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日蓮大聖人・池田大作

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2 情報化の光と影  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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15  人生は「ゲーム」ではなく「ドラマ」である
 サドーヴニチィ 当然の流れでしょうね。
 情報化社会のバーチャル性を物語る例として、「電子ゲーム」の広範な普及をあげたいと思います。文字通り老若男女を問わず、みんながこのゲームに夢中になっています。いまだ「情報化の揺籃期」にある現段階を特徴づけている現象が「ゲーム」だといえます。教育の過程でも、コンピューターやインターネットを使った教材が多数ありますが、その大半はゲーム的要素(ここでは必ずしも娯楽という意味ではありませんが)から組み立てられています。
 グローバリゼーション(地球一体化)が進んでいくにつれ、「人生はゲームである」という人生観を現代人がもつようになるとすると、この新しいパラダイムには明らかにそぐわない古典的精神的価値観は完全に捨て去られてしまうのではないかと思うのですが、この点についてどうお考えになりますか。
 池田 一時のブームはともかく、「人生はゲームである」という人生観が根づくことはないでしょう。なぜなら、人間は、心の奥底では、そうなることを欲していないからです。総長が、「人間と機械」との関係では、「人間」に必ず軍配があがるとおっしゃっていたのも、その意味ではありませんか。「人生はゲーム」とは、とりもなおさず、人間の機械に対する敗北を意味するのですから。
 私は、「人間」に軍配があがるという総長の言葉の含意性は、アイスキュロスの悲劇に出てくる「必然」と、ほぼ同義語であると申し上げました。この「必然」という言葉は「宿命性」のニュアンスを濃密に帯びていることに留意してください。私が「家庭」のところで申し上げたように、「宿命性」による有限性の自覚こそが、人間が真に人間に成るための第一歩です。だからこそプロメテウスは「必然」という抗しがたい、そして人間が本然的に欲している力に比べれば、「技術」など、とるにたらぬものだと一蹴しているのです。
 そうです。人生は、ゲームではなくドラマです。そうでなくして、なぜ「縛られたプロメテウス」をはじめ、ギリシャ悲劇が、今日まで人々に愛され、語り継がれてきたでしょうか。その命脈の長さに比べれば、「電子ゲーム」の流行など、うたかたのごとく消え去ってしまうであろうと、私は信じています。

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