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日蓮大聖人・池田大作

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2 文明を変貌させるエネルギー問題  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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5  「人間のための科学」に向けて
 池田 現状のグローバリズムやリベラリズムを、手放しで礼賛することなどとうていできないことは、私たちが種々語り合ってきたところです。
 また、フクヤマ氏の著作『歴史の終わり』にしても、「歴史の終わり」というよりも、ヘーゲル=コジューブ流の「歴史観の完結」というべきものであることは、一読して明らかなことです。それは、フクヤマ氏のその後の「人文科学」的アプローチが『TRUST(信頼)』(邦題『「信」なくば立たず』加藤寛訳、中央公論社)、『THE GREAT DISRUPTION』(邦題『「大崩壊」の時代』鈴木主税訳、早川書房)と続けられていることからも明らかでしょう。
 カール・ポパーに関していえば、彼の提起した「漸次的社会技術」という方法論には、一定の評価を与えるべきだと思います。その「漸次的社会技術」を「全体的あるいはユートピア的社会技術」と対置して、彼は、「歴史主義の貧困社会科学の方法と実践」(久野収・市井三郎訳)のなかでこう述べています。
 「漸次的技術者に特徴的な接近法は、次の点にある。すなわち彼は、『全体としての』社会に関するなんらかの理想――おそらくその一般的福祉といったこと――をいだいているかも知れないのだが、(=全体的、ユートピア的技術者と違って)全体としての社会を設計し直す方法があるとは信じない。自分の目的が何であれ、彼はそれを小さいさまざまな調整や再調整――つねに改善してゆくことが可能な調整――によって、達成しようと努めるのである」(久野収・市井三郎訳、中央公論社)と。
 20世紀社会主義の壮大な実験、その興亡が“溶けたユートピア”と評される今日の状況を考えれば、決して「歴史の終わり」ではないにしても、ギリシャ神話に登場する史神クリオなら、「漸次的社会技術」と「全体的あるいはユートピア的社会技術」のどちらに軍配をあげているかは、自ずと明らかでしょう。
 サドーヴニチィ その点は、理解できます。
 先に述べましたように、科学は常に永遠と信じられている結論を打ち破り、固定観念を脱皮することを半ば運命づけられて発展してきたのですから、私は「歴史の終わり」を宣言するテーゼもまた、その他多くの科学の結論と同様の運命を辿ることを確信しています。
 池田 その点は、ポパーも、おそらく首肯すると思います。彼は「漸次的技術者は、ソクラテスのように、自分の知ることがいかに少ないかを知っている」(前掲『歴史主義の貧困』)と述べているのですから。
 ともあれ、総長が指摘されるように、自然科学であれ、人文科学であれ、その未来の発展を予測することは難しい。ここにも、「人間のための科学」へと正しく方向づけていく精神の力が要請される所以があるといえましょう。

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