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日蓮大聖人・池田大作

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2 新生ロシアの挑戦――カオスからコス…  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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8  国際化の潮流と新しい「孤立主義」
 サドーヴニチィ さて次に、「自由」と「平等」について、学術的立場から、より分析的にアプローチしてみたいと思います。
 私の理解が正しければ、尊敬する池田博士は、自由と平等を、拮抗、対立する社会的概念ととらえておられる。そしてこの、本質において二律背反する概念を止揚するものが、内発性と寛容性であると述べられております。
 私たちは本対談で教育の問題に取り組もうとしているわけですが、実際、自由と平等の関係性は、教育の理論面、応用面において、ともに重要な意味をもつものです。
 池田 おっしゃるとおりです。重要な視点です。
 サドーヴニチィ 自由と平等の問題の歴史的側面については、数え切れない量の出版物や学術論文が綿々と論じてきたところですので、ここではあえて踏み込まないことにします。私は、この問題の今日的側面に、より関心を抱いています。
 今まさにニ十世紀が幕を閉じ、二十一世紀が開幕しました。唐突な終わり方です。近代、現代史を通して、こんなあっけない世紀の終わりと始まりは、いまだかつてなかったように思われます。人類の二十世紀から二十一世紀への移行は、西欧文明が圧倒的となり、それがたとえだれかにとって気に入ろうと入るまいと、その価値観が世界を独占したのと時を同じくしました。西欧文明にいまだ完全には同調できない地域でさえ、西欧化に取って代われる、発展のための現実的選択肢を持ち合わせていません。西欧の価値観に太刀打ちできる、まともな競争相手は、個別の国としても国家集団としても、存在していません。
 池田 たしかに西欧、欧米的な価値観が、支配的な時流となっているという現実は、だれも否定できません。
 サドーヴニチィ したがって、自由と平等の本質について語るととも、はたまたそれらの相関関係を弁証することも、西欧型以外の選択肢がないという現代世界の実情を踏まえた論議でない限り、有効たりえません。
 そこで私は、問題分析の出発点として第一の命題を次のように立てます。世界のグローバリゼーション、なかんずく西欧化は、自由と平等の概念に対してパラダイム(思考の枠組み)の変化をもたらすプロセスである。
 命題の第二は、グローバリゼーションがもたらす自由と平等の規範的変化を考えるうえでは、精神・文化面をそのプロセスから一応切り離す必要がある。なぜか? それは、自由と平等の本質は倫理観のみで規定できるものではないからです。
 第三の最後の命題は、教育と大学は、いかにグローバル主義者の圧力が強まっても、過去の時代同様、民族の精神性と文化の主要な中心地であり続け、そのような文化が集約され、発信されていく拠点であり続ける。同時に、大学こそが、西側の技術と国内の科学的成果とが交流し、融合する場となる、というものです。
 池田 グローバリゼーションという言葉が広く使われ始めたのは、1980年代の半ばのようですが、以来、学問的につねに問題にされてきたのは、グローバリゼーションにおける”普遍性”と”土俗性”をどう考えるかという視点です。
 三年前(一九九八年)、前国連事務総長のブトロス=ガリ博士と東京で会談しましたが、博士が、普遍性と土俗性をどう融合させていくかに腐心しておられたのが印象的でした。博士は、金融をはじめ環境、疫病など、国境を超え、ますますグローバル化しゆく諸課題を前にして、こう語っていました。
 「『国際的な問題』に取り組まなければ、『国内の問題』も解決できない――そういう時代なのです。ですから、人々が自国のことだけでなく、国際情勢に、もっと関心を持つべきです。しかし実際は、多くの人々が、心の底の本音では、国際化の潮流に直面して『不安』を感じているのです。その不安感から、自分たちの小さな”村(地域国家)”や”伝統”の中へ引きこもり、外国人とつき合おうとしない傾向が出てきている。新しい『孤立主義』です」(「聖教新聞」1998年7月30日付)と。
 グローバリゼーションの抱える問題の本質を鋭くえぐった指摘であると思います。

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