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2 対話の力――「平和の世紀」を求めて…  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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1  人類の宿命を転換し「平和の世紀」実現へ
 池田 二十一世紀の第一年の本年(2001年)、世界最高峰の英知の大殿堂ともいうべきモスクワ大学の総長であり、ロシアを代表される科学者であるサドーヴニチィ博士と有意義な対談を続けてきました。
 サドーヴニチィ この対談のテーマは、わが国だけでなく、二十一世紀を迎えた世界にとって避けて通れないものですし、モスクワ大学を預かるものとして、私も全力で取り組ませていただきました。
 しかし、このような月刊誌「潮」での連載は、あまり経験がなかったことと、加えて、世界のめまぐるしい変化の連続のなか、テーマがあまりにも大きく、とまどいもありましたが、こうして池田博士と時を選んで対談ができましたことを、私も大変に光栄に思っています。
 池田 総長との対談は、二十一世紀を迎えた人類が、二十世紀の残した課題を、次の世代にそのまま引き渡すのではなく、英知を結集し、解決への糸口を見出していくべきである、との思いから開始したものでした。
 サドーヴニチィ 私の記憶が間違っていなければ、池田博士は、すでに四半世紀以上も前に東洋と西洋との対話を始められました。その広がりの始まりが、二十世紀の偉大な歴史学者トインビー博士との対談だったことは、あまりにも有名です。
 その後の数多くの対談を通して、池田博士は、文学史上、忘れられかけていた「対談」というジヤンルを現代に生き生きと蘇らせました。
 私が心打たれるのは、あなたの対話がつねに、まったく違う考えをも理解し包容されようとする、いわば他者への理解の眼に貫かれていることです。よく学者が好むディベートとは際立って違っています。ディベートでは、双方が、自らの論拠の正しさを証明し、自分の経験を絶対化し、相手の間違いを指摘することになっています。
 しかし、あなたの対談には、そのような影は少しもありません。多様な異なる人々の心をつなごうとされているかのようです。
 池田 総長こそ、ご多忙のなか、深い理解と寛大なお心で対談を進めてくださっていることを、私はよくわかっております。また感謝しております。四月(2001年5月号)から連載を開始し、対談は、テーマとともに世界の動静も論じ合ってきました。誌面に限りもあり、これまでの連載では意を尽くし切れなかった部分も多々あります。
 しかし、新世紀第一年が終わることを契機に、この連載も、ひとまず終了し、今後、往復書簡等を通して意見を交換し、日ロ双方で対談集の発刊を目指していきたいと思います。
 サドーヴニチィ 私も喜んで、この対談を続けさせていただきたいと思っています。
 振り返ってみますと、2000年夏に、池田博士と対談の準備に入ったのがつい昨日のようですが、一年半の間に世界では多くの悲しむべき惨事が繰り返されました。
 アメリカで九・一一の悲劇を起こしたテロリストに対して世界中が憤っています。あまりにも残忍な行為です。
 この憤りと悲しみのなかで、私たちが忘れてはならないのは、「報復は決して悪を根絶やしにすることはできない」という峻厳な事実ではないでしょうか。
 池田 これについては、前節で基本姿勢を確認し合いましたが、人間が同じ人間を殺し合う、という状況が続く限り、決して人類の未来はありえないと断言できます。
 二十一世紀の入り口に立って、人類がどのような方向性を見出し、平和と安定した幸福な世界を創出していくか。今こそ、指導者は、この最重要の課題に全身全霊で取り組まなければならないと思います。
 人々の不安を取り除き、安心と希望を与えてこそ、真の指導者だからです。
 サドーヴニチィ まったく同感です。
 池田 今回の同時多発テロ対策について、欧米だけでなく、貴国も、またアラブのイスラム圏の世界も、宗教を異にする国家も、「テロ行為は、断じて許されない犯罪である」というコンセンサスが芽生えてきたことに私は注目したいのです。
 サドーヴニチィ テロリストと犯罪者たちは、厳格に法的手順を踏んで、国際的な司法の場で裁かれることが必要です。いかなる状況下に置かれても、「法」の下の公正な裁きを待つ、という方向に世界が進むことが、唯一、人間社会を報復の悪循環から救い出す道だと考えます。
 池田 テロ犯罪だけでなく、環境問題の地球温暖化にしても、現在人類に迫っているさまざまな問題は、一国の範囲だけで解決できなくなってきています。もはや国益を超えて、国際的に協力し合って対処しなければならない時代に入っています。
 サドーヴニチィ 他国で起こっていることだから関係ない、という時代は、はるか過去のものですね。にもかかわらず、多くの人々はなかなかそのような自覚に立つことができないでいます。
 池田 広い視野をもって対処していくことが必要な時代になってきました。指導者、責任者が国際的に協力のネットワークを広げていくことが、急務です。
 サドーヴニチィ だからこそ、池田博士が常々提唱されておられる生命の世紀へ、平和の世紀へと大きく方向転換させなければならないと思います。そして政治も、経済も、科学も、宗教も、すべては一人の人間のためにあるという思想哲学こそ、待望されるものです。
2  「イソップ物語」に含まれる永遠の教訓
 池田 これまで語り合ってきた、「知識と知恵の架橋作業」「自由と平等の架橋作業」そして「伝統と近代化」についての対談が志向する一点もそこにあったと思います。
 我々が伝統というとき、そこにイメージされる時間は、時計で計測され、だれにでも等しくあてはまるような客観的、物理的時間とは、次元を異にしたふくらみをもっているものです。
 サドーヴニチィ その例を文学に求めてみましょう。寓話は、短い物語で、韻を踏んだ教訓であったりします(少なくとも、ロシアではそういうものとされています)。どこの国にもそういう寓話を書く人々がいるものです。そしてじつに興味深いことに、寓話を創作する人々は多種多様で人数も多いのに、そのストーリーは定番のものがほとんどで、その数もせい、ぜい百か二百ぐらいしかありません。
 寓話の主だったストーリーは古代小アジアのフリギア人といわれるイソップ(アイソポス)を原型としており、彼がこの文学ジャンルの創始者とされています。彼の寓話は、のちにフランスのラ・フォンテーヌの豊かな創造の源になりました。
 さらにロシアでは、ラ・フォンテーヌの寓話がM・V・ロモノーソフ、V.A.・ジュコフスキー、K.N.バーチェシコフ等によって翻訳され、のちにイヴァン・アンドレエヴィッチ・クルィローフによるロシアの寓話が誕生する土台となっていきました。
 池田 寓話のストーリーの多くが一定のパターンをもっているということは、そこに含まれている教訓性を考えれば、古今東西を問わず、人間性には普遍的な性向があるということでしょう。
 サドーヴニチィ ええ。ですから寓話は、そのつど、筋書きは変わらずに、登場人物が変わっていきます。一つの役を、ある作家はキツネに演じさせ、他の寓話作家はヘビに、また別の作家は鳥にあてがう、という具合です。つまり、時と空間を超える共通の何かが、それぞれの時代と地域の文化、習慣に合わせて演出を変えているといえます。
 その意味では、私は、二十一世紀も例外ではなく、寓話のストーリーは、イソップの時代と変わらないだろうと信じている一人です。
 池田 イソップ物語は、おそらく、永遠に、すなわち、人間が人間であり続ける限り、古典として生き続けることでしょう。
 サドーヴニチィ ただし、登場人物はきっと、ロポットとか宇宙人、ミュータント(突然変異体)などが活躍することになるかもしれません。(笑い)
 そうなった場合でも、二十一世紀に創作される寓話を、それまでの過去の世紀の寓話と比較して、本質的に新しいものだと、はたしていえるでしょうか。
 池田 あらゆる寓話には「時と空間を超える共通の何か」が秘められているということには、まったく同感です。
 クルィローフの寓話は、日本でも訳出されています(西本昭治訳編『ロシアの寓話』社会思想社)。一つ一つが含意性に富んでおり、ロシア人というよりも、すべての人間が共有すべき知恵がちりばめられているといえましょう。
 たとえば「文筆家と盗賊」の寓話を取り上げてみれば、冥界の地獄で、大鍋で焼かれる業火の罰を受けている文筆家を責めるメガイラ(復讐の女神)の舌鋒は、思想の力の根強さ、すさまじさを物語っています。私は思わず、ドストエアスキーの『カラマーゾフの兄弟』のなかで、蘇ったイエスを糾弾してやまない大審問官の長広舌を連想しました。
 サドーヴニチィ ペンの力というか、人間にとって、思想というものが、いかに本然的なものであるかを示す寓話です。
 池田 こうした教訓性に富んだ寓話は数多くあります。たとえば、付和雷同を常とする群集心理を皮肉った「通行人とイヌ」は、次のように結ばれています。
  妬み深い者らは 何を見ようと
  絶えまなく 罵詈雑言を浴びせる
  が 貴君は おのれの道を どんどん進め
  しばらく吠えつかれても そのうち 付き纏われなくなるだろう(前掲『ロシアの寓話』)
 これなど、現代の日本の大衆文化状況、とくに言論の暴力への警鐘として、十分に生きています。
3  歴史を循環的にとらえる東洋の世界観
 サドーヴニチィ 伝統に関してもこれと同様のことがいえるのではないでしょうか。伝統は、容姿を変え、表現を変えつつも、その内容においては、あたかも人類を支える悠久の大地のように安定しています。時に舞台の袖にしまわれ、忘れ去られたかにみえる伝統も、機を得て再びスポットライトを浴びると、抵抗なく人々の行動規範として受け入れられる。伝統とは、つねにそうしたものです。
 池田 格別に、それを意識しなくても、失われてみると心にボツカリと空洞があいたように空虚感に襲われるもの――それが伝統ともいえるでしょう。
 サドーヴニチィ ちなみに、わがモスクワ大学のキャンパス・ライフの伝統を例にとってみます。
 モスクワ大学の創立の日は、「タチヤナの日」という固有名詞で呼ばれています。その理由は、まったくの偶然からです。エリザヴェータ女帝が「モスクワ大学設立令」にサインしたのは一七五五年一月二十五日でした。この日を女帝に勧めたのは、大学の創立に携わったイヴアン・シュヴアロフで、じつはこの日が彼の母親タチヤナの誕生目だったからなのです。
 一般にロシアでは、いろいろなお祝いの日を教会の聖人の名に因ませることはよくありますが、大学設立のときに、のちにこのありふれた誕生日が「タチヤナの日」と呼ばれ、伝統行事になろうとは、おそらくだれも考えていなかったと思われます。実際、「タチヤナの日」を祝うようになったのは、たかだか百年くらい前のことです。それが二十世紀を終えた今では、国民的規模で祝われる日に、なっているではありませんか。
 池田 初めて聞きました。興味深いエピソードです。伝統とは、過去のものではなく、時間の経過とともに、よりいっそう光彩を増しながら、人生を潤し、文化に厚みを加えるものですね。
 サドーヴニチィ 「時間」の問題は、世界のさまざまな文化の最も深層部に関与しています。まさに伝統とは、個々の文化が営んできた固有の「時間」を暗喩に託した異名とも思えます。
 すべての出来事はサイクルであるとする世界観が、東洋の伝統文化の重要な構成要素を成していると、我々は理解しています。つまり、諸世界が交代し循環し、民族や文化もサイクルをなして循環している。諸侯の栄枯盛表はじめ諸現象がことごとく、サイクルにしたがって入れ代わっていき、それらすべてを定められた運命であり、必然的なものととらえる考え方です。
 池田 孔子が注釈したとされる「易」の繋辞には「一陰一陽をこれ道と謂う」とあります。この世の中は「陰」と「陽」という相反する要因が、相互に循環しながら推移していく、という趣旨です。
 東洋とくに中国の人々の歴史意識を決定づけているのは、ご指摘のように、歴史は「一陰一陽」するサイクルであるというとらえ方です。
 サドーヴニチィ たとえば、古代中国哲学は、人類の歴史全体をいくつかの循環システムの複合とみています。そのうち最も大きなサイクルが「一元(Yuan)」で一サイクル十二万九千六百年、最も短いサイクルが「一世(Shih)」の三十年とされます。
 この世界観の下では、人類は、文明の興隆と衰退を交互に繰り返し、学術、文化、国家も同様に進歩と退化を演じる。繁栄期の後には法則的にグローバルな破綻、衰退期が訪れ、歴史が「冬」を迎える。このサイクルを「一会(Huei)」と呼び、期間は一万八百年と考えられています。
 ちなみに現在、私たちは、そのどの時期を生きているのか、興味のあるところです。
 池田 十一世紀の北宋の思想家・邵雍しょうようが唱えた「元会運世」説のことですね。補足的に述べておきますと、「一世」が三十年、「一運」が十二世つまり三百六十年、「一会」が三十運つまり一万八百年、「一元」が十二会つまり十二万九千六百年という時間単位で文明の生成から消滅までをとらえ、そうした「元」の世界が、生成→消滅というサイクルを繰り返しながら循環しつつ、無限に続いていくという世界観、宇宙観です。
 伝えられるところによると、邵雍は「元」の世界の連続を「元」の四乗、つまり二垓八千二百十一京九百九十兆七千四百五十六億年(垓は兆の一億倍、京は兆の一万倍を表す単位)まで計算したそうです。
 サドーヴニチィ 数学者としても、興味をそそられる話です。
 この循環する暦法において時間はどのような意味をもつのでしょうか。それとも、現象世界を永遠に循環し続けるものととらえるとき、時間はまったく無意味になるのでしょうか。
4  循環的時間のなかに流れる秩序への希求
 池田 おっしゃるとおり、こうした世界観、宇宙観を特徴守つけるキーワードは「循環」です。その源は、中国最大の史家であり『史記』の著者・司馬遷の「終始循環の天統」という考え方に発しているというのが通説です。すなわち、王朝から王朝への交代を、この「天統」にのっとったものと位置づけていくのです。
 このような「循環」的な考え方は、仏教においても共通しています。仏教では、人間の一生を”生老病死”というサイクルでとらえ、その生命は”生死”を繰り返していく、としています。また、宇宙観においても、”成住壊空”(四劫)――「成」劫は世界が生成されゆく期間、「住」劫は生成された世界が安定している期間、「壊」劫は安定していた世界が次第に壊滅していく期間、「空」劫とは壊滅が終わり「空」(無とは違います)の状態に帰している期間――というサイクルが繰り返されるという循環的なとらえ方をしているのです。
 サドーヴニチィ この世の始まり(天地創造)と終わり(終末)という、キリスト教的あるいは西洋的な時間感覚、歴史感覚とは、明らかに異なりますね。
 池田 そのとおりです。
 ところで、循環的リズムを繰り返すといっても、同じものが繰り返し再現されるのではなく、それらを統べるものとして、中国的にいえば「道」、仏教的にいえば「法」が貫流しており、その「道」や「法」にのっとって時間は無始無終に流れていく――大まかにいえば、そのような構図になろうと思います。
 大切なことは、そうした歴史観、世界観、宇宙観が、強い秩序志向というかコスモス(調和)への希求に裏打ちされているということです。「道」といい「法」といっても、五官で捕捉できるものではないわけですから、精神が弛緩していれば、虚無的な時間の流れに身をまかせ、無為な日々を送っていく以外にない。
 そこに、何らかの生の意義を刻もうとすれば、ソクラテス流に「善く生きよう」とすれば、「道」や「法」にのっとって生きたことの証、言葉を換えれば秩序志向、コスモスへの希求の証を、時の流れのなかに刻印しなければなりません。中国の歴史は、他に類例をみないほどおびただしい史書を輩出していますが、わが国のある学者は、それを、中国の人々――神のような超越的存在による生の意義づけを拒否した人々――のコスモス志向の証左としています。
 サドーヴニチィ なるほど。「神」のような外的な要因、力による治罰や救済に依るのではなく、内在的な「法」や「道」にのっとったコスモス志向――そうとらえると、我々が本章のキーワードとして幾度も論じ合ってきた内発性というテーマにも通じていきますね。
 池田 鋭いご指摘です。
 仏教においては、”輪廻転生”や”成住壊空”を繰り返している世界から解脱すること、つまり”出世間”を第一義としているという受けとめ方が、西洋では、まだまだ強いようです。ベルクソンやホワイトヘッドのような人にも、そうした傾向は濃厚にみられます。
 たしかに、それはすべてが間違いではないのですが、とりわけ私どもの信奉している法華経などには”出世間”の境地を踏まえたうえで、もう一度世間にコミットしていく、すなわち”出・出世間”ということが、強く打ち出されています。仏教の「法」にのっとった秩序志向にも、そのようなベクトルがあることを付言しておきたいと思います。
 サドーヴニチィ 西欧の伝統では、時間を「時間の矢」として、一方向に進むものとする考え方が優勢です。ただし、時間そのものが、質的に異なる二つの次元に分かれています。
 一つは、キリスト教の説く天国に関する時間です。神による天地創造以前から存在している天国にあっては、いわゆる時間は存在しません。ここでは、時間は永遠と同義語になります。
 池田 ゲーテが、フアウストをして「(=その瞬間よ、)とまれ、おまえはじつに美しい」(『ファウスト』手塚富雄訳、」中央公論社)といわしめているのを類推させます。
 サドーヴニチィ もう一つの時間は、言ってみれば歴史的時間ですが、との時間が始まるのは、神が人間を創造した時点ではなく、アダムとイブが楽園から追放された時を起点とします。つまり、歴史的時間には、始まりがあることになり、ゆえに、終わりも存在します。その終わりが訪れるのは、永遠が支配する次元、すなわち天国か地獄に、再び人間の魂が召されて帰る時です。ですから、西洋文化がもつあらゆる伝統は、その最も広義な意味においても、との歴史的時間の枠外に出るととはありません。
 池田 「歴史」と「永遠」、「この世」と「神の国」とが次元を異にし、相対崎する世界であると位置づけられているわけですね。
5  学問全般に戻ってきた「時間」の概念
 サドーヴニチィ 永遠の概念に関していえば、ニュートン力学に代表されるヨーロッパの古典学派は、キリスト教神学同様、時間の概念を度外視していました。それゆえに、「永遠」との間になんら不整合を起こしませんでした。しかし、それは二十世紀半ばまでのことです。二十世紀の半ばを境に、状況は変わり始めます。自然科学、人文科学を問わず学問全般に「時間」が戻ってきたのです。ことにそれは社会学と史学において顕著です。このように学術的パラダイム(思考の枠組み)が交代するとき、「伝統」と「近代化」の概念は、その内容が再度吟味されることになり、それは、精神世界にも関わるものと思われます。
 池田 それが当然の流れでありましょう。すべては連関しているのですから。
 サドーヴニチィ 二十世紀後半の学術界でこれをいち早く感じ取ったのが、ノーベル賞を受賞した化学者イリヤ・プリゴジンと経済学者ダグラス・ノースの二人でした。両者とも、自然界の出来事や社会現象を的確に描写する際、古典的(力学的)時間の解釈には限界があることを指摘しています。より広い意味で古典的合理性、古典的理性を根本的に見直す必要性を述べているのです。
 池田 その結果”複雑系”などにスポットが当てられ始めたわけですね。対象をできるだけ単純な要素に還元してとらえようとするのではなく、複雑なシステムを全体として把握しようとする傾向です。
 サドーヴニチィ そうです。
 社会学の分野では、二十世紀の生んだ最も優れた哲学者、社会学者とされるアレクサンドル・ジノヴィエフが奇想天外とも思われる説を立てています。彼は、最近亡命先から帰国し、モスクワ大学の教授に就任しています。
 歴史学の分野では、ロシア科学アカデミー会員でモスクワ大学教授のアナトリー・フォメンコが暦法、世界史の編年に対して従来の考え方とは根本的に違うアプローチを主張しています。ロシアの社会・歴史学会では、彼の研究成果を否定する学者が大半を占めています。しかし、問題が提起された以上、一方的な否定と公式の批判だけで問題が取り下げられたとして済ませてしまうわけにはいきません。
 池田 フォメンコ教授が、どのようなアプローチを試みているか、審らかにしませんが、時代の大きな変わり目にあって、暦や暦法というものは、人間にとって不思議な魅力をもっているようです。
 司馬遷が、長年準備を進めてきた『史記』の執筆を開始したのは、太初元年(紀元前104年)であり、その年は、単なる時代の呼称の変更などではなく、彼自身も責任者として作成に関わってきた「太初暦」という新暦が施行された重要な節目にあたっていました。その新暦も、単なる年数の数え方の違いといった表層次元の出来事ではなく、新しい秩序体系、新しいコスモスの登場という深層次元の出来事を予兆させるシンボル的意味をもっていました。
 サドーヴニチィ なるほど。
 池田 『史記』執筆の動機が語られている「太史公自序」は、そのような新しい時代を切り拓くパイオニアたらんとする彼の自負を、よく伝えています。
 暦法のことはさておき、学問の世界の最先端に身をおいておられる総長の言葉の端々からは、決して世紀の変わり目だからというのではなく、現代という時代が、容易ならぬ変革期を迎えているという予兆のようなものが感じとれます。私もその予兆は共有できるつもりです。
6  複雑で予測困難な自然の驚異
 サドーヴニチィ フリゴジンは「二十世紀の学問は、……時間は、与えられたものではなく、創造するものであるという一つの重要な事実を、立証した。未来もまたしかり……」と述べています。
 彼は、自著『存在から発展へ――物理科学における時間と多様性』のなかで、「我々の周りで起こっている出来事は時間的に非対称を成している。我々は皆、時間と共に老化する。いまだかつて時間に逆行して若返っていく惑星を観察したものはいない」と指摘しています。
 池田 我々の”生き死に”とは「無関係に去来する時間」と、楽しい時は短く、苦しい時は長いというように、我々が感じている時間、つまり日々、我々に「生きられている時間」とは別のものであるということですね。
 サドーヴニチィ そのとおりです。
 プリゴジンは、学問用語に「内部時間」という言葉をもちこみました。物理的・天文学的時間とはまったく性質を異にする「内部時間」は、不可逆性をもって偶然に生起するものだと。
 このように時間を理解した場合、学問上の多くの古典的コンセプトを放棄しなければならなくなってしまいます。たとえば、これまでの科学は、自然をある意味で機械のように考えていました。つまり、ある決まった法則があり、自然はそれに逆らうことなく一定の運行を営んでいる。さらにその法則は人間がコントロールできるものであると。
 しかし、この考え方は成り立たないことになります。世界を時計のようにとらえていた認識が崩れるのです。現代の科学者の間では、自然を、より驚異に満ちた、複雑で予測困難なものとする見方が強まってきています。
 池田 プリゴジンの書物は、数式が縦横に駆使されていて、きわめて難解ですが、少なくとも「不可逆性と時空構造」を論じたなかでの次のような一文は、十分納得できるものです。
 最近得られたいくつかの結論が、ベルクソン、ホワイトヘッド、ハイデガーなどの哲学者達の予期と極めて近いことを知るのは驚きである。主な相違点は、彼らにとってはそのような結論は科学との矛盾を犯してのみ導かれるのに対して、我々にとっては今やそれらの結論が、いわば、科学的研究の内側から生じたのだというととである」(『存在から発展へ』小出昭一郎・安孫子誠也訳、みすず書房)と。
 これらの哲学者、なかでもベルクソンは、私の若いころの愛読書でした。周知のように、彼の哲学にあっては、知性によって把握できる決定論の世界と、哲学的直観によってのみ肉薄できる純粋持続の世界とは、鋭く対峠しており、人間という存在において両者がどう結びつくのかということが最大のテーマとなっていました。
 サドーヴニチィ ベルクソンは、著書をみれば明らかなように、自然科学にも大変造詣の深かかった哲学者ですね。
 池田 もう一つ、若いころの思い出を披瀝させていただければ、戦後まもなく(一九四八年)、のちに日
 本で最初のノーベル賞(物理学)受賞者となった湯川秀樹氏が、ある気鋭の文学者と「人間の進歩」をめぐって対談したことがあります。談たまたま確率論に及んだとき、彼はこう述べています。
 「人間的な立場で言った偶然という問題は、科学の立場で言っている偶然とはよほど違うけれども、何かそこのところへ非常に遠廻りしてでもどこかで繋がっているだろうと私は思うのです。ただしその繋がりは甚だ複雑で、容易なことでは分析できないのですが……」(『小林秀雄対談集2 人間の進歩について』文藝春秋)と。
 そして、文学者から「つまり精神の自由というものと、物性の不確定な状態と何か関係があるのですか」と問われて、こう言葉を継いでいます。「私は何かの仕方で繋がっているだろうと思うのです。だろうというくらいにしか言えません」。(同前)
 サドーヴニチィ おそらく、湯川博士は、その後の学問界のパラダイム(思考の枠組み)の転換を予感しておられたのではないでしょうか。
 池田 私も、そう思うのです。湯川博士の口調は、非常に微妙です。しかし、「身心一如」「色心不二」を説く仏教を学び、西洋的な物心二元論に違和感を感じ続けていた私には、物理学の最先端からこのようなメッセージが送られていることが、非常に新鮮であり、強く印象に残っております。プリゴジン流にいうならば「科学研究の内側から生じた」精神世界への架橋作業ともいうことができましょう。
 サドーヴニチィ 非常に先見性に富んだ、どこか哲学者的な識見のようにさえ感じますね。
 池田 湯川氏は、広い意味での合理主義者を自認していましたが、私は、超合理という言葉のほうが適切であろうと思っております。
 プリゴジンは、一九七〇年代のアメリカを席巻したニューサイエンス運動にも、並々ならぬ関心を寄せているようです。たしかに、そうした流れに目をやると、総長のおっしゃる「自然を、より驚異に満ちた、複雑で予測困難なものとする見方が強まっている」ことは、強く首肯できます。その流れは、古典的コンセプトの”揺らぎ”としては一種のカオスかもしれませんが、それは、アンチ・コスモスとしてのカオスではなく、新たなコスモスの生成、装いを新たにしたコスモロジ再興への胎動であると私は信じております。エリッヒ・ヤンツが『自己組織化する宇宙』(ちなみに、プリゴジンは同書に序文を寄せています)の”エピローグ”を「われわれにいま、偉大なる〈新たな統合〉が始まろうとしている」(芹沢高志・内田美恵訳、工作舎)と書き始めているように――。
7  人間の過去や習慣は簡単には捨てられない
 サドーヴニチィ ノースは、経済学の立場からやはり「時間」の概念に注目しています。新しい経済史(彼は、ノーベル賞受賞記念スピーチを「時間における経済の機能」と題しました)への取り組みが彼をして時間に着目させたのです。
 「歴史は意味を持っている。我々が過去から何かを学べるという単純な理由からだけではなく、現在と未来が、社会制度上、過去と連続して繋がっているからである。そして、我々は、制度的発展過程としてのみ過去を認識することが可能なのだ」とノースは述べています。
 池田 以前言及したアマーティア・セン氏なども同じです。彼は、インドの伝統思想にも通じており、理論経済学の分野でも倫理や哲学的思考の重要性を強調しています。貧困問題の解決なども、市場機能にのみ委ねるのではなく、教育や保健制度、伝統的な小規模金融など、つまり、社会の「制度的発展過程」に着目しなければ、不可能であると指摘しています。
 サドーヴニチィ なるほど。さらにノースは、経済史における「時間」は天文学的なものではないと主張しています。いわゆる「経済的時間」は、定められた「ゲームのルール(the*rule*of*the*game)」に変更が生じることによって左右されます。彼はこのようなルールを「制度(institutions)」と呼び、その変更を「制度的変化」と呼んでいます。
 本対談の「伝統」と「近代化」の観点からみると、ノースの主張は、次の点で注目に値します。すなわち、これらの「ルール」が、公式な制約(法律、憲法その他)と非公式な制約(伝統、慣行、行動規範、実生活のなかで習慣を通じて説明されているもの、もしくは、ロシアで「不文律」と呼ばれているもの)を含んでいるとしている点です。
 つまり、「経済的時間」は、人間によって「生きられている時間」、プリゴジンのいう「内的時間」を勘案せざるをえないということでしょう。
 サドーヴニチィ ええ。この「ゲームのルール」の公式の部分に関していえば、それらを書き直し、公布するのに、さして時間は要しません。ところが、伝統や言い伝え、祖先の経験等にルーツをもつ非公式のルールは、新しい為政者が机上で何をしようと、いかんともしがたいものです。そして、まさに「社会が発展の時を刻むために必要」なのは、また「歴史的変革、改革を理解する鍵を握る」のが、公式、非公式を含む「ゲームのルール」の総体的変更なのです。
 この理論から、ノースは、次のような結論を引き出しています。いわく、ロシアの改革はそのほとんどが、控えめにいっても、挫折を避けられない運命にあった。なぜなら、人々から過去と習慣をそう簡単に取り上げて、捨ててしまうことはできないからだ。理論を追求してできあがったのではなく、幾世紀もの時間と先祖から代々受け継がれてきた経験によって日常生活のなかに培われたものを、短時間のうちに忘れさせることはできないからだ――と。
 池田 なるほど。説得力がありますね。
 生活の継続性というものを断絶させた革命というものは必ず挫折するか、流血の惨事をもたらしてしまいます。
 サドーヴニチィ そうです。ノースの指摘はまことに的を射ています。
 ロシアの改革を推し進めた人々が見落とした点は何だったのでしょうか。最近ロシアのテレビで人気のある若手司会者が次のようなことをいっていました。
 「今ロシアに暮らしている人間は皆例外なく、ソビエト人の子どもか孫なのです。私たちは皆、ソビエト時代を生きて、ソビエト社会を建設してきた自分の両親やおじいちゃん、おばあちゃんがやはり好きで、尊敬しています。だからといって、私たちもソビエトを続けるというのではありません。ただ、私たちは自分の両親を愛しているし、子どもの義務として、両親を護っていきます」
 彼らは、この点に気づいていなかったのです。
 一言、付け加えれば、それはつまり、あらゆる国、社会にあって、伝統は依然として強力な内在的力を有しており、それを無視して事を成就することはできないということでしょう。
8  「ソビエト化」の壁となった伝統的な制度
 池田 その点は、ゴルバチョフ元大統領も私との対談のなかで、力説してやみませんでした。いわく、「私は、わが国で始まった民主改革が、民衆に対して古いノーメンクラトゥーラ(特権階級)的発想を抜けだしておらず、”選ばれて権力を付与された者”と、モルモットになるべく運命づけられた”その他の人々”という対比の次元にあることを、深く懸念しております」(『二十世紀の精神の教訓』本全集第105巻収録)と
 ゴルバチョフ氏は、そうした発想を生むメンタリティーを「エリート主義、思い上がり、排他的絶対性」(同前)としておりました。
 また、私の友人であるアイトマートフ氏の故郷キルギスに材をとった作品などを読んでいると、旧ソ連にあって、中央アジアの風俗・習慣、伝統のなかから、ヨーロッパ産の理論の鋳型にはめた”ホモ・ソビエチカ”(ソビエト人)をつくり上げることが、いかに至難の業であるかが、よく伝わってきます。
 こうした事情は、多民族国家であった旧ソ連のどこでもみられたでしょうが、伝統を重んじるイスラム圏においては、より深刻だったのではないでしょうか。
 ソビエト化を急ごうとする当局にとって、イスラム独自の氏族共同体や大家族制度が、いかに巨大な壁となって立ちはだかっていたか――。ロシアの人々は、当事者としてはるかに身にしみておられると思います。
 そうした経験が本当に生かされていれば、あたかも看板を掛け替えるような安易さで、「共産主義の完全勝利」から「市場の完全勝利」(いずれも、ゴルバチョフ氏の言葉です)に走ることはなかったはずです。
 サドーヴニチィ 残念なことに、この動かしがたい事実を認識している人は、政治家はおろか著名な学者のなかにもほとんどおりません。
 カール・ポパーがその例です。彼は、ポスト・ソビエト時代のロシアについて次のように書いています。
 「もしも(ロシアが)独自の経験だけを頼りにことを進めるとしたら、早期復興は叶わないと考えます。このような場合においてもっとも近道なのは(無論、完全な道ではないとしても)、ロシアが西側の法制度を借用することではないかと、わたしには思われます。それが基本的に可能だということを示したのは、日本でした。一八七三年、日本は、ヨーロッパを手本に工業化計画を実施するための必要性を認め、ドイツの法制度を受け入れました。ロシアにとっての可能な選択肢の二つは、ドイツかフランスの法律でしょう……」
 池田 カール・ポパーの主張には、首肯すべき点も多いのですが、”オープン”に固執するあまり、市場原理や競争原理を至上とする傾向をもっている点は、警戒しなければなりません。
 サドーヴニチィ また、周知のように、ソビエト連邦の崩壊後、アメリカの社会学者F・フクヤマの「歴史の終わり」というテーゼが、広く世界に普及しました。このテーゼの本質は、「今後未来永劫にわたって地球上のすべての人が共有すべき『ゲームの統一ルール』が誕生した、それは西側の提唱してきたリベラリズムである」というものです。彼に従えば、時間は消え去り、「リベラルな永遠」が訪れたことになります。
 したがって、地上にあっても、あの世と同様に、あらゆる伝統はまったく無意味になります。なぜなら、伝統が生かされたり、現代に蘇ったりする「時」が、今後永遠に訪れないからです。
 池田 「リベラル・な永遠」というコンセプトが絵空でしかないことは、フクヤマが次の著書『TRUST(信頼)』(邦訳『「信」なくば立たず』加藤寛訳、三笠書房)で、次のように弁明していることからも明らかです。
 「『歴史の終わり』の時期に姿を現わすリベラルな民主主義は、したがって、必ずしも『近代的』ではない。もし民主主義と資本主義の諸制度が正しく作動すべきだとすれば、それらはいくつかの前近代的な文化的習慣と共存し、後者によって程よく機能させられなければならない。法、契約、そして経済合理性は、脱工業化社会の繁栄と安定に必要な土台を提供するが、十分な土台を提供するわけではない。
 それらもまた、互恵主義、道徳的義務、コミュニティーに対する責務、そして信頼によって発酵させられなければならない」
 リベラルな民主主義の勝利を言挙げした彼も、期せずして、伝統的な文化的諸価値へと目を転ぜざるをえなくなっているのです。
9  人間生命の深層にある宇宙大の生命次元へ
 サドーヴニチィ それが、いつわらざる現実ですね。このように、「伝統と近代化」の矛盾をいかに解決すべきかを追っていくと、私は必然的に、はたして「近代という一つの価値体系が、伝統というもう一つの価値体系を完全に凌駕してしまうことは可能であろうか」との設問に行き着くのです。
 基礎科学を例にとれば、古い理論がもともと問違ったものでない限り、つまり実験や計測の間違いをもとにつくられていない限り、新理論が旧理論を完全に凌駕することはありえません。
 池田 二者択一のような性格のものではない――と。
 サドーヴニチィ たとえば、相対性理論、量子力学、不可逆過程熱力学等は、古典的力学を超えました。しかし、超えたといっても、古典的力学が応用可能な領域の限界を示したということでしかありません。そして実際、この古典的力学の法則が働いている空間と環境こそが、人間が日常的生活を営んでいる空間、環境なのです。
 古典的力学があてはまらなくなるのは、極値条件においてのみです。つまり、速度が光速に近づいた場合とか、現象の規模が巨大である《巨視的世界》か、あるいは微小である《微視的世界》ために、いかなる科学技術の進歩をもってしでも、観察することが叶わず、計算上でのみ知ることができるような場合です。
 私は、とのような基礎科学の例を伝統と類似させ、比較したうえで、「それぞれの文化に根ざしている伝統というものを消すことは、原則的に不可能である」と申し上げたいのです。
 池田 まったく同感です。「業」(カルマ=行い、振る舞い)というものが、世代を超えて蓄積されてくると説く仏教の生命観に照らしても、伝統との断絶など不可能です。
 サドーヴニチィ 無論、類推はあくまで類推にすぎず、証明したことにはなりません。それにもかかわらず、学問において類推法は使われていますし、効果的とされています。
 ともかく、「どの伝統は保持しなければならず、どの伝統は捨ててよいか」と考えるのは間違っていることを指摘しておきたいのです。なぜなら、「伝統」に対しては、強制的手段では歯が立たないのと同じ程度に、国民投票などのいわゆる民主主義的やりかたも、やはり功を奏さないからです。
 まさにこのために、私は、「伝統と近代化」の問題を「時間」との関係のうえでみていくことが重要であると考えます。そうすることによって、伝統と近代化を、いってみれば「時間の設計者」ととらえることが可能になり、「伝統」と「近代化」の鋭い拮抗を和らげることになると思いますが、この点についてお考えをお聞かせください。
 池田 伝統と近代化を「時間の設計者」ととらえるためには、両者に通底している”生命”にスポットを当てねばなりません。
 伝統とは、営々たる人間の生きざまの集合体、あるいは融合体です。仏法的に表現すれば、民族や国家の営みによって、蓄積されてきた「共業」といえましょう。それぞれの部族、民族、国家などは、独自の「共業」をもっています。したがって、おっしゃるとおり、政治的なアプローチなど歯が立つはずがありません。
 しかし、一つの集合体、融合体としての「共業」は、決して閉鎖的なものととらえるべきではありません。人間生命は、時間的にも空間的にも、一個人を超えた広がりをもつというのが仏法の優れた知見です。詳しくは略しますが、現象次元では、男女、人種、民族、階級、国家などの差異はありますが、生命の深みにおいては、それらの差異を超えて人類意識へと広がっていき、さらには、動物や植物などの他の生命体とも融合していきます。
 したがって、人間の営みであるそれぞれの階層の「共業」も、個人から家族、民族をへて、人類、大自然へと開かれていきます。
 異なる伝統(共業)が、それぞれに差異の相を示しているからといって、そこに執着しているのは生命の表層次元にとらわれるからであって、深層へと降り立ってみれば、そこには必ず、人間の名において共振し合える生命次元があるはずです。
 閉ざされた部族意識、民族意識の次元での「共業」を打ち破る、さらに深い次元からの、開かれた人類意識の発現――これが、仏教の業論(共業)から導き出される人間観、平等観です。
 現在、グローバリズムという形をとりつつある近代化は、きわめて表面的、外面的なものであって、人類意識や地球市民意識といった内側からの変革を伴わなければ、害悪にさえなりかねません。すでにそれは、社会のひずみとなり、経済の面でも異常な拝金主義という形で姿を現しつつあります。
 サドーヴニチィ その点は、我々がすでに論及してきたところですね。
 池田 ええ。ですから、環境破壊や紛争の絶えない世界から、人間と自然の共生、そして、調和と安定の社会をいかに築いていくか。
 専門的になりますが、仏法では、一個の人間生命の内奥を洞察し、人類意識をも超えた宇宙大の生命を見出しました。この偉大なる宇宙生命を仏法では「仏性」と呼んでいます。宇宙生命には、万物を育みゆく慈悲と智慧が横溢しております。仏法は、この宇宙大の慈悲と智慧を顕現することにより、人の生命から家族、民族、国家、人類の「共業」まで、根本的な変革が可能になると説きます。私どもが推進している人間革命運動も、そこに大きな意義があると思っています。
 サドーヴニチィ 世界に広がる創価学会インターナショナルの運動の根底には、深い仏教哲学とそれへの信仰に貴かれた実践があるのですね。

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