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3 未来社会のモデルを求めて――「競争…  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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1  モスクワ大学の学生と江沢民主席の交流
 池田 モスクワでは、この(2001年)七月、ロシアと中国の首脳会談が行われ、両国の間に「善隣友好条約」が結ぼれました。江沢民国家主席は、その直後、モスクワ大学を訪問し、学生たちと胸襟を開いて交歓されたそうですね。
 サドーヴニチィ ええ。江沢民主席はプーチン大統領とともに、わがモスクワ大学を訪問し、学生や教職員を前に、ロシア語で講演を行いました。
 池田 日本でも、その模様が報道されました。
 サドーヴニチィ 講演の後、江主席が、学生、教職員と一緒に有名な「モスクワ郊外の夕べ」をロシア語で歌う一幕もありました。プーチン大統領も「ロシア語も上手だが、歌はもっとうまい」と驚いていました。(笑い)
 池田 そうでしたか。モスクワ大学の学生たちにも、とくに思い出に残る一日となったことでしょう。
 江主席とは、私も東京と北京で何回かお会いしておりますが、ご自身が詠んだ詩を私に披露してくださったこともあります。
 サドーヴニチィ 国家の代表者が訪れ、若い次の世代の人に直接語りかける。これも、教育の大きな実践だと思います。
 池田 おっしゃるとおりです。未来を担う青年たちに大いなる啓発を与えます。ゆえに、指導者は青年たちと大いに語り合うべきです。
 サドーヴニチィ 同感です。私も多くの体験から、そのことを実感します。
 池田 ロシアの大学では、日本の教育制度と異なり、六月で学年が修了し、九月から新学年が始まりますね。モスクワ大学も、まもなく二十一世紀最初の、希望にあふれた新入生を迎えられる。
 新しいスタートには、つねに胸躍るものがあります。長年教育の現場に身をおいてこられた総長にとっても、この季節は、格別のものがあると思います。
 サドーヴニチィ ええ、おっしゃるとおりです。
 2001年度の入学生を選別するための準備の一環として、モスクワ大学の教授をはじめ教員が小グループに分かれて、今年(2001年)だけでもロシアの五十以上の地方都市に派遣されました。それぞれの地方の受験対象学年に相当する子どもたちに対して、科目別の「オリンピック」を実施するためです。
 池田 「オリンピック」ですか。夢と希望が湧いてくるような表現ですね。人生のスタートラインに立って、いよいよ、高い目標に向かって走りだそう、といった心の準備を促すような響きにも聞こえます。具体的にはどのようなことをするのですか。
 サドーヴニチィ この「オリンピック」では、さまざまな角度から子どもたちの実力を試し、最優秀の生徒を選びだして、モスクワ大学への受験をアドバイスすることになっています。これによって、教授陣は受験に先立って優れた才能を発見することができます。本年度、この「関門」を通過した生徒は一万二千人を数えました。
 今頃になると、今年の新入生はどのような学生だろうか、二十一世紀のロシアを任せられる人材がいるだろうか、そして世界の平和を託していける偉大な青年が多く入っていますように、と祈るような思いです。
2  「世界最高峰」モスクワ大学の入学試験
 池田 よくわかります。今年開学(2001年5月)した私どものアメリカ創価大学も、これから第一期生を迎えます。モスクワ大学の曾孫のような大学ですが、創立者の気持ちとして、まったく同じ感慨です。
 ところで、モスクワ大学の入学試験は、いつ、どのようにして行われるのですか。最難関の試験は、どのような形で行われていますか。
 サドーヴニチィ モスクワ大学は、ロシア全土をはじめ世界各国からも学生を受け入れています。モスクワ大学を志望する受験生は入学試験に合格しなくてはなりません。合計点の高い順に合格させます。
 試験期間は毎年七月二日から二十五日と決まっており、その期間に受験生たちは、希望する学部が要求する科目の試験を受けます。たとえば、化学学部の場合、数学、化学、ロシア語とロシア文学、物理学の四科目です。心理学部では数学、ロシア語とロシア文学、生物学、外国語(英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ブルガリア語から選択)の試験を行います。
 受験生は、試験会場に入場、着席した後、問題を受け取り、すべて筆記で解答します。
 池田 口頭試験はありますか。
 サドーヴニチィ 学部によっては、口頭試験の形で入試を実施します。この場合には、受験生は、試験官の机の上に並べて伏せてあるたくさんの問題のなかからどれかを抜き出し、その紙に書いてある問題に対する解答を口頭で行います。
 この口頭試験は、ロシア史、社会学等の科目に採用されるほか、応用数学部の数学の試験で、筆記に加えて口頭でも数学の実力を問います。
 池田 応募は、どのようなシステムになっているのですか。
 サドーヴニチィ学部、科目別の入学試験の形式、範囲、その他受験生に要求される諸々の事柄については、試験開始日の少なくとも半年前までに、新聞、印刷物等で広く広報されます。
 ですから、モスクワ大学への入学を希望する人はだれでも、大学が何を要求しているかを知ることができますし、そのための十分な準備期間を確保することが可能です。
 本年(2001年)、モスクワ大学に願書を提出した受験生は二万人いました。そのなかから入学できるのは、四千五百人です。例年モスクワ大学の倍率は大変高く、今年も、たとえば応用数学部が九・八倍、化学学部が十一・六倍、国家行政学部が十三・三倍になりました。
 池田 日本では最近、大学の入学試験にミスが相次ぎ、本来合格できていた人々が、不合格になり、人生の方向が大きく変わってしまった、という事故が多く起こっています。
 ある大学では、コンピューターを使つての採点ミスで、過去五年間に三百人以上もの受験生が不合格と判断され、いまだに大学に入学できずに”浪人”を余儀なくされたり、他の大学に入学せざるをえなかったという犠牲者が表面化し、大きな社会問題になっています。
 モスクワ大学の場合、合否の判定は、どのように行われていますか。コンピューターを使うとしても、担当者の責任は大きい。複数の試験官の目を通して、厳正に行われていると思いますが。
 サドーヴニチィ いかに優れたコンピューターであったとしても、機械ができることは限られています。大学教育にあってコンピューターは、教授や先生たちが講義を行い、研究を進めるうえで否応なく発生する煩雑な事務を軽減する役目を大いに果たすことができますが、受験の合否の判定に関しては、ひとえに教師の目に委ねられるべきであると私は信じて疑いません。
 目の前に座る一人の若者のなかに秘められた英知と才能の萌芽を見て取ることができるのは、ただただ人間の目であり、教育者の目ではないでしょうか。
 池田 大国をリードし、人間教育の最先端をいく、モスクワ大学の責住ある総長のお言葉として、非常に重く受けとめます。また、よく理解できます。
 サドーヴニチィ いわゆるコンピューター試験の類については、私も、さまざまな国でさまざまに使われているととを承知しております。
 採点にコンピューターを使うために、答案用紙も読みとりやすいように、番号を塗りつぶす形になっております。
 コンピューターを使って試験するのは自由でしょうし、各国それぞれ教育の伝統は異なりますから、それ自体についてどうのとうのと申し上げるつもりはありません。ただ、コンピューター試験に特徴的な選択問題について一言触れておきたいと思います。
 たとえば百題の五者択一問題を並べた試験の場合、数学的統計理論と確率論でいうと、仮にあてずっぽうに百個の解答を選んでマークしても五十題を正解するチャンスも十分にあるのです。これは合格ラインをクリアすることを意味してしまいます。大学入試が問うべき力は、ボールペンを動かすコツではなく、人間の考える力であってほしいと思うのは、私一人ではないでしょう。
 池田 そのとおりです。
 総長と対談していますと、次から次に話題が尽きないのですが、対談のテーマである「自由と平等の架橋作業」に話題を戻したいと思います。まだまだ、語り合いたいテーマが後に控えておりますので、このテーマについては、ここで締めくくりたいと思います。
3  「人道」の名のもとに行われたコソボ空爆
 サドーヴニチィ わかりました。
 では、第一の命題、すなわち、池田博士が先に提起されたグロバリゼーションのプロセスが、自由と平等というパラダイム(思考の枠組み)にどのような変化をもたらすかという点について述べてみます。
 自由と平等の問題を次のように設問してみましょう。世界全体がすでに西側の経済モデル(自由主義)と政治モデル(民主主義)を受け入れたと考えた場合、そこで問題とされるのは、世界が、西側の技術と一緒にその精神性と文化をも抱き合わせで受け入れるだろうか、という点になるでしょう。
 ソ連の崩壊は、世界が西側の精神文化をも事実上受け入れた証左かもしれません。この場合、大国の死が自然死だったか、人工的なものだったかは、重要ではないのです。それはまた別の論議になります。
 池田 おっしゃることは、よく理解できます。自然死か人工的な死かといった単純な色分けのできる問題ではないでしょう。
 サドーヴニチィ 端的にいえば、肯定的な意味で西洋化された世界が、自由・民主主義の経済と政治を選択しながらも、西側の精神文化、価値観がそれらと同時にほぼ自動的に流入するのを拒むことが可能か? とくに、自由と平等に関する西側の解釈を拒めるのか? たとえばアメリカ型の人権擁護は、普遍的に役立つものだろうか?
 この問いに対する回答は、一昨年(一九九九年)のコソボをめぐるユーゴ情勢に明瞭に示されているといえます。
 池田 コソボ空爆は、人権の普遍性を旗印に「人道介入」の名のもとで行われたわけですが、それは、第一に、国連をさしおいた、アメリカを中心にしたNATO軍による空爆であったこと、第二に、空爆の性格上、少なくともユーゴスラビアの民間人に千五百人以上の犠牲者が出たのに、NATO側の死者がゼロという奇怪な”戦争”であったこと、第三に、伝えられた”民族浄化”が、多分に誇大宣伝であったこと等、多くの問題をはらんでいたことが指摘されています。
 サドーヴニチィ アメリカ製がすべて悪くて、非アメリカ製がすべてよいとは思っていません。その逆も、また真なりですが、依然として、疑問は残されます。
 かくして自由と平等の相関関係は、世界のグローバルル化という文脈のなかで検討されなければなりません。
 その核心となるのが、民族国家の主権に対する制限の問題です。どの国家にとっても主権の依って立つ基盤は、その民族の精神的、文化的遺産です。いな、それらを保護し、発展させるために、国家と権力が必要なのです。
 池田 たしかにどの国でも、文化や精神面でのお国柄を持っているものです。それがなくなれば、人間はデラシネ(根無し草)のように魂の漂流を続けていかざるをえません。
 サドーヴニチィ そこで、「国家主権という価値は、経済、政治面ではすでに消滅してしまったか、あるいは存在しなくなりつつある。そうした状況のもと、いったい、文化、精神面での国家主権を保護することに意義があるのだろうか、必要性があるのか」という疑問が生じます。この疑問に対しては、すでに多くの専門家、政治家、そして学識者たちが回答を寄せています。
 たとえば、昨年(2000年)一月二日付の「独立新聞」に、世界的に著名な外交官で、現在、駐ロシア・シンガポール大使を務めるマーク・ホン・タット・サン博士の記事が掲載されました。
 彼は、そのなかでこう述べています
 「今後、世界の実権を握るのは、おそらく、国連ではなく、G8とIMF、その他アメリカの傘下にある諸機関になるだろう……。
 アメリカ以外の国々は、否応なく、アメリカのリベラル志向と、著作権保護、人権と民主主義の保護の考え方を受け入れることを学ぶほかはない……。
 それぞれの持つ独自の文化が節度なくアメリカナイズされていくことを、なかんずく、アメリカのテレピ、映画、インターネット、国際マスメディア等々を、甘んじて受け入れざるを得ない……。
 各国は、新しい状況に適応して自身を変えるか、もしくは、のけ者にされるのを善しとするしかない。富める国と貧しい国との差がより開き、そして、各国内における富裕層と貧困層の差や、コンピューターを使える人々とそうでない人々の差が大きくなっていくだろう」
 池田 この文脈に関する限り、サン博士は、アメリカ流のグローバル・スタンダードというものを時代の流れととらえつつも、それがもたらす貧富の差の拡大のような”負”の側面に、警鐘を鳴らしているように思います。
4  ガンジーが示した「強者による非暴力」
 サドーヴニチィ これに関連して想起されるのは、一九四七年、インドとパキスタンが宗教的違いから二つの国家に分割された後のマハトマ・ガンジーの言葉です。ご存じのように、この分割独立は後に、ヒンドゥ教徒とイスラム教徒の激しい対立とおびただしい流血の惨事を招きました。ガンジーは、非暴力主義に少しも遜色を覚えていなかったにもかかわらず、次のように言わざるをえなかったのです。
 「私は、私自身が敗北(破産)したことをみとめる。が、しかし、非暴力が敗北したのではない。すでに述べたように、この三十年間実践された非暴力は弱者による非暴力だった……。インドは未だ強者による非暴力の経験をもたない」
 池田 「強者による非暴力」は、ガンジー主義の中核をなすものであり、きわめて重要な概念です。ガリ前国連事務総長の懸念する「新しい孤立主義」(「聖教新聞」1998年7月30日付)を克服するには、そうした強靭なる精神性を鍛え上げていく以外にないでしょう。また、そうした精神性に裏打ちされていなければ、グローバリゼーションは、ガラス細工のような脆いものになってしまいます。
 サドーヴニチィ 西欧型の政治、経済と、民族的な精神性、文化、価値観の共生は可能か。そして可能だとすれば、そこから何ができあがるか、ケンタウロス(上半身は人間、下半身は馬の怪物。すなわち木に竹をついだような異なる者の不似合いかつ奇怪な結合)か、それともトロイの木馬(グローバリゼーションの仮面をかぶったアメリカナイゼーションによる席巻)でしようか? ご意見を、お聞かせください。
 池田 ケンタウロスも、トロイの木馬も、できれば願い下げしたいですね。
 グローバリゼーションそのものは、二十一世紀へ向けての時流として、押しとどめようのないものです。しかし、昨今のように金融面のみが肥大化し、資本主義が”マネー資本主義”どころか”カジノ資本主義”と化すようなグローバリゼーションの流れは、明らかに異常です。人間社会の健全な在り方から逸脱しています。
 サドーヴニチィ ここ十年、わが国も市場経済化の過程で、さんざん、その急流に翻弄され続けました。
 池田 たしかに、グローバル・エコノミーの進展にともない、商品、資本、情報は、やすやすと国境を越えるでしょう。だが、留意すべきは、その担い手であり、第一線で活躍する人々を結びつけているものは、第一義的にあくまで”利害”にすぎないということです。
 グローバリズムの時代は、当然それを担うにふさわしいメンタリティー、「世界市民」を必要としますが、それには「世界市民」たりうる足場、アイデンティティーが不可欠です。「人はパンのみに生きるにあらず」といわれますが、”利害”は所詮それだけのことで、とうていアイデンティティーたりうるはずがない
 アメリカの政治学者ベンジャミン・パーパー氏は「ジハード対マックワールド」という興味深い対比をしております。つまり、一方で「マックワールド」(マクドナルド・ワールドの略)というグローバリズム・エコノミー下での世界規模の均質な消費社会が栄え、他方では「ジハード」(聖戦)という民族的あるいは宗教的原理主義が猫械をきわめているのが、世紀末の世界状況であったというのです。(『ジハド対マックワールド』鈴木主税訳、三田出版会、参照)
 その奇妙な対比は、「世界市民」のアイデンテイティー探しは、ガリ博士が懸念しているように、往々にして、世界への広がりとは似て非なる、閉鎖的で独善的な原理主義に行きついてしまうことを示唆しております。
 サドーヴニチィ だからこそ、ガンジーの「強者による非暴力」のような精神性が要請されるわけです。池田会長が、アメリカで、ガンジーやマーチン・キングの精神の継承者として顕彰されていることは、私もよく存じております。
 池田 それは恐縮です。
 私は、今一番必要なことは、そうしたグロバリゼーションに身を委ね、こぞって拝金主義のとりこになってしまうことが、人間として幸福なのか、という問い直しだと思います。
 アメリカのジャーナリストで『ベスト・アンド・ブライテスト』の著者として知られるハルバースタム氏は、あるインタビューに答えて、こう述べております。
 「勝者と敗者の差がますます大きくなっている。成功すれば億万長者も夢ではなく、失敗すれば三十代で人生も終わりというように……。大きな社会的成功を望むなら、グローバルに仕事をせざるをえなく、コミュニケーション手段の発達により、労働時間はますます長くなる。一人で考える時間、静かに読書する時間が少なくなっているのも事実です。私は正直、そういう人生を羨ましいとは思いませんよ」(「アメリカを復活させた教育の力」「潮」2000年9月号所収、潮出版社)
5  「平等」や「公正」に軸足を、おいた経済学
 サドーヴニチィ 私がグローバリゼーションに対して疑義を呈したのは、思いつきからではありません。それが、現代ロシアにとってきわめて焦眉の問題だからです。
 政治活動に積極的でロシアの支配層を成すエスタブリッシュメント(「新西欧派」)は、西側の価値観を、いわゆる絶対的価値基準として受け入れるべきだと主張しています。そして、ロシアにとっての伝統的、歴史的価値を、古びた時代錯誤の代物で、ロシアの完全な西欧化を目指す政策とはまったく相容れないと否定してかかっています。
 池田 「新西欧派」というのは、伝統的な「西欧派」対「スラブ派」の系譜において、前者の衣鉢を継いでいるということですね。
 サドーヴニチィ そのとおりです。その他の、それほど政治に積極的ではないけれども、数の上では圧倒的多数を占める国民(たとえば多くのロシア正教信者たち)は、おおよそ次のように見ています。
 「自由主義的価値観を個々人の人格には決して適用しないという大前提であれば、政治、経済、社会生活上で自由主義的価値観を受け入れてもよい。もしも今、ロシアが自国の国家・社会発展モデルとして自由主義的理想を掲げているとしたら、教育分野や人間関係の構築の面でロシアの伝統的価値観を天秤のもう一方の皿に乗せることによって、均衡を取ることが必要だ」と。
 経済、政治面で国による違いがなくなり、その結果、他のモデルとの比較も不要になるような、グローバル化した世界においては、自由と平等の概念はいかなる内容をもつべきだとお考えですか。
 グローバル化した世界において「自由」は何を意味するか、また「平等」は何を意味するとお考えですか。
 池田 ミレニアム(千年紀)単位で考えれば別ですが、近未来的には、政治、経済面での違いがなくなったグローバルな世界というものは、想像しにくいでしょう。したがって、そこにおける「自由」や「平等」を論じても、勢い、ユートピア構想じみてき、生産的とはいえないでしょう。
 それより、むしろ今まで語り合ってきたことの帰結として、グローバリゼーションというメガ・トレンドのなかで、どう「自由」と「平等」の架橋作業を行うか、というアプローチを試みるべきではないでしょうか。
 より具体的にいえば、現在の金融主導型のグローバリゼーションの問題点として、市場原理、競争原理を錦の御旗に掲げ、勝手に暴走しかねない「自由」に歯止めをかけ、どこかで「平等」や「公正」の理念との整合性をもたせなければ、世界は強い者が勝つ、腕力勝負のアナーキー(無秩序)へと堕してしまうであろうことを、共通認識にしていくことです。そこに「自由」と「平等」の架橋作業の必要性があります。
 サドーヴニチィ 社会主義の理想、理念を、すべて葬ってしまってはならないということは、私たちが語り合ってきたところです。
 池田 一九九七年のノーベル経済学賞が、デリバティプ(金融派生商品)を研究した金融工学分野の二人の学者に贈られたのに対し、翌九八年は、厚生経済学者でインド国籍のアマーティア・セン氏(ケンブリッジ大学教授)が受賞したことは、時代の流れを象徴しています。周知のように、金融工学の二人の学者は、後に破綻した巨大へツジファンドの経営に携わっていました。
 それとは逆に、セン教授の場合、授賞理由に「所得分配の不平等にかかわる理論や、貧困と飢餓に関する研究についての貢献」とあるように、明らかに「平等」や「公正」に軸足を置いています。そうした授賞の経緯からも、「自由」と「平等」「公正」の整合性への要請が感じ取れます。
 ちなみにセン教授は、伝統的な思想、哲学にも造詣が深く、「人間の経済行動を動機づけるものは、個人的な利益の拡大ではなく、倫理や道徳である」として、市場万能の新古典派経済学を批判し続けています。
 サドーヴニチィ バランスを志向する、一つの時代の流れなのでしょう。
 池田 それに関連して、先ほど話題にのぼった主権国家についていえば、たしかにグローバリゼーションの流れのなかで、国家主権の相対化は、漸進的に進んでいくでしょう。
 しかし、それに代わる世界政府のような統治システムが、これまたユートピア次元に属することを考えれば、決して主権国家は軽視されるべきものではありません。
 セン教授は、グローバリゼーションのマイナス効果を取り除くためには、教育や福祉などの公共政策の充実が不可欠だとしていますが、それは、国家が率先して手を差しのべるべき最重要課題です。伝統文化や自然環境の保護にも、国家や地方自治体の役割は欠かせません。たとえば、日本伝統の”鎮守の森”なども、税制による優遇措置が取り払われてバリア・フリーの状態に置かれれば、たちまち、観光資本に食い尽くされてしまうことでしょう。
 へツジファンドに関していえば、その跳梁跋扈の背景にあるドルの独り勝ちを許さぬために、諸国が共通通貨ユーロを立ち上げたように、アジアでも、日本と中国が中心となって金融パートナーシップを強めるべきだという意見が、しばしば聞かれます。国家による為替管理などというハードな方法よりも、そのようなソフトな工夫を巡らしたほうが、金融秩序の安定に資するところが大きい、と。
 ともあれ、さまざまな角度から、「自由」と「平等」との架橋作業は、主権国家という枠組みを抜きにしては考えにくい。もとより、各種(非政府組織)や国際機関との連係プレーが必要なことは、いうまでもありませんが――。
6  自由や平等の解釈の押しつけはできない
 サドーヴニチィ なるほど、よくわかりました。
 次に第二の命題についてですが、自由と平等を現実に行使しようとするとき、道徳的規範だけではどうすることもできない数量的、物理的制約という側面があることを無視することはできません。
 具体例を挙げてみましょう。
 「自由、平等、友愛」を掲げた大フランス革命が成就したのは、一七八九年でした。当時の地球の人口は、約九億から九億五千万人で、そのうち現在の西ヨーロッパにあたる地域には、約一億六千万人がいたとされています。現在の地球上の人口は六十億。国連の調査によると、今後人口は、2025年までに八十億に、さらに2050年には九十四億に膨張するといいます。これよりずっと大きな数値を出している調査結果もあります。
 そこで興味深いのは、地球全体の人口に占める西側諸国の人口比が際立って低下することです。西ヨーロッパの人口は、現在の七億二千九百万人に対し、2025年には七億百万人になると推定されています。二十五年後に最も大きな人口を抱える国は、相変わらず中国で、十四億八千万人です。インドの人口は十三億三千万人に達するでしょう。
 地球上の人口が前述のように過密になり、その大半は非キリスト教徒で占められることを前提とした場合、よほどの気楽な夢想家でない限り、自由と平等の西側の解釈をそのままそっくり世界全体に受け入れさせることができるとは思わないでしょう。
 池田 「人権問題」を取り上げる欧米諸国と、それを「内政干渉」であると激しく反発する第三世界の国々――こうした構図は、過去しばしば見られました。
 「人権」は、それに相応した市民社会の成熟がなされていなければ、空中楼閣のようなものでしょう。それどころか「自由」や「平等」が保障されたとたん、人々が勝手気ままに走り、社会に秩序をもたらすどころか、アナーキーな世界を招来してしまいます。孫文も『三民主義』のなかで、そのことを深く憂慮していました。
 サドーヴニチィ 仏教の教えでは、また仏教が広く流布している国々では、家も家族も財産も放棄した物乞いが謡歌する「自由」を詩心豊かに歌い上げることが知られています。仏教の経典『テーラガーター』『テーリガーター』に含まれる初期仏教文学のなかに、その様が描写されています。
 また、ロシアには独自の自由観、平等観があります。たとえば、それらは、「正教徒的生活様式」によって制約されています。この生活様式は、「教会物語」に描かれる教理的、教訓的真理を基礎に置いています。この物語からのいかなる逸脱も、信仰の規範を犯す異端とされます。
 イスラムにもやはり、彼らなりの自由と平等の解釈が存在しています。
 池田 自由といい平等といっても、制度や法的枠組みだけでなく、内実が問われなければならないのは当然です。
 サドーヴニチィ 自由や平等の概念の中身を見ていけば、宗教的、民族的規範を特徴的に反映させていることは確かです。これはまさに、自由と平等の道徳的、精神的側面を浮き彫りにしており、それはとりもなおさず多様性が担保されなければならない側面でもあるのです。
 池田 セン教授が倫理や道徳を強調するように、文化や価値観の多様性は当然、尊重されなければなりません。性急にイデオロギーという一様性のブルドーザーをかけたところで、うまくいくはずはない。そのことは、旧ソ連で、中央アジアのイスラム地域に社会主義イデオロギーを広めるために苦心惨憺してこられた貴国の人々が、苦い教訓とともに知悉しておられることではないでしょうか。自由主義イデオロギーも「内発性」を無視して強引にことを運べば、同じ轍を踏むだけです。
7  二十一世紀は「資源獲得競争の世紀」に
 サドーヴニチィ 人類の未来社会はいかにあるべきかを問う学問が未来学ですが、興味深いことに、この未来学ではこれまで人類文明の精神、道徳的多様性に触れたものはありません。未来社会のモデルがさまざまに描かれてきましたが、どれも科学技術的、つまり数量的に表現された未来社会で、民族固有の道徳律等が考慮されることはありませんでした。
 この事実は、いかに全人類的な精神の共通項を見出すのが困難かを物語っていると思われます。たとえば、未来社会が、多様な道徳観、宗教観が複合的に互いに作用しあいながら何らかの全人類的精神性を形成していくのか、あるいはあらゆる宗教的カノン(教義)から抜け出した脱宗教的社会となっていくのか、いずれの未来社会モデルもいまだ描かれてはおりません。
 池田 とはいえ、拙速は禁物です。いずれにせよ、あるべき未来社会の方向性は、いかにして人間の”善性”を掘り起こすかにかかっています。私どもが”新しい人間主義”を強調しているゆえんです。
 サドーヴニチィ 幸い、科学技術の次元には、「自由と平等」の問題がまったく存在していないか、もしくは存在していてもたいした重要性を持たないかのどちらかなので、未来社会を模擬しやすいのです。
 アカデミー会員のアンドレイ・サハロフ博士が(じつは彼はモスクワ大学の出身なのですが)、1974年に「五十年後の世界」と題する論文を発表しました。そのなかで博士が提唱した未来論を、参考までに垣間見てみたいと思います。
 いわく、「私は、人口過密で、人間生活にも自然保護にも適さない工業社会は、2024年になってもぜんぜん完了しないものの、二種類の地域に漸進的に分化していくと推定します。仮に名前をつけると、一方は『労働地区』で、他方は、『自然保護地区』とでも呼べるでしょう。
 大きな面積を占める『自然保護地区』は、地球の自然のバランスを保つ目的で、また人間の保養と人間自身の内面的バランスを回復するために作られます。
 人々は、ほとんどの時間を『労働地区』(面積はずっと少なく、平均人口密度はかなり高くなるでしょう)で過ごします。集約型農業が営まれ、自然は実用的に完全に改良され、自動化または半自動化された巨大工場を集中させた工業地帯が作られます。
 ほとんどの人間は『超都市』(スーパーシティ)に住みます。その中心には高層のビル山がそびえ、そのなかは、人工的に快適な空間を作ってあります。人工気候、照明、自動キッチン、ホログラムによって景色を映し出す壁、等々です」
 池田 日本で未来学が喧伝されたのは、1960年代の後半の一時期では、なかったかと思います。科学技術に依拠したバラ色の未来像が盛んに描かれましたが、それもつかの間のことで、七〇年代に入り、環境破壊の深刻化が認識されてくるにつれ、そうした楽観論は、あっという間に消え去ってしまいました。
 ある統計によれば、人々がただ食べられるだけで満足していれば、地球は百億人以上を養うことができるが、もし欧米諸国並みに資源やエネルギーを消費するとなると、再言しますが、せいぜい十億人以下の暮らししか保障できないといわれています。
 我々日本人も含めて、今日の先進国の人々は、このことをどれだけ深刻に受けとめているでしょうか。大量生産、大量消費、大量廃棄というライフ・スタイルが、地球文明の息の根を止めつつあるという事態を、どれほど自覚的に受けとめているでしょうか。
 サドーヴニチィ 私も、同じ危惧を抱いています。
 池田 「地球二十九日目の恐怖」ということが、よくいわれます。
 ――一つの池に最初一枚のハスの葉を入れて、それが一日ごとに二倍になって、三十日で池がハスの葉でいっぱいに埋まってしまうとすると、池の半分が埋まるのは二十九日目である。全部が埋め尽くされるまで一日しかない。ところが人々はまだ半分しか埋まっておらず半分残っている、との安易な見方から窮状を正面から受けとめようとしない、と。
 いたずらに悲愴感をあおるつもりはありませんが、だからといって見過ごしておける事態ではない。私が常々、日本語の韻を踏みながら(日本語では同じ発音になるものです)「競争あらそい」から「共創ともに価値創造する」へと、発想の転換を促しているのも、また、四半世紀以上も前、創価学会の本部総会の席上を借りて「世界食糧銀行」構想を世に問うたのも、それらが、地球文明の存続、現代的にいうならばヒューマン・セキュリティー(人間の安全保障)にとって、欠かすことができないと信ずるからです。
 サドーヴニチィ なるほど。現在、二十一世紀がどのような時代になるかについて、さまざまな予測モデルが作られていますが、私自身は、自然科学を専門とする学者として、最も現実性と説得力を持つと考えるのは、「資源獲得競争の世紀」になるとする説です。この競争が、未来世紀の「自由と平等」の内容をも規定してくると考えます。
 天然資源について、例として中東を見てみましょう。中東地域では、従来から、市民同士、または国家間の平等の基準は、飲料水に等しくアクセスできるかどうかでした。アラブ諸国は、地球の陸地の九パーセントを占めていますが、その水資源は、世界の総水量の〇・七パーセントです。ある専門家の評価では、すでに二十一世紀の初めには、これらの国々の水不足は、最低消費量二千二百億立方メートルとしても、千三百億立方メートルに達すると試算しています。
 日本は、雨量や森林面積も多く、比較的水資源には恵まれていました。とはいっても、日照りが長く続いたりすると、水飢鍾が生じ、古くから農業用水などをめぐるトラブルが絶えませんでした。近年は、農業用水、生活用水の確保を、もつばらダムに頼るという手法によってきましたが、それに伴うデメリットも多く、最近、数多くのダムをかかえる県の知事が”脱ダム宣言”を行って話題を呼びました。
 いずれにせよ、水質汚染の問題も含めて、地球という”水の惑星”の在り方を、もっと真剣に考えねばならないととは確かです。
8  知的資源の流出は文明に破局をもたらす
 サドーヴニチィ 次に、知的資源について述べます。私は、現今盛んに取りざたされ、あたかも既成事実のように当たり前になったグローバル化という現象は、自由貿易とか国境のない世界の創出等によって特徴づけられるのではない。むしろ、生活水準のより低い国から、より高い国へと、頭脳や知性が移転するメカニズムを作動させたことが、最も顕著な特徴なのだと考えます。
 そうなると、グローバル化の途上で、生活環境の粗悪さゆえ、自国の優秀な専門家や学者を失ってしまう国々は、脱工業化、情報化の時代にあって、まったく脱落していくほかありません。それとともに、たとえ層は薄くても、いかなる時代も確固として存在した知識階級というものが、個別の国々から消え去っていくことになります。知識階級は、それぞれの国の文化と精神性の守り手であるだけに、その影響は計り知れません。
 池田 そのような流れをどとかでストップさせ、あるいは軌道修正させていくために、人類の英知を結集しなければなりません。自由競争を野放しにしておけば、地球文明は、アナーキーどころか、カタストロフィー(破局)にさえ陥りかねません。我々が論じ合ったように、主権国家という枠組みが、当面、必要不可欠なるゆえんです。
 サドーヴニチィ 先ほど挙げた「資源獲得競争の世紀」になるとする未来予測では、自由と平等についても触れています。二十一世紀を確率論的に展望すると、未来は、現在進められている科学技術の方向性、現在の傾向性の延長線上にあることになります。
 もちろん、延長線上に描かれているだけで、何らかの突発的事象をあらかじめ見込んでおくことは不可能です。
 歴史は予知不可能な事象の繰り返しばかりだったといっても過言ではありません。振り返ってみれば、二十世紀初頭の様子は、たった十四年後に第一次世界大戦が勃発することを予想させるものではありませんでした。当時、世界の唯一の超大国は大英帝国であり、その崩壊を予知させる兆候などこれっぽっちもなかったといってよいのです。
 また、当時の最高峰の物理学者たちも、M・プランクとA・アインシュタインが行っていた地味な研究が、後に、科学技術の方向性と人類の世界観を180度変えてしまうとは、だれも考えもつかず、想像だにもしなかったことでしょう。
 池田 プランク(量子論)やアインシュタイン(相対性理論)は、従来の世界観、宇宙観を根底から覆したという点で、まさにパラダイムの決定的転換であり、それに匹敵するのは、天動説から地動説への転換ぐらいだろう、と指摘する人もいます。
 サドーヴニチィ おそらく正しいと思います。それくらい、予測というものはむずかしい。したがって、現代世界は今後、西側が解釈するような発展をひたすら遂げていくであろうとの仮定は、あくまでも仮定にすぎ在いのです。
 しかしながら、「自由と平等」に関する西側的解釈、正確にはアメリカ的解釈が、現実には独占的地位を占めています。そこで、「自由、平等」について、(歴史的、伝統的に受け継がれてきた)独自の視点をまだ持ち続けている国々た民族は、「如何に処すべきか」という深刻な問題に突き当たっています。西側の解釈を受け入れるべきか、それとも、従来の立場を維持すべきか? 脱工業化を果たし、情報化を進める世界の主導権を握っているのが西側諸国であることに鑑みると、これは、決してふざけ半分の疑問などではありません。
 池田 たしかに、抜き差しならぬアポリア(難問)です。
9  「内発性」なくして「平等」の実現はない
 サドーヴニチィ 2000年2月、ダポスで開催された世界経済フォーラムで、ブレア英首相は、グローバル化の問題に触れ、「今や、収入を等しくするという旧左翼的平等観は、すべての人格に等しく価値を見出すという平等観と交代した」と発言しました。もしも、あなたがこの考え方に賛同されるなら、「自由」と「平等」の概念は、今後どのように変化していくとお考えですか。
 池田 ブレア首相の言葉は、原則として正しいと思います。それは、先に私が「機会の平等」は大切だが「結果の平等」などありえないだろうと申し上げたことと重なり合うからです。また、あなたが、自意識を持ち人格を持つ人間であるという一点において、完全な平等が保障されるべきである、とおっしゃった点とも符合しています。「人格」とは、「自由」と「平等」との結節点といってよい。
 しかし、そういっただけでは、枠組みを定めたにすぎません。私が「原則として」といったのは、その意味です。大切なことは、その「人格」をどう内実化させ、自己実現、自己完成への道を歩んでいくかということです。その内実化のプロセスで一番大切なキー・ワードとして、私は「内発性」という言葉を提起しているのです。
 サドーヴニチィ たしかに、それが一番のポイントであり、重ねて全面的に賛同の意を表したいと思います。
 池田 一例を挙げれば、1960年代のアメリカの公民権運動の輝かしい成果として知られる”アファーマティブ・アクション”があります。ご存じのように、これは、過去の人種差別への反省の上に立って、黒人などマイノリテー(少数派)の人々に対してなされる、教育、雇用面での優遇措置です。これは、社会に根強く巣くっている差別意識、差別構造を是正し、「機会の平等」をもたらすための画期的な”一石”として喧伝されましたが、期待に反して、はかばかしい成果をあげていないようなのです。
 サドーヴニチィ たしかに、報道を見ていても、人種がらみの事件は、後を絶たないようです。
 池田 黒人中流階級の識者であるシェルビー・スティール氏は、「(=施行以来)20年がすぎた今日、どんな研究結果を見ても、黒人と白人の格差は広がる一方である」(『黒い憂鬱』李隆訳、五月書房)として、次のように述べています。
 「アファーマティブ・アクションは、黒人に優遇措置を提供しているが、実態は、発展に貢献しない逃避主義的な人種政策にすぎないと思う。人種的優遇措置は、職業訓練プログラムではないし、技術を教えてくれるわけでもない。また、価値観を教えるわけでもない。ただ、単に肌の色をパスポート代わりにするにすぎない。さらに、人種的優遇措置には、自助努力を忘れさせ、優遇措置に依存させるという最大の弱点がある」(同前)と。
 すなわち「機会の平等」を保障するための法的、制度的枠組みを作っても、マイノリティーの側からの「内発性」に裏づけられないと、スムーズな内実化は望めないのです。
 また、公民権運動に尽力した白人良識派の贈罪意識に発する善意は十分評価されるべきですが、その後のへイト・クライム(憎悪犯罪日人種差別に基づく憎悪が生む犯罪)の増大などをみると、白人の側に、アファマティプ・アクションへの内発的なコンセンサスが形成されていたのかどうかという疑いさえ兆してしまいます。したがって「内発性」ということをおろそかにすると、多かれ少なかれ、あなたのおっしゃる「ケンタウロス」を現出させてしまうのです。
10  学びのプロセスのなかにある自由と平等
 サドーヴニチィ 人種問題のむずかしさは、ソ連邦の崩壊後、人権や民族をめぐる紛争が荒れ狂い、今なお終息に向かう気配さえ見えない我々の現状に照らして、痛いほど身にしみています。
 さて、私の三番目の命題は「教育」に関係してきます。ここで、自由と平等の問題を、学術、教育の観点から、なかんずく最高学府としての使命を担う大学教育の場から考察させていただきたいと思います。最初の設問は、おおよそ次のようになると思われます。
 「社会と世界の自由と民主主義の発展のために、大学は何ができ、何をしなければならないか」
 大学の主要な使命は、学内の制度、学風を通じて、自由と平等の理想的あり方を示すことにあると信じます。
 新しい知識を獲得するプロセス、別の言い方をすれば、学術研究の創造的プロセスは、そのアプローチに、おいて本質的に自由を内在させた。プロセスといえます。さらに、未知と未開のまえに、どの研究者も平等であります。この学問の進め方を学生たちに教え習わせることは、とりもなおさず大学が学生に自由と平等の精神をも教えていることになります。
 さらに、すでに蓄積されてきた知識を伝達するという教育作業も、自由と平等の原則が貴かれて初めて可能となるものです。いうなれば、学生が学ぶことを自由意思で決意しない限り、彼らに何かを教えるのは不可能です。また、講義にあっては、教授の前に座るすべての学生は平等です。
 池田 「学生が学ぶことを自由意思で決意」することこそ根本であり、その学びのプロセスのなかに自由や平等の実質もある、ということは、まったく正しいと思います。それこそ、学問の世界における「内発性」そのものだからです。
 サドーヴニチィ 私たちモスクワ大学は、頑なに「大学の自治」を主張し続けております。なぜか。それは、大学の教育内容に国家権力の介入を許さない大学の独立性こそが、最高学府において自由と平等が生まれ、育ち、発展する要件だと信じるからです。
 大学のなかに不平等と強制はあるか、と問われたなら、不平等はあると答えます。その不平等は、学生時代に習得する知識の範囲と深さが学生によって差が開くことです。この不平等は、今後もなくならないでしょう。強制もあります。大学という社会が規定する行動規範を守ることを要求します。たとえば、定められた期聞に試験を受ける等です。ただし、「強制」のほとんどの部分は不文律で、キャンパスのなかで育まれた伝統であったり、淘汰されてきた道徳的規範であったりします。
 池田 それがなくなれば、「平等」は「悪平等」となり、「自由」は「勝手気まま」に堕すことは、我々が確認し合ったことです。
 サドーヴニチィ ところで、大学にあって唯一、自由と平等の問題の本質が浮き彫りにされる場面があります。それは、学問が本来、国際的性格を持って生まれたことに関連しています。
 学問は、その発生以来、アラブやインド世界の数学、哲学等の豊潤な成果を吸収して発達しました。さらに、エジプトとバビロニアの「愛娘」として生まれた古代ギリシャの学問に影響され、その伝統を継いで成長し、十二世紀にその容姿を披露するところとなりました。今日に至つては、過去の時代にいやまして、学問は、国境の存在にまったく無頓着です。
 池田 それが、学問というもののよい点でもありますね。一方、総長が指摘されたグ頭脳流出、手をこまねいているわけにもいきません。
 サドーヴニチィ 一般的に、近代の学問は、経済の目覚ましい発展の恩恵として、国家のボーダーを超えて知的集積が成された結果としてヨーロッパに誕生した、という考え方が定着しています。ヨーロッパ型学問の典型と概念が形成されたのです。しかし、第二次世界大戦後、学術の基礎研究の中心はアメリカに移りました。その一つの背景としては、大戦中、ナチズムを逃れて多くの学者がアメリカに亡命したことが挙げられます。
 池田 アインシュタインなどは、その代表的人物ですね。
 サドーヴニチィ 戦後は、アメリカでの働きやすさや「マンハッタン計画」が魅力的だったことが、彼らをアメリカに引き止めました。このプロジェクトは、初の原子爆弾製造計画で、後に世界中の学術界がこぞって導入するところとなった研究事業推進の組織モデルを作りました。これによって、研究事業の方法と手段が統一されたといえます。
 以来、学問は、きわめて限られた期間に最大の成果を挙げることが要求されるようになり、したがって、思考方法もそれまでとはまったく違った次元に置かれました。
 こうしたことが、学問の質を変えないではおきません。基礎研究が一国によって独占され(現在はアメリカによる独占ですが)、そして完全に商業化されているととは、経済面、政治面の自由と平等にも色濃く影を落とさざるをえないと思うのです。
 池田 教育とくに大学教育と国家や社会との関係がどうあるべきかは、まさに、新たな世紀の最大の課題であると、私も常々考えております。”国家や社会のための教育”なのか、”教育のための国家や社会”なのかーこれは、教育のあり方の根幹が問われる問題です。

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