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日蓮大聖人・池田大作

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1 教育と研究の両立  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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2  大学は学生を起点に、「学生に奉仕」する
 サドーヴニチィ 「教育」と「研究」をどう両立させていくかは、大学教育に携わる者にとって最も重要なテーマです。また、初等中等教育に比べ、大学関係者が、「研究」にウエートを置きがちだということも事実でしょう。しかし、おっしゃるとおり、「人間教育」という視点は、絶対におろそかにされてはならない。そうでなければ、わざわざ大学に通い、キャンパスという人間の触れ合いの場をもつ意味がありません。
 池田 今申し上げたように教育の本義は、人間自身をつくることであり、知識を糧に無限の創造性、主体性を発揮しうる人間を育む作業であるといえます。大学は、人間教育が根本であり、人間を教育することに最終的な責任をもつ機関です。創価大学が、創立以来、「人間教育の最高学府たれ」とのモットーを掲げてきた理由も、この一点にあります。そのためには、高等教育の編成、大学の運営においては、教える側から出発するのではなく、何よりも、学生を起点とするものでなくてはなりません。
 周知のように、大学を意味するユニバーシティーの語源は、「ウニベルシタス」であります。これは、元来、ギルド(組合)と同義で、多数の人々や、多数の人々の結合を意味するものです。そうした意味では、学生と教師の結びつきや連帯感の中にこそ、大学の存在意義があるといっても過言ではありません。大学とは、本来、建物や制度から出発したものではなく、人間と人間の結びつきから発生したものと考えたい。そうした教師と学生との人間的な触れ合いや結合を可能にするためには、教師には、学生に学ぶ心をもつという謙虚さが必要です。学生と接し、語る際には、微塵も傲慢であってはなりません。
 サドーヴニチィ まったく同感です。以前に池田博士と東京(99年11月15日東京牧口記念会館)でお会いした際も、教師と学生との触れ合いにこそ教育の本義があると申し上げました。「建物」としての大学ではなく「教える人の人格」の周りにできる大学の重要性を申し上げたのも、その意義からなのです。
 池田 よく覚えております。哲学者であり、数々の優秀授業賞を受賞していることでも知られるアメリカのテキサス大学のR・ソロモン教授と、その弟のJ・ソロモン・アリゾナ大学準教授も、その点を力説しています。二人は、最近の著書の中で、ピーター・フローンの「大学の中で行われている他のすべてのことは、中心的な仕事、すなわち学生の教育に比べれば、周辺的なものである」との言葉を引用しつつ、「大学の使命は教育である。大学の第一の関心事は、学生に奉仕することである」と述べております。(『大学再生への挑戦』山谷洋二訳、玉川出版部)
 こうした指摘のように、学生に奉仕するという精神の中にこそ、真の人間教育があり、教員と学生との接触も創造的性格を備えたものになっていくのではないでしょうか。
 サドーヴニチィ 学生が大学教育を終えて母校を巣立つ時、彼の中に大学教育を通して育まれたものを「教養」と呼び、その「教養」とは何かと問われたら、私は、それは学生が教授との触れ合い、切磋琢磨の中で培った「総合的な人間性」であると申し上げるでしょう。
 したがって、大学教育を実りあるものとする基本条件は、教授と学生の関係が相互の尊敬と信頼に貫かれることにあるといえます。その麗しい人間関係があってはじめて、学生の人間教育は可能となり、もしもそのような関係が成り立たない場合は、大学教育といえども、「良き教養人」の輩出を期待することは困難といわざるをえません。
 池田 以前、東京でお会いした時、総長は「1998年8月のロシアを襲った経済危機(ルーブル切り下げ)の際、多くの銀行や企業が若年労働者の解雇に踏み切らざるをえなかった。しかし、そうしたなかでも企業が手放さなかった人材がいた。それは『学問の本質が分かっている』『苦況のなかでも、進むべき方向が判断できる』人間であった」と語っておられました。
 すなわち「良き教養人」であり、その少なからぬ部分をモスクワ大学出身者が占めていた、と。
3  偉大な教育の足跡を残した伝説の教授たち
 サドーヴニチィ その通りなのです。そこで、では、学生は何をもって教授を信頼し、尊敬するかが問われてきます。一義的には、当然、教授が学問に精通し、それを学生に教え伝えることが出来ることでしょう。その上にたって、学生というものは、心から慕ってついていきたい教授を見分ける独特の「ものさし」を持っているものです。また、どういうわけか、学生たちはこの「ものさし」を上手に次の学生に伝えますし、新入生たちもいち早く「ものさし」を自分のものにしてしまいます。そうして大学の中には、いつのまにか学生の心を捉えて離さない「先生」が生まれ、学生の人格形成に多大の影響を及ぼしていくのです。
 池田 “名物教授”や“名物講義”というものは、洋の東西を問わず存在し続けてきたものですね。日本語では「謦咳に接する」とか「膝下に薫陶を受ける」などという言葉で、その事情を表現しています。時代とともにそうした優れた人間教育の場が、日本でも、目に見えて衰弱してきているように思えるのは、残念でなりません。
 サドーヴニチィ わがモスクワ大学にも、何十年もの間、皆に慕われ、教員の誰もが手本としてその姿に見習いたいという教授の先生方がおられます。また、既に亡くなられており、まさに伝説の人として語り継がれている教授の名も少なくありません。
 何人か例を挙げてみますと、19世紀半ばに教壇に立っておられた歴史学者、T・N・グラノフスキー教授(1813―1855)、同じく歴史学者で、S・M・ソロビヨフ教授(1820―1879)。20世紀に入ってからですと、数学者のA・N・コルモゴロフ教授(1903―1987)とI・G・ペトロフスキー教授(1901―1973)。ロシア語学の大家であられたV・V・ヴィノグラードフ教授(1894―1969)。物理学では、I・E・ターム教授(1895―1971)とI・M・フランク教授(1905―1972)です。お二人ともノーベル賞を受賞しています。また生物学者のA・N・ベロゼルスキー教授もいます。
 池田 輝かしい伝統です。
 サドーヴニチィ これらの名前はほんの一部に過ぎませんが、偉大な教育の足跡を我が大学に残してくださった先生として、今も伝説となって皆の心に残っているのです。このような忘れ得ぬ、また誇りとする教師像は各学部に存在しています。
 この偉大な先哲の先生方に共通する点は何か。まず、全生涯をモスクワ大学に捧げてくださったことです。
 数十年にわたって教壇に立たれ、青年を薫陶し、全情熱を傾けて学生に奉仕したといってよいのではないでしょうか。したがって、そのお一人お一人の先生の講義を聴講して巣だった学生の数は、それぞれ数千人に上るはずです。
 池田 そうした教育の場における熱気というか魂と魂との打ち合いこそ大学の大学たるゆえんです。インターネットやテレビを活用すれば、将来、数万人、数十万人を相手にすることも可能でしょうが、それは、直に聴講した数千人とは、質的に異なってくるはずです。
4  モスクワ大学の「学脈」は、師弟の絆
 サドーヴニチィ 先ほど、学生と教授との間の相互の信頼と尊敬が人間教育の鍵であるということを申し上げました。それでは、教授、先生方が、若く未熟な学生を尊敬し信頼する根拠、理由は何か。この点が非常に重要だと思われます。
 目の前に座る未完成の学生の中に、将来大きく成長するであろう可能性を信じる心、知識や行動すべてにおいていつか必ず自分を超える偉大な人物になると信ずる心、池田博士のおっしゃる「学生に学ぶ心」――これが教師の学生に対する尊敬と信頼なのだと私は考えます。
 もしも、この心が教師の中になければ、いかなる博学の講義も指導も、なべて教育の力とはなりえないでしょう。
 池田 教育の真髄の言葉です。総長がモスクワ大学に入学した時に、ゆくりなくもめぐり合った恩師などは、まさに、若い学生のなかに大きな可能性を見出す達人だったのでしょう。
 サドーヴニチィ ええ。そのような教師の姿勢がモスクワ大学の底流を成しているといえます。それがひとつの形となったのでしょうか、わたしたちの大学には「学脈」というものが伝統的に存在しています。これは、純粋にロシア的な現象ですので、どのようなものか少し説明をする必要があると思います。
 池田 ぜひお願いします。創価大学の関係者も、大いに関心のあるところだと思います。
 サドーヴニチィ 「学脈」というのは、一人の卓越した教授を中心にして自然にできていく師弟のつながりをいいます。ここでは、学術的な共通のテーマをともに追究するという面はもちろんのこと、むしろそれ以上に、教授の人格と価値観に共鳴する弟子たちが教授を中心として作っていく思想的、精神的師弟の絆という側面がより象徴的です。
 具体的には、この「学脈」は、学術セミナーを開催するなどの活動形態を採り、そこに教授を慕ってかつての教え子たちが成長した姿で集ってくることになります。また、形式にはこだわらず各種の懇談会や語らいの場を持っています。
 一つ特徴的なのは、この「学脈」は決して組織だった団体ではないことです。ですから、会費とか入会とかいう手続きや条件が付されることは、まったくありえません。むしろ師弟の絆はそのような物理的な制約をはるかに超えたものになっており、卓越した教授を全人格的に慕う弟子たちがどこまでも自発的に、また自然に集ってひとつの思想的流れを作っていくものです。そこでは、誰もが情熱を傾けて真理を求め、討論をします。といっても、その真理とは、常に普遍的価値を追求するものです。
 求めた真理を経済へ応用して収入につなげようといった発想は、「学脈」にはこれまでもまたこれからもありえないでしょう。何よりも人間的価値を求める、また学問の精神性を求める伝統だといえばいいでしょうか。
 池田 すばらしい伝統です。日本で行われているゼミナール方式と類似していますが、もっとオープンで自由な気風がみなぎっているように思います。そうした良き伝統を、大学総体として大切にしてきたわけですね。
 サドーヴニチィ このような「学脈」は、モスクワ大学において、19世紀、20世紀を通して受け継がれてきました。ただし、この流れが今後どうなっていくか、一抹の危惧をぬぐえないのが現状です。世界の多くの国がそうであるように、わが国も例外ではなく、学術教育機関に容赦なく商業主義が横行し、企業活動と同列に立って教育もサービスに成り下がりつつあります。
 今日の抗し難い商業主義の流れにさらされながらも、モスクワ大学としては、良き伝統を崩してしまわないように、さまざまに工夫し努力をしているところです。そして、私は、その良き伝統の核心を成すものこそ、教師と学生とが互いに尊敬し、信頼しあって、教え、学ぶ姿であると信じています。
5  近代日本を創出した私塾の志と情熱
 池田 「卓越した教授と全人格的に慕う弟子たちがどこまでも自発的に、また自然に集って一つの思想的な流れを作っていく」といった伝統は、日本でも、小さなサークル的なものとしては、そこここにあったと思いますが、大きな潮流としては、なかったのではないかと思います。理由は種々に考えられますが、その根底には、日本の大学(とくに官立)の出自が、近代日本の国策にがんじがらめにされていた、という事情が大きいと思います。
 むしろ、「学脈」のような伝統は、徳川時代の末期、日本の各地に生まれた“私塾”に見られます。その代表格が、長州藩(今の山口県)にあった松下村塾です。そこには、吉田松陰という師のもとに、数多くの俊逸(彼らの多くは、身分、家格の低い者たちでした)が集い、学び、明治維新を切り拓く人材として巣だっていきました。
 そこには、人間を一切差別しようとしない卓越したヒューマニスト、教育者としての吉田松陰の「全人格的な魅力」がありました。またこれからの日本をどうするかという、「志」と「情熱」がたぎっていました。一言にしていえば、沸騰するような“教育力”が充満していたのです。久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔磨、伊藤博文、山県有朋等、松陰門下を抜きにして、近代日本を語ることはできません。
 サドーヴニチィ なるほど、興味深いお話です。
 いつの時代でも教師が、学者、研究者であることを第一義とすべきか、教育者であることが前提なのかという視点は重要であり、同時に難しい問いでもあります。
 あえて申し上げれば、大学教育が「学術的知性」を育て、「学問を社会に還元する人材」を育成する機関である限り、やはり、一人の教師のなかに学者と教育者の両面を兼備することが求められるといわざるを得ません。モスクワ大学にあっては、そのどちらかのみを強調する、また一面だけでよいとする風潮はないと思っています。
 唯一、大学の組織運営や人事の上で、役職名が偏って響くことがあるとは思います。これは、我が大学が国立大学で、国家公務員の規定の中におかれ、役職名と給与の額が定められているからです。この規定では、大きく教師と研究員というたてわけがなされています。教師というのは、学科長、教授、助教授、講師、助師等を指し、研究員では、研究室長、上級研究員、研究員、助手等です。ただし、これとても実際には歴史的経緯によって出来たものが残っているだけで、今日の大学の現実を必ずしも反映した呼び方ではないのです。
6  大学院教育の充実と人材育成の急務
 池田 日本も、時代のスピードにどう大学が対応できるか。大学改革をどう進めていくかが焦点になっています。かつて授業で、同じノートを使って何年間も、ひどい場合は10年以上も講義をしているなどという事例もあったようです。これなど論外のケースですが、万般に亘り、日本の大学も大きく変革が求められています。
 事実、1997年から4年間、東京大学の総長を務め、国立大学協会会長でもあった蓮實重彦氏は、総長就任時に掲げた3つの目標の第1に、「あえて口にするのも恥ずかしい」としながらも「教育の重視」を掲げています。
 サドーヴニチィ そうですか。
 先に、私が、歴史的経緯と申し上げたのは、実は1917年以前のロシアの大学には、研究員というものは存在していませんでした。帝政ロシア時代、研究者と呼ばれる人々はせいぜい50人から100人ぐらいしかおらず、彼らはペテルブルク科学アカデミーに所属し、もっぱら研究に専念していたのです。
 一方、大学の教授は、講義を行うことがあくまでも本業とされ、もしも教授が何らかの研究活動をすることがあっても、それは単なる趣味とみなされていました。
 池田 重要な歴史です。その後、教授の役割は、どう変化していったのでしょうか。
 サドーヴニチィ かつては研究者と教授は、はっきり分かれていたのですが、時代とともに、高等教育に携わるものにとって学術研究は欠かせない要素だという考え方が強まってきました。
 1916年には、モスクワ大学の地質学の教授をしていたV・I・ヴェルナツキー(1863―1945)が、基礎研究分野へ大学の教授陣を参加させるべきであるという提案をするにいたりました。
 この提案をうけて、後にロシア科学アカデミーの下に各種研究所が誕生し、大学教授たちの研究活動の場となりました。また大学内における基礎研究も進んでいったのです。
 その先駆けとなったのは、1922年にモスクワ大学の中に設置された大学付属の数学・力学研究所です。この研究所は、はじめて研究者を養成する目的で「大学院」を開設しました。
 歴史的には、大学院は、「次世代の教授を養成する機関」と位置づけられてきました。つまり、大学が、将来大学で教鞭をとる教師を育てることを目的としていたのです。大学で教壇に立つための勉強ですから、大学院生は当然それにふさわしい資質と才能を要求され、その最も重要な才能は、個人の研究に閉じこもるのではなく、学生たちとともに真理を探究する開かれた姿勢でした。
 したがって、大学院生となった者は、はじめから研究と教育の双方を視野において両立に挑戦しました。これが、我が国における大学院の伝統となって、今も生きていると思います。
 池田 日本の多くの大学は、大学院の設備や人員がまだまだ不十分であるために、社会をリードしゆく学問研究の場、教育の場としての機能を十分に果たせていないという指摘もあります。
 日本の初等中等教育の水準の高さは国際的に評価されているのに対して、高等教育の弱体化が指摘されるのは、こういう点にもあります。
 また、日本の大学院の学生数は、アメリカの大学院生の数の20分の1にも満たないにもかかわらず、以前から、その就職先の不足が大きな問題となっています。
 大学を真に、学問研究の場、真理の探究の場、教育の場としていくためには、こうした大学院教育の充実と人材育成が急務であるといえましょう。
 大学院教育の充実をはかるという点では、教育内容や方法の改善ということも、今後は積極的に検討されなければなりません。創価大学の大学院の一部の専攻では、1998年から、国内の諸大学と単位の互換制度に関する協定を行い、その第一歩を踏み出しました。今後は、こうした各大学間の連携を強化することによって、大学院のカリキュラムや教育方法を、より弾力的なものにしていくことも重要になってくることでしょう。
 サドーヴニチィ 大学院の制度的諸問題には次章で触れるとして、別の言い方をすれば、「研究」と「教育」の関係は、よく数字でいわれる「順定理逆定理」なのです。つまり、教師が自ら研究をし続けなければ学問の最先端を教授することは出来ない、したがって優れた人材を育てて社会に還元することはできない。反対に、教師がいかに学術的研究の成果をあげても、それを後継の人に教え伝える姿勢を持たなければ、所詮教師ではありえない。
 教室にいる学生たちを我が弟子と思って育てることが出来なければ、学問に永続性はないと言わなければなりません。
 ビクトル・ユゴーが「芸術は個人が創り、学術は複数の人々によって創られる」とした通りだと思うのです。
 この理想を追求するため、モスクワ大学では、研究員にも教壇に立つ機会をもうけるとともに、教師も研究の時間が取れるように、授業数を出来る限り調整しています。事務運営上はなかなか難しい課題ですが、これ以外の方法はないと思っていますので、努力をしています。
 池田 いうまでもなく、それが理想ですね。どんなに教育熱心な教師であろうと、自らの専門分野で化石のような知識しか持たないとすれば、魅力のある授業など行えるはずはありません。逆にいえば、新たな分野を開拓しながら知的営為に取り組んでいる教師は、その姿そのものが、学生への最大の教育結果をもたらしている、といえるでしょう。

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