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日蓮大聖人・池田大作

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第二節 魂輝く青春  

随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

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2  今日を超える――『三太郎の日記』に思う
 青春とは、ある意味ではひたむきさの異名であるといえるかもしれない。より高いもの、より深いものを求めて、ひたむきに、がむしゃらなまでに一直線に突き進んでいくエネルギーを失えば、もはや青春の輝きはないともいえよう。
 私の若いころ、青年の必読書といわれていたものに、阿部次郎の『三太郎の日記』(『現代日本文学集』74所集、筑摩書房)がある。優れた資質を持った青年の赤裸々な内面生活の告白として、多くの読者を持っていた。その中に、次のような一節がある。
 「生活の焦点を前に(未来に)持つ者は、常に現在の中に現在を否定するちからを感ずる。現在のベストに活きると共に現在のベストに対する疑惑を感ずる。ありの侭の現実の中に高いものと低いものとの対立を感ずる。従つて彼の生活を押し出す力は常に何等かの意味に於いて超越の要求である」
 生命は刻々と変化する。それが人間としての堕落に向かうか、向上へとつながるか。道は二つしかない。変化しないと思うのは、後退を自覚できぬ自身の停滞のゆえであろう。その二つの道を分けるのは、自らを「超越しよう」とする一念を持続できるか、どうかにある。
3  人間は本能のままに生きる動物とちがって、何かを目標とし、少しでも進歩・向上しようとするものであり、またそれができるのが人間である。まして、人生の骨格をつくる青春時代は無我夢中でよい。極端な表現を使えば、一事に没頭していつ春が過ぎて、夏が来たか、季節の移り変わりさえわからぬほど、全身全霊を込めて前進また前進を重ねる時期があってもよいと思う。そうした情熱の日々は生涯、命の鍛えとなって刻まれ、のちのちまで人生の旅の歩みを支えるにちがいない。
 目的も向上心も失った人生は非常にわびしく、また寂しいものだ。ひいては何のために生きたかわからなくなってしまう。自分でなければならない人生の価値を創造することもなく、何のために人間として生まれてきたのかという、後悔に満ちた疑問符を投げかけなければならないような人生の最後になれば、まことに残念なことである。
 今日の自分と明日の自分との間に、何らかの「超越」がなければ、進歩はない。澱んだ水が腐り、そこからボウフラがわいてくるように、青春とは、もはや名ばかりのものとなり、生命の“張り”は失われてしまう。そうした惰性を排し、一日そしてまた一日、「今日を超えゆく」挑戦の日々でありたいものだ。
4  魂のこもった青春――詩人サムエル・ウルマン
  青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。
  逞しき意志、優れた創造力、炎ゆる情熱、
  怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、
  こう言う様相を青春と言うのだ。
  年を重ねただけで人は老いない。
  理想を失う時に初めて老いがくる。
  歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。
  苦悶や狐疑や、不安、恐怖、失望、
  こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、
  精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。
   (中略)
  人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる。
  人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる。
  希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる。
5  日本を占領した連合軍最高司令長官マッカーサーも愛誦していたという有名な詩「青春」の一節である。さまざまに語り継がれたこの詩だが、近ごろ、これがサムエル・ウルマンという人の詩に基づいて書かれたものであることが、世に詳しく紹介されて話題になった。それほど、この詩には、多くの人の心をとらえるロマンと格調がある。(宇野収・作山宗久共著『〈青春〉という名の詩』産業能率大学出版部参照。同書によると、右の詩の日本語訳は松永安左エ門との説があるという。また岡田義夫訳といわれるものもある)
 この詩にも種々に謳いあげられているが、言うなれば青春の本質をなすものは生命の躍動であるといえよう。青春の特質は、たとえ未完成であっても、そこに偉大なる生命の燃焼があることである。未知の世界への挑戦、はつらつたる革新のエネルギー、正義感、情熱等、青春を貫くものは、限りなく色彩豊かである。
 一方で青春とはまた、未来を志向しながらも自分自身との葛藤に悩む煩悶の時代といってよいだろう。「あのようになりたい」とか「こうなりたい」とか、常に心が変化しているものだ。その心の激流に流されて沈んでしまうか、その中でもがきながら前へ前へと進むか、これが青春の闘いである。
 ドイツの作家であり、医師でもあったハンス・カロッサは、第二次世界大戦の折、ナチス・ドイツの圧迫を受けながらも、ファシズムの吹きあれる暗黒の時代をじっと耐え忍び、誠実に生きぬいた。彼の言葉に「魂のこもつた青春は、決してそうたやすく滅んでしまうものではない」(『指導と信従』芳賀檀訳)とある。
 自由に、面白半分に人生を、青春を謳歌することもいいかもしれない。しかし、正しき人生を志向しながら、人々のため、社会のため、汗を流し、貢献していく。そのような青春の魂は、生涯を光輝あるものとする“黄金の魂”であるといえる。その魂のある人は、いかなる境遇にあっても人生を輝かせていけるものだ。逆に、青春時代に、“死せる魂”しか持ち合わせていない人が、どうして偉大なる人生を生きていくことができようか。青春時代、また現在まで、私も死にものぐるいで青春の魂を燃やし、魂のこもった青春を生きてきたつもりである。ゆえに私には何の悔いもない。
 当然、青年の生き方は多彩であり、画一的に論じる必要もないであろう。ただ、どのような「道」にあっても、青春時代を自分らしく、完全燃焼で生ききったか、それとも中途半端な不完全燃焼で終わってしまったか――そこに人生の大いなる分岐点がある。
6  戸田先生は、よく私ども青年に語ってくださった。
 「大事業は、二十代、三十代でやる決意が大切だ。四十代に入ってから“さあ、やろう”といっても、決してできるものではない」
 「青年は、望みが大きすぎるくらいで、ちょうどよいのだ。この人生で実現できるのは、自分の考えの何分の一かだ。初めから、望みが小さいようでは、何もできないで終わる。それでは何のための人生か」
 二十代、三十代という青春の日々を、いかに「大いなる理想」をいだいて戦いきっていくか。そこにこそ、長いようで短いこの一生を、最大に「満足」と「充実」で飾りゆくための“ホシ”がある。青春はふたたび帰らない。四十代、五十代になって、わびしい「悔い」をかみしめる人生であっては不幸である。また不完全燃焼の燃えさしのような、ブスブスとくすぶる愚痴の人生となっては哀れである。ゆえに健康で思う存分働ける青春時代にこそ、若き生命を完全燃焼しきっていくべきである。それが、ほかならぬ自分自身のためである。
 青年よ、高く大いなる理想に生きよ、炎となって進め――それが戸田先生の教えであった。その理想の峰が高ければ高いほど、尽きせぬ充実があり、パッション(情熱)がわき、成長があるものだ。どこまでも大理想をめざし、青春を余すことなく燃やしきっていく――そこに悔いなき人生を築く大事な一点がある。
7  胸中の珠を磨く――ヘルマン・ヘッセの訴え
 ドイツのノーベル賞作家であるヘルマン・ヘッセは、第一次世界大戦が勃発した時、勇敢にも、この戦争に真っ向から反対する論文「おお、友よ、その調子をやめよ!」を発表した。交戦国の大部分の文化人たちが、相互に憎しみの弁論をふるい、国を挙げて戦争に狂奔している時である。
 そのため新聞からは「売国奴」と非難され、作品も、民衆からボイコットされた。
 やがてドイツは惨めな敗北を喫する。そして青年たちは、失意と絶望の淵に沈み、生きる意欲を失った。その時、ヘッセはまた、勇気をもって「ツァラツストラの再来――一言、ドイツの若き人々へ」と題する一文を草し、ドイツの青年たちに呼びかけた。(『若き人々へ』高橋健二訳、人文書院)
 「みずからの生活を生きることを学べ! みずからの運命を認識することを学べ!」
 青年は絶望、虚無、孤独に打ちひしがれていてはならない。今この悩みから逃げようとしてはならない。自らの運命をただ嘆くのではなく、それを認識し、受け止め、すべてを包容して進めと訴えたのである。戦争へとなだれをうった時流と戦い、そして自らの宿命の嵐とも戦ったヘッセの心の奥からの透徹した叫びであったと私は思う。
 またヘッセは、「よく悩むことを知るのは、半ば以上生きたこと、いな完全に生きたことである!」と言っている。さらに「悩みから力がわき、健康が生まれる。(中略)悩みは、ねばり強くし、鍛える。すべての悩みに対して逃げ出すのは、子供である! まことに、私は子供を愛する。だが、一生のあいだ子供でいようとするものをどうして愛することができよう?」と言う。そして彼は、こう呼びかける。
 「君自身であれ! そうすれば世界は豊かで美しい!」
 私は、この言葉が青年時代好きであった。青春とは、ある意味で悩みの時代であり、悩みの異名であるといえるかもしれない。異性への目覚め、親との関係に心を悩ますこともあろう。社会に出ても複雑な人間関係や社会の過酷さ、不平等、矛盾などに憤りを覚えることもあろう。純粋であればあるほど、真剣であればあるほど、その思いは深く強い。
 しかし、大切なことは環境ではない。一切は自己自身の内にある。何かに直面したときに、悪に妥協し、堕落していくか、反対にその煩悶を、大いなる成長と幸福への飛躍台としていけるか。ともかく、すべての環境は、自分自身を磨き、人間完成への修行をしていける場だと自覚することである。自らの「悩み」と「運命」を全身で受け止め、自己自身との戦いに、敢然と挑戦していったときにこそ「胸中の珠」は磨かれ、自分自身の人生が確固と開かれていくといえるのではないだろうか。
8  平凡と非凡の間――努力の人、新井白石と北村西望
 江戸時代の有名な学者であり、政治家でもあった新井白石は努力につぐ努力で若い時代を貫いたことで有名である。彼が、九歳にして冬の夜、桶の水をかぶって眠気をはらいながら学問したことは、よく知られているが、その彼は『折たく柴の記』(羽仁五郎校訂、岩波文庫)に次のような意味のことを書いている。
 「こんなにまで勉強することができたのは、……いつも堪えがたいことに堪えることを心がけ、世間の人が一度することを、私は十度おこない、十度することは、百度したからである」
 いわゆる“才能”の有無を超えて、いかに新井白石が自己に挑戦しぬいていったか。まことに執念にも似た気迫を感じる。
 また、私も一度お会いしたことがあるが、百二歳の高齢で亡くなった彫刻家の北村西望氏が、有名な長崎の“平和祈念像”を制作していた時のことである。ある晩、像の足元にいたカタツムリが、翌朝見ると、何と九メートルもある像のてっぺんにのぼっていた。
 北村氏は、小さな生き物の懸命な姿に感動し、ああ、少しずつでも進むことは素晴らしい、人間もまた同じだ、と感じて、
 「たゆまざる 歩みおそろし 蝸牛」と句に詠んだ。
 北村西望氏は、この句について、一九八二年(昭和五十七年)十二月、数え年百歳となった時、次のように書いている。
 「私はこの言葉が大好きである。いつの間にか百歳になったが自分の足跡のように思えてならない。百歳と一口に言えば簡単だが、自分の前半生はそれこそ苦節の幾星霜だった――しかし今想えばすべてがなつかしい思い出ばかりである」(『北村西望百寿の譜』新三多摩新聞社)
 まさにこのかたつむりの句は、一時の感動を詠んだものではなく、来し方を振り返った北村西望氏自身の感慨と満足感と人生観そのものではなかろうか。
9  たしかに、その人生は、ある意味で蝸牛の歩みのようなものであったともいえる。氏は「若いころ、私は朝倉文夫、建畠大夢という二人のすばらしい友人にめぐまれた。二人とも彫刻の天才だった。私は二人にかなわなかった。二人のあとをついて行くのがやっとであり、いやでも私は勉強せざるを得なかった」と『私の履歴書』(日本経済新聞社。本全集第22巻収録)で述べている。淡々と述べているその言葉の背後に、挫折や落胆や苦渋を一歩一歩、押し返していく巨大な精神の重厚さが感じられてならない。
 この二つの話は、努力し続けることがいかに大切かを教えている。
 いかなる時も、少しずつでも歩いていれば、目的地に到着できる。当たり前のことだが止まってしまえば、絶対に前には行けない。動いていれば少しでも前進できる。
 いかなる分野であれ、一事に精通し、また、社会の一隅を照らしゆく何らかの貢献を果たす人は、共通した道を歩んでいる。それは、絶えざる精進を忘れない「努力の道」である。それなくして、魂の結晶としての人生の成就はない。
 「努力」を続けることは、決して楽ではない。しかし、「努力」した人には「勝利」が待っている。その意味で「努力」はウソをつかない、正直である――ともいえよう。
 いかなる天才も人に倍する努力を重ねているものである。ある意味で、才能とは、長い努力に耐える力にほかならず、そこに勝利の栄冠がある。敗北とは、困難に負けて自分で自分を見放してしまうことである。
 努力とは平凡なことかもしれない。しかし、平凡なことを、倦まず弛まず持続していくことは、まぎれもなく非凡なことであろう。そして、人生における真実の勝利を手にする人は、何か特別の才能に恵まれている人ではなく、そうした平凡にして非凡な道を着実に歩み続けた人であることを忘れてはならない。この平凡と非凡の間にある道程から視線をそらすことなく、最後まで歩みぬく人こそ最も賢明なる人とはいえまいか。
10  厳冬の鍛え――周公の言葉
 人間もまた自然の一員であるならば、自然の厳たる法則は人生にも多々あてはまるものかもしれない。
 中国の思想家・韓非は、周公の言葉として次のように言っている。
 「冬日の閉凍や固からずば、則ち春夏の草木を長ずるや茂からず」
 これは、冬の日に大地を固く閉じ凍らせる厳寒がないと、春から夏にかけて草木が勢い盛んに茂るにはいたらない、という意味である。
 人生もまた同じである。艱難辛苦を経なければ、人間の完成も人生の勝利も得ることはできない。若き日にさまざまな試練、苦難を経てこそ、人生の総仕上げを飾り、勝利の栄冠を得ることができる。青春時代とは人生における「鍛え」の季節であり、厳冬を自ら求めていくべき時であるといってよい。
 またルソーの『エミール』の中に次のような言葉がある。
 「苦しむこと、それはかれがなによりもまず学ばなければならないことであり、それを知ることこそ将来もっとも必要になることなのだ」(今野一雄訳、岩波文庫)
 古今東西を問わず、歴史のうえで、また現実のうえで、立派な価値ある仕事をなした人物というものは、例外なく、人一倍、自身を厳しく鍛えあげている。政治家であれ、事業家であれ、芸術家であれ、みな同じ道理である。また、たとえ地味であっても深き人生を生きている人は、みなそれぞれの鍛えを経ているものである。自らを徹底して鍛えた人のみが、それ相応の喜びと満足を得られる。
11  現代社会には、いたるところで放縦な“快楽”がはびこっている。私は別に禁欲主義を主張するつもりはない。だが、快楽を求めることのみに汲々としている若者があまりに多いことを憂えるのである。
 人生の重要な基礎を築くべき時に、努力もしない、勉強もしない。それでいながら、早く偉くなりたい。豊かな生活でありたい。華やかな脚光をあびる人生を生きたいと願う。こうした安易な生き方が、いかに空しく、無意味なものであるか――。もしも人生が青春時代のみで終わるのであれば、あるいは、それでよいかもしれない。また、若いうちは安易な風潮に流されていても、それなりに生きてはいけるであろう。しかし、やがて中年、老年へと入っていく。青春時代に苦労し、自分を錬磨しながら進んだ人は、やがてその力が大きく花開いていく。これは、私のこれまでの人生の経験からみても断言できることである。
 長い目でみたとき、決して要領では人生に勝てない。社会にも勝てない――これは、すべての人々の人生における結論でもあろう。とくに青春時代の苦労と生き生きとした行動は、すべて長い人生の土台となっていく。
 いかなる労苦と困難にも屈することなく、逞しく生きぬいていくことこそ青春の勲章である。生涯の栄冠に通じていくものでなければ真の価値をもたないからである。
 現実の人生は厳しい。そこにはどんな宿命が待ちうけているかわからない。また、何人たりとも、死んでいくときは自分一人である。だれも助けてくれはしない。人生の最終章を、心からの“満足”と“安楽”で、悔いなく飾っていけるかどうか。青春時代とはその人生の大きなワンステップであることを忘れてはならないであろう。
12  信用こそ青年の財産――エドモン・ダンテスの処世
 私の恩師戸田先生は常々「青年は信用をつけよ。信用こそ青年の最大の財産である」と言われていた。またその要諦として「約束を守ることだ」とよく教えられた。
 私の若き日、先生のもとで、種々の教材を選んで読書会が行われた。通りいっぺんの読書会ではない。一書の紙背にまで徹して、その思想を読み取り、読みきらねばならない。先生は「書を読め、書に読まれるな」と厳しく言われ、真剣勝負のごとき熱気の会合であった。
 昭和二十九年(一九五四年)三月、『モンテ・クリスト伯』が教材となった。「ダンテスが社交界で成功した理由は何か」――この質問に、ある人は「財力である」、またある人は「知恵と雄弁の力によって勝った」などと答えた。また「根本は復讐をとげようとする一念の力である。どのようにしたら効果的な復讐となるか、相手をよく観察し、また社交界の性質なども勉強している」と述べた者もいた。その時の先生の一言が忘れられない。
 先生は、青年らしい社交のあり方を力説した。
 「若い諸君は、ダンテスのような生き方をとる必要はない。二十代の青年が、敵か味方かをいちいち探り、考えているのでは純真さがなくて私は嫌いである。青年には信用が財産である。しかも、信用を得る根本は、約束を守るということである。できないことは、はっきり断る。その代わり、いったん引き受けた約束は、何を犠牲にしても絶対に守ることだ」
13  人間にとって信用ほど大切なものはない。しかも信用というものは、一朝一夕に築けるものではない。それは、積むに難く、崩すに易いものだ。十年かかって積んだ信用も、いざという時のちょっとした言動で失ってしまうこともある。また、小才で表面だけ飾ったメッキは、大事な時にはげてしまう。苦難のなかを、まっしぐらに自らの信念の道を真剣に誠実に生きぬいていく人こそ、最後にあらゆる人の信用を勝ち得ていくであろう。地味な、だれも見ていないような仕事であっても、それを大切にし、一歩一歩、忍耐づよく進んでいく不断の作業が大事である。学識も才知も、信用を土壌としてこそ、真実の力になることを忘れてはならない。
 環境が悪いと嘆くことはたやすい。しかし、それを自己を磨く“鍛えの風”として、たゆまぬ努力と実践を通じ、それぞれの環境、立場において、周囲の人々の信用を勝ち取っていきたいものだ。その財産こそ、富よりも一時の功名よりも、何よりも時とともに輝く人生の宝となるにちがいない。
14  師弟の道に人生の王道――ラニョーとアランの崇高なる絆
 古今東西を問わず、何ものかをなしとげた人は、必ずといってよいほど偉大な「師」を持っている。見えると見えざるとにかかわらず、強く結ばれた「師弟の絆」は、大いなる飛躍と成長、発展のばねとなってきた。まさに「師弟の絆」こそ、価値ある人生を生きぬく源泉であり、原動力といえよう。
 私自身、戸田先生を人生の師として、信仰に志し、使命に生きぬいてきた。十九歳での恩師との邂逅――今日までの軌跡も、すべてその時に決まったようなものである。私が仏法者としての道を歩むようになったのは、ひとえに戸田城聖という一個の人格との出会いによるものであり、実に戸田先生を知って仏法の偉大さを知ったのであり、戸田先生との「師弟の絆」を貫いてきたがゆえに、今日の私がある。時を経れば経るほど、師の恩の深さ、重さをしみじみと実感する昨今である。
15  フランスの哲学者アラン(一八六八年―一九五一年)は、今世紀前半を代表する“知性”の一人として、ベルクソンと並び称された。その主著の一つは『幸福論』だが、それは、私にとっても若き日に手にした名著として、まことに思い出深い。
 彼は、デカルトの流れをくむ信念固きヒューマニストであり、「現代のソクラテス」とも呼ばれた。だが大学の教授ではなかった。生涯を、高等学校の一教師として送っている。とともに、地元の新聞に、日々の思索を短文にまとめた「語録」を掲載するなど、執筆活動も続けた。教育者として力を磨いていくうえで、教育以外に自身の鍛錬の場を持つことも大切なことであろう。例えば信仰者として、人間的な成長を期していくことも、力ある教育者への道を開く重要な“錬磨”となっていくことも多い。
 ともあれ、アランの教室からは、作家のアンドレ・モーロア、ジャン・プレボー、女性思想家のシモーヌ・ヴェイユら、数々の逸材が輩出した。高等学校の教師としても、彼は超一流であった。
 そのアランが、八十三年の生涯で、「私が出会ったただ一人の『偉人』」(『ラニョーの思い出』中村弘訳、筑摩書房)と仰いだ人がいる。それが、高等学校時代の恩師ラニョーであった。ラニョー(一八五一年―九四年)は、教師であるとともに卓越した哲学者であった。彼は、大学教授として名を成すことも当然、可能であった。
 しかし、そうした名声を博する道をあえて歩まず、ひたすら、若き魂の「触発」と「育成」に全生命を捧げた。来る日も来る日も、全魂こめて伸びゆく高校生の育成に一切の時間を費やした彼は、とうとう、まとまった著作は、一冊も残さなかった。だが、その“魂の著作”は、卒業しゆく学生たちの“心の本棚”に確実に納められていった。
16  アランは、追憶する。「謙虚な師は、この隠れた栄誉以上のものを、決して望まなかった」(同前「解説」白井成雄)
 たしかに、さまざまな勲章や一時の名声など、永遠なる“心の財宝”から比べれば、たいした意味はない。弟子のアランも、名聞名利を超克した恩師の生き方を、若き生命に、鮮烈に刻みつけたにちがいない。アラン自身、六十五歳で定年退職するまで、四十年余、高等学校の哲学教師として勤めぬいた。大学の権威に心を奪われず、高等学校教育に、生涯、誇りと情熱を持ち続けた。
 戸田先生は、かつて「人を引っ張っていくには、名誉欲と金欲をかなぐり捨てることだ。これらを捨てた人間ほど強く、いい意味で、手のつけられぬものはない」と話してくださった。
 自己の「名声」や「富」を第一とする人に、本当の意味での指導者の資格はない。また、教育者も同じといってよい。学生、生徒らの鋭敏な「心」は、教師のエゴイズムを、ただちに見抜いてしまう。魂の触発という労作業にあっては、外面的な名声などは所詮、空しく吹き飛んでしまうものである。世俗的な欲望をかなぐり捨てた純粋にして高潔な情熱のみが、子らの澄んだ心に分け入り、胸中に感銘と共感の鐘を打ち鳴らしていくであろう。
 アランが師ラニョーと出会ったのは十八歳の時。ラニョーから現実社会のなかで“生きている”哲学を学んだ。それこそ“新しき精神”の目覚めであり、“新しき世界”の発見であった。まさにアランにとっては、“青春の朝”ともいうべき覚醒の日々であった。彼は、この時代を振り返り、“哲学者は朝ごとに二重の目覚めをする”と言っている。
 すなわち人が毎朝、目覚めるということは、本来、それ自体が、日々、新たな世界との出あいである。そのうえで、哲学を持ち、新しい「ものの見方」を学んでいくことは、二重の意味での「目覚め」といえるというのである。アランは師ラニョーのもとでは、その新鮮な感動の連続であったにちがいない。
17  「人生は朝から成る」という言葉を好んだアランは、いわば“朝の哲学者”だったのかもしれない。教えるにも、この言葉を繰り返し語ったといわれ、太陽が昇る「朝」のイメージをこよなく愛していたようだ。
 さて、ラニョーは、高等学校での教育に自身を捧げ尽くし、四十二歳で逝去する。前述のごとく、著作を出す余裕もなかった。アランは、その師を偲んで言う。
 「師は現代の最も深遠な哲学者の内に、生前当然地位を占めるべきであった。師を敬愛する者、師からじかに全思想をさずけられた者達は、師がこのような地位を死後占めうるよう、努めねばならない」(同前)
 そして、この言葉通り、アランらは全魂を込めて、ラニョーの講義草稿をまとめ、出版する。麗しい師弟愛である。師を思う弟子の深い一念に、私は胸を打たれる思いがする。アランは、生涯を通じて、繰り返し繰り返し、ラニョーを宣揚した。こうして今日、ラニョーの名は、アランとともに、歴史の花園に馥郁と薫りを放っている。
 そしてまた著名な作家モーロアは、アランの教え子であった。つまり、ラニョーの孫弟子にあたるが、モーロアもまた、師アランの伝記を、敬愛の心を込め、つづった。その冒頭の一節は、こうである。
 「アランはつねに偉大だが、師ラニョーについて語るとき、かれはつねにもまして偉大である」(『アラン』佐貫健訳、みすず書房)
 人生には、数限りない「出会い」があり、数限りない「絆」がある。しかし、そのなかにあって、「師弟の出会い」「師弟の絆」こそ、最も崇高なる人生の「精華」であると思えてならない。
18  運命の星――逆境時代の光源氏
 『源氏物語』は世界最古の長編小説といわれるが、その主人公・光源氏の名は、広い意味で、彼がどこにいっても、何をしても「光った存在」であったことを象徴しているのかもしれない。
 『源氏物語』の中の「須磨」「明石」の巻には、その光源氏にとって最も逆境の時代が描かれている。
 父である桐壷帝の死後、源氏は、その威光の後ろだてを失い、うずまく周囲の嫉妬や策謀が彼を追いつめていく。そしてついに政治的に失脚し、都から逃れて流離の生活を送ることを余儀なくされてしまうのである。それは源氏が二十六歳から二十八歳の時のこと。二年余の流謫の日々であり、青春時代のヤマ場ともいうべき苦難との戦いであった。
 失脚するまでの源氏の人生は、順調すぎるほど順調であった。帝の子として生まれ、臣籍に下って源姓となったものの、無類の美貌と才質である。華やかすぎるほどの人生行路を歩んできた。
 その源氏が迎えた最大の試練である。なぜ、ほかならぬ自分がこれほど苦しまねばならないのか――。
 人生の冷厳な現実に自問自答するような心境もあったろう。人間の世界とは、かくも残酷なものかと、悲哀と無常観を幾度となく、かみしめてもいる。
 いかなる人にも逆境の時がある。順境ばかりの人生などありえない。もし、あったとしても、それでは人間としての成長はない。苦労知らずは、いたずらに驕慢になるばかりである。苦しんだ人でなければ、偉大な人生の深みはわからない。これが多くの人々を見てきた私の一つの結論である。
 しかし、その逆境、苦難の時に、ただ意気消沈しているだけでは、人間としてあまりにも浅薄である。ことあるたびに紛動されるのでは、人間としての内容が何もないと言わざるをえない。通例の柔弱なやさ男のイメージとは異なり、源氏には逆境をばねにする、人間としての何ものかがあった。彼は須磨・明石での苦悩を経て、心の成長と鍛錬をとげていったのである。
 やがて源氏は、晴れて都に帰る日を迎える。逆境のなか、彼は、いったんは悲しんだものの、ついに自分に負けることはなかった。くさることなく耐え、次なる舞台を開いていった。
19  「汝の運命の星は、汝の胸中にあり」(シラー)という言葉が私の心に深く残っている。今の境遇がどうあれ、過去がどうあれ、未来を築きゆく運命の星は、ほかならぬ自分自身の胸中にあるにちがいない。嵐がこようが、怒涛が押し寄せようが、常に己自身が、厳然と光り輝いていればそれでよいのである。苦難に挑戦していく人は、労苦のなかで自己を磨き、より大きくすることができる。いかに激しい高波に揺れ動こうとも、未来への希望と行動を忘れず、誇り高く前進していくことだ。
 逆に文句と愚痴の人間は、自分自身を閉ざし、しだいにだれからも相手にされなくなり、どこの世界でも通用しなくなってしまうのである。
 人生は長い。晴れの日も、強風の日もある。大切なのは、人生最後の勝利であり、これこそ永遠の勝利、真実の勝利に通じる。その最後の勝利のためには、青年時代の労苦を避けず、その労苦を自己の成長への跳躍台にしていこうとする姿勢が不可欠であることを忘れてはなるまい。
20  人を育てる――教育者としての魯迅
 私が魯迅にとくに心ひかれる点は、魯迅が優れた教育者でもあったということである。教育者としての彼は、青年に限りない可能性を見いだした。
 彼は新中国建設のため、青年に大きな期待を寄せ、さまざまな犠牲をはらっても、その育成に全力を挙げた。それゆえに、学生たちの純粋な情熱を、自己保身のために利用する教師を許せなかった。
 「学生たちは若く、経験が少いからペテン教師の踏台によく利用される。ペテン教師ぐらい憎むべきものはない」(小泉譲『魯迅と内山完造』講談社)――彼はよく、そう語っていたという。
 死去する十日ほど前に、魯迅は「木刻展覧会」を訪れている。すでに彼の体は、外出を許さないほどに衰弱しきっていた。しかし、彼が生涯のなかで力を注いだ仕事の一つである版画の運動の分野で、若き芸術家たちがはつらつと伸びている姿を見届けたかったのであろう。病躯を押して会場へ足を運んでいった。彼の青年にかける思いの深さは終生変わることがなかった。人生の最後の瞬間まで教育者としての道を貫きたい――彼の面目が躍如とする、次のような言葉が残っている。
 「生きて行く途中で、血の一滴一滴をたらして、他の人を育てるのは、自分が痩せ衰えるのが自覚されても、楽しいことである」(石一歌『魯迅の生涯』金子二郎・大原信一訳、東方書店)
 いかにわが身が病み衰弱し、死することがあったとしても、旭日の昇りゆくがごとき若き青年たちの成長の姿を見れば、これほど、楽しいことはない、との心情であったのであろう。私も全く同じ思いである。青年こそ新時代を開きゆく宝である。ゆえに青年の舞台を切り開くため、ただそれだけのために、いかなる労苦があろうとも前に進む。そして青年の大いなる活躍を思えば、あらゆる苦もまた楽しい。
 多くの人々を教育し、有為な人材に育て上げることが大切である。次の時代のために、人材を見つけ、育てられないような人は、本当の指導者とはいえない。独裁者と指導者を見分ける一点がここにもある。
 そして、本当に人を育てるのは誠実の力である。人材に育てようという真心があれば、十人いて三人しか育たなくてもその三人が三十人分の働きをする。これが、私の経験からの実感である。逆に策で十人のうち九人育てても、それは九人分の働きしかしない。
 ともあれ、人を見つけ育てることは、一切の戦いに先手を打つ根幹でもある。無限の未来へ向かって、逞しく成長し、絶えず勝利への因をつくっていく原点にもなるのである。
21  後継者の要件――山崎豊子『暖簾』
 昭和三十二年(一九五七年)五月十三日(月)――その日は曇りであったようである。日記によるとこの日、私は恩師の招待で、妻とともに芸術座に「暖簾」を鑑賞に出かけている。そこには「“暖簾”……大阪根性の、昆布職人の、一生の歴史劇。一道に徹しゆく、真剣なドラマに、美しき涙を、さそわる」(本全集第37巻収録)とある。
 この劇は、山崎豊子原作、菊田一夫脚色、演出のもので、四時間にわたって上演された。商人の道に徹した人生道を見事に描いて、大変感銘深い劇であったと記憶している。
 小説『暖簾』(新潮文庫)は、大阪の昆布の老舗・浪花屋の商人、吾平の、十五歳から約六十歳までの人生行路をつづったものである。
 吾平は淡路島の出身であり、店の主人に路傍で拾われて丁稚奉公する。古参の番頭らにいじめられ、虐げられながらも、誠実に努力を重ね、その結果、「暖簾」を分けてもらう。その後も、関西大洪水や、戦災など、数多くの苦難を乗り越え、最後は見事に自分の店を復興させていく。
 一面からみれば、平凡な話に思えるかもしれないが、主人公・吾平本人にとっては、波瀾に富んだ人生劇であった。
 彼が、その人生を通して最も大切にしていたものは何か。――大阪が空襲にあい、船場の吾平の店も焼け落ちてしまう。その時、彼は暖簾をはずしてまるめ、火の中をくぐりぬけ、必死に逃れた。それ以前、浪花屋の本家が類焼した時も、暖簾は真っ先に助け出された。
 こういう意味で、「暖簾は商家の命だった(中略)それだけに生死を賭けても守らねばならなかった」と記されている。私はそこに、暖簾こそ大阪商人の誇りであり、象徴であるという心意気をみ、深く感動した。
 また吾平は、浪花屋の暖簾に絶対の誇りと自信をもって商売をしている。彼はいかに苦しい事態にあっても、いわゆる商売の“邪道”には落ちなかった。商人としての正しい道を歩みつつ、数々の危機を乗り越えていった。それはこの暖簾を汚してはならないとの思いがあったからといえるであろう。
 さらにこの小説では、父である吾平の後を息子の孝平が継いでいくところも描かれている。劇においても、父親の、その息子に対する鍛錬が見事なまでに描かれていた。主演の父親役はたしか森繁久弥氏であったが、涙をさそわれるほどの、厳しい師弟ともいうべき親子の関係が、見事に演じられていた。その父親は、死ぬまで、息子が一人前になったとは決して言わない。しかし、陰では、素晴らしい後継者になってくれたと心から喜ぶのである。
 恩師は、当時、すでに体が弱っておられた。そこでご自身では観に行けないので、私ども夫婦に観てくるようにと勧めてくださった。私はそのとき劇の内容を見て、先生のお気持ちが深く感じられた。今もそのことが忘れられない。
22  当然のことながら、暖簾に対する考え方は、父と息子では異なってくる。小説では、店を見事に守り立てた息子は暖簾についてこう考える。
 「確かに暖簾は商人の心の拠りどころである。武士が、氏、素姓を拠りどころにするように、商人の心構えを決めるところだ。しかし、それがすべてではない。昔のように古い暖簾さえ掲げておれば、安易に手堅く商いできた時代は去った。現代の暖簾の価値は、これを活用する人間の力によるものだ。徐々に、復活して来た顧客の暖簾の懐古に、安易にもたれてしまう者は、そのまま没落してしまう。暖簾の信用と重みによって、人のできない苦労も出来、人の出来ないりっぱなことも出来た人間だけが、暖簾を活かせて行けるのだった」
 つまり、暖簾を受け継ぎ、発展させていくには、それにもたれかかっているだけではならない。その暖簾を活用する人間の力、苦労、努力こそが、一切の決め手となるのである。
 この話の中には、事業であれ、団体であれ、物事を後継していくうえで大変示唆に富む内容が含まれているように思う。後を継ぐべき人は常に、力をたくわえようとする意志を持ち続けなければならない。順境にあってすでに作られたものにもたれかかっていてはならない。成長していくためには自身をあえて厳しい環境において、自らと対決し一層の発展へと先人以上の労苦を重ねていく――そうした賢明さと強靭な精神力が求められているにちがいない。逆境こそ人間完成の厳父であり、限界ともいうべきぎりぎりの地点に身をおいてこそ、自らの渾身の力も発揮できる。後継の苦労をあえて引き受けて挑戦する青年の心を持ち続けたいものである。
 能の大成者である世阿弥元清の言葉に「家、家にあらず、次ぐをもて家とす。人、人にあらず、知るをもて人とす」(田中裕校注『世阿弥芸術論集』新潮社)とある。
 どんな立派な人物であっても、己を知る人を得てこそ力を発揮できる。どんな名門の「家」であろうと、たしかに後を継ぐ人を得てこそ、その伝統も財産も生きてくる。後継を誤ることは一切を誤ることに通じ、よき後継に恵まれれば万事の勝利の礎となるのである。
23  試練の道に誓い貫く――須利耶蘇摩、鳩摩羅什、そして僧肇 
 はるかなるシルクロードを越えて仏教を伝えた訳経僧の第一人者として、鳩摩羅什がいる。日蓮大聖人が「羅什一人計りこそ教主釈尊の経文に私の言入れぬ人」(御書一〇〇七㌻)と仰せのごとく、彼はたんに、翻訳技術上、優れた訳文を残したというだけでなく、大乗教学の正統派である竜樹の哲学をふまえ、仏教の真髄を誤りなく中国に伝えたところにその偉大な功績がある。実に、鳩摩羅什の名訳があって初めて正しく、法華経・般若経・維摩経などの大乗経典が中国全土に広まっていった。その業績が「絶後光前」(同㌻)と讃えられるゆえんである。
 インドに発祥した仏教がやがて中央アジアへ、中国へ、そして日本へと伝来し、国境を超え、民族の違いを超えるにいたったその陰には、この鳩摩羅什のみならず、名も知れぬ多くの求法僧の身を挺した戦いがあった。三千年の時空を超えて、仏教を世界宗教たらしめてきたもの――それは、一人の人間のやむにやまれぬ求道の情熱、弘教への強き一念であったと私は受けとめたい。
24  羅什の生涯は文字通り波瀾万丈、艱難の日々に覆われていた。しかし彼には、生涯の原点があった。それは少年時代、仏教修学の途上、師匠・須利耶蘇摩から梵本の法華経を手渡され、言われた一言であった。「仏日西に入り、遺耀将に東北に及び、この典東北に於て有縁なり、汝慎んで伝弘せよ」――この経典は東北の地に縁深い経である、慎んでこれを伝え弘めよとの言葉であった。
 鳩摩羅什は、四世紀中ごろ、月氏(インド)と漢土(中国)との中間、西域北道の仏教文化の中心地、亀茲国に生まれた。天竺国の名門の出であった鳩摩羅炎を父とし、亀茲国の王の妹・耆婆を母とする羅什は、七歳にして出家するや、たちまちに亀茲国に伝来していた仏教一切に通じたといわれる。九歳の時には、さらなる仏道修行のために母に連れられて、父・鳩摩羅炎の出身地と目されるカシミールの罽賓国(けいひんこく)にはるばる留学する。ここでも、羅什はその俊英さをもって次々と仏教を修め、十歳前後の沙弥の身で、国王の前で外道を論破したという逸話も残っている。
 彼は三年の留学を終え、ほぼ小乗経の説一切有部の教学を体得した。羅什が、その師匠・須利耶蘇摩と、運命の出会いをするのは、その帰国の途中、母子が沙勒国を訪れた時のことである。須利耶蘇摩は、当時西域における大乗の論師として、すでに著名な人物であった。羅什は、仏教求道の思いから、大論師と真剣勝負の討論を重ねた。そしてついに「吾が昔小乗を学べるは、人の金を識らずして鍮石を以て妙と為すが如し」と、大乗経の勝れるを知り、心機一転、蘇摩のもとで懸命に大乗教学を研鑚するにいたるのである。須利耶蘇摩もまた、当時まだ十三歳の少年羅什に対し、全魂こめて「中論」「十二門論」「百論」といった、大乗仏教の真髄を伝えていった。そしてついに法華経の原典を付嘱し「これを漢土に伝えよ」と語ったのである。
 この師との出会い、そして、師の一言が鳩摩羅什の生涯を決定づけた。
25  青年羅什の名声は中国にも及び、天竺、西域、漢土に並ぶものなき大乗論師となり、いよいよ東方の中国へ向かう「時」の到来を待つのみとなった。しかし、彼の前には厳しき逆境の風雨が待っていた。
 羅什の高名を聞いて、何とか自国に迎えたいと願った前秦の王・符堅が将軍呂光を派遣し亀茲国を攻めさせたのである。亀茲の王城は陥落した。だが呂光将軍は仏教に暗く、羅什を年端もいかない凡人としかみなかったようである。羅什を堕落させ、亀茲国の仏教界から引き離そうと、呂光は戒を犯させて酒を飲ませ、妻帯させたりした。
 しかも中国への帰途、不幸にして符堅崩御の報をうけた呂光が河西の涼州地方に独立し、後涼国を建てたために、以後十余年も羅什は、姑臧の地で、雌伏の日々を送らねばならなかった。
 三十代後半から五十代、人生のなかで最も仕事のできる年代に、めざす「長安の都」を目前にして、半ば囚われの身であった羅什の心中はいかばかりであったろうか。
 しかし羅什は、決してくさらなかった。否、逆境の真っただ中にあって、いつか必ず仏教の正統な流れを中国の地に伝えようとの一念に燃え、黙々と、また黙々と、自己の研鑚と精進を貫き通した。
 そして中国の言葉を覚え、流麗な漢詩も創れるまでになっていった。これがどれほど後の翻訳に役立ったか計り知れない。それまで中国に渡った訳経僧のほとんどが高僧で、王侯貴族や知識人社会には迎えられたが、中国民衆のなかに入って一緒に生活した者は稀であったといわれる。そのなかでひとり荒くれ男たちにまじって戦乱のなかを生きぬいた羅什の翻訳であったればこそ、中国の民の心のひだまでしみいっていき、仏教の真髄を伝えることができたともいえよう。
 人生には運命の試練が必ずある。順調のみの人生のなかに真の勝利は生まれないし、成功もない。逆境を、また運命の試練をどう乗り越えて、大成していくかが人生といえる。
26  羅什は、この長くも厳しき時代を乗り越え、長安の都へようやくたどりつく。羅什を迎え入れようとした後秦の王・姚興が後涼軍を打ち破ったからである。姚興の羅什を招致せんとする願いは父・姚萇の遺志でもあり、親子二代にわたる悲願でもあった。弘始三年(四〇一年)の十二月、暮れも押し詰まった冬の日、手厚い出迎えのなか首都・長安に入ったのであった。実に師・須利耶蘇摩から法華経の原典を授けられて以来、約四十年の歳月が流れていた。
 彼は蓄えに蓄えた力を一気に爆発させるかのように、猛然たる勢いで直ちに翻訳作業を開始した。着くやいなや、十二月二十六日から始められた「坐禅三昧経」の翻訳などは早くも翌弘始四年正月に訳出されたという。
 彼は長安に入ってから、入滅まで、八年とも十二年ともいわれる歳月のなかで、実に三百数十巻ともいわれる経典を翻訳した。単純計算しても一カ月に二巻ないし三巻というスピードである。しかもそれは翻訳という言葉からうけるイメージとは違った、八百人から二千人の多くの若き俊英たちを前に、講義をしながら進めていくという生き生きとした仏教研学運動であった。この事実に、私は驚嘆の思いを禁じえない。そして、ライフ・ワークともいえる「法華経」の見事なる漢訳を完成させたのである。
 少年時代に生命に刻んだ師の言葉を、四十余年の歳月をかけて見事に実現させ、誓いを果たしたのであった。時に羅什は五十七歳であったともいわれている。それは、人生の最終章における勝利の大逆転劇と私はみたい。
27  その羅什にも、素晴らしき弟子たちがいた。羅什門下の俊英の活躍は、その後の中国における仏教の興隆に多大な功績を残している。その中のひとり僧肇は、まだ十代のころに(一説に十九歳ともいわれる)、当時まだ後涼国にいて最も苦境にあった羅什を、千里をも遠しとせずにわざわざ隣国から訪ねて、最初の弟子となった。実に羅什と僧肇の師弟の絆は、不遇の時代から始まったのである。
 羅什はすでに姑臧において弟子・僧肇とともに仏典の漢訳の準備を開始したとも考えられる。その時、長安入りを果たすことなく無為の死をも想定せざるをえない状況にあった羅什にとってみれば、遺言のつもりで弟子に話したのであろうか。
 以来、僧肇は、羅什が長安に入り生涯を閉じるまでの約八年間その若き生命をもって、すべて師・羅什三蔵の偉業を助けるために燃焼し尽くした。これこそ弟子の道といってよい。
 彼は労咳(肺病)のため、師・羅什の亡きあと、そのあとを追うように早逝している。三十一歳とも三十七歳(あるいは四十一歳)ともいわれる短い人生ではあったが、僧肇の生涯は、羅什三蔵のためにこそあったといえよう。
 僧肇の著作としては、「註維摩経」「般若無知論」「不真空論」「物不遷論」「涅槃無名論」などがあり、それらは後に「肇論」としてまとめられ、中国の仏教史上に大きい影響を与えた。また「百論序」や「維摩詰経序」など、羅什三蔵が訳出した仏典の序文を書き、羅什とその師・須利耶蘇摩との美しきエピソードも、この孫弟子にあたる僧肇が記録したものである。
 このように仏法は、時代を超え、国境を超え、民族を超えて、この「師弟」という崇高なる絆のなかに、脈々と受け継がれていった。志と使命を同じくする師弟の絆――その峻厳なる実践こそが未聞の大事業を成就せしめた核であったのである。

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