Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第一節 自己をつくり、自己に生きる  

随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

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2  大いなる希望に生きよ――アレクサンドロスの旅立ち
 ギリシャ世界と東方オリエント世界の文化の融合をもたらし、現在にいたるシルクロードの豊饒なる世界を拓いたアレクサンドロス大王。彼は、その青春を賭けたペルシャ遠征に出発するにさいし、一切の財産を臣下のために分け与えたという。
 はるばるペルシャ帝国を討つ長途の旅には、さまざまな軍需品や食糧などを購入しなければならない。そのためには莫大な資金が必要である。にもかかわらず、彼は、いかなる将士でもいだくであろう妻子への気づかいを断って出発できるように、愛蔵する宝物から領有する田畑にいたるまで、一切の王室財産をほとんどすべて分配してしまったのである。
 不審に思った群臣の一人ペルディッカスは尋ねた。
 「王はいったい何を持って出発されるのですか――」
 これに対しアレクサンドロスは、答えた。
 「ただ一つ、“希望”という宝を持てるのみ」
 これを聞いたペルディッカスは、「ならば、われわれもそれを分けていただきましょう」と、自分に割り当てられた財産を辞退し、また臣下の多くもそれにならったと伝えられている。
3  私の恩師である戸田城聖創価学会第二代会長は、「人生には、希望がなくてはならない。いや、あらゆる人が希望のなかに生きているのではなかろうか。もし希望のない人生に生きている人がいるとすれば、それは敗残者である」と、よく私ども青年に言われていた。人は、ともすれば少しの失敗や障害に遭って希望を失い、挫折していく。厳しい現実を前に生きぬく力をなくしたり、他人を恨んだり、悲嘆と愚痴の方向へと後退してしまいがちである。しかし逆境にあっても希望を見失わない人は、必ず活路が開け、深い人生の喜びが心に広がっていく。「希望」ある人生は強い。「希望」なき人生は敗北へと通じていく。「希望」は人生の力であり、心に美しき「夢」を持ち続けられる人は幸福である。「希望」を持ち生きゆくことは、人類のみに与えられた特権といってよい。人間だけが希望という未来への「光」を自ら生み、わが人生を創造することができる。
 人生という遠征に向かうにあたって、最も大切なものは、財産でも地位でもない。わが胸中に炎のごとく燃えたぎる“希望”の一念ではないだろうか。打算なき、大いなる希望に生きる人には、困難を困難とせぬ勇気がわき、パッションが生まれ、現実を見抜く英知が光を放ち始めるからである。時とともに輝きを増す、生涯不滅の希望を持てる人こそ、最高の信念の人であり、また人生の勝利者となるであろう。
4  一流の人物――「詩道一筋」北原白秋
 よく「一流の人物」といい、逆に「二流、三流の人物」ともいう。その違いは、どこにあるのだろうか。
 「待ちぼうけ」や「この道」など、庶民に親しまれた童謡の作詞者としても知られる北原白秋は、五十七歳で没するまで、「詩道一筋」の生涯を送った。詩歌のあらゆる領域で傑作を残し、文学界に限りない新風を送った。その著作は、二百冊にも及んでいる。
 白秋の出身地は、福岡県の柳川である。私も数年前に柳川を訪れたが、その詩情ただよう町並みは今も忘れがたい。その折、詩ごころを誘われ、和歌を詠んだことも懐かしい。
 「言葉の錬金術師」とも呼ばれ、次々と傑作を著し、広く民衆に愛された白秋は、いわゆる「天才」の一人といえるかもしれない。その生涯は、豊かな詩才を自由自在に発揮した悠々たる日々のようにみえる。しかし、現実には、血のにじむ努力の積み重ねであった。
 白秋の「努力」への信念に関して、「詩歌の修業」(『白秋全集』24所収、岩波書店。以下同じ)に次のようなエピソードがある。
 ある時、彼は、若い急進派の歌人から批判を受けた。
 「あなたの歌はやはり型にはまつた三十一文字の歌で、新しい現代の歌といつても、以前の旧派の歌とはただ紙一重の相違ではないか」
 それに対し、白秋は答える。「さうです、ほんの紙一重です。しかしこの紙一重のために、この三十幾年といふ永い年月を私は苦労して来たのだ」
 そして水泳の競技にしても、ほんの一秒の何分の一という違いを競って新記録をつくるために毎日、朝となく夕となく涙ぐましい練習を続けているとし、「詩歌の修業も同じである」と述べている。“紙一重”の前進のためにしのぎを削り、そのために必死の努力を重ねる――いかなる分野であれ、それが現実社会の厳しい姿であろう。
 「修業」について、さらに白秋は「突拍子もない大々飛躍などといふことはめつたにできるものではない。一代の名作、或は傑作を突如として公にし、世を驚かさうとする間は根本から修業の道が謬つてゐる。修業といふものは、石なら石を一つづつ積みあげていくやうなもので、根気よく、こつこつと仕事の力と量とを積みあげていかねばならない。何事も修練と時間の堆積とから光り輝く喜びが来る。どれだけ天賦の才を恵まれてゐても、この平生の努力を怠る向きは、つひには何の業をも大成し得ないであらう」と述べ、「努力なのだ、努力なのだ」と言っている。
5  何事も“なんとか一歩でも二歩でも前に進もう”という、創意と苦闘の積み重ねがあってこそ、勝利の栄冠がある。しょせん、努力と精進なき人は、弱々しき愚痴の人となり、みじめな敗者とならざるをえない。
 「近代彫刻の祖」といわれるロダンは芸術の努力について、こう言っている。
 人は「石に一滴一滴と喰い込む水の遅い静かな力を持たねばなりません」(『ロダンの言葉抄』高村光太郎訳、高田博厚、菊池一雄編、岩波文庫)と。
 一滴また一滴、対象にくいこんでいく努力、これが、あらゆる道において不朽のものを成すための鉄則といえる。一日一日、一刻一刻の確実にして営々たる努力、また努力。その集積の上に樹立された成功でなければ、本物ではない。虚像の栄誉と言わざるをえない。
 私が各界の「第一人者」といわれる人物に会って、常に感心するのは、どの人もみな実に謙虚であるということだ。白秋も「私と歌」(『白秋全集』17所収)において作歌の苦悩を述べ、歌を廃そうかとさえもらしている。しかし「専門歌人たちよりも私の苦しみが数倍なだけ、素人である丈、何時も初心者の心もちでゐられる。これは忝いと思ふし、奮発心が起る」と言い、歌の道を進んでいこうとするのである。自らを「素人」であるとし、「初心者の心もち」を大切にしていた。
 たしかに、現在のレベルに満足し、“これでよし”とする人に、成長はない。常に初心にもどり、“もっと努力しよう”“もっと成長しよう”“もっといい作品を残そう”という奮発心を持てる人が、絶えず向上していけるのであろう。またこの謙虚さこそ、彼の天分を花開かせた肝要の一点であると私はみたい。「苦しみ抜くより上達の道はない」――白秋にはこの明確な哲学があった。また、あくなき向上への「奮発心」があった。ここに彼の非凡なる大成の秘密を垣間見るのである。
6  白秋は三十三歳のころ、「鐘の音を聞きながら」(『白秋全集』16所収)と題して次のように書いている。
 「考へると私も人生の半ばを過ぎました」
 「落ちついた心で、ねんごろに、自分のいのちの落つくところも考へねばなりません」
 いのちの落つくところ――白秋は自己を省みて、何らかの確かなものが欲しかったのであろう。一流の人物は、みな真摯に、より高く正しいものを求めているものだ。
 白秋は続けて言う。
 「私は人間の子です。酒屋の子です。柳河のトンカジョン(=同地の方言で“大きい坊っちゃん”の意。白秋は長男)です」「だから人間の楽しむ丈のことも、苦しむだけの事も、行きつかねばならぬだけのことも為、人間らしく、人間の中に交つて、人間の中に死んでゆきたい」と。どんな有名の人も、権力の人も、みな人間である。特別な人など、いるはずがない。同じ「人間である」という本質を忘れ、階層その他、表面的な違いにとらわれることは、あまりにも愚かである。白秋は「人間である」という原点を見失わなかった。偉ぶらず、「酒屋の子です」と言って淡々としていた。
 世間の宮殿のごとき栄華も、名聞も、永続的なものではない。本当の幸福を考えるならば、むしろ、むなしく、小さな出来事でさえある。大切なのは「胸中の宮殿」を開いていくことである。この一点にのみ、永遠性に通じる人生の要諦がある。そして人間と人間との交わりのなかにこそ、人生の妙味もある。成長もある。いくら立派そうに見せても、独りぼっちでは孤独地獄といえよう。
 さらに白秋は「さうして玉のやうに自分の霊を磨きあげ度いばかりです」と続けている。
 わが生命を玉のごとく磨きに磨いて人生を終わりたい。それよりほかに願いはない。――有名であれ、無名であれ、人間としての本然の欲求がここにある。
 また芸術家にとっても、わが生命の完成という、この一点への歩みがあってこそ、あらゆる修業と精進が、確かな「骨格」を持つ。現代は悪縁の絶えない社会である。清浄な生命も、すぐに曇り、汚れてしまう。ゆえに生命錬磨の不断の作業が必要となる。清浄にして明るい鏡が、あらゆる物の像をはっきりと映し出すように、磨きぬかれた生命は、世の中のあらゆる現象を明瞭に見抜くことができる。そして磨きぬかれた生命には知恵が輝き、その知恵は、人生の勝利を導く光となる。畢竟、一個の人間としてどうわが人生の完成へ真摯に取り組むか、そこに一流の人物と他を分かつ分岐点があるのかもしれない。
7  生への執着――仙薬を求めた始皇帝
 二千数百年前、中国では戦国七雄と呼ばれる諸侯が互いに武を競い、戦いを繰り返していた。そのなかで、西方の雄・秦が最も多く人材を擁し、国力を大きく伸ばしていった。そして、二百年以上にわたる群雄割拠の時代を統一したのが始皇帝である。時に紀元前二二一年のことであった。
 始皇帝は、厳格な合理主義者であり、法治主義をもって全中国を治め、強力な中央集権国家を築いた。史上空前の絶大なる権力が彼の手にあった。彼は百数十万の軍を持ち、自らの墓である驪山陵造営のために数十万の人間を動員した。そしてついには、数千人の美女を集め、天界とも見まがう阿房宮をつくった。さらには、自ら全国を行幸し、秦の数百年にわたる礎を築こうとした。その彼が最後に願い求めたものこそ、自らの「不死」であったという。
 秦の世が確固となるのを見届けるまでは死ねない――。否、いつまでも生き続けたい、と不老不死を願い、神仙術に精通しているといわれる方術の士たちを集めた。始皇帝は彼らを全土に遣わし、莫大な費用をかけて不老不死の薬を探させた。斉の徐福は、東海上に仙人の住む仙山があり、そこにある仙薬を手に入れるためとして、童男・童女数千人と船出した。こうした試みは、いつも不首尾に終わったが、方術の士たちのさほど巧みとも思われない言い逃れにもかかわらず、始皇帝は、さらに繰り返し出費を惜しまなかった。権謀術数うずまく権力闘争を勝ち抜いてきた始皇帝も、死という何人も免れることのできない現実を前に、思わぬ弱点を露呈したともみることができよう。
 「死」を恐れるのは、人間の本能ともいえよう。しかし、始皇帝は、とくに「死」を恐れ、「生」に執着した。それは、せっかく築き上げたものが、自分の「死」によって、すべて崩れ去ってしまうことを恐れたからかもしれない。
 いかに財力を得、名声や地位を得たとしても、それらは自らの生命を永遠に飾るものではない。にもかかわらず、人はそれらに執着する。生死の海を漂うゆえに、おぼれまいと手あたりしだい、何かにすがりつくように――。
 しかし、むしろ財産が多ければ多いほど名声が高ければ高いほど、それらを失うことの恐怖は大きいものだ。いかに権勢を振るった始皇帝といえども「死」を解決することはできなかった。始皇帝は最高の権力を持ち、この世の満足をことごとく得ていった。しかし、その延長としての彼の「死」は、最大の「不満足」であり不幸であったといえるかもしれない。
8  哲学者の三木清は『人生論ノート』(新潮文庫)の中で次のように述べている。
 「執着する何ものもないといった虚無の心では人間はなかなか死ねないのではないか。執着するものがあるから死に切れないということは、執着するものがあるから死ねるということである。深く執着するものがある者は、死後自分の帰ってゆくべきところをもっている。それだから死に対する準備というのは、どこまでも執着するものを作るということである。私に真に愛するものがあるなら、そのことが私の永生を約束する」
 この逆説には、人間の生死というものを鋭く凝視した哲人の発する知恵の光が感じられる。生死を超えて、有限の生を永遠に連続させゆくものを持つかどうか。
 日常を虚心に見れば瞬間瞬間さまざまな欲望や執着に人の心は揺れ動いている。
 仏典には「蚕と蜘蛛」の譬えがある。蚕は自分が口から吐き出した糸によって自らを縛り上げ、最後は繭におおわれて動きがとれなくなるが、蜘蛛は糸を吐いてその上を自在に動き回る。人間のもつ執着や欲望が、ある時は自身を縛る軛となり、ある時は向上や成長へと向かう生のエネルギーともなることを示した譬えである。
 感覚的な楽しみといった身近なものから、自己実現へのあらゆる欲求にいたるまで、人間の行動を駆り立て、突き動かす多層にわたる欲望や執着――むしろそうした執着を、真の生へのエネルギーへと昇華し、深き生へのダイナミズムへと転換することこそ、移ろいゆく人生に確かな充実をもたらす道であることを仏法は示している。
 生命の年輪は、ただ年齢によって刻まれるものではない。そこにどれだけの生の歓喜と躍動深き充実感が刻まれているか。いわゆる欲望や執着に追い回されるようにして生きた人生か、それとも死をも超えて真に執着すべき目的へ向かって完全燃焼した一生であったか。それこそが永遠なる生命の輝きを決定づけるのではないだろうか。
9  原点を持つ――ストウ夫人の若き日の誓い
 大地には地図があり、海には海図がある。タテ・ヨコの座標軸のなかで、自らの位置を知り、誤りなく方向を定めることができる。それでは人生の旅はどうであろうか――。
 ストウ夫人がアメリカの奴隷制度の悲惨さを描いた『アンクル・トムの小屋』を書いたのは四十歳の時であった。しかしその原点は、彼女の二十一歳の時にあったといわれる。
 東部から、南部との境界線にあったシンシナチに引っ越してきたときのことである。そこで奴隷売買の恐るべき実態を見た体験が著作の動機になった。(チャールズ・エドワード・ストウ『ストウ夫人の肖像』鈴木茂々子訳、ヨルダン社)
 「奴隷法は私には信じられないこと、驚くべきこと、悲しむべきことです。もしもこの罪と不幸を海底深く沈ませることが出来るなら、私も喜んで共に沈んでゆきたいと思います」
 この一文にあるごとく、その衝撃は甚大であった。
 だが、その後長い間、彼女には、家事と育児で、ものを書く暇などまったくなかった。しかし赤ん坊と添い寝しているときにも、あの奴隷の母は、かわいい子どもと引き裂かれているにちがいない――そう思うと、いてもたってもいられない。
 「わが国の人達が奴隷に示している残酷と不正を思って、私の心は苦しみで破裂しそうになって」との深き思いから、彼女は四十歳にしてついにペンを執ったのである。そして、奴隷制度に反対するアメリカの世論に火をつけた。作品の反響は大きく、その後のアメリカの社会構造を決定したともいえる南北戦争の原因の一つとなったとさえいわれる。第十六代大統領リンカーンも、ストウ夫人に会って、“あの大きな戦争(南北戦争)のきっかけを作ったのは、このかわいい小柄なご婦人であったのか!”と言ったという話もある。
 たしかにストウ夫人は、社会的には平凡な一主婦という小さな存在であった。しかし、彼女の勇敢な信念のヒューマニズムが、あの壮大なる歴史の転換の原動力となった。一人の人間の真剣なる一念が、時代の底流の「心」をつかむとき、どれほど絶大なる力を発揮するかの一例であろう。
10  人生で遭遇した出来事のある一場面が、あたかも印画紙に焼き付けられた一葉の写真のごとく、鮮やかに胸中に刻印され、時の流れを超えて人生行路を方向づけていくことがある。一つの信念の道を歩む時、通俗的な価値観との対決やさまざまな試練との格闘を通じて、鮮烈な原体験は深められ、自己を深層から突き動かしていく「原点」へと昇華していく。歴史の転換に介在した人間の行動の軌跡には、常に原点となる“信念の核”が光を放っているものだ。世間の評価や名声といった、移ろいゆく価値観に流される人生は、いつか砂をかむような空しい終末へとつながっていく。人生の荒波に揉まれながら、蒼穹にただ一点動かぬ北極星のごとき不動の原点を凝視しつつ、自己の信ずる道を一筋に進む人生には、必ずや真の満足と充実という栄冠が輝くにちがいない。
 平凡な一婦人が、若き日に鋭い感受性でその生命に焼き付け、日常生活の経験を積み重ねるなかで掘り下げ、磨き上げていった原点の確かさ――私はそこに、時代の潮流を変えたストウ夫人の強靭なる行動の源があったと思う。
 であるならば、青春時代に何を生命に刻むか、何を人生の原点にするか――彼女の生き方は、それがいかに大切かを教えているとはいえまいか。
 人生の原点を持った人は強い。何があっても迷わないし、負けない。原点を持たない人は、「人生の十字路」に立つとき弱く、はかないものだ。
 現代は軽薄さに流されがちな時代である。また、だれしも華やかな世界にあこがれる心があるにちがいない。しかし、原点を持たないということは、長い人生の幸福への羅針盤を持っていないようなものである。その原点とは、より深く、意義ある人生を懸命に求める生き方のなかに、見いだされ、心に刻まれていくものであると私は思う。
11  美しく老いる――鶴見祐輔の“人生観”
 「偉大なる人の晩年ぐらゐ美事なものはない。丁度、秋の落日のやうなものである」
 鶴見祐輔氏の言葉である。氏はまた、
 「人間の一生は、その人格が完成されてゆく道程である。人間の一番貴いのは、老年である。何となればその時が、その人の一生の決算期であるからである」
 「われわれの一生は、結局、このやうな貴い老年を作り出すための準備なのである」とも述べている。(『新英雄待望論』太平洋出版社)
 私はよく全国へ出かけるが、秋、満山錦繍の見事な情景に出あったときなど、眼前の美しい紅葉を見ながら、身近な友人と語り合ったものである。人生の老年期もこうでありたい。一生のなかでいちばん荘厳であり尊く美しい姿になって人生を飾りたいものだ、と。私自身、三十代、四十代からこの思いで歩んできた。さらに、鶴見氏は、中年から老年にかけて初めて人間は心の平和を見いだし、泰然として人生と社会に対決できるとし、「人生は六十からだ」とのバーナード・ショオの言葉を紹介している。
 たしかに人は、人生の豊かな年輪を刻むにつれて、人間としての深さ、美しさがにじみでてくる。青年には何となく未熟さからくる“若さ”があるが、年配になると円熟して、我欲も消え、本当にすがすがしく美しい姿だと思わせる人がいる。この意味で「人生は六十からだ」との言葉は、まさに至言であると思う。
 私の好きなゲーテの言葉に「本源の光の色さまざまな反映、それがわれわれの生なのだ」(『ファウスト』手塚富雄訳、講談社)とある。二十代には、二十代の色調がある。四十代、また六十、七十代にも、それぞれその輝き方があろう。しかし、一貫して変わらないものは、自分自身の魂の光源なのである。樹木でいえば、年輪を刻んで変わらぬ“芯”ともいえようか。
 太陽は、まことに地道に毎日、毎日、変わらず運行し、人類に光と熱を送ってくれている。この太陽の運行と同じように、私たちの人生の軌道もまた、来る日も、来る日も、地道であり、平凡の連続のようにみえるかもしれない。しかし、確実に時は移り、年齢は重なっていく。だからこそわが内なる不滅の太陽を、いよいよ燃え続けさせていくことが、「老い」を人生の「円熟」そして「完成」にしていけるかぎとなろう。
 ともあれ、それぞれの立場で、自分らしい「生」の光彩を放ちながら、「これでよかった」と言えるような、悔いのない一生を飾っていきたいものである。
 そして、一日の使命を終えた太陽が、悠然と、また荘厳な姿で地平線に姿を没していくような、見事な人生のドラマの締めくくりでありたいと思う。
12  その道一筋の志――「画狂老人」葛飾北斎
 九十四歳の“晩年”まで、“現役”として活躍し続けた作家の故・里見弴氏と、かつてお会いしたことがある。変転する時代のなかを、一直線に自己を貫いた里見氏と、ゆっくりと人生を語り、風俗を語り、信仰を語ったことが懐かしい。当時、すでに八十歳を過ぎておられたと思うが、なお矍鑠として「もっともっと文を書きたい。山にも登りたい」と言っておられた。その生きいきとした姿に敬服したが、事実、“まごころ哲学”といわれる信念を懸命に貫き、最後まで筆を離さなかった。どこまでも生の躍動を失わぬ見事な生涯であられたと思う。
13  生涯にわたる、その道一筋の志といえば、浮世絵の第一人者である葛飾北斎もそうであった。自ら「画狂老人」と称しているように、北斎の絵画への執念はすさまじかった。貧しいなか、九十歳の天寿を全うするまで、その青年のような情熱が衰えることは、まったくなかった。一説によると、彼の作とされる絵の数は、三万五千点にも上るといわれている。
 プラトンがペンを握りながら死んだ、という逸話は有名であるが、北斎もまた、いまわの際まで絵筆を手にし続けた、といっても過言ではない。その北斎が、有名な絵本「富嶽百景」に、次のような意味のことを記している。
 すなわち――自分は六歳から物の形を写すのが大好きで、五十歳ぐらいから、世間に評判になるものを数多く残してきたが、七十歳までの作品には、とるに足るものはない。七十三歳にして、やや鳥や獣、虫、魚などの姿かたち、草木の育ち方をどうとらえるかの勘どころがわかってきた。そういうわけだから、八十歳になれば、ひとかどの線にまで進むであろうし、九十歳になれば、その道の奥義を極め、百歳では、人間離れした神技の域に達するであろう。さらに百十歳ほどになれば、どこからみても、そのものをそっくり、あたかも生きているかのような、写生をものにすることができるであろう、と。
 七十四歳の時の言葉といわれるが、“人生五十年”といわれた時代、そしてすでに並ぶ者なき大家といわれながら、自己の画風完成を百十歳余りとして、なお一層の精進を披瀝しているのである。この北斎の言葉に感動したフランスの大彫刻家ロダンは、「優れた頭脳になると生存の最終端に至るまで自分を育て自分を豊かにしてゆき得るものだ」(『ロダンの言葉抄』高村光太郎訳、高田博厚、菊池一雄、岩波文庫)との賛嘆を寄せている。
 芸術に限らず、およそあらゆる分野における修業というものには、「これまで」という終点はないといえるだろう。むしろ努力を重ねるほど、完成という終極への道程は遠く険しく思われてくるのが、創造という営みの厳しさであり宿命であるとはいえまいか。修業の成就をめざす、峨々たる精進の高峰を登らんとする道にあっては、「これでよいだろう」と心許した刹那、たちまち完成の頂は、後退と安逸の雲間に隠れてしまう。
 北斎は死を前にして「あと五年の寿命を与えられれば」との無念の思いを吐露したという。創造に生きる人は、どこまでも、現状の自身を“未完成”として、余念なく一筋に修行の齣を前に進める。後世の人はその執念にも似た精進の軌跡を“完成”と呼ぶのかもしれない。人の一生が、他の人の模倣を許さぬ一つの作品であるとすれば、限られた時間のなかで、いかなる価値を創造し、人格の完成をめざして努力を重ねたかが、その作品の完成度を決定する基準であろう。
 狭き自己の世界に安住し「われ偉し」と錯覚する人は、人間としての魅力がなくなり、どこまでいっても、真実の幸福という満足の到達点を得ることはできまい。
 人生は、最後の一瞬まで、建設の連続でありたい。この心構えを生涯持ち続けたかどうかが、その人の人生の価値を決定する、とさえ私は思う。この道一筋と自らが決めたわが人生をどこまでもひたすらに生きぬいていく。常に人生の前進、人生の成長を続けていく。そこにのみ、人間としての証があり、尊さがあるといえよう。
14  高邁な心と高慢な心――デカルト『情念論』
 「高邁な心」と「高慢な心」――日本語にするとたった一字の違いだが、その実質となると正反対である。その対比は、フランスの生んだ著名な哲学者であり科学者であったデカルトの『情念論』(花田圭介訳、『デカルト著作集』3所収、白水社)に詳しい。この『情念論』は死の直前に出版されたデカルト最後の著作であり、その題名のとおり、人間の感情、すなわち「心」それ自体をテーマとしたものであった。
 彼によれば「高邁な心」とは、われわれ自身の内なる価値、すなわち強く気高き精神によって立つことである。「高邁な心」の人は、自身が最善とするすべてを実現せんとの確固不変の決意に立っており、その意志をどのような場合にも決して捨てない。そして、その特性として「欲望」や「執着」また「羨み」「憎み」「恐れ」「怒り」といった感情に決して動かされない。
 一方、「高慢な心」とは、自分の内面の価値以外の、「才能」とか「美」とか「富」とか「名誉」といったものによって、自らを高しとする卑しい感情である。「高慢な心」に陥ってしまった者は、他の人々を卑しめることに躍起になる。また自分の「欲望」の奴隷となって絶えず「憎み」「羨み」「執着」「怒り」によってかきたてられている、とデカルトは言う。
 さすがに鋭い人間洞察の言である。彼はヘーゲルが「思想の英雄」と呼んだごとく、十七世紀前半の西洋世界にあって、それまでの哲学の在り方を根底から問い直し、近代の「知」の地平を開いた。見逃してならない点は、彼が「知」の主体である人間それ自身への探究に生涯取り組み続けたことである。その追究は、自身の人間完成への挑戦とも一体であったことは想像に難くない。
15  さてデカルトが、高慢な心の人の特性として指摘している点は、人間だれしもが、ともすれば陥りやすい人生の道でもある。自己の信念の道を退き、転向した者の多くの姿も、この傾向性によっているようである。臆病になったり、出世や名誉、世間体によって自分の信念をゆるがせにする弱い生き方には、人間としての真実の満足という勝利の栄冠が輝くことはないであろう。
 こうした意味から、この「高邁な心」とは、信念に生きゆく心ともいえよう。高き理想のもと、信念に生きゆく人は、欲望とか、執着、憎しみといった低次元の感情に支配されるものではない。また、信念の人は、心なき非難や陥れの言動に見舞われることがあるかもしれない。しかし決してそれらに紛動されることなく、むしろ、そうした苦難、逆境を自らを深めゆくばねともしていくことこそ人間としての「王道」であることを知っている。
 信念に生きゆく人生――それは現代ではあまりにも困難になってしまったのかもしれない。しかし、周囲や世間の評価にのみ神経をとがらせ、社会の表面的な価値観に左右されて生きる生き方はあまりにも寂しい姿ではないだろうか。自分で自分の人生を、いかに評価し、誇りとしうるか。いかに孤高を強いられる状況におかれても、一人の赤裸々な人間としてどれだけ強く生きぬくことができるか。“一人立てる時強き者は真正の勇者なり”とはシラーの言葉だが、自分の信念に忠実な、誠実の人生こそ幸福であり、ここに価値ある人生の究極の尺度があると私は信じている。さらにデカルトは情念論の結論として“人生の善悪のすべては、ただ情念のみに依る”と述べている。そして彼は、知恵の持つ力を強調する。すなわち、知恵の力によって、自ら情念をコントロールしていくことができる。それのみならず、さらには、情念がもたらすさまざまな害悪から、逆に「喜び」を引きだすことさえできる力が「知恵」にある、というのである。ここに“哲学とは知恵を研究すること”と主張してきたデカルトが、生涯を賭けて到達した一つの結論があるともいえよう。
 自身に内在する「価値」を開発し、豊かな「知恵」の力の発現を求めるデカルトの眼は、心の世界を凝視してやまない。その志向する知恵の力こそ現代社会の急所といえると思う。
16  「不惑」を生きぬく力――シュバイツァーの原動力
 石川達三の小説に『四十八歳の抵抗』という作品があるが、これは、ある面からいえば、四十代の危うい一面を示したものともいえる。「四十にして惑わず」とはいうものの、四十代になると、まず肉体的に衰えが見えはじめ、生命力も落ちてくる。また、子どもも大きくなり進学等の問題も出てくる。経済的にも大変な年代となる。また、職場などでも、何となく先が見えてくるといった状態になる。家庭にあっても、妻も強くなってくる。子どもの自己主張も強くなり、そうそう父親の言うことをきかなくなる。
 つまり、すべての面で、しだいに行き詰まりが生じ、未来への希望が失われるようにみえる年代が四十代といえよう。それにつれて、理想、信念に向かっていちずに突き進もうとしていた青年時代とは異なり、現実をうまく泳いでいこうとする狡さに傾斜していきがちである。こうした一番危ない年代が四十代であるといっても過言ではない。
 概して、二十代というのは清らかである。三十代になっても、まだ純粋さがある場合が少なくない。四十代になると、人生の一つの岐路にさしかかり、濁りを生じてくることが多いようだ。そして自分で自分をどうしようもできなくなることがあまりに多い。
 アルバート・シュバイツァーは幼少のころから環境に恵まれ、哲学や神学、そしてパイプオルガンの演奏という分野で、優れた才能を発揮していた。しかし、彼は二十代当初から自分の人生に明確なビジョンを持っていた。それは、二十代のうちは学問と芸術に打ち込み、三十歳になったら、人類に奉仕する仕事に取り組むというものであった。
 三十歳を迎えるころ、すでに彼はシュトラースブルク大学神学科講師という地位にあり、音楽家としても高い評価と名声を得ていたが、ためらうことなく自己のビジョンの具体化への道を進んだ。それは、医学を修め、アフリカに住む黒人の医療と布教に当たることであった。三十六歳で医師の資格をとったシュバイツァーは、一九一三年、周囲の反対を押しきり、アフリカの未開地に渡る。時に三十八歳――不惑の四十代を目前にしてのことであった。その後の業績は、あまりにも有名だが、オルガンの演奏、バッハ、ゲーテの研究でも知られ、ノーベル平和賞も受賞している。
 彼の足跡についての評価は現在、さまざまに分かれているが、アフリカの地に彼を訪ねたノーマン・カズンズは、著書『500分の1の奇蹟』(松田銑訳、講談社文庫)の中で、「アルバート・シュヴァイツァーはいつも、自分がどんな病気にかかろうと、一番いい薬は、すべき仕事があるという自覚にユーモアの感覚を調合したものであると信じていた」と述べ、シュバイツァーが身近な職員に語った次のような言葉を紹介している。
 「わたしは死ぬつもりはないんだ。仕事ができるうちはね。そして仕事をしていれば、何も死ぬ必要はない。だからわたしはうんと長生きするよ」
 この言葉の通り、彼は五十年以上、黒人の治療を続け、九十歳の長寿を全うした。仕事をしよう、自分の可能性を価値創造に向かって生かしきっていこう――シュバイツァーにかぎらず、こうした気構えの人々は、それなりの信念を持ちながら、それなりの仕事をなしとげている。私たちも常に青年のごとく、みずみずしい、はつらつとした生命の息吹をたたえていける人生でありたいものだ。人間とは本来、高い自己完成、人間革命をめざして永遠に努力していくべき存在である。自分自身が向上心を失ったところに、惰性や老化が始まる。また文句や愚痴を言っている人には感激がない。自らの生命をしだいに暗くし閉ざしてしまう。そして心はすっきりせず、自分も複雑にし人々をも複雑にしていくだけである。
 自分を限りなく、どう成長させていくかという課題を持つこと。そして、それを生みだす原動力としての生きがいを持つこと。そこに年齢の進行とともに生まれる停滞を打破して、真に人生を“生きぬく力”があるといえる。生命内奥の息吹をわき立たせてくれる充実した目標と目的観、そして、豊かな生命力と創造力に恵まれた世界を持てる人こそ、幸福者といえるのではないだろうか。
17  心の容器――エレノア・ルーズベルトの輝き
 「偉大で崇高なものを判断するには、それと同じ心が要る。そうでないとわれわれ自身の中にある欠陥をそれに付与してしまう。まっすぐな櫂も水の中では曲がって見える」
 私の若き日の座右の書であったモンテーニュの『エセー』(随想録)(『世界古典文学全集』37〈原二郎訳〉所収、筑摩書房)の言葉である。彼は言う。
 「心の容器こそが、すべての悪の原因であり、容器に欠陥があるために、外から入って来るものが、すべてその中で腐るのだ」
 仏典にも「我等が心は器の如し」(御書一〇七一㌻)とある。そして器の欠陥として「覆(くつがえる、おおう)」「漏(もれる)」「汙(けがれる、よごれる)」「雑(よけいなものがまじる)」を挙げ、どんな優れた真理も、聞く人の心が汚れていたり、水が漏れるような容器であっては、価値を生まないとしている。
 思えば、「人間の心」ほど不可思議なものはない。「心如工画師(心はたくみなる画師のごとし)」とも仏典にある。優れた画家があらゆる生き物を真に迫って描くように、心が善悪、美醜等、一切の法を造り出すのである。
 しかもそれは、刻々に積み重ねられて、その独自の人格を築きあげていく。その作用の妙は、とうてい、現代の科学で究明しうるところではないし、言語でも表現しつくせない。
 アメリカ合衆国第三十二代大統領F・ルーズベルト夫人のエレノア・ルーズベルトは、決して器量に恵まれた人ではなかったようだ。大統領夫人となってからも、華やかな社交の場で、彼女の容貌を見て、心ない人は、からかい、また彼女の顔かたちを評して冗談の種とした。
 しかし、私も対談したことのあるアメリカの高名なジャーナリスト、ノーマン・カズンズは、彼女の印象を次のように記している。
 「彼女を知っている人――そして彼女を見た人――は誰しも、こんなに美しい人を見たことがないと感じた。エレノア・ルーズベルトから、わたしは人間の慈悲と憐憫の力について、実に多くのことを学んだ」(『人間の選択』松田銑訳、角川書店)
 私も、これまで内外のたくさんの人々とお会いした。そのなかにあって、人格と教養の美しさがにじみでる人がある。逆に、表面的な美しさのみで、内面の輝きがなく、深さも品格も感じられない人もいる。
 鍛えぬかれた内面の美しさは、何ものも崩すことはできない。そして年輪を重ねていくにしたがって輝きを増していく。美しき心には美しき人生、強き心には強き人生。所詮、それぞれの「心の容器」にふさわしい人生しか、人は生きることはできない。
 人生にあって、自らの素晴らしき「心の容器」を、無限に磨き、つくり上げていく方法を持つことこそ、肝要といえるのではないだろうか。
18  嫉妬について――三木清『人生論ノート』
 若き日に読んだ三木清の『人生論ノート』(新潮文庫)に、“嫉妬”についての卓抜なエッセーがあった。その一部をノートに書きとめたことを今でも鮮明に覚えている。
 「もし私に人間の性の善であることを疑わせるものがあるとしたら、それは人間の心における嫉妬の存在である。嫉妬こそベーコンがいったように悪魔に最もふさわしい属性である。なぜなら嫉妬は狡猾に、闇の中で、善いものを害することに向って働くのが一般であるから」
 私の恩師戸田城聖先生は、釈尊に敵対した提婆達多の本心は「男の嫉妬心」であると言っておられた。仏典に“悪逆”と称される提婆達多は斛飯王の子で、釈尊の従兄弟であった。釈尊が教団の中心的存在として皆から尊敬を集めているのがはなはだ面白くない。
 元来、野心家の彼は、傲りと妬みから自ら教団の中心者になろうと画策し、釈尊を陥れようとした。しかし釈尊にはかなわない。嫉妬の心は炎のごとくなり、大国マカダの太子・阿闍世に取り入った。そのような彼の陰険な心を見抜いていた釈尊は、ある日、厳しく叱責した。それを根に持った彼は、ことごとく釈尊に敵対し、釈尊に大石を投げるなどの迫害を行った。そこには、慢が高じて妬みとなり、野心の虜となって破滅していく男の業ともいえるものがある。
 三木清は前記の書物で、「どのような情念でも、天真爛漫に現われる場合、つねに或る美しさをもっている。しかるに嫉妬には天真爛漫ということがない。愛と嫉妬とは、種々の点で似たところがあるが、先ずこの一点で全く違っている。即ち愛は純粋であり得るに反して、嫉妬はつねに陰険である。それは子供の嫉妬においてすらそうである」と述べている。さらに、「嫉妬は自分よりも高い地位にある者、自分よりも幸福な状態にある者に対して起る。(中略)しかも嫉妬は、嫉妬される者の位置に自分を高めようとすることなく、むしろ彼を自分の位置に低めようとするのが普通である」と。
 三木清のこうした指摘は、「嫉妬」という情念の本質を、見事に喝破したエピグラム(警句)であるといえよう。
 人間の感情はさまざまに表れる。そして、たしかに「天真爛漫に現われる場合、つねに或る美しさをもっている」ものだ。しかし嫉妬は違う。それは「自分を高めようとする」方向に働くのではなく、他を貶めよう、「自分の位置まで低めよう」とする方向に向かって働くのである。そこに、「嫉妬」という感情の始末の悪さがある。例えば、現在の自分の立場に固執するあまり、後輩の成長をうらやみ、その活躍を妨げるようなことをする人がいるとする。それは、もはや嫉妬に支配された卑しい感情であると言わざるをえない。
 こうした“うらみ”また“ねたみ”という人間の「嫉妬」の心は、仏法で生命を十の範疇に分けた十界論でいえば、心が曲がった「修羅界」の範疇といえよう。
 天台大師の『摩訶止観』によれば、その「修羅の心」とは、一瞬一瞬に常に人に勝ることを欲し、それが不可能ならば、人を下し他を軽んじ自身を尊ぼうとする心である。それはあたかも、トビが高く飛んで見下ろすようなものとある。しかも、外面的には「仁」「義」「礼」「智」「信」といった道徳的な姿を装い、その実、内面では阿修羅の炎を燃やすのである。日蓮大聖人の御書には「人のよに・すぐれんとするをば賢人・聖人と・をぼしき人人も皆そねみ・ねたむ事に候、いわうや常の人をや」(御書一一八〇㌻)と述べられている。末世において、「怨嫉」とか「嫉妬」がどれほど盛んになり、人の心を傷つけ、破壊しようとするかを喝破されたものといえよう。卑しく、濁った心は、他人の正しさ、素晴らしさを認めたくはない、常に自分が正しく、自分が優れていることを吹聴したいという心である。また人の幸福を喜ばない、反対に人の不幸を喜ぶ心である。
 社会には欲心と保身に終始し、善を憎み自分の身を汚したうえに、周囲の他人をも同じ低き次元に引き込むことだけを生きがいにしているような人物もいるものだ。
 濁世に生きる以上、だれしもそうした人々と無縁でいるわけにはいかない場合がある。だが、その品性を欠いた低劣な生命の本質だけは鋭く見抜いていく眼を養っていきたい。
19  人との絆――魯迅とその友人
 「個」として有限の時空を生きることを宿命づけられた人間――。その人間同士が、互いに出会い、そこに深き交流が生まれる。偉大なる魂と魂は、ときにその深みにおいて通いあい結びあい、生死すら超えゆく人と人との絆が生まれる。
 それは、青春を彩る、清らかな生命の調べである。類なく美しき人生の賛歌である。
 人との絆を失った人生は、まさに暗黒にちがいない。その果てしなく広がる暗闇に、一人たたずむ孤独の人の生命は、死せる魂ともいうべき寂しさのなかにあるといえまいか。
20  人間同士の絆というものは、家族間のつながりや同じ地域に住む者同士といった血縁や地縁のような、いわば与えられた関係もあれば、自ら求め、すすんでつくりあげるものもある。多くの場合、互いに努めて磨き続けなければ先細りになり、やがては消えてしまうものである。しかし、だからこそ、そうしてつくられた、強く美しい絆は、ときに人種や国境を超えた広がりさえ持つ。その意味からも、交友関係とは人間の生き方の深浅、主体性、創造性を赤裸々に映し出す鏡であるとすらいえよう。
 魯迅は友について「人生 一知己を得れば足れり、斯の世 当に懐を同じうして之れを視るべし」(伊藤正文訳、『魯迅全集』9所収、学習研究社)と述べている。これは同志瞿秋白に贈った言葉である。人生には、自分のことをよく知ってくれる一人の真の友人がいればよいというのである。苦難のなか、心の奥底の絆も固く、助け合った同志に対する魯迅の心情は胸に迫るものがある。
 “懐を同じうして之れを視る”間柄とは、まさに同志であり、最高の友人ということである。多くの友人がいても、根底に互いの利害がまじる関係は、いざというときに儚く、また醜い命すら現れる場合も少なくない。逆に、偉大なる理想に向かって「志」を同じくして進む同志ほど尊い存在はない。この深い友情と友愛に結ばれた絆は、ときに兄弟以上の強さをもっている。その、かけがえのない絆こそが、青春と人生を彩る最高の“宝”であると思う。友情を支えるものは、尊敬と信頼の念であり、どこまでも友を裏切らぬ「誠実」さである。
 瞿秋白と魯迅はともに新しき時代の扉を開くために、権力の迫害のなかを生きぬいた。だれよりも深く相手の“魂の核”を知り、許しあった同志瞿秋白は、自己の信念に生き、刑場の露になるという非業の死をとげた。しかし、その強靭なる志の強さと魯迅との絆の美しさは、歴史を超えて不滅の光芒を放っている。友情の絆は、ひとつの崇高な理想をめざし、ともに苦難を切り拓いていく勇気と結び付くとき、金剛のごとき強固さを持つことができるのである。
 また苦境に陥ったときにこそ、本当の友人がわかるものである。順調なときはよい。友の苦しみのときにこそ、最大の真心を差しのべる人こそ、まことの友人であるといわねばならない。
 とかく人は悪い状況のときには逃げ、良いときにはすり寄ってくるものだ。しかし、利害を超え、困難な状況であればあるほど、その人を守りぬいていく――これこそ真の絆の姿であり、そういう人間としての生き方を貫く人生でありたい。
21  信念に生きゆく行動の軌跡を人生模様の縦糸とするなら、魂のふれあいを持った人との絆は、さまざまに綾なす横糸ともいえよう。その人が人生をどれほど豊かに生きたか、そしてどれほど鮮やかに彩りある人生を生きたかは、両者の糸の織りなす結果である。その意味でも「美しき心の絆」をつくりゆける自身でありたいものである。
22  勇気の人――ウィリアム・テルの壮絶な死
 極限状況に陥ったとき、人はどう行動するか。勇気の人、臆病の人、卑怯の人、慈愛の人――それこそ千差万別の人間模様があり、それぞれがつづる喜怒哀楽の人生ドラマがある。
 近年美しい勇者の行動として、思い起こすことがある。
 一九八二年(昭和五十七年)の一月に起きた米国ワシントンでの航空機事故のこと。離陸したばかりの旅客機が橋に衝突し、氷結したポトマック川に墜落した。川に投げ出された乗客を救出するため、ヘリコプターが救命ロープを川に下ろした。
 乗客である一人の中年の紳士が、救命ロープを一度はつかみながらも、それを女性乗客に譲った。二度目もさらにスチュワーデスに譲った。そのあと彼はついに力尽きて水中に没してしまうという胸打つドラマが、酷寒の川で展開されたのである。
 この話は勇者の行動として、アメリカのみならず全世界に感動の波紋を広げた。この紳士のように、どんな状況にあっても男性は“ナイトの精神”を決して忘れてはならないと思う。
 文豪ゲーテは、ワイマール時代の詩の中で、次のようにうたっている。
  一箇の人間があらゆる人生試煉のうちの
  最も苦しいものを凌いで、自己を克服するときには
  われわれは喜んでその人間を他の人々に示し
  そして斯う言うことができるのです。
  ――「これこそ此の人の真骨頂だ!」と
 (片山敏彦訳、『ゲーテ全集』1所収、人文書院)
23  人間が、自らの試練に正面から取り組み、苦境を乗り越えていく姿ほど、尊く、美しいものはない。こうした人を目の当たりにしたならば、声を大にして“これこそ人間としての真髄を生きる姿である。最も偉大な人である”と叫びたい、との心情なのである。
 困難に凛々しく立ち向かい、敢然と乗り越えていく人間性の輝きと真髄――スイスの英雄ウィリアム・テルについても、私は感動を禁じえない。テルについては、ドイツの劇作家、詩人であるシラーの有名な戯曲で知られている十四世紀初めごろのスイスの農夫で、弓の名人であったとされる伝説上の人物である。
 彼は当時、スイスを支配していたオーストリアのハプスブルク家の横暴な代官に抵抗して捕えられた。しかし脱走し、その代官を弓で倒し、スイスを解放して独立に導いたと伝えられる。なかでも愛児の頭上にリンゴをのせて、これを射落とせと命じた横暴な代官の難題をテルが見事に果たしたエピソードは、シラーの戯曲などによって大変有名である。このシーンほどは知られていないが、テルの死の場面はさらに心を打つ。
 十九世紀、スイス人であるアドリアン・フォン・アルクスは「テルの死」と題して次のように歌っている。
  多くの者が川べりに膝まずき天に向かって
  心と手を差しのばし、ふるえ声で叫んだ。
  「だれもこの怒り狂う水から男の子を
  救う勇気のある人はいないのか?」
  だが、だれもがふるえ、ひるむばかりで、
  母親は絶望して目を天に向ける。
  川からは男の子の弱々しい声が聞こえ、
  その声は次第に弱まって、ついに消える!
  
  八十歳の英雄テルは立ちあがった。
  危急の叫びを聞いて、座視できようか?
  若々しい勇気とともに彼は急流に身を投げ、
  大胆に腕をふるって荒れる水をかき分ける。
   (中略)
  彼はしっかと男の子をつかむ、やったぞ、
  だが腕の最後の力が尽きた、と感じる。
  微笑にみちた一瞥を故郷の土地に投げ――
  水は静かにテルの死体をはこび去る。
  
  こうしてテルは死んだ! 同盟者が死んだ!
  彼の胸中で心臓が無限に大きく鼓動した!
  虚偽のない美しいものすべてのために、
  すべての偉大なもののために、鼓動した!(宮下啓三『ウィリアム・テル伝説』日本放送出版協会)
24  格調高い詩のリズムとともに、私には深く胸に残った場面でもある。
 人間の心はこわいものだ。生死の際に直面したとき、富や名声は、いかなる力も発揮しない。そして人間は、その時、限りなく勇敢にもなれば、醜悪にも、卑しくもなるものだ。真実の紳士、真実の男性とは、地位や格好ではない。いざというときに卑怯にして未練な振る舞いをすることなく、潔く身を処していけるかどうかにある。卑怯な人間は、たとえ生があろうとも“生きながらの死”の惨めさに直面するものである。極限状況はまさに、すべてを取り去って残るその人自身の“我”の真実を表出する。
 身を挺して男の子を救うテルの行為は、仏法で説く「菩薩」の生き方に通ずるともいえよう。八十歳にしてなお、勇気を奮い起こし、子どもを救おうとしたテルの気概。それは、私どもの生き方に、若々しい輝きをもたらしてくれる。
 とくに現在は、ますます高齢化の時代である。年配の方々も、弱々しい、あきらめの人生となってはならないと思う。また、テルのごとく、さらに、大きな仕事をなしとげようというくらいの若々しい気概で、所願満足の人生を生きていきたいものである。ひとたび決めた信念と信義の道、人間としての王道を生涯、凛々しく進み全うする人生は限りなく美しい。
25  自己に生きる――小林秀雄の“強い精神”
 世は「飽食時代」「余暇時代」であり、「シラケの時代」「いじめの時代」でもあり、また「エゴと無責任の時代」である等といわれている。すべてにわたり、放縦の風潮が横溢しているのが現状といえる。
 人間の生き方は人それぞれであり、それはそれでよいと私は思う。ただ、長い人生を生きていくことを考えれば、無為の生涯ほどむなしいものはない。
 涅槃経には「人命の停らざることは山水にも過ぎたり今日在すと雖も明日保ち難し」とある。すなわち人間の命というものは、山の水がサーッと勢いよく流れ落ちていくにもまして、またたく間に過ぎていくものである。きょうは無事であっても、あすの安穏はだれも保証してはくれない。また摩耶経の一節には、人生の歩みを「歩歩死地に近く」と説いてある。一日一日、一歩一歩、死に近づいていくのが人生の実相であるというのである。
 さらに法華経にも、「三界は安きこと無し猶火宅の如し衆苦充満して甚だ怖畏すべし」との有名な経文がある。三界とは、簡単にいえば、凡夫の住むこの現実の世界である。そこは火災で燃える家のように、煩悩が盛んに燃え、もろもろの苦しみでいっぱいであるという。この一節のように、まことに人生には悩みが尽きないものだ。子どものこと、家庭のこと、職場のこと、考えれば一切が悩みで充満しているといってよい。
 それでは、こうした無常にして苦しき煩悩に汚れ、束縛された人生を、どのように崩れざる「常楽我浄」という幸福の方向に転換していけるか。すなわち、いかにして人生、生命への悲観主義を超克し、正しき法則と人生観にのっとった、力強き楽観主義で生きぬいていけるのか。
 その“暗”から“明”への転換こそ人生の最大事なのであり、私が、永遠の生命観に立脚した仏法を信じ実践するゆえんもそこにある。無常から常住の世界への転換――それこそ有史以来、人類が追求した最大の課題といってよい。
26  私はかつて、文芸評論家の小林秀雄氏とお会いしたことがある。小林氏は天台の仏法に深い興味を持ち、『摩訶止観』も読んでおられたようだ。
 氏の評論「モオツァルト」(『小林秀雄全集』6所収、新潮社)の中に、次のような一節がある。
 「強い精神にとつては、悪い環境も、やはり在るが侭の環境であつて、そこに何一つ缼(か)けてゐる処も、不足してゐるものもありはしない」「命の力には、外的偶然をやがて内的必然と観ずる能力が備はつてゐるものだ。この思想は宗教的である。だが、空想的ではない」
 環境と戦い、打ち勝っていく人間の能力。外的偶然を内的必然と観ずる精神の力――。
 そうした自己の生命に内在する無限の力を実感し発揮しゆくところに、真実の人間の道がある。それを可能にするのは、所詮は自己自身に生きる一念である。
 『罪と罰』で有名なドストエフスキーも、己自身に生きぬいた一人である。当時、ロシアには、フランスの二月革命、ドイツの三月革命の波が押し寄せていた。それに対してニコライ一世は、国内における大弾圧を強行した。革命的な思想に共感していたドストエフスキーも、官憲に捕えられてしまう。そして八カ月に及ぶ牢獄生活の後、銃殺刑の宣告を受けるが、刑を執行される寸前、減刑され、シベリアに四年間、兵役に五年間と、十年近く自由を奪われ、苛酷な運命にさらされる。それでも彼は負けない。それどころか、最大限に生きぬき、その時の経験というものを自らの全作品に鋭く深く生かしきっていったのである。そして“私は全生涯を通じて、いたるところで、なにごとにおいても、限界を乗り越えた”と勝利の宣言をしている。
 このように、いかなる環境もものともせず、常に自己に生き、自己を拡大し、人生の勝利を勝ち取っている。そこに私は、人間の偉大な歩みを感じてならない。もしこうした古今東西の偉人と呼ばれる人々が真実の仏法を知ったならば、彼らは何と言うであろうかと、私はいつも思う。
27  仏法には「桜梅桃李」の原理といわれるものがある。
 例えば梅の花がある。そこまでやってきた春に先駆けて、凛とした気品高き花を咲かせきっている。やがて桜開く季節となる。この桜も己自身を見事に咲かせきっていく。桃も李も同じである。それと同じく人間も、自己の生命を満開に咲かせきっていかねばならない。いや、咲かせうるだけの力が生命に内在しているのだ。
 それをもたらす力は何か。それは自己自身の“使命”と“責任”への深き自覚なのである。本源的な「法則」にのっとりながら、自分でなくてはならない使命と責任に生ききっていく人は、梅や桜が常に懸命に咲き香っていくのと同じく、自身の生命を常に拡大していく。そして人生を最大限に生ききったという誇りと満足と充実をかちえていくことができる。
 いかなる人であれ、この世に何らかの使命をもって生まれ出た尊極の人である。そしてその使命は、他との相対的世界に生きるのではなく、己と戦い、己に打ち勝ち、己自身に生きぬくなかに実現されるものである。人生の一切は自己の生命現象の発露であり、自己の生命の反映である。他に生きるのではない。「自らの命に生きよ」と私の恩師戸田先生はよく言われたが、その一言は人生の究極を示す深さと重みを持っている。
28  生命力と幸福――アリストテレスの幸福観
 「人生の目的は何か」――この命題ほど、解答が人によりさまざまなものもないかもしれない。また明快にして根本的な解答が、これほどむずかしい問いもないといえまいか。しかし、結論的にいうならば、その目的は幸福にあるといってよいだろう。
 仏法において信仰の目的は「一生成仏」であるが、これは永遠に崩れざる「幸福」という意味に通ずる。この点について恩師戸田先生は、幸福にも「相対的幸福」と「絶対的幸福」があるとし、「人生の目的は絶対的幸福の確立である」と言っておられた。状況や環境に左右されない不動かつ豊かな境涯の確立である。私は先ごろ、次代を担う高校生を対象として、小説『アレクサンドロスの決断』を書きおくり、その中でアレキサンダー大王の師となったアリストテレスについてふれた。その幸福論は大変に興味深く、戸田先生の指導にも相通ずるところがあるように思う。
29  アリストテレスは、いうまでもなくプラトン門下の最優秀の弟子であり、論理学、政治学、詩学等あらゆる学問に通じた偉大な哲学者である。そのアリストテレスの講義を息子のニコマコスが編集した『ニコマコス倫理学』は、倫理学では世界初の体系的著作とされている。その中に、「幸福の実像」について、きわめて示唆に富んだ内容が多く盛られている。
 アリストテレスは、この書の中で、学問や行為の目的が、最高善、すなわち「人間的な善」(他の諸目的を包括する究極的な善)にあり、それは幸福の実現にほかならない、と指摘するとともに、人間の「アレテー(卓越性、徳)」「正義」などについて詳細に論じている。
 『ニコマコス倫理学』(高田三郎訳、岩波文庫)をもとに、私なりにかみくだいて表現してみると、アリストテレスはこの書の中でこう述べる。
 ――幸福とは持続的なものであり、いかなることがあっても、容易に転変しないものと考えられる。しかし、同一の人間にも、幸運のときと、不運のときがあり、それを世間では、あるときは幸福であり、あるときは不幸であると見る。これは、まことに奇妙なことではなかろうか。もしわれわれが、運・不運によって、同じ人を、幸福であるとか、不幸であるとか決めつけるならば、幸福な人を「一種のカメレオン、坐りの悪いもの」としてしまうことは明らかである――と。
 たしかに運・不運は相対的なものであり、本当の幸福は絶対的なものでなくてはならないはずである。仏法で教える真の「幸福」も、運・不運で転変するような次元のものではない。いかなる苦難があっても、悠然と乗り越えていける不動の境涯を、自己自身の内に築くところに真の幸福はある。つまり“丈夫の境涯”ともいうべき強靭な「我」を、それぞれの生命のなかに築きゆくことが、根本的幸福の追求となり、確立となるのである。ゆえに、表面的な幸・不幸に惑わされ、絶対的な幸福の実像を決して見失ってはならないと私は思っている。
30  アリストテレスは、続いて、こう述べる。
 ――むしろ、運・不運のいかんに追随すること自体が、そもそも誤りではあるまいか。
 運・不運によって、われわれの幸・不幸が決定されるのではない。人間生活において、運を必要とするのは、付加的なものなのである。それに対し、幸福のために決定的な力をもつのは「アレテー(卓越性、徳)」に即した活動にほかならない。その反対も、またこれに準ずるものである――。
 アリストテレスは、運・不運、また表面的な幸・不幸といった“付加的”な現象の奥底に「アレテー」という根本的な機軸を提示している。
 そして、「幸福とは究極的な卓越性に即しての魂の或る活動」であるとして、「われわれが人間の卓越性として解するものは、しかるに、身体の卓越性ではなくして魂の卓越性なのであり、幸福もわれわれは、これをやはり魂の活動と解している」と論述している。幸福が絶対的な幸福であるかぎり、それを支えるものが当然あるはずである。そこからアリストテレスは魂のアレテーを主張したのであるが、これは仏法で説く「仏界」の境涯を志向したものといえるのではなかろうか。
 そして『ニコマコス倫理学』では、アレテーの内容を詳述し、「倫理的卓越性と知性的卓越性」、さらには仏法の中道の一分にも通ずる「中庸」などについて述べていくが、アリストテレスの言う卓越性(徳)には、勇敢、節制、真実、親愛など、さまざまなものが含まれる。
 そのなかで注目すべきは、とくに正義こそ、最重要の徳であり、完全な徳としている点である。その理由は、正義は、自分の行いにとどまるだけでなく、他人にこれを及ぼすことができるから優れた徳である。すなわち、共同体や同胞のために幸福をもたらし、あるいはその条件を創出する行為が正義であり、自分のことにあっては徳の働きを発揮することができても、対他的なことがらにあっては、それができない人々が多いからだ、と指摘している。
31  アリストテレスがこのように他者に働きかける「正義」を「完全な徳」として挙げているところに、人間を“社会的(ポリス的)動物”であるとした、彼の哲学の精髄が顔をのぞかせていると私はみたい。
 “社会的動物”――たしかに一人だけの社会はない。すべて人間と人間とが連動、連帯しているのが社会である。その社会、そして人々に対する「最高善」の行為が、これまた最高の「徳」の顕現となる――この主張は、大乗仏教の実践方軌である「自行」と「化他」にも通ずる論理であるといえる。
 修行についていえば、「自行」とは自分が法の利益を受けるために修行することをいう。「化他」とは、他人に利益を受けさせるために法を教え伝えることであり、「利他」ともいう。
 人間には、生きることにまつわる本能的なものから、自己実現の欲求にいたるまでの種々の次元の欲望がある。そのエネルギーが、自らの幸福を追求する力となると同時に、かえって自己の生を縛る「我執」にも変じていく。――この人間生命の宿命的な逆説の軛を脱し、生のエネルギーを無限に解き放つには何が必要か。その転換の一点は、「利他」の実践にあることを、大乗仏教の英知は指し示している。
32  私の恩師は“生命力と幸福”について、よく、次のような趣旨のことを言われていた。
 「幸福を感じ、幸福な人生をいとなむ源泉は、われわれの生命力である。この生命力と外界との関係力を価値といい、この価値が幸福の内容である。……もし、生命力が家庭の事件を解決するだけの生命力なら、家庭内のことではいきづまらないが、町内、市内の事件にはすぐいきづまる」と。
 いかに家庭内の幸福が築かれたとしても、激しい社会の荒波にあえば、その幸福は崩れてしまう場合もある。また現実社会の生活が幸福にみえても、より高い次元からみるならば、耐えていけない不幸が待っているかもしれない。それらのすべてを乗り越えていける、大きな境涯と強い生命力を持つための原動力を得るなら、そこにこそ絶対的な幸福を築く基盤があるはずである。自己の胸中に、あらゆる事象を悠然と乗り越えゆく生命力の核をつくりあげる実践。これこそ人生という大海を渡る船にあって、苦難すら帆にはらむ風のごとく、成長と飛躍のばねへと変えゆくかぎであるにちがいない。
 幸福とは、次々と起こってくる日々の現実に左右され、翻弄されるところにあるのでも、また、それと隔絶した超然たる境地にあるものでもない。それら人生の一つ一つの出来事を、前進の力として楽しんでいくように、存分に味わいながら、人のため、また社会のため、価値ある貢献に生きぬいていくなかにあると、私は思う。
33  “精神の確立”を求めて――文化交流にかけるルネ・ユイグ氏
 一九八八年(昭和六十三年)五月、パリのフランス学士院ジャックマール・アンドレ美術館で「永遠の日本の名宝展」とあわせて私の写真展が開かれた。ルネ・ユイグ氏が主催の労をとり、写真の選択をはじめ額装の仕方・展示にいたるまで自ら携わってくださった。その深き友情に心からの感謝でいっぱいである。
 ユイグ氏はいうまでもなく著名な美術史家でありアカデミー・フランセーズの会員でもある。コレージュ・ド・フランスの教授や国立博物館協議会会長などを歴任し『見えるものとの対話』『芸術と人間』など、多数の著書も残された現代ヨーロッパを代表する知識人の一人である。そうした輝かしい経歴にもまして心打たれるのは、どこまでも信義を貫く氏の人格である。これまで東京富士美術館で開催した三度にわたるフランス絵画展でも、氏をはじめとしたフランス美術界関係者らの尽力によって、門外不出とされた数々の名画が初めて日本に公開された。美術館の創立者として、私も氏の信頼には信義をもって応えるべく全力で絵画展の成功に努力したつもりだが、幸いにも多くの反響を得て、日仏の文化交流に少しでも寄与できたことが喜びである。
34  こうした文化交流にかける情熱の原点を、氏はひとつのエピソードとともにこう語っている。不幸な第二次世界大戦のさなか、氏はルーブル美術館の絵画部長としてドイツ軍から貴重な美術品を守るためロワールにのがれていた。そして同時にレジスタンス運動の参謀室にも所属し、祖国フランスの自由のために戦っていた。ある日、友人であるアンドレ・マルロー氏がそこに配属になってきた。共にレジスタンスの制服姿での再会である。
 戦いの続く日々のなかで、二人はよく情熱を込めて語り合ったという。そしてユイグ氏は、ある時、マルロー氏が語った言葉が忘れられないというのだ。
 それは月が皓々と冴えわたる晩のことであった。ユイグ氏とマルロー氏の二人は、夜道を車で走った。突然、マルロー氏が車を止めた。「歩こう」。ユイグ氏は気が気ではなかった。ナチス占領下の真っただ中である。いつ敵が現れるかわからない。
 マルロー氏は月光の照らす道を悠然と歩いていく。ユイグ氏は後に続いた。
 ふとマルロー氏が、深い物思いにふけるような面持ちで言った。
 「文明というものは常に海洋流域で発達する。なぜならそこには、コミュニケーションが生まれるからだ。見たまえ、古代文明はエーゲ海そして地中海地域から始まったではないか。その流れは大西洋地域に移り、これからの将来を考えると、太平洋文明の時代が必ずやってくると思う」
 月あかりの夜道で壮大な文明論を語るマルロー氏。ユイグ氏は思わず目をみはった。
 話の内容にも驚いた。とともに何より、人々が、今日一日を生きのびるのに精いっぱいという戦時下にあって、はるかなる人類の未来を展望するマルロー氏のスケールの大きさに感心したという。
35  真の文化人とは何かを物語る素晴らしいエピソードに私も感銘した。ナチスの強大な権力との命をはった戦い。同志との絶対の絆。そして危険のなか悠然として、壮大な未来を語る強さと大きさ――。
 マルロー氏とは私も二度お会いし、人類の未来を真剣に語り合ったが、極限の状況のなかにあって、自らも戦いの最前線に身をおきながら、しかも壮大なる文明論をたたかわせる二人の姿を、私は感慨をもって思い浮かべずにはいられない。戦争という不幸もこの青年たちの心から理想を失わしめることはできなかったのである。いや、そのなかで志を貫き通したからこそ、二人はヨーロッパを代表する偉大な知識人たり得たのであろう。
 いわゆる青白きインテリとは全く違う。行動なき知識人とも、行動を売りものにする文化人とも異なって、そこにあるのは強靭な知性とともに奥行き深き人格の輝きである。
 ユイグ氏はこの思い出を語って、四十年も前にしてマルロー氏には先見の明があったと讃えてやまない。そしてこう語る。
 「太平洋文明こそやがて世界的な規模に発展していくであろう。そしてその東西両文明の対局に位置するのがヨーロッパと日本である。なかでもパリは、ギリシャに始まりローマに終わった西洋文明の集積地であり、そして仏教の流れからいっても、日本は、東洋文明の帰結である。……もし、この日本とフランスの結びつきが強まるならば、東洋と西洋の文明が結合を強め、地球の未来に大きく寄与することは疑いない。国境や人種を超えた、『一つの地球』が誕生する推進力になるであろう。そのためには、芸術・文化の交流とともに一人一人の内面、精神の確立が大切である」
 「一つの地球」の実現――芸術にかけ、文化交流にかける氏に心の原動力がこうした信念と理想のなかにあることを忘れてはならないだろう。私もまた精神の確立という一点に立って、文化と平和を確かなものにしたいと願い、行動している一人である。
36  この精神の確立ということについて、ユイグ氏は、私との対談集『闇は暁を求めて』(講談社。本全集第5巻収録)の中で次のような趣旨を述べている。
 ――物質文明に覆われている現代においては、「自分の人生に対する責任」という概念は消滅してしまった。今や人間は、一人で自分の欲望と向きあって、快楽の満足だけをめざしている。人々は当座のことにのみ追われており、「何のため」とその存在の意味を問うこともなくなり、生命の原動力を失ってしまった――。
 すなわち氏は、人間を限りなく高め、向上させていく“精神の推進力”が、現代文明から失われつつあることを憂慮しているのである。
 たしかに、享楽と欲望に流される現代においては、人間は“何のために”生まれたのか。また政治、経済、科学といった人間の営みは“何のため”にあるのか――。こうした最も根源的な問いかけはもはや、なされなくなりつつある。そして最も重要な精神の力は逆に摩滅し、人間の生命力の衰弱、人間の受動化など多くの難問に直面している現状にある。人類が直面している危機は決して外からのみきているのではない。物質文明のなかにあるからこそ、現代人の弱りきった精神の嘆息を凝視し、ダイナミックに脈動してやまぬ生命の歓喜を清冽に蘇らせなければならない。
 ユイグ氏はその重要な背景として、従来の「因果論」を説く、いわゆる既成宗教が現代人の目には“時代遅れ”と映り、人々の「心」をとらえられなくなった点を挙げ、生命の大いなる「飛躍」と「蘇生」の源泉として、仏法に、心からの期待を寄せている。
 よきにつけあしきにつけ宗教の力はまことに大きい。そして、いうまでもなく宗教は、人間精神を不断に上昇させ、苦難を克服しつつ勇気と希望のなかで、未来へと進むものでなくてはならない。
 太平洋の文化の時代の根幹をなすべき精神は何か? 物質文明が行き詰まりを見せている今、希求される「精神」のルネサンス、「生命」のルネサンスへ向けて、内なる生命の因果を直視し探求しつくした仏法の英知に寄せられる真摯な期待は、かつてないほど大きいといえよう。
37  “生きた学問”への道――コッホの病原探求
 結核菌を発見したコッホが、アフリカの睡眠病原の探求に乗り出した時のことである。すでに、イギリス探検隊が、睡眠病の病原体「トリパノゾーマ」を発見しており、コッホはその感染経路を研究して、「グロッシナ・パルパーリス」という蠅によって伝染することをつきとめた。さらに、精力的に研究を続け、「グロッシナ」は、血液を栄養としており、二、三日に一度は血液を吸収しないと死んでしまうことを解明した。
 コッホは千匹以上の「グロッシナ」を採集し、その胃の中にあった血液を分析した結果、少量は人間の血液であったが、大半はワニの血液であることが判明した。これは「グロッシナ・パルパーリス」がワニの生息する河や湖の岸にだけ生息するという事実に一致する。
 この発見に基づいて、コッホは睡眠病に対する対策を立てた。もし、「グロッシナ」が唯一の睡眠病伝播者であるならば、患者を厳重に隔離したり、消毒したりする必要はなく、患者を「グロッシナ」のいない地域に転地させるだけで、周囲への感染を防ぐことができるはずである。
 しかし、転地は住民の生活を大きく変えることになる。もし、「グロッシナ」以外に病原体を仲立ちするものがあれば、転地しても感染がさらに進むことも考えられる。住民の生活にストレートに結びつく療法だけに、「グロッシナ」だけが睡眠病の伝播者であることを確定することなしには、断行することができない。
 このために、実験室内においてさまざまな工夫と努力を重ねて研究が進められた。しかし、なかなか解決の糸口がつかめず、研究は袋小路に入ったかたちになった。
 ところが、コッホ一行が住民を相手に、応急の対症療法として行っていた「アトキシール」という薬剤を用いての治療の現場から偶然にも手がかりが得られたのである。
 治療を受けにくる人々のなかに、「グロッシナ」の生息していないキンバという地域からの発病者がいたが、この地域の患者は働き盛りの男性に限られており、みなウガンダに長期逗留の経験のあるものばかりであった。この人々は、「グロッシナ」のいないキンバで家族とともに普通に暮らしているが、周囲には睡眠病の感染者は出ていない。睡眠病患者が「グロッシナ」の生息するウガンダの逗留者に限られているうえに、キンバ地方の吸血昆虫をしらみ潰しに調査しても、「トリパノゾーマ」を伝播するものはひとつも発見されなかった。こうして、偶然の観察がきっかけとなって「グロッシナ」が唯一の睡眠病伝播者であることが確定し、コッホの療法の正当性が証明されたのである。
 コッホは、明治四十一年(一九〇八年)に来日した折、こうした様子を紹介した後、「伝染病の研究は単に実験室に於てのみ行われるべきものではなく、実験室以外に於て起こる総ての偶然の出来事をも併せて考慮すべきである」(「大日本私立衛生会雑誌」明治四十一年三〇四号)と述べている。
 人文科学であれ社会科学であれ、自然科学であれ、生きた学問というものは、学ぶ者自身が、常に民衆や社会と交流しつつ、現実を呼吸していくなかに生まれるものであると私は思う。そしてまた、現実を踏まえてこそ真実の発想が生まれてくるものだ。この現実という母なる大地から、常に謙虚に学んでいこうという姿勢こそ、学問が生き生きと躍動していけるかどうかのかぎをにぎっていると、いえるのではないか。
 “真理追究”自体を絶対の価値とするようなこれまでの学問のあり方が、今日みられるような、核兵器の登場、人命軽視の文明のゆがみを許した一つの原因であることは否定できない。これは、何としても解決されなければならない現代の課題であるが、それには、学問の底流に“人間回復”の思想変革を成就していくことだと思う。また学問の成果を、どう現実生活に反映させていくかという段階において、賢明な判断がなされていかなければならない。この学問の底流という次元と、学問の成果の応用化という次元との、二つの過程で、さまざまなゆがみが是正されなければならないし、また、是正できるとするならば、それはコッホが言ったように、研究者が心を「窓の外」に注ぎ、民衆や社会と交流する道を歩んだときであると私は信ずる。
38  偉大なる言葉の力――リンカーンの名演説
 歴史こそ、真実の証明者である。そして、時代の核心をうつ一言が、混沌とした生成・流動の世界を雲霧が晴れるがごとく見事に整理し、新しき運動を切り拓くことがあるものだ。
 一九五七年(昭和三十二年)九月八日に行われた創価学会の平和運動の原点ともいうべき「原水爆禁止宣言」。戸田城聖第二代会長の「遺訓」ともいうべきこの「宣言」の意義も、時とともにその重みを増し、歴史への刻印を確かなものとしている。否、時代が進むにつれ、ますますその重要性が認められ、証明されていくにちがいない。
 「核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、今、世界に起こっているが、私はその奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う。(中略)なぜかならば、われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります」(『戸田城聖全集』第四巻)
 生存の権利を脅かすものは魔物であるとするこの「宣言」は、約五万人の青年が参加して行われた「第四回東日本体育大会“若人の祭典”」の席上、発表された。会場は、横浜の三ツ沢競技場であった。ちなみに、この大会では私が号砲を打ち、競技の開始を告げたことが、今も懐かしい。
 この歴史的な宣言は、この閉会式で行われ、まことに短いスピーチであった。その簡潔なスピーチが、後世に輝く画期的な「宣言」となった。
 それは、恩師の逝去の約半年前のことであった。そのころ、先生のお体はかなり衰弱していた。そのさなかでの宣言は、次代を託す青年たちへの渾身の叫びであった。
 私自身、恩師と同じく無実の罪で投獄され、獄中生活を味わった直後でもあり、戦争を憎み、その魔性を見抜いておられた恩師の心境がひときわ痛感されてならなかった。
 そのころの日記に、私は、次のように記した。
 「出獄して――二カ月余。貴重なる体験を、沁々と、味わう昨今。いつの日か……このことを、未来に残さんと思う」(『若き日の日記』本全集第37巻収録)――。
39  まさにこの時代の闇を切り裂くがごとき一言を受けて、平和に向けて世界へ世紀へと走ってきたこの三十年間であった。
 核兵器が、なぜ「絶対悪」であるのか――それは、核兵器が、通常兵器の延長線上では考えられない、否、考えてはならない、いわば運命的兵器だからである。黙示録的兵器といってもよい。それは、通常兵器に対するのとは異なった対応と思考様式をわれわれに要請している。
 ところが、当時は、そのことに気づいている人は、意外なほど少なかったのである。多くの人々は、核兵器の殺傷力と破壊力の巨大さを、通常兵器の延長線上でとらえていた。唯一の被爆国である日本で「きれいな原水爆」とか「平和のための核実験」とかいった言い方が、公然とまかり通っていたことからも、その一端はうかがわれる。
 戸田第二代会長の発想は、当時の一般的な物の考え方を、根底から覆す起爆力を秘めていた。だからこそ、左右のイデオロギー的な平和論が、時間の淘汰作用に耐えきれずに色あせていくなかで、「原水爆禁止宣言」は、時とともに鮮やかな光芒を放っているのである。
 アメリカの気鋭のジャーナリスト、ジョナサン・シェルは『地球の運命』で、核兵器がもたらす人類絶滅の脅威を、こう述べている。
 「人類の絶滅は個々の人間の死よりも、はるかに恐るべき現象であり、より激しい破壊をもたらす、ということができる。なぜなら、人類がいなくなってしまった場合、個々の人間の誕生や生命だけでなく、死という現象も起こらなくなるからである。個々の人間の死は単なる死にすぎないが、人類の絶滅は死の死を意味する」(斎田一路・西俣総平訳、朝日新聞社)
 「死の死」とは、核兵器のもつ運命的、黙示録的性格を言い得て妙である。大規模な核戦争の果てに待っている世界は、死屍るいるいとした荒涼たる無の世界、否、無という言葉さえ存在しない、われわれにとって何の意味も持たない世界である。したがって、この運命的兵器の魔性を鋭く突いた「原水爆禁止宣言」の思想を、私どもは、繰り返し繰り返し訴え続け、一つの時代精神にまで高めていかなければならないと思っている。創価学会の平和運動はまさしくこの一言から奔流となったのである。
 一人の真実の叫びが人々の心をとらえるとき、どれほど素晴らしい可能性を開き、大きな価値を生むかわからない。
40  アメリカの第十六代大統領リンカーンの、「人民の、人民による、人民のための政治」という言葉は、あまりにも有名である。が、これも実は、わずか二分ほどの短いスピーチの結びの一言であった。
 今でこそ、民主主義の根幹を示す演説として、だれもが賛同し、評価するスピーチとなっているが、当時のマスコミのなかには、称賛するものもあった反面、質の低い演説として酷評する者もあったという。あらゆる出来事に風評はつきまとうものだ。しかし、リンカーンの演説は時を経るとともに、不滅の光彩を放った。
 この歴史的な演説は、南北戦争中の一八六三年十一月十九日、ペンシルベニア州のゲティスバーグの丘でなされた。このゲティスバーグは、北軍が南軍の北部侵入を防いだ激戦の地である。このゲティスバーグ激戦の地を国有墓地にして、戦没兵士の霊を弔おうという運動が起こり、この日の式典となったのである。
 ところで、式典の主催者は、もともと、リンカーンのスピーチを式典のメーン(中心)とは考えていなかった。事実、主要な演説は、当時、アメリカで最大の雄弁家とされたエドワード・エベレット(ハーバード大学総長、元国務長官)の演説であり、それは二時間にも及ぶ大演説であった。リンカーンの二分間のスピーチは、その後で行われた。
 聴衆は、約三万人。皆、演説を立ち続けて聞いていたが、なかには、エベレットの長時間の演説に耐えきれず、帰ってしまった人もいた。
 それと比べ、リンカーンの演説は、まことに簡潔であった。あまりに簡潔で、カメラマンたちも、レンズの焦点を合わせている間にスピーチが終わってしまったという。それほど短い時間でありながら、そのスピーチは、歴史に残る名演説として語り継がれている。スピーチのよしあしは、その長短で決まるものでは決してない。
 そのことは、あらゆるスピーチにも当てはまる。当然、長い時間が必要な場合もある。しかし、ただ長ければよいというものではない。要するに、「時」と「場所」を考え、参加者の“感情”や“機微”を鋭く見抜き、その時々に判断していかねばならない。
41  さて、約二カ月も前に依頼を受け、準備も万全であったエベレットに比べ、リンカーンに依頼があったのは、式典のわずか約二週間前であった。
 しかし、リンカーンは、いささかも手を抜かず激務のなか、スピーチの原稿を用意した。その間、子息が熱を出し、ひと騒動起こるなど、現実はきわめて煩雑であった。そのさなか、彼は見事な演説を構想し、立派になしとげ、歴史に確かな足跡を刻んだ。当時、彼は五十四歳、暗殺される二年前のことであった。
 リンカーンのゲティスバーグでの演説は、今日、世界で最も短く、しかも最も素晴らしいスピーチとして知られている。その日の聴衆も、惜しみない大拍手と大歓声で、演説への感動を表した。多くの心ある識者も、激賞した。たしかに、この演説は、簡潔で、言葉が細かく吟味され、独立宣言の「すべての人は平等に創られている」ということから始まり、アメリカ合衆国へ生ある一人一人が献身すべきこととその高き理念がきわめて明快に述べられている。
 エベレット自身も、後日、リンカーンへの手紙の中で、「小生の二時間の演説が、閣下の二分間のお話の要点に、少しでも近づくことができていれば、望外の光栄と存じます」と、謙虚につづっている。エベレットは、自分でも、アメリカ随一の雄弁家であるとの誇りを持っていたにちがいない。それでも、素直に、リンカーンのスピーチの素晴らしさを認めざるをえなかった。それほど、人格が光る思想性にあふれたリンカーンの演説は優れたものであった。
42  言葉の力は大きいものだ。それは演説に限らない。小さな集いや、日常の会話であっても同じことであろう。また、話の優劣は、表面的な上手、下手で評価されるものでもない。
 たとえ、話はうまくなくても、多くの人に信頼され、尊敬されているリーダーは、たくさんいる。反対に、いかに弁舌さわやかでも、いつのまにか周囲の信頼を失っていく者もいる。
 要するに、人の胸を打ち、納得させていくのは、言葉に何が込められているかという点にあろう。相手を「思いやる心」と「誠実さ」、そして「高き精神」こそ肝要であり、その人格や人間性が明快な論理となって表れて相手の心を動かし、社会を動かしていくのである。
 人は人と人との間に生きる動物であり、その間をつなぐものは言葉である。社会における一言――日常における言葉もまた、リンカーンの演説に勝るとも劣らぬ偉大なスピーチであり、人間覚醒への“演説”となりうることを、私は確信してやまない。
43  知と無知の戦い――先覚者ブルーノに見る迫害と人生
 私は十代の時に読んだある西洋の哲学者の「波浪は障害にあうごとに、その頑固の度を増す」との格言が大好きであった。いうなれば、この格言を土台として、人生を歩んできたといえるかもしれない。
 長い人生行路にあって、偉大なる作業をしていくためには、それなりの限界や絶望の時もあるかもしれないし、巨大な幾多の障害もあるにちがいない。その時こそ、いやまして、自らが逞しく鍛えられていくことを、忘れてはならないと思う。
 多くの優れた伝記を残した、今世紀のオーストリアの有名な作家ツバイクは次のように訴えている。
 「だれか、かつて流罪をたたえる歌をうたったものがいるだろうか? 嵐のなかで人間を高め、きびしく強制された孤独のうちにあって、疲れた魂の力をさらに新たな秩序のなかで集中させる、すなわち運命を創りだす力であるこの流罪を、うたったものがいるだろうか?(中略)自然のリズムは、こういう強制的な切れ目を欲する。それというのも、奈落の底を知るものだけが生のすべてを認識するのであるから。つきはなされてみて初めて、人にはその全突進力があたえられるのだ」(『ジョゼフ・フーシェ』山下肇訳、潮出版社)
 ツバイクはここで、釈尊、モーゼ、キリスト、マホメット、ルター等の宗教者、またダンテ、ミルトン、ベートーヴェン、セルバンテス等の芸術家の例をとり、流罪や迫害がいかに彼らの「創造的天才」を育てる沃土となっていったかを述べている。まことに苦難こそ、人間の人生や運命を、闇から暁へ、また混沌から秩序へ、破壊から建設へと飛躍させゆく回転軸であったといってよい。
44  宗教裁判にあって所説の撤回を求められた時「それでも地球は回っている」との名言を残したというエピソードで有名なガリレオ・ガリレイらとともに天文学の“コペルニクス革命”を継承したジョルダーノ・ブルーノ(一五四八年―一六〇〇年)も、迫害の人生を雄々しく生きぬいた一人である。
 有名なコペルニクスの死後五年目に生まれた彼は、十七歳で修道院に入るが、「真理」への真摯な姿勢と「知」への情熱から、カトリックの教義に根本的な疑問を持つにいたった。そして彼は「異端」の嫌疑をかけられ、二十八歳で修道院を飛び出す。以来、十五年余、スイス、フランス、イギリス、ドイツなどヨーロッパ各地を旅行し、研鑚と研究の青春時代を送る。その結晶として“宇宙無限論”ともいうべき考えを生みだす。
 最後にイタリアへ戻ったブルーノは捕えられ、一説によれば以降六年間、亜鉛板ぶきの屋根裏部屋に監禁され、孤独な生活を送る。さらにローマに移され、そこで二年にわたり審問を受けるが、最後まで信念を曲げず、ついに一六〇〇年、宗教裁判によって火あぶりの刑を受け、その生涯を閉じている。壮絶な最期であったが、彼の思想的影響は大きかった。その影響はフランスの哲学者デカルト、オランダの哲学者スピノザ、ドイツの数学者ライプニッツ、ドイツの文学者ゲーテなどにも及んでいる。
 ブルーノの生涯と思想については清水純一氏のすぐれた研究があるが、その宇宙論は、「宇宙は無限の拡がりであるが故に、無数の万物を包み、しかも万物はそのなかで生成流転を繰り返しながら、それらを包む宇宙は永遠不変である。その展開された姿においてさまざまの差異・対立を含みながら、宇宙そのものは、『ありうるものすべてを包み、しかもそれらに無関心』な一として存続している。したがって宇宙そのものには上もなければ下もなく限界もなければ中心もない。消滅もなければ生成もない。(中略)無限なる宇宙のなかには無数の天体(世界)が存在し、そのなかでまた無数のアトムが離合集散を繰り返している。したがって、この地球(世界)と同様の世界は他にも存在するはずだし、われわれ人間同様あるいは『よりすぐれたものも、どこかに住んでいないとは考えられない』」(『ジョルダーノ・ブルーノの研究』創文社)というものであった。
45  さらに清水氏によれば、当時の人々に広く受け入れられていた天動説では、宇宙の中心は地球であり、その地球の中心はローマ(裏側の中心はイエルサレム)であるとされていた。したがって、天体の諸遊星はローマ教会を中心に回っているとされており、それが、ローマ教会の尊厳性の証の一つとされていた。
 ブルーノは、この理論的基盤に結果的に真っ向から反対することになる地動説の立場を踏襲しただけでなく、自身の樹立した自然観と宇宙論哲学をもとに、生命の輪廻や宇宙の永遠性、そして人間と同様の生物が他の天体に存在する可能性を主張した。
 こうした考えは、仏教とも相通じているが、無論、当時のキリスト教の教義とは相いれぬ考え方であった。
 ブルーノの宇宙論は、聖書に説かれた“救い”に対する有害な思想として迫害された。教会の教義では、人間は神に選ばれた存在であり、他の物に生まれ変わるなどということはありえないことであった。また、宇宙が無限であり、地球のほかにも同様の星が無数に存在するという考え方は、“宇宙は神の手で人間のためにつくられ、また神のおぼしめしによって地球には特権が与えられている”といった教義に矛盾するものであった。したがって、ブルーノの諸説は異端であり、有害な思想として弾圧と迫害に見舞われることになる。
 ブルーノは、信念を貫いて戦い続けた。彼は次のように言っている。
 「哲学的自由の尊重のために、私がひたすら守ってきたものは、目を閉じることなく、はっきりと見開け、という教えであった」
 「それ故に私は目に見た真実を隠そうとはせず、それを赤裸々に表明することを怖れない。光と闇、知と無知との戦いが永劫に続けられるように、憎悪、口論、騒擾、攻撃は到る処で繰り返され、しばしば生命さえもが脅かされる。それは愚かしく粗野な大衆によるだけではなしに、無知の元凶ともいうべき学者たちによってさえ惹き起こされるのである」(同前)
46  さてブルーノに対しては、二百六十一項目にわたる異端の嫌疑について審問が行われた。その背景には彼の人間観があったとされる。
 すなわち“人間は人間であって、決して人間以外のものではない”というのが彼の人間観であった。彼は徹底してキリストを「神」としてではなく、「人間」としてみたのである。ジョン・ドレイパーが『宗教と科学の闘争史』(平田寛訳、社会思想社)で指摘しているように、ブルーノは“人間の信仰”のために“みせかけの信仰”と戦い、“道徳も信義もない正統派”と戦ったのである。
 そしてブルーノは火あぶりの刑を宣告されるさい、裁判官に「思うに、貴下が私に宣告をくだすのは、私がその宣告をうけるよりも、その恐怖は大きいであろう」(同前)と言い放ったという。そこには信念に生きぬく人間の生きざまと、必ずやその信念が後継されるという毅然たる確信がある。
 まさに先駆者の歴史は、光と闇、知と無知の戦いである。ブルーノはいかなる権力者、神学者たちの攻撃、迫害をも恐れなかった。彼は自己の信念と、人間の英知の光に生きぬき、殉じた不屈の生涯であった。
 歴史的偉業は、決して平坦な道程の上に出来上がったものではない。むしろ、迫害や苦難の悪気流のなかでこそ想像を絶する歴史と後世への奇跡ともいうべき記念碑が、建てられているともいえよう。
 かの若き時代のニーチェも『反時代的考察』で、こうした悪気流をこのように糾弾している。
 「鈍重な習慣が、卑小なものと低劣なものが世界の隅々を満たし、重苦しい地上の空気としてすべての偉大なものを取り巻いてたちこめ、偉大なものが不死に向かって行くべき道の行くてに立ちふさがって、妨害し、たぶらかし、息をつまらせ、むせかえらせる」(『ニーチェ全集』4〈小倉志祥訳〉所収、理想社)
47  歴史的な偉業を振り返るとき、常に私の胸に迫ってくるのは、苦難を自身の糧として人生を生きぬいた人間の生命の強靭さである。
 ブルーノに限らず、ある人間の勝利が、他者にとってもその実存に迫るような力を持つのは、自己の信念を貫き通してある地平に抜け出た時、それはすでに一個人の領域にとどまらず、生の普遍的な質にまで深化されたものとなるからではないだろうか。
 そして、人生にそうした決定的な勝利の瞬間が訪れることがあるとするならば、それは自己の全存在に猛然たる勢いで襲いかかり、圧倒しようとする苦難と全生命をもって格闘し、乗り越えようとする時に、すべてのものの持つ意味を新たにするような、創造がなされた瞬間ではなかろうか。
 その瞬間に、胸中に赫々たる太陽が昇りゆくように、歓喜がほとばしり、何人も打ち消すことのできぬ凱歌が奏でられるにちがいない。とするならば、どこまでも自己に徹し、自らの生命に生きぬく強靭な人格にあっては、苦難こそ新たなる創造へと跳躍しゆく飛躍台であるとすらいえるだろう。つまるところ、一個の人間の生涯の放つ光彩は、すべての卑小なものや低劣なものに抗して、いかに“不死の道”を歩みぬいたか――。その足跡によってさらに輝きを増していくにちがいない。

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