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日蓮大聖人・池田大作

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3 グローバリゼーションの時代  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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8  教育における復元力に期待
 サドーヴニチィ よく理解できます。
 おもしろいことに、私は、いまだ、技術や技術革新を母体として生まれた伝統というものを見たことがありません。おそらく、そういう伝統はないのでしよう。なぜなら、技術は、思い出のなかに何も残さずにどんどん革新していってこそ、先端技術なのでしょうから。反対に、伝統は、まさしく思い出そのものです。
 二十世紀は綿々として人工構造( artifacts )を作ることに没頭してきた時代ともいえます。この人工構造に「伝統」というカテゴリーを用いることは可能でしょうか。それとも、(一人の人間の一生とい単位の)短時間で変化していく世界では、このカテゴリーは無用の長物になっていくのでしょうか。
 池田 一昨年(2000年)の夏、エールフランスの超高速旅客機コンコルドの墜落と、ロシアの攻撃型原子力潜水艦クルスクの沈没事故がありました。ともに、百人を超える犠牲者を出した痛ましい、しかも人為的な事故でした。
 あのとき、日本のある経済閣僚が、「超高速旅客機コンコルドやミサイル搭載型原子力潜水艦は、二十世紀後半の冷戦時代に、人類の英知を結集して開発した先端技術であった。それが今、二十世紀とともに過去の遺物と化そうとしている」といっていたことを思い出しました。
 もちろん、ハードな技術も当然必要ですが、それだけで文化や伝統は生まれません。これからは、ソフトな側面――伝統の継承、自然との共生、弱者への配慮等に、もっともっと目を向けていかなければならないと思います。
 サドーヴニチィ それが、時代の必然的要請であることは、私も痛感します。都会っ子のロシア人が、週末を郊外のダーチヤ(別荘)で過ごすのを理想としているのも、豊かな自然環境をぬきにしては考えられません。
 池田 自然に帰れといっても、もはや自然は多分に人工的自然であること、進歩を捨てて自然そのものに帰ることはできないであろうことなどを踏まえたうえで、私は、アメリカ先住民の一指導者が、前世紀の末に、時のアメリカ大統領にあてた手紙の一節に耳を傾けるべきだと訴えておきたい。
 ちなみにこの手紙は、二十世紀を代表するバイオリニストであり、私も東京で親しく語り合ったことのあるY・メニューイン氏が、好んで引用していたものの一部です。
 「白人の都市には、静かな場所がありません。秋の葉音や見虫の羽音をきく場所がないのです。たぶんわたしが野蛮人でわからないために、騒々しい話し声が耳を辱しめるのでしょう。そしてもしも人間がヨタカの美しい鳴き声や、夜になると池の周囲でおこなわれるカエルの議論を聞くことができなければ、生活はどうなるでしょうか? インディアンは、池の水面をさっと吹いてゆく風のかすかな音や、真昼の雨に清められたり松のかおりを発散したりする、風そのもののにおいのほうを好むのです。空気はインディアンにとって貴重なものですが、それはすべてのもの――動物と樹々と人間自身――が同じように呼吸しているからです。白人は、自分が呼吸している空気に気づいていないようです。死んで何日もたつた人間のように、彼は自分の悪臭に無感覚なのです」(R・ダニエルズ編『出会いへの旅 メニューインは語る』和田旦訳、みすず書房)
 サドーヴニチィ 大事な感性ですね。
 伝統、精神的価値観、民族的固有の文化を守っていこうという観点からすると、グローバリゼーションのこれまでの進展の仕方を見る限り、その行く末を楽観するわけにはいかないようです。
 著名なアメリカの未来学者アルビン・トフラーは、「現代の西側文明は、全体を部分に分け、極微の成分に分解するという芸術の最高峰に達した。我々は、この芸当で非凡な才能を発揮し、あまり上手に分解して、元の全体に戻すことをしばしば忘れてしまっている」と書いています。
 これは、伝統についてもいえることです。国もしかり、民衆、民族もしかり、すべてが部分化、孤立化していくと、いわゆる伝統そのものが消滅してしまうという恐れは十分にありえるからです。
 伝統の危機、伝統的なるものの危機とは、それらが時代の価値観やモラルにそぐわなくなったことより、むしろ、現代社会が全体性、統合性を嫌って個と部分を好むことにあるのではないでしょうか。
 池田 おっしゃることに大賛成です。二十世紀の量子力学界の泰斗といわれたW・ハイゼンベルクに「私の生涯の偉大な出会いと対話」という、プラトンの”対話編”を思わせるような自叙伝があります(邦訳は山崎和夫訳、みすず書房刊)
 彼は、そのタイトルを『部分と全体』と銘打っています。内容は当然のこと、タイトルから推察されるように、「個」と「部分」に偏りがちな現代の社会、思想界や教育界にどう「全体性」と「統合性」を回復させるかが、この偉大な科学者にして哲学者の生涯のテーマでした。
 サドーヴニチィ 池田博士、私には、内に秘めた予感があります。
 今後さらに、国家、人心の欧米化と部分化が進んでいくにつれて、伝統は、(素粒子のように)これ以上分けられないところに行きつくでしょう。そうすると、伝統は形を変化させて、精神活動の不可分の要素を成す思考と意味の世界で再生産され続けていくであろう、と思うのです。
 池田 私は、一九八四年、「教育の目指すべき道――私の所感」(本全集第1巻収録)と題する提言をしました。そのなかで、教育理念の三本柱として①全体性、②創造性、③国際性をあげました。そうした志向性こそが、新たな文明的、人類史的課題に他ならないからです。
 人間が人間である限り、そうした復元力は働くであろうし、また、そうさせていかなければならない。その意味では、私も、楽観主義者です。
 もっと掘り下げてお話ししたいのですが、時間がきましたので、ここでいっぺん終了させていただきます。この対談をさらに継続させ、私どもの共通のテーマである”大学の未来像”等を論じていきたいと思います。
 サドーヴニチィ ええ、大賛成です。ぜひとも続けましょう。未来のために、青年のために。ますます池田博士との対談に大きな意義を私は感じています。
 私たちの対談が、ロシア、日本の多くの人々に読まれる日が来ることを願っております。その日まで、さらに継続して取り組んでいきましょう。

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