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まえがきに代えて――読者へ V・A・サドーヴニチィ/池田大作

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

前後
1  グローバル化しゆく世界に、おいて教育は如何にあるべきか、大学が果たすべき使命とは何か――私たちの対談の原点には、この問いかけに対する思索があったといってよい。
 池田は、一九九九年に「平和の凱歌――コスモロジの再興」と題する平和提言(本全集第101巻収録)を発表し、「暴力の行使」という「ハード・パワー」に対して、「対話の力」を「ソフト・パワー」と定義した。サドーヴニチィは、この池田の考えに深く賛同し、私たち二人は、まさに「ソフト・パワー」を「武器」として教育の未来を論じ合おうと決意し、本対談に取り組んできた。
2  対話とは、異なる世界に生きる人間を理解するプロセスに他ならない。また対話とは、双方がそれぞれの文化のなかで異質の経験をしてきでおり、異なる情報を蓄積してきでいること、そのために認識の隔たりがあるととを前提とし、受容し合うことでもある。
 それは、差異を乗り越えて理解にいたるための努力と寛容を要する労作業である。ゆえに真の対話は多様性を尊ぶ文化にのみ息づくともいえる。
 人間同士の直接の対話でなくとも、同様の「対話の精神」が求められる場面がある。一つは、文化的背景の違う言語間の翻訳作業である。もう一つは、時代を遡って文献を解釈する場合である。そこで筆者と読者の「対話」を成り立たせるためには、筆者と読者の問に広がる言語・文化的相違、時代背景の違いを考慮した翻訳、解釈がなされなければならず、一方の尺度ですべてを推し量ってしまわない複眼的アプローチが重要となってくる。
 現代世界は、いまだ文明間にさまざまな不協和音を抱えており、その克服は人類の根本的課題となってきている。そのなかにあって私たち共著者は、「グローバルな対話」の必要性を痛感している。対話の精神こそが文明間の対立と紛争を克服するための有力な、そしておそらく唯一の方途であると信じるゆえである
 不協和音の原因の一つは、現今の国際社会が双方向性を欠いている点にあるのではないだろうか。つまり、ヨーロッパ中心の視点、さらに近年にあってはアメリカ的な価値観が、大勢の優位を保って、ほぼ独占的に世界に向かって発信されてはいないだろうか。本対談において両著者には、その価値観そのものの是非を問い直す意図はない。ただ、真の対話の欠如がもたらす世界観の歪みを指摘したいのだ。
3  一方的な見方に慣れてしまうと、たとえば西欧の人間にとっては、それ以外の地域の視点に配慮したり、自分の価値観、生活様式になじまないものを正当に評価することが困難になってくる。異なる人々、文化への理解のまなざしが開かれていかないのだ。
 西欧はこれまで、「東洋は、西洋的思考法を用いてのみ自己認識するべきだ」と頭ごなしの態度を押しつけてきたのではないだろうか。西欧は、政治、経済、文化で東洋が自己を描写し、弁明しようとするなら、西洋的手法でのみそれをしなければならないと考え、それを当然のこととしてきた。
 そのことは、以下に引用するバートランド・ラッセルの言葉からも、うかがい知ることができる。
 「本書のような歴史書で、ふつうにいわゆる東洋の知恵を容れる余地が私たちにないのはなぜか、不審におもう人もあろう。これには、数個の答えをすることができるであろう。第一、二つの世界は別れ別れに出てきたから、西洋の思想の説明は、それだけでも完全なものになりえぬことはない。(中略)しかし、そこには、今一つ、こういうことをしても差支えない、止むに止まれぬ理由がある。重大な幾つかの点で、西洋の哲学的伝統は、東洋精神の思弁とは異なるからである。ギリシャ文明を除けば、一つの文明で、哲学の動きが科学的伝統と手を携えて進んでゆくものはない。これこそ、ギリシャ人の進取の気概に、その独自の活躍舞台を与えるものである。この二元的伝統こそ、西洋の文明を形造ってきたものである」(『西洋の知恵 図説西洋哲学思想史』下、東宮隆訳、社会思想社)
 私たちは、まさにこのような西欧的思考の正当性を疑ってみるべきではないだろうかと考えている。
4  私たちがこの対談を開始したのは、じつに約五年前の一九九九年のことであった。対談は、回を重ねるごとに、そして時間の経過とともに、テーマを広げ、教育を中心軸に多角的な問題群に取り組むものとなっていった。
 今日の世界の教育界は、カリキュラムの組み方と学校制度の在り方について、おおよその共通のビジョンを作り上げているといえよう。しかし、教育はなんのためになされるべきか、また教科の内容をどのような性格にすべきかという点では認識に隔たりがあり、未来の教育を語るとき、この一帯離を無視することはできないと考える。
 しかし、従来の教育理論と実践という枠内だけで教育の目的を論じることには限界があると思われる。少なくとも私たちは、そこに既成の回答を見出すことができない。むしろ「対談」を通じた文明論的なアプローチのなかで教育の使命を語り合う必要性を認めざるを得なかった。
 同時に、私たちは、本対談が抽象論、一般論に終始することを避け、可能な限り教育の現場と大学の実情に結びついた内容となるように努力したつもりである。本書で語り合われた内容が、今後の大学運営に、またはその方向性に何らかの示唆を与えるものとなれば幸甚である。
5  世界の大学は、今後、それぞれの地域性を保ちつつ、広く国境を超えた大学問の協力体制を作っていく時代を迎えると私たちは考えている。多国間の大学協力に関する具体的輪郭はいまだ明らかではないが、しかし将来の展望として国際的教育を実現していく主要な道筋になるであろうと思われる。そして、私たちは、世界の大学が二十一世紀の先端技術と高度な精神文明をリードしゆく、教育と学術の一大拠点となることを期待したい。
 大学はまた、東西文明の融合を図る使命を担っているともいえよう。なぜなら、西の技術文明と東の精神文明が出合う場が、教育と学術の殿堂としての大学だからだ。その意味で、私たちの対談は、グローバル化する世界における大学の役目について多くの時間を割いている。
 私たちはともに、その人生の大半を大学教育に棒げてきた。とくにサドーヴニチィはロモノソフ記念国立モスクワ大学とともに生き、池田は創価一貫教育の要としての創価大学の創立、発展に心血を注いでいる。その大学人としての経験と知識に立脚して、私たちは、教育理念をできる限り大学の現実に引き当てて論じ合ってきたつもりである。大学が直面している複雑な問題群について掘り下げた語らいとなったように思う。
6  本対談は、日本語で2002年に上巻(『新しき人類を新しき世界を――教育と社会を語る』)が、続いて2004年に下巻(本書)が出版された。ロシア語版は、日本語版の下巻とほぼ同時期に、『二つの世紀を挟んで――教育を語る』と題して上梓された。
 私たち両対談者は、二人の共同作業である本書がロシアと日本の相互理解の深化に資することを念願してやまない。本書を通じて、読者が、両国の人々の共通点を見出し、共有できる普遍的価値を読み取っていただければ光栄である。モスクワ大学と創価大学がこれまで多角的な大学協力を実現してきたように。
 ヴィクトル・A・サドーヴニチィ 池田大作

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