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日蓮大聖人・池田大作

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3 グローバル化をめぐって  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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5  頭脳流出と教育資金の問題
 サドーヴニチィ ええ。ところで、教育の国際的交流が本格的にグローバルな展開がなされるか否かは、学生の流動性が高まった場合に起きる大量頭脳流出という現象に、いかに歯止めをかけることができるかにかかってくるのではないでしょうか。
 頭脳流出に対しては、今後ますます各国が神経質になる可能性がありますが、問題の本質をよく投影しているひとつのエピソードをお話しします。
 熱力学の第三世代を開いたドイツの物理・化学者、ワルター・エルネスト(1864―1941)の逸話として語り継がれているものです。
 エルネストは鯉の養殖を趣味にしていました。あるとき、知人がそれをみて「先生、物好きですね。鯉を増やして何にするんですか。どうせなら、まだ鶏でも繁殖させた方が実益がありそうなものですのに」と、学者の無益な趣味を皮肉りました。学者先生は、真顔で答えました。「いや、君、知っているかね、鯉は熱力学的に環境になんの影響も与えないんだ。ところが、鶏は熱を発するだろう。だから、鶏を繁殖させるということは、私のお金で世界を暖房してあげるようなものなんだよ。分かるかね」
 池田 なるほど。鯉は池の中から逃げ出さないから“熱力学的”に何ら問題はない、つまり損失にはならない。けれども、鶏は地上を自由に駆けまわって熱を発散するから、そのエネルギーの恩恵を独り占めしているわけにはいかない、“うっかりしていると、とんび(他国)に油揚げをさらわれかねない”という譬えですね。
 サドーヴニチィ ええ。同様のことが頭脳流出にも当てはまるのです。学生を外国に留学させる大きなプログラムは、政府、または公的な機関の資金援助なしには本格化しません。
 私的な基金も種々ありますが、規模的に限界があり、グローバルな学生交流を担う主流とはなり得ないでしょう。国家が予算を費やして自国の優秀な学生たちを諸外国に留学させ、高度な教育を与えたあかつきに、もしも彼らがそのまま、他国に留まり他国のために働くことになるとしたら、送り出した国はせっかく教育資金を使って育てた人材を取られてしまう結果となります。
 それでも一向にかまわないと言って、国家予算をグローバルな教育交流に使いつづけるような奇特な国があるかどうか、はなはだ疑問だと思うのです。
 池田 おっしゃる通り、高度な研究を続けていくためには、当然それなりの資金が必要となります。
 もし「市場原理」や「競争原理」のおもむくままにまかせておけば、優秀な研究者が、潤沢な資金のあるところに吸い寄せられていくことは、理の当然です。いくら母校愛や祖国愛を説いたところで、文字通り“背に腹はかえられぬ”からです。
 サドーヴニチィ そうなのです。
 池田 日本やヨーロッパの大学人から、“桁外れの自己資金を運用しながら、なおかつ国家からの巨額の投資を受けているアメリカの有名私立大学には、とうてい太刀打ちできない”といった悲鳴じみた訴えも、しばしば耳にするところです。こうした点でも「市場原理」や「競争原理」に対する何らかのセーフティー・ネットを設けておかねば、せっかくの学生交流も社会ダーウィニズムの餌食になってしまいます。
 サドーヴニチィ ところで、学術交流は、さまざまな国際会議、セミナー、共同研究、在外研究等を通じて行われます。そのような交流の場で学者たちは、自国の知性を代表する立場とコスモポリタン的性格の両面を、複雑に交差させているように思われます。
 学問は、特に基礎科学は、普遍的真理を探究するという意味で、本質的にユニバーサルなものです。ですから、純粋に学術的なテーマで学者たちが集まる場においては、彼らは最も世界市民的精神に満ちているといえるでしょう。
 それと同時に、応用科学の分野では、学問は、フランシス・ベーコンが「知は力なり」と言いましたが、現代社会にあって、学術的知識は力であるばかりでなく、商品でもあります。多くの知識が特許権で保護されている理由もそこにあります。学問は当然、産業、経済へ応用されるべきなのですが、皮肉なことに、応用が進めば進むほど、学問的知識は商品化し、ユニバーサルな、インターナショナルな性格を必然的に失っていきます。
 池田 グローバル化が時代の流れといっても、一筋縄ではいかないということが、総長の現場感覚からのご指摘でよくわかりました。
6  「科学の知」と「市民の知」の融合
 サドーヴニチィ 学者、研究者もまた、いつも純粋に学問の真理のみを語り合っているわけではありません。学術会議の場でさえ、現実的、実務的問題に関心が集中することもあるのです。さらに、各国にあっては、学識経験者は、政府の各種政策に対して専門的立場から鋭い意見を述べ、提案、諮問する、かなりの影響力を持つ活発な市民だと言うことができます。政府の掲げる政策が環境、人間に有害な場合、それを証明し、真っ向から政府に反対意見を述べることができるのも学者たちです。そのような事例は数々あります。
 マンハッタン計画がよい例ですし、ロシアのサハロフ博士もそのような真正の学者のお一人であられました。サハロフ博士は、1942年にモスクワ大学の物理数学部を卒業されています。
 池田 32歳の若さで科学アカデミー会員となり、核実験の中止やソ連の民主化を、迫害に怯まず訴えぬいたサハロフ博士のことは、日本でもよく知られています。
 そこで、「科学者」であることと、「人間」であることとの間で、どうバランスをとっていくかという、今日的課題が浮かび上がってきます。「科学の知」と「市民の知」とのバランスと言い換えてもよいでしょう。かつては、それは必ずしも社会の根幹を揺るがすような課題というわけではなかったのですが、20世紀に入って、とくに核兵器の脅威の増大などを背景に、鋭い緊張関係をもって問い直されるようになりました。サハロフ博士などは代表的人物ですね。
 今世紀に入り、遺伝子操作の問題も急速に浮上してくるでしょうし、「科学者」と「人間」、「科学の知」と「市民の知」をどう融合させていくかは、大学教育をめぐるきわめて本質的な、マクロな課題となってくるでしょう。
 サドーヴニチィ ええ。国政のレベルに留まらず、世界の学者たちの意見は、地球的問題を解決するためにも、より積極的に生かされなければならないでしょう。科学技術のもたらすさまざまな影響を冷静に把握しているという意味で、学者同士のほうが、政治家などに比べて、グローバルな諸問題に対するコンセンサスと合意に容易に到達できるはずです。
 そこにこそ、学問に仕える人々が真に世界市民として本領を発揮する場があるのではないでしょうか。
 「物理学という世界は、地球上のすべての物理学者を市民として成り立つ」「数学という世界は、地球上のすべての数学者を市民として成り立つ……」――このような意味で、学問の輩はすべからく地球を祖国とする自覚に立っていくべきでしょう。

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