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日蓮大聖人・池田大作

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所感 大学――直面する試練 V・A・サドーヴニチィ

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

前後
2  まず「大学と国家」の問題です。どの国でも、大学やその他の教育機関は、経済的、法的に弱い立場であり、最も裕福な国々でさえ、その例外ではありません。
 次に「大学と社会」の問題です。大学をはじめ教育機関はいずれも、社会から寄せられる期待と、現実にできることとのギャップにつねに悩んでいます。
 三つ目は、「大学と人間」の問題です。大学をはじめとするあらゆる教育機関で、学生が入学して卒業するまでの間に、教育につぎ込まれた資本や労力に見合うだけの効果がでていない、という問題があります。
 ソクラテス、プラトン、アリストテレスの時代より変わらぬ「国家――社会――人間」というトライアングルのなかで、大学は人類文明発展の最大の担い手という役割をつねに与えられてきました。
 今あげた大学の「永遠の問題」を、おおざっぽに分析してみるだけでも、かなりの時間を費やさなければなりません。したがって、ここではテーマを「大学と社会」にしぼって簡単に論じることにしたいと思います。この六年から十年の世界の社会・経済・政治的な体制移行にともなう変化を見るにつけ、また人類の頭上に覆いかぶさるグローバルな脅威(人口、環境、食料、エネルギー問題等)の顕在化を見るにつけ、「大学と社会」の問題は最も重要なものとなっています。
3  大学に危機
 ここで、いわゆる「大学の危機」について触れておきたいと思います。六〇年代初めから、「教育の危機」または「大学の危機」ということがさかんにいわれるようになりました。それは「教育に対する社会の信頼喪失(ひいては学問や知識全体に対する信頼喪失)」を根拠としていわれているものです。
 私は、このような見方は正しくないと思います。「教育が社会の信頼を失った」という意味での「大学の危機」などはないことを、はっきりと示す例が数多くあります。
 仕事上の昇進・出世はどういうレベルの教育を受けたかで決まる、という考え方は、事実上、世界のどこでも定着しています。これは社会が教育を信頼している証拠でこそあれ、その逆ではないと思います。
 二十世紀が終わりに近づくにつれ、多くの国では、教育を受ければ即、経済的な安定が約束される、という単純な見方をしなくなりました。今日、国際社会での国のランク付けも、国民の知的レベルが基準になってきています。
 そのほか、ほとんど世界を席巻する勢いで、新しい情報テクノロジーを利用した教育方法が普及してきており、おかげで、だれでも教育を受けられる機会が生まれてきています。これも社会が教育を信頼している証拠ではないでしょうか。
 もっとも私は「大学の危機」という問題そのものを認めていないわけではありません。とくにロシア国内の高等教育部門をめぐる状況を見るにつけ、私はやはり危機を感ずるのです。高度な教育制度と基礎科学研究を誇る世界の国の大半が同じような状況にあるのですから、なおさらです。
 では、なぜ、あたかも教育が社会の信頼を失って「危機」状態であるかのようにいわれるのでしょうか。それは、教育全体が「商業化」(社会主義時代に無償であった教育が一部有料になりつつあることをさす)されつつあることに社会が懸念を抱いており、結果的に、教育の文化的・社会的比重が、どんどん低くなりつつあるためだと、私は考えています。
 大学をはじめとする教育全般の商業化が進むと、社会はごく実用的・功利的な知識だけを教育に求めるようになります。そうなると、どんなに偉大な学問的発見であっても、また芸術作品でも、具体的な利益をもたらさないものは評価されないことになります。正常な人間社会では、このようなことは本来、まかり通らないはずです。しかし、経済面や他の面からの圧力が働き、どうしても利益中心とならざるをえなくなるのです。このような傾向は、大学をはじめとする教育にとって、十分に危機的といえるのではないでしょうか。
4  その他、危機の一つとして、あまりまだ注目されていないものがあります。それは、いわゆる「冷戦」後に、「知的資源」の配分という観点から、世界地図が急速にぬりかえられつつあるということです。
 「知的資源」世界分布図の変化は、三つの次元で起こっています。第一に、国別に見た知的資源の分布が変わりつつあります。第二は、分野別に見た――自然科学・人文科学・学問以外の知識といった立て分けでみた、知的資源の再編です。第三は、教育・学術・文化機関などの知的部門と、実業・生産といった非知的部門間の再編です。
 それらはすべて、教育システム、なかんずく大学に対して、必然的に、善悪さまざまな影響を与えています。今のところ、大学は、どんどん進む知的世界の再編から、良い影響よりもむしろ悪い影響を多く受けています。
 しかし大学は、社会や国家、人間からの挑戦を受けて立つだけの力を十分もっていると私は確信しています。その証拠に、大学は発祥以来すでに千年以上たった今も健在ですが、一方、大学以外の無数の学術・教養、文化関係の組織は、設立されたかと思えば、いつのまにか消えてしまい、あとかたさえも残らない場合もあります。モスクワ大学は二百五十年になんなんとする歴史をもっており、ロシアという国が大きく変わっても、大学は厳然と変わらぬ姿を保っています。
 では、このような大学の活力、生命力はどこからきているのでしょうか。歴史から見ると、それは「伝統」と「革新」のバランスを図り、平衡感覚を保っていく力にあるといえそうです。そして、これこそが、二十一世紀の大学の発展を支える源泉であると私は考えています。
 また、その他の可能性もあります。十九世紀・二十世紀の地球上で、人類が社会建設に用いてきた方法がすでに限界に来ているということは、思慮深い多くの人々がはっきりと認識しているところです。
 いまや岩石圏・生物圏・人智圏の、いずれの側面においても、人類が自分自身と環境を根本的に見直すよう求められています。つまり、パラダイムの転換が要求されているわけですが、それを最もはっきりかつ科学的根拠をもって表現したものが、今日広く普及した社会の「持続可能な発展」( sustainable development )モデルという考え方です。この「持続可能な発展」とは、学術の世界では「未来世代の生存権を奪うことなく現世代の生存権が確保できるような前進運動のモデル」のことであるといわれています。
5  「持続可能な発展」――それ以外に人類がとるべき選択は、おそらくないでしょう――のもとでは、大学は、社会のなかで、過去の秩序が崩れて新しい秩序ができていくための牽引力となるべき使命をもっていると思います。自然界でいう誘引物質のような役割です。
 こうしてみてきますと、大学はどこの社会でも、どんな時であっても、革命のような激動期にあっても、つねに崩壊と荒廃をもたらし歴史を否定しようとする力に対抗してきたといえます。と同時に、大学こそが「麦とドクムギ」をふるい分けるふるいのように、現実世界のなかで真に新しいものを守り、社会をリードしつつ、えせ学問と権力の圧迫を許さぬ堅固な盾となりうる機構ではないでしょうか。
 大学は、それぞれの持てる力と、内外にわたる自身の影響力に応じて、このような社会的役割を果たしています。しかし、それで社会の問題が根本的に解決されるわけではありません。モスクワ大学を卒業した偉大な外科学の父、ニコライ・イワーノビッチ・ピロゴフ(1810〜1880年)は「大学は、その時代の社会を最もはっきり映す鏡である」と強調しています。つまり、大学は「社会の最大のバロメーター」であり、「そのバロメーターが好ましくない世相を映し出したといって、バロメーターを壊したり、隠したりしてはならない。何よりも、それをまっすぐに見つめ、見つめながら時にかなった行動をとっていくこと」が大事であるといっています。
6  安全保障と教育問題
 池田博士は、師匠である牧口先生の人生を振り返りながら、日本での教育の在り方が時代によって異なっており、軍事力増強のための教育であったり、経済のための教育であったりした時代があり、その後、文化的変革が起きたことについて語られました。それは私もよく理解できるところです。大学と社会の関係について、私の考えをよりわかりやすくお伝えするために、ロシア安全保障会議で私が述べたことを紹介させていただきたいと思います。大要、次のようなことを話しました。
 国の安全保障と教育問題は、切り離すことのできない問題です。教育が多くの人々に関係していることからも、そのようにいえると思います。ロシアには青年が三千四百万人、その親が五千四百万人、教員が六百万人近くいます。教育には、国家の安全保障や国益を左右するような要素があり、目に見えるかどうかはともかく、へたをすると逆に脅威を生み出してしまいかねません。そのような危険性が現実のものとなってしまう可能性は十分にあります。しかしロシアでは、国がそれを口にするのははばかられると思っているのです。他の国では公然といわれていることなのですが。
 アメリカの国家教育委員会による慰耕報告は「危険にさらされる国民――教育改革の必要性」との題で、次のように述べています。
 「国民は危険にさらされている。なぜなら、現在のアメリカ社会の教育は、レベル低下の一途をたどっており、国民と国全体の将来を危うくしている……もしも敵国が今わが国にあるような低レベルの教育制度をアメリカに押しつけようとしたなら、それはわれわれに対する戦闘行為に等しいと考えたに違いない……」
 クリントン大統領の二期目の政策が発表された際にも、同じようなトーンで教育制度への全面的な支援が最重要課題として取り上げられていました。それは、世界の超大国としてますます地歩を固める国の為政者として、当然の考え方でありましょう。
7  世界の教育事情に関してユネスコが発表した一九九三年度報告には、次のように強調されています。
 「90年代に生まれた新しい世界の方向性をみたとき、発展を支える資源として浮かび上がってくるのは、つまるところ知識、独創性、想像力、そして善意である。それなくして持続的進歩も人権尊重も基本的自由もありえない。そのような資質を育むうえで決定的な役割を担うのは、教育である」
 私が、国家安全保障会議での報告を「ロシアの国家安全保障ファクターとしての教育」と題したのも、このような考えからだったのです。この報告のなかで、私は、国の状況と教育制度に関する自分なりの評価・見解を率直に述べ、教育界、とくに現代ロシアの教育界にある、あるいはこれから起こりうる具体的な危険性を挙げ、「教育における国の安全保障」という意味を明らかにしようと努めたつもりです。
 国家にとっての危険性というのは、国の経済が発展して豊かになれば教育も豊かになる、という明らかに間違った国政の基本路線が生んでいるものです。これは、意図的な本末転倒です。豊かな教育こそが豊かなロシアを作る、というのが本来あるべき方向性でありましょう。世界の歴史を振り返っても、教育や学問・文化が衰退しているのに、国が栄えた例はありません。豊かになっているのは、教育制度をエサにして巨額の富を築いているごく一部の人々だけです。これがロシアの現実なのです。
8  さらに危険性についていえば、それは教育が不自然に細分化されてしまい、本来もつ教育の意味が、こじつけた机上の理論にすりかえられてしまっていることがあります。「教育」という言葉は、ロシアではもともと総合的な意味でとらえられており、学校制度と、専門家育成のもとになる基礎科学、そして多民族国家の精神的鮮を支える人文科学・文化が一体となったものであり、私もこのような意味で「教育」という言葉を使っています。
 ロシアほど、こういった要素が自然に結びついてきた国は他にはないのではないかと思います。そこに、ロシア社会の特殊な歴史的背景があるのです。したがって、このような伝統的に調和のとれたロシアの教育を、学校は学校、研究は研究、文化は文化、というふうにばらばらにしてしまい、別々のものとしてみていくような政策がとられてしまうと、まさに悲劇となってしまいます。
 さらに、教育の内容が行政的な意図に左右されるという状況も危険です。小・中学校や大学の教科書などをみても、歴史や自然科学で明らかな間違いが数多く見られるだけでなく、公民教育や道徳、人間社会の規範を教えるうえでの基本的な方向性にも誤りが見られます。
 また、「教師」の権威が失墜し続け、社会的な重みがなくなりつつあるという現状も、危険な傾向性の一つです。昨今、「『頭脳流出』を恐れるな」ということがさかんに言われています。しかし、最低限の人数だけは人材を確保しておかないと、研究機関や大学は麻痺状態になり、再起不能に陥ってしまうということが忘れられています。ロシアでは、学問は経済的に採算がとれないといけない、採算がとれて初めて学者や教授も十分な報酬を手にできるのだ、などとよく言われます。しかし二十世紀初頭、モスクワ大学の教授であったN・スペランスキー(1873年〜1969年)は次のように書いています。
 「偉大なる進歩の源である学問それ自体は、採算のとれるものではない。学問を応用する者には富がもたらされるが、その基礎を作った者にはもたらされない。ニュートンやライブニッツが微分法を発見しでも、なんの経済的利益も得ていない。化学の基礎を作り上げた人々も、彼らの発見のおかげで産業が生んだ巨万の富からは、なんの見返りも受け取っていない。しかし、だからといって彼らを哀れむことはないだろう。彼らには栄誉が残ったのだから。いずれにせよ、それは仕方のないことである。しかし、社会は、このような歴史的な不公平から利益を得てきたのだから、その是正に乗り出すべきだろう。わかりにくい表現になってしまったかもしれない。言い換えれば、あとになって利益をもたらしてくれるものに、社会は先行投資をすべきである」
9  たしかに、教師や学者の価値は、むろん経済的な側面だけで計れるものではありませんが、それでも国家が決めた教員の報酬額をみれば、国が教育をどう考えているかをかなり推し測ることができます。B・スピノザの有名な言葉をご存じでしょうか。「パウロがぺトロについて語るとき、ぺトロについてというより、むしろパウロについて多くを語っているのである(国は教師や学者の価値を決めているようでいて、その実、自分たちの価値観を露呈しているにすぎない)
 「教師」についていうならば、これは教育の根本的問題であり、なかんずく教育の質に関わる問題です。大学で私たちはどうやって学生の学力を評価しているでしょうか。普通は、教師の質問に学生がどれくらい答えられるかを基準としています。学生がより多くの知識と実技能力を発揮すれば、それだけ学力が高いとされます。しかし、教授や教員のほうでも本質的な深い質問をするためには、自分自身が専門分野の最先端にいなければなりません。しかし、さまざまな事情がそれを許さないとしたらどうでしようか。教授自身の能力が衰えたというのではなく、しかるべき文献が手に入らなかったり、研究に必要な設備がない、さらに生活に追われて、研究や教育に没頭できる余裕がないとしたらどうでしょう。そのような教授に、いったいどんな質問ができ、何を学生に求めることができるでしょうか。この問題については、これ以上、詳しく説明する必要もないだろうと思います。
10  現代における教育の役割について、国際社会では、すでにかなり前からコンセンサスができています。一九八八年に行われたノーベル賞受賞者会議「二十一世紀を前にして――危険性と展望」の総括文は次のように明記しています。
 「学問的知識は、一つの権力形態である。したがって、個人も各民族も平等に手にする機会をもっていなければならない。
 多くの国でみられる政治家と学者の断絶を克服することが不可欠である。そのためには政治と学問が社会で果たしているそれぞれの役割を相互に認識しなければならない。
 教育はどの国の国家予算でも絶対的に優先され、あらゆる分野の創造的活動を促進するものでなければならない」
 このような観点は、二十一世紀になっても意義を失うどころか、むしろ新世紀の教育発展の根幹をなすものだと私は考えています。

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