Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

3 基礎科学は倫理観の覚醒を促す  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

前後
1  「脱」の次に何が来るのか
 池田 「日ロ賢人会議」のメンバーに選出され、おめでとうございます。私がかつて対談した、人類初の女性宇宙飛行士のテレシコワさんもいらっしゃいますね。
 サドーヴニチィ ありがとうございます。ロ日の平和友好のために、自由に意見を交換し、尽力していく決意です。
 それにしてもこの対談は私に大きな啓発を与えてくれました。未来に向かってこのような意見の交換こそ重要と私は思っています。そこで前回に続いて人文科学に関して、もう少し論じたいと思います。それは、ラテン語の単語の「ポスト」という言葉についてです。訳語で「脱」というふうに使われていますが、この単語は、現代の人文科学において、歴史学、社会学はもちろんのこと、分野を問わずに、特別な役目を演じているといえないでしょうか。
 池田 そうですね。日本でも、「脱官僚」「脱近代」「脱貧困」「脱グローバリズム」「脱冷戦期」等々、さまざまに使用されています。
 サドーヴニチィ それに「脱工業化」「脱資本主義」「脱共産主義」など、この単語に込められる意味は、使われ方同様、いろいろなものが混ざっています。多くの人々は、どんな単語でもこの「脱」という接頭語をつけると、その単語が意味していた時代や内容に自動的に終止符が打たれて、新しい何かが歩み出すような錯覚に陥ります。そして、この「脱」を付して区切りをつけるのが、現代の人文科学の圧倒的手法となっています。
 ただ、ここで注意しなければならないと思われるのは、学問が弁証法的に発展してきた過程は、単に従来の定説や常識を打ち破るだけではなかったという点です。それは常に、新しい、いまだ出会ったことのなかった何かの登場を伴わなければなりませんでした。人間社会に新しい世界観をもたらす発見がなされ、それが人間社会の新たな価値体系を形成することなくして、単に「脱」をつけただけで何かが前進すると期待するのは難しいと思われます。
 池田 おっしゃるとおりだと思います。「脱」という言葉が頻繁に飛び交う背景には、現代文明が重大な曲がり角に立たされており、なおかつ「脱」の次に何が来るのか、具体的イメージが共有されていないという現状があります。写真の言葉でいえば(以前にも少々触れましたが)、時代の自画像が“ポジ(陽画)”ではなく“ネガ(陰画)”の段階に止まっている証左でしょう。
2  21世紀こそ「生命の世紀」に
 池田 ここで、一言付言しておけば、私が、前世紀の偉大な科学者ライナス・ポーリング博士(1901〜1994)と対談集(『「生命の世紀」への探求』。本全集第14巻収録)を発刊した際、21世紀を「生命の世紀」にしたいと申し上げたところ、満腔の賛意を表されたことを、懐かしく思い起こします。「生命」についての細かい詮議はおくとして、戦争と革命、血と暴力に覆われた殺伐とした20世紀と訣別し、「生命」の躍動感、瑞々しさを時代精神に、世界精神にとの思いは、私たちに共通のものでした。
 サドーヴニチィ よく理解できます。21世紀の、そしてそれにさらに続く22世紀、23世紀の、科学の未来にとって、最も大きな「限界」「固定観念」となるのは、これまでと違って、人間のモラルと品位に関するものになってくると私も考えています。
 人類の価値観によって設定されるであろうこれらの新しい「倫理的限界」に突き当たる時、科学は、従来のように、純粋に真理の探究という手段だけでその限界を打ち破ることはできなくなります。いかに完璧な研究方法も役には立たないでしょう。言い換えれば、今後の人類文明の行方は、最終的に、どのような「倫理的限界」、もしくは「価値観」を人々が選択するかによって決まってくるともいえます。
 池田 まったく同感です。近代文明は「外的世界」への冒険という点では、多大な成果を収め、比類なき拡大の足跡を残してきました。しかし、そこに一意専心のあまり、「内的世界」への探求が、あまりにおろそかにされてきました。そのアンバランスは、ほとんど行きつくところまで行ってしまったといっても過言ではありません。現代文明の危機の諸相は、必ずといってよいほど、そこに起因しています。
3  「内的世界」への探求が時代の要請
 池田 カール・ユングが「ゼロを一万回足したところで一にすらなりはしない。すべてはひとえに一人一人の人間の出来いかんにかかっている」(松代洋一編訳『現在と未来』平凡社)と述べているように、総長のおっしゃる「人間のモラルと品位」は、科学のみならず、文明総体の方向を決定づけるキー・ワードとなっていくことは間違いありません。
 サドーヴニチィ 人類は、これまでそうしてきたように、今後も相変わらず、資源を大量に消費して発展を遂げ、それによって当面の繁栄を保証するという選択をすることも出来ます。これは、いわば、旧来型の倫理基準です。近代、現代文明を築く上での基本的価値観となっていたものです。
 他方、人類は、人間の欲望に自制の歯止めをかけ、自然と共生し、融和して生きるという、これまでとは別の選択をすることも出来ます。ただし、このような選択は、人間の心の中、池田博士がおっしゃる「内的世界」で為されなければならず、軍事力はもとより政治、経済という「外的世界」からの力をもって為し得るものではありません。
 この点、基礎科学は、人類が文明の選択を迫られるであろう時、基礎科学の発見によって開かれる新たな世界観を人類に提示することにより、人間の自覚、認識に対して大いなる働きかけをすることができると、私は考えます。
 チェスの「キャスリング」という一手をご存じでしょうか。キングを守るために、ルークを使って、一手で二つの駒の場所を交換するという特別な手法です。基礎科学は、いわば「文明のキャスリング」をする使命があると思うのです。つまり、人々の意識のなかで、これまで「安定」と捉えられていた事象が実は「不安定」であることを、また、まだやり直しが利くと思っていた事柄が実は取り返しが利かない、ということを証明し、文明の行方を左右する一種の固定観念が人間の心のなかで転換するように、倫理観の覚醒を促すのです。
 池田 1972年に出された『成長の限界』(大来佐武郎監訳)――ローマ・クラブ「人類の危機」レポートは、まさに、その「キャスリング」効果を及ぼした例といえますね。近代社会は、近代化の先発、後発の違いこそあれ、あるいは資本主義、社会主義の違いこそあれ、おおむね、地球の資源は無限であるということを前提に、経済も無限に右肩上がりの成長を続けていくことができると楽観していました。
 このレポートは、ローマ・クラブという、これまで「成長」を担い、最先端で活躍していた人々によって、「限界」という否定的イメージが提起されただけに、衝撃は世界を走りました。「世界人口、工業化、汚染、食糧生産、および資源の使用の現在の成長率が不変のまま続くならば、来たるべき一〇〇年以内に地球上の成長は限界点に到達するであろう」(大来佐武郎訳、ダイヤモンド社)との一節にはじまる結語は、今から見れば、むしろ控えめとさえいえるものですが、環境汚染の深刻さが取りざたされはじめる前のことでしたので、人々の耳目を驚動させました。
4  「知識」と「知恵」の架橋が急務
 サドーヴニチィ そうでしたね。それは、現代文明のあり方そのものに、否応なく目を向けさせました。
 たとえば、大自然に比べれば、一人の人間の行為は、弱く、取るにたりないが、創造的で美しい。しかし、反面、人間はどんな巨大な動物にも出来ない大規模な活動をし、地球の地質構造に作用するほど自然を侵食し、それによって多くの生物が生息する環境を破壊しています。当面の繁栄を維持するためには、誰しもが目を向けたくない事実ですが、この危険で猛威を振るう人間文明の素顔を、基礎科学は、冷静にクローズアップし、科学の目を通して人々を納得に導くことができるはずです。
 そこで重要な鍵を握るのは、基礎科学に携わる学者、研究者の研究姿勢と哲学になってきます。
 池田 そこにこそ、私たちが語り合ってきた「知識」と「知恵」との架橋作業が急務となってくるゆえんがあります。焦眉の急を告げている時代的要請といえましょう。
 サドーヴニチィ ええ。次世代、そしてそれ以降の科学者たちが今とどのように変わっていくか、いかなる資質を持つようになるのか、それによって、学術界の展望が見えてくるといっても過言ではないでしょう。
 おそらく将来も、学問は多くの努力を要する労働であり続けるでしょう。たとえ、研究室などの整備がより快適なものになっていくとしても、研究そのものが科学者に要求するものは変わりません。科学者は、相変わらず張り詰めた、複雑な作業を根気強く続けるべく、彼の頭脳と心の全てを傾けなければなりません。
 私は、期待を込めてこう申し上げたい。未来の科学者たちは、これまでの学者のような傲慢を捨てなければなりません。科学を万能として譲らない教条性から自由になって欲しいと願うものです。あらゆる問題を解決する唯一の手段は科学であるといってはばからない従来の科学者の姿勢を改めることが必要です。未来の科学者たちは、私たち以上に、そのことを自覚すべきでしょう。学問は人間に希望を与えることもできるが、方向を間違えば、人間を傷つけ、落胆させることもあり得るのだとの、強い自覚と責任感に立つべきだと思うのです。
 池田 重要な未来へのメッセージです。
 核兵器の脅威を眼前にして、全世界の人々の良心に訴えた「ラッセル・アインシュタイン宣言」が謳い上げている高貴なヒューマニズムは、とりわけすべての科学者が共有する精神的規範として、改めてスポットが当てられなければならないと思います。
 「私たちは、人類として、人類に向かって訴える――あなたがたの人間性を心にとどめ、そして、その他のことを忘れよ」(久野収編『核の傘に覆われた世界〈現代人の思想19〉』平凡社)と。
 グローバリゼーションがここまで進み、もはや後戻りすることが許されぬ以上、こうした普遍的ヒューマニズム、あるいは宇宙的ヒューマニズムをバック・ボーンにした真の世界市民を養成していかなければならない。この「宣言」には、私が何回も語らいの場をもったJ・ロートブラット博士やライナス・ポーリング博士も名を連ねておられますので、両博士の温厚かつ不屈のお人柄と重なって、なおのこと、親密さを感じてなりません。
5  50年先の未来への深い責任感
 サドーヴニチィ 時代を先取りした、先駆的な「宣言」と私も思います。
 ですから、高等教育機関に課せられた役割はあまりにも大きいといわざるをえません。未来の学問、科学を創る学者、研究者を育てるのは、他でもない高等教育機関だからです。そして、古今を問わずいつの時代もそうであったように、高等教育の中核を為してきたのは、常に「大学」でした。
 今後50年の学問を背負って立つのは誰か。50年というのは、およそ2世代の学者、研究者が活躍する期間といえます。したがって、少なくとも2025年、もしくは2030年ぐらいまでの学術界の中核となって活躍するのは、現在大学を巣立っていく学生たちということになるわけです。そして、今後5年から10年間に大学に入学してくるであろう学生たちが、21世紀の中盤の学問を支えることになります。
 ゆえに、今、目の前に座っている学生たちの姿、彼らがいかなる教養を身につけて母校を巣立つか、その姿がそのまま、人類の未来を凝縮させているといっても過言ではないのです。
 その意味から、私は、人類の現在と未来の問題を考える時、問題解決の最終的鍵は、どこか遠くにあるのではない、モスクワ大学が如何なる教育を進めるか、いかなる人材を育てるかにあるのだ、との自覚を新たにせざるをえません。
 池田 優れた学者であり、卓越した教育者であられるモスクワ大学総長の、未来への深い責任感、そして学生に対する思い、愛情、期待が熱く伝わってくる言葉です。そうした総長の自覚、気概がキャンパスに張りつめている限り、モスクワ大学は健在であり、学生たちは幸せであると思います。
 前章で語り合ったように、残念ながら日本の大学では、これまでともすると“研究”に重点が置かれてきたように感じられます。大学教授としての評価も、学問的業績の方が主であって、教育者としての側面は、あまり評価の対象とされてこなかったようです。
 しかし、最近は、それをよしとしていることのできない諸事情が顕在してきているようです。
 私は、大学教育の在り方を、根本から見直す時が来ていると思います。
 総長が実践しておられるように、大学の主役はあくまで学生であるということを、私は、創価大学の創立者として、教師の方々に、繰り返し繰り返し訴えてきました。教師たるもの、自己の研鑚を怠ったり、自らの出世、栄転のための手段として学生を考えたりするとすれば、あまりに学生がかわいそうです。それでは、大学そのものの衰退を招いてしまいます。
 サドーヴニチィ 幾度となく創価大学にお伺いし、教職員の方々ともお会いし、創立者のそうした精神が、重く受けとめられていることを、私も、ひしひしと感じています。

1
1