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日蓮大聖人・池田大作

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2 文明を変貌させるエネルギー問題  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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2  「虚構の仮説を構えることなかれ」
 サドーヴニチィ 権力を行使する立場に立つ人間は、深い学識を有しているべきである、という考え方があります。私は、必ずしもそうは思いません。為政者イコール学者である必要はないと思っています。しかし、ロシアの歴史を紐解いてみると、ロシアが衰退し、損失をこうむった時代は、科学・学問とは無縁の人間が権力の中枢にあった時と符合しているということはいえます。
 池田 たしかに必ずしも学者である必要はないでしょうが、権力を行使する者は、普通の市民以上の見識と自制力がなければならないでしょう。ナチス・ドイツなどは、その見識や自制心がまったく欠落したグロテスクな症例です。彼らが優生学上の知識を駆使してどれほど残忍非道なことをしていたか――まさに悪魔的所業といわざるをえません。
 また、核兵器の巨大な破壊力を知悉していたアインシュタインが、にもかかわらずルーズベルト大統領に“マンハッタン計画”を急ぐよう促す書簡を送るという悲劇的選択を余儀なくされたのも、いつに、ナチス・ドイツに先を越されてはならない、という危機感にあった。権力の在り方は重要です。
 サドーヴニチィ いずれにせよ、遠い将来の学問の姿については、「虚構の仮説を構えることなかれ」と自身を戒めていたニュートンに倣って、言を控えたいと思います。
 このニュートンの戒めを、私は、情報化社会の未来を予測するための議論が行われる際に常に思い起こすのです。
 コンピューター技術が開発され、コンピューターが人々の生活に広く導入されることで、人間の生活様式や科学の研究方法は様変わりすることでしょう。ただ、社会が高度に情報化したからといって、私たちの文明が本質において変わってしまうとは、私には考えにくいのです。
3  近い将来、主要な燃料源は水素に
 池田 ほかにもっと大きな問題がある。
 サドーヴニチィ ええ。それは、エネルギー問題です。
 これから少なくとも50〜70年先ぐらいまでは、人類は、石油、ガス、石炭等の天然資源を主要な燃料として、エネルギーを確保していくことになります。これは、人間の移動手段が内燃機関に厳しく限定されることを意味します。つまり、自動車や飛行機、船舶などのエンジンをたとえどんなに優れたコンピューターが制御するようになったとしても、エンジンがガソリン類で動いていることには変わりがないのです。その意味で、情報化、コンピューター化は、文明に根本的変化をもたらすものとはいえません。
 池田 当分は、石油を中心にした化石燃料に依存していく以外にないのでしょうね。だが、そうはいっても、その埋蔵量には限界があり(諸説ありますが)、いずれは底をつくようになる。当然、代替エネルギーの開発をめざさなければならないわけです。今のところ、単独でそれらに取って替わることのできる有力なエネルギー源は見つからないようです。
 太陽熱や風力などにしても、補助的役割以上のことは当面期待しにくいし、自然現象に左右されやすい。原子力エネルギーは、何といっても廃棄物処理という深刻な問題を避けて通れません。
 サドーヴニチィ その通りです。
 文明がその本質において変貌を余儀なくされるのは、未来の燃料と新しいエネルギーが登場する時だと考えられます。
 近い将来、石油、ガス、石炭という炭化水素資源に代替できる可能性を秘めているのは水素と外燃機関であろうと学者たちは考えています。将来のいつの時点かで、空気汚染がのっぴきならない状況になり、クリーンな環境を確保するためにあらゆる方策を採らざるを得ない状況に立ち至った時、水素燃料がいかに高価なものであっても、またその取り扱いが危険を伴うことを承知していても、人類は否応なく「水素文明」なるものを発達させるのでしょう。ただし、そのような時代は、たとえ訪れるとしても、まだまだずっと遠い将来の話です。ましてや、反物質を燃料として使用するというようなエネルギープロジェクトが何らかの現実味を帯びるのは、かなり遠い未来のことになります。
 このように考えてきますと、21世紀の人類が歩むもっとも現実的なシナリオは、おそらく資源獲得競争に集約されていくのではないでしょうか。
4  「歴史の終わり」のテーゼを意味するもの
 池田 前にも少し触れましたが、私は、2002年に報じられた水をめぐるシンガポールとマレーシアの角逐を思い起こします。川や湖などの水資源の少ないシンガポールでは、生活用水や工業用水の約半分を隣接するマレーシアに依存し、パイプラインを通して供給を受けている。もちろん有料です。ところがその料金を更新するに当たって、2007年までに現行の20倍、2011年以降は100倍に引き上げる意向が、マレーシア側から示され、シンガポール側の顰蹙をかっています。
 シンガポールとしては、国民の命に直結するものだけに、ことを穏便にすませたいようですが、それにしても100倍は乱暴すぎると、反発を強め、大型の海水淡水化プラント計画を真剣に検討しはじめているようです。
 いずれにしても、資源獲得競争が、戦争にまで立ち至らないような、グローバルな危機管理システムを立ち上げていかなければならないでしょう。
 サドーヴニチィ 対応を急ぐべきです。
 実は、私自身、数学者の立場から複雑系の研究に携わってきましたので、もう一言つけ加えさせていただきます。
 あらゆる予測は、多かれ少なかれ、必ず何らかの演算と、何らかの数学的モデルを基礎にして作られます。
 今日、予測数学理論は充分な独自の理論を持っていないばかりか、実践面から考えて特に重要と思われる応用分野を充分には把握していません。ですから、何に関する予測であったとしても、そのような理論の不充分さが予測の信頼性に影響せずにはおきませんし、またひとつの予測が出されても、すぐにまた別の予測が成り立ってしまい、息の短いものに終わってしまうという結果を生んでいるのです。
 池田 いわゆる“バタフライ効果”――気象学者エドワード・ローレンツが講演で「ブラジルで一匹の”蝶”が羽ばたくとテキサスで大竜巻が起こる」と述べたことを由来とする説――など、予測の困難さを象徴的に示していますね。
 サドーヴニチィ ええ。さらにいえば、こと人文科学に至っては、未来予測の信頼性は自然科学にもまして薄くなってしまいます。
 現在、人文科学が置かれている状況は、そのことを裏づけているかのようです。
 現代の人文科学は、「グローバリズム」を“動かせない定理”と扱って、「歴史の終わり」というテーゼをもてはやしています。リベラリズムが最終的にまた不可逆的に世界中で勝利したというテーゼですが、これが人文科学の学者たち、政治家たちの考え方、行動に多大な影響を与えていることは否めません。
 「開かれた社会」という理念を提唱したカール・ポパーは、自由化の波に乗り遅れた国々に対して、「日本かドイツの政策モデルをそのまま借りて、自国に当てはめる」ことを推奨しています。
 科学的知見からすれば、このテーゼは、「歴史の終わり」を告げると同時に、いやそれ以上に、「人文科学の終わり」を告げているといえます。なぜかといいますと、「歴史が終焉した」ということは、これ以上、人文科学が研究しなければならない問題も分野も残されていないことを意味するからです。
 これからの一千年の未来においても、また今日にあっても、既にすべてが既知のものとなっていて、すべては発見、発明され終わってしまっている。残されたのは、実践と応用だけとなるのです。
5  「人間のための科学」に向けて
 池田 現状のグローバリズムやリベラリズムを、手放しで礼賛することなどとうていできないことは、私たちが種々語り合ってきたところです。
 また、フクヤマ氏の著作『歴史の終わり』にしても、「歴史の終わり」というよりも、ヘーゲル=コジューブ流の「歴史観の完結」というべきものであることは、一読して明らかなことです。それは、フクヤマ氏のその後の「人文科学」的アプローチが『TRUST(信頼)』(邦題『「信」なくば立たず』加藤寛訳、中央公論社)、『THE GREAT DISRUPTION』(邦題『「大崩壊」の時代』鈴木主税訳、早川書房)と続けられていることからも明らかでしょう。
 カール・ポパーに関していえば、彼の提起した「漸次的社会技術」という方法論には、一定の評価を与えるべきだと思います。その「漸次的社会技術」を「全体的あるいはユートピア的社会技術」と対置して、彼は、「歴史主義の貧困社会科学の方法と実践」(久野収・市井三郎訳)のなかでこう述べています。
 「漸次的技術者に特徴的な接近法は、次の点にある。すなわち彼は、『全体としての』社会に関するなんらかの理想――おそらくその一般的福祉といったこと――をいだいているかも知れないのだが、(=全体的、ユートピア的技術者と違って)全体としての社会を設計し直す方法があるとは信じない。自分の目的が何であれ、彼はそれを小さいさまざまな調整や再調整――つねに改善してゆくことが可能な調整――によって、達成しようと努めるのである」(久野収・市井三郎訳、中央公論社)と。
 20世紀社会主義の壮大な実験、その興亡が“溶けたユートピア”と評される今日の状況を考えれば、決して「歴史の終わり」ではないにしても、ギリシャ神話に登場する史神クリオなら、「漸次的社会技術」と「全体的あるいはユートピア的社会技術」のどちらに軍配をあげているかは、自ずと明らかでしょう。
 サドーヴニチィ その点は、理解できます。
 先に述べましたように、科学は常に永遠と信じられている結論を打ち破り、固定観念を脱皮することを半ば運命づけられて発展してきたのですから、私は「歴史の終わり」を宣言するテーゼもまた、その他多くの科学の結論と同様の運命を辿ることを確信しています。
 池田 その点は、ポパーも、おそらく首肯すると思います。彼は「漸次的技術者は、ソクラテスのように、自分の知ることがいかに少ないかを知っている」(前掲『歴史主義の貧困』)と述べているのですから。
 ともあれ、総長が指摘されるように、自然科学であれ、人文科学であれ、その未来の発展を予測することは難しい。ここにも、「人間のための科学」へと正しく方向づけていく精神の力が要請される所以があるといえましょう。

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