、若さと誇りの象徴が、はかなく犠牲となったこの事件は「指導者の責任」をあまりにも痛烈に語っている。
 まことに、リーダーとしての資格は、責任感の有無にあるといってよい。その強さが、人格を決定づける。そして責任あるその人の人格に、人は心からの信頼を寄せていくものだ。受け身の姿勢で仕事をする人には責任感がともなわない。責任がないから創造への意欲や知恵もわかない。強制されてやるようでは、喜びもわかない。逆に、責任感ある人には知恵がわく。
 「事故は絶対に起こさない」「どこまでも一人一人を守りぬく」――この強き一念が、小事にも目を光らせ、ふだんでは看取できない事故への危険な兆候を見破っていくことができる。また“一人立つ”ということと、結束とは、一見違うように思えるが決してそうではない。自らが責任を担って一人立つところに、おのずから人々の結束は築かれていくのである。
5  人心の機微を知るリーダー――項羽と劉邦 
 秦の崩壊から漢建国にいたる動乱期の中国にあって、激しく覇を競った項羽と劉邦の戦いほど、人材登用の成否をあらわに示すものはないであろう。
 項羽について司馬遷は『史記』において次のように言う。
 「尺寸の土地をも持っておらぬ項羽が、勢いに乗じて民間の中より起こり、三年にしてついに五諸侯をひきいて秦を亡ぼし、天下を分轄して王侯を封じ、政事は項羽より出でることとなり、覇王と号した。その位を全うすることはできなかったが、近古以来いまだかつてなかったことである」(稲田孝訳、『中国古典文学全集』4所収、平凡社)
 農民蜂起のなかから、がぜん頭角を現した項羽を、いまだかつてない人物と称する司馬遷の評価は高い。
 「勢いに乗じて」と、司馬遷が描くように、歴史には、常に争覇のドラマや人智を超え、それらを飲み尽くして流れるがごとき時代のダイナミズムがある。何事をなすにも“勢い”があり“時”がある。その時勢を知るか否か。乗るか否か。項羽もまたその波に乗り、波に没した一人といえようか。
 天下第一の勇士と謳われた鬼神のごとき常勝の項羽が、波間を漂うような足どりの劉邦に最後には敗れ、自刃する姿は、率先垂範の項羽の姿が浮き彫りにされればされるほど、もの悲しい。
 司馬遷は『史記』(同前)で、項羽が、その才気にもかかわらず、天下統一の戦いに敗れた原因を次のように指摘している。
 すなわち、項羽が、故郷を懐かしみ、関中(長安などが位置する要衝の地)を放棄した。義帝を放逐して、自分が自立するに及んでそむいた王侯を怨んだ。 自らの功を誇り、自分の知恵を頼って、教訓に学ぼうとしなかった。覇王とは、武力によって天下を征服することだと信じてはばかることなく振る舞った――という。リーダーが感傷的に“情”に流されては最終の栄冠を勝ち取ることは絶対にできない。また、歴史の教訓や家臣の忠言などに深く耳を傾け、冷厳に情勢を分析していくことなくして勝利のないことも当然である。しかもそこに「傲り」があってはならない。
 項羽は、人生を悲劇で終える。しかし彼は、自らの過失を認めることなく、「天が自分を亡ぼすのであって、武力を用いた罪ではない」と言う。しかし司馬遷はこれを「なんと誤ちではないか!」と結んでいる。
 勝敗の要因を時運としてすべて天に帰すことを司馬遷はよしとしない。むしろ、自らの数々の過ちを最後まで認めぬ心の中に、明晰な心を曇らせ暗愚としてしまう「傲りの心」があると嘆じたのではないだろうか。
 項羽には自らの才気や出自に慢心をいだくとともに、権力者としての抜きがたい傲りがあった。権力の持つ魔性とはいつの世も変わらぬものである。
6  二人の違いの第一、それは人材を使いこなす器にあった。
 身分の低い出身で、性格も粗野、すぐに相手を罵倒してしまう劉邦、部下を深く愛し、礼をもって遇した項羽――旗揚げ当初の両者のこの対照はしだいに変貌する。
 項羽は、自分のけたはずれの才能におぼれていった。その才能と自負が、部下に対する全幅の信頼を妨げるようになる。そしてまた、部下のたてた功績も微少なことにしかみえなかった。手柄はすべて項羽自身のものであり、部下の功が賞せられることが少なくなっていった。部下に対する深き愛がありながら人情のこまやかな機微を表しえず、ほめることも少なく、温かさよりも厳しさが表に出ていった。
 項羽の論功行賞には不満が渦巻いた。しかも、うかつに反対を表明できぬ厳格さと項羽の顔色をうかがう部下の功利性が悪しき雰囲気を形づくった。その論功行賞は、最前線でめざましい戦果をあげた者たちに偏った一面的な評価となり、陰で苦労したり、目立たなくとも的確なる作戦を立てた者を称賛する細心の配慮に欠けていた。劉邦が、謙虚に部下の言に耳を傾け、彼らに大きな権限を委ね、部下のやる気を引き出したこととは対照的であった。また劉邦は、「功あらば必ず賞す」との原則に立ち、部下の功績に対して、即座に莫大な恩賞を気前よく与えたようである。
 小集団の統率と、大集団を指揮することとは当然、異なりがある。戦場で兵卒を指揮して戦うときは、項羽一人が優れていればよかったかもしれない。しかし、広大な中国の沃野を分ける争覇のドラマは、人材を集めうるかという度量にこそかぎがあった。才よりも器こそ真の力といえようか。
 劉邦の下には知謀無比の張良、政務に長けた有能の士・蕭何、戦略の天才・韓信らだけでなく、盗賊あがりの彭越までもが力を発揮した。まさに項羽と劉邦には人材群の厚みに違いがあった。
 例えば張良――。前漢建国の功臣であった彼は、自国を滅ぼした秦の始皇帝の暗殺を謀った。が、失敗し、後に黄石老人から兵法を学び、劉邦の軍師として活躍した。劉邦が項羽に不意討ちされそうになった有名な「鴻門の会」においては、巧みに劉邦の危機を救っている。
 彼が劉邦と出会う前のことである。作家で歴史にも造詣の深い陳舜臣氏の『小説十八史略』(毎日新聞社)では、師の黄石老人が張良にこう告げている。
 「天下はひろい」「そのひろい天下をうごかすには、人を集めなければならぬ。孟嘗君や平原君は食客三千と、ずいぶん人を集めたが、彼らを養う力をもたねばならぬのじゃ」
 「その力とはなにか? 人間的な魅力と、そして財力である。……ま、そうして人を集めても、これを用いる方法を知らねばならんのだ。戦国の四君は、惜しい哉、人を用いる方法に通じておらなんだ」
 人を集めるだけでは意味がない。一つの目的に向かって、その力を価値的に用いていかねば、時代は動かせない。戦国の四君――斉の孟嘗君、魏の信陵君、趙の平原君、楚の春申君――は人を多く集めても、十分に使いこなせなかったから、結局は烏合の衆であった。その過ちを超えて、人材の力を使いこなす道を知り、限りない「人間的魅力」を持った人物こそ、乱世を治めて新しき世を開く人であろう。――張良は、劉邦こそ、「その人」とみたのである。
 その劉邦の軍師として張良の活躍は目覚ましかった。ただねらうは天下の統一、決して短兵急の焦った戦いはしなかった。項羽軍の進撃で負け続けた劉邦軍に「連戦連敗……九十九敗して、最後の一勝、決定的な一勝を得ればよい」(同前)と繰り返し説いた。要は最後に勝つことだ。時を稼ぎ、力を蓄え、将兵たちにも「希望」と「確信」を与え続けた。漢帝国の礎を築いた名将と謳われるゆえんである。
7  劉邦が、この張良と並んで重用した名将に韓信がいる。
 有名な話がある。すでに皇帝となったある日、劉邦は韓信と雑談を交わし、諸将が、何人ぐらいの兵を統率できるかという話題となった。
 諸将をあげつらったあとで、劉邦が聞いた。「自分はどれくらいの兵の将となれるだろうか」。すると韓信は、にべもなく「陛下は、せいぜい十万ぐらいにすぎません」と答えた。「お前はどうなんだ」。劉邦が問うと、韓信はすかさず「私は多ければ多いほど、うまくやります(多々ますます弁ず)」と。これを聞くと劉邦は笑って「そのお前が、それならどうして、たった十万の兵しか動かせぬわしにつかまったのだ」と鋭く突いた。韓信の答えがふるっている。「陛下は“兵に将たる”には不向きですが、“将に将たる”器量をお持ちです。わたしが陛下につかまったのも、そのためです。しかも陛下の才能は天の授かりものであって、人間の力でどうなるものでもありません」(前掲書、要旨)。的確な劉邦評であった。
 実は韓信は項羽の下から劉邦に走った男だ。その韓信が「漢王(劉邦)は私の言を聴き、私を用いてくれた。私はそむくことはできない」という趣旨の述懐をするが、これは、まさしく人間心理の一つの真実を示している。
8  第二に、指導者として最も大切な「庶民の心を知る」という一点において、間違いなく項羽は劉邦に敗れた。
 例えば、秦の首都・咸陽が劉邦によって占領された。しかし彼は財宝等にも手をつけず、人々を安心させ、無血入城ともいえる穏やかさだった。自然、人々は劉邦を信頼した。一方、項羽は咸陽を徹底的に破壊した。打倒・秦国を夢み続けた彼にとって、秦の都を廃墟にしてしまわないかぎり、祖国の楚を滅ぼされた恨みは晴らせなかった。項羽が都に放った火は、三カ月の間、消えなかったという。
 項羽の行動について、陳氏は前掲書で次のように描いている。
 「楚の名門に生まれた項羽は、自分たちが貴族として君臨していた国の滅亡にこだわりすぎていた。それに反して、劉邦は庶民であるから、肌にかんじる生活の苦しみが、判断の基準になったのである」
 「住んでいるまちを焼かれてしまえば、庶民はたちまちその日から路頭に迷い、家族を養うことができない。――そんな生活感覚では、とてもまちに火をつけることなどできるものではないのだ」
 『十八史略』(林秀一訳、明治書院)では、項羽の暴虐を見て「秦の民大いに望を失ふ」と記している。民心は完全に項羽から離れてしまったのである。
 いかなる戦いも庶民の心を失っては敗北する以外にない。かつて中国共産党の紅軍も民衆を守るという一点に徹して勝利を得た。庶民ほど大切なものはない。庶民一人一人の幸福こそ究極の目的であり、政治、経済、科学、教育、そのほか社会の一切は、その目的に奉仕するものでなくてはならない。その意味で、エリート意識で民衆を見下す指導者ほど、嫌悪すべき存在はない。庶民は、また青年は断固、そうした権威の指導者と戦っていかねばならない。
 結局、貴族出身の項羽は、自らのわがままな感情にとらわれて、庶民の犠牲を顧みなかった。彼は“秦を滅ぼした英雄”という「名」と「形式」を最優先させた。庶民の「心」を知らず、時代の底流の「動き」をつかめぬ指導者は、往々にして、悪しき形式主義に陥る。庶民の願いを未来に実現しようとする「責任感」ではなく、自分勝手な理想を押しつけようとする「虚栄」が、行動の原動力となってしまうのである。項羽もまたそうであった。彼の心には秦以前の群雄割拠の時代が常にあったようだ。そしてその思い描いたイメージのなかに、力をもって現実をはめ込もうとするきらいがあった。
 これでは民衆がついていくはずがない。大切なことは、どこまでも庶民の「生活感覚」を大切にし、常にそこから発想していくことだ。そのいき方のなかに、未来への「創造」が生まれ、行き詰まりなき「知恵」が発現するのである。
 力も才もありながら独断専行し、民心の離反を招いた項羽、名もない庶民の出であり、粗野ではあったが人心の機微に通じ、寛大な態度で民心をひきつけた劉邦――歴史の教訓は、未来に向かって勝利するための、きわめて深い示唆を与えてくれる。
9  時代を肌で感ずる先見の人――織田信長の時代把握力
 「先見性」「時代感覚」「時流把握力」――変化激しき時代、それらはリーダーの必須の条件といってよい。
 恩師戸田先生を囲む読書会においても常に、作品の時代背景を“読む”ということを徹底して教えられたものである。時代の底に渦巻く激流の方向を的確に見通す洞察力がなければならない、というのが恩師の言であった。
 「どんな人間も、時代の動きから免れることはできない。時代の外にはいけないものだ。乱世の英雄も、もし泰平の時代に生まれたとしたら、酔生夢死に終わるかもしれない。また、平和な時代の碩学も、乱世に生まれたとしたら、流浪の徒として終わるかもしれないだろう。時代というものは、それ自身恐るべき力を持つものだ。人間は、時の流れに抵抗したとしても、結局は流されてしまうものだ。この不可抗力ともいうべき時代の力は、その人間社会に滔々たる底流として流れているといってよい」と。時の推移の底流にあるもの――それを肌で感ずるリーダーであるかどうかで、一切は決まるというのである。
 時代は常に変化し、進展する。かつての成功が次の勝利を約束するとはかぎらない。常に時代を読み、時代の鼓動を聞く先手の人は勝利を得る。逆に、過去の栄光や勝利の経験に固執して、時代に取り残された者は手痛い敗北を喫する。
 「これからは鉄砲の時代である」――織田信長がこの洞察に基づき、負け知らずの騎馬隊を誇る武田勢を長篠の合戦で打ち破ったごときはその一例である。信長の先見性は随所にみられる。戦国期、多くの国が軍事的要請から、その居城を難攻の地に構えたのに対し、信長は人と富と情報の流れが時代をつくることをいち早く見抜き、安土城をはじめとして交通の要衝に居城を移したことなどにも、その卓越した先見性が現れている。しかし時代の動向を見抜けず、従来の考えに固執して歴史から消えたものがいかに多いことか。あのナポレオンでさえも、結局は自身の従来の戦法がもはや古くなったことを自覚できず、没落の坂道をころげ落ちていった。
 時代の変化を的確につかみ、時代とともに生きる進取のリーダーでなければ未来はない。また表層に現れ出るかすかな変化をも敏感にかぎとる感性の持ち主でなければならないだろう。過去の固定観念にとりつかれ、次代を担う青年の成長を妨げるようなリーダーではなく、青年と共生するなかで時代を呼吸するところに発展と進歩があるはずだ。
 表層に現れた社会現象の変化相を見るだけでなく、それらを通して、その背後に、民衆の声なき声と叫びの「心の波」を覚知する――リーダーは、そうした心と感覚を持った人物でなければならない。
10  団結について――“米独立革命の魁”ミニットマン
 「変革」の波騒ぐ激動の時――社会の大きな変化の底には、必ず無名の庶民、民衆の活動があった。アメリカの独立革命においても、その魁となった庶民の青年兵士「ミニットマン」の存在があった。ミニットマンとは、いざという時に即座に(at a minute’s notice)出動するという意味である。彼らは、ふだんは平凡な農民や職人として働き、生活していた。しかし、ひとたび事起これば、ただちに結集し、全員で問題に対処した。また団結して守り合い、前進していった。
 ミニットマンについてはR・A・グロスの『ミニットマンの世界』(宇田佳正・大山綱夫訳、北海道大学図書刊行会)に詳しく述べられているが、ミニットマンたちは、「冬には兵士、春には農夫」とうたわれていた。農閑期の冬になると、凍てつく寒さのなか、兵士としての厳しい訓練を受け、祖国の独立と自由を守るために、自分自身の鍛錬に励んだ。
 一七七五年四月、ボストン近郊(コンコード、レキシントン)で植民地軍とイギリス正規軍との戦いが始まった。独立革命の発端である。この戦いに、先駆となって出動したのもミニットマンたちだった。「自由への戦い」の火ぶたを切ったミニットマン。その、ほとんどは十代、二十代の青年である。前記の書によれば、コンコードにいた約百人のミニットマンの年齢は「二十一歳未満」が三〇パーセント、「二十一~二十四歳」が二八パーセント、「二十五~二十九歳」が一四パーセントだったという。すなわち十代、二十代だけで七〇パーセント以上を占めていたのである。
 青年の力が、どれほど絶大な可能性を秘めているか。いかなる分野にあっても、その躍動するパワーを最大に信頼し、思う存分発揮させていくことを忘れてはならないと思う。
 それでは、ミニットマンの青年たちに、颯爽たる活躍の舞台をつくったのはだれだったか。それは経験豊かな先輩たちであったようだ。
 ――コンコードの人々が、このミニットマンの結成をはじめ、独立革命に向かって団結していく過程には、さまざまな困難があった。R・A・グロスによれば、それは主として居住区や財産の違いからくる障害、教会の分裂抗争などであった。環境や意見の相違による不調和。それらを乗り越えて、戦いへの団結の道を開いたのは、おもに六十代という年配者たちであった。その中心であった老大尉は時に六十七歳。彼は町の家々を一軒一軒訪ねて歩き対話した。そして独立の戦いに向けて、人々を説得し、納得させていった。豊かな経験を持ち、堅実で穏健な彼らこそ、多様な市民を納得させ、心を合わせていく方途を知っていたのである。このように、青年たちの活躍の陰には、経験豊かで人柄の良い年配者の力があった。勝利の底流にはこの老若両者の団結の絆があった。
 独立革命といえば、世界の歴史を動かした大事件である。しかし、その発端を開いた人々の団結は、一老大尉らの粘り強い「対話」によって、もたらされた。本当の団結は、たんなる命令や、権威を使った強制によってできるものではない。人間対人間というお互いの信頼の絆、一人一人の納得によって、「心」の連帯を作っていく以外にないのである。皆の心が一つになれば、必ず事は成就する。たとえ計画したことが全部はできなかったとしても、必ず思いもかけぬ新しい道が、そこに開かれていくものだ。
 一七七五年の四月。春を迎えたコンコードの大地には草木が芽吹き、その上を春のそよ風が吹きわたっていた。この美しき愛する故郷を守るためミニットマンの青年たちは勇敢に戦った。コンコードの戦いは、実質、わずか二、三分の銃撃戦で終わったとされている。ある意味ではきわめて小さく地味な戦闘であったといえよう。
 しかし、このわずか二、三分の戦闘が「世界に聞こえた銃声」として歴史にその名をとどめることになったのである。大事件の始まりが華々しい、派手なものであるとはかぎらない。一見ささやかで、小さくみえるもののなかに、永遠に輝きわたる先駆の炎があることは決して少なくない。のちに、このコンコードにゆかりの深い思想家エマーソンは、彼らの凛々しき戦いを讃え、こううたっている。
 「大いなる精神はかの英雄たちを敢然と死地に赴かせり 未来の子らに自由を遺さんと」
 この高邁な詩の一節は、私の胸に強く深く響いてくる。
11  「人間」と「生命」を深く知れ――人心の妙に通じた桑原武夫
 さる四月十日(一九八八年)、フランス文学者の桑原武夫氏が逝去された。享年八十三歳。氏は、最後まで、人生の“現役”として活躍され、数々の立派な業績を残された。日本人としては、類まれな見識の人であり、フランスのヒューマニスト、アランを彷彿させる大知識人であったといってよい。
 かつて私は、フランスの“行動する知識人”アンドレ・マルロー氏と対談を重ね、それは、対談集『人間革命と人間の条件』(潮出版社)として上梓された。そのさい、真心こもる序文を寄せてくださったのが、桑原氏であった。その恩義は忘れることができない。
12  もう、四十年も前のことになろうか。青年時代、私は、桑原氏の次の一節に、深い感銘を受けた。
 「現代のヒューマニズムが真にその名に価するか否かは、民衆を意識するか否かにかかっている」(「素朴ヒューマニズム」、『桑原武夫全集』5所収、朝日新聞社)
 たしかに真のヒューマニズムは、民衆の現実の上に立ち、理想主義を貫く精神態度のなかにある。民衆が主役の、真実の民主社会――それを希求してやまない時代の趨勢を、鋭く先取りした卓見であった。また、一切衆生の幸福の実現こそ第一義とする仏法の志向性にも、相通ずるものであったといえよう。
 ところで、桑原氏の大きな業績の一つに、人文科学における共同研究の道を開いたことが挙げられる。文学や哲学といった人文系の学問は、その性格上、どうしても、個人単位で進められるケースがほとんどであった。しかし、氏は、一つの研究テーマのもとに、多士済々の青年研究者を結集し、その力を存分に発揮させながら、実り多き成果を次々と生みだしていった。それは、人文科学の歴史において、まさに画期的な出来事であったといってよい。
 こうした道を開いた背景には、「こんにち独創的な行動は協力と組織なしにはありえない」(「青年の冒険精神」同前集)との、氏の信念があったにちがいない。
 氏が、多くの研究者を引きつけ、共同研究の軸としての責務を果たしえた秘訣は、どこにあったか。
 幅広い教義、旺盛な好奇心など、さまざまな原因が考えられよう。だが、ここで私は、桑原氏が、深く、そして温かく、「人間を知る人」であったことに注目したい。
 氏自身、次のように語っている。
 「ドイツ語でメンシェンケンナー、人間を知る人というのがありますね。(中略)スクラムを組んであることを成就するのには、メンシェンケンナーの存在は、必要な要素だと思います」(『人間史観』潮出版社)
 味わい深い、人生の先輩の一言である。
 共に生き、共に行動する仲間にとって、最も大切な存在とは何か。また、最も望まれるリーダー像とは何か。それは、たんなる技術や教養の人ではない。名声や財力の人でもない。何より、人情の機微を知り、人心に通じて自分をよく理解してくれる指導者を、人は待望し、歓迎する。そうした人を得て集団は生き生きと形成されていく。そのことを、桑原氏は知悉していた。ゆえに、共同作業における「メンシェンケンナー」の重要性を強調したのであろう。
 また、このことは、リーダーとしてのみならず、人生全般においても最重要の課題であるといえよう。
13  氏は、言う。
 「人生を生きて行く上で一番大切なことは、人間を知ることだと私は思う。(中略)それも抽象的な人間一般についての学的知識ではなく、個々の生きた人間を自分が観察し、理解し、そして動かしてみた体験による知見である」(同前)
 この、人間と人生に対する透徹した洞察――ここに、私は、氏の偉大さを見たい。桑原武夫氏は、八十歳を過ぎても、矍鑠と活躍された。「人間を知る人」の底力は、年齢とともに輝きを増し、いやまして若々しく、発揮されていくものだ。
 どうしても組織は人を画一化する。そしてまた科学的知識も人間を抽象・一般化する傾向を持つ。そして、人物を見る場合、人はたんなる自分の好き嫌いの感情や固定した先入観念で見てしまうことが多いものだ。しかし、それらは、いずれも人間を全的に把握できない精神の脆さを示すものともいえよう。どこまでも大事なことは、瞬間瞬間、変化していく人間の生命自体を如実に知ることであろう。ある時は悩み、またある時は苦しみ、そしてまた泣き、笑う生身の人間こそ現実である。その一点を、いかなる事態にあっても、見失わずに進む人格と洞察の高さと強さと鋭さを持ちたいものだ。
 仏法の偉大性は、現実そのものに即して、真理を見いだすところにあり、あくまで現実の一個の人間や事物を徹底的に凝視して、そこに真実を発見するところにある。個々の具体的なる生身の人間を愛し、そこにすべての出発点をおくなかに人間交流の原点があり、組織の成否があるといえよう。
14  「誠」の人を見抜く眼力――柴田勝家と毛受家照
 人の真実を見抜く。これほど重大であり一切の要となることもない。しかしまた、これほどむずかしく、完全を期しがたいこともない。
 中国天台宗の中興とされる妙楽大師の言に「障り未だ除かざる者を怨と為し聞くことを喜ばざる者を嫉と名く」とある。ここに「聞くことを喜ばざる」とある点に注目したい。世間一般にも“忠言耳にさからい良薬口に苦し”といわれるように、自分にとって不都合なこと、耳に痛いことは聞きたくないというのが凡夫の常である。
 逆に、お世辞や甘言には、いとも簡単に乗ってしまう。これでは、自分の成長もお互いの進歩もない。気の合った者だけを取り巻きとして、かえって墓穴を掘ってしまうことは必定である。リーダーの“聞くことを喜ばざる”怠惰と傲りが、敗北の大きな因となる。『新書太閤記』(吉川英治、講談社)の中に、毛受勝助家照という人物(歴史では庄助とも勝介ともある)が描かれている。柴田勝家の小姓頭であったが、若いに似ずなかなかの見識の持ち主であった。ある時彼は、勝家の振る舞いが、粗暴すぎるのをみて、勝家から請われた本の、あるページを目につきやすいように折っておく。開いてみるとその個所には、暗に勝家を戒める文が書かれてあった。それを読んだ勝家は露骨にいやな顔をして、それ以来、毛受家照を遠ざけてしまう。柴田家の近衆のうちでも、彼ほど勝家から冷ややかにあしらわれた臣はないといわれる。
 しかし、真の忠臣はだれであったのかわかる時がくる。のちに柴田勝家は、賎ヶ岳の戦いにおいて秀吉軍に壊滅に近い打撃をこうむるが、この時、死中の勝家を救ったのが、ほかならぬ毛受家照であった。“秀吉来る”――との知らせに勝家軍の陣中は揺れ動き、臆病風に吹かれて仮病、脱走が相次いだ。日ごろ目をかけた者まで逃げるという醜状であった。その時、敗走を余儀なくされた勝家に対し、大将の居所を示す馬印を手渡すように再三にわたって懇願した武将がいた。それが毛受家照であった。身代わりである。そして、ついにそれをもらいうけるやいなや、わずかの手兵を率いて秀吉軍の中に取って返し、壮烈な戦死を遂げる。勝家は馬印を望む毛受家照の姿を見て、翻然として悔い、悟るのであったが、すでに後悔先に立たずであった。そして勝った秀吉も、忠義の士・毛受家照の首を篤く弔い、彼の母を探し出して、丁重な慰問を行ったと伝えられる。
 人は見かけではわからない。日ごろは無口で、おとなしい、白面の毛受家照――私たちの周りにも、誠を貫く彼のような真の勇者がいるはずだ。それを生かすか殺すか。そしてまた、一人の“毛受家照”を殺してしまうとき、多くの心ある人を大いなる失意に陥れることもまた知らねばならない。
15  反逆者の心理と構造――慢心と虚栄にひそむ「臆病の心」
 豊臣秀吉と明智光秀に関して、有名な話がある。秀吉と光秀は、ともに戦国時代を代表する有名な武将であるが、その性格はまったく異なっていた。その違いが最も顕著に現れていたのが、主君・織田信長に対する仕え方であったといわれる。信長は、きわめて激しい気性で能力主義を貫き、かつまた合理主義者でもあった。そのため、家臣の失敗に対しては、たとえ過去に非常に功績があったとしても、即刻、所領没収など厳格な態度で臨んだ。その非情ともいえるやりかたのため、家臣は、常に内心びくびくしていたといわれる。秀吉と光秀も信長の重臣であったが、同じく主君に対しては恐怖心をいだいていた。しかし、秀吉についていえば、たとえ信長が極度に気むずかしい性質の主君であっても、自分の過去の困窮時代に比べれば、まだまだ信長に仕えるほうがましだと思って我慢していた。
 これに対し、光秀は、戦国武将のなかでは珍しく詩歌に長けるなど、教養も当代一流で、最高の文化人の一人であったといわれる。また、武将としての手腕も優れて、知勇兼備の人であった。ところが、光秀には、その手腕と教養を鼻にかけるところがあり、出身も名門であったため、信長のやりかたに対して、批判的な面があった。
 光秀の念頭には、自分は信長よりも名門の出身であるという強い自意識が常にあった。そのため、どうしても本心から信長につき従うことができない。その不満と反感が心の中でくすぶり続け、ついに本能寺の変という反逆となって、悲惨な末路へとつながっていくのである。光秀の謀反については、信長の手荒い仕打ちに対しての怨念説や将来への不安説、さらには信長の無防備をついた野望説など数多くの研究があるが、ここに述べた光秀自身の性格、より深くいえば、生命の傾向性にもその因があることは否めない。
 人生のなかで出会い、深いかかわりをもった人間同士が、終生美しく強い絆を保ち続けることは至難であることを、歴史は物語っている。むしろ、数々織り成された反逆と背信の人間模様に、皮肉なことに人間心理の微妙な綾が映し出されている場合がある。
16  古来、中国はもとより、日本でも、帝王学の書、政道の指南書として、政治家の必読書となってきた『貞観政要』という書物がある。これは中国・唐の皇帝、太宗(七世紀)が、群臣と交わした政治上の問答を、歴史家の呉兢が撰述した書である。
 日蓮大聖人も「佐渡御書」の追伸で、『貞観政要』等を流罪の地・佐渡まで送ってほしいと依頼されているように、座右におかれていたようだ。
 その中に次のようなエピソードがある。(守屋洋編訳、徳間書店)
 ――ある時、太宗は、こうたずねた。「宇文化及と楊玄感は、いずれも隋朝の重臣で、天子の高恩に浴しておりながら、最後は反逆した。いったい、なぜであろうか」。
 これに対して、臣下の岑文本が答えた。
 「君子は一度受けた恩を生涯忘れませんが、小人は君子とちがって、すぐ忘れてしまいます。玄感、化及らは、しょせん、小人にすぎないのです。古人が、君子を貴んで小人を軽蔑した理由もこれであります」
 それを聞いた太宗は、「なるほど。よくわかった」と、うなずいた――という話である。
 これは、言うまでもなく“忘恩の小人”を戒めたエピソードである。そのうえで、もう一つ、大切な点は、この二人が、ともに隋の功臣の子息であった事実である。そのためか、若くして重用されていた。
 しかし、隋朝末期の混乱にさいして、二人とも朝廷に反逆した。最後は、それぞれ斬殺、自殺と、悲惨な結末を迎えている。すなわち、ここには、ともすれば功労のあった者の子孫などが、大事にされすぎて、甘やかされ、わがままになって堕落し、ついには保身のために反逆すら行うにいたるという歴史の教訓が述べられている。
 反逆者の心理は、たしかに揺れ動く人間の心のある一断面を代表しているといえるかもしれない。しかし、その究極は、慢心と虚栄の裏返しであり、臆病であるとはいえまいか。臆病であるゆえに、ささいなことで慢心を起こし、自分を飾って立派そうに見せる。臆病であるゆえに、虚栄の心で世間の権威にへつらう。
 日蓮大聖人の御在世当時にも打ち続く権力の弾圧・迫害のなかで退転者が続出した。
 その退転者のなかには、少輔房、能登房、名越の尼といった名のある人も連なっていた。大聖人は彼らの退転の根本原因として「をくびやう物をぼへず・よくふかく・うたがい多き者どもは・ぬれるうるしに水をかけそらをきりたるやうに候ぞ」(御書一一九一㌻)と述べられている。「臆病」「物をぼへず」「欲深く」「疑多き」――もちろん外からの権力による迫害が引き金になっているが、信仰を求めゆく真の勇気がないゆえ、仏法のことが本質的によくわからないゆえ、名利にとらわれたゆえ、おろかさのゆえに退転の道に落ちていったと指摘されているのである。彼らは、自らの生命に巣くう「臆病の心」と対決することなく、その心に振り回され転落の軌跡をたどっていくのである。そして結局、だれからも信用されない惨めな姿となるのが、世の常である。
 一方、反逆や裏切りを受けた側は一時は苦境に陥ったとしても、困難を乗り越えていくなかで、信念の道を歩みゆく心は、さらに強固に鍛えられていく。
 このように考えると、反逆者が結局は悲惨な結末を迎えることも、人生の分岐点で人間生命にひそむ「臆病の心」に支配された必然の結果ともいえよう。
17  的確な情報が勝敗を分ける――マラトンと桶狭間の戦い
 よく「人生はマラソンのようなものだ」という。たしかに、初めに先頭のほうを走っていても、後から抜かれることがある。スタート地点でつまずいても、しだいに追い上げ、最後の勝利を得る場合も多い。人生と同じく、長いレースの間に、さまざまなドラマを生みだしていく。マラソンの高い人気の秘密の一つも、ここにあると思う。
 このマラソンの起源として有名なのが、「マラトンの戦い」である。
 紀元前四九〇年、第一回ペルシャ戦争でのことである。ペルシャの大軍がアテナイの北東約四十キロメートルのマラトンの野に上陸した。そのころ、アテナイには、強大なペルシャ帝国と同盟を結ぶほうが有利と考え、ペルシャと内応する者が出るおそれがあった。アテナイは、将軍ミルティアデスの建議に従いこれを迎撃。激戦のすえアテナイは勝利する。この勝利の報をもたらすため伝令となったエウクレス(フェイディピデスとも)はひたすら走り続け、群衆に「喜べ、わが軍勝てり」と告げて絶命した。
 彼が急いだのには理由がある。アテナイではこの時、抗戦派と降伏派とが争い、一触即発の大変な危機にあった。命をかけて伝えた「わが軍勝てり」の一報がなければ、収拾のつかない大混乱をも予想されたのである。その意味で、彼の情報には万金の価値があった。
18  何においても大事なことは、瞬間瞬間、どのような先手を打っていくか、その機微を知ることである。後手にまわっては、どんなに力があっても負けである。いわんや現代は情報化社会であり、スピード時代である。的確な情報を得ることと、連絡・報告が密であることとは、勝利への基本であり、鉄則ともいえよう。
 桶狭間の戦い――織田信長が今川義元を打ち破り、歴史の流れを変えたあまりにも有名な戦いである。今川の軍勢二万五千、これに対する織田家の軍勢はわずか三、四千。その戦いが、大胆にして不敵な賭けのように見えるが、その実は合理に裏付けられたものであったことはよく知られている。
 義元の本陣は、尾張の平野に入る直前、鎧袖一触、織田軍の粉砕を確信しつつ、桶狭間村の田楽狭間と呼ばれる、丘陵に囲まれた小盆地で休息をとっていた。これは信長にとって願ってもない絶好のチャンスだった。
 信長にしてみれば、どうみても平野部に入っての戦闘では勝算はない。丘陵のなかにおいて義元そのものを討つ以外、勝機は皆無である。三千人がせいぜいという広さの田楽狭間であって初めて形勢は五分と五分。いや勢いは攻める側にある。まさに信長はその一瞬、その一点に、すべてを投入した。
 「今川義元の本陣、桶狭間にて人馬を休めり」――梁田政綱から信長に確かな情報が伝えられた。一気に信長は駆けた。
 信長の勝因がさまざまな角度から論じられることは当然だが、正確な情報が時期を誤ることなく迅速に伝えられたことが一つの大きな因であった。そのことは信長自身が政綱を勲功の第一として讃えたことからも明らかである。
 いつの世も「情報は力」である。また、的確な情報は、必ずしもいわゆる専門家や中枢の人々のなかにのみあるのではない。織田信長が岐阜の稲葉山城を攻めた時、抜け道の手引きをしたのは、木こりの息子であった堀尾茂助であったし、逆にまたナポレオンがワーテルローの戦いに負けた一因は、一牧童がプロシア軍に正しい道を教えたことにあった。
 その意味では、民衆を味方にするかどうかは戦いの生命線であるとともに、最前線の現実のなかにこそ、真実の、生きた情報があることを知るのが、優れたリーダーの要件となろう。
19  油断について――伊藤一刀斎の“剣の極意”
 山本有三の随筆の中に「心の置きどころ」という、大変感銘を受けた話がある。一刀流の開祖とされる伊藤一刀斎と、その弟子で、一刀流を大成し世に弘めた小野二郎右衛門の師弟が全国を武者修行して歩いていた時のこと。ある日、二郎右衛門は師匠に「剣道の極意」を尋ねる。そのとき、一刀斎はこう答える。
 「べつに極意というほどのものはない。ただ油断をしないのが第一だ」(『山本有三全集』10所収、新潮社)
 平凡ではあるが、これはまことに真理をついた素晴らしい言葉であると思う。
 一刀斎はけいこをしてくれることはほとんどなかったが、座っているときでも、歩いているときでも、二郎右衛門に少しの油断でもあると、容赦なく「ぽかりぽかり」と殴りつけたという。一瞬、一瞬、油断ということを、頭で知るのではなく、実践のなかで体に刻みつけようとしたすさまじい訓練といえよう。
20  少年時代に読んだ本の中に「油断大敵」ということが書かれていた。そこにあった「油断」という言葉の由来は、たしか、昔インドの王様が一人の家臣に油の入った鉢を持たせたまま歩かせ「一滴でもこぼせば命を断つ」と命じた。油の鉢を持った家臣の後ろには刀を抜いた男が見張っていたので、その家臣は一瞬たりとも気をゆるめることはできなかった――ということであったように思う。
 事にあたって、一瞬の油断、小さな失敗が大きな影響を持つ。また、中心者の油断が全体を敗北に導く例は、歴史をみても枚挙にいとまがない。
 人間の心は微妙である。微妙であり揺れ動きやすいからこそ鍛錬が不可欠となる。私の恩師戸田先生も「人生、ちょっとのことで大事件となる。油断するなよ」と厳しく言われていた。逆境の時はよい。むしろ調子の良い時、順風の時ほど己を戒めることが大事である。「負けた時に勝利の因を積み、勝った時に敗北の因をつくる」ということが人生の常である。多くの事故の原因を調べると未然に防げることも多々あり、ほとんど人災と言わざるをえない場合も多い。その根源をたずねてみると心のゆるみ、甘え、判断や認識の甘さ、慣れからくる油断、慢心、惰性、怠慢という人間自身の心の問題に結局のところ帰着する。ゆえに油断を戒めるとはちょっとした注意を怠らないというような次元にとどまらず、常日ごろから自分の内面を鍛え、小事をもおろそかにしない心の構えを持つことが大切となる。
 真の勇者は、臆病なくらい細かいことに気を配っていく。いわば“臆病の勇者”である。よく全体に真剣さがなくなったとか、何となく空気がゆるんできたと思いながら何の歯止めもかけられず手をこまぬいていることがある。きわめて危険な兆候というほかない。その時こそ空気を一変させる指導者の一念が大事である。いざという時、指導者にはつけ入る敵や障害をはね返すぴんと張った表面張力のごとき緊張感と前進への気迫が大事であると私は常々思っている。
21  山本有三は、前記の随筆の中で、さらにこう綴っている。
 「油断というのは、心のうつろになることではない、心が一方にとられることを言うのだ。とかく人は、刀を手にすると、刀に心を奪われる。学問をすると、学問に心を奪われる。ほめられると、ほめられたことでいい気になる。それが油断である」
 たしかに人は弱点によって敗れるというよりも、むしろ得意な分野において墓穴を掘ることが多いものだ。山本有三のこの言葉は、人生の深い心の世界を、見事なまでに言い当てている。
22  人材の城――天台大師の『摩訶止観』より
 私は立場上、旅をすることが多いが、多忙なスケジュールのあい間をぬって、青年や学生たちと勉強のためにその地の名城や史跡を訪れたものである。
 日本には、名城が多い。大阪城、江戸城、名古屋城、姫路城、そして熊本城、岡山城、和歌山城等々……。当時の名将たちが、あらゆる智略を結集して戦略用に築城したものであろう。復旧されたのもあるし、城址だけのものもあるが、ともかく、そこには日本の文化と歴史のたたずまいがある。しかも、幾百年を経た現代においても、その城のあるところの大部分は、中枢の地となっている。有形の城はいつかは崩れるであろうが、その歴史の重みは長く残りゆくものだ。
 かつて戸田先生とともに、仙台の青葉城址を訪れたことがある。この時、城址に立たれた先生の話を今でも鮮明に思い起こす。それは“どんなに立派な城をつくっても、何百年も過ぎてしまえば、このように荒城となってしまう。永遠に崩れぬ人材の城をつくることこそ大事なのだ”と。人材こそ一切のかぎであり、すべてにわたる発展も、ここに決するのである。
 ゆえに、戸田先生は人材育成に全力を挙げられた。私も、それしかないと確信してきた。若き青年たちを育てるため、全魂を込めて戦った日々であった。
 人材というものは人が大勢いれば、やがてそのなかから自然に育ってくると考えるのは、あまりに安易すぎるといってよい。心血を注ぎ、体当たりで青年たちを触発せしめゆく以外に真実の人材は育ってこない。「人材の城」を築くには、一人一人の人間を見、育てるリーダーの迷いなき行動が不可欠だと私は思う。
 天台大師が法華経の深義を示した『摩訶止観』の中に「城の主剛ければ守る者も強し城の主恇(おそ)れば守る者忙る、心は是れ身の主なり」という一節がある。城といえば組織も城であり、職場も、またわが一家も城である。そしてまた自分自身こそ、立派に築き上げていくべき大切な「城」といえようか。「城の主」たる指導者が勇敢なときは守る者も強い。指導者が臆せば守る者も恐れる。これは「人材の城」にあっても、リーダーの一念が一切を決定していくことを教えている。
 さらにまた「心は是れ身の主なり」とあるように、わが身、わが生命を城とした場合は、その「一心」、「一念」が城の主となる。自己自身の確立のために、自己の内奥に崩れざる強固な芯を打ち立てることが大切であり、そこに信仰の力もある。城の強弱は、外見の豪華絢爛さにあるのではない。構成する人材の結合と質に集約され、そして畢竟、リーダーの強き一念に、生命内奥の強さに究極するといえるであろう。
23  組織をつなぐ「信」と「誠」――ソクラテスの“対話”
 組織の時代といわれる現代――組織と無縁で生きることはできない。では、その組織を立派に成り立たせるものは何か。
 創価学会の牧口常三郎初代会長は「信は組織の中核にして、誠は組織の推進力である」と言われた。短い言葉ではあるが、きわめて含蓄のある言葉である。
 つまり組織にあって、その中核をなすものは「信」、広い意味での信頼である。そして組織を推進していく力は「誠」であり、真心であるというのである。決して、利害や得失、名声や毀誉褒貶ではない。社会のため、人のために、真心から尽くしていく――これが、組織にあって最も大事なのである。
 また「小船に大石を積めば沈んでしまう。だから、浅く低い、指導者を欠いた宗教では、苦悩する人々を幸福にはできない」ともいわれている。
 宗教にあっては、教義の高低深浅が根本であるが、とともに、指導者のいかんが重要であることを示されているわけである。
 それは決して宗教に限るものではない。一般にもリーダーが、エゴにとらわれたり、自身の立身出世を考えたり、確固たる信念がなく人間的に浅く卑しい人であれば、人々を納得させえない。そこに「信」や「誠」が生まれるはずもない。
 それではいったい、その「信」や「誠」の媒介となるものは何であろうか。それは、何よりも心通う対話である。
24  現在は、組織にあっても、集団のなかで一定の自己実現をなしとげていくことが強く志向され、それが社会の最先端企業などで希求されている時代であるといわれる。あらゆる団体や組織が、メンバーの人間性と個性を尊重し、メンバーの主体的な能力の発揮をめざし、それによってダイナミックな躍動する組織をつくりあげようと取り組んでいるようである。
 それにしたがって、組織のあり方も変化を遂げている。梅澤正氏は著書『組織文化の視点から』(ぎょうせい)の中で、「例えば統制は、“指示・命令を通じて”から“コミュニケーションを通じて”へと変化している。また権限は、“上から与えられる”から“集団からの支援によって”へと変わり、リーダーシップは“権限による”ものから“情報による”ものへと変化している。そして意思決定は“集権化された個人的”なものから“総意による状況的”なものへ」と変化していることを指摘している。
 リーダーは、こうした時代の流れを見極めていくことが大事であろう。そしてまた正確な情報を的確に把握していくこと、あらゆる人の話、意見に耳を傾けていくことも、ますます大切になってきている。
 私も立場上、多くの方々から手紙をいただくが、それらを通し、お一人お一人の思いや意見を心に刻み、会員の方々が、“何を求め、何を欲しているのか”“いかにすればよいのか”を真剣に考え、日々分析もし、模索している。また、対話にも全力を注いでいるつもりである。
 かつて牧口先生は「人生に関する問題は、対話でなくては相手に通じない。講演だけでは聞くほうは他人事にしか感じないものだ。日蓮大聖人の『立正安国論』にしても問答の形式ではないか」と指摘されている。
 まことに人間性の本質を突いた言葉だと思う。日蓮大聖人は『立正安国論』のほかに多くの御抄を問答形式で執筆されている。対話こそ、相手の生命の奥深く分け入る最高の方途であると、見抜かれていたからであろう。
 優れた哲学者や教育者はみなこのことを知悉し実践してきている。
 これに対し、現代の学者や著名人が、講演等の場で難解な内容を一方的に得々と話し、事足れりとしているならば、それは知識人のうぬぼれであり、民衆への誠意を欠いている証左にほかならない。もはや“民衆の時代”に取り残された姿と言わざるをえない。時代の鼓動は民衆のなかにこそあるからだ。
25  「対話」「問答」ということでよく知られるのは、古代ギリシャの哲学者ソクラテスであろう。紀元前五世紀に活躍した彼は、晩年、ともかく人間の問題のみに関心を向け、探究を重ねたといわれる。
 早朝からアテナイの街頭、市場、体育館など、多くの人に会えるところに出かけていっては、精力的に問答を重ねた。ソクラテスは人格も立派であり、温かなユーモアと、鋭い論法をもった、まことに魅力あふれる人物であり、対話の名人であったようだ。多くの若者たちが彼によって心を開かれていったという。
 ソクラテスにとって対話とは「人間の魂を裸にして眺める」(林竹二『若く美しくなったソクラテス』田畑書店)作業であったといわれる。要するに、問いに対して、自らの考えるところを正直にそのまま述べることが“魂が裸になる”という意義であり、そうした率直な対話を通して、人間にとって最も大切な真実を確かめよう――との願いが込められていたようだ。こうした、互いの「魂の対話」を重視していくというソクラテスのいき方は、まことに含蓄深く、現代にも通じる重要な意味があると思う。
 またドイツの哲学者・教育学者であり、人間形成における「対話」の重要性を強調したO・F・ボルノーの言葉に次のようなものがある。
 「対話は生活のために斬新な力をもたらす。なぜならば、それは人間を昼の苦しみと夜の孤独から救い出して、常に新たないのちと慰めの源泉に導くためである。対話から生れる真理は、残忍で恐しく強制的な真理ではなく、慰めを与え、生活を支える真理であるからである」(李奎浩『言葉の力』丹羽篤人訳、成甲書房)
26  時代は明確に“人間組織”を志向している。常に組織は個人から出発し、個人に帰着する。どこまでも個人を守ることが原点であり、一人を徹底して大切にする人間組織でなければならない。組織的な権威を上から押し付けて事足れりとするような姿勢はもはや通用しない。たとえ小さな打ち合わせであっても、納得の「対話」でなければならないと思う。威圧や、強制的な印象を与える命令的なものではなく、相手の心に安心と勇気を与え、生活を支えゆく真理を確かめあう対話を基調にしていかねばなるまい。ともあれ、指導者によってすべては決まってしまう。指導者のいかんで、多くの後輩たちが躍動もするし、うちひしがれもする。幸福にもなっていくし、逆に不幸にもなる。また、勝利への展開もあるし、敗北の方向へと後退しゆくこともある。牧口初代会長の言葉は、仏法を根本としての組織論であるが、指導者というものの姿勢、あり方がどれほど大事であるかは万般にわたっての道理であると私は思っている。
27  一人の無限の力を引き出す組織――微粒子の世界
 「生命は生命と出会うと輝き出て磁気を帯びるが、孤立すれば消え入ってしまう。生命は自らとは異なった生命とまじりあえばまじりあうほど、他の存在との連帯を増し、力と幸福と豊かさを加えて生きるようになる」
 フランスの歴史家であるミシュレは、その著『民衆』(大野一道訳、みすず書房)の中で、このように論じている。ここには、人間と人間が集い合うことの意義が、端的に示されている。
 組織があると、それに縛られ、自由がなくなってしまうと、批判する人がいる。しかし、それは、組織の一面的なとらえかたである。
 そもそも人間の体それ自体が、見事な組織体となっている。目や耳や鼻などの器官、また手や足、さらに心臓、肝臓、胃などの臓器などが互いに連携をとり、補い合いながら、それぞれの力を最大に発揮し、一つの生命体をつくりあげている。もし、各部分の組織的なつながりがなければ、生命体としての完全な機能を果たすことはできない。
 また、人間社会も同じである。とくに現代は組織の時代であり、国家も、企業も、あらゆる団体が組織の存在なくして、いかなる前進も、発展も考えられない。宗教界にあってさえ、それが効果的に機能しているか否かは別にして、ほとんどすべてが組織を持っている。
28  ところで、このところ科学技術の世界で、超微粉とも呼ばれる超微細な粒子が関心を集めているようだ。金属を砕いて、直径百万分の一ミリから一万分の一ミリ程度の超微細な粒子にする。すると粒子を構成する元素は、それが塊であるときとまったく変わらないのに、性質が大きく変わるという。
 専門家の研究によれば超微粒子の性質変化は、一つはサイズ効果と呼ばれるようだが、粒子そのものの大きさ(サイズ)がきわめて小さいことに起因する。また、塊に比べて相対的に表面積が大きくなること――つまり表面に現れる原子の割合が粒径が小さくなるにつれて大きくなり、表面の原子の性質によりさまざまな特性の変化が起こること等が挙げられている。
 具体的に挙げると、粒子一つ一つの表面張力(表面積を縮小させようとする力)が強く、内部に数十万気圧という高い圧力が発生しているという。
 さらに、低温域で塊の時よりも比熱が小さくなったり、化学的にも「活性」が強く、触媒としてもその効果が期待される。
 オーディオ、ビデオの磁気テープに応用されているように、鉄系合金の超微粉末は、その大きさによって塊よりも非常に強い「磁性」を表す、等々である。
29  これらは物性の世界の現象であるが、組織とそれを構成する一人一人との関係に当てはめて考えるとき、一つの重要な示唆を与えてくれる。
 つまり、一人一人に光を当ててこそ、今までわからなかった素晴らしい力を一人一人が持っていることを知ることができる。組織はたんなる個の総和としての力を持つだけではない。「一人」また「一人」ときめこまかく見て激励をし、育てながら、各人の秘めた計り知れない力を最大に発揮させていくことが何よりも大切な発展のかぎとなろう。
 それを“みんなまとめて”といった観点のみで話をしたり、指示をするいき方だけでは、一人一人の持つ本当の力は出てこない。
 これはまた、人間としての生命と、細胞や分子の関係になぞらえることもできよう。主体である生命それ自体が持つ発動力というか、発現力というものに触発されながら、生命体を構成する細胞や分子が、調和された統合体として生き生きと活動を持続していく――その見事な生命のドラマ自体が、躍動する組織の象徴といえよう。全体がばらばらであっては、組織体としての力が出ないのは当然である。また、一人の力も本当に発揮するにいたらない。時代はますます人間組織を要請しているといってよい。一人一人としての「個」と、組織としての「全体」が調和し、両方のよさが存分に発揮されていくという、組織の理想的なあり方が求められている。
30  「死角」のない組織――五稜郭の築城法
 一九八七年(昭和六十二年)八月、函館を訪問したさい、青年たちと五稜郭へ行った。五稜郭は、戊辰戦争における最後の激戦地であり、薩長の新政府軍に対して、榎本武揚率いる旧幕府軍がたてこもり、戦いを挑んだところである。
 ところで五稜郭は日本で初の西洋式の城郭としても有名である。幕末の一八五七年(安政四年)に着工し、一八六四年(元治元年)に竣工している。
 その名は「五角形の平面を持つ城塞」の意であり、設計したのは伊予大洲藩(愛媛県大洲市)出身の蘭学者・武田斐三郎であった。彼は、フランスの築城書のオランダ語訳をたよりに、設計に当たった。
 この五稜郭の築城法は、大砲の発達とともに、フランスなどでもよく行われた独特のものであった。平地に星形に濠を掘り、その土で土塁を築いて、その突角部(稜堡)に砲座を置く。そして周囲には外濠をめぐらすというものである。この稜堡式築城は、日本でも十七世紀のなかごろには、兵法書に登場している。やはり幕末に築造された、長野県南佐久郡の龍岡城も、これと同型であるという。
 当時、なぜ、こうした築城が行われるようになったのか。それは、郭内からの砲撃に“死角がない”からである。この形であれば、攻撃してくる敵に、二重三重に、砲弾を浴びせることができた。
 「死角をつくらない」――これは、活力ある組織を構築するうえでも、大変に重要な視点である。
31  私の恩師戸田先生は、常々、あらゆる角度から組織のあり方について話してくださった。この組織と“死角”の問題についても経営論等を通じて、次のように指導された。
 「会社を経営するには、銀行のように、大きい一つの部屋で仕事をすることが最も大事だ。衝立や小部屋をつくっていくような仕事場は、陰をつくるような結果を生むから、注意しなければいけない。全社員の仕事ぶりを、社長は一望できることが大事である」
 いかなる組織にあっても、原理は同じであろう。何となく見えにくい“死角”が生まれ、中心者からみて、見通しが悪い部分があったときには、必ずそこから問題が発生するものだ。ゆえにリーダーは、全体を一望できる「明快」にして「見通し」のよい組織をつくることが大切である。そのためにも、中心者自らメンバーの意見をよく聞き、全員をよく理解することが肝要となる。
 また“死角”をつくる怖さは組織だけにあるわけではない。人間もまた同じである。
 どこかに不透明な部分を持つ人間、また何か心の底が知れない人は、リーダーはくれぐれも注意すべきである。人を裏切ったり、悪事を働く人間は、どこかに見えない不透明な部分があるものだ。報告がない。顔を合わせることが少なくなる。話をしていても明快でなく、不透明な部分が必ず残るようなときには、危険水域に入ったとみてよい。
 全体が、リーダーの一望のもとに、心を合わせて進んでいく――こうしたダイナミックな明るい組織こそ前進の組織といえよう。
32  同時にまた、五稜郭は“平城”であることに注目したい。ここにも重要な組織の視点がある。組織はいわば城にたとえられよう。いかなる組織であれ、何層にも組み上げられた“そびえ立つ”がごとき“城”ではなく、組織もまた、皆が同じ次元に立ち、ともどもに経験を積みながら進む「公平」にして「平等」な“平城”であることが肝要といえよう。山頂に高く“そびえ立った”山城のような組織になると、リーダーは結局、下のほうが見えなくなり、“死角”をつくることにもなりかねない。
 “死角をつくらない”――それは組織の、そして人の心のあり方の急所といえよう。五稜郭はそうした組織と人の急所を静かなるたたずまいのなかに教えているように私には思われた。

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