Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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2 家族や社会のあり方をめぐって  

「人間と文化の虹の架け橋」趙文富(池田大作全集第112巻)

前後
2  モンスーン的風土がもたらした共通点
  前の節では韓国の文学や、ハングルと日本の仮名の共通点・相違点などについて語り合いました。
 ここでは、そうした文化の成り立ちについて、考えてみたいと思います。そして文化が、家族や社会にどう影響を与えてきたのか、語り合えればと思います。
 池田 「国民性」は、その国の自然や文化、歴史などと切っても切り離せない関係にあります。
 今から百年前に、牧口初代会長が著した『人生地理学』には、そうした事例が数多く研究成果として残されています。
 そのなかで牧口会長は、人は「郷土民」であり、「国民」であり、「世界民」であると言われています。郷土から世界を見るとともに、また世界から郷土を見て、視野を広くもつようにと論じているのです。
  百年前のものとは思えない、驚くべき新鮮な発想ですね。現在のグローバル化にも即した、生きた主張です。
 ところで、和辻哲郎氏の『風土』には、世界の気候を大きく、「モンスーン的風土」「砂漠的風土」「牧場的風土」に分ける考え方が紹介されています。
 三つに分類した場合、中国、韓国、日本は、「モンスーン的風土」であると言っています。
 その特徴として、主に台風など、急変する気候への対処として、「家族の連帯」が重く見られてきたと指摘しています。
 池田 単位としては「家族」が重視されるということですね。
 しかし、その家族重視の価値観も、三つの国では、それぞれ異なっている面がありますね。
  ええ。韓半島は中国大陸に連続しています。一方、日本は四方が海で固まれ、列島で構成された「海洋国家」です。
 韓半島は歴史上、中国大陸からの侵略も幾度となく受けてきました。そして、外国からの侵略の際、政府の庇護による生命の安全が、つねに安心できるほど信頼できなかったのです。そのため、国民の意識のなかには、強大な勢力に付き従う事大主義思想があります。とともに、国家の存廃に対する責任感よりも、個人的な生命や財産を守りたいという心が強いとも言えます。
 つまり、最も頼りになるのは自分自身であり、最悪の場合にはより広い大陸に逃げ込もうとする心が、幾分か作用するようになっていき、その次に頼りになるのが家族愛によるお互いの協力であったと思います。
 そのため、少し乱暴な言い方をすれば、自分自身や家族の生命を守るためには、時には正当防衛や緊急避難の概念を意識しての脱法的な性向に傾きがちであるとさえ言えます。一方で大陸からの文化を多く受け入れてきたので、融通性に富んでいるという傾向もあります。
 池田 興味深いお話です。
  一方、日本は陸続きの国境線をもっていないため、国境を越えての自分や家族や国家というものを考える必要性が、あまりありませんでした。そのため元来、自立的であるのだと思います。
 反面、狭い地域の自然の中で、情緒を育む関心が限定されてきました。
 そのため、比較的狭量で融通性の乏しい面が見られるとも言われています。それが時に、いわゆる「原則主義者」というか、「島国根性」として表れてくるのだと思います。
 池田 確かに、「島国」には、よい面も悪い面もあります。戦時中の日本においては、博士の言う「融通性の之しい」という悪い面が顕著に表れてしまい、極端な国家主義に走ってしまいました。
 これからは、四方を海に聞いた「島国」のよい面を生かしながら、どう「世界市民」の精神を育んでいくかが、大きな課題になっています。
3  結婚しても姓は変わらない
  家族を重視するという点では、韓国も日本も同じです。しかし、その根底にはずいぶんちがった思想的土壌があると思われます。
 家族について言えば、両国の間でまったく異なる点が二点あります。
 池田 それは、どういった点でしょうか。
  一点目は、結婚した後、配偶者の片方の姓が変わるか、変わらないかという点です。日本では結婚すると、多くの場合、新婦の姓が新郎の姓に変わる。その逆のケースです。
 韓国では、結婚してもしなくても、個人の姓は一生変わることはありません。
 確か日本では、明治以降、西洋文化の影響を受けて法が整備されたようですが。
 池田 そのとおりです。日本では明治になるまで長い間、特定の身分にしか姓はありませんでした。
 韓国では、生まれると父方の姓をもち、その姓を生涯、持ち続けますね。
  韓国の場合は、女性が婚前の家系・家門の名誉を守り、生涯、両家を結んで親和を保つ使命を負っているとするのです。
 池田 なるほど。意味がよく分かりました。
  二点目は、韓国では、「婿養子」がほとんどいない点です。
 韓国では、日本に比べて、血縁上の親子関係を絶対視する風潮が根強く残っています。
 民法上、婿養子制度は制定されています。しかし、婿養子として男子を家に迎え入れることは、男子のほうが極貧状態で、飢えをしのぎ餓死を逃れるための場合等にかぎる、ごく希なことになっているのです。また、血縁関係のない者に家業を継がせることも、ほとんどありません。
 日本では、この点はもっと柔軟であると思います。家もしくは家業を継ぐのであれば、まったくの他人であっても男子を養子として迎え入れることがありますね。
4  血縁関係重視か、家業重視か
 池田 そのとおりです。この点も両国にちがいがありますね。
  そうしたことは、社会全体にも影響を与えてきたのだと思います。
 日本では家族間の情が、血縁よりも家業、すなわち仕事関係によって形成されてきたとも考えられます。このような社会では、家業を保つために「和」を強調し、意識的に家業を担うことに力を注ぐようになります。その結果、より理性的に家業や仕事を
 維持するようになる。
 そういった関係は、社会の組織の上でも作られます。組織の内外においてつねに「和」を強調する。そのため、上下関係や同僚との関係はもちろんのこと、外部の「客」に対してもつねに温かく接するように努めます。このような特徴は、産業社会の体制
 に、より適合しやすいのです。
 他方、韓国では、血縁関係を最も重視しています。家業、仕事を成り立たせる社会では、理性的関係が築きにくくなります。そして、どうしても情的な協同関係によって仕事を維持する傾向が強くなります。
 こういった社会では、「家族」という枠から一歩外に出ると、仕事のための「和」に基づく協同関係が築きにくい。代わりに「契約」を結んで一緒に仕事をしていくしかなくなってきます。
 つまり、社会で仕事をする上で、「情的な協同関係」と「合理的な協同関係」が同時に存在してしまいます。これらは個人的活動によって高い成果をあげる場合もありますが、不平等や葛藤の原因ともなり、社会的能率の低下を招くことがあります。
5  「家族のひずみ」が「社会のひずみ」
 池田 よく分かります。
 しかし、日本型の家族関係や社会であっても、趙博士の言われる「情的な協同関係」を求める傾向もあります。
 むしろ、それらが目指すところの理念や目的が何かという点にこそ、文明社会の成熟が問われていくのではないでしょうか。
  まったく同感です。血縁重視とか、家業重視といっても、理念や目的に尽きますね。
 個人や血縁の家族や家門のためか、氏族や部族のためか、または地域共同体のためか、もっと大きく言えば国家や民族のためか、人類社会のためかーー過去の歴史ではすべて、これらの理念や目的が、民族や国の都合によって変化してきました。
 しかし、二十一世紀は、世界中の人々が互いを尊重しつつ、共生共存すべきです。したがって、すべての「家族社会」の目的は、「人類社会」に主眼を置いたものでなくてはなりませんね。
 池田 そうです。新しい時代の「家族観」を確立していかなければなりません。
 二つのノーベル賞を受賞された「現代化学の父」ポーリング博士のど子息であられるポーリング・ジュニア博士が、「家庭教育」について、ご自身の経験をとおし、こう語られていました。
 「子どもたちは、自然に家庭のなかで、親の考え方や思想を継承するものです」「親は、つねに心のなかに、”平和を推進する”という強い信念をもって行動することが大事ではないでしょうか」(長崎ピースフォーラム二〇〇二にて)
 ここには、家庭教育の重要な示唆が含まれています。ポーリング・ジュニア博士も、偉大な父上の精神を継承し、平和のために行動してこられた第一級の知性です。
 ともあれ、家庭は、最も小さな「社会」です。家族の間に起こる日々の出来事はすべて、社会においても起こりうることです。
 ゆえに、本来、家庭の中で、基本的な社会のルールやモラルが教育されるべきなのです。ところが、それがだんだんと行われなくなってきています。
 そうした背景もあって、「家庭内暴力」や「引きこもり」といった現象も増えているのだと思います。
 普通、社会や第三者に対しては許されないことが、家庭ではまかり通ってしまう。その根底には「家庭だから、家族だから、どんなわがままも許される」といった精神的な甘えもあるのでしょう。
 この「家庭の教育力」の衰弱化が、社会にひずみをもたらしています。
 次代を担う子どもたちが育つ根本の土壌は、「家庭」です。「家庭の教育力」の回復が必要なのです。
  韓国でも近年、「家族のモラル」の低下への警鐘が叫ばれています。
6  「タテ社会」と「甘えの構造」
  日本人の国民性について私が注目している文献は、三十年以上前のものですが、中根千枝氏の『タテ社会の人間関係』と、土居健郎氏の『「甘え」の構造』です。
 中根氏は、人間関係には「場」を重視する場合と、「資格」を重視する場合があり、日本人は圧倒的に前者だと言います。つまり、日本人は個人の資格や素質よりも、所属する会社や出身大学を重視し、その所属する組織においても上下関係を重視する、と。
 最近では個人の能力のほうを重視する傾向もあるょうですが、今も多くの日本の会社で、根強く残る風潮ではないでしょうか。
 土居氏は精神医学の立場から、日本人は、赤ちゃんが母親に対するような典型的な「甘え」を、成人になっても強く引きずり、人間関係にも色濃く滲ませていると言います。そしてこれは、他の外国人には見られない傾向であると指摘しております。
 池田 いつの間にか、そうした傾向が芽ばえてしまったことは残念です。日本の学校教育が知識偏重の教育に傾いてきたことも、原因としてあると思います。
 大科学者のアインシュタインは、優れた教育者でもありました。そのアインシュタインは、「点数主義的な成功」を煽る知識偏重の教育がもたらす歪みを、いち早く危慎していました。
 「(若い人の自主的で批判的な精神の育成が)あまりにも多くの課目、あまりにも多種な課目を過重に課す(点数制度)ということによって著しく危うくされている。負担の過重は必然的に皮相な浅簿さをもたらす」(湯川秀樹監修『アインシュタイン選集』3、井上健・中村誠太郎編訳、共立出版)と。
 そして、アインシュタインは、こうした教育は、「人間的な友愛とか協同といった類いのあらゆる感情を破壊」すると結論しています。(同前)
 教育の歪みほど怖いものはありません。
 一方で、儒教的風習が強く残る韓国でも、所属する家系や出身大学を重視する傾向が強いとお聞きしましたが、いかがでしょうか。
  まったくそのとおりなのです。大学受験の過熱ぶりは、日本の比ではないほどです。(笑い)
 とくに、家父長的な権威主義や、上下関係の秩序は、今もかなり強く残っています。韓国こそ、典型的な「タテ社会」の部類に入ると思います。
 じつはこのことは、池田先生も会われている李御寧イ オリヨン・元文化部長官(大臣)が、一九八二年に発刊した自著『「縮み」志向の日本人』で指摘していることでもあります。
 この中で李元長官は、「タテ社会の人間関係」も「甘えの構造」も、韓国人にも見られるとしています。
 その上で、日本人の性質として「縮み」志向を挙げています。これを、「込める」「折畳む・握る・寄せる」「取る・削る」「詰める」「構える」「凝らせる」の六つの類型に分類しています。
 池田 李御寧先生のことは、よく覚えております。文化部長官を務められていた時、ソウルで開催された、東京富士美術館所蔵「西洋絵画名品展」の開幕式にご出席くださいました(一九九〇年)。
 『韓国人の心』という著書も有名ですね。
  ええ。朴俊照パクチュニという識者は、李氏の日本人論が、「目に見えない」日本人の心理や社会構造を、「目に見える」動作や行動から明らかにしている点を、自著の『「拡大志向」の日本人』で高く評価しています。同著では、日本人の縮み」志向の裏には、「拡大」志向があることを指摘しています。
 私としては、「目に見えない」日本人の内面の価値観こそが、より見つめるべき対象ではないかと考えています。
 表面的な言動ではなく、たとえば和辻哲郎氏が『風土』で言っている、地震のような大自然の原理に従うような「忍従性」や、丸山真男氏の言う「日本的な合理化国家神道と民衆宗教の呪術性」、そして欧米的な合理性を超える日本的非合理性のような、その根本原因となり、その底力となる価値観こそ、人間を動かし、人間関係を形成するカギとなっていくものだと思うからです。
 池田 さすが、日本をよくご存じの博士ならではのお話です。
7  人間主義で精神文化を守れ
  もう一人、日本人の辻村明氏が、「韓・日文化の同質性と異質性」という論文(東国大学日本学研究所発行『日本学』に収録)を書かれています。この中で、日本人や日本文化の特徴は、「切り捨て」と「繊細さ」に表れていると述べています。
 たとえば色彩を落とした(切り捨てた)日本の神社や仏閣。世界で最も短い詩文の一つである俳句や短歌。水墨画や書など、筆による黒一色の芸術作品。格闘技でありながら、微妙な技と簡単であっさりした勝負を特徴とする相撲や柔道など。
 どれもが「切り捨て」と「繊細さ」によって成り立つ日本の固有文化です。
 池田 確かに、貴国の歴史的建造物は、どれも色彩豊かです。日本でも中世あたりまでは極彩色が好まれたようですが、徐々に色彩は減っていき、安土桃山時代には「わび」「さび」といった文化が大成していきました。
 西洋のカラフルな絵画などと比べても、「切り捨て」「繊細さ」が日本文化の特徴というのは、うなずけます。
  「柔道」「剣道」「弓道」「華道」「茶道」「書道」など、すべてに「道」がついていますね。このことも、単なる稽古事などではなく、究極の境地を求める修行の「道」であることを強く示唆しています。
 神道や禅の影響もあるでしょうが、自我を放棄し、無我の境地を得るという意味で、ここにも「切り捨て」の過程を感じ取ることができます。また、自我を切り捨てた後には、じつに注意深く「繊細に」道程を進まなくてはいけない。そうでなければ、自我切り捨ての甲斐もなく、永遠に再起不能に陥ってしまうのではないかと想像します。
 池田 そのような日本の精神文化の特徴が、極限まで悪いほうに表れてしまったのが、第二次世界大戦における軍国主義下の社会でした。
 人は皆、自由で豊かな心を奪われ、最後には「自我」というより「自分自身」を切り捨ててしまった。
 痛恨の極みは、その最前線に、希望あふれる未来をもった若者たちが押しやられたことです。
 精神文化の精髄であるべき宗教も、戦争に利用されました。否、多くの宗教が積極的に戦争に加担していった。
 文化はどこまでも、人間を幸福にし、社会を平和にするためにあります。
 修行の「道」も、人間を根本にした「人間主義」「平和主義」を貫いて初めて、欄漫と咲き誇るはずです。
 時代は変わっても、「生命の尊厳」こそが、人類の求める精神の根本になくてはならない。そして、精神文化を含む文化は、人間を国家や権力に隷属させる手段であってはなりません。そのような愚行は、あらゆる「善の力」を結集して、との地上からなくしていかなければならないのです。

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