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日蓮大聖人・池田大作

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2 情報化の光と影  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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1  「電脳空間」にない”しがらみ”が成長の糧に
 池田 現代社会の巨大な流れである情報化のもたらす“光”と“影”について、語り合いたいと思います。
 ここ10年ほどのネット革命、とくにインターネットの爆発的な普及によって、人々は、地球の反対側にいる見ず知らずの人とも、いとも簡単に会話を交わすことができるようになりました。
 情報化の流れは、今まで人々を遠く隔ててきた厚い国境の壁など、易々と乗り越えてしまいます。それは、人間の同胞意識、世界市民意識を育てていくために、資するところ大であると思います。
 サドーヴニチィ 情報化の流れを、社会のグローバリゼーションを具体的に進行させているものであるという観点で見ていくことは重要です。なぜなら、グローバリゼーションとは、そもそも全世界を一元的情報システムで包括的に把握するプロセスでもあるからです。したがって、グローバル社会を別名「情報化社会」と呼んでいるのも決して偶然ではないのです。
 そして、情報化は人間の生活のあらゆる側面を支援していくわけですから、教育だけが例外となることはありえないでしょう。
 一般社会にとって、教育だけを情報化の波を受けない特別な場所におく理由はどこにもないからです。また、情報化に対する教育制度の保護、振興措置として、なにか特別な政策を期待するのは、難しいと思われます。
 池田 そこで、情報化による「電脳空間」の拡大は、あくまで、コンピューターが主役を演ずるバーチャル・リアリティー(仮想現実)の広がりであって、リアリティー(現実)そのものではありません。
 ところが、情報化社会は、両者の分水嶺をあいまいにしてしまい、人間が生きていることの実感、リアリティーを希薄化させるという“影”の部分を併せもつことを見逃すことはできません。
 サドーヴニチィ おっしゃる通りです。現実を直視することが大事です。
 池田 人間が生きている実感をもつ、最初の場が家庭です。これは、バーチャル・リアリティーとは対極をなします。
 「家庭」の最後のところで、私は、家庭というものが、他の共同体に比べて冠絶して濃密に体現している属性ともいうべき「宿命性」に言及しました。
 自分がどのような家庭に生まれるか、つまり親を選べないという点で、自由に名を借りた人間の恣意、エゴイズムを、どこかで抑制せざるをえないというファクターが、そこには宿命的に内在している――と。
 「宿命性」とは、人間が自由に「操作できない」「コントロールできない」「選択できない」、換言すれば、己の裁量が及ばないため自己の有限性を自覚せざるをえない“しがらみ”を意味します。
 たしかに、その“しがらみ”は、時にわずらわしくはあるが、反面、古来、人間の成長、人間が人間に成るためには、避けて通ることのできない“ハードル”でもありました。
 サドーヴニチィ そこに、家庭教育というものの、なにものにも代え難い重要性がありました。
 池田 その点、いわゆる「電脳空間」には、「宿命性」の“しがらみ”は、ほとんどありません。
 バーチャル・リアリティーの世界では、誰と話そうと、どんなサイトにアクセスしようと、あるいは電源を切ってしまおうと、自分のほしいまま、自由です。好きなように、都合がよいように「操作」し「コントロール」し「選択」できるのですから。“しがらみ”の介在する余地はなく、したがって恣意やエゴイズムへの抑制機能は、はたらきにくい。
 よほど警戒していないと、現実からの逃避へと際限なく引きずられていってしまい、その結果、人間同士の直接の打ち合いのなかでのみ可能な人格の陶冶がなされなくなります。そうした対人接触、対人体験の質の低下は、たとえば、アメリカの教育学者ジェーン・ハリーが『滅びゆく思考力』で10年ほど前に警鐘を鳴らしているように、青少年教育の場でも深刻な影響を及ぼしつつあるようです。この点、総長はどうお考えでしょうか。
2  科学からの逃走、科学への逃走
 サドーヴニチィ 池田博士のおっしゃる通り、情報化、コンピューター化(この二つの言葉はしばしば同義語として使われています)の問題に関しては、慎重な判断がなされるべきです。将来の教育のあり方という観点からだけではありません。
 昨今のコンピューター化をめぐる論調は、不必要に扇動的であったり、ときとしては黙示録的であったりさえしているように思われます。私は、この問題に関するより冷静な、平衡感覚を持った分析がはじめになされるべきだと考えています。さまざまな論議や評価をする以前に、まず実情をしっかり把握する努力が先行されるべきでしょう。
 池田 いわゆるコンピューターの「2000年問題」なども、多分に扇動的、黙示録的でしたね。コンピューターの誤作動による大事故が起こるのではないかと、世界中で騒がれました。バンキングシステムの停止、飛行管制システムの停止、ミサイルの誤発射までが論じられました。実際に飛行機旅行の自制・自粛も行われました。しかし、結果としてみると、大事には至りませんでした。もちろん、それは、一般人でもわかり得る事例を引き合いにしたために、一種の世論形成が行われ、政府機関や大企業の経営層が回避に努め、適切な資金的、人的投資を行ったという側面もあるでしょう。
 一方、2002年には、日本では、もっと意図的に対処することができたはずの大銀行の合併によるシステム統合の失敗で大混乱となり、経営層の危機管理意識や管理能力のいかんで、システム運用の結果が大きく左右されることを示す事例となりました。
 サドーヴニチィ 池田博士、あなたは、いろいろな御著作のなかで、インターネットの普及などグローバルなコンピューター化がもたらす弊害として「生きた人間同士のふれあいが失われる」、「コンピューターが手紙を代替し、書簡体が失われる」、そして「人間交流における対話の重要性(または対話する能力)が総体的に低下する」可能性を指摘されています。
 また、テレビの普及に伴って、情報過剰になっている学生たちは、「自分は何でも知っている」と思い込みがちである。「生きた語りかけを受容する力」に乏しく、「(講演や講義を聴く)集中力」が深刻に低下している。さらに、情報化の氾濫は、「個人として情報を分析、咀嚼する」ことを極端に困難にしていると指摘されています。
 たしかにおっしゃる通り、そのような危険性を情報化社会が潜在的に内包していることを認めないわけにはいきません。
 池田 コンピューターを“万能の神”扱いにする「科学への逃走」は間違いです。と同時に、ジャン=ジャック・ルソーの“自然に帰れ”ではありませんが、コンピューターの裁量する“バーチャル・リアリティー”の世界に背を向ける「科学からの逃走」も間違いであることは、いうまでもありません。
 サドーヴニチィ その通りです。グローバルなコンピューター化がいかなる影響を人間に与えるかについては、これまで数多くの仮説、推理が発表されてきました。しかし、それらの多くは憶測に過ぎず、裏付けを持った学術的、心理的分析とは呼び難い、むしろ空想に近いものです。もちろん、情報化社会がもたらしている現実の変化は見逃してはなりません。
 池田 日本においては、情報化社会の弊害は拡大しています。たとえば、出会い系サイトを通じての男女の出会いが、事故や犯罪に結びつくといった出来事が頻発しております。これはインターネット機能のあるパソコンの使用もさることながら、年少者にまで普及した携帯電話の利用が社会現象を引き起こしているもので、現状の深刻さから、法規制も論じられているほどです。
 インターネットを通じてコミュニケーションを拡大しているように見える若者たちも、心の奥をのぞいてみると意外に孤独だ、という指摘もなされています。
 たしかに“光”の部分よりも“影”の部分の方がニュースになりやすい、という傾向はあります。その点を差し引いても、私は、情報化社会の行く末に、手放しで楽観的にはなれないのです。
3  情報化は生活のほんの一部にすぎない
 サドーヴニチィ 私も、決して楽観視しているわけではありません。
 ここで、コンピューター化に関するより本質的議論に移る前に、概論的にいくつかの点についてコメントしておきたいと思います。
 まず第一点として、我々は情報化社会のほんの入り口に立っているようなもので、その将来像を云々するための十分な経験を未だ持ち合わせていません。「情報化社会」を積極的に肯定し、こぞって賛美する声をあげているのは、コンピューターメーカーとソフトウエアの会社です。当然といえば当然です。「在る商品は、すべからく売られるべし」とは、商いの常識、公理のようなものだからです。
 池田 たしかに過熱気味ですね。
 サドーヴニチィ さらに現実的側面から論じると、次のことがいえます。現在までのところ、コンピューター技術が活躍の場を見出しているのは、手間のかかる型通りの計算を必要とする学問分野であり、さらに、いわゆる事務処理と通信の分野においてです。
 欧州連合(EU)はすでに1997年に、科学技術発展の方向性等を分析している諸研究機関に対して、21世紀の予測を依頼しました。そしてその内いくつかの研究所が、21世紀に首位を占める技術として情報産業をあげました。
 池田 その予測は現実のものとなりつつあるわけですね。
 サドーヴニチィ ええ。たとえば、ドイツは2007年を目途にヨーロッパ全域に携帯電話網を完成させる事業に着手するであろうといわれています。また日本は、三次元テレビと非接触型IDシステムの開発を目指し、フランスは、ペーパーベースの情報伝達手段を完全に電子化することを目論んでいます。アメリカは、あらゆる情報に瞬時にアクセスすることを可能にする巨大な国家プロジェクト『電子ハイウエー』を実施しています。
 しかしながら、これらすべての計画やプロジェクトは、私たちが人間として営んでいる生活のほんの小さな一部を占めているに過ぎません。人間の精神的営み、芸術的活動、そして日常の人間関係の中では、コンピューター化というのは、どちらかというと飾りか、おまけのようなもので、本質的な役目は演じていません。
 池田 急速に進むコンピューター化も、私たちが人間として営んでいる生活のほんの小さな一部を占めているに過ぎないとの指摘は、非常に重要です。
 科学や技術というものの本質を知悉した、優れた科学者ならではの知見であり、とくに総長のように、教育界の重責を担っておられる方の、そうした正視眼の発言を聞くと安心し、勇気づけられもします。
 日本では、数年前、「IT(情報技術)革命」ということがさかんに喧伝されました。たしかに、技術立国も大事なことには違いありません。
 しかし、そのことばかりに血道をあげていると、軍事や経済に偏った国家目標が先行し、人間の幸福とは何かという根本命題がないがしろにされてきた近代日本の誤り、本末転倒(日本に限らず、先進国の教育界の混迷の根因も、そこにあると私は思っています)の轍を踏んでしまいます。それでは、「人間不在」という近代文明に蔓延する病理は、昂進していくばかりでしょう。
 サドーヴニチィ その通りです。だから、私は「飾り」「おまけ」と申し上げているのです。
 池田 フランスの遺伝子学者アルベール・ジャカール氏も、次のような指摘をしています。
 「情報科学は、情報をもたらす限りにおいては貴重なものです。しかし、情報科学がもたらすものは、人を小馬鹿にしたような、急速冷凍したコミュニケーションでしかありません。沈黙と言葉からなる真の対話においては、創造性のある驚きが自然に生まれます。しかし、情報科学によってそれを引き起こすことは不可能です」(アルベール・ジャカール、ユゲット・ブラネス『世界を知るためのささやかな哲学』吉沢弘之訳、徳間書店)と。
 「人を小馬鹿にしたような、急速冷凍したコミュニケーション」とは、一種のレトリックであり、極論のように思えますが、ジャカール氏が、フランス科学界の重鎮であり、かつ科学と人間の倫理の最先端を問い続けている人だけに、傾聴されねばならないと思います。
 サドーヴニチィ よく理解できます。重要な視点です。
 池田 こうしたスタンスを堅持してこそ、情報化の波に流されず、自己の主体性をしっかりともった、タフな精神力を身につけることができる。情報を使い切っていくこともできます。
 我が国でも、今世紀に入り、大学の研究分野において「情報科学」が学科のひとつになってきました。
 情報科学を人文・社会科学などあらゆる学問分野に深い関わりをもつ学際的総合科学分野として位置づける試みがはじまっています。
4  機械と人間、プロメーテウスの嘆き
 サドーヴニチィ もうすこしコメントさせてください。
 第二のコメントは、「人間と機械」の関係についてです。「情報化社会」において中心的課題となるこの両者の関係では、これまでの歴史が常にそうであったように、再び「人間」に軍配があがると信じています。
 理由は簡単です。人間の感情を代替できるような何らかのロジカル・アルゴリズム(問題を解決する典型的な手法)とかコンピュート・アルゴリズムなど、ありえないからです。おそらく、人間の感情を上手に真似できるイミテーションコンピューターを開発することは可能でしょうが、イミテーション(模倣)はどこまでいっても、イミテーションでしかありません。
 池田 アイスキュロスの悲劇(『縛られたプロメテウス』)を思い起こします。
 そのなかで、神々の所有する火を人間に与えた罪で、岩にくくりつけられたプロメテウスの嘆きは象徴的です。
 火を使うことをはじめとして、「なにもかもひとまとめにして、人間の持つ技術(文化)はすべてプロメテウスの賜物と知れ」(呉茂一訳、岩波文庫)と自負する彼は、巨岩に縛られ、肝を禿鷹に食わせるという責め苦のなかでこう独白します。
 「数限りない苦悩や艱難にとり挫がれて、初めて私は、この繋縛を逃れるのだ。技術というのは、必然(の定め)に比すれば、はるかに力が弱いものだ」(同前)
 ここにいう「必然」というのは、総長のおっしゃる「人間」と、ほぼ同義語と受けとめてよいものです。技術の力は、たしかに偉大だ、しかし、考え違いをしてはいけない。それは手段であって目的ではない。使うものであって使われるものではない。主役である「人間」や「必然」に比すれば、はるかに微弱で、瑣末な端役でしかないのだ――と。
5  教育へ与えるコンピューター化の影響
 サドーヴニチィ なるほど、象徴的ですね。
 第三点として、教育に与えるコンピューター化の影響について申し上げます。ここでは詳細には触れず、現在議論の的になっているいくつかの教育モデルを列挙するに止めておきたいと思います。そのなかには、ロボット教室、モニターのスクリーンから講義を行う教授、遠隔教育(バーチャル大学)、その他があります。それらの是非を問う前に、それでは、なぜそのようなモデルが実施されていないのかを考えてみると、その主な理由は、教育現場ではまだまだコンピューターがたりていないからです。
 池田 なるほど。
 サドーヴニチィ 善し悪しはともかくとして、教室を完全にコンピューター化するためには、すべての児童・生徒と学生が、少なくとも一人1台ずつパーソナルコンピューターを持つ必要があります。そして、電子機器メーカーによると、現在、世界には数億台を超えるパーソナルコンピューターが存在しているとされていますが、すべての子どもに行き渡るためには、その数が数十倍に達するのを待つことになり、それはとりもなおさず、このような論争自体の無意味さを物語っているのではないでしょうか。
 池田 ローマ・クラブのリポート「成長の限界」のメッセージは、地球資源はすべての面で量的限界があることを忘れるな、ということでした。
 パーソナルコンピューターもいくら小型化や高性能化による省エネ化が進んでも、それほどの台数となる前に、おのずと量的限界に達してしまうことでしょう。
 また、それほどの巨大なシステムを維持するために、廃棄や更新を絶え間なく行えば、新たな環境問題を引き起こしてしまうおそれは十分にあります。
 サドーヴニチィ その通りです。
 ただし、教育のグローバルなコンピューター化を支持する人々の着眼点は、むしろ技術的な側面にはないのです。彼らは、それによって、教育を「集団から個人」にシフトさせることが可能になると期待しているのです。この点については、私が発したい疑問はたった一つ、教育をあえて個人化させる意味と価値がどこにあるのかという点です。
 はたして、人間は機械だけに取り囲まれて、たった一人で「人間」に育つことが出来るでしょうか。たとえどんなに「頭脳優秀」な機械が世話をしてくれたとしてもです。機械が人間を育てられるとまじめに考える人がいるとは思えません。人間は、人格を持った人間の中で切磋琢磨されてはじめて「人格の人」と育っていくのだと私は考えます。
 池田 まったく同感です。教育を「個人」にシフトさせるなどという考えは、教育の本義をはき違えています。初等、中等教育であると、高等教育であるとを問わず、人間教育というものは、教師と生徒との直接的な触れ合い、打ち合いを通してのみ、可能となります。それを否定することは、学校教育それ自体を否定することです。
 われわれ誰もが経験していることですが、学生時代に培われた友情や師弟愛は、何かと利害や損得のからみがちな社会人になってからの人間関係とは違って、“無償性”の輝きを放っています。それは、一生の宝であり、むしろ年を重ねるほどに光沢を増してくることは、同窓会などが、中高年になるほど頻繁に開かれるという事実が証明しています。それは、おっしゃるとおり、人格形成に絶対に欠かすことのできないものです。
6  コンピューターはどこまで人間に近づけるか
 サドーヴニチィ ここで、コンピューターはどこまで人間に近づけるか。いわゆるコンピューターの擬人(人以外のものを人にたとえること)論について、考えてみたいと思います。
 人間は、はじめに自分に似せて神を想像しました。その後、人間は、神が自分に似せて人間を創造したと宣言しました。これが、擬人論の本質です。(ダンテにある通り)この世でもあの世でも、すべてが人間に模して存在し、(A・アシモフによれば)銀河系間空想世界もまた擬人的であります。過去の神々も未来の神々も、ことごとく人に似せた存在です。肉体的に擬人であるというのではなく、――シヴァ神などは人間との違いがはっきりしています――思考形態と思考回路が人間に似ているという意味です。
 池田 おっしゃる意味は、よくわかります。人間の形をして人間の動きに極めて近い動作をするコンピューター制御のロボットや人工頭脳の開発も進んでいるようですね。
 サドーヴニチィ 「情報化時代」が到来した今、今度はコンピューターの擬人化がさらに進むと考えられます。テクニカルな計算機であるコンピューターに、人間的属性が付与されていくでしょう。次に、神々の属性も添付されることになるでしょう。神の属性とは、人間よりも上手に未来を予見し、過去を知ることといってよいかもしれません。人間の予知能力は、唯一、既存の数学的推量理論を使うことで、その範囲を超えることはできません。
 池田 コンピューターの擬人化は、これから注目されていく分野ですね。
 サドーヴニチィ コンピューター世界における擬人化現象に気づくのは容易なことです。まず、コンピューター関連の記述に使われている言語がその例です。どの用語もすべて人間と人間社会から転用しているものばかりです。たとえば、「情報と信念」、「情報と理解」、「コンピューター全体主義」、「コンピューター病」、「コンピューター犯罪」、「コンピューター芸術」、「人工人間」、「情報化社会における社会的ヒエラルキー(階層)」等々です。
 池田 それは、言語人(ホモ・ロクエンス)としての人間の本質に由来しています。コンピューターに限らず、自然といい宇宙といっても、人間がそう名づけているにすぎず、名づけたとたんに「人間的自然」「人間的宇宙」以外の何ものをも意味しません。そこに、命名による世界観形成という、人間の言語人たるゆえんがあります。
7  人間関係の希薄化が世界を仮想化する
 サドーヴニチィ ところで、私は、私たちの世界をバーチャル(仮想的)な世界にしてしまっている本当の原因は何か、という問題を考える必要があると思っています。その根本原因は、情報化そのものにあるのではなく、人間同士の関係が希薄であることによる疎外感、人間が自身を取り巻くすべてに無関心であることによる疎外感にあると私は考えます。
 リベラリズム(自由主義)の理論はともかく、その現実は、私たちを完全に疎外された世界に追い込んでいるといえないでしょうか。
 コンピューターは単にその世界を投影させているに過ぎず、技術的に疎外化のプロセスをより容易なものにしているだけです。その意味で、コンピューター化というのは、閉ざされた個人が自分だけの神を持つ新しい宗教と位置づけることができます。
 そこで、質問させていただきたいことがあります。擬人化されたコンピューター世界は、宗教的教義と整合するでしょうか、また整合性をもたせることはできるでしょうか。
 池田 擬人化されたコンピューター世界は、実在を「思惟する我」(精神界)と「延長」(物質界)とに立て分けたデカルト的二元論の帰結、と位置づけることができます。それは、「個我」をベースにした自己閉塞的な世界観であり、その意味では、「閉ざされた個人が自分だけの神をもつ新しい宗教」という総長の位置づけは、じつに的を射たものです。
 私は十年ほど前、スリランカ出身でイギリス・ウェールズ大学教授のチャンドラ・ウィックラマシンゲ博士と、仏法と宇宙をめぐる対談集(『「宇宙」と「人間」のロマンを語る』。本全集第103巻収録)を出版したことがあります。その折、ウィックラマシンゲ博士の恩師で「定常宇宙論」の提唱者として知られるフレッド・ホイル博士が序文を寄せてくださったのですが、その中で、博士はデカルト的二元論の世界を、基本的に外部の影響とは無関係に成立している「閉じた箱」と巧みに形容していました。
 サドーヴニチィ 面白い譬えです。
 池田 ホイル博士は「閉じた箱」を貫く方法論は、その領域内ではきわめて有効であったが、世界には「地球と宇宙全体とのつながりを前提としないかぎり解決できない問題」が数多く存在しており、それには「開いた箱」の方法論をもって対応、解決していかなければならない。21世紀の科学は、否応なくその「開いた箱」の流れになっていくであろう、と述べています。
 そのためには、ベースとなるものも「個我」から「開かれた我」へと展開されていかねばなりません。デカルトの「我思う……」(コギト)の閉塞性を取りはらって、「我感じる……」「我生きる……」「我関わる……」等々、いずれにしても、個別性よりも関係性を重視する方向へと転じていく必要があります。
 私が申し上げた「我感じる……」等の言葉は、ここ数年、日本の先駆的な識者なども力説している、いわば「パラダイム・シフト(思考の枠組みの転換)」ともいうべき定義づけですが、それらの志向するところは、別のところで詳述している仏教の“縁起論”とも整合している、と申し上げておきたいと思います。
8  「万能情報装置」がもたらす逆ユートピア
 サドーヴニチィ モスクワ大学での講演をはじめ、池田博士がいろいろなところで力説されているところですね。
 本対談で以前にも触れたことのあるモスクワ大学哲学部のA・A・ジノヴィエフ教授は、コンピューター化の将来を次のように描写しています。
 「コンピューターは20世紀後半に出現した。はじめは、至極幼稚な知的機能を持つ計算機を『コンピューター』と呼ぶようになった。後に、この単語はより幅広い意味で使われるようになり、インフォメーション関連のあらゆる機械、またその関連で知的オペレーションを模擬するすべての機械が『コンピューター』と呼ばれるようになる。これらコンピューターは、前代未聞の途方もない成功をおさめて、二世代から三世代という短期間に、コンピューターは完全に人類を魅了し、人間はコンピューターに従順に従うようになっていった。そして、コンピューターは、ついに全能の神聖なる存在となる……自分個人の人生についての情報を書き留めていくパーソナルコンピューターを、人々は冗談で、懺悔室と呼ぶようになっている。そして、今度は冗談ではなく、人々は、コンピューターが我々の精神生活を物質的に表現するもので、肉体を持たない魂に目に見える形を与えるものだと、まじめに考えているようだ」(Gloverlinyi Cheeloveinik Moscow, 1997)
 池田 そうですね。そこが問題です。
 サドーヴニチィ 続けて博士は、こう指摘しています。
 「コンピューターは、その発展過程で三つの段階を踏んだ。すなわち、指で入力する第一段階、口述入力する第二段階、そして人間の思考を読み取る第三段階である。寝ている人間のみる夢を読み取ったり、人間の意識に上らない脳の活動、つまり潜在意識を書き留めたりするコンピューターも登場した。20世紀において既に、遠く離れたところから懺悔僧にアクセスできるミニチュア装置が発明されていたし、また同様に20世紀に、グローバル情報ネットワークからあらゆる分野の参考資料を取り出すミニチュア装置も発明されていた。現代人の我々は、万能情報装置のない生活などすでに想像もできない。それがないのは、あたかも、懺悔する場所をどこにも持たないようなものだ。まさにこの万能情報装置のおかげで、我々は、過去人類が綿々と蓄積してきたすべての知的遺産を携帯して持っていることができるのだ。そしてこのおかげで、我々は、超人類になったといえよう」(同前)と。
 知的遺産を継承するのではなく、携帯して歩くとは、なんと的を射た表現ではありませんか!
 池田 荒涼たる冬景色を見るような逆ユートピアという以外にありません。ジノヴィエフ教授は、一つのアイロニー(皮肉)として提起されているのでしょうが「超人類」などといっては、ニーチェに失礼でしょう。
 そこでは、万能情報装置が破壊されたり、故障したりする可能性は皆無なのでしょうか。万事機械頼みの人間の「記憶する力」「想像する力」「読む力」「書く力」「愛する力」「耐える力」「挑戦する力」「歩く力」「噛む力」……総じて「人間力」はどうなっていくのでしょう。息絶えんばかりに、萎えていってしまうにちがいない。再び「人を小馬鹿にしたような、急速冷凍したコミュニケーション」(「世界を知るためのささやかな哲学」アルベール・ジャカールユゲット・プラネス吉沢弘之訳徳間書店)とは、言い得て妙です。
9  情報化による生活テンポの加速は適正か
 サドーヴニチィ おっしゃるとおりです。
 ところで、情報化が私たちの生活テンポを激しく加速しているという事実に反論する者は、おそらくいないでしょう。
 過去のアメリカを事例にとってみると、ラジオの視聴者が5000万人になるまでに、40年かかったといわれています。
 次にテレビが同数の視聴者を獲得するのに13年かかりましたが、グローバルコンピューターネットを国内で5000万人の人が利用するようになるのには、たったの4年で十分でした。
 さらに、その利用者の数は年間1000%の勢いで増えているとのことです。
 池田 その意味では、もっぱら利便性と効率性を追い続けてきた科学技術文明が、行きつくところまで来たのが、情報化であるともいえます。
 サドーヴニチィ ただし、このスピードが、はたして生物学的進化が許容する速度とどこまでマッチしているものなのか、対比研究をする必要があるように思われます。
 近年20~25年間の社会学研究は、事象の変化の速度が速まると、一般人の負担感が増すことを証明しています。
 そのもっとも顕著にうらづける現象として、ストレスが原因で発病する病気や、精神的負担に耐えられないために起こる心身症などの患者が、脱工業化社会、先進諸国の住民の各層で急増していることがあげられます。
 情報化社会は、「生物的、社会的進化を際限なく加速させていくだろう」という人もいます。
 もしそうだとすると、そのように進化が加速されてしまった場合、そのプロセスは古典的な「進化」という概念にあてはまるのでしょうか。博士のお考えをお聞かせください。
 池田 私は、急進的な変化よりも漸進的な変化の方が、人間性や人間生活の健全な在り方にかなっていると信じています。近代社会とくに20世紀後半のような瞠目すべきテンポの先進工業国の進化は、経済的価値の追求のみが突出し、明らかに速すぎる面があると思います。
 その意味からも、私は、「ワールド・ウォッチ研究所」を創設した、アメリカのレスター・ブラウン博士の提唱する「エコ・エコノミー」というパラダイムは傾聴に値すると思います。博士は、人間の生物学的条件を踏まえた上での「経済的概念のコペルニクス的転換」を訴え、こう述べています。
 「経済は地球の生態系の一部であり、したがって、それと調和するように再構築されないかぎり、経済は発展を持続することはできないという認識をもつことが必要である」(福岡克也監訳「エコ・エコノミー」北濃秋子訳、家の光協会)と。
 たしかに、パソコンの習熟度に象徴されるように、進化に対する順応性という点では、年配者よりも若い人々の方が格段に優れています。
 それ自体は素晴らしいことですが、このままいくと、テレビ・ゲームに夢中になっている子どもや、パソコンの世界に没頭している若者たちが、機械を操作するというよりも、機械に操作され、人間のコンピューター化が進んでしまうのではないかとの危惧も否めません。
10  「等身大」を見失った科学技術文明の歪み
 池田 総長のご意見を伺いたいのですが、科学の世界に「等身大」というパラダイムを導入することはできないでしょうか。「等身大」とは、自分の分際や能力に見合っていること、を意味します。人間が生み出したものですから、科学も「等身大」であるべきで、その観点からいえば、核兵器などは、明らかにその枠を逸脱しているというべきです。“線引き”はなかなか難しいかもしれませんが――。
 サドーヴニチィ 科学者にとっても重要な視点です。
 池田 仏教では、対象を認識するよりどころとして「六根」を説いています。すなわち、(1)眼根(視覚器官と視覚能力)、(2)耳根(聴覚器官と聴覚能力)、(3)鼻根(臭覚器官と臭覚能力)、(4)舌根(味覚器官と味覚能力)、(5)身根(触覚器官と触覚能力)、(6)意根(思惟器官と思惟能力)の六つです。
 それらをとぎすまし、総動員しなければ、対象を正しく認識することはできない、と。
 そうした鏡に照らしてみると、「思惟する我」と、その「延長」から成るデカルトの二元論、近代の機械論的世界観は、あまりに「意根」のみに依存しすぎています。
 したがって、そこのみが肥大化してしまって、「等身大」の枠を大きく踏み越えてしまった。私は、近代の科学技術文明の発展とともにその歪みをもたらした最大の要因は、そこにあると思っています。つまり、人間の分際や能力に見合わないところまで来てしまっている。つまり、人間の分際や能力に見合わないところまで来てしまっている。さきに私は、「我思う……」から、「我感じる……」「我生きる……」「我関わる……」といった命題へのパラダイム・シフト(思考の枠組みの転換)について触れました。「我思う……」が「意根」一本やりなのに対し、ラフな表現ながら、後者の三つは、六根のすべてを、換言すれば「等身大」を志向していることは明らかです。人間の全人性といってもよい。それゆえ、私はそうしたパラダイム・シフトが、文明を軌道修正していくためのコンセンサスにならないものかと、念じているのです。
11  教育だけが人間の知性と精神性を開発する
 サドーヴニチィ 深く共感します。確かに、知性は、人間全体の一部にすぎません。したがって、科学的知識の進歩をもって、一個の人間の進歩と混同してはならないでしょう。
 地球文明の進歩という観点で言えば、人類の飛躍的な成長は、いつの時代も、優れた一人の人間の中で起こりました。人知の最高峰を開いた智慧は、群生したのではありません。集団が練り上げたのでもありません。
 その典型的な例を、私たちは、世界宗教の創始者たちに見ることが出来ます。釈尊、キリスト、マホメットという一個の人間が、人類未踏の高度な精神性と世界観に到達し、そしてその教えが出来上がっていきました。それは個人が開いた悟りでした。それが後に他の多くの人々に広められることで、時間をかけて人類の共有財産となってきたのです。学問も同様です。科学的洞察、自然の法則は、ニュートン、マックスウェル、メンデル、アインシュタイン等々の具体的な個人によって発見されてきました。それを次第に人々に広めていくことで、人類文明総体として進化、成長してきました。
 こう考えてくると、遺伝子工学は、人類の進歩とはほとんど無関係の学問と言わざるをえません。つまり、言葉は悪いのですが、頭の良い人の遺伝子をそうでない人間に移植しても、人類が進化したことにはならないからです。
 遺伝子工学は、医学の分野で既に一定の成果を収めています。特に遺伝性病理学的欠陥(欠損)の治療に応用されている例が挙げられるでしょう。しかし、それは身体に関してであって、人間の心理的傾向性や知的能力を向上させるためにはあまり期待をかけるべきではないと私には思われます。
 池田 人間の精神面への応用は、むしろ、人間であることの尊厳性を根っこから掘り崩してしまうおそれさえ、あるのではないでしょうか。
 サドーヴニチィ ええ。人間の知性と精神性を開発するという労作業は、やはり教育によってのみ達成されると自負したいものです。
 技術は人間を作れないことを物語る格好の例が、コンピューターの進歩です。昨今のコンピューター産業は「スピードのためのスピード競争」に明け暮れています。その無駄については、専門家が次のように指摘している通りです。
 仮に、ある人がコンピューター講座を12カ月間受講したとしましょう。彼がこの講座を修了する時には、学んだことの50%は、すでに古くなっていて、役に立たない知識になってしまいます。
 池田 ものすごい変化のスピードですね。
12  情報の洪水から身を守る「基礎知識」
 サドーヴニチィ 教育学において広く知られている法則があります。それは、学校や大学を卒業する時点で、習ったことの半分は時代遅れになっているか、もしくは忘れてしまっているものだ、というものです。
 この法則は、情報化社会でも変わらず有効のようです。ただし、情報化社会では、50%どころか、80%、いな90%が古くなってしまうこともありえるでしょう。やや抽象的な言い方をすれば、「情報の半減期」がどんどん短縮していくということです。
 池田 ただでさえ、大学で習得した知識が、実社会では役に立たないという苦情が、産業界から出がちなのに、コンピューター化が、そうした傾向を、いやが上にも加速させてしまうわけですね。
 サドーヴニチィ ええ。この流れに対抗する手段は、はたしてあるのでしょうか。私は、あると考えています。それは、人々が、いわゆる「基礎知識」を高めることによって、利用する情報量を最低限に押さえることです。この方向性を強く推進できるのは、大学をおいて他にはありません。大学はまさに基礎学問と基礎知識を支える中心的機関といえます。
 池田 読者の方々の理解のためにも、そこのところを、もう少し具体例を挙げて、話していただけますか。
 サドーヴニチィ よろこんで補足させていただきます。
 情報化社会では、大量の情報が常に洪水のように流れています。私たちは、その洪水と、人間であるために必要な「基礎知識」とを区別できることが大変に重要です。
 「基礎知識」とは、換言すれば、精神世界と物質世界の両面を人間が正しく認識するために必要なものと言っても良いでしょう。それは決して特別な難しい学問的理論である必要はありません。人間の認識の基礎には、まず母国語(言語)が挙げられます。そして、文化と歴史です。
 また、現代においては、環境問題への理解も基礎知識と見なされるべきでしょう。企業家であっても、技術者であっても、または、建設業、農業に従事する場合も、職業や立場にかかわらず、人間の生産活動が地球という生命空間にどのような影響を与えるかは、誰でもが知らなければならないからです。
 ただし、脱工業化社会に存在している大学にとって、この役目を果たすうえで唯一障害となるのは、世界的に教育がコマーシャライズ(商業化)され、それがために、カリキュラムが極端に功利主義的、実利主義的にならざるをえないことです。
 池田 教育のコマーシャライズに対し、総長がどのように身を挺して戦ってこられたかは、私も十分承知しているつもりです。
13  情報化社会版の童話『シンデレラ』
 サドーヴニチィ 最後に、情報化社会の不安定性について、論及してみたいと思います。冒頭に述べましたように、池田博士は、情報化社会という「電脳空間」が生み出す多くのデメリットを懸念されています。また、さきほどは「人間のコンピューター化」を憂慮されていました。私は、それらは決して杞憂ではないと思います。
 なぜなら、情報化社会というのは、その本質においてバーチャル(仮想的)な世界だといえます。情報化社会は、「情報」という概念の上に築かれる社会ですが、「情報」というのは、数学でいえば、「点」、「線」、「面」などの不定概念に相当するものです。この概念を用いて作る世界が、バーチャルでないということはありえない。抽象的になるのは必然といえます。
 バーチャル世界では、人間の知的生活が変化するだけでなく、情緒も顕著に変化していくと思われます。
 今度はロシアの例を挙げてみましょう。我が国のテレビ番組に「奇跡の広場」というのがあります。この番組は、どこからか降って湧く幸福、つまり奇跡を予感し、それをパターン化しようとするものです。番組は、「もう少し我慢して待っていれば、あなたもいつかは幸運の『くじを引く』ことができる」ということを繰り返し、視聴者に確信させていくもののようです。
 池田 コンピューターによる情報操作だけで、巨万の富を手にすることができるとすれば、額に汗して働くことなど、当然ばからしくなってきます。“カジノ資本主義”“マネー資本主義”下で、そうした風潮が蔓延すれば、おっしゃるようなテレビ番組が人気を博すのも当然でしょう。
 サドーヴニチィ この「奇跡の広場」は、いうなれば情報化社会版の童話『シンデレラ』と呼べるでしょう。そう、童話は常にバーチャルです。ただし、過去において童話は、家庭のなかで子どもに語られるという意味で、子どもの世界に限定的に存在していたといえます。
 ところが、コンピューターの広範な普及によって、童話は、子どもの世界という垣根を越えて、広く大人の世界に真顔で入るようになったのです。それによって、成人したはずの人間の情緒、心理状態が変化してしまっていることに、どれだけの人々が気づいているでしょうか。
 池田 童話のバーチャル性は、あくまでもリアリティー(現実)感覚を磨き、豊かにするためのものでした。しかし、長じてなお、バーチャルとリアリティーの区別がつかなくなる例が多く見られます。
 サドーヴニチィ 憂慮すべきことです。また、「どんな出来事にも無感情、無反応」という人間に、これまでになく頻繁に出くわすようになりました。これは、大量に流される情報に雑多な「ごみ」が、これまた大量に混じり込んでいることと大いに関係しています。
 宇宙空間では、使用済み宇宙船の廃材(宇宙ごみ)が何百万個も軌道上を回り続けていますが、同様に情報世界でも、報道、宣伝のかすのようなものが至る所にあふれかえり、私たちは毎日ごみ混じりの情報を浴びているわけです。テレビのスクリーンを通して、またはコンピューターネット、ラジオを通じて、さらに毎日発刊されるさまざまな印刷物となって、実に騒々しい出来事が巨大な量の情報となって人間に絶えず襲いかかっています。
 池田 環境問題を扱った不朽の名著『沈黙の春』の著者レイチェル・カーソンは、彼女の最後のメッセージともいうべき『センス・オブ・ワンダー』でこういっております。
 「子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく驚きと感動にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精の話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない『センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性』を授けてほしいとたのむでしょう」(上遠恵子訳、佑学舎)といっています。その瑞々しい感覚を喪失すれば、人間は、生ける屍のようになってしまいます。
14  読書が持つ能動性、人間力
 サドーヴニチィ そんな状態に、人間が長い間耐えられるはずがありません。
 人々の反応はさまざまです。モスクワ大学の私の学生たちを見ていると、彼らはどうやら、これらの情報攻勢から自身を防御する方法を自分なりに見つけているようです。学生のほとんどは、ヘッドホンで耳をふさいで好きな音楽を聴くというやり方をしているようです。
 別の方法としては、読書があります。少なくともモスクワ大学では、教材以外の書物に対する需要が減少する様子はありません。インターネット上の電子図書館を使って、画面上で読書する新しい方法は、私たちの経験で見るかぎり、通常の図書の利用、読書を駆逐するどころか、かえって本への関心を高めていると思われます。
 池田 それは、心強い話を伺いました。私も、2000年に世に問うた「教育提言」で、情報化の洪水から身を守るための最大の武器として、良書や名作に親しむことを、強く推奨しました。
 読書のもつ能動性、それを持続させる忍耐力、他者の喜びや悲しみへの共感性を育む想像力等、いずれも、あふれかえる情報に囲まれて受け身になりがちな人間が、身につけるべき“人間力”です。
 情報化社会が、必然的に人間の生きる力を衰弱させ、奪い取ってしまう習性をもつことを、人々は本能的に気づいているのでしょうか。“自然は真空を嫌う”ように、最近の日本では、一種の日本語ブームが起きています。いうまでもなく、良書や名作に蓄えられた美しい母国語というものは、魂に安らぎや活力を与える“故郷”だからです。
15  人生は「ゲーム」ではなく「ドラマ」である
 サドーヴニチィ 当然の流れでしょうね。
 情報化社会のバーチャル性を物語る例として、「電子ゲーム」の広範な普及をあげたいと思います。文字通り老若男女を問わず、みんながこのゲームに夢中になっています。いまだ「情報化の揺籃期」にある現段階を特徴づけている現象が「ゲーム」だといえます。教育の過程でも、コンピューターやインターネットを使った教材が多数ありますが、その大半はゲーム的要素(ここでは必ずしも娯楽という意味ではありませんが)から組み立てられています。
 グローバリゼーション(地球一体化)が進んでいくにつれ、「人生はゲームである」という人生観を現代人がもつようになるとすると、この新しいパラダイムには明らかにそぐわない古典的精神的価値観は完全に捨て去られてしまうのではないかと思うのですが、この点についてどうお考えになりますか。
 池田 一時のブームはともかく、「人生はゲームである」という人生観が根づくことはないでしょう。なぜなら、人間は、心の奥底では、そうなることを欲していないからです。総長が、「人間と機械」との関係では、「人間」に必ず軍配があがるとおっしゃっていたのも、その意味ではありませんか。「人生はゲーム」とは、とりもなおさず、人間の機械に対する敗北を意味するのですから。
 私は、「人間」に軍配があがるという総長の言葉の含意性は、アイスキュロスの悲劇に出てくる「必然」と、ほぼ同義語であると申し上げました。この「必然」という言葉は「宿命性」のニュアンスを濃密に帯びていることに留意してください。私が「家庭」のところで申し上げたように、「宿命性」による有限性の自覚こそが、人間が真に人間に成るための第一歩です。だからこそプロメテウスは「必然」という抗しがたい、そして人間が本然的に欲している力に比べれば、「技術」など、とるにたらぬものだと一蹴しているのです。
 そうです。人生は、ゲームではなくドラマです。そうでなくして、なぜ「縛られたプロメテウス」をはじめ、ギリシャ悲劇が、今日まで人々に愛され、語り継がれてきたでしょうか。その命脈の長さに比べれば、「電子ゲーム」の流行など、うたかたのごとく消え去ってしまうであろうと、私は信じています。

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