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日蓮大聖人・池田大作

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1 「地球文明」――多民族の共生と平和…  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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8  物理的時間と異なる独自の「内的時間」
 たしかに、モダニズムにまで話を広げてしまうと多岐にわたるのですが、私が申し上げているのは、文明史的な一つのメガ・トレンド(巨大な潮流)――すなわち、過去数百年にわたって世界的に拡張された、科学技術を駆動力とする欧米主導の近代文明にほかなりません。とくに、それが濃密に帯びている一様性、非人称性というととにスポットを当ててみたいのです。
 よい意味でも(主として物質面での多大な恩恵、利便性)、悪い意味でも(戦争や環境破壊、欲望の肥大化)、この一様性、非人称性こそ、近代科学技術文明のグローバル化をうながした一大特徴であり、そこから、その地域、民族ならではの伝統を形成する多様性、人称性の世界との軋轢が生じてくるのも、なかば宿命づけられているといってよいでしょう。
 軋轢から生じるきしみ音に耳をふさいでいるばかりでは非生産的であり、何とかして、きしみ音をなくすか、和音へ転じるかの舵取りを迫られているのが、”ミレニアム”の時を生きる我々の使命です。
 何らかの形で、平和的な”地球文明”といったものを構想することは、カントやルソー、サン・ピエールの時代とは比較にならぬほど、差し迫った課題なのですから。
 サドーヴニチィ 尊敬する池田博士、あなたは、「近代文明の普遍的な世界化の性向から逃れることのできない他の文明は、それをどう受けとめ、どう対応していくかという選択肢にしぼられざるをえない」と指摘されました。
 ここであなたは、伝統を「時間」の概念でとらえるもう一つの大切な視点を取り上げられているのだと拝察します
 私たちは、「伝統」と「近代化」について考えるとき、それぞれの概念が何らかの地理的広がりに関係していることと同時に、「時間」的現象であることを直感的に感じています。そして、やはり直感的に、「伝統」と「近代化」がそれぞれ別のあり方で「時間」と関係していると思っています。しかも、年代順の別というよりは、むしろより根本的に異質の二つの「時間」なのだと。つまり、伝統と近代化は、独自の内容をもつ別々の「時間」と相関しているということです。
 池田 「近代文明が濃密に帯びている一様性、非人称性」と申し上げましたが、そこから類推される時間のイメージは、たしかに物理的時間――一日が二十四時間、一年が三百六十五日という、均質でだれにも当てはまるような物理的時間のイメージに近いですね。
 サドーヴニチィ ええ。それに対して、私個人は、一つ一つの伝統は、それ独自の内的時間をもっていると考えています。我々は、「伝統の復活」とか「伝統に立ち返る」といったことを口にします。時には、今までになかった何か「新しいもの」ができることを指して、「伝統が生まれる」という表現も使います。
 ただし、いわゆる新規のものを伝統という範疇に納める場合、その中身をよく吟味してみると、新規であるかに見えても、じつは以前から生活のなかに存在していたものが衣を変え、趣向を新たにしたにすぎないということが往々にしてあります。ことわざにも、「あらゆる新しいものは、大いに古くて忘れられていたものが戻ってきたにすぎない」とあるくらいです。
 池田 東洋にも、同じようなことわざがあります。たとえば「温故知新」(故きをたずねて新しきを知る)あるいは「借古説今」(古を借りて今を説く)等とあります。いずれも古を尊び、古をもって現代のはんとするという趣旨であり、伝統のなかに、現代の歪みを正す知恵を見出しています。そのことは、「史書」が「鏡もの」と呼ばれていることからも明らかです。つまり、歴史は、現代の姿、理非曲直を映し出す鏡と位置づけられているのです。
 その次元の時間のイメージは物理的時間とは明らかに異質です。

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