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日蓮大聖人・池田大作

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5 二十一世紀の宗教運動  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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1  キリスト教文化圏で信仰心が薄れた要因
 サドーヴニチィ 現代人の心から信仰が失われつつあるといわれていますが、信仰心が弱まってしまった原因は、単に科学が発展したことだけによるものではありません。科学だけにその責任を押しつけるのは、無理があると思うのです。
 私は、東洋と東洋の宗教事情については詳しくないので触れませんが、ことキリスト教文化圏とされるヨーロッパの国々についていえば、より広範に人々を宗教から遠ざけている要因が、科学以外にも多々あることは、誰の目にも明らかです。
 池田 日本もそうですが、むしろ、宗教の側にも問題があった、というべきではないでしょうか。ヨーロッパにおいては、ガリレイ裁判の誤りをローマ法王庁が正式に認め、謝罪するまで300年以上かかったり、『種の起源』が世に出されてから100年以上たっても、子どもたちに「進化論」を教えるべきかどうか議論しているようでは、人々の心が離れていくのもやむをえないと指摘する人もいます。日本もそうですが、守旧、保身、混迷――明らかに、非は宗教の側にもあるといわざるをえません。
 サドーヴニチィ 宗教問題を扱っている研究者たちは、「キリスト教が大衆文化、消費文化に太刀打ちできない」ことを指摘しています。また、ヨーロッパの教会を訪れる人々の大半は、信者ではなく、観光客だということが、その現状の深刻さを物語って余りあります。
 ヨーロッパにおいて宗教の衰退に拍車をかけたのは、以前は教会が信仰活動の一環として担っていた社会福祉のサービスを、現在は国家、および行政が実施するようになったことです。
 池田 とくにキリスト教は、伝統的に、そうした方面に力を入れてきましたからね。
 サドーヴニチィ ええ。さらに、キリスト教以外のさまざまな宗教、世界観が紹介され、混交宗教的態度が人々の中に強まったことも重大な要因とされます。
 最近の「タイム」誌は、こう書いています。「ヨーロッパは、もうひとつの面で根本的に変わってしまった。現在、ヨーロッパには600万人のイスラム教徒が暮らしている。アジアからの多様な宗教的教義を信奉するヨーロッパ人の数は相当数にのぼっている。ヨーロッパをキリスト教文化圏とは既に呼べなくなりつつある。多様な精神的価値観が並べられた今日、キリスト教は単に、人々の生活スタイルの選択肢のひとつに過ぎなくなった。プロテスタントばかりでなく、カトリック教会までが、宗教は個人の自由であることを認めざるをえない状況なのである。きちんと教会に通いつづけているヨーロッパ人でさえ、神を信じているからではなく、歴史と伝統の一部だから通う、というのだ」
 「ヨーロッパ人、特にヨーロッパの若者たちは、自分にとって理想的と思われる道徳的価値を体系づけるために、さまざまな宗教の教えを組み合わせたり、混ぜ合わせたりしている」
2  人間の魂を癒やし、鍛える宗教の働き
 池田 私も、そうした流れがあることを聞いています。21世紀における宗教運動は「宗派性」よりも「宗教性」の方へとシフトしていくのではないでしょうか。キリスト教、仏教、イスラム教、ヒンズー教……さらに、それらの中にもさまざまな宗派があります。そうした「宗派性」をなくせというのではありませんが、必要以上に際立てすぎるのも価値的ではない。むしろ「宗教性」にスポットが当てられるべきでしょう。「宗教性」とは、宗教が人間の魂を癒しあるいは鍛え、人格を陶冶し、品行を高めているはたらきです。
 ですから、私はハーバード大学の講演(「21世紀文明と大乗仏教」。本全集第2巻収録)で、仏教が“人間復権の基軸”たるために「宗教をもつことが人間を強くするのか弱くするのか、善くするのか悪くするのか、賢くするのか愚かにするのか」というメルクマール(指標)の必要性を訴えたのです。
 サドーヴニチィ 大切な視点だと思います。
 さらに、ヨーロッパにおける宗教の衰退の傾向性をあおっているものに、インターネットをはじめとする通信手段の急激な普及があります。それによって、宗教はこれまでとはまったく違う環境に置かれてしまったといえましょう。
 したがって、人々が従来のようには信仰しなくなった理由は、科学が普及し、科学的知識が高まったからだ、とばかりは言い切れません。しかし、それと同時に、やはり、科学が宗教心、および教義に及ぼす影響を過小評価することも正しくはないでしょう。特にここ10年間の生命科学の成果が、宗教の説く人間観に今後どのような影響を及ぼすかは、決して無視できないと思っています。
 遺伝子の本格的研究が行われるようになり、「行動遺伝学」という分野が誕生しています。それによれば、ヒトゲノムには、攻撃性から愛情までのあらゆる生命の変化相、感情が書き込まれているというのです。
 その結果、これまでは「精神」の範疇にすっぽり納められていた人間の性格的特徴というものが、ある意味で「物」の範疇に運び出されたことになります。人間の傾向性は遺伝子の情報が左右する先天的なものだとすると、行動をつかさどる遺伝子に対して外科的な処置をすることで、人間の性格を変えることが基本的に可能になります。そこでは、人間の魂を救うための対話も、教育的行為も必要とされないという空恐ろしい事態、すなわち、人間の尊厳を根底から揺るがす事態さえ、あながち杞憂とはいいきれない時代を迎えます。そして、これらすべてが、今後の宗教と科学の関係を大きく変化させるのは必然と考えられます。
3  限定性を超克した「仏とは生命」の生命観
 池田 じつに大きな問題ですが。それに関連して私は、前に総長と「はたしてプーシキンの『エフゲニー・オネーギン』を書けるようなコンピューターが作れるのか」というテーマをめぐって、否定的に語り合ったことを思い起こします。
 その時の総長の言葉は、“世界は無限である。しかるにモデルというものは本質的に有限である。したがって、無限の構造を再現するような有限のモデルを作るのは不可能である”という、まことに論理的かつ明快なものでした。
 少々専門的になりますが、「有限」と「無限」ということについて、仏教の生命観、とりわけ時間・空間という有限性、限定性を同時に超克しゆく大乗仏教の生命観には、きわめて興味深い視座が説かれています。
 私の恩師は、第二次世界大戦中、軍国主義政府と戦い、苛酷な獄中生活を送るなか、妙法を唱え抜き、思索を重ね、二つの偉大な獄中体験をえました。その第一が先に触れた「仏とは生命なり」との会得でした。
 その導きの糸となったのが、法華経の開経である無量義経の一節だったのです。仏を賛嘆するその「偈」の最初のくだりを引用させていただきますと――
 「其(仏)の身は有に非ず亦た無に非ず
 因に非ず縁に非ず自他に非ず
 方に非ず円に非ず短長に非ず」(法蓮華12㌻)
 このように続き「……に非ず」がじつに34回も繰り返されています。その執拗なまで言表を拒絶されたあとに残された、あるいは立ち現れる「仏」とはいったい何なのか。恩師が獄中で会得したのが「仏とは生命なり」との達観であり、それが、創価学会の運動の原点となりました。
 その点はさておき、私が申し上げたいのは34回も繰り返される「……に非ず」が、徹底した「限定性の超克」であり「無限性の開示」であったということです。あらゆる角度からの「限定性」を超克しぬいたところに浮かび上がるホーリスティック(全包括的)な生命観――それは、総長のおっしゃる「無限」ということと、きわめて親近し、二重写しになってくるのです。
 その点をとらえて、仏教にも造詣の深い日本のある科学者(泉美治・大阪大学名誉教授)は「(=仏教は)科学と馴染み合える唯一ともいえる宗教」(『科学者が問う 来世はあるか』人文書院)とまでいっています。
 我が田に水を引くつもりはありませんが、そうした意味からも、科学と宗教との人間における共存・相補関係という文明論的課題に私どもも果敢に挑戦していきたいと思います。

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