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日蓮大聖人・池田大作

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4 科学と宗教の関係  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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1  「宗教なき科学」は不完全
 サドーヴニチィ 21世紀、科学と宗教の関係はいかにあるべきか。これは、議論を避けて通ることができない問題だと考えます。また、学術的発見とは何かという定義が変化しつつある事実も検討する必要があると思われます。
 科学と宗教――両者は共に、人類が文明の歴史を綴ってくるためになくてはならない、重要な役割を演じてきました。私は、双方ともそれぞれの役目を担っており、今後も人類は科学と宗教のどちらも必要とし続けるであろう、決してどちらかだけで良いというものではない、と確信している一人です。
 池田 アインシュタインのあまりにも有名な言葉を借りれば、「宗教なき科学は不完全であり、科学なき宗教にも欠陥がある」ということですね。
 サドーヴニチィ 科学と宗教は、理論構築の方法、真実を探求する方法を異にしています。宗教的真実は、人間の理性による裏づけや立証を必要としておりません。それとは反対に、理性を母体とする科学的真実は、それが理論の積み重ねと実験による証明が出来ることを唯一の拠り所、根拠とします。科学においては、いかなる優れた考えも、単純に信じるべしといって受け入れられることはありえません。そのように両者が違っていることに、そして、その異なる両者が一人の人間の中に共存することに、私は、いささかの矛盾も感じるものではありません。私たちは、いつの時代も、あるものについては証明を必要とし、べつのものについては素直に信じて受け入れるという態度で文明を築いてきたのだと思うのです。人間は時に信じることを必要とし、時に、しっかりとした論拠と確認、証拠とを必要としています。
 池田 宗教への志向も科学への志向も、人間がよりよく生きようとすることの内実を構成しているのですから、本来、共存的、相補的な性格のものであって、矛盾、対立しているのではない。その点は、おっしゃるとおりだと思います。
 事実、古代の呪術やシャーマニズムにあっては、両者は渾然一体となっていましたし、文明史的に見ても、ギリシャ、イスラム、インド、中国と、いずれの大文明でも、宗教と科学は、原則的に対立していません。にもかかわらず、対立や闘争のイメージが、ついて回るのは、何といっても“ガリレイ裁判”や“進化論論争”に象徴される、キリスト教のドグマと近代科学との間のハレーションに起因していると思われます。
2  科学者は信仰をどう見ているか
 サドーヴニチィ ええ。その通りです。そうした観点から考察してみると、では、科学の進歩は、無神論の立場を証明してきたのでしょうか、それとも、神への信仰を強めることを支援したのでしょうか。
 科学自体は、そのどちらもしていません。ただ、科学が立証したところのものを、無神論の証明として利用する人々が一方におり、また他方には、その科学の発見を、たとえば考古学の発掘調査の結果を、宗教的書物に描かれていることの裏づけとして利用する人々がいるだけです。繰り返しになりますが、科学の発見と成果それ自体は、宗教的内容を持っておりません。
 そこで、科学と宗教の問題を考察する上で、科学者たちが信仰について、どのような態度、姿勢を持っていたかを見てみる必要があるでしょう。
 ニコライ・コペルニクスは、教会で祈祷の朗読を務め、司教座聖堂参事会のメンバーでもありましたが、後に、当時の教会が説いていた世界観に真っ向から対立する地動説を唱えるところとなります。
 アイザック・ニュートンは敬虔な信仰者として有名なばかりでなく、正統派のファンダメンタリスト(根本信条主義者)でもありました。ところが、その彼が作り上げた古典力学は、宗教的神秘的宇宙観ではなく、理論的、合理的な宇宙の姿を描くための強力な梃子になりました。
 池田 おっしゃる通り、コペルニクスの場合、結果的には、教会の“天動説”と対立する“地動説”を導き出しました。動機的には、神が創造した自然は、ムダなく、簡潔で美しい数学的構造をもつはずだという、“神意”に沿ったかたちでの彼の信念に発したものでした。
 ニュートンが敬虔なキリスト者であったことは『プリンキピア』に、神の造作を称える言葉が数多く見られることからも明らかであり、彼の発見は、まさにその墓碑銘に刻まれたアレクサンダー・ポープの手になる二行詩そのものでした。
 「自然と自然の法則は、夜の闇に横たわっていた。
 神は言い給った、『ニュートンあれ』、すべては光の中に現れた」
 コペルニクス同様、ニュートンにあっても、導き出した理論が、教会のドグマと背反するものになっていたことは、いうまでもありませんが――。
 サドーヴニチィ ええ。他にもあります。修道院の院長であったメンデルは、生物学ではじめての統計的法則となった遺伝の法則の発見につながる研究、実験を行いました。
 また、ノーベル賞を受賞しているロシアの生理学者、パブロフ(1849―1936年)もまた、深くロシア正教を信奉していたことで知られています。しかし、彼は、宗教が俗人に禁じていた活動分野、すなわち生物界に科学のメスを入れてしまいました。そしてパブロフが、ロシア正教会の教理にはどうしても当てはまらない、高次神経系の機能に関する基礎的発見をしたのは、あまりにも有名です。
 信仰を持った科学者たちはこの他にも数多くいますが、その研究姿勢には共通する点があります。それは、人間の理性が発見する科学的真実は、あくまでも、創造主が、宇宙と人間を創った時点で、既に予定し、設計していたことである、という理解に立っていることです。
 池田 コペルニクスやニュートンなど、人類の文明史上に残る卓越した知性が、生涯かけて研究に没頭していった情熱の源は、そこにあったのでしょうね。宇宙や自然は、同じ被造物として人間が読み解いていくことが可能な「第二の聖書」なのだ、と。
 今からみると理解できるのですが、往昔の日本人には、その点が、きわめて不可解であったようです。
 たとえば、300年ほど前、徳川幕府の重臣であり、優れた学者でもあった新井白石という人物がいました。当時、鎖国の禁を犯してやってきて捕らえられたキリスト教の宣教師の取り調べに当たった際、彼は学者らしく公平な眼をもって、宣教師の人格や見識には敬意を抱く。しかし、ひとたび宣教師が、神による天地創造やアダムとイブの話をはじめると、その荒唐無稽ぶりにあきれるしかなかった。彼は「賢愚所を変えて、別人の言を聞くが如く」と書き残しています。
 孔子の「怪力乱神を語らず」という言葉にみられる儒教の合理思想によって鍛えられた彼の思考系路は、そうした“奇蹟”の類をまったく受けつけなかったのです。そうした違和感、感触は、おそらく現代でも続いていると思います。とはいえ、近代科学が、キリスト教という一神教の土壌の上にしか生まれなかったということも、厳然たる事実です。
3  非宗教的な立場の科学者の考え方
 サドーヴニチィ 一方、これらの科学者たちとは別の世界観、宗教観を持っている科学者たちがいます。彼等もまた、多大な学術的功績をあげています。
 たとえば、ピエール・ラプラス(1749〜1827)とジェイムス・ワトソン(1928〜)です。この二人は共に画期的な研究成果をもって、基礎科学の発展に未曾有の進歩をもたらしました。それと同時に、彼らは、宗教と科学をまったく対立するものと見ていました。
 ラプラスは、ナポレオンに「あなたの『天体力学』の本には宇宙の創造者について書いてないが」と問われて、「閣下、私には、神は無用の仮定にすぎません」と答えたことで知られています。(『100人の数学者』数学セミナー臨時増刊、日本評論社、参照)
 ワトソンは、地球上にも宇宙空間にも「神聖なるもの」の存在の可能性を一切認めておりません。彼は、フランシス・クリックやモーリス・ウィルキンズらと共に、DNAの二重螺旋構造を明かし、遺伝情報がどのように伝えられるのかという多くの謎を解くための基礎を確立しています。今日、血のつながりがあるかどうかを判断する際の主要な方法が、この遺伝情報を使ったものとなっています。
 こうした科学者たちは、宇宙には客観的な法則が存在しており、科学は、人間がそれらの諸法則を理性的手段で発見していく過程であると考えています。したがって、生物界、無生物世界ともに、ある部分は既に科学によって認識され、またある部分はまだ認識されていないことになりますが、科学が進歩することによって、その認識は徐々に完全に近づいていく、ゆえに、世界は本質的に認識可能である、とするのが彼らの考えです。このような非宗教的立場をとる大多数の現代の科学者たちは、創世記をビッグバンと置き換えました。そして、物質は形状の変化を繰り返しつつ、宇宙は永遠に存在し続ける、と考えています。
4  「究極の精神的実在」に肉薄する宗教性
 池田 宗教を無視というか、冷淡な態度をとる学者はいても、よほどイデオロギー色の強い人でもない限り、宗教そのもの(その社会的、制度的側面でなく)を敵視する人は、ひとかどの学識者である限り、稀なのではないでしょうか。それほど科学への志向と同じく、宗教への志向も、人間に本然的なものであるからです。
 アインシュタインは、まさにそのような宗教への志向を体現していた人でした。晩年の彼の言行を追っていると「宇宙的宗教」「宇宙的宗教感情」「宇宙的人間」「宇宙的良心」といった言葉にしばしば出くわします。「神はサイコロを振らない」というのは、この大科学者の不敵な自信、自負を示したものですが、それは、カントが『実践理性批判』の末尾で示したような、大宇宙への畏敬の念、敬虔なる宗教感情を排するものでは決してありませんでした。
 「今や、人類は宗教の第三段階に入りつつある」として、アインシュタインは述べています。「真に宗教的な天才は、つねにこうした宇宙的宗教感覚を身につけており、教義も聖職者も人格化した神も必要でなかったので、異端者とみなされてきたんだ。聖詩や仏教の文献の中には、この宇宙的宗教を暗示しているものがある。異教徒のデモクリトス、カトリックのアッシジの聖フランチェスコ、ユダヤ教徒のスピノザなどもそうだった」(ウィリアム・ヘルマンス『アインシュタイン、神を語る』雑賀紀彦訳、工作社)と。
 また、自然科学の分野ではありませんが、前世紀最大の歴史学者トインビー博士も、アインシュタイン同様、天地を創造したり、人々を裁いたりする人格神に対しては、否定的でしたが、「究極の精神的実在」へと肉薄しようとする人間の宗教性、宗教への志向を、きわめて重視していました。
 サドーヴニチィ よく理解できます。宗教は人間が人間であることの本質部分に深く関わっているからです。

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