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日蓮大聖人・池田大作

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3 グローバル化をめぐって  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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2  求められる世界標準を意識した大学づくり
 池田 いずれにせよ、今後は、世界の各大学に、グローバル・スタンダード(世界標準)を意識した大学づくりが強く求められることでしょう。とりわけ、日本でも大学の国際化について、グランド・デザインを構築する時期にきていると思われます。
 21世紀に入り、大学が、世界に開かれた大学、また、学術・文化交流の担い手としての責任を果たしゆくためには、こうしたグローバル化の視点から、どのような点に留意していくべきでしょうか。
 サドーヴニチィ 大学間の国際交流や協力の重要性をあらためて指摘され、同時にグローバル化の視点から留意点を、と問われる池田博士は、おそらく私にありふれた回答ではなく、むしろさらなる問題提起を期待しておられるように感じます。
 大学間の交流は、歴史を遡ると、すでに1000年以上も昔から行われてきたことがわかります。
 その交流の内容、在り方、また諸大学に与えた影響は、時代によって、まったく異なっていることはいうまでもありません。
 初期の大学間交流は、各国に大学という制度がまだ根付いていなかったことから、大学という高等教育制度を普及し、定着させることを目的としていたと考えられます。たとえば、ロシアやヨーロッパ諸国では、一定の大学が手本となって、国内の諸大学が各地域に設立されるきっかけを作り、大学間の交流をとおして、自国の大学制度、高等教育制度を整えてきました。
3  多様性を尊重した、より柔軟な大学交流を
 サドーヴニチィ 一方、アメリカをはじめとするヨーロッパ以外の多くの国々では、このような一定の大学を核とした高等教育制度の発展とはまったく異なった大学形成の歴史を持っています。
 多くの場合、中等教育のあとを受け持つさまざまな教育機関が、――それらの教育機関は、目的、課題、カリキュラム、教授法とも、それぞれに違っていますが、――一律に「大学」と名づけられていったようです。
 このように違った歴史的背景を持つ大学間の交流、協力を推進する際には、当然画一化された、またはマニュアル化された進め方では立ちいかないと思われます。より柔軟で、選択的であることが必要です。
 池田 よく理解できます。当然です。
 現在いわれているグローバリゼーションとは、第一義的には、経済とくに金融面での急速な地球一体化の流れ(トレンド)を指していることはいうまでもありません。
 たしかに、その次元だけに限ってみれば、画一的な線引き(グローバル・スタンダード)は可能かもしれません。しかし、それとて、問題は、さほど簡単ではない。
 その国の歴史や民族性を踏まえた社会総体の動きから遊離して、教条主義的なイデオロギーと化したグローバリズムが、いかに凶暴な力を発揮するか。
 現在の反グローバリズム運動の広範な広がりは、それを危惧するものにほかなりません。
 サドーヴニチィ おっしゃる通りなのです。
 池田 まして、大学ともなれば、その国の知的、文化的伝統の中枢を担い、継承していくわけですから、安易にグローバル・スタンダードなどを持ち出せば、「多様性ある生命輝く創造世界」とは似て非なる、画一的で一様性な成果しか望めないでしょう。
 その点「画一化された、またはマニュアル化された進め方では立ちいかない」との総長のご指摘は、よく理解できます。全く同感です。私たちが、種々論じてきたように、この点でも、グローバリズムを手放しで歓迎することはできません。
4  他国大学で学ぶ「パスポート」制度
 サドーヴニチィ ええ。グローバル化する世界にあって、大学がグローバル・スタンダードを意識せざるを得ないという博士の指摘は、今後のグローバルな大学交流が各国の大学に与えるであろう影響がどのようなものになるのかという、各界で指摘されている懸念を受けとめたものと拝察いたします。
 同時に、池田博士は、「エラスムス」のような「インターナショナル・クレジット」(国際的履修証明)の制度の目的を、「学生たちが、常に新しい体験を積みながら、国際的な人格を培っていく」ことにあると、指摘されています。
 各国に散在する大学が、学生の国際間移動の調整役を果たすという次元では、世界のグローバル化を受けて必要な措置なのかもしれません。
 仮に、この「インターナショナル・クレジット」といったものが、学生がより自由に海外に留学したり、他大学で学ぶための「パスポート」のようなものだとしたら、これは十分に実現可能な制度となると思われます。
 今日、学生の流動性を疎外している要素は、このような履修上の制度的なものと合わせて、ある意味ではそれ以上に、経済的な要因が大きいといえます。各国の物価が違い、加えて大学の授業料は高くなる一方です。
 もうひとつの障害は、言語と文化の壁です。異なる言語・文化環境に適応して、大学の授業を理解し、要求についていくのは、容易なことではありません。各国それぞれの言語に対応して学べる学生はさほど多くはいませんので、学生にとっても、また受け入れる大学にとっても、この壁は実際かなり厚いと思われます。
 池田 少々乱暴にいえば、大学教育という世界で、言語の障壁を越える最も手っ取り早い方法は、英語という国際語をグローバル・スタンダードにしてしまうことかもしれません。
 しかし、自然科学のように抽象化された学問はまだしも、その国独自の伝統文化と不可分に結びついている人文系の学問を、英語に統一してしまうことなど、とうてい不可能です。また、望ましいことでもありません。おっしゃる通り、難問は次々に立ちはだかってくるようです。
 サドーヴニチィ そうなのです。
 もしも、「インターナショナル・クレジット」が、世界共通の成績評価法に基づく「国際的卒業証書」のようなものを仮定しているのだとすれば、近い将来それが実現する可能性は薄いと思います。教育法の諸原理に照らして、理論的に可能かどうかすら、疑問を残すところと思われます。教育法と成績評価にグローバル・スタンダードのようなものを設けることがいかに困難かは、数々の実例が示すところでもあります。
 たとえば、エンジニアを育てる場合、その教育内容は国内、もしくは地域産業の現状を色濃く反映しています。つまり、エンジニアの育成は、地域性をベースにしているのです。
 次に、歴史の研究はどうでしょうか。こと歴史の解釈になると、各国の隔たりは大きく、まったく収拾がつかなくなってしまいます。なぜなら、歴史は、各国、各地域の政治的、宗教的立場から断面的に書かれる場合が多く、それらを総合する術はありません。
 池田 その点は、前大戦中の日本軍が行った侵略行為の記述について、中国や韓国の人々との摩擦、軋轢の絶えない日本としては、身にしみて理解できます。A級戦犯を合祀した“靖国神社”への首相の参詣なども含め、歴史認識の問題は、日中、日韓両国の万代の友好を築くうえでの“障壁”となってきました。
 異なる認識をすり合わせて、何とかコンセンサスを見出そうとする動きも、あるにはあるのですが、間欠泉のように噴出してくる、問題発言等が反撥を招いてきました。
 しかし、日本のみならず世界にあって、歴史認識の違いを踏まえたうえで、より建設的な未来を志向していくことは可能であり、そうしなければならない。大学という場における知性は、その先駆を切っていかねばならないと思います。
 サドーヴニチィ 大切なことをおっしゃられたと思います。一方、「インターナショナル・クレジット」についての、もう一つの考え方は、各国、各大学の履修、卒業証書を比較判定するための国際的「標準」として位置付けるというものです。これに関しては、ユネスコが20世紀の後半から、かなり積極的に取り組んでいます。しかし、これは、一定の前進は見られるようですが、今のところ、具体化に向けたプロジェクトにするためには、まだまだコンセンサスが足りないようです。
 先ほど私は、学生の国際間移動を現実的に困難にしている主な原因として、資金、言語、文化をあげましたが、これに加えて、ある程度、政治的要因も無視できないかと思われます。国の政策、もしくは政府の姿勢として、一定の国との学術、教育交流を望まないというケースが想定できます。
 少なくとも、“9・11”のテロ事件と、それを受けたアメリカによるアフガンへの軍事行動に影響されて、しばらくは、このような政治的障害が表面化するでしょう。国家安全保障上の常識的措置が採られた場合でも、民間交流、なかでも青年、学生交流は縮小してしまうからです。
 池田 深刻な問題です。テロ事件に象徴されるような憎しみの連鎖を断ち切るためには、何といっても教育の力による以外にありません。その教育交流が、テロの余波をもろに受けてしまいました。多少、時間がかかっても、粘り強く軌道修正していかねばなりません。
5  頭脳流出と教育資金の問題
 サドーヴニチィ ええ。ところで、教育の国際的交流が本格的にグローバルな展開がなされるか否かは、学生の流動性が高まった場合に起きる大量頭脳流出という現象に、いかに歯止めをかけることができるかにかかってくるのではないでしょうか。
 頭脳流出に対しては、今後ますます各国が神経質になる可能性がありますが、問題の本質をよく投影しているひとつのエピソードをお話しします。
 熱力学の第三世代を開いたドイツの物理・化学者、ワルター・エルネスト(1864―1941)の逸話として語り継がれているものです。
 エルネストは鯉の養殖を趣味にしていました。あるとき、知人がそれをみて「先生、物好きですね。鯉を増やして何にするんですか。どうせなら、まだ鶏でも繁殖させた方が実益がありそうなものですのに」と、学者の無益な趣味を皮肉りました。学者先生は、真顔で答えました。「いや、君、知っているかね、鯉は熱力学的に環境になんの影響も与えないんだ。ところが、鶏は熱を発するだろう。だから、鶏を繁殖させるということは、私のお金で世界を暖房してあげるようなものなんだよ。分かるかね」
 池田 なるほど。鯉は池の中から逃げ出さないから“熱力学的”に何ら問題はない、つまり損失にはならない。けれども、鶏は地上を自由に駆けまわって熱を発散するから、そのエネルギーの恩恵を独り占めしているわけにはいかない、“うっかりしていると、とんび(他国)に油揚げをさらわれかねない”という譬えですね。
 サドーヴニチィ ええ。同様のことが頭脳流出にも当てはまるのです。学生を外国に留学させる大きなプログラムは、政府、または公的な機関の資金援助なしには本格化しません。
 私的な基金も種々ありますが、規模的に限界があり、グローバルな学生交流を担う主流とはなり得ないでしょう。国家が予算を費やして自国の優秀な学生たちを諸外国に留学させ、高度な教育を与えたあかつきに、もしも彼らがそのまま、他国に留まり他国のために働くことになるとしたら、送り出した国はせっかく教育資金を使って育てた人材を取られてしまう結果となります。
 それでも一向にかまわないと言って、国家予算をグローバルな教育交流に使いつづけるような奇特な国があるかどうか、はなはだ疑問だと思うのです。
 池田 おっしゃる通り、高度な研究を続けていくためには、当然それなりの資金が必要となります。
 もし「市場原理」や「競争原理」のおもむくままにまかせておけば、優秀な研究者が、潤沢な資金のあるところに吸い寄せられていくことは、理の当然です。いくら母校愛や祖国愛を説いたところで、文字通り“背に腹はかえられぬ”からです。
 サドーヴニチィ そうなのです。
 池田 日本やヨーロッパの大学人から、“桁外れの自己資金を運用しながら、なおかつ国家からの巨額の投資を受けているアメリカの有名私立大学には、とうてい太刀打ちできない”といった悲鳴じみた訴えも、しばしば耳にするところです。こうした点でも「市場原理」や「競争原理」に対する何らかのセーフティー・ネットを設けておかねば、せっかくの学生交流も社会ダーウィニズムの餌食になってしまいます。
 サドーヴニチィ ところで、学術交流は、さまざまな国際会議、セミナー、共同研究、在外研究等を通じて行われます。そのような交流の場で学者たちは、自国の知性を代表する立場とコスモポリタン的性格の両面を、複雑に交差させているように思われます。
 学問は、特に基礎科学は、普遍的真理を探究するという意味で、本質的にユニバーサルなものです。ですから、純粋に学術的なテーマで学者たちが集まる場においては、彼らは最も世界市民的精神に満ちているといえるでしょう。
 それと同時に、応用科学の分野では、学問は、フランシス・ベーコンが「知は力なり」と言いましたが、現代社会にあって、学術的知識は力であるばかりでなく、商品でもあります。多くの知識が特許権で保護されている理由もそこにあります。学問は当然、産業、経済へ応用されるべきなのですが、皮肉なことに、応用が進めば進むほど、学問的知識は商品化し、ユニバーサルな、インターナショナルな性格を必然的に失っていきます。
 池田 グローバル化が時代の流れといっても、一筋縄ではいかないということが、総長の現場感覚からのご指摘でよくわかりました。
6  「科学の知」と「市民の知」の融合
 サドーヴニチィ 学者、研究者もまた、いつも純粋に学問の真理のみを語り合っているわけではありません。学術会議の場でさえ、現実的、実務的問題に関心が集中することもあるのです。さらに、各国にあっては、学識経験者は、政府の各種政策に対して専門的立場から鋭い意見を述べ、提案、諮問する、かなりの影響力を持つ活発な市民だと言うことができます。政府の掲げる政策が環境、人間に有害な場合、それを証明し、真っ向から政府に反対意見を述べることができるのも学者たちです。そのような事例は数々あります。
 マンハッタン計画がよい例ですし、ロシアのサハロフ博士もそのような真正の学者のお一人であられました。サハロフ博士は、1942年にモスクワ大学の物理数学部を卒業されています。
 池田 32歳の若さで科学アカデミー会員となり、核実験の中止やソ連の民主化を、迫害に怯まず訴えぬいたサハロフ博士のことは、日本でもよく知られています。
 そこで、「科学者」であることと、「人間」であることとの間で、どうバランスをとっていくかという、今日的課題が浮かび上がってきます。「科学の知」と「市民の知」とのバランスと言い換えてもよいでしょう。かつては、それは必ずしも社会の根幹を揺るがすような課題というわけではなかったのですが、20世紀に入って、とくに核兵器の脅威の増大などを背景に、鋭い緊張関係をもって問い直されるようになりました。サハロフ博士などは代表的人物ですね。
 今世紀に入り、遺伝子操作の問題も急速に浮上してくるでしょうし、「科学者」と「人間」、「科学の知」と「市民の知」をどう融合させていくかは、大学教育をめぐるきわめて本質的な、マクロな課題となってくるでしょう。
 サドーヴニチィ ええ。国政のレベルに留まらず、世界の学者たちの意見は、地球的問題を解決するためにも、より積極的に生かされなければならないでしょう。科学技術のもたらすさまざまな影響を冷静に把握しているという意味で、学者同士のほうが、政治家などに比べて、グローバルな諸問題に対するコンセンサスと合意に容易に到達できるはずです。
 そこにこそ、学問に仕える人々が真に世界市民として本領を発揮する場があるのではないでしょうか。
 「物理学という世界は、地球上のすべての物理学者を市民として成り立つ」「数学という世界は、地球上のすべての数学者を市民として成り立つ……」――このような意味で、学問の輩はすべからく地球を祖国とする自覚に立っていくべきでしょう。

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